倭(왜)

天之忍穂耳命の 長男が 天饒速日命(あめのにぎはやひ), 弟: 邇邇藝命(ににぎ)

라디오에요 2012. 7. 27. 11:24

http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/search.php?pid=kusegakunoto&WORD=K-Mat&act=search&cond=AND&page=4

 

旧事本紀では、饒速日命の別名を 胆杵磯丹杵穂命とする。

(胆杵磯丹杵穂命は、五十研丹穂命伊岐志迩保命伊伎志爾富命とも書かれる)

五十研丹穂命は、因幡國一宮宇倍神社の祠官・伊福部氏の系図『因幡国伊福部臣古志』に見えて、大己貴命の子であり、その六代孫に饒速日命を置きます。(五十研丹穂命が 大己貴命の子なら、饒速日命の世代との間が 長すぎるので、世代を 水増しした 造作は ある。)

一方、伊岐志迩保命は 旧事本紀自体に見えて、山代(山背)国造等祖と記される。山背国造の祖ならば、通常は 天津彦根命です。

因幡国 伊福部 臣古志」には 大己貴命の子(実際には大己貴命の娘・下照姫の娘婿ということ)に掲げられ、旧事本紀に 山代国造等の祖と記されるのです。伊福部氏は母系の祖である大己貴命を奉斎したわけです。

同様に、旧事本紀が「天背男命 尾張中嶋海部直等祖」と記すのも、天背男命(天稚彦・天津彦根命)の子孫である鴨県主一族・中島直が、天背男命の母系の祖先神である大己貴命を奉斎したものだったことが理解出来ます。

胆杵磯丹杵穂命は 天稚彦・天津彦根命??のことであり、饒速日命の別名ではなかった。

饒速日命にとって祖先神に当たることになります。

饒速日命も 天孫系の神ですが、旧事本紀に 云うような 天忍穂耳尊の子というのは、天火明命と饒速日命を 同一神とすることによるです。

当然、瓊々杵尊の子ということもありません。
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http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1284941114/

http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/1225600954/1-70

 

*天之忍穂耳命 --- 天饒速日命(あめのにぎはやひ)

*天火明命(あめのほあかり) --- 天饒速日命(あめのにぎはやひ)

 

天之忍穂耳命の長男天饒速日命(あめのにぎはやひ)で、

次男が 天孫降臨の大役を 担った 邇邇藝命(ににぎのみこと)です。

 

*天饒速日命(あめのにぎはやひ)

= 天香語山命

 

この 天饒速日命も 天孫降臨に 先立って 地上に 降臨し、

大和で 土豪・長髄彦(ながすねひこ)の妹・三炊屋媛(みかしぎひめ= 登美夜須毘売)を めとります(る)。

 

生まれたのが 宇麻志摩遅命(うましまじのみこと)です。

 

彼は 登美毘古那賀須泥毘古= 長髄彦)の妹 登美夜毘売を 妻とし、 宇摩志麻遅命を 生んだ。

やがて 天上神界から 邇邇藝命が 降りてこられることになりました。

 

http://kumoi1.web.fc2.com/CCP121.html

고사기전

○穗積臣(ほづみのおみ)。穂積は地名である。

和名抄には 摂津国嶋下郡、尾張国丹羽郡、美濃国本巣郡、播磨国賀茂郡などに 穂積郷が あるが、

それらでは ないだろうか。

延喜式神名帳に 「伊勢国朝明郡、穂積神社」 というのも ある。

この姓は 白檮原の宮(神武天皇)の段に

「邇藝速日命が 登美毘古の妹、登美夜毘賣を 妻として 生んだ 子、宇摩志麻遲命、

これは 物部連、穂積臣、采女(女+采)臣らの祖である」と見える。

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음독 훈독

비 올 롱,여울 랑(총획수 19획) 부수:(3획)

훈독 -[] 용소(). 용추(). 폭포수가 떨어지는 깊은 웅덩이.

〔참고〕 낙하하는 물의 힘으로 강바닥이 패어서 생긴 것.

 

http://blogs.yahoo.co.jp/fudasyosanpai/23521990.html

 

パンフレットでは、
  神功皇后が三韓征伐の帰路、暴風雨のため、御座船を進めることができなくなり
  皇后御みずから綿津見三神をお祀りになって御祈願されると、風波がおさまり御無事に
  都へ御還りになた。 綿津見三神をお祀りになった場所に御社を建て、御神徳を仰いだ。
と御由緒が書かれてあります。
これではまるで、日本書紀に書かれた 「 神功皇后の忍熊王征伐 」 の物語のあらすじです。
 
東京堂出版の神社辞典をみますと、 ( 以下は要約 )
 
