倭(왜)

**大矢口宿禰 = 五十瓊敷入彦 <中原氏 系図> 内色許男命 出雲色大臣 押小路家譜

라디오에요 2012. 8. 26. 10:02

 

 

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02113.htm 

《有道氏》

 

http://www.dai3gen.net/utusiko.htm

古事記には 内色許売命(穂積の祖、内色許男命の妹)、

 

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02113.htm 

   

                     ┌味饒田命──神日子命──麻佐良命─ 久尼牟古命
              │                        │
              │ ┌──────────────────────┘
              │ │
              │ └大由乃支命─┬大阿刀足尼
(熊野氏〔熊野国造〕へ)
              │        │
              │        └小阿刀足尼──伊己美命……宇気麻呂
【阿刀氏】【中橋氏】
              │         ┌大禰命            

                        │     │           ┌大木食命[三河国造]
              │     │          │                    
              │     ├出雲醜大臣命─┼六見宿禰
【小治田氏】
              │       │        │                   
┌長髄彦          │     │        └三見宿禰
【漆部氏】
│             │     │                                
御炊屋姫         │     │                      ┌大水口宿禰(穂積氏へ)
    ║          │     │                       │古事記には 内色許売命(穂積の祖)
    ╟──┬宇麻志麻治命─┴彦湯支命出石心大臣命 内色許        ├建胆心大禰
    ║  │                                      │
  饒速日命 │                                                        ├多弁宿禰
【宇治部氏】【交野氏】
      │           │                          │
      │           │ ┌鬱色雄命                                ├安毛建美
【六人部氏】
      │           │ │                          │
      │           └─┼大綜杵───┬伊香色雄命                │
【物部】大新河(物部氏へ)
      │         │      │                  │
      │         ├大峰大尼命 └
伊香色謎命-- 内色許雄命  ├【物部】十市根(物部氏へ)
      │         │                           │
      │         └
鬱色謎命──武建大尼命─────────┼建新川【倭志紀氏】
      │                                        │
      │                                         ├大咩布──────────────┐
      │                                    │                 │
      └
穂屋姫                                      ├気津別              │
          ║                                 │                 │
         ╟──天村雲命──天忍人命…………
(尾張氏)         └武牟口命──意布美
(伊福部氏へ) │
         ║                                                   │
天火明命──天香語山命   

 

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/monobekz/monobek-outou.htm

 そのなかでも、議論の最も核となる人物が「大矢口宿祢」となります。

神武天皇から崇神天皇にいたる中間四代の うちで、三代も続けて物部氏が近江の三上祝の娘と婚姻を重ねます。

これが記されるのが『諸系譜』第28冊所載の「三上祝家系」であり、

中田憲信編の『諸系譜』のなかで、

 

この系譜記事が同書で数少ない鈴木真年翁の自筆でなされているという特徴があります。

 

その当該部分を文章にしますと(少し分かりにくいかもしれませんが、一応記してみますと)、

神武天皇の孫世代にあたる三上祝家の

①川枯彦・川枯姫、

次の世代の②坂戸彦・坂戸由良都姫、

その次の世代の③国忍富・新河小楯姫という三代が引き続いて、

 

物部氏の「①大祢-②出石心-③内色許男」の三代に各々世代対応し、

いずれも三上祝家の姫が 物部(穂積)氏の男に 嫁いで、

物部氏の次世代の長を生んでいます。

 

1,川枯姫が 大祢命に 嫁して 出石心・大矢口根を 生み、

2,新河小楯姫が 出石心に 嫁して 内色許男・内色許売を 生み、

3,坂戸由良都姫が 内色許男に 嫁して 大水口宿祢を 生んだと記されます。

 

http://www.geocities.jp/okugesan_com/hokana.htm

三上祝家系

中原氏 系図

www.nui.or.jp/news_letter/18/pdf/68_7.pdf

昔の面影を残した商店が多く存在している。

中でも八坂神社の祭礼は一見の価値あり 。

本街道とも呼ばれた街道。

稲置犬山の旧名。

矢田川の氾濫で多くの資料が なくなったが丶往時をしのぷものは、志賀、味鏡周辺に残されている。

 

http://www.geocities.jp/okugesan_com/hokana.htm

中原氏系図
尊卑分脈等では、勝良からの系図しか 記されて いないので、

それ以前の系譜は、押小路家譜をそのまま引用した。(物部氏系図の一説として掲載する)

 

饒速日命 ━ 可美真手命 ┳ 味饒田命(阿刀連・熊野連祖)
  ┗ 彦湯支命 ━ 大禰命 ┳ 出雲醜大臣命 ┳ 大木食命(三河国造)
  ┃   ┣ 六見命(小治田連・勇山連祖)
  ┃   ┃
  ┃   ┗ 三見命(漆部連祖)
  ┣ 出石心大臣命
  ┗ 大矢口根大目命
┳ 内色許男命 ┳ 大水口宿禰命 ┳ 建忍山宿禰命 ┳ 大木別垂根命
  ┃   ┃   ┃   ┣ 大橘比売命
  ┃   ┃   ┃   ┗ 弟大橘比売
  ┃   ┃   ┗ 矢田稲置命
  ┃   ┗ 大水口比売命
 

 

内色許売姫

 

                          大木別垂根命

                          大橘比売命 

                       弟大橘比売

 

 

  ┣ 大綜麻杵命 ┳ 伊香色譴命
  ┃   ┗ 伊香色 ┳ 建膽心大禰命
  ┃   ┣ 多弁宿禰命
  ┃   ┣ 安毛建美命
  ┃   ┣ 大新川命 ⇒A
  ┃   ┣ 十市根命 ⇒B
  ┃   ┣ 建新川命
  ┃   ┣ 大売布命 ━ 豊日連公 ┳ 樫石足尼
  ┃   ┃   ┗ 船瀬足尼 ⇒2
  ┃   ┗ 気津別命
  ┗

大峯大尼命(大峯大尼女命)

 

A⇒

 

┳ 武諸隈命 ┳ 多遅麻連公 ┳ 香室媛連公
┃   ┃   ┣ 小○媛連公
  ┃   ┃   ┣ 印葉連公
  ┃   ┃   ┣ 阿佐利連公
  ┃   ┃   ┣ 小神連公
  ┃   ┃   ┣ 大別連公
  ┃   ┃   ┗ 香兒媛連公
  ┃   ┗ 時媛連公
  ┣ 大小市命 ━ 小致命
  ┣ 大小木命
  ┗

