倭(왜)

景行天皇は 二人いた

라디오에요 2011. 3. 10. 21:53

http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/mouhito.htm

景行天皇は二人いた

 

 記紀で纏向に置かれた都といえば垂仁の「纏向の珠城宮」(ただし垂仁記では「師木の玉垣宮」)と景行の「纏向の日代宮」だ。『日本書紀』では両者とも「更都於纏向」と記されており、木村鷹太郎はこの「更に」という表現から、垂仁は纏向の珠城宮の前に別の宮を造っていたのではないかと述べている(注24)。ここでは景行の方に注目しよう。
景行(オオタラシヒコオシロワケ)、成務(ワカタラシヒコ)、仲哀(タラシナカツヒコ)、神功(オキナガタラシヒメ)はいずれも諡号に「タラシ」という語を含んでいる。神功は記紀では仲哀の皇后、応神の摂政として歴代天皇に数えられていないが、『釈日本紀』巻六所引および『万葉集註釈』巻三所引『摂津国風土記』逸文や、『新唐書』日本伝、『宋史』日本伝は「天皇」と明記しており、また、『日本書紀』は彼女のために巻九のまるまる一巻分の紀を立て、さらにその神功紀では言葉に「勅」、自称に「朕」、最期に「崩」の字を用いるなど天皇と同格の扱いをした上、中国史書の「倭女王」とも同一視しているので、やはり天皇の一人と認めることができる。
 景行の皇子のヤマトタケルも『常陸国風土記』『住吉神社神代記』『万葉集注釈』巻七所引『阿波国風土記』逸文などで「天皇」とされ、また『古事記』ではその言葉に「詔」、その最期に「崩」の字を用い、さらにその御葬で「天皇之大御葬」の歌が歌われたとあるなど天皇と同格の扱いをされている。そこで景行・ヤマトタケル・成務・仲哀・神功を一つの皇統、タラシ系王朝としてまとめることが可能である。
坂田隆氏は景行・ヤマトタケル・仲哀・神功、そして仲哀と神功の子・応神がいずれも九州と関係が深いことから、タラシ系王朝は九州にいたと説いた(注25)。
 しかし、一方で景行と成務については近江の志賀の高穴穂宮にいたという伝承がある(景行紀・成務記)。またヤマトタケルは東国で活躍した後、近江に近い鈴鹿の能煩野に崩じており、その子孫から近江の豪族・犬上君が出ている。仲哀の子とされる忍熊王は神功と武内宿禰らに追い詰められて琵琶湖に身を投じた。そして神功皇后を出した息長氏も近江を本拠地とする氏族である。
 したがって、彼らはいずれも近江と関係が深いとみなすことも可能である。そのため、林屋辰三郎氏はタラシ系王朝のことを「近江王朝」と呼んでいる(注26)。
 タラシ系王朝がいたのは九州なのか、近江なのか。中山千夏氏は同時期に九州の景行-仲哀ラインの王統と成務の王統が並列していたとし、記紀で仲哀の子とされる香坂王・忍熊王兄弟は、実は成務の王統から出たとする。
 中山氏は、景行記の系譜記事でオオナカツヒメについて「此の大中比売命は香坂王、忍熊王の御祖なり」と記しながら夫の名を伏せていることから、仲哀記・仲哀紀がオオナカツヒメの夫を仲哀とするのは疑わしいと述べている(注27)。その指摘はするどい。
ただし、中山は、景行紀の九州平定記事は九州にあった別の王朝の伝承を盗んだものだとしているが、景行が九州の王だとすればわざわざ他の王朝から九州関係の伝承を盗む必要はないだろう。
 私もまた景行天皇は本来、九州の王であった可能性が高いことをすでに指摘した(注28 )。とすると、九州以外の地における景行の事績はどのように解釈されるべきか。
 景行記の説話的記述はヤマトタケル(倭建命)の冒険に終始しており、ヤマトタケルの最期とその子孫について語るとともに景行記そのものが終わる。