   縁起によれば、神功皇后征韓の帰途、海神三座を鎮祭されたのを創祀とする
   平安朝初期の大同元年( 806年 )には、神封10戸が寄進された。
   清和天皇貞観元年( 859年 )には、従五位下から従五位上を賜った、
   康保4年 ( 967年 ) 施行の延喜の制では、名神大社に列せられた。
   畿外の社ではあるけれども、祈年・月次・新嘗の官幣に預かった。
   朱雀天皇天慶三年( 940年 )には正五位下を賜った
   江戸時代当社は、日向大明神と称されていた
   明治4年( 1871年 )には、延喜式に基づ 「 海神社 」 に戻し国幣中社に列せられ
   明治30官幣中社に昇格した。
 
江戸時代初期、「 日向大明神 」 と呼ばれ始めて現在に至ります。
社務所で神職の方に尋ねますと、
  日向という地名にあったから日向大明神と呼ばれたのではなくて、
  江戸時代初期に伊勢から天照大神を勧請したので日向大明神と呼ばれるようになり、
  日向大明神が鎮座されたのでこの近辺の土地が日向とよばれるようになった。」
ということでした。
 
神封10戸が寄進された大同元年に書かれた新抄格勅符抄には、 播磨明石垂水神 」と
記述されています。 
垂水は滝のことですから、垂水神というは 「 滝の神 」 または 「 水の神 」 という可能性が
あります。
-> 淤加美神 ( 高淤加美神:たかおかみのかみ、淤加美神:くらおかみのかみ ) のような。
 
明石には滝 ( 垂水 ) があり、この滝を詠んだ有名な歌があります。
 
  石激     垂見之上乃   左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
  石ばしる  垂水の上の   さわらびの 萌え出づる春になりにけるかも
  いわばしる たるみのうえの さわらびの もえいずるはるになりにけるかも
 
  岩の上を激しく流れる滝のほとりのに、早蕨が萌え出る春になったなあ。
  「 石ばしる 」 は 「 垂水 ( 滝 ) 」 の枕詞です。 
 
                   詠み人  志貴皇子( しきのみこ、天智天皇の第七皇子 )
 
ここでいう  滝 」 は、○○大滝 などというような大規模なものではないでしょう。
おそらくは、可愛らしい規模の滝であって、眺めていると心が落ち着くような、
こけのむした美しい滝だったのではないでしょうか。 
 
しかし、美しい滝があったからその土地が 「 垂水 」 と呼ばれ、そこに鎮座されるお社だから
垂水神と呼ばれた、という可能性もあります。
 
延喜式に基づいて 「 海神社 」 という社名に戻したのが明治4年( 1871年 です。
延喜式は平安時代中期の康保4年 ( 967年 ) に施行されています。 
 海神社 あまじんじゃ 」と記されてあり、明石国造氏神の綿津見神を祀ったことによる、
とされています。   
 
それでは明石国造はいつころから存在したか、といいますと古墳時代まで遡ります。
海神社から徒歩10分、兵庫県下で最大という有名な 「 五色塚古墳 」 があります。
4世紀後半から5世紀前半に作られたと推測されていますが、この古墳に祀られているのが
明石国造の祖先の中の、どなたかです。
 
明石国造の祖は武位起命 ( たけいたてのみこと ) ですが、記紀には登場しません。
先代旧事本紀によれば、鵜葦草葦不合命( うがやふきあえずのみこと  の後に誕生されて
いま
この二柱の神の親神は、火照命 ( ほでりのみこと ) の釣り針を海の底まで探しに行った
火遠理命 (ほおりのみこと と、豊玉毘売命 ( とよたまひめのみこと ) です。
この豊玉毘売命の父親が、海の底の宮殿の主である海神 ( わたつみのかみ、綿津見神 )。
 
綿津見神が、明石国造の氏神様である理由がわかりました。
 
明石国造の祖先を祀る五色塚古墳が、明石国造の氏神を祀る海神社のすぐ近くに存在します。
兵庫県下では最大を誇ることから、明石国造の権力の大きさが偲ばれます。
 
海神社 ( の原型のお社 ) は、古墳時代にはすでに垂水近辺に存在していた可能性は
充分あるように思えます。
 
続く
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http://matcha.kakurezato.com/page002.html

 

天忍穂耳尊
 
天照大御神(大日霊女貴尊)には8人の子供がいた。

その五男三女の大部分の消息は各地に残る神社等の記録によってあとづけることができるのだが、ひとり長子の天忍穂耳尊だけがはっきりしたことが分からない。この神の眠る場所を探し出し、今どこに眠っているのかはっきりさせたい、そういう思いが私にはある。

天忍穂耳尊の諡号を『古事記』では、

正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)

『日本書紀』では、

正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)

と申し上げる。


学研が出している『日本の神々の事典』には、神名の「正勝吾勝」を指して、

須佐之男尊による勝利宣言にちなむ名で、「正しく勝った、私は勝った」という意味を示し、続く「勝速日」も素早い勝利(勝速)の神霊(ヒ=日)という意味を表しているといわれる。(P90)