大母隈命

 

2⇒

布自古

━ 香留 ━ 夫奈古 ━ 丹夫古 ┳ 忍男
  ┗ 磐古 ━ 多米 ━ 佐久古 ━ 老古 ━ 馬手

 

 

http://www.geocities.jp/tajima73/mononobeshi.html

【物部氏系図】

【出自】神別  【本貫】大和國・河内國
【世系】物部氏は天孫饒速日命の御子味眞治命に出づ。人皇初代神武天皇に仕ひ、軍事を掌るといふ。
【家紋】此氏族の派生は家紋の発祥より古きにより代表紋は無し。

 ニギハヤヒノミコト
(1)饒速日命(  -  )
   |此大倭石上社奉齋大神也
   |
   |ウマシマジノミコト
(2)味眞治命(ウマシマジノミコト)= 宇摩志麻治命

 
· [ · し · し]
1. [형용사シク활용] 『문어』 좋다. 훌륭하다. 굉장하다.
2. [형용사ク활용] 『문어』 《「」의 문어》 맛있다.

   |
   +――――――――――――+
   |                   |
(3)饒田命(ウマシニギタノミコト)  彦湯岐命(ヒコユギノミコト)
                |
                |
                |
(4)             意冨祢命(オホネノミコト)
                |
   +――――――――――――+―――――――――――+
   |イヅモシコヲノオミノミコト     |イヅシココロノオミノミコト    |オホヤクチネノオミノミコト
(5)出雲色男大使主命(  -  ) 出石心大使主命(  -  ) 大矢口根大使主命(  -  )
                |
   +――――――――――――+―――――――――――+―――――――――――+
   |ウツシコヲノミコト        |ウツシコメノミコト       |オホヘソオキノミコト      |オホヲネノミコト
(6)内色許男命(  -  )   内色許女命(  -  )  大閇蘇杵命(  -  )  大峯大尼女命(  -  )
  
                        |
                +―――――――――――+
                |イカガシコヲノミコト      |イカガシコメノミコト
(7)             伊香我色命(  -  ) 伊香我色賣命(  -  )
                
   +――――――――――――+―――――――――――+―――――――――――+――――――――――+――――――――――+――――――――――+―――――――――――+
   |タケイココロノミコト       |タヘノスクネノミコト      |アモノタケミノミコト      |オホニヒカハノミコト     |トチネノミコト       |タケニヒカハノミコト      |物部大賣布連 オホメフノミコト |オキツワキノミコト
(8)建膽心大祢命(  -  )  多辨宿祢命(  -  )  安毛建美命(  -  )  大新河命(  -  )  十千根命(  -  )  建新河命(  -  )  意冨賣布命(  -  )  氣都和希命(  -  )
                                        
此越智氏遠祖也   |                      此摂津川邉郡賣布社奉齋神也
   +――――――――――――+―――――――――――+―――――――――――+――――――――――+
   |物部活日連 イクヒスクネノミコト  |トチネノムラジ       |           |カナユミノムラジ      |イキミノムラジ
(9)伊久比足尼命(  -  )  止志奈連(  -  )   片堅石連(  -  )   金弓連(  -  )   印岐美連(  -  )
   |
   +――――――――――――+―――――――――――+―――――――――――+――――――――――+――――――――――+
   |物部伊居太宿祢 イコトスクネ  |物部伊居太彦 イコトヒコノミコト|物部伊居太媛 イコトヒメノミコト|物部筑紫連 ツクシノムラジ |物部武子連 タケコノムラジ |物部椋垣連 クラカキノムラジ

 

和珥 姥津媛
和珥宮主 宅媛
和珥 野媛

 

春日建国勝戸売の娘が 沙本大闇見戸売

大木食命と和珥意祁都毘売命との間の 子が 日子坐王で、

 

日子坐と沙本之大闇見戸売との間に4人の子が います。

 
天之御影神が 息長水依比売の親で 息長水依比売と日子坐王の間に ミチノウシら 5人の子どもが います。

 

*美知能宇志(ミチノウシ)の王=道大人

 

http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi79.htm

邪馬台国で使用されていたとされる官位

大率=?(各地に派遣される王)→オオド?もしくは大伴の姓につながる?

卑狗=ヒコ(大率の下の官位)→よくある「彦」?

爾支=ネギ(大率の下の官位)宿禰につながる?「支」の字が 鉄剣のワカタケルの字にでてきますが「支」=「ケ」は妥当なんでしょうか。

多模=タマ(大率の下の官位)→そういえば魂とか玉のつく人物名ありますね。

弥弥=ミミ(大率の下の官位)→末尾にミミのつく人物名ありますね。

弥馬升=ミマト(次官)→倭王「師升」はスイショウなのに升=「ト」の読みでいいのでしょうか。地名にすれば「ミマナ」とか読みが近いかもですね。

弥馬獲升=ミマワケ(次官)→なんとかの「別(ワケ)」につながるのでしょうか。それとも「ミマカナ」、「ニンナカヤ」に近い読みの気もします。

奴佳?=ヌカデ(次官)→「奴」は「ナ」の当て字じゃないのかな?。地名にすれば「ナガト」とか・

・(妄想。

 

 

http://achikochitazusaete.web.fc2.com/sikinaisha/kouka/kougan.html

水口神社 甲賀市 水口町 宮ノ前
祭 神  大水口宿弥命 大己貴命
神 紋  五七の桐
境内社  武唯神社 玉津米神社 日枝神社 稲荷神社 水口恵比須神社
由 緒
  社伝によれば 祭神の 大水口宿弥命は 饒速日命 六世 出石心大臣の子で 出石心大臣命の母は 淡海川枯である。
  淡海川枯姫川枯首 阿自加伎袁命 四世の孫 阿自夷沙比止命の後であって 川枯神社に祀る。

 大水口宿命 母方の縁により

この地に居住したものと思われる。

 

*阿自夷沙比止命= 阿目夷沙比止命= 天夷沙比止命= 건제우명.

