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榎学説 放射説 (책)張明澄著 誤読だらけの邪馬台国

라디오에요 2011. 9. 27. 10:18

http://www.iris.dti.ne.jp/~min30-3/kodaisi/yamataikoku3.htm

 

 

邪馬台国への行程についての異説として「榎学説」がある。榎一雄氏が1948年に発表したものは。『いままでのように、壱岐-末廬国-伊都国-奴国-不弥国-投馬国-邪馬台国と順次式に読むべきではなく、郡使が駐在した伊都国からあとは、そこから奴国には100里、伊都国から不弥国には100里、伊都国から投馬国へは(水行)20日、伊都国から邪馬台国へは(水行)10日・(陸行)1月と「斜行式に読むべきである。なぜなら、倭人伝のその箇所の記事をよく読むと、前半では「南に一海を渡り1000里で一支国に至る。」というように方角・距離・国名の順に記されているが、伊都国からあとは「東南、奴国に至るには100里」というように方角・国名・距離の順になっている。それは伊都国を中心に書きわけているからである。そして、こうみると、邪馬台国は伊都国の南、水行10日、陸行1月という、ずっと近い距離である。』と述べている。下記に示したごとくである。
  사마일국에의 행정에 대한 이설로서「가학설」이 있다. 가카즈오씨가 1948년에 발표한 것은.「지금까지와 같이, 이키-스에려국-이토코쿠-나노쿠니-불미국-투마국-사마일국과 차례차례 식에 읽어야 하는 것이 아니고, 군사가 주재한 이토코쿠에서 나머지는, 거기에서 나노쿠니에는 100리, 이토코쿠로부터 불미국에는 100리, 이토코쿠로부터 투마국에는(수행) 20일, 이토코쿠로부터 사마일국에는(수행) 10일・(육행) 1월과「사행식에 읽어야 하는 것이다. 왜냐하면, 왜인전의 그 개소의 기사를 잘 읽으면, 전반으로는「남쪽으로 일해를 건너 1000리로 일지국에 이른다.」라듯이 방위・거리・국명의 순서에 기록되고 있지만, 이토코쿠에서 나머지는「동남, 나노쿠니에 이르려면 100리 」라듯이 방위・국명・거리의 순서가 되어 있다. 그것은 이토코쿠를 중심으로 써 나누고 있기 때문이다. 그리고, 이렇게 보면, 사마일국은 이토코쿠의 남쪽, 수행 10일, 육행 1월이라고 한다, 훨씬 가까운 거리이다.」라고 말하고 있다. 아래에 표시한 대로이다.

 

これはいわゆる「放射説」というものである。この放射説は、中国史書の読み方にこのような例があるといわれ、一応の説得力をもつものだが、今日ではまだ定説とされるには至っていない。というのも、この説の最大の欠点というべきものがあって、それは「投馬国」が倭人伝のいう『女王国より以北、その戸数・道里は略載し得べきも、その余の旁国は遠絶にして詳かにするを得ず』の女王国より以北でなくなるからである。
  이것은 이른바 「방사설 」이라고 하는 것이다. 이 방사설은, 중국 사서의 읽는 법에 이러한 예가 있다고 해 일응의 설득력을 가지는 것이지만, 오늘로는 아직 정설로 여겨지는데는 이르지 않았다. 그렇다고 하는 것도, 이 설의 최대의 결점이라고 해야 할 것이 있고, 그것은「투마국」이 왜인전이 말하는「여왕국부터 이북, 그 호수・도리는 략재해 얻어도, 그 나머지의 방국은 원절로 하여 자세하게 함을 얻지 않고」의 여왕국부터 이북이 아니기 되기 때문이다.

