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神功皇后と日葉酢媛
日葉酢媛(ひばすひめ)とは
日葉酢媛は、垂仁天皇の2番目の皇后である。
「日本書紀」によれば、垂仁天皇の1番目の皇后の狭穂姫命(さほひめ)が兄の狭穂彦の反乱に巻き込まれて、同天皇5年に薨じた後、狭穂姫命の遺志により同15年2月甲子(10日)に丹波(後の丹後国を含む広義の丹波国)から後宮に迎えられ、景行天皇など5人の子供をもうけた。
日葉酢媛は、同年8月壬午(1日)に立后、同32年7月己卯(6日)に薨じたとされる。
またその葬儀に際しては、それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲されるようになったと言う。
怪しい「日本書紀」の記述
「日本書紀」の垂仁天皇と景行天皇に関する記述は、極めて怪しく後世の脚色が甚だしいとされる。
「日本書紀」は、皇室と他の古代氏族諸氏の系譜を世代比較できないように、あえて垂仁天皇と景行天皇に関する記述を脚色したらしい。
そもそも 景行天皇は、垂仁天皇の息子ではなく 倭建命の子だった可能性が 高い。
となると日葉酢媛が景行天皇を生んだと言う話は眉唾になる訳だ。
日葉酢媛が生んだ5人の中に倭建命(日本武尊)の叔母で東征に際して草薙の剣を与えたと言う倭姫命(やまとひめのみこ)も含まれているが、倭姫命は崇神天皇の娘で天照大神を祀った(現伊勢神宮)皇女の豊鍬入姫命と同一人物とされているから、日葉酢媛の娘でがなくなる。
崇神天皇から応神天皇に至る系譜は6世代とされるが、
実際は「
①崇神天皇→
②垂仁・景行→
③成務→
④仲哀・応神」の4世代らしい。
応神天皇は、別の家系である息長氏族から皇統に入った皇位剥奪者の位置づけになる。
日葉酢媛は、倭建命の皇后
記紀には、成務天皇の皇后の記述がないらしい。
垂仁・景行天皇の治世期間は、日本書紀では99年とされるが、実際は数年であったと見られている。
そんな慌ただしい垂仁の治世期間に、5人もの子供を生むのは考えにくいから、
日葉酢媛は、垂仁天皇の皇后ではなく倭建命の皇后であったと考えられる。
神功皇后が息長氏族ではなく大帯日売(オホタラシヒメ)と言う古い呼称に通じることを考慮すると、
神功皇后は、仲哀天皇の皇后ではなく成務天皇の皇后であったと考えられる。
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景行天皇の意思を 継ぐ 最後の一人(五十城入彦)は、成務天皇の 実弟でした。
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