http://www2.ttcn.ne.jp/kobuta/lineC.htm
http://www2.ttcn.ne.jp/kobuta/daihyou/kb065.htm
http://www.eonet.ne.jp/~temb/index.htm 弥生の興亡, 塚田敬章
http://www.eonet.ne.jp/~temb/1/wajinden_3.htm f、卑弥呼の死と箸墓について
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32609528.html
http://www.asahi-net.or.jp/~yw8a-kndu/html/neko_3_himiko_satugai.htm 卑弥呼は殺されたのか?
http://members3.jcom.home.ne.jp/wakokunosobo/hougen/toyochoko.html 臺與の朝貢年次は何時か
http://www.ten-f.com/yamataikoku.html
卑弥呼 狛氏
http://murata35.chicappa.jp/shuhenkaido/minamiyamashi/index.htm
【椿井大塚山古墳(つばいおおつかやま)
築造年代と規模
古墳時代前期前半の3世紀後半から4世紀初頭の築築造と考えられている。
全長185m,後円部径108m、高さ19m、前方部巾68mで、竪穴式石室。
前方部のバチ形が特徴。南山城最大の前方後円墳。築造年代、規模、形態から発見当時から桜井市にある箸墓古墳(卑弥呼の墓と言い伝えられる古墳)と比べられてきた。
発見
1953年(昭和28)に旧国鉄の保線工事中に大雨で墳丘の一部が崩れて石棺が露出し、古墳と分かり調査が行なわれた。その後、1971年と1992年(H4)にも行なわれた。
出土品
三角縁神獣鏡32面。内行花紋鏡等4面。鉄製刀剣銅鏃などの武器額。
工具・農具・魚具など約300点に及んでいる。特に、三角縁神獣鏡32面は発見当時大反響を呼んだ。
【祝園神社(ほうそのじんじゃ)】
祭神:天児屋根命【あめのこやね)
健御雷命(たけみかずち)
経津主命(ふつぬし)
創建:詳細は不明であるが、延喜式内社で、奈良時代にはすでに存在していたと考えられている。
祭礼:1月庚申の日から3日間行なわれる神事いごもり祭(京都府指定祝園の居籠祭)はよく知られている。
「日本書紀」によると、武埴安彦(たけはにやすひこ)が崇神天皇に背いてこの地で討たれ、反乱軍の屍が溢れたので、羽振苑(はふりえん)と呼ばれるようになったとあり、それが後に転訛して祝園(はふりえん)という地名になったという。
居籠祭は武埴安彦の霊を鎮めるために始まったと伝えている。
http://www.eonet.ne.jp/~yamashiro/yamashiro/ootukayama.html
椿井大塚山古墳のミステリー
1 椿井大塚山古墳の墳頂には、守る会の手で見学者のためのノートが置かれ、この古墳を訪れた人々の感想が書かれています。三年前のある朝、不登校の高校生がこの古墳を訪れ、景色を眺めるわけでもなく、墳頂でボーっとしていました。少年の心の中は窺うことは出来ませんが、彼は30分くらいすると元気を取り戻し、ノートに「いまから学校へ行きます」と記し、古墳を降りて行きました。
2 椿井大塚山古墳の前方部には「守る会」の人々が8家族住んでいます。
今から5年前、古墳の上に住む人々が一年間に5人も亡くなるという不幸が「守る会」の人々を襲いました。地元では卑弥呼の霊のなせる業かと騒がれました。恐ろしいことです。亡くなった方々の年齢は、102歳、97歳、95歳、93歳、そして一番若い方が85歳。。。。 合掌
大塚山古墳に住む人々は卑弥呼の霊に守られているようです。
3 三年前古墳の上で出会った婦人は、道に捨てられた椿井大塚山古墳のシンポジウムのチラシに霊気を感じ、古墳までやって来たが、私と出会う直前に天女が古墳の上空を舞っていたと言いました。私が、大塚山古墳について、三角縁神獣鏡や卑弥呼の話をすると、婦人は思い当たる節があったようです。
婦人は霊能力が強い人ですが、椿井大塚山古墳はもとより、歴史や考古には全く無関心な人で、枚方市からやってきたそうです。なんとも不思議な出会いでした。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yam_koma.html 『雑事記』『狛氏由緒書』
狛氏でもっとも著名な人物である山城守も系図にみえるが、その没年は、『雑事記』など、当時の記録に記された没年とは食い違っている。一方、江戸時代に成立したという『狛氏由緒書』によれば、織田信長時代の狛左京亮秀綱以前に関して「狛山城守 此節小城これ有り」と記されるばかりで、狛氏自体、江戸時代の中期には中世の記録や伝承を失っていた可能性が高い。
http://www.dai3gen.net/yamatoto.htm 倭迹迹日百襲姫(やまと・ととひ・ももそ・ひめ)
狗奴国王の正体が、武埴安彦命だという説は、ずっと前に、青木慶一さんが 発表されていると思います。
青木慶一著 『邪馬台の美姫』 毎日新聞社, 1972年
http://bloghistorygallary.blog10.fc2.com/blog-entry-1195.html 卑弥呼の父「孝霊」は「高麗天皇」
倭迹迹日百襲姫
http://j-myth.info/other_hashihaka01.html
墓碑から卑弥呼を確定する
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/HIMIKOK.html
井上先生の解読は、当初
「倭母母曾毘賣命墓、 戊申年 十月 廿日 薨、 御年 九十四歳」であり、
再解読後 干支は「戊辰(248년)」に、没年は「八十四歳(84세)」に変更されたが、
十二支については やや短かめの3本の横線と中央の縦線、その部分が 全体の文字の大きさに 占める割合等から、
「申」又は「辰」では なく「寅」とした。
戊寅の年は西暦258年に当たる。
(後に行った画像解析結果とも一致した。現在この碑は環濠である大池の改修記念碑になっている。)
*丙寅= 246년= 306년.
