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誉津別皇子・誉屋別皇子・誉田別皇子
百年に満たない間に、似た名の皇子が三人いました。
誉津別皇子は垂仁の唖の皇子です。
誉屋別皇子は仲哀の皇子です。
誉田別皇子も仲哀と神功皇后の間の皇子です。
誉屋別皇子と誉田別皇子は同じ内容が仲哀天皇・神功皇后にもあります。
誉津別皇子
垂仁紀で”誉津別”とその名が言及されるのは大まかに言って3度です。
280年(垂仁2年)の条
狭穂姫を皇后とする。
皇后は誉津別命を生む。天皇は愛して常に身近におくが、壮年になるまで話さなかった。
283年(垂仁5年)の条
皇后が王子誉津別命を抱いて兄王の稲城に入る。
この年、皇后の兄(狭穂彦王)の謀反が発覚。
天皇は皇后に「これは汝が罪ではない」と言いましたが、軍を発して狭穂彦王を討つ。
狭穂彦王は稲城を作り防ぐ。
皇后は誉津別王子を連れて、兄王の稲城に入り、兄王の罪が許されるのを期待しますが、
許されないのを知り自害。
そのとき丹波道主王の娘5人を後宮に入れることを遺言します。
287年(垂仁23年)の条
一つの物語のなかで何度か名が出ます。
誉津別王は30歳になっても物を言うことがなかったが、
白鳥が飛んでいるのを見て初めて「あれは何だ」と言った。
天湯河板挙が白鳥を献じると、王子はこの白鳥をかわいがり物が言えるようになった。
皇后狭穂姫の遺言は10年後に実現しました。
286年(垂仁15年)2月 丹波の5人の姫を後宮に入れる
286年(垂仁15年)8月 日葉酢媛を皇后に立てる
この5人の中から一人を皇后とし、3人を妃とし、1人を帰しました。
帰された人は素性を疑われたのでしょう。
日葉酢媛は5人の子を産み、同じとき後宮に入った他の妃も4人の子を産んでいます。
立て続けに子供が9人もできたでしょうか?
たほう、唖の皇子(誉津別)は234年(垂仁23年)では30歳でしたから、226年(垂仁15年)のこの年は22歳です。
生みの親、皇后狭穂姫が自害した216年(垂仁5年)では12歳です。
”皇后が誉津別命を抱いて兄王の稲城に入る”イメージからはもう少し幼く感じますが、10歳そこそこでしょう。
魏志倭人伝によれば、ヒミコの同族の娘トヨが王になったのは13歳です。
私は、誉津別命と日葉酢媛のカップルのほうをとりたいと思います。
狭穂姫は夫の後妻の心配をしたのでしょうか。
残していく息子に刺客がつかないよう、息子の嫁の手配をしたのではないでしょうか。
日葉酢媛は垂仁王家の嫁ですが、実の夫は誉津別皇子だったのでしょう !
(私の感想)
皇后狭穂姫の遺言の真意は、垂仁が退位し息子に位を譲れとのことだったのです。
火を付ければすぐに燃え上がる”稲”城 ?
刈り入れが済んで米藁を乾燥のため積み上げた陰に
子供たちが隠れて遊んでいる情景が思い浮かびます。
皇后狭穂姫の自害 暗殺未遂の犯人を追求しなくでも、後宮の最高責任者が死ねば、
殉死しなければならなかったでしょう。
そのために、「これは汝が罪ではない」と言われながらも死ななければならなかったのです。
日葉酢媛の死去の時には、殉死を禁止していましたから、
後宮の女官の縁者たちは喜んで御陵建設に協力したことでしょう。
誉津別王
226年(垂仁15年)誉津別が王位を形式上継ぎ、日葉酢媛を正后とした。
241年(垂仁30年)第一子の五十瓊敷命に軍事権と祭祀権を委譲。
第二子の大足彦命は後継に決定。
243年(垂仁32年)皇后(日葉酢媛命)が死去。
反ヤマト勢力との妥協上の中継ぎ王家だったのです。
同じ意味で、景行天皇もヤマトにとっては本意ではなかった。
景行天皇は60年106歳で崩御となっています。
逆算すると即位は47歳です。
垂仁99年は46歳、垂仁53年の生まれでは生みの親、日葉酢媛は32年に既に死去しています。
垂仁朝が39年までとすると、46歳ではもっと前に生まれていたことになります。
誉津別が垂仁23年(234年)に30歳とすると、
垂仁39年(250年)には46歳になっています。
景行元年では47歳ですから、景行没年(60年)では106歳です。
これが景行崩御106歳の意味でしょう。
五十瓊敷王
245年(垂仁34年)山城の綺戸辺を後宮に入れる。
これより先、山城の苅幡戸辺を召された。
246年(垂仁35年)池や溝を多数造らす。
天下太平であった。
245年の妃の綺戸辺や苅幡戸辺の書き方は、天皇紀の記述の始めと同じ書き方です。
王権が実質上、五十瓊敷命に継がれたのでしょう。
246年の”天下太平であった”という言葉は、王の葬送の言葉です。
垂仁とすれば76歳です。
251年(太歳辛未)景行即位。
反ヤマト勢力との約束を守るために弟の大足彦命に位を譲ったのでしょう。
景行に譲られたのは名目上の王位と後宮の主としての立場でしょう。
五十瓊敷は軍事権や祭祀などの実質的な権力を保持したでしょう。
景行朝の軍事力行使は、五十瓊敷と日本武尊によってなされた !
