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301年 田道間守に命じて非時香菓を求めさせる(垂仁90年2月)
301年 稚足彦尊(のちの成務)を皇太子とする(景行51年8月)
302年 皇后播磨稲日太郎姫が薨(景行52年5月4日)
302年 八坂入媛命を皇后にする(景行52年7月7日)
303年 東国巡幸(景行53年8月1日)
310年 景行没(景行60年11月)
この年は垂仁99年(垂仁140歳で崩御)にあたる
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311年 成務即位(太歳辛未1月)
311年 田道間守帰国 (垂仁99年の翌年3月)
311年 成務崩御(退位)(成務60年6月-60年、6月)
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312年 仲哀天皇即位。(太歳壬申)
313年 気長足姫命を皇后(神功皇后)にする(仲哀2年)
気長足姫の母は葛城高額媛。葛城高額媛は天日槍の曽孫清彦の孫
この先に他の妃との間に、カゴ坂皇子、忍熊皇子、誉屋別皇子がある
2月 敦賀に行宮(カリミヤ)
9月 穴門豊浦宮
315年 国郡に造長を立て、県邑に稲置を置き、盾矛を賜った。(成務5年)
319年 儺県の橿日宮(香椎宮)に着く(仲哀8年1月)
320年 仲哀が香椎宮で没(52歳)(仲哀9年2月)
321年 カゴ坂皇子、忍熊皇子を討つ(3月)
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321年 神功摂政元年(太歳辛巳、10月) *辛巳= 321년, *辛卯= 331년.
322年 仲哀天皇を河内の長野陵に葬る(神功摂政2年11月)
323年 誉田別皇子を皇太子にする
磐余に若桜宮を造る(神功摂政3年)
325年 新羅が朝貢した。(摂政5年3月) *문제가 있음.
葛城襲津彦が新羅の草羅城を攻め落とした。(神功摂政5年) *문제가 있음.
捕虜は桑原、佐糜、高宮、忍海邑の漢人の先祖。
(倭への帰国者を護送のため葛城襲津彦を東晋に派遣
同行した帰化人は桑原などの漢人の先祖)
331년 新羅出兵(9月) (神功皇后が東晋に渡る) *331년.
神功皇后が筑紫で誉田天皇を出産(12月)
*321年 カゴ坂皇子、忍熊皇子を討つ(3月)
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333年 (応神即位) (神功摂政13年)
(神功皇太后)太子が角鹿の笥飯大神にお参り
皇太后が太子のために大宴会)
345年 大鷦鷯尊が日向髪長媛を妃とした(応神13年)
(大鷦鷯尊と日向髪長媛の恋の歌)
346年 (百済)近肖古王即位
360年 高麗王が遣使朝貢した。
その表状を無礼として太子が怒った(応神28年9月)
366년 (新羅)倭国と修交した。
楽浪と帯方とが帰服した
366年 斯摩宿禰を卓淳国に遣わす(神功摂政46年)
斯摩宿禰は卓淳国から百済の肖古王に使者を送る
卓淳国は新羅に近接した加羅諸国の一国
百済の近肖古王の在位は346年~375年
肖古王の在位は166年~214年
367年 百済と新羅がともに朝貢(摂政47年)
皇太后と太子誉田別尊がたいへん喜んで曰った 「先王所望国人 今来朝之 痛哉」
368年 3월 (新羅)倭国の王子と婚姻させるため、急利の娘を送った (흘해 3년, 312년)
368年 8월 阿直岐(阿直岐史の祖)が来帰(応神15年)
上毛野君の祖、荒田別、巫別を百済に派遣(東晋に派遣)
369年 王仁(書首らの始祖)か来た(応神16年)
369年 荒田別と鹿我別を将軍として新羅を討つ(神功摂政49年) *문제가 있음.
369年 百済は雉壌で高句麗を破る
371年 百済は高句麗に侵入し平壌城を攻撃し、高句麗王が流れ矢に当たって死去
372年 百済が東晋に朝貢
373年 百済が東晋に朝貢
371年 桓温が東晋7代皇帝を廃し (明帝の子孫が途切れる)
(元帝の末子)簡文帝を立てる(11月) (孝武帝-安帝-恭帝と続いて行く)
372年 会稽王昌明を皇太子に、皇子道子を琅邪王にする。
簡文帝崩、孝武帝即位(7月)
372年 大山守命と大鷦鷯尊に皇位継承の相談(応神40年1月8日)
372年 後継を菟道稚郎子に決定(応神40年1月24日)
大山守命に山川林野を司らせる。
大鷦鷯尊を太子の補佐とする。
372年 雌鳥皇女と隼別皇子を殺させた(仁徳40年2月)
(雌鳥皇女と隼別皇子が東晋に渡る ?)
