http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/21255604.html
九州豊前国の宇佐神宮の複雑さは、やはり3つの顔を持っていることに代表されていると思います。今のところ、宇佐の謎を追及しようという気持ちはさらさら持ち合わせてはいないのですが、最低限この謎の古社にどのような表情があるのかについてだけは触れておきたいと思います。
3つの顔は、しっかり社殿にも表現されており、一之御殿に応神天皇、二之御殿に比賣大神、三之御殿に神功皇后ということになっているわけですが、宇佐家の伝承では少々ニュアンスが異なるようです。しばし宇佐公康さんの著書『宇佐家伝承 古伝が語る古代史(木耳社)』から、宇佐家の言い分を眺めてみたいと思います。
――引用――
宇佐家の古伝によると、大神比義の心眼に童子の姿で幻じて、「誉田天皇広幡八幡麻呂」と名乗って出現した心霊は、応神天皇の神霊ではなく、神功皇后と武内宿禰との不義密通によって生まれ、四歳にして早世した誉田天皇と僭称する男児の亡霊である。本当の応神天皇は神武天皇の皇孫である。そのいわれは、神武天皇が東遷の途上、筑紫国菟狭の一柱騰宮に四年のあいだ滞在し、菟狭津彦命の妹、その実は妻の菟狭津媛命に娶って生まれた宇佐津臣命またの名は宇佐稚家(うさのわかや)が、越智宿禰(おちのすくね)の女常世織姫命(とこよおりひめのみこと)に娶って生まれた宇佐押人で、菟狭族から出て西日本を統一してから、中央に進出して古代日本の国家が成立したと伝えられている。
宇佐家の古伝によると、大神比義の心眼に童子の姿で幻じて、「誉田天皇広幡八幡麻呂」と名乗って出現した心霊は、応神天皇の神霊ではなく、神功皇后と武内宿禰との不義密通によって生まれ、四歳にして早世した誉田天皇と僭称する男児の亡霊である。本当の応神天皇は神武天皇の皇孫である。そのいわれは、神武天皇が東遷の途上、筑紫国菟狭の一柱騰宮に四年のあいだ滞在し、菟狭津彦命の妹、その実は妻の菟狭津媛命に娶って生まれた宇佐津臣命またの名は宇佐稚家(うさのわかや)が、越智宿禰(おちのすくね)の女常世織姫命(とこよおりひめのみこと)に娶って生まれた宇佐押人で、菟狭族から出て西日本を統一してから、中央に進出して古代日本の国家が成立したと伝えられている。
ハナからとてつもない話になりました。ここでまず注目しておきたいのは、私たちが通常応神天皇であると思っていた存在が、宇佐家の伝承では神功皇后と武内宿禰の不義密通の子であったという部分です。これは十分に予想がつくものでしたが、それとはまた別に具体的な応神天皇のモデルがいたということは驚きです。つまり、これを信じるならば、古代日本を成立させたのは神武天皇と菟狭族に連なる血統であるということになります。なるほど、これであれば宇佐が天皇家の重要事件に口出しできた謎が解明しやすくなります。
引き続き見てみましょう。
引き続き見てみましょう。
――引用――
神武天皇は菟狭を出立して、筑紫国の岡田宮に立ち寄り、さらに東遷の途についたが、古代日本国家統一のなかばにして病気になって、惜しくも安芸国の多祁理宮で亡くなった。そこで、神武天皇の兄と伝えられる景行天皇が継承して、九州地方の服従しない部族を平定するために、親征して各地に転戦したが、天皇もまた壮挙の途中、病気にかかり阿蘇の高原で亡くなったので、智保の高千穂嶺に葬った。「智保の高千穂嶺」の名は、『大日本史』にも見えていて阿蘇の馬見原高原をさしていうのであり、「筑紫の屋根」ともいわれ、現在の熊本県阿蘇郡蘇陽町大野にある幣立神社(日の宮ともいう)の鎮座地が、景行天皇の御陵であると伝える。
神武天皇は菟狭を出立して、筑紫国の岡田宮に立ち寄り、さらに東遷の途についたが、古代日本国家統一のなかばにして病気になって、惜しくも安芸国の多祁理宮で亡くなった。そこで、神武天皇の兄と伝えられる景行天皇が継承して、九州地方の服従しない部族を平定するために、親征して各地に転戦したが、天皇もまた壮挙の途中、病気にかかり阿蘇の高原で亡くなったので、智保の高千穂嶺に葬った。「智保の高千穂嶺」の名は、『大日本史』にも見えていて阿蘇の馬見原高原をさしていうのであり、「筑紫の屋根」ともいわれ、現在の熊本県阿蘇郡蘇陽町大野にある幣立神社(日の宮ともいう)の鎮座地が、景行天皇の御陵であると伝える。