と書いてあるが(物語の詳細は『記紀』参照のこと)、もちろん『古事記』の物語に附会した説明であるゆえ、鵜呑みにはできない。ただ、戦闘に関連のある諡号ではあろうと思う。

『日本書紀』に登場する「速日」という名を持つ神はほかに火速日神(ヒハヤヒノカミ)[詳細不明]、甕速日神(ミカハヤヒノカミ)[詳細不明]、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)がいるが、天忍穂耳尊の場合「ハヤヒ」は諡号の方に付けられている。

註:火速日神の表記は正確ではない。「火」=「ヒ」は実際には「漢」という字の部首を「ひへん」にしたものとなっている。PCで表現できなかったので「火」で代用した。


『古事記』神話上では、天照大御神に最初に地上に下るよう命じられた神だが---天忍穂耳尊は二度までも降臨するよう命じられたのだが、結局応じなかった---最終的に天から降臨したのは、瓊々杵尊(神話上では天忍穂耳尊の息子。現実の神社祭祀上では弟)だった。

奇妙な連想で恐縮だが、皆さんは『マトリックス』というアメリカ映画をご存じのことと思う。この映画の柔術道場シーンに出てくる掛け軸に注目していただきたい。その掛け軸には、なんと「勝速日」と書いてあるのだ。これはなんでも今では合気道系の用語として実際に用いられているらしいが、アメリカ映画の中で、このような引用が正確になされていたことに後で驚いたほどだ。(当時私は饒速日尊のことを考えており、最初は饒速日尊関連で興味を持ったのである。)

この合気道の「勝速日」と天忍穂耳尊の諡号には関連があるはずだが、今の私にははっきりしない。ただ、天忍穂耳尊は、正体不明の人物ではあるが、諡号から察するに凄腕の武人、あるいは格闘家であったのではないかと思われる。

(注)当サイトの「植芝盛平先生御口述」ページの「第三章 技」に出てくる「時間を超越した早さを、正勝吾勝勝速日(まさかつあかつかつはやび)という。」という記述を参照ください。

尊敬する古代史研究家原田常治氏はその著書の中でこう述べている。

この方は宮崎というよりも、都農以北にしか神社も見当たらないところを見ると、女王の国の北部の押えとして、今の耳川以北、東郷町、日向市、延岡市のほうをおさめていたと推察される。西郷、東郷と流れて、美々津海岸に注ぐ川を「耳川」というのも、この「耳尊」の名からとったのではないかと思われる。(中略)それで、北からの侵入に備えて、長男のこの天忍穂耳尊を、今の日向市、延岡市の地方においたのではないかと思われる。また、神武天皇が、大和へ養子にこられる時、なぜ、大日霊女の居城、西都に近い一ツ瀬川の川口か、高鍋の浜から出港しないで、わざわざこんなに北へ歩いてきて、この耳川の川口から出港されたか。やはり、この付近に伯父の忍穂耳尊がおられたので、そこに挨拶されるためだったと考えられる。神武天皇が大和へ養子に決まった時、鹿児島県隼人町におられた伯父の日子火々出見尊の所へ挨拶に行かれたらしいことは、そこにある鹿児島神宮(祭神、日子火々出見尊)の記録にある。(中略)この方の事績や墓陵は、はっきりしていない。鹿児島県川内市の瓊々杵尊の墓陵や、鹿児島空港に近い溝辺町の日子火々出見尊の墓陵、それから大隅の吾平町の鵜茅草葺不合尊の墓陵には、現在、宮内庁の詰所があり、官服の役人が詰めて、代々皇族方が御参拝されている。また、次男の穂日尊の住んだ跡も、その墓陵も出雲にはっきりと存在している。それだのに、この長男天忍穂耳尊だけが、墓陵がはっきりしていない。延岡市の南方古墳群が昔から有名だから、あの辺にあるかもしれないと、自動車で二時間ばかり南方の部落を探してみたが、はっきりしなかった。一カ所だけ部落の人家のある中に、小山があって、山上に神社があり、その裏に「古墳につき立ち入らないで下さい」と、柵のようなものがしてあった。あの小山全体が古墳とすれば、よほど偉い人の墓陵であると思ったが、確かめる方法はなかった。皇室関係でも、この天忍穂耳の墓陵だけが判っていないようである。(『古代日本正史』P305-P307)

天忍穂耳尊は「忘れられた長男」なのである。「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊」というりっぱな諡号をもらいながら、実のところ、現在まで「捨ておかれてきた神」なのである。(原田氏が天忍穂耳尊の墓陵ではないかと推測し訪れた場所は、このHPの遺跡ページで見ることができる。[遺跡]ページの「瓊々杵尊1」天下神社参照)

私は、将来、天忍穂耳尊の墓陵がはっきりし、正しい名前で祀られるようになることを願っている。

01.12.27