 一方、景行紀では、

まず、景行は 即位三年にして 紀伊国に 行幸して 神祇を祭ろうとしたが 結局取り止めている。
 四年には 美濃の泳宮に 遊んで 八坂入媛を 妃に迎え、その年の内に「更に纏向に都をつくる」、これが纏向の日代宮である(紀伊行幸以前の宮について景行紀には特に記されていない)。
 十二年に九州遠征、十九年に九州から帰る。二十年に天照大神を祭らせるために五百野皇女を派遣する(どこに派遣されたかは明記されていない)。
 二五年に武内宿禰を北陸・東国に派遣。二七年に視察を終えた武内宿禰の復命。その同じ年からヤマトタケル(日本武尊)の冒険が始まる。四三年、ヤマトタケル崩ず。
 五一年に稚足彦尊立太子(後の成務天皇)、五二年に皇后の播磨稲日大郎姫が薨り、八坂入媛を皇后に立てる。五三年から東国巡行、何の戦闘もなく伊勢から上総国を通り、淡水門(房総半島南端)で現地の豪族の饗応を受ける(そのことは『高橋氏文』にも記されている)。その後、東国からまた伊勢を経て、五四年に纏向宮に帰る。


 五五年に彦狭島王を東国に派遣するが途上で薨り、五六年にその子の御諸別王を改めて派遣する。五八年に近江行幸、志賀の高穴穂宮に入り、六〇年、高穴穂宮に崩ず。
ここで景行紀の説話的記述から、本来の景行の事績と思われる九州巡行記事と、景行記と食い違う所も多いが、ほぼ重なるといってよいヤマトタケルの冒険譚を除いてみよう。
 すると、そこに現れるのは、即位直後に美濃で過ごし、大和纏向に都を造り、東方経営に力を入れ、東国を我が庭のように歩んで近江の地に崩じた王の生涯である。これこそ九州にいた本来の景行と同時代、近畿とその東方を治めたもう一人の王の事績ではあるまいか。仮に本来の景行天皇を景行α、近畿とその東方の王を景行βとしよう。
 景行αは九州で自らの王朝を創業し、播磨稲日大郎姫を皇后とした(播磨は九州の王の通婚圏としておかしくはない)。それに対して、景行βは独自の王朝創業記事をもたず(あるいはそれが伝わらず)、大和に入る前に美濃の泳宮を本拠とし、美濃出身の八坂入媛を皇后とした。そこから景行βは美濃と関係の深い王であることが推定できる。
 さらに言うと、大和に入る前に美濃を経ている以上、この王の出身地は美濃よりもさらに東方の東海地方の何処かである可能性も考慮すべきだろう。
 伊勢神宮は東海系王朝もしくはその前身の勢力によって創建され、応神朝以降の大和朝廷にその祭祀が受け継がれたものである、また、富士は東海系王朝の聖域であったため、記紀は富士についての記述を意図的に避けることになった、とこのように考えれば、大和より東方の伊勢が大和朝廷の宗廟とされた謎や、記紀に富士山が現れないという謎も一応は解ける。

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http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage9.htm

 

大足彦忍代別大王(第十二代景行)(推定在位321~330年)
景行天皇の諡名は、すべて職歴で表されており、本人を示していると思われるものが無いので、主だった役所の官にあって、その体験が豊富な人であったと考えられます。
邪馬台国の流れを汲む方で、「日本書紀」では七人の妃を娶られましたが、「古事記」では、七人の内二人は妾(みめ)とされています。
収められている歌謡の中には、景行天皇に関わる内容が幾つかあります。
和文構成の関係上、ヘブライ文を幾つかに分けて、別の文と合わせて構成されたと見られますので、最初のヘブライ文を想定した上での訳出を試みてみました。

