倭(왜)

新羅との婚姻の謎

라디오에요 2010. 5. 7. 12:46

http://j-myth.info/nihongi2/nihongi09_hosoku.html

新羅との婚姻の謎

 『三国史記』「新羅しらぎ本紀」には、存在が確実とされる第17代奈勿ナコツ(在位:356年~402年)以前、第16代訖解キッカイの時代(312年)に、倭国わこくの王が息子のために婚姻を求め、重臣の娘を送ったとの記載が見える。この倭国わこく大和やまと政権のことと見なすと、前後の関係から、この国王は第13代景行けいこう天皇、王子は第14代仲哀ちゅうあい天皇(あるいはその兄弟)ということになる。景行けいこう天皇は国内の各地の豪族と多くの婚姻関係を結び、「血縁政策」「分封ぶんぽう政策」によって大和やまと政権を拡大・安定させているため、海の彼方とはいえ、新羅しらぎにそれを求めたとしても、けっしておかしな話ではない。さて、そこで参考として仲哀ちゅうあい天皇后妃こうひを見てみたい。
 仲哀ちゅうあい天皇后妃こうひとしては、神功じんぐう皇后以外に大中姫オホナカツヒメ弟媛オトヒメがいる。前者は叔父おじ彦人大兄ヒコヒトノオホエの娘であるが、後者は来熊田造くくまたのみやつこ大酒主オホサカヌシという詳細不明な氏族・人物の娘である。この弟媛オトヒメが生んだ子に誉屋別ホムヤワケ皇子がいる。(『古事記』ではこれを神功じんぐう皇后が生んだ子で、誉田別ホムタワケ皇子応神おうじん天皇の兄と記す)。
 一方、「新羅しらぎ本紀」には急利キュウリの娘を送ったとある。急利キュウリ阿餐あさん(六等官)であるが、政務・軍事の統括を任されたとあり、かなりの重臣とわかる(二年後に二等官に昇進)。後の仁徳にんとく天皇の時代に、百済くだらの王族の酒君サカノキミが無禮を働いたために日本に連行されたという記事があり、大酒主オホサカヌシという人名と「酒」が共通するが、しかし大酒主オホサカヌシを朝鮮半島の人物と見るには証拠がなにひとつない。大酒主オホサカヌシを大酒飲みの意と考えても同じである。
 そこで、ここからは「妄想」の域に入るが、「新羅しらぎ本紀」の記載を事実と「仮定」し、さらにその時代を景行けいこう天皇の時代と「仮定」し、その王子を仲哀ちゅうあい天皇と「仮定」し、大中姫オホナカツヒメでも弟媛オトヒメでもないと「仮定」するならば、残るのは気長足姫オキナガタラシヒメ尊(神功じんぐう皇后)ということになる。気長足姫オキナガタラシヒメは死後の尊号であり、本名(通称でもよい)は伝わっていない。また、父は気長宿禰オキナガノスクネであるが、本文には「貌容壮麗はなはだかほよし、かぞみことあやしびたまふ」という一文が見える。娘が仲哀ちゅうあい天皇の死後、実質上の「天皇すめらみこと」として君臨したことを装飾した文であるが、「その容姿は父も怪しむほどであった」という意味であり、「養女ようじょ」であったと考えることも可能である。つまり、新羅しらぎ急利キュウリの娘を気長宿禰オキナガノスクネの養女とし、それが仲哀ちゅうあい天皇皇后きさきとなったという「妄想」である。そのように「仮定」すると、神功じんぐう皇后新羅しらぎ遠征にこだわっていることの背景に、そうした出自があったと見ることもできる。また、神功じんぐう皇后が自ら遠征し、帰国した直後に誉田別ホムタワケ皇子を出産したという伝説的な説話が、朝鮮半島の神話や渡来系氏族の伝承に見える「半島の女神(女性)が海を渡って西方の国(日本国やまとのくに)に逃げた(そして神を生んだ)」という神話観念と符号すると指摘されていることも、神功じんぐう皇后の出自を語り継いだ痕跡と考えられなくもない。ただし、このような「妄想」は騎馬民族きばみんぞく征服説や王朝交替論に「悪用」されることもあるので、あくまでも「仮定」に「仮定」を重ねた上での「妄想」であり、また、「万が一」神功じんぐう皇后急利キュウリの娘で、それが気長宿禰オキナガノスクネの養女となり、仲哀ちゅうあい天皇皇后きさきになっていたとしても、誉田別ホムタワケ皇子仲哀ちゅうあい天皇の子であることに変わりはなく、大和やまと政権の大王おほきみの血統に問題が生じるものでもないことを、念のために述べておく。(『三国史記』等の半島側の文献には、騎馬民族きばみんぞくが移動して倭国わこくに王権を樹立したという痕跡も、倭国わこくで王朝交替があったという痕跡も一切見受けられない)。

'倭(왜)' 카테고리의 다른 글

300년 ~400년 기년 설정 예  (0) 2010.05.12
その2 応神15年=AD404年   (0) 2010.05.07
일본서기 번역본, 국사편찬위원회  (0) 2010.04.30
인덕 12년,   (0) 2010.04.26
일본사서- 皇代神四年鎭座?考  (0) 2009.11.11