新羅との婚姻の謎
『三国史記』「新羅本紀」には、存在が確実とされる第17代奈勿王(在位:356年~402年)以前、第16代訖解王の時代(312年)に、倭国の王が息子のために婚姻を求め、重臣の娘を送ったとの記載が見える。この倭国を大和政権のことと見なすと、前後の関係から、この国王は第13代景行天皇、王子は第14代仲哀天皇(あるいはその兄弟)ということになる。景行天皇は国内の各地の豪族と多くの婚姻関係を結び、「血縁政策」「分封政策」によって大和政権を拡大・安定させているため、海の彼方とはいえ、新羅にそれを求めたとしても、けっしておかしな話ではない。さて、そこで参考として、仲哀天皇の后妃を見てみたい。
仲哀天皇の后妃としては、神功皇后以外に大中姫と弟媛がいる。前者は叔父の彦人大兄の娘であるが、後者は来熊田造の大酒主という詳細不明な氏族・人物の娘である。この弟媛が生んだ子に誉屋別皇子がいる。(『古事記』ではこれを神功皇后が生んだ子で、誉田別皇子=応神天皇の兄と記す)。
一方、「新羅本紀」には急利の娘を送ったとある。急利は阿餐(六等官)であるが、政務・軍事の統括を任されたとあり、かなりの重臣とわかる(二年後に二等官に昇進)。後の仁徳天皇の時代に、百済の王族の酒君が無禮を働いたために日本に連行されたという記事があり、大酒主という人名と「酒」が共通するが、しかし大酒主を朝鮮半島の人物と見るには証拠がなにひとつない。大酒主を大酒飲みの意と考えても同じである。
そこで、ここからは「妄想」の域に入るが、「新羅本紀」の記載を事実と「仮定」し、さらにその時代を景行天皇の時代と「仮定」し、その王子を仲哀天皇と「仮定」し、大中姫でも弟媛でもないと「仮定」するならば、残るのは気長足姫尊(神功皇后)ということになる。気長足姫尊は死後の尊号であり、本名(通称でもよい)は伝わっていない。また、父は気長宿禰王であるが、本文には「貌容壮麗し、父の王が異しびたまふ」という一文が見える。娘が仲哀天皇の死後、実質上の「天皇」として君臨したことを装飾した文であるが、「その容姿は父も怪しむほどであった」という意味であり、「養女」であったと考えることも可能である。つまり、新羅の急利の娘を気長宿禰王の養女とし、それが仲哀天皇の皇后となったという「妄想」である。そのように「仮定」すると、神功皇后が新羅遠征にこだわっていることの背景に、そうした出自があったと見ることもできる。また、神功皇后が自ら遠征し、帰国した直後に誉田別皇子を出産したという伝説的な説話が、朝鮮半島の神話や渡来系氏族の伝承に見える「半島の女神(女性)が海を渡って西方の国(日本国)に逃げた(そして神を生んだ)」という神話観念と符号すると指摘されていることも、神功皇后の出自を語り継いだ痕跡と考えられなくもない。ただし、このような「妄想」は騎馬民族征服説や王朝交替論に「悪用」されることもあるので、あくまでも「仮定」に「仮定」を重ねた上での「妄想」であり、また、「万が一」神功皇后が急利の娘で、それが気長宿禰王の養女となり、仲哀天皇の皇后になっていたとしても、誉田別皇子が仲哀天皇の子であることに変わりはなく、大和政権の大王の血統に問題が生じるものでもないことを、念のために述べておく。(『三国史記』等の半島側の文献には、騎馬民族が移動して倭国に王権を樹立したという痕跡も、倭国で王朝交替があったという痕跡も一切見受けられない)。