景行天皇の項《「ハシキヨシ ワギヘノカタユ クモヰタチクモ」(紀21)(記32〔33〕)
なつかしいなあ、我が家の方から、雲が湧いて流れてくるよ。
(現代語訳)
「イノチノ マタケムヒトハ タタミコモ ヘグリノヤマノ シラガシガエヲ ウズニサセ コノコ」
(紀23)
命の満ち溢れた人は、平群の山の白橿の枝を、髪飾りとして髪に挿しなさい。この子よ。
(現代語訳)(日本書紀)
景行天皇の項《「イノチノ マタケムヒトハ タタミコモ ヘグリノヤマノ クマカシガハヲ ウズニサセ ソノコ」(記31〔32〕)
命の完全な人は、(たたみこも)平群の山のくま樫の葉を髪に挿して、生命を謳歌するがよい。みなの者よ。
(現代語訳)(古事記)
「紀21」の「ハシキヨシ」は、「記32」では「ハシケヤシ」で、子音は同じなので、同文と見なすことが出来ます。
「紀23」の「シラガシガエヲ」「コノコ」は、「記31」では「クマカシガハヲ」「ソノコ」となっていますが、この場合は別文です。

生ける神として説明する
〔ヘブライ語修復訳〕
「ハシキヨシ ワギヘノカタユ」
《彼(景行天皇)は救いの時(神がやって来た時)心あせった。そして、しばしばその符号としての私達(神々)を引き出した。》
大王(天皇)が、神について人々に教示するという立場からしますと、ヤーウェ様からは、生ける神としての説明が求められたわけです。
つまり、現代の私達が一般解説書に見るような、例えば原理化した神や、自然汎神のような静止した符号としての神の説明のようなものではなく、行動し働き続ける生きている神としてのありのままの説明が求められたのです。
当初あせって、景行天皇はその符号の説明のようなことをしばしばしたらしいということです。

大王はヤーウェ神の代理
「タモヰタチクモ」
《彼(景行天皇)は、思いこがれた私(ヤーウェ)の代り(大王)を全うする者とはならなかった。》
大倭国の大王とは、ヤーウェ神の代理を任務として与えられた人であったのです。従って、出来る限り完全であることが求められたのであります。
救いの時とは、神が関与しなければならない何らかの事態が生じ、神が直接、大王や霊媒に働きかけ、暫くその人に必要なだけ宿り続けることです。
平常時、平穏な状態の時には、直接的な関与は殆どなかった、ということだろうと思われます。
「イノチノ」
《彼(景行天皇)はへりくだった者にしばしば悩んだ。》
「タカヒカル ヒノミコ」(記28〔29〕)「マタケムヒトハ」
《彼は、調査した者に従って、嘲りに傾いてしまい、なすりつける者を洗い落すことに甘かった。》
調査した人に欺瞞があっても、それを正すということに甘く、一緒になって嘲た、というようなことだろうと思われます。
「タタミコモ」
《(将来)あなた方は、彼らを、互いに嘲り合うであろう。》
この言葉のみ、予言であります。(1.24.)

日本童男と熊襲梟帥
景行天皇の項《そこでその后(弟橘比売)のお歌いになった歌は、
「サネサシ サガムノヲノニ モユルヒノ ホナカニタチテ トヒシキミハモ」
(記24〔25〕)
(さねさし)相模の野原に燃え立つ火の、その炎の中に立って、私の安否を尋ねてくださったわが夫の君よ。
(現代語訳)である。》(古事記)

これはヤーウェ様による霊示です。
語られている人は、景行天皇と天皇の皇子、日本童男(やまとオグナ)、熊襲梟帥(くまそたける)です。
日本童男は、後に日本武尊(やまとたけるのみこと)として、日本武尊神話が創られた人であります。
熊襲梟帥は、熊襲と呼ばれる大倭王政への反抗勢力、その集団の頭領です。反抗勢力といっても今日的な政治的連帯があったというわけでもないのです。
八十梟帥(やそたける)ともされているのは、この人が邪馬台国の出で熊襲になった人であることを示しています。

