宇麻志(うまし), 吾田片隅命(宗像氏へ)【和仁古氏】五十手美命
http://rokujigen.iza.ne.jp/blog/entry/2266595/
『古事記』の神話の後に、最初に出てくる人名は、皇室の神武天皇と五瀬命を除けば、
宇佐津彦・宇佐津姫、宇豆彦(うづひこ)の三名ですが、
いずれにも「宇」の一字が付いています。
「宇」は「宇宙・宇大・殿宇・廟宇」と使われるように、「大きな屋根の建物」という意味です。
宇豆彦の「豆(づ)」は「津」であり、天津彦根命(天照大神の子)のように「~の」という助詞です。
「さ(佐)」は 状態を表す言葉ですので、宇佐津彦=宇豆彦です??。
平安時代の数え歌に「雲太 和二 京三」があります。「雲太」は出雲大社、「和」は大和東大寺、「京」は平安京大極殿のことで、建物の大きさを表しています。
この歌にあるように古代から出雲大社が大きな建物の代表的なものでした。
出雲大社(島根県 出雲市)の東に 宇賀の地名が あります。
「賀(か)」は「家(か)」であり、「宇賀=大きな屋根の・家」で出雲大社を意味しています。
それで 伊勢神宮外宮・伏見稲荷大社の祭神 宇迦之御魂(うか・の・みたま)命は、大きな建物である出雲大社祭神の大国主命を指します。豊受の「受」は 宇賀が 訛ったものです。
栃木県 宇都宮市 の宇都宮 二荒山(うつ・の・みや・ふたあらやま)神社にも、大国主命が祀られています。
「家(賀)」は 高家神社(千葉県南房総市)を「たか・べ神社」と言うように「べ(部)」とも読ませます。
三輪氏が 国造を務めた 山口県の 宇部(宇賀)市は 八幡神社の多いところです。
八幡社の総本社である 宇佐神宮は 秦氏が 関わって いたと言われますが、京都の太秦(うづ・まさ)を拠点にしていました。
糸・綿・絹を うず 高く積んだので 兎都萬佐(太秦)の名を 天皇から 賜って います。
内宮が ある 伊勢市宇治、和邇氏の母を 持つ 菟道稚郎子(うじ・にわき・いらつこ 応神天皇の皇子)が祀られている 宇治神社(京都市宇治)の 宇治は、「うづ」が 転訛した ものです。
秦氏のように 糸・綿・絹では なく、稲穂を積んだのが、ニギハヤヒ命の子孫を称している 穂積(ほ・づみ)氏です。
宇迦之御魂命は 倉稲魂(うかのみたま)命とも表記します。
穂積氏の祖の 内色許男(うつ・しこを)命の娘の 伊賀迦色許賣(い・かが・しこめ)命が 産んだのが、三輪山に 出雲神を 祀った 崇神天皇??です。
穂高神社(長野県 安曇野市)に 祖の 綿津見命(綿・積)と 宇都志日金析命(うつ・しひ・かなさく)を祀ったのは 安曇(안담)(あづみ= 麻・積)氏です。
*海神綿積命= 大那比命.
http://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/m-17.html
7.賀茂家家系
┌ 玉依媛命―賀茂別雷命
神皇産霊尊―天神玉命―天櫛玉命―鴨建角身命 ┴ 鴨建玉依彦命―五十手美命―┐
┌───────────────────────────────────┘
└麻都躬之命―看香名男命―津久足尼命―猿弟人命―佐佐乃彦命―菅牽命―稚可土乃命┐
┌──────────────────────────────────────┘
│ 御祖神宮禰宜 御祖神宮禰宜
└馬岐乃命―大伊乃伎命┬阿波伎之命┬伊多足尼命―伊賀多足尼┬賀氏(鴨県主)
│ │ └賀弓(鴨県主)
│ └伊奈目命―多加比(鴨県主)-黒比古
│ 御祖神宮禰宜 鴨県主 鴨県主
└小屋奈世命―大山基命―大角―伊己代―多々良―久治良┐