 

 

http://mononobe.digiweb.jp/jinbutu/mononobejinbutu3agyou.html

出石心大臣命 (いづしごころおおみのみこと)

天孫本紀に、宇摩志麻治命(可美真手命)の三世孫で、彦湯支命の子とされる。
孝昭朝に大臣となり石上大神を奉斎し、新河小楯姫を妻として二児(大水口宿禰・大矢口宿禰)を生した。
天皇本紀も宇摩志麻治命の後裔で、孝昭元年七月に大臣に任じられたと記す。(旧)

 

 

*饒速日命 --- 宇摩志麻治命(可美真手命) --- 彦湯支命 --- 大禰命

                                                                                弟: 出雲醜大臣命

                                                                                弟: 出石心大臣命

                                                                                弟: 大矢口根大目命

 

*新河小楯姫= 伊香色謎命= 坂戸由良都姫

 

欝色雄命 (うつしこおのみこと)

孝元天皇の皇后・ 欝色謎命の兄。
開化天皇 即位前紀に、穂積臣(수적신)の遠祖で、

欝色謎命は その妹であることが みえる。(『紀』)

『記』孝元巻には、内色許男とある。内色許売の兄であるとともに、(『紀』『旧』では、伊香色謎は 大綜麻杵の娘)。

『旧』天孫本紀では、宇摩志麻治命の五世孫で、父を大矢口宿禰、母を坂戸由良都姫とする。
孝元天皇の時代、大臣になり、大神を斎き祀った。

 

活馬の長沙彦の妹・ 芹田真稚姫を 娶って、武建大尼(たけたつおおね)を生んだという。

 

大矢口宿禰命武建大尼命


欝色謎命 (うつしこめのみこと)

大綜杵命の妹, 欝色雄の妹
孝元 七年 二月、皇后となって、大彦命(孝元)、稚日本根子彦大日日天皇(開化)、倭迹迹姫命の三人を生んだという。(X)
開化 元年 一月、皇太后になった。(『紀』)

『記』孝元段では、内色許売とあり、所生の子を 大毘古命、少名日子建猪心命、若倭根子日子大毘毘命(開化)とする。

『旧』天孫本紀に、宇摩志麻治命五世孫で、父を大矢口宿禰、(母を坂戸由良都姫とし)、開化天皇の時代に皇太后、崇神天皇の時代に太皇太后になったという。

 

大閇蘇杵命 (おおへそきのみこと) = 大綜杵命

大宅首の祖・ 建新川の祖父。(『録』左京神別上・右京神別上)

『旧』天孫本紀では、大綜杵命といい、宇摩志麻治命 五世の孫で、父は 大矢口宿禰命、女は 坂戸由良都姫。
孝元天皇の時代、大禰となり、ついで 開化天皇の時代に 大臣となって 大神を 奉斎した。
また、高屋阿波良姫を めとり(娶)、伊香色謎命、伊香色雄命を生んだという。

天皇本紀にも、孝元 八年 正月に 大禰となり、開化 八年 正月に 大臣に 任じられたことがみえる。

 

*大矢口宿禰命(おおやくちのすくねのみこと) = .

 

『録』和泉神別には 大矢口根大臣命饒速日命の四世の孫で、榎井部(가정부)の祖という。

『旧』天孫本紀に、孝霊天皇の時代、宿禰となり 大神を奉斎したとある。

坂戸由良部姫を妻として、


天皇本紀には 大矢口命とみえ、孝霊 三年 正月に 大水口命と並んで 宿禰に任じられたとする。

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http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/monobekz/monobek1.htm

(1)初期物部氏の人名の名づけ方や、物部氏から分岐発生した氏族において、

 

母(
ひいては外祖父)の名前や氏族に由来するものがかなり多くみられる。

 

例えば、①
出雲色大臣の母が出雲色多利姫であり、

 

高屋阿波良姫から生まれた伊香色男の子孫に高屋連(『姓氏録』河内神別では伊己止足尼の後裔)があり、

 

額田毘道男命の子の新河小楯姫が生んだ子の穂積臣祖大水口宿祢の同族に額田臣(同、山城神別では伊香我色雄命の後裔)があり、

 

④日下部氏の女から生まれた大祢命の後裔とみられる日下部(
同、河内神別では比古由支命の後裔)があり、

 

⑤志紀県主の女から生まれた大売布命の子孫に物部系の志紀県主がでる、などの例がある。

 

 また、他の古代氏族にも共通して見られる兄弟・姉妹の類似呼称(通称)の名づけ方という留意点もある。

 

これらの例に準じて考えると、

 

新河小楯姫が生んだ子として、大水口宿祢と大矢口宿祢の兄弟があって、

 

後者の別名が大新河命ではないかと考えられる(そして、前掲の額田臣氏や右京神別の内田臣氏も兄弟の後裔か)。

 

 
(2)先に、子孫の諸氏などから見ると、

 

大新河命は建新川命や大売布命と重なる可能性をいったが、

 

世代等を考えると、厳密には、大新河命は大矢口宿祢のほうと重なり、

 

大売布がその子だという形が原型かということになりそうである。

 

大売布と大新河、建新川とはその子孫の姓氏を共通にしている。

 

建新川は大新河に対比して、「若新川」(大新河の子)という可能性も残る。

 

 

 
(3)大矢口宿祢は、因幡の伊福部臣氏の系譜にその祖の武口命と解されている者に当たり、「牟」は「矢」の誤解ないし誤記だと『古代氏族系譜集成』(1260~1261頁)に記したが、この系統が稲葉(因幡)国造となったことが「伊福部家譜」に見える。これは、「国造本紀」稲葉国造の記事(彦坐王の後裔とする)と明らかに違うので、伊福部臣氏の因幡における有勢を認めつつも、但馬と因幡の近隣性などから、同家譜の記事をこれまで疑っていたが、「国造本紀」の記事のほうが誤りだと分かった

「国造本紀」は「彦多都彦」を丹波道主命と取り違え、その位置づけを誤ったものか)。

 

 それは、彦坐王後裔となる稲葉国造家が具体的には見えないうえに、

 

次にあげる大和朝廷による崇神朝の出雲討伐事件にも関係する。

 

