http://www.syamashita.net/history/himiko/jituzai_jinbutu.htm
女王 卑弥呼 時代の 実在 人物
次ぎに魏志に登場する邪馬台国の役人を実在人物として特定しましょう。
③(邪馬台国の)「官は伊支馬(いきま)、次は弥馬升(みまし)、次は弥馬獲支(みまかき)、次は奴佳■(ぬかて)と云う。国には住家が七万戸余りある」60)とありますが、年月は書かれていません。しかし後項にみられる年月から、記紀で云う崇神天皇時代か、垂仁天皇時代と見られます。(注:■は革+是=て)
「七万戸余り」というのは大和国全体をさすのか大和国の首都をさしているのかは曖昧ですが、当時の首都大和の戸数とすれば魏志の誇張とみられます。
ここに登場する人名について実在したとみられる人々を探して人物を比定してみます。登場人物は当時の大王家の身内か側近として仕えていた人々とみられます。
まず、邪馬台国の長官としている「伊支馬(いきま)」は、書紀が第10代崇神天皇の太子としている活目(いくめ)入彦五十狭茅尊58)で、後に第11代垂仁天皇(紀)と記されたた人物です。
垂仁天皇陵に比定されている宝来山古墳(奈良市尼辻西町)の陵前碑等で解読された墓碑「庚午七月一日薨御年七十一歳」から、生存年代は180-250年59)とみられています。まさに卑弥呼の時代に生きた人物です。
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次席の「弥馬升(みまし)」は垂仁天皇の后日葉酢媛(紀)とみる説58)があります。同じく解読された墓碑「氷羽州比賣命墓 癸丑七月六日年四十二歳」から生存年代は192-233年59)とみられています。
しかし書紀ではこの頃は崇神天皇(御間城(みまき)入彦五十瓊殖尊(記では御真木入日子印恵命)の時代です。「弥馬升(みまし)」の音韻からみて御真木入日子印恵命(157-198年58))、つまり書紀の云う崇神天皇ではないかと考えます。
魏志の編者は長官と次席を聞き違えとみられます。後にも魏志の致命的な間違いを指摘しました。
そして「弥馬獲支(みまかき)」は崇神紀に重臣として登場する大水口(みなくち)宿禰(大は尊称で本名は水口とみられ、物部氏一族で穂積臣の遠祖33))とみられます。
旧事紀では饒速日尊(ニギハヤヒ)の6世孫で穂積臣・采女臣等の祖62)とし両者の記述が一致しています。また景行天皇の妃美波迦斯毘賣(みはかしひめ)ともみる説58)もあり再考の余地を残しておきます。
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「奴佳■(ぬかて)」は書紀では垂仁天皇の妃渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ)、記では沼羽田之入比売)58)とみられ、丹波道主王の娘で生存年代は195-228年59)です。
④「その国はもと男王を立てて七、八十年間統治したが、その後内乱が起こり暦年相争った。最終的に一女子を共立、王とすることで内乱が治まった。名付けて卑弥呼と曰ふ。卑弥呼は鬼道の宗主として崇められているが、年輩にして夫や婿はなく、男弟が居て政治を補佐している云々。宮室・楼観に住み、城柵を厳重に設け常に兵が守衛している60)」と。
しかし「後漢書」には「桓帝・霊帝の治世の間(146-189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い何年も王が不在になった。一人の女があり名を卑弥呼と言う。年長になっても嫁がず、鬼道に仕えてよく衆を惑わす。ここに於いて王に共立した60)」と。
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また「梁書」には、「後漢の霊帝の光和年間(178-184年)倭国は乱れ暦年攻め合うに及び、卑弥呼という一人の女子を共立して王とした。卑弥呼は夫が無く鬼道を用いてよく衆を惑わした60)」とあります。
