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伊理王統 その① その② その③ (PDF파일)

라디오에요 2011. 3. 4. 09:36

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伊理王統 その①

 

崇神帝から数代「入」が付く御子が相次ぐ。この「入」は「伊理王」という意味と思う。「伊理」は垂仁(伊久米伊理毘古)で使われているだけで、それ以外は「入」であるが、イリ王、即ちイリ彦。イリ彦=伊理王と言う意味と思う。伊理彦=伊理王は、伊理王朝を意味するのであろうか。
イリ王統があったとし、伊理王統とは、伊理日子(イリヒコ)を称する者が世襲する王統なのであろう。一説によると伊理とは、「海を治める」という意味らしい。ヒコは、王を指すから。海を治める大王となる。海は、天と同一とすると、イリヒコとは、天皇の旧称である「天の下治らしめしき大王」を指すのかもしれない。
イリが付く人物を皇統系譜で探すと崇神帝以前にイリが付く者がいない。これを見る限り崇神帝が初代なのであろう。以後、男子で四世にわたり、イリヒコが続く。
伊理王統は、伊理王統の血筋を引く、イリヒメが応神帝に嫁ぐことで入が終わる形態となっている。

イリヒコが世襲王統なのかどうかを見ていくことにする。

まず、記紀で歴代帝の状況を見ていく

この「入」が付く御子を列記する。

崇神天皇 一世代
記 御眞木入日子印恵命 紀 御間城入彦五十瓊殖命 ミマキイリヒコイニエ

崇神天皇の御子 二世代
記 豊木入日子命 紀 豊城入彦命 トヨキイリヒコ
記 伊久米伊理毘古伊佐知命 紀 活目入彦五十狭茅命 イクメイリヒコイサチ
記 大入杵命 オホイリキ
記 八坂(八尺)之入日子命 紀 八坂入彦命 ヤサカノイリヒコ

皇妃で分類すると
御間城姫の御子は、イリが付くのは、活目入彦五十狭茅尊のみ
大海媛の御子は、全員にイリが付く
遠津年魚眼眼妙媛の御子は、全員にイリが付く

垂仁天皇の御子 三世代
記 印色入日子命 紀 五十瓊敷入彦命 イニシキイリヒコ
記 若木入日子命 紀 稚城瓊入彦命 ワカキニイリヒコ

皇妃で分類すると
イリが付くのは、日葉酢媛の御子のみ

景行天皇の御子 四世代
記 五百木之入日子命 紀 五百城入彦命 イホキノイリヒコ
記 若木之入日子命 ワカキイリヒコ
紀 五十狭城入彦命 イサキイリヒコ
紀 稲背入彦命 イナセイリヒコ

皇妃とすると
イリが付くのは、八坂入姫の御子のみ

全体を見るとイリが付くのは、三代まで
男子に限定すると限られた者のみにイリが付く。

御間城姫の御子は、1人だけで、他の妃の御子に全員にイリが付いている状況を見る限り、イリは、崇神帝(御間城入彦五十瓊殖尊)から派生していると推測される。
但し、崇神帝については、各后妃の1人の男子だけにイリが付いている可能性もある。なお、大海姫の御子である大入杵命については、イリが付いている。しかし、イリヒコでは無い為、外す。垂仁帝、景行帝の二帝ならば、皇后腹の御子のみにイリヒコが付く。イリヒコを称する皇子が皇位継承権の候補者ではないか

イリヒコが付く名称とすると○○入彦というのが正しい名乗りだと思われる。

崇神帝→五十瓊殖入彦尊
垂仁帝→五十狭茅入彦尊

皇位継承者にイリヒコが付くかを探る為、歴代帝のイリヒコが付く皇子を見ていくと

崇神帝の皇子
++++++┌豊城入彦
五十瓊殖入彦┼五十狭茅入彦
++++++└八坂入彦

垂仁帝の皇子
++++++┌五十敷入彦
五十狭茅入彦┤
++++++└稚城瓊入彦

稚城瓊入彦は、記では若木入彦であり、景行帝の五十狭城入彦は、記では若木入彦とされる。このあたり意味があるのか、系譜の混乱か誤記かわからない。

景行帝の皇子
+++┌五百城入彦
大足彦┤
+++└五十狭城入彦

景行帝には、稲背入彦がいるが、稲背別という別称の存在や生母の問題等で外す。

各歴代帝の2人~3人のみにイリヒコが付いている。記紀の記述で皇位継承候補者を見ると、崇神紀よると豊城入彦と五十狭茅入彦の2人。垂仁紀では、五十敷入彦と大足彦の2人。景行記では、倭建と五百木入日子と若帯日子の3人。とりあえず、各世代に2人~3人の候補がいたという事実だけは、確認できる。