*戊申= 288년.- 93살= 195년 출생. 227년- 195년= 32살+ 1살= 33살.
*戊申= 288년.- 83살= 205년 출생. 227년- 205년= 22살+ 1살= 23살.
*戊辰= 248년= 308년.
*戊寅= 258년= 318년.
308년- 84살= 224년.
〔築山古墳〕
築山(つきやま)古墳の調査と解読は、全てが井上赳夫先生の予測どおりであったことにまず驚かされた。陵主はもとより、その没年までも見事に予測できる先生の素晴らしい分析力には、毎度のことながら恐れいる。
築山古墳の調査は、箸墓の墓碑を解読した直後に井上赳夫先生からの依頼で行なった。調査前の先生の予測では、陵主は崇神皇女「豊鉏入日賣命(とよすきいりひめのみこと)」、薨年は「魏志倭人伝」に卑弥呼が没したと記述されている西暦308年(戊辰年)であろうとのことであった。どうしてそのようなことまで分かるのだろうかとの疑問を抱きながら調査行に赴いた。
近鉄大和高田駅から普通電車で次の駅の築山駅に近づくと、車窓から築山古墳がよく見える。木々に覆われた古墳の形の良さは、何となく箸墓に似た感じがする。電車を降りて南へ数分で古墳の北側の公園にたどりつけた。陪墳を取り入れて造られたような起伏の多い公園は、近くの幼稚園児の遊び場になっていて、多数の園児が若い先生と楽しそうに遊戯をしていた。
もう習性になってしまったのか、公園に着いた途端にまず石はないかと周囲を見回す。すると公園の出入口の通路のそばに、やや緑がかった縦30cm、横60cm程の石を一個見つけた。この石は、伊勢の倭比賣の御陵に隣接するお宮の、鳥居の下にあった碑石と全くよく似た種類、形、古さであった。発見した石には全体に文字の跡が明らかであり、壱与かも知れない豊鉏入日賣命の墓碑である可能性を大いに抱かせてくれた。因みに倭比賣は垂仁天皇の皇女で、はじめて三種の神器を奈良笠縫から伊勢の地へもたらした斎王である。
墓碑の「丙寅年(西暦306年)七月九日薨、御年八十四歳」
は既に解読を完了していた。
最初発見した碑石を撮影した後、濠を巡らした古墳を一巡する間に、近隣民家の石垣等に多くの碑石を見つけることができた。撮影した写真を、早速井上赳夫先生に送り届けた。折返しの返事には予測どおりに、
「豊鉏入日賣命墓、戊辰年(西暦308年)七月 十四日 薨、御年六十四歳」が書かれていた。
*戊辰= 308년. 7월, 14일.
64살.
308년- 63살= 245년.
豊鉏入日賣命は壱与である可能性が強いのに、西暦248年薨では卑弥呼になってしまう。「魏志倭人伝」記述に該当する卑弥呼と呼ばれる女性は、やはり倭母母曾毘賣命と豊鉏入日賣命の二人だったのであろうか。
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http://www11.ocn.ne.jp/~jin/indext.html
9 応神天皇と建内宿禰
品陀和氣命(応神天皇)の陵は誉田御廟山古墳
墓碑銘「品陀和氣命棺、甲午年九月九日薨、御年七十五歳」
品陀和氣命の生存年:AD320~394年
建内宿禰命の陵は 孤井城山古墳(下田小学校校庭石棺に墓碑銘)
墓碑銘「建内宿禰命棺、辛未年 七月 四日 薨、御年 壱佰六歳」
建内宿禰命の生存年:AD311~415年 415년- 104살= 311년.
「桜井市」から「やまと市」へ
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/YAMSIHEN.htm
http://www.eonet.ne.jp/~temb/1/wajinden_3.htm
《年表》
正始元年(240)夏……梯儁渡来。卑弥呼が親魏倭王の制詔、印綬を受ける。
三年(242)………魏は高句麗王の位宮と戦う。
四年(243)12月……卑弥呼は伊聲耆等を魏へ派遣。木拊短弓を献じ軍事援助を要請。
五年(244)2月~5月……魏は蜀を攻撃。倭のことは対処できず。
六年(245)……魏は四年の倭の要請に応える。難升米に黄幢を授け、帯方郡にそれを付
託した。
魏は再び高句麗の位宮と戦う。幽州刺史、毋丘倹の命を受け、
玄菟太守、王頎は東沃沮まで位宮を追って日本海に達した。
七年(246)……魏は辰韓八国を楽浪郡に編入しようとしたことが原因で、馬韓と戦う。
馬韓(箕氏)を滅ぼしたが、帯方太守、弓遵が戦死(5月以前)。
主家を失った馬韓は統制のとれない群雄割拠の混乱状態に陥る。
八年(247)……王頎が帯方郡太守に転任。卑弥呼は狗奴国と戦い、帯方郡に急使を派遣
して軍事援助を要請した。それを受けて、塞曹掾史の張政等が倭に派
遣され、帯方郡が預かっていた難升米の黄幢が届けられた。
? (?)……狗奴国が滅びる。
《*塞曹掾史/塞は「ふさぐ」、「とりで」、「国境」というような意味。曹は三国志に功曹(=人事係)、東曹掾というような官名が見られ、管轄を表す文字のようです。したがって、塞曹とは辺境管理の役職になります。掾史は長官の属僚。地位はあまり高くありません。課長、係長クラスか?》
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