http://www.geocities.jp/kodaishi2006/report2.htm
その2 応神15年=AD404年
次に、作家の高城修三さんによる紀年論に付いての著書『紀年を解読する―古事記・日本書紀の真実―』に、
(高城さん御自身は所謂春秋二倍年歴論の立場ですが、此処ではその事自体は取り上げません)
(彼は古事記の崩年干支と書紀の太歳干支も同列に重視して扱おうと云う立場です)
阿直伎の来朝に関する論考があります。重要なのでP290~P291からそのまま引用します。
P290L2~
【検証八】阿直伎の来朝
阿直伎の来朝について検証しておこう、阿直伎は阿直氏の祖で、『古事記』に阿知吉師と
あって同一人物と思われる。よく似ている阿知使主は東漢氏の祖とされ、別人である。
二七一ページ表6-5 の四〇四秋年にある「秋八月、百済王、阿直伎を遣し良馬二匹を献
上」は、応神十五年の記事を機械的に干支二運繰り下げたものだが、これは三六九秋年の
こととしなければばらない。
【古事記】
百済の国主照古王、牡馬一疋、牝馬一疋を阿知吉師に付けて貢上りき。亦横刀及び大鏡を貢上りき。
(応神記)
【日本書紀】
久?等、千熊長彦に従ひて詣り。即ち七枝刀一口・七子鏡一面、及び種種の重宝を献る。
(神功摂政五十二年秋九月)
百済の王、阿直伎を遣して、良馬二匹を貢る。 (応神十五年秋八月)
P291L1~
『古事記』が「亦」として繋いだところを、『日本書紀』は相当の年月を置いた別の時のこ
として記している。しかし、これは共に三六九年(紀年では神功五十二年)のことであろ
う。と言うのも、『古事記』は照古王(近肖古王)が「牡馬一疋、牝馬一疋」を献上したとし
ているが、『三国史記』に拠れば、近肖古王の治世は三四六~三七五年であるから、三七六
年以降ではありえないことになる。さらに、良馬二頭は三六八年にも百済から新羅へ贈られ
ていることを考慮すれば、高句麗との戦いを前にした百済が友好関係を保ちたい新羅と倭国
に相次いで良馬を贈ったと思われるからである。
これを読み返していて、気付きました。
応神五年~二十年の外事記事を中心に、D列(仁徳列)等で幾つか処理出来そうなのです。
先ずは、『三国史記』と『日本書紀』を新ためて原文で確認します。
■『三国史記』「百済本紀」近肖古王23年
>二十三年春三月丁巳朔 日有食之遣使新羅送良馬二匹
近肖古王23年はAD368年になります。
■『日本書紀』・神功皇后52年(書紀252年)
>五十二年 秋九月 丁卯朔 丙子 久저等從千熊長彦詣之 則獻七枝刀一口七子鏡一面及種種重寶
神功52年は385年になります。
■『日本書紀』・応神天皇15年(書紀284年)
>十五年 秋八月 壬戌朔丁卯 百濟王遣阿直伎貢良馬二匹
ここも応神15年(書紀284年)も応神列Y=X-120で処理するとAD404年になるのですが、
応神15年(書紀284年)を倉西さんが提唱されているAD404年となり、
三国史記で百済が新羅へ良馬二匹を送ったとする 近肖古王23年=AD368年と、
日本書紀で百済が日本へ良馬二匹を貢上したとする 応神15年=AD404年とで、
両年代が一致する事を発見しました。
こ こで、書紀の復元に使う年代列が違う事で、
「神功52年」で七枝刀と七子鏡を貰ったの年代が後( 385年)で、
「応神15年」で良馬二匹を貰った年代が前( 404年)と、順序が入れ違いになっているんですが、
この関係が古事記では如何書いて居るかをこれも原文を引用して確認すると、
■『古事記』応神記の記述箇所
>亦百濟國主照古王以牡馬壹疋牝馬壹疋付阿知吉師以貢上 此阿知吉師者阿直史等之祖 亦貢上横刀及大鏡
書紀で年代列を違えて逆の順番になって復元されたものが、
古事記の一文の中での順番とピッタリ同じで、馬が先で、刀と鏡が後。
高城さんの論考にもあったように「亦」とは、同時性ではないと考えれば、数年の後である事も
古事記の年代観の信憑性が高まります。
ここは古事記の伝承体系こそがほぼオリジナルに近くて、
書紀の側はこの一連の関係を年代列を二つ使って記録位置を隔てて分割したのではないでしょうか?
(古事記)照古王=(日本書紀)肖古王=(三国史記)近肖古王は、346即位~375没ですから、
応神15年,AD404年の事になってしまいますから、
応神記の百濟國主照古王(346即~375没)がとする、主語に添う形を考えるならば、
照古王の在位年間中ですから全く問題がなくなります。
つまり本来は応神記の一文のそのままの順序で、
照古王(346即~375没)が、
(記)阿知吉師=(紀)阿直伎を遣わして牡馬1 と牝馬1 の合わせて 2匹を献上し、
385年に 七枝刀一口 ・七子鏡一面 を献上した。
と 云う事だった筈です。
三国史記で368年に近肖古王が新羅に良馬二匹を送ったのと同じと年に、近肖古王が倭にも送った。
勿論、三国史記にはそう書いてないので、それを根拠に否定する事は可能でしょうが、
七枝刀についても三国史記は記述していないので、
七枝刀の史料性を考えれば、三国史記の記述寄らずに認められているので、
ほぼ同年代の良馬二匹も、百済が新羅に送った年代と完全に一致する事が肯定材料にはなる筈です。
しかも、古事記の対象年代が実年代通りに書いているとすれば
これらは全部「応神の在位年間」の出来事の筈です。
つまり、実年代上の応神元年は応神列で求められた334年から始まっていると云う事に成る筈です。
応神五年~二十年の外事記事を中心にと書きましたが
例えば応神八年を見てください。
百済人の来朝を書いていますが。
これだけでは応神列と仁徳列のどちらでも意味が取れそうですが
割註で書かれてる、百済記の引用だけを注目すると
阿花王(392即~405没)について書いて居ますよね。
しかし、他の応神五年~二十年あたりの記事を見てください。
外事記事に百済王の名前が書いて在りません
百済王が~と書いている所もありますが、
これは古事記での応神治世の照古王などになってる所を使った
トリック記事ではないでしょうか?
更に次のような推理が出来ます。
「古事記は崩年干支が実年代に忠実なだけでなく
古事記は意図的な書紀のような紀年操作に左右されず
A天皇の記に、A天皇の事跡として書かれている事柄は、
オリジナルの年代観に近い形で記述されているのではないだろうか?」
応神記で外事記事だけでも特定できるものは在りますが
外事記事に限らず古事記の応神記に書かれているものは、
394年の応神没までに納まるように、応神列だけでなく、
仁徳列などの別の関数も駆使して求めるべきではないでしょうか?
古事記製作者は紀年引き伸ばしに前の正しい年代を知っていそうです。
そう云う意味から崩年干支も当初から在ったと見ても良さそうです。
記紀で記録位置が違う話なんかもフラグ記事になりそうです。
他にも話のプロットが記紀を越えて移動しているようです。
応神以前でも年代列の基準年を探す手掛かりになるかもしれないです。
系図の錯綜問題もこう云う事が原因かも?
逆に天皇記、国記の段階で引き伸ばし紀年が付いてが既に付いていて、
それを参考にしているような印象は受けません。
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