さらに「隋書」は、「桓帝・霊帝の間(146年-189年)はその国(倭国)が大いに乱れ互いに攻め合い、暦年、王がいなかった。卑弥呼という名の女子がおり、鬼道を用いてよく衆を惑わしたので、ここに於いて国人は王に共立した60)」と。
そして「北史」は、「霊帝の光和年間(178年-184年)、その国(倭国)は乱れ互いが順番に攻め合い暦年、王がいなかった。卑弥呼という女子がおり、鬼道を用いてよく衆を惑わしたので国人は王に共立した。夫は無かった60)」と書いています。
これら五書は内乱については時期、期間では異なるが、いずれも2世紀後半としている点は一致しています。
ここで「暦年」の解釈を「一年間」とみるか、「何年も経る」とするかは議論の余地がありますが、崇神天皇が即位する前後に内乱があったと推測できます。
書紀は崇神天皇10年紀に、孝元天皇の妃埴安媛の子・武埴安彦(たけはにやすひこ:建波邇夜須毘古命(記)128~167年59))と妻の吾田媛による乱17)のことを書いていますがこの事件を指しているのでしょう。しかしその真相追究は本稿の狙いでないので、ここでは深入りしないことにします。
ともあれその時「倭迹迹日百襲姫は聰明く叡智(さか)しくして、よく未然を識(し)りたまへり」と、その謀反を予見したと書いていますから、先にも書いた王女(倭迹迹日百襲姫)の没年は198年とすれば、この時はまだ52歳で健在だったとみられます。
しかし終生独身をとおしたようで、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の後裔はみあたりません。
そしてここで云う「男弟」は倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)の実弟、五十狭芹(いそさせり:後に大吉備津日子とも。122-198年8月2日77歳没59))とみられます。
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ところで当時の大王(崇神天皇157~198年12月7日42歳)と、倭迹迹日百襲姫(115-198年10月20日84歳没)、それに実弟大吉備津日子命の没年が同年だったことが分かりました。
崇神天皇は42歳、大吉備津日子77歳、倭迹迹日百襲姫は84歳です。
77歳、84歳といえば現在でも平均寿命で、むしろ倭迹迹日百襲姫の84歳は当時としては異例の長寿と云えます。
しかし崇神天皇の42歳は少し早すぎるようにも思え、事件か事故にでも遭われたのかも知れませんが、記紀は死因について何も語っていません。
崇神天皇(御真木入日子印恵命)の最期を「天皇、践祚(即位)して六十八年の冬十二月戊申朔壬子(5日)に崩りましぬ。時に年百二十歳。明年の秋八月甲辰の朔甲寅(11日)に山邊道上陵に葬りまつる33)」です。
百二十歳はどう考えても信じられません。墓碑の没年42歳からみて三倍近くに引き延ばしたとみえます。
宮内庁が崇神天皇陵に比定している三輪山に近い天理市柳本町の行灯山古墳(あんどんやまこふん)近傍から発見された墓碑に「印惠命墓 戊寅十二月七日薨 年四十二歳59)」とあり、没した月日だけは、ほぼ合っているのもまた不思議です。
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⑤「景初三(239)年六月、倭の女王は大夫難升米(なしめ)等を遣わして帯方郡役所(今の平壌あたり)に詣り、天子に詣りて朝献を求めてきた。太守(帯方郡の長官)劉夏(りゅうか)は官吏を遣わし率いて京都(魏朝の都洛陽)に詣でる。
その年の十二月、詔書して倭の女王に報せて云う。「親魏倭王卑彌呼」に制詔する。帯方太守の劉夏(りゅうか)は使いを遣わし、汝の大夫難升米(なしめ)・次席都市牛利(つしぐり)を送り、汝の献ずる男の生口四人・女の生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。
