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まず、以前提示しました「宋書」による「倭の五王」の系譜と、それに比定されている大和の首長(便宜上、天皇の諡とします)とを、もう一度示します。やはり“系譜の検討”…、これは重要なことです。
「宋書」の「倭の五王」 日本書紀による天皇の系譜
讃 仁徳→履中
↓ ↓
珍 (珍と済の関係不明) 反正
縦は兄弟関係、そして横は親子関係です。
前にも書きましたが、通説では『仁徳天皇あたり以降は、天皇の系譜や説話は(中国の史料と合うようだから)信用できる』…と、言われているのです。ですから天皇の活動年代も、凡そ四世紀末から五世紀にかけて…と、書紀の年代を決める尺度とされているようです。
次に検討すべきもう一つ重要なファクターは、それぞれの“在位年数”ではないでしょうか。
先走るようですが『倭の五王』の方は「宋書」を検証された古田氏の説を、天皇の在位年の方はいわゆる“皇暦”(神武天皇の即位を紀元前660年とした、書紀による年暦)で示しましょう。詳細は、後ほど…。
参考までに、高城修三著「紀年を解読する」(ミネルヴァ書房)による在位年も示します。これは「魏志倭人伝」で説明しました“2倍年暦”という概念を取り入れておられるようです。しかし雄略のみは、1倍年暦かな…?
『倭の五王』
讃:(391)-425年 (在位35年)
珍: 426-442年 (在位17年)
済: 443-460年 (在位18年)
興: 461-477年 (在位17年)
武: 478-502年 (在位25年)
「書紀」による天皇;( )内は在位年数、< >内は参考
仁徳:313-399年 (87年) <373-427年> (55年)
履中:400-405年 (6年) <427-429年> (3年)
反正:406-410年 (5年) <429-430年> (2年)
允恭:412-453年 (42年) <430-453年> (24年)
安康:454-456年 (3年) <453-456年> (4年)
雄略:457-479年 (23年) <456-479年> (24年)
在位年数は、全くといっていいほど合わないでしょう。
讃の在位年数は55年ほど、これを仁徳とすればまあ“参考”の方は近くなりますが…、系譜の方では合わない。履中とすると系譜はいいのですが、在位年数は“書紀”も“参考”も極端に短すぎますね。
また履中、反正それに安康の在位年数は、“書紀”によってもまことに短い。
(前にも言いましたが、讃と珍の在位年数の合計は50年を越えます。ですから(私見として)、済は両者の子の世代ではなく、恐らくどちらかの孫ではないか…と考えた次第です。当時の平均寿命を50歳前後とすれば、子の世代で18年もの在位は少し難しいのではないか…と考えました。
ここらあたりを踏まえて、ブログでファンタジー小説を創作したことがあります。お時間があれば、覗いていただければ幸甚です。「セブリヤコ-わが君の耳目」 http://blog.goo.ne.jp/jess-kun/ 2007年12月11日から始まっています。)
次に検討すべきは、倭王の“一字名”ですね。この五王を大和の天皇に比定する方法として、天皇の和名のうちあるときは発音を取ってそれに相当する一字を中国宋朝が表し、あるときは一字を取って中国側が間違って表記したとし、そこに何のルールもありませんでしたね。各学者の、恣意的な思い込みによる比定でした。
しかし本当にそうだったのでしょうか。
古田氏は、次のような例を示されました。
▲「阿柴虜・吐谷渾は遼東鮮卑なり。父奕洛韓、二子あり。長を吐谷渾、少を若洛廆という。」(宋書鮮卑吐谷渾伝)
▲「(扶南国)太祖元嘉十一…年、国王持黎跋摩、使いを遣わして奉献す。」(宋書夷蛮伝)
▲「媻達国、元嘉二十六年、国王舎利不陵伽跋摩、使いを遣わして方物を献ず。」(宋書夷蛮伝)
これくらい挙げれば十分でしょう。
三字であろうが四字であろうが、果ては七字であろうが原音のまま表音表記されています。ですから通説は単なる思い付きに過ぎず、学問的根拠はない…と言わざるを得ません。
ですから倭国王自ら、一字名を名乗った…と考えざるを得ないのです。倭王が出す“表”(国書、外交文書)などに記した自署名で…。
わが国(筑紫)では、三世紀卑弥呼の時代…その宗女“壹与”がそうでした。“壹”が国名邪馬壹国から、名を(魏や西晋に与(くみ)するという意味の)“与”としたようです。
その伝統が、連綿と五世紀まで続いていたのです。ですから何も苦労して、音当て・字抜き出し・中国の間違い…の所為にすることもないのです。
当時の北狄や東夷の世界では、中国文化が浸透してきて姓(苗字)を国名か民族名、名を一字にするようになっていたのです。参考までに、高句麗伝と百済伝を示しましょう。
高句麗伝のはじめの方を、読み下してみましょう。
▲「高句麗王高璉(こうれん)、晋安帝義煕九年(413年)、長史高翼(こうよく)を遣わし、表を奉り赭白馬を献ず。」(宋書高句麗伝)
この(東)晋へ使いした年は高句麗好太王が亡くなり、子の長寿王が即位した年です。この長寿王の対外的名乗りが、“高璉”なのですね。また皇族でしょうか、側近の臣も“高翼”と名乗っています。姓である“高”は当然、国名の高句麗から取っているのです。
次は、百済伝です。
▲「義煕十二年(416年)、百済王余映を以って、使持節都督、百済諸軍事、鎮東将軍、百済王と為す。」(宋書百済伝)