この話によると、神武天皇は安芸国の「多祁理宮」で亡くなり、次代の景行天皇は阿蘇高原で亡くなり、智保の高千穂嶺に葬られたことになっております。
「多祁理宮」とは『古事記』にも現れる古社で、現在の広島県府中町の「多家神社」に比定されております。この神社の社伝では、当地は神武天皇が七年間滞在した皇居であるとの位置づけのようですが、宇佐家の伝承では志半ばの人生終焉の地であることになります。
神武天皇は果たして畿内に辿りつけたのでしょうか。
神武が安芸国で亡くなったのは、長髄彦と対戦する前か、その後かはわかりませんが、文面からはどちらにもとれそうです。
ちなみに、吉田大洋さんの『謎の出雲帝国(徳間書店)』において、出雲神族の末裔を自称する富さんの話によれば“神武天皇は七人いた”とのことで、少なくとも、防府、河内、熊野の三箇所で死んでいるのだと言います。
宇佐家、富家、これら各々の伝承を私なりに咀嚼するならば、神武天皇に比定できる人物はやはり複数いたと考えるのが適当なのかと思います。
また、この宇佐家の伝承において、景行天皇が神武天皇の兄であるということも衝撃です。
しかし、同伝承では景行天皇の活躍の舞台はあくまで九州のようで、その次の成務天皇――宇佐家伝承によれば神武天皇の第四皇子――に至っても長門国豊浦宮、筑前国香椎宮を拠点として政務を執り行っていたようですので、あくまで舞台が北九州・周防エリアから出るものではありません。
その成務天皇には子がいなかったとされており、景行天皇の子であるヤマトタケルの子、仲哀天皇がその後を継承したことになっております。この仲哀天皇の皇后が神功皇后であることは記紀に同じです。しかし、神功皇后は武内宿禰と不義密通をして誉田天皇を世に生み出したことになっているわけです。そこまでは古伝に触れずとも十分想像出来る範囲であったのですが、ただし、これが応神天皇とは別人であると伝わっているのです。そこが宇佐家に伝わる伝承の大きなミソかと思います。
「多祁理宮」とは『古事記』にも現れる古社で、現在の広島県府中町の「多家神社」に比定されております。この神社の社伝では、当地は神武天皇が七年間滞在した皇居であるとの位置づけのようですが、宇佐家の伝承では志半ばの人生終焉の地であることになります。
神武天皇は果たして畿内に辿りつけたのでしょうか。
神武が安芸国で亡くなったのは、長髄彦と対戦する前か、その後かはわかりませんが、文面からはどちらにもとれそうです。
ちなみに、吉田大洋さんの『謎の出雲帝国(徳間書店)』において、出雲神族の末裔を自称する富さんの話によれば“神武天皇は七人いた”とのことで、少なくとも、防府、河内、熊野の三箇所で死んでいるのだと言います。
宇佐家、富家、これら各々の伝承を私なりに咀嚼するならば、神武天皇に比定できる人物はやはり複数いたと考えるのが適当なのかと思います。
また、この宇佐家の伝承において、景行天皇が神武天皇の兄であるということも衝撃です。
しかし、同伝承では景行天皇の活躍の舞台はあくまで九州のようで、その次の成務天皇――宇佐家伝承によれば神武天皇の第四皇子――に至っても長門国豊浦宮、筑前国香椎宮を拠点として政務を執り行っていたようですので、あくまで舞台が北九州・周防エリアから出るものではありません。
その成務天皇には子がいなかったとされており、景行天皇の子であるヤマトタケルの子、仲哀天皇がその後を継承したことになっております。この仲哀天皇の皇后が神功皇后であることは記紀に同じです。しかし、神功皇后は武内宿禰と不義密通をして誉田天皇を世に生み出したことになっているわけです。そこまでは古伝に触れずとも十分想像出来る範囲であったのですが、ただし、これが応神天皇とは別人であると伝わっているのです。そこが宇佐家に伝わる伝承の大きなミソかと思います。
尚、成務天皇の御陵は長門国一の宮の鎮座地であると伝えられているようで、すなわち山口県下関市一の宮町の「住吉神社」がそれに該当するということですから、少なくともそこまでは天皇家が中央に進出した気配はありません。
一体、天皇家はいつ畿内に東遷したというのでしょうか。
――引用――