汝の所は遠く越えて来たるに乃ち使いを遣わして貢献する。これは汝の忠孝で我は甚だ汝を哀れむ。・・難升米(なしめ)には率善中郎将となし、牛利(ぐり)は率善校尉とし銀印青綬を仮し引見労賜して還遣わす」と、太守の劉夏(りゅうか)に詔書を託したとあります。
さてこの時、大夫難升米(なしめ)等を遣わした「倭の女王」は生存年代からみて、先の倭迹迹日百襲姫ではあり得ません。そして大夫難升米(なしめ)とはいったい誰をさしているのかと、当時の天皇家系譜を精査してみましたが、それらしき人物は見当たりません。
大夫(たいふ)とは、中国は漢や魏の時代から朝廷役人の名称で、邪馬台国もそれを見習って付けた職名です。
そこで当時朝廷の重臣だったと思われる氏族の系譜をあれこれと探したところ、中臣氏の系譜に天児屋根命から8代目に神聞勝(かむききかつ)と云う人物があって、常陸風土記に「崇神天皇の時、鹿島に留まり祭祀に奉仕云々」の記事があり「親を梨津臣(なしつおみ)」としています。
梨津臣(なしつおみ)は開化天皇時代から実在したとみられます。そして梨津臣の別名として梨跡臣・梨迹臣命としています。時代はまさに崇神~垂仁天皇(180-250年没)時代の人物です。
したがって、魏志が記した大夫難升米(なしめ)は中臣氏の梨津臣(なしつおみ)とみられ、将軍だったとみられます。しかしこの時はすでに高齢ではなかったかと考えられますが生存年代は不明です。
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そして次席の都市牛利(牛利(ぐり))は、勘注系図の海部氏一族にみえる7世孫とする武諸隅、別名・由碁理(ゆぐり)91)が、また崇神紀には武諸隅(矢田部造の遠祖)がみられます。
旧事紀には饒速日尊の児天香語山命の後裔とする尾張氏系譜にも「七世孫武諸隅(たけもろずみ)は孝昭天皇の世(在位65-88年)に大臣となり葛木直の祖大諸見足尼(おおもろずみすくね)の女・子諸見己姫を妻とし一人の男を生む」とでており、海部氏と尾張氏は同族とみられます。
また武諸隅(たけもろずみ)の妹大倭久邇阿禮姫((おおやまとくにあれひめ)亦云妹大海姫)ともあり、倭國阿禮比賣命((やまとくにあれひめ)の生存年代(145-194年没49歳没59))からみてこの時の使者で次席の都市牛利(牛利)は尾張一族の由碁理(ゆぐり:武諸隅)とみられます。
倭國阿禮比賣((やまとくにあれひめ)は孝霊天皇(賦斗迩命・82-136年55歳没59))の妃となり、倭迹迹日百襲姫(115-198年84歳没)、彦五十狭芹彦(亦名大吉備津彦122-198年77歳没)、倭迩迩稚屋姫(123-158:36歳没59))の三人を生んでいます。つまり新羅本紀や魏志に云う卑弥呼(倭迹迹日百襲姫)の実母です。
余談ですが、彦五十狭芹彦(亦名大吉備津彦)は、書紀の崇神紀には四道将軍の一人として「吉備津彦を以て西道(後の山陽道)に遣わす。・・もし従わぬ者あれば兵をあげて伐て」と指示されており、後世に桃太郎伝説で鬼退治の主役・桃太郎として描かれています。
もと備中国一宮の岡山市の吉備津彦神社で桃太郎として祀られ、その子孫は吉備の国造となり吉備臣を名乗っています。
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さて、魏志はこの時の女王としているのは、はたして誰であろうか。さきに見たように倭迹迹日百襲姫(女王卑弥呼)の没年は198年とすれば、その後代の王女と見なければなりません。
勘注系図と旧事紀の双方に登場する彦火明命(饒速日命)六世孫に、大倭姫(亦は竹野姫、亦の名は大海霊姫、亦の名宇那比姫、亦の名天造日女)が、また七世孫に建諸隅命(一云由碁理)の妹大海姫命62)94)がみられ、発見されている意富阿麻比賣命((おふあまひめ)の墓碑は「庚寅九月十四日 年五十二歳」で生存年代は159-210年59)とみられています。
ただ後項⑨にみられるように「卑弥呼(倭迹迹日百襲姫)が亡くなったとき十三歳の臺与」の条件に合致しません。しかし「大倭姫」からみて大物の女性で、しかも亦の名「大海霊姫((おおあまひるめひめ)」は卑弥呼の可能性8)は捨てきれませんが後項で検証します。
