카테고리 없음

응신원년.

라디오에요 2010. 6. 21. 10:50

http://members3.jcom.home.ne.jp/wakoku-keisei/cyuuai.html

残る疑問

外交関係に関する年代の推定はピッタリ合致しているようです。
しかし、続く応神天皇の即位や崩御などの接続が不自然になります。

神功紀は摂政13年が大きな区切りです。
誉田別尊が13歳になり、(神功の摂政が終わり誉田別尊が皇位を継ぐために)
 大宴会の記事まで残されています。

しかし続く応神天皇(誉田天皇)には、幼名が誉田別尊だったかには「未詳」となっています。
 (誉津別皇子・誉屋別皇子・誉田別皇子)  

応神紀は神功の69年、100歳での崩御に続いていますが、
 外交関係に関する年代はピッタリ合致していてズレが生じていません。

まるで神功14年から神功69年の間の、2代か3代の王が消されているかのようです。

しかし応神は大陸生まれで、やはり誉田別尊と考えことができます。

天皇の漢名に神が含まれる、神武も崇神も神功も大陸生まれでした。
誉田別尊も神功が320年に東晋に渡り、誉屋別王との間の子でしょう。
ちなみに倭への帰還は325年のようです。

応神の即位は西暦333年か334年になりますが、
 即位や崩御、立太子など以外の、
 一般の記事は応神紀を元年が390年と読むべきだとなります。

雄略紀でも雄略即位と雄略紀元年に数年のズレがあります。 (安康・雄略紀

応神の即位を西暦333年とすると、崩御の40年は西暦373年になります。
この年は神功摂政53年にあたり、応神は53歳です。
応神の110歳崩御から60年減算すると50歳ですからほぼ合います。

応神即位を333年として読み直しを試みる必要があります。 (応神天皇