宇佐家の古伝によると、天網恢恢疎(てんもうかいかいそ)にして漏らさず、勧善懲悪・正義人道の神であらされられる八幡さまは、 ~略~ 神武天皇の皇子ウサツオミノミコト(宇佐都臣命)、またの名をウサノワカヤ(宇佐稚屋)の子、すなわち天皇の皇孫ウサノオシト(宇佐押人)に現じ給い、 ~略~ 同じく神武天皇の皇子で、ウサツオミノミコトの実弟でウサノオシトの叔父に当るミモロワケノミコト(御諸別命)の権謀術数。知勇兼備の政治力と軍事力とによって、仲哀天皇が、景行天皇の皇子のオオエノミコト(大江王)の女オオナカツヒメノミコト(大中津比売命)に娶って生まれたカゴサカノミコ(香坂王)と、オシクマノミコ(忍熊王)兄弟の反抗に打ち勝った神功皇后と武内宿禰、ならびに、その子の誉田天皇の陰謀と軍勢を打ち破って中央に進出し、応神天皇として大和国高市郡白橿村大字大軽のカルシマノトヨアキラノミヤ(軽島豊明宮)で即位し、都をこの所に定め、はじめて天下国家を統一し給うたということである。
宇佐家の古伝によると、天網恢恢疎(てんもうかいかいそ)にして漏らさず、勧善懲悪・正義人道の神であらされられる八幡さまは、 ~略~ 神武天皇の皇子ウサツオミノミコト(宇佐都臣命)、またの名をウサノワカヤ(宇佐稚屋)の子、すなわち天皇の皇孫ウサノオシト(宇佐押人)に現じ給い、 ~略~ 同じく神武天皇の皇子で、ウサツオミノミコトの実弟でウサノオシトの叔父に当るミモロワケノミコト(御諸別命)の権謀術数。知勇兼備の政治力と軍事力とによって、仲哀天皇が、景行天皇の皇子のオオエノミコト(大江王)の女オオナカツヒメノミコト(大中津比売命)に娶って生まれたカゴサカノミコ(香坂王)と、オシクマノミコ(忍熊王)兄弟の反抗に打ち勝った神功皇后と武内宿禰、ならびに、その子の誉田天皇の陰謀と軍勢を打ち破って中央に進出し、応神天皇として大和国高市郡白橿村大字大軽のカルシマノトヨアキラノミヤ(軽島豊明宮)で即位し、都をこの所に定め、はじめて天下国家を統一し給うたということである。
まるで、バトルロイヤルを思わせる展開です。
このような展開を経て、宇佐家の古伝としては三つの顔を、一之御殿「宇佐押人すなわち真の応神天皇」、二之御殿「菟狭津媛すなわち比賣大神」、三之御殿「常世織姫命」としているのです。
それにしても宇佐家の伝承は、一見正当な流れを阻んだ“悪役”武内宿禰と神功皇后系「誉田天皇一派」を、“正義”の宇佐系「応神天皇一派」が成敗したかの図式にも見て取れますが、途中の叙情的表現に惑わされずに結果だけを見れば、つまり景行天皇系に渡ってしまった流れを宇佐系――神武天皇系――の流れに引き戻した、という図式であることに気付きます。
いずれ『日本書紀』のような単純に敵味方の図式ではなさそうで、おそらくはかなり血生臭い混沌とした戦国時代であったのでしょう。
ふと思うに、長髄彦がここにどう絡んでいるかなどは特に書いておりません。しいてあげれば香坂王と忍熊王兄弟の役割は――『日本書紀』でもそうでしたが――よく似ているようには思えます。
さて私は、そもそも八幡信仰は、辛嶋氏が奉斎してきた弥勒信仰を内包させた仏教であり、しかしそれは純然たる仏教ではなく、そこに道教、シャーマニズムを取り入れ、あくまで神道としてオリジナルな形で昇華させたハイブリットな新興宗教であったと考えます。どうやら、宇佐家はそれを自らの系譜の中に組み入れてしまおうとしているようです。
つまり、私には無理を感じるのです。古伝のこの部分だけ見るに、時間軸が相当混乱しているかに思えます。少々憎まれ口をたたかせてもらえば、もしかしたら、この話は純粋な宇佐家の古伝ではなく、著者宇佐公康さんの私見が入っているのではないでしょうか。どうも初期諸天皇の実在を否定する立場の、極めて現代的な“闕史(けっし)八代”の概念が紛れこんでいるように思えるのです。私の勘違いでしょうか。
それはさておき、私は、宇佐系は実際には自分たちの流れには戻せなかったのだと思います。だからこそ、宇佐家はなんとかして国家に発言権のある辛島氏由来の“八幡神”というものを、自らの歴史の中に盛り込もうとしたのではないでしょうか。つまり、3つの顔のうち、宇佐家の顔はやはりあくまで二之御殿のみであると考えております。
八幡神を代表する一之御殿はあくまで辛嶋氏――秦氏――、三之御殿は大神氏の顔であったと考えます。
それでも、宇佐神宮そのものがなんらかの正当性を持っていたことは、天皇家の対応を見れば疑う余地もありません。