〔ヘブライ語修復訳〕
「ヘグリノヤマノ」
《私達の日々、彼(景行天皇)は(熊襲討伐へ向けて)私達を引き締めた。》
「ウズニサセ コノコ」
《彼(日本童男)は、病気に罹り、逃がれて、助けを求めた。(熊襲を)攻撃する者として。》
「クマカシガハヲ」
《(ところが)激しく立ち向かう者(熊襲梟帥)が、彼(日本童男)を癒した。》
「シラガシガエヲ」
《彼(熊襲梟帥)は(日本童男に)触り、世話をした。彼(熊襲梟帥)は求める者(日本童男)で(精神的に)成長した。》
「ソノコ サネサシ」
《彼(景行天皇)は攻撃する者で騒ぎ立てた。(つまり)彼は病気で助けを呼ぶ者(日本童男)で騒ぎ立てた。》
「モユルヒノ ホナカニタチテ トヒシキミハモ」
《不実を行なう者(景行天皇)は陣を敷き、訓練した者(兵士)が(熊襲の住処を)砕き、焼き払い、苛立つ敵(熊襲梟帥)を捕えた。》
「サガムノヲノニ」
《彼は、(熊襲梟帥が日本童男に世話をした行為を)隠したことで過ちを犯した。彼は(そのことで)自分に悩んだ。》

ヤーウェ様はこの霊示を通して、景行天皇が熊襲討伐の際、熊襲梟帥が日本童男を助けようと世話したことを考慮に入れず、住居を焼き払い、捕えたということを咎めておられるのです。
景行天皇は後になってそのことに気付かれ、自分のしたことに悩まれるのです。
大倭王政において、代々の大王はこのように、ヤーウェ様によって厳しくされ、代々大王の内面から鍛えてこられたのです。何を思い、何を考えるかが、行為となって表れるからです。
このような批判の霊示文を出すことによって、当時の大倭王政内部を清めたのであります。こうした浄化は幾度となく繰り返されてきたのです。
当時の人々もそのことによって、何が良いことか、何が良くないことかを学んでいったのです。
この訳の内容からしますと、恐らくはまだ十代であった皇子日本童男が、父君の熊襲討伐に参加したのです。
ところが慣れないことからかどうか、病気に罹り、その場から他へ逃れて、誰かに助けを求めたのです。
そこへ熊襲梟帥がやって来て、日本童男を介抱し世話をするのであります。当然、会話が交わされる。日本童男は助けてもらったと思い、熊襲梟帥に好意を持つのです。
そのことによって、熊襲梟帥は今まで気が付かなかった何かに開眼し、精神的に成長するのであります。
これは熊襲梟帥が、日本童男をさらって行ったわけでもなく、成り行き上、こうなったわけです。
日本童男という自分達を討伐にやって来た攻撃者、言わば敵を、熊襲梟帥は助けようとしたわけです。
この霊示文は後の、斑鳩寺の集いの人々によって、この熊襲の頭領は、イーシェの「汝の敵を愛せよ」の教えを守った人だと見られたのであります。その故をもって、「八十梟帥」即ち、イーシェタケルと命名されたと考えられるからです。
ところでこの「汝の敵を愛せよ」についてですが、これは盲目的に敵を愛せよという意味ではないことは、言うまでもありません。
槍を持って、何が何でも相手を殺してやろうとやって来た敵に対して、「汝の敵を愛せよ」だから、あなたを愛するからどうぞ好きなようにしてくれとやった時に、それではお命を頂きに、と、自分が身包み剥がされた上で、刺し殺される場合も起り得ます。
盲目的に相手を愛して言いなりになるというのは、博愛主義に名を借りた自滅行為です。
この場合に、その敵は受け入れるべき相手か、突っぱねるべき相手かの、見究めが必要であるということです。
「汝の敵を愛せよ」であっても、敵によって愛し方は異なるということです。
「汝の敵を愛せよ」とは、自分も相手も互いに高めあうという前提があってのことです。
相手も同じ認識にある場合には、敵同士であっても、その間には対等な一つの均衡が生まれるのです。互いに高めあおうということで均衡が生まれるのです。
ところが片方にそれが欠落している場合、その均衡は生まれないのです。
それで熊襲梟帥のように実行しても報われないということが起ってきます。生まれる筈の均衡が生まれないということで、ヤーウェ様の怒りの矛先が、景行天皇に向けられたわけです。
「汝の敵を愛せよ」の場合の戦いとは、相手の敵を高めるための戦いです。つまり、相手を高めるために、相手が高まるまで戦い続けるということです。そのことによって自分をも高めていくのです。相手が正しい認識を持つに至るまで戦い続けるということです。
そのためには、こちらは正しい認識を持っていなければなりません。
それと、ただやみくもに戦っても、相手を高めることが出来るとは限りません。その為には、相手方にも、基礎となる教えが必要となるのです。
要するに、敵を愛するとは、相手を高めるために愛するのです。そして、自分も相手から学んで、自分をも高めていくのです。(1.29.)