伊福部氏には、因幡国庁跡近隣で稲葉山南西麓に位置する因幡一宮、宇倍神社(鳥取市国府町宮下)の奉斎を歴代世襲して近世に至った事情もある。

 

近隣の岡益廃寺及び岡益石堂巨石を用いた巨大な石塔で、山陰最古の建造物)の崇拝の主体は、武内宿祢とも伊福部氏の祖先ともいわれる。

 

 「伊福部家譜」には、氏祖の武口命を崇神朝の人として、

 

その第五代(四世孫。世代から推すると仁徳朝頃の人か)に阿良加宿祢をあげるが、

 

これにほぼ対応する名前の因幡国造阿良加比売という仁徳朝の者が『播磨国風土記』讃容郡条に見える。

 

この男女は、古代の命名法と年代から考えて、直接の兄妹とみられるから、

 

これも同家譜の妥当性を傍証する。

 

従って、伊福部臣が因幡国造とは別系と考えた佐伯有清氏の見解は誤っていたことにもなる。

 

 
(4)大矢口宿祢は、出雲討伐につながる出雲との交渉役として崇神紀六〇年条に見える矢田部造の祖・武諸隅にも当たるとみるのが年代的に自然である。

 

ここでも、異名同人の例が見られるが、『書紀』の記事は「天孫本紀」の記事と無関係に朝廷のなかで伝えられたとみられ、「武諸隅」の記事を簡単には否定できない事情がある武諸隅を大新河命の子とする

 

「天孫本紀」の記事は、両者の活動時期からみて疑問。

 

ここに、父子の世代逆転がある。

 

また、武諸隅の娘を、垂仁朝頃の十市根が妻としたという所伝も「天孫本紀」に見える
)。

 

 大矢口宿祢は 吉備津彦らとともに 出雲討伐に 活躍したと伝え、

 

その子孫は 中世の入沢氏(伯耆国日野郡の楽々福神社祠官)、名沢氏などであって、

 

伯耆西部の日野川流域を中心に美作・因幡など周辺各地に分布が見られる。

 

日野郡あたりの地域の平定には孝霊天皇が吉備津彦とともに活躍したとも伝え、

 

いまも日野川東岸に孝霊山の名が残るが、

 

この「孝霊」が大矢口宿祢に置き換えられるとしたら、

 

伊予の 越智国造(大新河の後裔氏族)が 孝霊天皇の御子とする 伊予皇子

 (実名を「彦狭島命」とするが、これはともに行動した吉備氏の稚武彦〔桃太郎 伝説〕に当たり、誤伝)の子孫と称することと符合する。

 

吉備系の楽々福神社が 古層の製鉄神信仰として存在したという指摘(坂田友宏氏)も ある。

 

 「天孫本紀」に兄弟と記される 武諸隅命(矢田部造の祖)と大母隅連(矢集連の祖)とは、

 名前に「モロスミ」を共有しており、

 『書紀』崇神 六〇年条の記事でも 割注で 同人と記すので、

これらの事情から同人としてよい。

 

http://www.geocities.jp/okugesan_com/hokana.htm

E 出雲醜大臣命 の位置づけ。

 この者は、諸系図に 大祢命の子とされることが 多いが、

「天孫本紀物部系譜」では大祢命の弟とされており、

『姓氏録』の記事(饒速日命の三世孫)からみて、

弟とするほうが とりあえず 妥当か もしれない。

この者の後裔という諸氏の系譜には、種々疑問が あることに 留意して おきたい。

 
F 大矢口根大臣命の位置づけ。

 「天孫本紀」に大矢口宿祢命と見え、出石心大臣命の弟とされたり、子とされたりして諸伝が あるが、

穂積臣の祖・大水口宿祢の弟とするのが 活動時期や古代特有の命名法から みて 妥当か(この場合、内志許男の子か)。

 

大矢口宿祢は、「天孫本紀」では 第四世孫の世代に 大水口宿祢の弟として おかれ、穂積臣 系統 以外 のすべての物部氏の祖とされて 重視されて いる ことに 留意されるが、

一方、華族諸家の宮内省 呈譜 史料 や 鈴木真年 史料では、

傍系の祖で「榎井部の祖」としてしか(外)記されないという 大きな 差異が ある。

 

 この者は 吉備津彦等とともに 崇神朝に 出雲討伐に 活躍し、

 子孫には 因幡国造・伊福部臣らを 出したと「伊福部家譜」に 見える 武口命 や 宇倍神社の祭神の 武内宿祢に あたるとみられる。

佐伯有清氏は、伊福部臣が 穂積・釆女のように 臣姓の氏族と 親近の関係にあったものとみており(『古代氏族の系図』)、

この見方と符合する。

武牟口命は、「伊冨久媛」を 妻としたと同家譜に 見えるが、

この姫は 名前の類似・対応から見て、和珥臣の祖で 崇神紀に 見える 彦国葺命の兄弟、伊冨久命(『録』左京皇別 の丸部の祖)の姉妹とみられるから、

武牟口 夫妻は 崇神朝頃の人とみてよかろう。

従って、第四世孫という位置づけには 疑問が あることに なる。

 

http://enjoy.pial.jp/~kokigi/keihu/monobekz/monobek2.htm

七 出雲色大臣の位置づけ 


 出雲醜大臣命とも書くが、「醜男」は醜者の義であり、
 この者は、『姓氏録』では 二個所(右京神別・若桜部造、河内神別・勇山連)に見えて、

いずれも饒速日命の 三世孫(5世孫)と記される。

 

父は 大矢口根大目命で、母は 出雲色多利姫

一に 出雲臣の祖・髪長姫)とされる。

 

懿徳天皇の時に、「食国(おすくに)の政を申す大夫」となり、ついで大臣となって石上大神を奉斎したが、「大臣」の号はこのときに始まったという。

 

倭の志紀彦の妹・ 真鳥姫を 娶って、

 

大木食命

三河国造祖)、六見宿祢小治田連等祖)、三見宿祢漆部連等祖)の三児を 生んだ。

以上が「天孫本紀」の記事であるが、「国造本紀」には 三野後国造 及び 参河(三河)国造の祖と見える。

 

 物部氏族から出た東海道の国造で、三河国造だけが 出雲色大臣の後とされ、

 

大売布命の後裔にはなっていない。

 

その設置が景行天皇の東国巡狩とは無関係ということである。

 

『集成』の三河国造の系譜では、三河国造が 三野後国造と同じく、出雲色大臣の後という所伝も 記されており、この辺をどう考えたらよいものか。

 

 大祢命.