崇神帝が初代とすると、それ以前との繋がりはどうなのか。
崇神帝の后妃は3人。御間城姫は、皇族で伯父の娘。皇族大海媛は、尾張氏。遠津年魚眼眼妙媛の紀氏。

御間城姫は、大彦命の娘

記の系譜では開化帝の御子に、御眞津姫がいる。

御間城姫は、記では、御眞津姫という
この御眞津姫と御間城姫が同人だとすると
御間城姫は、開化帝の娘ではないか

神武帝=崇神帝とすると神武東征伝承のコースを辿った場合、河内で敗北した後、木の国を征服し、紀ノ川を遡り、葛木地方に入る。木の国で紀氏の娘を娶り、葛木で尾張氏の娘を娶った図式が成立する。

開化帝が被征服王朝の大王とすると開化帝の娘を征服者である崇神帝が娶るというのは理屈にかなう。これだと崇神帝が神武帝となるが、如何に?

 

伊理王統 その②

 

次に、この「入」が付く御子のうち、「木」が付く人物を抜き出す

一世代 御眞木 ミマキ
二世代 豊木 トヨキ
三世代 若木 イマキ
四世代 五百木 イオキ
四世代 若木 ワカキ
四世代 五十狭城 イサキ

「木」が付く御子は一世代から三世代までは各世代に1人。
ただし、四世代は三人もいる。若木と五十狭城が同人とすると2人。

さらに崇神帝から景行帝の皇子である五十狭城まで「五十」が付く人物が各世代に1人存在する。「五十」は「斎」を意味し、祭祀を司るという意味らしい。

「五十」が付く人物を列記する。
五十瓊殖 イニエ
五十狭茅 イサチ
五十瓊敷 イニシキ
五十狭城 イサキ

これを基に和風謚名を「○木・伊理王・五十○(名前)」で再構成する。

初代
御 眞木 伊理 日子 五十瓊殖
ミ マキ イリ ヒコ イニエ

二代
豊木  伊理 日子 五十狭茅 
トヨキ イリ ヒコ イサチ

三代
若木  伊理 日子 五十瓊敷 
ワカキ イリ ヒコ イニシキ

四代
五百木 伊理 日子 五十狭城
イオキ イリ ヒコ イサキ

伊理王朝を直系系譜とすると下記のような感じか

+++++++┌豊木入日子──若木入日子──五百木入日子
御眞木入日子─┤+五十狭茅+++五十瓊敷+++五十狭城
++五十瓊殖+└八坂入日子──八坂入姫

記紀を見る限り、トヨキはミマキの御子であるが、イニシキはトヨキの弟の子。イオキはイニシキの弟の子。この部分は共通している。甥が次代を継ぐ形態となっている。これを元に修正を加える。即ち、トヨキの跡は、甥のイニシキが継ぐ。イニシキの跡は、甥のイオキが継ぐという流れである。

伊理王家 木家
一世++二世++三世++四世
ミマキ┬トヨキ
+++└○○○┬ワカキ
+++++++└○○○┬イオキ
+++++++++++└○

これからすると、もしかすると、崇神帝は、御間城入彦と五十瓊殖入彦の2人に分裂する兄弟体制か。豊城入彦等は、五十瓊殖入彦の子か。
「イリ」は「入」が使用され、「伊理」は垂仁(伊久米伊理毘古)で使われているだけ。これはやはり意味があるのではないか。基本的に「入彦」を使用することにする。

初代 御眞木入彦五十瓊殖

「御眞木」については、始祖王として「御」を美称として冠していると考えてみたい。この「眞木」は宮号となる。即ち、「眞木島」のことであろうか。
神武帝の上陸した木の国を山城国紀伊郡とし、この人物が、崇神帝と神武帝が同人で、初代は木の国に宮都を定めたとなる。
しかし、イリ王家の初代王は、木の国の山中から大和盆地に侵入した人物のはず。宮都は瑞垣はず。とすると「瑞垣伊理日子」ということになる。御眞木日子とは、饒速日命の初代ではないか。とすると2人の人物を1人に習合していることになる。

