左義長に行ってきました。
というわけで、初詣と左義長に行ってきました。
といっても初詣はいつもの通り、犬山成田山から針綱神社に抜けて大縣神社、田縣神社で終了。と思いきや、がんばって内々神社までいってみましたが、授与所は既にしまっていました。ううむ、これで内々神社は三回外れ……。それにしても、大縣神社って官弊小社だったんですねぇ。尾張二宮がそこまで由緒ある神社とは知らず、かなり吃驚です。
というわけで、翌日は左義長の日、一月十四日。この日なら宮司さんも在住してらっしゃるだろうと思って、行ってきました左義長。
左義長、つまりはどんど焼きですが、正月飾りや去年のお守りなどを燃すのを主な行事としています。その火で餅を焼いて食べれば一年間、無病息災であるとされます。私も餅は準備したのですが、生憎、竹串が用意できず、餅焼きは断念。その代わり、神社で用意された善哉を頂いてきました。
さて、件の内々神社、地図上では「内津妙見寺」となっていますが、明治までは神仏習合で妙見寺であったそうです。神仏分離令で妙見寺は隣接する土地に分離されました。さて、内々神社は式内社です。由緒は古く、日本武尊の東征に関係しています。以下、内々神社の栞より抜粋。
<縁起>
内々神社は『延喜式神名帳』(927)にその名が見える古い神社です(式内社という)。祭神は建稲種命、日本武尊、宮簀姫命で、創建については日本武尊の東征と深い関係を持ち、『妙見宮由緒』(吉見幸和・1702)によると、景行天皇41年尾張連祖、建稲種命を祀ったのにはじまります。建稲種命は熱田神宮にも祀られていますが、内々神社より8、9年遅い創建となっています。尾張連清稲の撰述した『熱田縁起』によれば、日本武尊が東征の帰路、尾張に入り篠城に到着して内津の坂を下るころ副将軍であった建稲種命の家来である久米八腹が、建稲種命が駿河の海に落ち水死された、と早馬をもって報告しました。日本武尊はこれを聞き非泣して「現哉現哉(うつつかなうつつかな)」といわれ、その霊を祀られたのが内々神社で、神社のあるまちを内津というようになったといいます。
内々神社は中世までは、この地域一帯の篠木荘33ヶ村の総鎮守で、祭りには村ごとに毎年湯立神楽が奉納されていたらしく、村銘のある釜が現在も数個残っています。また、尾張・美濃両国の農民たちは、雨乞いの際には当社に祈願をかけており、この地域住民の精神生活の中心でした。
昔から武将の崇敬も厚く、慶長2(1597)年には、豊臣秀吉が朝鮮出兵の折、戦勝を祈願して社頭の大杉七本を伐採して帆柱とし、凱旋後お礼に社殿を造営したといいます。
社殿は県指定の重要文化財で、鴨居の彫り物などが見事です。
で、この日は時間もあったので奥の院まで行ってきました。奥の院は少し離れた場所にあって、駐車スペースも数台分しかありません。石碑には「旧妙見奥之院巖屋神社」「巖屋神社、旧妙見神社」とあります。昔はこちらで講が営まれていたようですが、現在の社屋は移築されて今の位置に移ったそうです。
ちょっと市街から離れた場所にありますが、旧社格は県社。由緒ある神社です。御朱印も頂いて満足。
というわけで、御朱印リスト更新です。
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