372年 百済が東晋に朝貢
372年 百済から七枝刀および種々の重宝が倭王に贈られる(神功摂政52年8月)
銘文に「泰和四年」(東晋大和4年=369年)「故為倭王旨造」などがある
373年 応神崩御(応神41年2月15日)
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373年 仁徳紀元年(大歳癸酉)
373年 再び土師連を日本武尊の白鳥陵の陵守にした(仁徳60年-60)
374年 磐之媛を皇后にする(仁徳2年3月)
倭直吾子籠に船を造らせる(仁徳62年5月-60)
額田大中彦皇子が氷を御所に奉る(仁徳62年5月-60)
373년 (新羅)倭国が再び婚姻を迫ったので断った (흘해 35년, 344년.==> 흘해기 4년, 373년)
374년 (新羅)倭王が書を送ってきて絶交した (흘해 36년, 345년.==> 흘해기 5년, 374년)
375년 (新羅)倭兵が風島を襲った (흘해 37년, 346년.==> 흘해기 5년, 375년)
375年 百済の肖古王が薨じた。翌年皇子貴須が王となった(摂政55年)
近肖古王375年没、近仇首王(諱を須)が即位(百済)
376年 前秦が華北をほぼ統一
376年 3年間すべての課税をやめる(仁徳4年)
377年 飛騨国に難波根子武振熊(和珥臣の先祖)を遣わした(仁徳65年-60)
379年 大兄去来穂別皇子(後の履中天皇)のために壬生部を、
皇后のため葛城部を定めた(仁徳7年8月)
379年 河内の石津原に陵地を築く(百舌鳥耳原)(仁徳67年10月-60)
税を軽くし・・・天下太平。 二十余年無事
(376+二十余年、仁徳没)
382年 襲津彦を遣わし新羅を討った(神功摂政62年)
命令に反して加羅国を討った。
天皇の怒りを知り、密かに帰って隠れた。
382年 東夷五国遣使来貢方物 (晋書・孝武帝・太元7年)
383年 前秦が東晋を討ち、肥水で大敗
前秦は瓦解し華北が再び混乱に陥る
384年 慕容垂が独立し後燕を建国
383年 難波堀江、茨田の堤を築く(仁徳11年)
384年 百済の貴須王が薨じ 枕流王が継いだ(神功摂政64年)(百済)
384年 高麗国が鉄の盾・鉄の的を奉った(仁徳12年)
384年 山城の栗隈に大溝を掘って田に水を引いた(仁徳12年)
385年 百済の枕流王が薨じ、太子は若かったので叔父の辰斯王が即位(神功摂政64年)(百済)
385年 茨田屯倉を立て、春米部を定めた(仁徳13年)
和珥池を造り、横野堤を築いた
386年 猪甘津に橋を架ける。
京に大通りを造った。
感玖に大溝を堀り原をうるおし田が得られた(仁徳14年)
386年 鮮卑族の拓跖珪が北魏を建国
当初は代と称し4月に魏と改称する
389年 神功紀終 (皇太后百歳没 摂政69年)
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390年 応神紀 元年(太歳 庚寅)
以下390年を元年として応神紀何年とし
即位の333年を元年として応神何年と区別します。
392年 東の蝦夷が朝貢。厩坂道を造らす(応神紀3年10月)
阿曇連の祖、大浜宿禰を漁民の統率者とする(応神紀3年11月)
392年 百済の辰斯王が没し阿花王が即位(応神紀3年)
紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰を派遣
392年 辰斯王が没し、阿シン王即位(百済)
(シンは草冠に辛と書く。華に似た字。『書紀』では阿花王。)
392年 (東晋)琅邪王道子を会稽王とし、皇子徳文(後の恭帝)を琅邪王に封ず
394年 海人部、山守部を定めた(応神紀5年8月)
伊豆国に船を造らせた(応神紀5年10月)
395年 百済が高句麗(広開土王)に大敗(百済)
396年 高麗人、百済人、任那人、新羅人らが来朝した(応神紀7年9月)
396年 後燕の慕容垂が陣没
396年 東晋の孝武帝が変死
397年 百済の王子直支が来朝(応神紀8年3月)
397年 倭国と友好を結び太子の腆支(直支)を人質にした(百済)
398年 武内宿禰と甘美内宿禰が探湯(応神紀9年4月)
399年 仁徳を百舌鳥野陵に葬る(仁徳87年-60)
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