御眞木日子(ミマキヒコ)と五十瓊殖入彦(イニエイリヒコ)

この2人の人物に分割する。

二代 伊久米入彦五十狭茅

伊久米は、活目で、生駒のことを指すと思われるが、「木」が付かない。
伊久米日子は、饒速日命の二代目。木が付かない伊久米ではなく、豊木の方が伊理王朝の二代目に相応しいことになる。イリ王家の2代目の宮都は、珠城。とすると珠城伊理日子(タマキイリヒコ)が豊木入彦。伊久米日子は饒速日命の二代目で、五十狭茅入彦が豊木の弟。

伊久米日子と豊木入彦と五十狭茅入彦

三代目 若木入彦五十瓊敷

饒速日命の三代目は、綏靖に繋がる。よって、若木入彦と五十瓊敷入彦

四代目は

五百木 伊理 日子 五十狭城
イオキ イリ ヒコ イサキ

饒速日王朝

御眞木日子─活目日子─・・・

イリ王家或いは磯城王家

++++++┌豊城入彦
++++++│トヨキ
++++++├五十狭茅入彦┬稚城瓊入彦
++++++│イサチ+++│ワカキニ
五十瓊殖入彦┤++++++└五十瓊敷入彦┌五百城入彦
イニエ+++│+++++++イニシキ++│イオキ
++++++│++++++++×────┤
++++++└八坂入彦───八坂入姫++└五十狭城入彦
+++++++ヤサカ+++++++++++イサキ

三世代目は、「城」の字が付くワカキの方を祭祀とし、イニシキは統治としたが、入れ替わっても問題はないと思われ、四世代の場合は、イサキもイオキの2人とも「城」が付く。
しかし、「五十」の連続性は考慮すべきであろう。

祭祀は ミマキ→トヨキ→ワカキ→イオキ
統治は イニエ→イサチ→イニシキ→イサキ

という流れか

イリ王家 葛木家

ミマキ
+×+──ヤサカ─ヒメ
尾張氏++++++×+─イオキ
+++++++++○+++×+─ホムダマワカ
++++++++++++尾張氏

イオキの姉妹
タカキイリヒメ+兄姫
イオキイリヒメ+仲姫
オトヒメ++++弟姫

この三人が応神帝の后妃か
------------------------------

伊理王統 その③

 

大吉備津彦は五十狭芹

孝安帝─大吉備諸進命─大吉備津彦─崇神帝
+++++++++++孝元帝

さらに五十狭芹を加えると

五十狭芹 イサセリ
五十瓊殖 イニエ
五十狭茅 イサチ
五十瓊敷 イニシキ
五十狭城 イサキ

このように狭と瓊が交互になる。これは何か意味があるのか

伊理王家は吉備から来たのだろうか、五十瓊殖入彦に父が彦五十狭芹で、神武帝が崇神帝で、五十瓊殖入彦とすると、その兄とは五瀬命か

+++++++++++++┌豊城入彦
+++++++++++++│トヨキ
++++++┌彦五瀬+++├五十狭茅入彦┬稚城瓊入彦
++++++│イツセ+++│イサチ+++│ワカキニ
┌彦五十狭芹┴五十瓊殖入彦┤++++++└五十瓊敷入彦
│イサセリ++イニエ+++│+++++++イニシキ
│++++++++++++│++++++++×────┐
│++++++++++++└八坂入彦───八坂入姫++│
└稚武彦++─吉備津彦++++++++++++++++│
+++++++++++++++++++++++┌───┘
+++++++++++++++++++++++├五百城入彦
+++++++++++++++++++++++│イオキ
+++++++++++++++++++++++└五十狭城入彦
++++++++++++++++++++++++イサキ

神武東征の出発地とは日向ではなく吉備か

彦火瓊瓊杵尊┬彦火明命─孝元帝+ ─┬開化帝
孝安帝+++│孝霊帝++++++++└日子坐王
++++++└火遠命+─鵜葺草不合命┬五瀬命
+++++++吉備諸進+五十狭芹++│
+++++++彦火々出見命+++++└若御毛沼命
+++++++++++++++++++五十瓊殖入彦
+++++++++++++++++++彦火々出見命


 

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