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/koten06.htm
媛蹈鞴五十鈴(ヒメタタライスズ)媛命
紀は 三嶋溝厥耳(ミシマミゾクヒミミ)神の女 玉櫛(タマクシ)媛と事代主神の間に 生まれた 媛蹈鞴五十鈴媛命を 皇后とし、神八井命と神渟名川耳(カムヌナカハミミ)尊(綏靖天皇)を生んだとします。
記は 三嶋溝咋(ミシマノミゾクヒ)の女 勢夜陀多良比売(セヤダタラ)と 美和(ミワ)の大物主神の間に 生まれた 富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキ)、亦の名を 比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリ)を 嫡后とし、
日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカハミミ)を生んだとします。
記は 神武天皇崩御の後 多藝志美美命が 伊須気余理比売を娶り、その生んだ3柱の弟を殺そうとし、悩んだ伊須気余理比売が 暗喩の歌を歌つて御子達に危険を知らせ、御子達が先手を打って多藝志美美命を殺し、神沼河耳命が 綏靖天皇となったと伝えます。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page685.html
天孫降臨爾天兒屋命、
布刀玉命、
天宇受賣命、
伊斯許理度賣命、
玉祖命 并五伴緒矣。支加而。天降也。
於是副賜其遠岐斯【此三字以音】八尺勾?鏡。及草那藝劍。亦常世思金神、
手力男神、天石門別神而。詔者。此之鏡者專爲我御魂而。如拜吾前伊都岐奉。
次 思金神者 取持前事爲政。此二柱神者。拜祭佐久久斯侶。伊須受能宮【自佐至能以音】
次 登由宇氣神。此者坐外宮之度相神者也。
次 天石戸別神。亦名謂 櫛石窓神。亦名謂 豐石窓神。此神者 御門之神也。
次 手力男神者坐佐那那縣也。
故其天兒屋命者【中臣連等之祖】
布刀玉命者【忌部首等之祖】
天宇受賣命者【猿女君等之祖】
伊斯許理度賣命者【鏡作連等之祖】
玉祖命者【玉祖連等之祖】
「久米」と「忌部」の関係
古事記には「鳥」を追いかける話がふたつ出てくる。
そのひとつは「山邊之大帝鳥」が「鵠」を追いかける話。
こちらは「高志国」の「和那美之水門」で捕まえる。
もうひとつは「山部大楯連」が「女鳥」を追いかける話。
こちらは(最終的には)「宇陀之蘇邇」で捕まえる。
「天石戸別=豊石窓=御門」は「忌部」の系統だから、 *천
「大帝鳥」は「大鷲」。
「山邊之大帝鳥」は「忌部」。
「山部連小楯」は「伊予久米部小楯」だから「久米」。
したがって「忌部」と「久米」は繋がりが想像される。
「大帝鳥」と「山部大楯連」を 同系統と見た 場合の話だ。
「天石戸別」は その名前の意味から「手力男」の別称。 *天石戸別=
その「手力男」は「佐那那縣に坐す」と書かれている。
「伊勢之品遅部君、伊勢之佐那造君」の祖は「曙立王」。
「本牟遅和気」に仕えていたからこそ「品遅部君」の祖。
「品遅別」の父は「伊佐知」即ち「大久米」。
「手力」は「多遅+韓」と書ける。これは反正~雄略の流れ。
一方「曙立王」はなぜか「師木登美豊朝倉」と形容される。
「朝倉」は雄略の宮都。采女に「伊勢国之三重采女」がいた。
然るに「豊石窓」の「窓」は「円」。「円」は「都夫良」だ。
「伊勢」を媒介として反正~雄略の流れと「忌部」が繋がる。
ところが「曙立王」の祖母は「苅幡戸辨」。どういうことか?