 

「大祢」は 大尼(
大峯大尼命)に見られ、

 「大尼」オオネで 官職と「天孫本紀」に記される。

また、建胆心大祢命も いる

)と同じであって、

官職の名からきた通称名であり、

出雲色大臣の「大臣」にも通じ、

かつ出雲色大臣のほうは 母の出自からきた通称とみられる。

古代の人名では、異名同人の判別がきわめて重要であるが、

ここにもまたその問題が出てきたわけである。

 

   出雲色大臣の後という三野後国造は、上掲のように 大祢命の後に 配置換えされたし、若桜部造は、『姓氏録』右京神別に 出雲色男命の後と記されるものの、

 

一方、和泉神別の 若桜部造では 止智尼(

十市根)大連の後として、

鈴木真年編「物部大連系譜」でも 大祢命の後におかれるから、これとは 合致する(『集成』の物部氏系図参照)。

 

伊福部家譜」では、端的に 彦湯支命の子に 出雲色雄命

その子内色雄命と続けて、大祢命の名をあげない事情にある。

この辺にも、同家譜の記事の重要性が知られる。

 

  そして、三河国造の遠祖の 大木食命は、「天孫本紀」では 出雲色大臣の子とされるが、

一般に 穂積氏 建忍山宿祢の숙부におかれる 大木別垂根と同人の疑いが 濃くなる。

 

真年編の上記系図(「物部大連 系譜」)には、建忍山宿祢の弟 の位置に 大木足尼命(= 矢田稲置命)も 記載される。

 

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*そして、やはり 大木足尼命の子に 当たるとみるのが 適当な者が、末羅国造の初代の矢田稲吉である(ここでも、大矢口宿祢に近い位置に「矢田」が出てきた)。

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*末羅国造(まつらのくにのみやつこ)(佐賀県市)
志賀高穴穂の帝の御世に 穂積臣(ほずみのおみ)と同祖の大水口足尼(おおみなくちのすくね)の孫矢田稲吉(やたのいねき)を 国造に定められた。
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ここで、「天孫本紀」系譜を みると、大木食命は 大水口宿祢・大矢口宿祢兄弟 と同じく第四世孫に並んでいるから、これらは 同じ世代でなくとも 近い世代であった 可能性ある。

 

出雲色大臣の子三見宿祢の後とされる 漆部連は、本来は 久米氏族の出で 吉備中県 国造 同族とみられ、美作で 繁衍し 大和の宇陀郡にも居たから、出雲色大臣の後という系譜にまず疑問がつく。

 

 しかも、三見宿祢の兄・ 六見宿祢の後とされる「小治田連、勇山連(諌山連)」の系図も 具体的には 不明である。

 

『録』右京神別の 小治田連は 伊香我色雄命の後とされる、

 

『姓氏家系大辞典』には、因幡国 八上郡 小畑邑から起こる 小畑(
小幡)氏は『太平記』にも見える名族であるが、伊香色雄命の後の 小治田宿祢を 祖とすると伝えるとの記事も見える。

 

貞和二年の「新興寺文書」(
因幡国 八頭郡)に八頭郡の 矢部 左衛門 尉綸綱とともに見える 小治田八郎左衛門尉義範が 小畑氏か。勇山連のほうは、物部氏族には珍しい北九州の豊前の出とみられるから、筑前に見られる 舂米連伊香色雄の子の 安毛建美の後という)と同族の可能性がある。そうすると、出雲色大臣の子の 六見宿祢という者が 出石心大臣に 当たるものか。

 

「天孫本紀」で 出雲色大臣の妻とされるのが「倭志紀彦の妹、真鳥姫」であるが、この妻の名は、大売布の妻とされる「倭志紀彦の女真鳥姫」に重複する事情もある。

 

そうすると、後に大売布の子孫から 志紀県主が 出ることから、出雲色大臣の妻の名には 疑問が 生じることになる。

 

 これら諸事情から、大木食命とは 大水口宿祢の子建忍山宿祢の弟に あげられる 大木足尼命足尼=垂根= 宿祢)に当たるとみられる。

 

そうすると、三河国造の 初代・千波夜命は 世代的に 大木足尼命の子におかれ、ちょうど出雲色大臣

の五世孫になる(-①出石心-②内色男-③大水口-④大木-⑤千波夜)。

これは、「国造本紀」の記事のとおりであり、

『集成』に掲載した「油子乃命古利乃別命」の中間三代は、

『諸系譜』記載の原典に拠ったものであるが、

母親の名前や系譜(二名までが後世風)から疑っていた事情にある。

 

 そして、やはり 大木足尼命の子に 当たるとみるのが 適当な者が、

末羅国造の初代の矢田稲吉である(ここでも、大矢口宿祢に近い位置に「矢田」が出てきた)。

 

「国造本紀」には、大水口足尼の孫と記され、

一般に 伝える 建忍山宿祢の弟とは 異なるが、世代・年代的には「国造本紀」の記事のほうが 妥当だと思われる。

 

 こうしてみると、三河国造が設けられた事情が浮かび上がってくる。

建忍山宿祢の母・ 弟橘比売は (= 息長宿祢の母・ 弟橘比売) 

倭建命の東征に 随い 相模の海に 投身した ことは 有名ですが

 

大木足尼命は 弟橘比売の として この東征に 同行したものか。

 

駿河の廬原国造も、その初祖が 吉備武彦の弟であり、倭建東征に随行したことに因み現地に土着した。末羅国造となって肥前に残ったのも、倭建命の西征に随行したことに因るとみられる。

 

このほか、紀伊国牟婁郡の熊野国造は、初期に分岐した阿刀連の支族である。

 

 これで、物部氏族から出た諸国の国造の殆どの設置事情と系譜が 分かってきたが、唯一、松津国造が不明である。国造の配置 順序と字体から みて、

 「松浦」の誤記ともみられるし、現に「津」を「浦」と記す一本(

前田本)もある。

この辺は 判断が 難しいが、別の国造とみる 場合には、伊香色雄命の孫の 金連(一に金弓連)とあるものの、末羅国造からの分岐とみるのが 地域的に 自然である。

それにしても、『旧事本紀』には 金・金弓・金古と同様ないし類似の名前の頻出・混乱には 当惑する。

 