日本武尊と弟橘媛
前出の熊襲討伐の話は、景行天皇と八十梟帥にまつわる話、日本武尊の熊襲梟帥討伐、として二つの挿話にまとめられたのであります。熊襲梟帥と日本童男が現実に関わったことから、熊襲梟帥が日本童男に、日本武尊(やまとたけるのみこと)の名前を与えたという挿話が創られたのでしょう。
「日本武尊神話」はみな、日本武尊の武勇伝ですが、日本童男(やまとオグナ)の「オグナ」は、「自分に閉じこもる」の意味と解されるので、少年時代は、内にこもりがちの、無口で大人しい少年だったのではないでしょうか。
ではこの皇子を少し活性化させようということで、皆の注目が日本童男に集まり、出雲梟帥討伐を含む、いくつかの武勇伝が創作されたと考えられます。
斑鳩寺の集まりの人々の中には物語を創る才能を持った人が何人もいて、そうした人達によって、挿話は創られたとも察せられます。
次の弟橘媛(おとたちばなひめ)に関する話もその中で創られたものの一つと考えられます。

景行天皇の項《さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。
海を望んで大言壮語して、「こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう」といわれた。
ところが海中に至って暴風が起り、御船は漂流して進まなかった。
そのとき(日本武尊)皇子につき従ってきた妾(おみな)があり、名は弟橘媛という。穂積氏忍山宿禰の女である。
皇子に申されるのに、「いま風が起こり、波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神のしわざです。賤しい私めが皇子の身代りに、海に入りましょう」と。
そして、言い終るとすぐ波を押しわけ海におはいりになった。暴風はすぐに止んだ。船は無事岸につけられた。
ときの人はその海を名づけて馳水という。-略―
灯をともしてお食事をされ、この夜、歌を作って従者にお尋ねになって、こう言われた。
「ニヒバリ ツクバヲスギテ イクヨカネツル」
(紀25)(記25〔26〕)
新治や筑波を過ぎて、幾夜寝ただろうか。
(現代語訳)
従者たちは答えられなかった。御火焚の者が、皇子の歌の後を続けて歌って、
「カガナヘテ ヨニハココノヨ ヒニハトヲカヲ」
(紀26)(記26〔27〕)
「日数を重ねて、夜は九夜、昼は十日でございます」とお答えした。
(現代語訳)(日本書紀)

「記紀」の挿話中、ここから初めて「妾(オミナ)」が出てきます。
弟橘媛は、景行天皇の身近かにあった人で、天皇を助けた女性です。
「オミナ」は「教育者」「養育者」の意味と思われるので、日本童男皇子の養育も兼ねた教育者であったと察せられます。