「木之荒田郎女/大雀/根鳥」=「志夫美宿禰/大俣/小俣」
だとすれば、「木之荒田郎女」は「佐佐君」の祖ということ。
「本牟遅和気」こそ「大雀」であってみれば、驚くに値しない。
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/awa/awa_02.html
第16回
大山津見神と鹿屋野比売神
鹿屋野比売神(かのやのひめのかみ)とは山の神の大山津見神(おおやまつみのかみ)に対して野の神とし,山と野の夫婦神である。また,日本書紀では草祖草野媛命(くさのおやかやのひめのみこと)と書かれ,阿波では,鹿江比売(かえひめ)神のことである。
平安時代に編纂された「延喜式神明帳」に,阿波国には,板野郡(4座)・阿波郡(2座)・美馬郡(12座)・麻植郡(5座)・名方郡(9座)・勝浦郡(11座)・那賀郡(7座)計50座の格式ある神社として記録され,板野郡に式内社の鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)があったと書かれている。
この鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)は,以前に書いた意富門麻比売神社(おふとまひめじんじゃ)(第12回)・伊邪那美神社(いざなみじんじゃ)(第13回)と共に式内社の中では,阿波に一社だけ存在するのである。
鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)は,徳島県板野郡上板町神宅にあり,神社の北に大山がそびえている。(写真,神社の後の山)この大山の八合目に,力餅運びで有名な大山寺があり,この山が大山津見神(おおやまつみのかみ)のいます山としてあがめられてきた。
この神社は現在,葦稲葉神社(あしいなばじんじゃ)と合祀して祭られている。この葦稲葉神社(あしいなばじんじゃ)は,『続日本紀』に承和9年(842)に従五位下を授けられ,また,『三代実録』に貞観九年(867)に従五位上を授くる,等と記録される古社である。
他県のように,大きな神社が一座だけ祭られ,古事記の記述とはつじつまが合わないのとは大きな違いである。他県に無いように,阿波には,古事記に記述される夫婦神として存在する。なおその上,古事記全般にわたって古代にさかのぼれば,ますます古事記の舞台が阿波であることは明白な事実となる。
第17回
大宜都比売神(おおげつひめのかみ)と豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)
古事記には,大山津見神(おおやまつみのかみ)と鹿屋野比売神(かのやのひめのかみ)の生まれた後に大宜都比売神(おおげつひめのかみ)が生まれ,伊邪那美命(いざなみのみこと)が亡くなった後に豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)が生まれたと書かれる。大宜都比売神(おおげつひめのかみ)は,古事記には2度目の登場で,その後,古事記に2度,計4度も書かれ,何度も現れない他の神々とは違い,古事記は,大宜都比売神(おおげつひめのかみ)を中心に書いているとしか読めない。古事記は,阿波を舞台にして書かれているのである。
この大宜都比売神(おおげつひめのかみ)は,第11回にも書いたが,阿波国の祖神であり,穀霊でもある。現在は,伊勢神宮の外宮に,豊受大神(とようけのおおかみ)として祀られている神である。この神名の宜(け)は御膳(みけ)の「け」で,「け」は「うけ」ともいい,食物の総称であるから豊受大神(とようけのおおかみ)も豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)も大宜都比売神(おおげつひめのかみ)と同神である。
大宜都比売神(おおげつひめのかみ)は,徳島県名西郡神山町の神山温泉西側の大粟山にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)や鳴門市の阿波井神社などに祀られている。
上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)は,式外社として『三代実録』に「貞観三年(861)従五位下,元慶七年(883)従五位上を授く」と古くからの記録が残る神社であり,また,神山町には,平形銅剣が4口出土している事などからも,もっと古い時代から人々の営みがあったことがわかる。
神山町を訪れた人は,山村であるにも関わらず,大きな鳥居や荘厳な社殿に驚くが,これらは古くから大宜都比売神(おおげつひめのかみ)を尊崇してきたことを物語っている。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02106.htm