日本武尊と仲哀天皇は五十瓊敷命の子だった。(景行天皇)
景行紀2年(252年)の条は皇后とその子に関するものです。
これは五十瓊敷王の正后とその子の記載と読むべきでしょう。
正后 播磨稲日大郎姫
子 大碓皇子、小碓皇子(日本武尊)
一書云 皇后生三男 其第三曰稚倭根子皇子
298年(垂仁87年)五十瓊敷命が年老いたので妹の大中姫に石上神宮の神宝を掌らせる。
この頃、五十瓊敷は70歳以上です。
没したのでしょうか。
誉屋別皇子
誉屋別の名が出てくるのは一カ所のみで、ほかには未だ見つかりません。
仲哀天皇紀二年の条に
大酒主の娘、弟媛を娶って誉屋別皇子を生む。
とあるのみです。
気長足姫(神功皇后)を皇后にする前に、ほかに大中媛との間にカゴ坂皇子、忍熊皇子がありました。
誉田別皇子
誉田別の名が出てくるのも大まかに言って三度です。
神功皇后紀で二度、応神天皇紀で一度です。
摂政3年の条
誉田別皇子を皇太子に立てる。
摂政47年の条 ”百済と新羅がともに朝貢した”記事のなかで
皇太后と太子誉田別尊がたいへん喜んで曰った 「先王所望国人 今来朝之 痛哉」
皇太后と誉田別尊が新羅の使者を責めて天神に祈って曰く。 (新羅再征の理由として)
(私の感想) 幼児のように、40歳以上の息子が母と同時に同じ事を言うのでしょうか!
応神天皇の名”誉田天皇”の由来に対する分注の中でさらに一に曰くとして
敦賀の笥飯大神と名を入れ替えた。
しからば元の名を・・・・。見るところなく詳らかでない。
神功皇后が生んだ子の名前は誉田別ですが、
応神の名は”誉田の天皇”で名前は別ではないかというのが私の元々の疑問でした。
誉田の天皇の幼名は誉田別尊と言うとでも書かれていれば、
私には疑義を差し挟む余地が有りませんでした。
ところが誉田天皇の幼名をなぜ誉田別皇子というのかわからないと、分注のさらに”一曰”ですから、
これは疑って読みなさいと指示されているように思われます。
誉田天皇と誉田別皇子は別人でしょう!
『三国史記』には312年に倭国の王子と婚姻させるため、急利の娘を送ったとあります。(新羅)
仲哀の皇子のなかのだれが婚姻相手の皇子でしょうか?
カゴ坂皇子と忍熊皇子は神功皇太后がヤマトに帰還の際にトラブルを起こしていますから該当しません。
残りの皇子は誉屋別皇子ただ一人です。
とすると神功皇后の実の夫は誉屋別皇子であり、その子が誉田別皇子となります。
ヤマトでは、226年(垂仁15年)に日葉酢媛を皇后に立てた経験から、
幼少の内に姫を引き取り、十年ほど王家で育ててから妃にするようになっています。
誉屋別皇子も”神功皇后”も十年ほど経ってやっと成人し子供ができたのではないでしょうか ?
またこの誉屋別皇子の母方はそれほど高貴の出ではないようです。
誉田別皇子が大王になるには障害が有った可能性もあります。
しかし、神功皇后の摂政69年(389年)は長寿過ぎるので、
この年に没したのは誉田別王(69歳)と考えるのが妥当でしょう。
(私の感想)
神功皇后の摂政は『魏志倭人伝』のヒミコの記載に合わせるための、
『日本書紀』の筆者による虚構だと私は思います。
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