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⑥「正治四(243)年、倭王はまた大夫の伊声耆(いせき)・掖邪狗(えやく)等八人を遣わし生口・倭錦・絳青?・緜衣・帛布・丹木・柎・短弓矢を献じた。掖邪狗等は率善中郎将の印綬を等しく給わる」と。
献納物にある「柎」は、フォントが無いのでそれに近い文字を仮植しましたが、原文はケダモノヘンに付となっていますが(ゆづか:弓の束)の誤記ではないかと考えられます。
献使の大夫伊声耆(いせき)は垂仁天皇の皇子・五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ:218-278年)とみられ、また掖邪狗(えやく)は同じく皇子池速別(記では伊許婆夜和氣(いこはやわけ)(221-273年)とみられます。
⑦「正治六(245)年、詔して倭の難升米(なしめ)に黄幢(こうとう)を賜い郡(帯方)に托して仮綬する」と。
黄幢(こうとう)とは魏では軍を指揮する黄色い軍旗16)のことです。ここでの難升米は前述の梨津臣ですが黄幢を授けたのは何の為だったか次のところを読めば理解できます。
⑧「正治八(247)年、太守の王■(おうき)が魏の役所に到る。倭の女王卑弥呼は狗奴国の男王卑弥弓呼と、もともと不和である。倭は載斯・鳥越等を遣わし帯方郡に来たりて交戦状況を説明する。塞曹掾史張政(ちょうせい)等を遣わして詔書・黄幢を授け、難升米(なしめ)に拜仮し、さとし文を告げて激励した」と。(注:■は斤+頁=き)
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卑弥呼こと台与は崇神天皇の王女豊鍬入日賣命だった
さて、正治八(247)年の「倭の女王 卑弥呼」は年代からみて斎王・倭迹迹日百襲姫の後を継いだとみられる崇神天皇の皇女・豊鍬入姫58)とみらます。倭迹迹日百襲姫が亡くなられ、すでに49年後のことです。
書紀には崇神(すじん)天皇五年条に「国内に疫病が流行して民が死亡し、その数は大半に及んだ」とし、同六年条に「百姓は流離へぬ、あるいは背叛く者あり。
その勢いは(天皇の)徳を以ても治めることができない。・・これより先に天照大神・倭大国魂の二柱の神を天皇の大殿内に祀っていたが、勢い畏れて共に住むことができなかった。
故に天照大神を豊鍬入姫命に託して倭の笠縫邑に祭る云々。亦、日本大国魂神(大歳尊)を渟名城入姫に託して祭らしむ云々」と。
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そして垂仁天皇二十五年三月十日条に「天照大神を豊耜入姫命より離ち倭姫命(垂仁天皇皇女)に託した云々。伊勢に鎮まる」とあり、こうした記述をみれば、豊鍬入姫も王女でしかも神に仕える巫女(古くは巫女)であり斎王の職にあったとみられ、魏志に云うこの時の卑弥呼とみられます。
記は「豊■入比売(とよすきいりひめ)」と書き、「伊勢の大神の宮を拝き祭りき」とありまが、「伊勢の大神云々」は伊勢社の起原を古く遡らせようとする書紀の作為説話33)とみられています。(注:■は金+且=すき)
ともあれ、この時に使者として派遣された載斯(さいし)は、たぶん垂仁天皇の王子伊賀帶日子(いかたらしひこ:記では五十日帯日子王(228-271年)とみられ、鳥越(うえつ)は同じく垂仁天皇の王子落別王(おちわけ:233-288年)とみられます。
それぞれ在世年代からみて、まだ19歳と14歳の少年で現在から考えれば若すぎる年齢ですが、古代ではもう一人前の大人で、すでに元服年齢16)を超えています。
また魏志には「載斯(さいし)・鳥越(うえつ)等」として名前は出ていませんが年配の人物「等」が同伴しているとみえます。しかも、狗奴国(くなこく)との交戦状況を説明するだけの使いとしては十分です。