《大国主命系綱要》 出雲神族綱要へ戻る
┌ 阿遅鉏高日子根命 ── 多伎都比古命
│
├ 下照比売命
│
大国主命─┼ 事代主命─┬天日方奇日方命─┬健飯勝命──健甕尻命──豊御気主命──大御気主命───┐
│ │ │
│ ├媛蹈鞴五十鈴媛命└淳名底仲媛命
│ │ ║ ║
│ │ 神武天皇 ╟───┬磯城津彦命(中原氏へ)
│ │ ║ │
│ ├五十鈴依媛命 安寧天皇 └懿徳天皇
│ │ ║ ║
│ │ 綏靖天皇 ╟──孝昭天皇
│ │ ║
│ │〔磯城県主〕殿延──太真稚彦──飯日媛
│ │
│ └天八現津彦命─┐
│ │
│ ┌──────────┘
│ │
│ └観松比古命─┬大日腹富命──建美奈命──甕男立命──麻斯命〔億岐国造〕【隠岐氏】
│ │
│ └建日別命──伊侶止乃命──八上乃命─┬押古呂命(長氏/長宗氏へ)
│ │
│ └振根命──百襲彦命(凡氏へ) │ ┌────────────────────────────────────────┘
│ │
│ ├吾田片隅命……(宗像氏へ)【和仁古氏】
│ │
│ │ ┌大鴨積命【賀茂氏】【鴨部氏】【三歳氏】【石部氏】
│ │ │
│ └健飯賀田須命──大田田根子─┼大御気持命───大友主命(三輪氏へ)
│ │
├高照光姫大神命 ├田田彦命【大神氏】【神部氏】【神人氏】
│ │
├木股命(木股神) └大禰希知命【神人部氏】
│
├建沼河男命……【越氏】
│
├健御名方命───┬伊豆早雄命──片倉辺命──恵奈武耳命──水隈命(諏訪氏へ)
│ │
├和加布都志能命 └出早雄命………【早出氏】
│
├山代日子命
│
├賀夜奈流美命──国忍富命──雲山命──湯地主命……〔須佐神社神主家〕【稲田氏】【須佐氏】
│
├火明命
│
└爾保都比売
※【我孫氏】は 天八現津彦命の裔。
http://matmkanehara-momo.blogspot.com/2011/04/blog-post_14.html
⑦ 天津神・『宇麻志阿斯訶備(うましあしかび)比古遅』の正体. (『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録17:20頁)
古代には シの当て 字に 斯の字を 多く 使っている。
この字はいまの「瓦斯(ガス)」という当て字でおわかりのように
「ス」と読まれている。
だからアスカとアシカは簡単に入れ替わる。
この芦花(あしか)部(ベ)は アスカベという名と同じものだとすると、
奈良の明日香は少なくとも2世紀に奄美大島で生まれていたのである。
だが この地名は本当に2世紀からある、そんなに古いものなのであろうか?。
部の「ベ」という発音は沖縄語では「ビ」なのだから、芦花部はアシカビ。
すると『記・紀』にこれとぴったり同じ名の神様が記録されている。
『古事記』は「葦牙(あしかび)の如く萌(も)え騰(あが)る物によりて、
成れる神の名は『宇麻志(うまし)・阿斯訶備(あしかび)・比古遅・神』」と書くが、
『日本書紀』は「天地の中に一つの物が生じた。
その状『葦牙』の如く、化して神になる。
これを『国常立神』と号す」と書いてある。
この『葦牙・阿斯訶備』が、どちらもアシカビと読まれてきたから、
芦花部のアシカビと完全に一致する。
その前に書かれた『宇麻志』も、
「甘美(あまみ)」と書いて「うまし」と読むので、
今の文字なら奄美なのである。
*可美うまし
*可美真手命(うましまで)
『宇麻志・阿斯訶備』とは、
『奄美の芦花部』という「地名」だったのだ。
比古は そこの支配者、
遅はチだから沖縄語の助詞「津(チ)=の」で、
名乗りだと、はっきりわかる。
これが『日本書紀神話』の最初の神なのである。
http://rx178ryo.kanashibari.jp/kamigami/file/umasiasikabi.html
可美葦牙彦舅尊
ウマシ=広義の美しさ、よいもの。葦牙=葦の芽。ヂは接尾語。勢いの盛んな様を表す。
同上。
http://yagiken.cocolog-nifty.com/yagiken_web_site/2010/07/post-7f5f.html
<邪馬台国の終焉>
後藤本は、卑弥呼と台与(とよ)の2人の女王時代、邪馬台国の首都は守山の伊勢遺跡群だったと考える。遺跡の出土品の年代から、卑弥呼時代の中心は伊勢遺跡にあり、台与の時代には下長遺跡に遷ったと考えられる。台与の後、権力闘争で河内の土着勢力であった長髄彦(ながすねひこ)が邪馬台国の王位につく。
長髄彦は日本書紀の神武紀に出ていて、神武の東征を河内の生駒山で阻んだ人物である。長髄彦は饒速日(にぎはやひ)と邪馬台国連合政権を組んでおり、饒速日は長髄彦の妹を娶っていたので長髄彦の義弟であった。しかし何故か饒速日は長髄彦を殺して神武のヤマト王権成立を助けた。