仮に別の国造とみる場合には、字体の似ている「杵肆(きい)国造」として、松浦郡と同じく肥前の基肆郡を主領域(三養基地方)とみるものが多く(延本に「キイ」と振り仮名)、これもありうるか。三養基地方には三根郡物部郷があり、『肥前国風土記』にも、物部郷に物部の経津主神を祀る神社があること、物部の若宮部をして社をたて祭祀させたことが見える。これに加え、基肆郡にある基山鎮座の式内社・荒穂神社(肥前国内第二の神階をもつ社)の縁起には、国造金連についての所伝もある(『日本の神々1 九州』三一八頁)。
 その記事では、「大化元年(六四五)、国造金連の子孫、金村臣が基山の山頂に創祀した」とあるとのことであるが、この記事を含む文書が近世の貞享元年(一六八四)の成立ということで、どこまで信頼がおけるのか分からない。カバネが「臣」というのは、穂積臣一族に通じるし、末羅国造の初期の人々にも鳥子臣など臣をつける者が見られる。その一方で、ごく近隣の三根郡米多郷を本拠とする別の国造「筑紫米多国造」があることも気になり、これは「杵肆国造」の存在に消極的になる要素である。こうした事情から、判断が難しいが、消極的に解する(国造記事の重複とみること)ほうが無難なのかもしれない。
 なお、伊豆国造は物部氏族の出と誤解されがちであるが、物部と同祖ではあっても別族の服部連の一族(少彦名神後裔)であることに注意される。

 

http://enjoy.pial.jp/~kokigi/keihu/monobekz/monobek-outou.htm

 1) ご教示の「同一人物でないか」とご指摘の人物について、貴著『古代氏族系譜集成』掲載の各人の母親名をみると、夫々異なる母となっていますが、これを度外視してよいのでしょうか。勿論、ご承知の上での解釈と思いますが。 

 

①新河小楯姫の生んだ同弟とされる大水口宿祢と大矢口宿祢は、後者の母が 淡海川枯彦命の妹・川枯媛となっていて、前者の新河小楯姫と違つている。また、

②大祢命と出雲醜大臣は兄弟というのはわかりますが、同一人となれば、違う母親名が掲載されているのは 問題となりませんか。同じく、

③ 大市御狩と石上贄古との関係についてのご解釈には賛意を表しますが、違う母親名が書かれていますが。

④大新河命、建新川命の同人視も母親名、後裔氏族も異 なっています。

⑤武諸隅命と大母隅連は同人でよろしいと思いますが、前者と大矢口宿祢の同人説は上記の異母名のことが気になるところです。

 

 
 朴井連椎子と朴井連鮪の同人説はご指摘の通りです。雄君を守屋大連の子とされているのは年代が合わないこと、ご指摘の通りです。また、太媛など蘇我氏との通婚について、画期的解釈を拝見しました。
 
(2) 目連、金連の混乱については、ご指摘の通りです。第16代 目連、第13代 金連(野間連、借馬連祖)、第15代 金連 (刈田首祖)、同 金古連(三嶋韓国連祖ほか)、金弓、耳連、石弓若子連、目古連(五十琴彦連と同人)についての重複はご指摘の通りです。
従って、第8代(姓氏録に追加)金弓連、第12代 目大連、第14代 長目連、同 目連、 第15代 今木金弓若子連のみが系譜に残ることになると理解しましたが、よいでしょうか。
 
 以上、質問いたします。
 

 <この関係の解釈・考え方>
   
(1) 古代氏族の「母系」に着目することは、たいへん重要だと思われますし、かつ本問は鋭いご質問であり、答えに窮するところもかなりあって長考しましたが、いま考えられることを以下に記します。
 
 そのなかでも、議論の最も核となる人物が「大矢口宿祢」となります。

 神武天皇から崇神天皇にいたる中間四代の うちで、三代も続けて物部氏が近江の三上祝の娘と婚姻を重ねます。

 

これが記されるのが『諸系譜』第28冊所載の「三上祝家系」であり、

中田憲信編の『諸系譜』のなかで、

 

この系譜記事が同書で数少ない鈴木真年翁の自筆でなされているという特徴があります。

その当該部分を文章にしますと(少し分かりにくいかもしれませんが、一応記してみますと)、

神武天皇の孫世代にあたる三上祝家の

①川枯彦・川枯姫、次の世代の

②坂戸彦・坂戸由良都姫、その次の世代の

③国忍富・新河小楯姫という三代が引き続いて、

 

物部氏の「①大祢-②出石心-③内色許男」の三代に各々世代対応し、

いずれも三上祝家の姫が物部(穂積)氏の男に嫁いで、

物部氏の次世代の長を生んでいます。

 

具体的には、川枯姫が大祢命に嫁して出石心・大矢口根を生み、

新河小楯姫が出石心に嫁して内色許男・内色許売を生み、

坂戸由良都姫が内色許男に嫁して大水口宿祢を生んだと記されます。

 

 『諸系譜』や『百家系図』には三上祝の家系について数本記載がありますが、

 そのなかで最も詳しい記事があるのが上記の『諸系譜』所載の「三上祝家系」です。

鈴木真年が 原本を書写して上掲書に記したとき、

上記の記載が原本そのままだったのか確かめようがありませんが、

「大矢口宿祢」を除いては、 とくに問題ありません。

 

ところで、この「大矢口宿祢」は 十市部首系中原朝臣姓である「押小路家譜」には、

 出石心の弟記載されて おり

 

これに 影響されて 位置づけが 変えられたのでは ないかと疑われる 要素が ないわけでもありません。

 

*大矢口宿祢= 榎井部の祖

 

 一方、「天孫本紀」系譜には、彦湯支命が 淡海川枯姫を妻として「一男出石心のこと)」 を生み、出石心が新河小楯姫を妻として大水口・大矢口兄弟を生んだと記されて、この系譜からは大祢・内色許男の二代が欠落しています。この関係では、「三上祝家系」は「天孫本紀」系譜に比べて、総じて内容がすぐれていると思われますが、「大矢口宿祢」についてだけは「天孫本紀」系譜のほうが妥当だと考えま す。