大夫難升米(梨津臣)あての詔書・黄幢を授けるよう指示され、さとし文を受けて激励されたものとみられます。
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ところで大和高田市築山字城山の築山古墳近傍から碑石に書かれた豐■入日賣命の墓碑が解読されています。(注:■は金+且=すき)。豐■入日賣命(とよすきいりひめ)は豊鍬入姫命・豊耜入姫命とも書かれています。
それによると「豐■入日賣(とよすきいりひめ)命墓 戊辰年七月十四日薨 年六十四歳」とあり、これを解読した池田仁三氏は、薨年の戊辰年を西暦248年と比定59)しています。薨年を248年、没年齢64歳とみれば185年誕生となり、この年の豊鍬入姫は亡くなる1年前のことで63歳となります。
築山古墳は周辺に狐井塚古墳、コンピラ山古墳などの陪塚を持ち、全長210メートルの巨大な前方後円墳です。ただこの古墳もこれまで築造年代が5世紀前葉と推定されていますが、むしろ古墳の築造年代の推定が違っている可能性があります。
ところで豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)は、大神神社の摂社檜原神社境内の豊鍬入姫宮に祀られています。
やはり倭迹迹日百襲姫の没後、大神神社の巫女として祭祀を司った大和国王家の王女だった確かな証しです。
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さて、この時交戦状態にあった狗奴国(くなこく)と男王卑弥弓呼(ひみくこ)について考察してみると、魏志は「狗奴国(くなこく)は邪馬台国の南方にあって服属せず。卑弥呼は年来これと不和であった」としています。
邪馬台国畿内説に立つ論者は狗奴国(くなこく)の位置を紀伊半島の熊野、濃尾平野の桑名、加納、毛野国等に、また北九州説論者は肥後国菊池郡、球磨郡等に比定して論戦をはっています。畿内説でも熊襲(くまそ)に比定する論者もいます。
これまでの考証や邪馬台国の構成からみて狗奴国(くなこく)の勢力範囲は熊本県球磨川流域から熊本県北部か福岡県南部までと考えられ、記が記している熊曽(くまそ)で肥後(熊本県)に比定するのが妥当と考えられます。
書紀では熊襲(熊曽)は国名としてよりも大和朝廷に従わぬ者の代名詞として使われている記述が多くみられます。
狗奴国は魏志が記しているように「次に奴国(なこく:博多辺り)あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり、男子を王となす」と。
また後漢書では、「女王国より東(実際は南)、海を度ること千余里、狗奴国に至る」と書いているところをみれば九州南部の熊襲(熊曽国)とみるのが自然です。
熊襲ははるか須佐之男尊の時代でも平定出来ていなかった2),43),46)とみられ、その後倭武や仲哀天皇時代でも手こずっていた記述33),44),68)がみえます。熊襲国には代々、気骨のある領主がいたのでしょう。
狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみくこ)については史料がありませんので人物の特定は困難です。
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⑨「卑弥呼、以て死す。大きな冢(ちょう:墓)が作られた。冢の径は百余歩で百人以上の奴婢が殉葬された。代わって男王を立てたが国内は治らず、互いに争いが続き千人以上の人々を殺し合った。
再び女王として卑弥呼の宗女十三歳の臺与(とよ:台与)を立てたところ遂に国中の争いは治まった。政等は檄を以て臺与に諭告げた」と。宗女とは本家あるいは同族の女性です。
「臺与は倭の大夫率善中郎将の掖邪狗(えやく:垂仁の皇子池速別(いこはやわけ)、記では伊許婆夜和氣命(221-273年)等、二十人を遣わし張政等が帰るのを送って随行した。