その裏には、卑弥呼、神武、饒速日は同じ祖先をもつ所謂天孫族(アマテラスの子孫)であったが、長髄彦は土着の縄文系の人物であるという血縁の戦いがあり、饒速日が神武を天孫系の正当な主権者と認めたが、長髄彦が従いそうにないので、これを殺して神武に投降したというのが東征記のあらすじである。
従って後藤氏は邪馬台国が進化してヤマト政権に遷ったのではなく、邪馬台国は神武東征の結果滅亡してヤマト政権が出来たとする。その後の国造りに饒速日を始めとする物部氏のような同族の存在が役立ったはずであるという論旨を展開されて、伊勢遺跡の早期国指定史蹟の認定や、物証を重視した意味のある邪馬台国論争を訴えておられる。
http://kamnavi.jp/mn/kinki/katube.htm
宇麻志間知命(うましまじ)は 饒速日命の子である。
*宇麻志間知命(うましまじ)= 宇麻志麻治命(うましまじ)= 観松比古命
*宇摩志麻治命の七世孫= 多弁宿祢命
*宇摩志麻治命の四世孫= 六見宿祢命
http://mononobe.digiweb.jp/mononohuyasoudi/clan-dictionary.html
宇治部 (うじべ)
連姓。宇遅部ともいう。
応神天皇の皇子、菟道稚郎子の名代部とされる宇治部を管掌する伴造氏。
饒速日命の六世孫・伊香我色乎命の後裔。(「録」河内国神別)
韓国連に同じく、神饒速日命の六世孫・伊香我色雄命の後裔。(「録」和泉国神別)
宇摩志麻治命の七世孫・多弁宿祢命、同十四世孫・物部臣竹連公の後裔。(「旧」天孫本紀)
http://6541.teacup.com/chikuzen/bbs/4391
さて、『新撰姓氏録』に、
・宗形朝臣
大神朝臣同祖。吾田片隅命之後也。
・宗形君
大国主命六世孫吾田片隅命之後也。
鹿児島西南部は阿多隼人。
木下尚子さんによると、ここに、南島から運ばれたゴホウラ、イモガイなどが集められ、加工センターがあった。(『南島貝文化の研究―貝の道の考古学』)
さて、『新撰姓氏録』に、
・宗形朝臣
大神朝臣同祖。吾田片隅命之後也。
・宗形君
大国主命六世孫吾田片隅命之後也。
この吾田片隅が、阿多隼人。つまり、宗像氏のルーツは阿多隼人である。
福岡では、宗像の津加計志神社に阿田賀田須命が祀られている。たしか2008年の暮れだったが、福岡の知り合いに案内していただいた。あるいは、津屋崎だったかもしれない。
神奈備さんのサイトによると、ほかには、
櫛田神社摂社石堂神社
津屋崎町 大都加神社
愛知県にもある、春日井市 両社宮神社 朝宮神社 和邇良神社。2009年の4月、6月に見て回った。
奈良にもある。東大寺山古墳のすぐそば和邇の地に、和邇坐赤坂比古神社。
『姓氏録』には、
・和仁古
大国主六世孫阿太賀田須命之後也。
『先代旧事本紀』には、
・八世孫阿田賀田須命、和邇君等祖。
東大寺山古墳一帯は和爾氏の集住地域であり、阿田賀田須命は和邇君の祖。
つまり、和邇氏も宗像氏も遡れば阿多隼人から出ているということになる。
阿多隼人は、九州南部から南西諸島にかけて往来した海人だった。後裔の宗像氏もまた同様に海人である。
「肥前國風土記」松浦郡値嘉の郷の有名な一節。
・此の嶋の白水郎(あま)は、容貌、隼人に似て、恆に騎射を好み、其の言語は俗人(くにびと)異なり。
問題は、この阿多隼人をさらに遡ればどこへたどり着くか。
福建省か、あるいはもっと南の東南アジアか。『隼人世界の島々』を読むとインドネシアあたりまで遡る説もあるようだ。
鹿児島県歴史資料センター黎明館の川野和昭さんの講演では、民俗的にはラオスと非常に良く似ているらしい。このあたりが解明できればいいんですけどね。
http://mononobe.digiweb.jp/mononohuyasoudi/clan-dictionary.html
小治田 (おはりだ)
連姓。天武十三年に宿祢姓を賜ったものもある。ウヂ名の小治田は、推古紀に小墾田宮、古事記推古段に小治田宮、続紀二十六巻に大和国高市小治田宮、などとみえる大和高市郡小治田邑の地名によるか、安閑紀元年十月にみえる小墾田屯倉の管理にあたったことによる。天武紀元年六月条によると、同地には小墾田兵庫があったという。
氏人には、三代実録元慶五年十月条の小治田宿祢春雄などがいる。
延喜式神名帳の大和国高市郡にある治田神社は、この氏が奉斎したものか。
石上朝臣に同祖。神饒速日命の後裔。欽明朝に小治田の鮎田を墾開したことにより小治田連の氏姓を賜ったという。(「録」左京神別上)
水取連と同じく、神饒速日命の六世孫・伊香我色雄命の後裔。(「録」右京神別上)
宇摩志麻治命の四世孫・六見宿祢命の後裔。(「旧」天孫本紀)