とはいえ、やはり応神天皇はあくまで神功皇后の子「誉田天皇」であると思います。父親が武内宿禰か仲哀天皇かは別として、いずれこの系譜がその後の天皇家の系譜になったのだと思うのです。仮にそうだとすれば、誉田系の天皇家は、正当な初代神武天皇の皇后であった「菟狭津媛――比賣大神――」に対しては常に後ろめたさが残っていたはずです。そこにひょんな縁で秦氏が混入してしまいました。おかげで、秦氏がもたらした最新の呪術性が目に見える即効的な威力として宇佐の迫力をブースターのごとくパワーアップし、結果的に天皇家に対する“連合宇佐”の強力な発言権に結び付いたものと考えるのです。
正直なところ、菟狭津媛が果たして神武天皇の皇后であったか否かについての基本的な疑念も残っております。どうも二重三重のトラップが仕掛けられているように思え、ここは結論めいた私見を出さないことにしておきます。
このような展開を経て、宇佐家の古伝としては三つの顔を、一之御殿「宇佐押人すなわち真の応神天皇」、二之御殿「菟狭津媛すなわち比賣大神」、三之御殿「常世織姫命」としているのです。
それにしても宇佐家の伝承は、一見正当な流れを阻んだ“悪役”武内宿禰と神功皇后系「誉田天皇一派」を、“正義”の宇佐系「応神天皇一派」が成敗したかの図式にも見て取れますが、途中の叙情的表現に惑わされずに結果だけを見れば、つまり景行天皇系に渡ってしまった流れを宇佐系――神武天皇系――の流れに引き戻した、という図式であることに気付きます。
いずれ『日本書紀』のような単純に敵味方の図式ではなさそうで、おそらくはかなり血生臭い混沌とした戦国時代であったのでしょう。
ふと思うに、長髄彦がここにどう絡んでいるかなどは特に書いておりません。しいてあげれば香坂王と忍熊王兄弟の役割は――『日本書紀』でもそうでしたが――よく似ているようには思えます。
さて私は、そもそも八幡信仰は、辛嶋氏が奉斎してきた弥勒信仰を内包させた仏教であり、しかしそれは純然たる仏教ではなく、そこに道教、シャーマニズムを取り入れ、あくまで神道としてオリジナルな形で昇華させたハイブリットな新興宗教であったと考えます。どうやら、宇佐家はそれを自らの系譜の中に組み入れてしまおうとしているようです。
つまり、私には無理を感じるのです。古伝のこの部分だけ見るに、時間軸が相当混乱しているかに思えます。少々憎まれ口をたたかせてもらえば、もしかしたら、この話は純粋な宇佐家の古伝ではなく、著者宇佐公康さんの私見が入っているのではないでしょうか。どうも初期諸天皇の実在を否定する立場の、極めて現代的な“闕史(けっし)八代”の概念が紛れこんでいるように思えるのです。私の勘違いでしょうか。
それはさておき、私は、宇佐系は実際には自分たちの流れには戻せなかったのだと思います。だからこそ、宇佐家はなんとかして国家に発言権のある辛島氏由来の“八幡神”というものを、自らの歴史の中に盛り込もうとしたのではないでしょうか。つまり、3つの顔のうち、宇佐家の顔はやはりあくまで二之御殿のみであると考えております。
八幡神を代表する一之御殿はあくまで辛嶋氏――秦氏――、三之御殿は大神氏の顔であったと考えます。
それでも、宇佐神宮そのものがなんらかの正当性を持っていたことは、天皇家の対応を見れば疑う余地もありません。
とはいえ、やはり応神天皇はあくまで神功皇后の子「誉田天皇」であると思います。父親が武内宿禰か仲哀天皇かは別として、いずれこの系譜がその後の天皇家の系譜になったのだと思うのです。仮にそうだとすれば、誉田系の天皇家は、正当な初代神武天皇の皇后であった「菟狭津媛――比賣大神――」に対しては常に後ろめたさが残っていたはずです。そこにひょんな縁で秦氏が混入してしまいました。おかげで、秦氏がもたらした最新の呪術性が目に見える即効的な威力として宇佐の迫力をブースターのごとくパワーアップし、結果的に天皇家に対する“連合宇佐”の強力な発言権に結び付いたものと考えるのです。
正直なところ、菟狭津媛が果たして神武天皇の皇后であったか否かについての基本的な疑念も残っております。どうも二重三重のトラップが仕掛けられているように思え、ここは結論めいた私見を出さないことにしておきます。
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