 

というのは、①大水口・大矢口という形の名前の対応は、上古の同母兄弟の名づけ方に頻出する傾向であったこと、②大水口宿祢は『書紀』崇神段 に見えており、大矢口宿祢のほうは崇神朝の出雲討伐に参加し西伯耆や因幡にも後裔を残したことで、ともに崇神朝という同時代人であったこと、③淡海川枯姫が生んだのは「一男出石心のこと)」と「天孫本紀」に見えること、があげられるからです。
 
 大祢命の母は「日下部 阿野姫」(この名と父の名には 若干の不自然さがある。後述)、

 出雲醜大臣の母は 出雲色多利姫と「天孫本紀」に見えており、

各々の母の名は通じ合うところがないので 別人とみざるをえず、

その意味では 兄弟とするほうが 自然です。

 

一方、事績を見れば、初めてなったという「大祢」という官職は「大臣」に通じますし、

物部氏歴代に大祢命をあげずに出雲色大臣をあげるものがあり(

「伊福部家譜」)、大祢命も出雲色大臣も共通の姓氏を後裔にもつ点があること、出雲色大臣の後裔の系譜には種々の疑問があり(先に指摘)、大祢命と別人の存在だという心象がえられません。この辺は判断が難しいのですが、「日下部阿野姫」が彦湯支命の妻妾のなかにいたとしても、出雲色多利姫の生んだ出雲醜大臣が物部(穂積)の嫡統を受けたと考えてみました。

 
 大市御狩と石上贄古の母について、「天孫本紀」では違う母の名をあげますが、その両者は姉妹の関係にあります。すなわち、物部尾輿大連が弓削連の祖・倭古の阿佐姫・加波流姫姉妹を妻として、前者に四名、後者に三名の子女を生ませたと記されますが、七人のうち確かなのは守屋・贄古・布都姫(御井夫人)の三名だけで、今木連・屋形連及び榎井連の先祖は後から付合された可能性があることを先にあげました。
 ところで、①守屋が長子(嫡子)として生まれたからこそ、外祖父の氏の「弓削」を名前にいれた名乗りをしたとみられること(領地の引継もかなりあったか)、 かつ、大連の地位を引き継いだことがあげられ、②大市と石上とが地理的に近いこと、贄と御狩との名前も意味が近いこと、③贄古と御井夫人とが兄と異母妹との関係にあたるのなら、かつ、守屋の同母妹とされる御井夫人を贄古が妻としたのならば、贄古と御狩とが同人のときには、守屋の同母兄とされる後者のほうが実像として消しやすいこと、が理由にあります。
 
大新河命と建新川命とは、美称を除くと語幹「ニヒカハ(新河、新川)」が同じです。こうした場合、上古の命名法としては、①同人、②兄弟、③親子、という三ケースが考えられます。『姓氏録』で建新川命を祖とするのが大宅首(左京・右京の神別)だけですが、『百家系図稿』所載の系図に見るように川上首・春道宿祢など因幡に所縁の物部もその後裔となります。建新川命の娘(刀自)が蘇我石川宿祢と羽田八代宿祢(両者が応神紀に見える) の母となったという所伝も中田憲信編『皇胤志』に見えており、これに拠る場合には、建新川命は垂仁・景行朝頃の人となります。「天孫本紀」には、建新川命は「倭志紀県主等祖」と記されますが、志紀県主の祖は大売布命だとして「押小路家譜」は具体的に歴代の名を伝えます。
 一方、大新河命と大売布命と後裔氏族が共通しており(先に記した本文参照)、両者は同人か親子かとみられます。大売布命は『高橋氏文』に見えて景行朝の人と分かり、大新河命のほうは大矢口宿祢に引っ張り上げられて崇神朝の人になると、両者の関係が親子になります。大売布命の母親は、その後裔に志紀県主が出ることから、倭志紀彦の娘の真鳥姫とするのが妥当とみられます。

 こうした諸事情を見ると、「大新河命-建新川命(若新川命の意で、大売布同人か兄弟か。この辺はどちらとも判じがたい)」とするのが穏当なところと思われます。
 また、武諸隅の位置づけですが、崇神朝晩年の登場時期ですから、むしろ垂仁・景行朝が主な活動期とみることができ、

 

そうすると、矢田部系統の世系は

 

「⑥大矢口宿祢(
大新河命)-⑦大母隅(武諸隅。その弟に大売布)-⑧多遅麻-⑨印葉-⑩大別-⑪鍛冶師」として、

 

崇神朝から履中・允恭朝までの六世代を続けるのが自然ではないかと考え直しました。

 

 なお、「天孫本紀」には、伊香色雄命が山代県主祖長溝の娘・真木姫を妻として二児(建胆心大祢、多弁宿祢)、同じく長溝の娘・荒姫を妻として二男(安毛建美、大新河)、その妹の玉手姫を妻として二男(十市根・建新川)を生んだとありますが、この辺の記事でも真木姫と荒姫とが重複する可能性があり、おそらくは長溝の二人の娘を妻として四男(建胆心大祢、多弁宿祢、安毛建美、十市根)を生んだとするほうが原型に近いのでしょう。
 
(2) 「天孫本紀」に見える重複的な名前を排除・整理した場合の一試案的な考えですが、系譜に残るのは、物部嫡系のほうで「第8代(姓氏録に追加)金弓連、第12代 目大連」、矢田部・榎井系のほうでは、同じく第12代 金古連、第13代 長目連、第15代 今木石弓若子連」(両系いずれも調整後の世代数)ではないかと解してみました。
 ただ、「第12代の金古(金)連、第13代の長目連」の両者の関係は微妙であって、これが逆転する可能性もあります。この辺はもう少しなんらかの資料がほしいところです。
 