 

http://blogs.yahoo.co.jp/eraser1eraser/41214268.html

 

張明澄著「誤読だらけの邪馬台国-中国人が記紀と倭人伝を読めば

 

張明澄氏は、邪馬台国を「川内平野の阿久根」とされた。


 帯方郡(ソウル
 ↓7,000余里
 (渡一海)→狗邪韓国(釜山
 ↓1,000
 対馬国(西ノ浦
 ↓1,000
 一大国(郷ノ浦
 ↓1,000
 末櫨国(佐世保)→100→不弥国(潜木
        →100→奴国(大塔
        →500→伊都国(塩田
 ↓2,000
 邪馬台国(阿久根

 以上の如くである!


THE EARTH BOOKS ③
誤読だらけの邪馬台国-中国人が記紀と倭人伝を読めば…-
中国人が読んだ! 解った!
邪馬台国はどこ?
魏志倭人伝には邪馬台国の位置が鮮明に記されていた!
著者  張明澄
発行所 久保書店

 この本を読めば、これが邪馬台国の決定版となろう。

誤読だらけの邪馬台国

目次
まえがき
第一章 邪馬台国はどこか
 『魏志倭人伝』に使われている方位
 到と至は同じ字ではない
 末盧国と伊都国とはどこか
 邪馬台国は大和か九州か?
 投馬国はどこ? 出雲はどこ?
 矛盾だらけの直線式読み方
 地図とは一致しない榎学説
 古田説はただの帳尻合わせ

第二章 倭国人のいろいろ
 所有無ではなく所有と無与
 二倍年暦の根拠は全くない
 使大倭という変な固有名詞
 一の大率か、一大の率か
 年巳長大とは何歳ぐらいか?
 吏将の吏は文官で将は武官
 いままで訳されなかった拝仮
 卑弥呼以死とは以卑弥呼死

第三章 百鬼夜行の諸学説
 『三国志』は上古音か中古音か
 邪馬壹国と邪馬台国の問題
 「倭人伝」の立場から読む記紀
 天孫降臨はどこからどこへ
 北方騎馬民族は確かにきた
 大和政権は何回も交替した
 全国に散らばった九州の地名
 日本の三角縁神獣鏡について

 『到と至』の違いが味噌であるそうだ。

「倭人伝」の立場から読む記紀

『魏志』「倭人伝」を読んでから記紀を読めば、記紀に書かれた内容について、その意味を次のように汲むことができる。
 高天原(邪馬台国)はいまの出水平野にあり、イザナギ族が支配していた。出雲(投馬国)はいまの薩摩にあり、イザナミ族が支配していた。いずれも中国から渡ってきた呉越人の子孫である。
 出水の"イズミ"の"ズミ"を陳寿が"邪馬"(ジャッムワッ)をあてはめ、"台"は音訳ではなく、台地という意味である。また、出雲の"イヅモ"の"ヅモ"を陳寿が"投馬"(トゥッムワッ)をあてはめたのであろう。
 イザナミ王に娘が二人いて、姉のほうは跡継ぎに残し、妹のほうはイザナギ王に嫁いだ。しかし、出産してすぐ高熱を出して死に、イザナギ王は妹の代りに姉をもらいたいと思い、出雲ヘプロポーズに行った。
 ところが、出雲にいるときにイザナギ王は姉姫のヌードを盗見て、癩病で体中がただれているのを見て、びっくりして出水に逃げ帰った。
 その後、イザナギ王は再婚して、三人の貴子が生まれた。それは、長女のヒルメ(卑弥呼)で妾腹、長男のツクヨミで妾腹、次男のスサノオ(男弟)で后の子、三人である。
 そのとき、九州では、ちょうどスサノオという朝鮮英雄の伝説がはやっていたので、イザナギ王は、大きな望みを正妻(后)の子である次男に託して、英雄の名をつけのである。しかし、期待に反して、スサノオは素行が悪く、手のつけられない乱暴者として育った。
 長女をいちばん愛したイザナギ王は、引退するとき、ヒルメに国をゆずり、ツクヨミは山岳地、スサノオは海原地に分封した。
 スサノオは分封地に不満を持ち、ヒルメのところに身を寄せ、ヒルメと情を通じ、オシホ(天忍穗耳命)をはじめ、多くの子を生んだ。
 そして、ついに実権を握り、ヒルメを閉じ込めて人と会えないようにし、ついに殺してしまった。
『魏志』「倭人伝」には、これらの事件について、
 無 夫 婿  有 男 弟  佐 治 國  自 爲 王 以 來  少
  有 見 者  以 婢 千 人 自 侍  唯 有 男 子 一 人
 給 飲 食  傳 辭 出 入 居 處
 夫婿なく、男弟ありて、国を治むるを佐け、王となしてより以来、見るもの少くあり、婢を千人持ってみずから侍べり、ただ男子一人ありて、飲食を給い、伝辞に居ることろを出入りす、
と記している。
 国を奪ったつもりのスサノオは、クーデターによって追放され、後にヒルメの子のオシホを婿に迎えた当時十三歳のアキヅ(台与)がその父親の高木神の力によって女王に立てられた。
 追放されたスサノオは、自分の軍隊をつれて出雲に入り、癩病ゆえに全身ただれ、ヤケになって暴政の限りを尽していた出雲の女王(イザナミ族の姉姫)を殺し、苦しんでいる人々を救けた。
 ヤマタノオロチとは、全身ただれて暴政する女王のことである。
 スサノオはそのまま出雲王になり、死んだ後は、六男が大国主(出雲王)になったのである。大国主であるスサノオニ世は、老いてから娘のスセリの夫である大穴牟遅に位をゆずり、大穴牟遅が大国主になって出雲を支配した。