この余映という王は、あの倭国に質となっていた腆支なのです。姓の“余”は、出身部族の扶余(ふよ)から取っているようですね。
倭国だって、同じことです。
●「高祖永初二年(421年)、詔して曰く、『倭讃、万里貢を修む。遠誠(えんせい。遠い地からの誠)宜しくあらわすべし。除授(じょじゅ。新しい官位を授ける)を賜うべし』と。」(宋書倭国伝)
自ら「倭讃」と名乗ったのです。
さて最も重要な検討対象は、『倭の五王』の宋書による事績と、古事記によるそれぞれの天皇の事績の比較です。書紀は「日本旧記」や百済三史料などで潤色しているので比較には不適当と思いますが、その都度参考程度に参照しましょう。
『五王』の方は時代を追って詳しく紹介しますが、「宋書」においては高句麗との戦いに悲痛な声をあげ、また「三国史記」においては相変わらず新羅と戦をしています。
しかし古事記において、仁徳以降の六代の記事の中で、大陸との関係を示す物は次だけなのです。
●「…また河瀬の舎人を定めたまひき。このとき呉人(くれひと。中国南方の人)参渡(まいわた)り来つ。その呉人を呉原に安置(お)きたまひき。故、その地を号(なづ)けて呉原といふ。」(古事記雄略記)
このことからも、倭国は大和にあらず、筑紫なり…とならざるを得ません。
少し先走りしましたので後ずさりして、高句麗好太王が亡くなるあたりまでの東アジアを見てみましょう。
▲「(永楽十七年、407年)好太王は歩騎五万を遣わし、倭寇を掃き尽くした。…官兵はこれを追って平壌を過ぎ、合戦し斬り殺しそそぎ尽くした。(部分)」(好太王碑)
▲「倭人、東辺を侵す。夏六月、また南辺を侵し、一百人を奪掠(だつりゃく)せり。」(三国史記新羅本紀、実聖尼師今六年(407年)条)
倭王讃の、あくなき侵略欲です。鉄と生口の獲得だったのでしょうか。そのような倭国の軍に対して、高句麗は五万の歩騎を派遣せざるを得なかったようです。
次は、新羅から見た倭国の強さの秘密…でしょうか。
▲「(実聖)王、倭人が対馬島に営(軍の基地)を置き、貯(たくわ)うるに兵革(へいかく。兵士のこと)資粮(しろう。兵器や食料)を以ってし、以って我を襲わんことを謀ると聞き、『我はその未だ発せざるに先んじて(倭軍の先手を取って)、精兵を揀(えら)び、兵儲(へいちょ。準備された兵力)を撃破せんと欲す』と。舒弗邯(新羅の官位)未斯品が曰く、『臣、聞くに、兵は凶器にして(兵者凶器也“国語”。武器というものは人を損なう不吉な道具である)、戦は危事なり。いわんやこ巨浸(きょしん。大海)を渉(わた)り、以って人を伐つをや。万一利を失わば、すなわち悔ゆるも追うべからず(そのとき悔やんでも追いつかない)。嶮(けん)に依りて関を設け、来たらばすなわちこれを禦(ふせ)ぎ、侵猾(しんかつ。攻撃されて乱れる)するを得さらしめ、便なれば(利があるとみれば)すなわち出でてこれを禽(とら)うるに若(し)かず。これいわゆる、人を致して、人に致されざる策の上なり』と。王、これに従う。」(三国史記新羅本紀、実聖尼師今七年(408年)条)
筑紫倭国は対馬に兵站基地をおいた、強大な海軍国家であったことがわかりますね。記紀には、このような記述(対馬に大和の基地があった…など)はどこを探してもありません。「倭」とは、やはり「筑紫」だったのです。
それにしても最近のブログで、韓国の人が『対馬はウリのもの』と云っている…とありましたが、とんでもない! もともと天照大神など海人の出生の地であり、古代よりわが国日本の領土なのです。上記のように、かの国の史料が証明していますから…。
▲「倭国、使いを遣わして夜明珠を送る。(腆支)王、優礼してこれを待(あしら)う。」(三国史記百済本記、腆支王五年(509年)条)
百済は、倭の保護国としてかわいがられているようです。
▲「(永楽二十年、410年)東扶余は、旧(もと)これ鄒牟(すうむ)王の属民であった。…(好太)王は自ら軍を師(ひき)いて、往きて討った。」(好太王碑)
好太王も、周囲の部族を討つべく東奔西走しているようです。
しかし一代の英雄、高句麗中興の好太王も、412年ついに息を引き取りました。20年ほどの治世でした。
そして翌413年、太子が立って長寿王となり、すぐさま(東)晋に使いを送りました。倭国との戦も小康状態を保ち、少し余裕が出たのでしょうか。
まず先ほどもありましたが、高句麗です。
▲「高句麗王高璉(こうれん)、晋安帝義煕九年(413年)、長史高翼(こうよく)を遣わし、表を奉り赭白馬を献ず。」(宋書高句麗伝)
この“高璉”は、当然長寿王ですね。一字名です。
偶然かどうか、倭国も使いしたようです。「晋書安帝紀」でわかります。
▲「是歳(義煕九年)、高句麗・倭国および西南夷銅頭大師、並びに方物を献ず。」(晋書安帝紀義煕九年(413年)条)
なお倭国については先に、「梁書」の『晋の安帝のとき、倭王讃あり』を紹介しましたね。ですから当然、倭王讃の使いです。「晋書」あるいは「宋書」の夷蛮伝になくとも、倭国も(東)晋に使いしていたことはこれで証明されたのです。
さて、今回はこの辺までとしましょう。
そして「宋書」によれば、倭王讃は425年に亡くなっているようです。次回は讃に比定せられている仁徳あるいは履中の事績を、「古事記」(参考として「日本書紀」)よりみてみることにします。
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