(3) 物部氏と母系氏族・通婚先について、もう少し補足しておきます。
 まず、志紀(磯城)県主は、物部氏祖の饒速日命が妻とした御炊屋姫の族裔で海神族系の三輪君の一族であり、この県主家は崇神前代に絶えて、その跡に物部氏大売布の子孫が入り、後世に伝わりました。磯城県主は、神武朝の弟磯城(黒速、鴨主命、櫛日方命)の後で、崇神前代の后妃を輩出した大和土豪第一の名門ですから、この流域を手中に収めた意味は大きいとみられます。
 近江の三上祝は、物部氏族と先祖・天目一箇命(天御影命) を共通にする近江の名門で、野洲郡の御上神社を歴代奉斎し、琵琶湖の東側地域を広く領域にしていました。後に、支族が関東に分かれてその地の国造家を多く出した鍛冶氏族です。中臣氏の先祖も三上祝家と通婚を重ねています。近江の式内社を見ると、甲賀郡に川枯神社・水口神社・矢神社があり、野洲郡に上新川神社(三上山の西北麓近辺)と下新川神社がありますから、物部氏族の近江所縁が顕著です。伊香色雄命の母とされる高屋阿波良姫についても、太田亮博士は近江国神崎郡高屋郷かとみており、「伊香」が近江国伊香郡だとすると、これも妥当ででしょう。そうすると、系譜不明な高屋阿波良姫も、新河小楯姫と同様に三上祝一族であった可能性が高まります(異母妹か従姉妹くらいか)。
 伊香色雄が妻としたと記される山代県主は、後に山背国造となる山城南部の古豪族で、三上祝の同族です。物部氏族の妻妾ばかりではなく、垂仁天皇や彦坐王の諸妃を出したと伝えます。
 物部尾輿大連が妻として、守屋大連らを生んだのが弓削連の祖・倭古の阿佐姫・加波流姫姉妹です。この弓削連が本来の弓削連で、河内の弓削神社を奉斎した一族です。守屋が阿刀の別業を手にしたのはこの通婚・血縁に因ると思われます。もともと河内には物部氏の基盤があったとはいえ、物部本宗の根拠地は大和にあったとみられます。弓削連の系譜は、天目一箇命の弟・天日鷲翔命(少彦名神のこと)の後であり、その系譜は『古代氏族系譜集成』の936頁に見えます。
 この系統は弓矢製造や繊維・衣服などの手工業を担った重要な部族です。大和の葛城国造とも同族であり、倭文連・長幡部や三野前国造・伯耆国造などを出しましたが、この関係の系譜が伝わらず長いこと探索してきました。最近になってようやく、葛城から山城北部の葛野・愛宕郡一帯に遷住した鴨県主と近い系譜をもつことが分かってきました。
 
  初期 物部本宗家が通婚した活目邑の古豪族を仮に「活目氏」としますと、これは系譜不明ですので、推定を試みました。
  活目(活馬・生馬とも書くが、平群郡生駒のこと)の地名が「生馬郷、式内社生馬神社」として出雲国島根郡にあり(松江市 生馬)、『出雲国風土記』の生馬郷条に その先祖らしき者(八尋鉾〔美称か〕の長依日子)が見えますから、物部氏とともに 出雲から 到来した部族(物部同族か)という位置づけになるようです。この氏族の 五十呉桃の娘長沙彦を 物部氏が 妻としたと伝えています。

 

高天原神話のなかでは天安河でスサノヲ神が天照大神の剣ないし自分の瓊玉から出現させた神々として、『書紀』一書に見える活目津彦根命(
活津彦根命ともいうが、実体は天津彦根命〔天若日子〕に同神か) に関係し、垂仁天皇の名の「活目入彦五十狭茅」もなんらかの縁由があったことが窺われます。

 

 従って、平群郡での相当有力な部族であったことがうかがわれますが、子孫は現れませんから、通婚などにより領地が物部氏族(地域的には、そのうちの矢田部氏系統)や平群氏などに受け継がれた可能性があります。いま五十呉桃にあたるとみられる「伊古麻都比古」を祀る式内大社の比定社(徃馬坐伊古麻都比古神社)が、生駒山東麓の生駒市壱分町に鎮座しております。

 

 ところで、「日下部 阿野姫」も親の名は見えますが、出自が不明です。当時は御子代の日下部がまだできていませんから、「日下」 という表記は疑問ですが、河内の日下地方の古豪族の家ではないかともみられます。物部氏族には『姓氏録』河内神別に日下部があげられ、彦湯支命の後とされますので、詳細不明ながら、この女性が子孫を残したことも考えられます。

 

この女性について、「天孫本紀」には系譜が「早部馬津名久流久美」の娘と記されていて、この「早部」が他書の表記転訛の例により「日下部」と解されてきたわけです。しかし、「早部馬津名久流久美」は不自然に長く、意味も分かりにくいことから、この表記には なんらかの誤記もあった可能性があります。その場合、不自然な「部」の字を除外した形から、表記の原型は「生馬邑(
あるいは屯)の名はクルクミ」、すなわち「活目邑の五十呉桃(イクルミ)」ではないかとみられます。また、河内の日下は、生駒山の西麓にあって、この山を挟んで生駒と対峙しますから、生駒山の周辺に居た氏族が先祖の名前を二様に伝えたことも考えられます(いずれにせよ、同一人とするのが妥当か)。なお、「伊福部家譜」には「伊古麻村の五十見命」と見えますが、これは「五十見」の訛伝ではないでしょうか。
 生駒山は、饒速日命の降臨伝承がありますから、この意味でも「活目氏」は物部氏族とするのが自然です。活目の長沙彦の妹・芹田真稚姫の「芹田」も比定地不明ながら近隣地であって、芹田物部が「天孫本紀」などに天物部二五部の一として見えることから、物部氏族を傍証するものといえます。
 
 以上、崇神・垂仁朝頃までに物部本宗が通婚した氏族を中心に取り上げて見てきましたが、それぞれが大和・近江・山城・河内の古族の家とみられます。しかも、磯城県主を除くと、ほとんどが遠祖を同じくする天孫族の諸氏であったという特徴も見えます。これら以外の地域でも、紀北の紀伊国造家一族と も大新河命が通婚したと見えます。
 これらの通婚は地域的にも自然だと思われますから、一応信拠してよい古伝だとみられます。そうすると、こうした初期大和朝廷を構成した主要氏族の通婚先や母系氏族関連の検討も、天皇家に限らず、重要になってくると思われます。
 有益なご示唆、ありがとうございました。