神功皇后伝説を検証する(2)
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神功皇后伝説を検証する(2)
次に記紀が述べる 神功皇后の事績について簡単に その概略を見ておこう。
まず仲哀天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)は 成務天皇(前天皇)の子ではなく、ヤマトタケルと垂仁天皇の子フタジノイリヒメとの間に生まれた、
それも第2子である。
この間の事情については 成務天皇に子が なかったからとされるが、詳しい事情は記紀ともに語らない。
成務天皇は事績の乏しい天皇である。ただ武内宿禰を大臣としたと記されていて(紀)、二人は同日生まれであったために、天皇にとくに可愛がられたという。
仲哀天皇와 武内宿禰가 同日生(동일생)??
仲哀天皇は その2年に敦賀へ行き、行宮を建てて住んだとされている(紀・笥飯宮・ケヒノミヤ)。
記は 穴門の豊浦の宮と 筑紫の訶志比(かしひ)の宮に坐したとする。いずれにしてもこの天皇は大和に宮を置いたことはない。このことにこだわるのは、この天皇も架空の人だったのではないかという疑念を持たせるからである。紀は熊襲が背いたとの報に天皇は滞在していた紀伊から出発し、神功皇后は敦賀から日本海側を西下して豊浦の宮に入ったと書いている(記には記載なし。)。皇后が日本海側を西下したとする背景には、皇后の出身である息長氏への配慮を言う説や 出雲勢力との関わりを指摘する説もある。敦賀から穴門へ向かったとすることは、私が住んでいる 神戸市付近の伝承地が すべて遠征の出発地をこの付近としていることと異なっている。
さて、仲哀天皇は 紀伊から九州へ赴くこととし、皇后に穴門へ赴くよう伝えて同地で合流した。そしてその後は、新羅を攻めよという神の教えに背いたため穴門で急死する。このあたりの記の語りはヴィヴィッドで、劇的な描写だ。その後 皇后は北部九州の賊を従えたあと新羅に攻め入り、勝利を収めて帰国し、九州で応神天皇を生み、その後東進してオシクマ王を滅ぼし、大和へ凱旋するという、よく知られた話が語られる。
ここでは、仲哀天皇の死に際して神の名を問いただしたとき、天照大神、事代主神とともに日向の橘の水門の水底にいる、いわゆる住吉大神3神が現れたとされていることが注目される。ここではじめて神功皇后と住吉大神の繋がりが明らかになる。そして、仲哀天皇の崩御した夜、住吉大神と皇后が密かに夫婦の密事を交わしたという住吉大社神代記がある。応神天皇が神の子であることが示唆されている。
また天皇の死後 皇后が山門のタブラツヒメという山門の女賊を討ち滅ぼしたという記事がある。
森浩一氏は「記紀の考古学」(朝日文庫)のなかで、時代は異なるが 邪馬台国卑弥呼との関連に注目している。紀も皇后を卑弥呼と思わせるような書き方をしている。