〔ヘブライ語修復訳〕
「イクヨカネツル」
《神を圧する者(日本武尊)は、賤しい者(弟橘媛)を(身近かに)得ることになった。》
「ニヒバリ スギテ」
《彼(日本武尊)は、朽ちた者(弟橘媛)を置いた。彼女(弟橘媛)は過ちを犯したのだった。》
「ツクバヲ」
《彼は、(彼女に)しきりにせがみ、(恐らく将来について)尋ねた。》
「カガナベテ」
《その高ぶる者として、彼女(弟橘媛)は予言した。》
「ヒニハトヲカヲ」
《神を敬わない者(日本武尊)は、(神を)待ち望む者(霊媒の選択)を誤った。》
「古事記」には、「妾」と「后」の両方の表記がありますので、後に弟橘媛は日本武尊の后となったのでありましょう。
「ヨニハココノヨ」
《彼(日本武尊)は、私(ヤーウェ)を圧迫し、しばしば法を定め、さ迷った。》
神を敬わない日本武尊は、ヤーウェ神の声を無視して法を定めたものの、制定されたその法で武尊自身は随分と迷った、とそのような意味であろうかと思われます。
この神を圧迫するという意味は、ヤーウェ様はこうしたいと意向を持っておられたにも関わらず、それを押えて否定し、自分の考えを押し通して法を定めたことを指しているのでしょう。(1.30.)

労働府と備蓄管理府
この二つの役所が出て来るのが次の歌謡ですが、内容は、仲哀天皇の項の歌謡の一部の語句に繋がっています。
景行天皇の項《時に倒れた樹木があり、長さ九百七十丈。役人たちは皆その樹を踏んで往来した。
時の人は歌をよんで、
「アサシモノ ミケノサヲハシ マヘツキミ イワタラスモ ミケノサヲハシ」
(紀24)
消えやすい朝霜の置いている御木の小橋を渡って、群臣たちは宮仕えに行くことだ。
(現代語訳)(日本書紀)
そしてこの歌の修復訳は、仲哀天皇の項の「記38〔39〕」歌謡の「イザアギ フルクマガ」へと続き、さらに「紀28」歌謡「イザアハナワレハ」で、終結します。

〔ヘブライ語修復訳〕
「アサシモノミケノ」
《彼(景行天皇)は、購入を拒む者(側近)で弱った。》
「サヲハシ マヘツキミ」
《彼は、(それを)楽しむ者(他の役人)に助けを求め、(それを)分けさせる者は(それを)果たした。》
「イワタラスモ」
《彼は、彼らの酒を欲したのだった。》
「イザアギ フルクマガ」
《労働府と備蓄管理府(の役人)は、(酒を)渡してしまったことに歯ぎしりした。》
これに似た話は、現代社会の中ではどこにでもあることで、そう珍しいことではありません。
人は悩み事、煩悶が多くなると、それを紛らわそうとして酒量が増しがちになります。そして、深酒の習慣がつく。肝臓を壊す。
景行天皇も人として例外ではなかった。通常の適量以上の酒を欲したのです。
飲みすぎだからと、側近が酒の入手を拒む。そこで大王は、それなら別の人にと、ほかの酒好きの役人から酒を得る。それを知った労働府と備蓄管理府の役人が、ああ酒を飲ましてはいけないのに渡してしまったと、歯ぎしりする。
そして、この話には、人による次のコメントがあります。
「イザアハナワレハ」
《労働府の私めも、貴方(景行天皇)に起きたことに恵まれますように。》
戯れのようなものですが、当時は思っていた以上に自由な気風にはあったようです。
上古天皇、古代の大王は、些細なと、思われるようなことであっても、このように神によって厳しくされてきたのです。
歌謡中の「イザアギ(いざ吾君)」、漢文で「伊奢阿芸」は、「魏志倭人伝」中の「伊邪(yeza)国」と「為吾(yaga)国」を並べたもので、「労働府」と「備蓄管理府」のことです。