天孫降臨はどこからどこへ

 いまの川内平野は、もともと邪馬台国の領土だった。しかし、ヒルメとスサノオのゴタゴタで投馬国に編入されてしまい、邪馬台国のほうは、いつか取り返したいと思っていたのである。国力が回復してから台与は高木神と相談し、アマハヒやアマワカなどを使いとして投馬国に派遣したが、いずれも大国主に降った。
 三度目にミカズチを派遣し、半分おどしで川内平野を取りもどし、ますます国力に自信がついた。それで、台与と高木神は、オシホに狗奴国を討伐するよう命じた。
『魏志』「倭人伝」によると、ヒルメの時代から、
 倭 女 王 卑 彌 呼 與 狗 奴 國 男 王 卑 彌 弓 呼 素
  不 和
 倭の女王の卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼はもとより和せず、であったから邪馬台国にとっての狗奴国は、まさに漢にとっての匈奴のようなものである。
 狗奴国はいまの宮崎県にあり、宮崎市の近くの地名から、"狗奴"(クッナッ)という字があてはめられたのである。腰抜けのオシホは、討伐軍を出すほどの勇気がなく、遠征は次の世代に持ち越された。本当に狗奴征伐に出たのは、オシホと台与の子のニニギであった。
 ニニギの大軍は阿久根から出発して、川内で集結してから、東郷、宮之城、鶴田、菱刈、栗野という順で霧島山を越え、一気に下に向かって攻めており、小林、都城の二か所を落とし、最後は宮崎まで落としたのである。結果的に、狗奴国はとうとう邪馬台国に攻め滅ぼされたのである。
 天孫降臨の場所は、『古事記』の記述によれば、
 "日向の高千穂のくじふる嶺に天降りまさしめき"
 "ここは韓国に向い"
とあるため、前述のコースの中には、必須条件としての、高千穂、韓国岳が揃っているから、ほかのところは考えられない。
 日本では、天孫降臨について、朝鮮半島からの渡来など、やたらスケールの大きいロマンにしたがるが、本当は、ただ南九州の中で山を越えただけであり、邪馬台国が狗奴国を攻め滅ぼした史実を神話にまとめたものである。

 これらは「草原から来た天皇」とはさほど矛盾しない!

 

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