よりて朝廷(役所)に到り、男女生口(奴隷か)三十人を献上し、白珠五千個、孔青大句珠(穴の開いたヒスイの大玉)二枚、異文雑錦(錦に似た織物)二十匹を献上した」と、魏志の倭人条は終わっています。
魏志はこの時、卑弥呼は狗奴国との交戦で死んだとは書いていません。またいつ死んだとも書いていませんが、前出の正治八(247)年以降とみなければなりません。
古代漢語の専門家によれば「以死」の意味は、「・・によって死す」と云うより、ただ「死んだ」というだけの意味だという。
この時に死んだとする卑弥呼は、丁度248年の豊鍬入姫の没年にあたります。しかも倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)が亡くなった198年は、豊鍬入姫(とよすきいりひめ:臺与)が13歳の年にあたり、魏志の記述とぴたり一致します。
そして豊鍬入姫(臺与)は倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)の宗女、つまり邪馬台国王家の女性です。
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次項で紹介するように内藤虎次郎が比定した倭姫命も同族の女性ではあるものの、誕生は223年と比定されていますから年齢が合わないばかりか臺与(台与)の音韻にも合致しません。
ところで、魏志は卑弥呼こと倭迹迹日百襲姫の死を248年頃ととれるような位置に書いたのが間違いで、ここでの「卑弥呼の死」はまさに臺与こと豊鍬入姫(とよすきいりひめ)とみなければなりません。
したがって「卑弥呼、以死」の文言は、⑤「景初三(239)年六月、倭の女王云々」より前に書くべきものを、魏志の編者は位置を間違えたとみられます。あえてこの位置に書くとすれば、「臺与、以死」とすればよかったのです。
長年続いてきた卑弥呼議論も、このことに気付かずいるのでいつまでも決着がつかないでいたのです。
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魏志の編者・陳寿も色々な伝聞をもとに書いているのですから二人の卑弥呼混同したのもやむをえないことでしょう。
池田仁三氏も「卑弥呼、以て死す」の文言を書いた位置がおかしいことを指摘58)しています。
これで女王卑弥呼(倭母母曾毘賣命:やまとももそひめ)、これを継いだ台与こと(卑弥呼・豐鋤入日賣命:とよすきいりひめ)、それに邪馬台国の官(役人)名や魏王朝に派遣された献使らの人名は、ほぼ間違いなく実在人物として特定できたと思います。
ところでこの時代は記紀によれば男王即ち、天皇は崇神天皇(御真木入日子印恵命)で、太子は伊久米伊理毘古伊佐知命(後の垂仁天皇)となっていますが、魏志に云う伊支馬(活目入彦五十狭茅尊=垂仁天皇)や崇神天皇(御真木入日子印恵)の遣いは中国や朝鮮半島諸国の史書には全くみられません。
107年に倭国王師升等(わの・くにおしひと:孝安天皇=大倭帯日子國押人命)が後漢朝に献使を送って以来、約140年にもなります。
当時の大和国は外交外務の要職はもっぱら卑弥呼(倭迹迹日百襲姫や豊鍬入姫)に頼っていたのでしょうか。卑弥呼は巫女役の他、外交を一手に司っていたとみられます。
とすれば、崇神天皇や垂仁天皇は、はたして大王であったのか疑われますが予断をもっての推測は謹んでおきます。
記紀は馬鹿げた創作説話を書くよりも、こうした大和国王朝の外交情勢を魏志以上に詳しく残して欲しかったものです。
卑弥呼時代における邪馬台国(大和国)王家と重臣等、実在人物の生没年59)、それに関係史料の主な記事を対にして一括表示すると次表のようになります。(邪馬台国王家の卑弥呼時代の実在人物年表)
ただ各天皇の在位期間は、それぞれの天皇は生前譲位はなかったものと見なして筆者が推算したものです。
これをみれば魏志が記した邪馬台国の登場人物や当時の実在人物の構成が一目瞭然です。また、記紀の作為や魏志の間違った記述も判然とします。
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