倭(왜)

펌: 崇神天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇の誕生年。

라디오에요 2011. 3. 3. 07:09

 

崇神天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇の誕生年。(ID: ヒストリアン)

 

第10代・崇神天皇
(在位:247年~258年1月9日=12年)
 31歳で崩御した、没年のAD258年.

 

第12代・垂仁天皇〔ヤマトタケル〕
(在位:276年~300年12月24日=25年)〔享年・歳〕 


第12代・景行天皇〔ヤマトタケル〕
(在位:301年~310年12月24日=10年)〔享年・72歳〕 
 72歳で崩御したので、没年のAD355年から年遡ると、年の生まれ。

第13代・成務天皇
(在位:311年~315年7月30日=5年)

〔43歳で即位。景行が亡くなった時は42歳。享年・53歳〕


 53歳で崩御したので、没年のAD316年から53年遡ると、263年の生まれ。
この時代は、垂仁天皇の治世(在位:276年~300年=25年)である。
 
第14代・仲哀天皇
(在位:316年~331年 9月=16年)〔享年・26歳〕〔景行天皇が63歳の時に生まれた皇子か〕

 歳で崩御(成務天皇の子・忍熊王と九州南部で戦い負傷。傷の悪化が原因で死亡)したので、
没年のAD331年から26年遡ると、296年の生まれ。
 この時代は、景行天皇の治世(在位:301年~311年12月24日=29年)の後期である。
                 

第15代天皇=応神天皇(おうじん天皇)
(在位:334年1月1日~373年2月15日=40年)
                 
 80歳で崩御したと伝えられるので、没年のAD373年から 79年遡ると、315年の生まれとなる。


これは、父帝の仲哀天皇の没年の翌年である。
 しかし、母の神功皇后が仲哀天皇と結婚したのは12歳の時であり、仲哀天皇が亡くなった時、
神功皇后は15歳である。
 もし、皇后が誉田別皇子(応神天皇)を生んだ年が、仲哀天皇崩御の翌年だとすると、計算がおかしくなる上に、
皇后は12歳から15歳までの3年間、仲哀天皇との間に子を作らなかったことになり、不自然な話となる。
 古代豪族が、自分たちの娘を天皇に嫁がせる目的は、娘に天皇の子を生ませることで、自分たちの一族が、
天皇家の外戚となり、朝廷内での高い地位を確保することである。
 豪族たちは、自分の娘が早く天皇の子を生むことを強く願う。したがって結婚から3年間、
神功皇后が子を生まなかったという話は不自然であり、不合理である。


 崩御時の応神天皇の年齢は、実際の伝承よりも1歳~2歳くらい上であったと考える。
 つまり、応神天皇が生まれた年は、321年か322年頃であろう。父帝の仲哀天皇が亡くなる前に、
誉田別皇子は生まれていたのである。
 応神天皇は、AD315年頃に生まれたと考えるほうが合理的である。
 仲哀天皇の崩御後に誉田別皇子が生まれたという話は、古代東アジア各地で語り伝えられていた『聖母神王説話』の影響を受けて
後世に創作された話であろう。神功皇后を神格化(聖母化)するために創作された歴史なのである。

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