倭(왜)

ホツマツ- 임나.

라디오에요 2011. 3. 10. 18:49

http://www.hotsuma.gr.jp/aya/aya33_34.html

 

みかど崇神(すじん)の御世(みよ)
-伝染病を退治し、初めて平和国家を樹立する

 アスズ六百二十一年一月十三日、皇太子イソニエは五十二才の時即位して、ミマキイリヒコ天皇(アマツキミ)となられました。

 三年九日 磯城(シギ)のミズカキ宮を新都としました。
 四年十月二十三日、詔のり。
 私が天神皇祖から授かって受け継いだ三種神器は、クニトコタチの神璽(カンオシデ)とアマテル神のヤタ鏡、オオクニタマのヤエガキの剣です。
 この神器を宮中に祭りミト神(御トの教え、帝王学)として、常に敬い拝礼してきました。寝起きする殿床(とのゆか)も一緒なら、食事の器も同じくし、神と共に暮らしています。しかし近頃は、このように身近に気安く祭るのは、逆に神の威光を損なうのではないかと畏れを感じるようになり心が安まる日とてありません。
 アマテル神は笠縫(カサヌイ)の地に移しトヨスキ姫に祭らせ、オオクニタマは山辺(ヤマベ)の里に移してヌナギ姫に祭らせよう。鏡造りのイシコリドメの子孫と、剣打ちのアマメヒトツの子孫には、新たに鏡と剣を造らせてアマテル神の神璽(おしで)も合わせ三種神器として、今後はこの新しい三種(ミグサ)を皇室の日嗣(ひつぎ)の神宝と決めよう。

 五年 疫病(えやみ)が流行(はや)る。民の大半が死す。
 六年 万民離散し、国乱れる。
 君は神に敬けんな祈りを捧げます。このような人知を超えた疫病が再三襲って民を苦しめ政を危うくするのも、全ては罪深き己の至らぬ由縁である。今後は益々神を崇めて、民の生活(くらし)に思いをいたし、敬い、慎んで政治(まつり)を執ろう。どうか、己の罪をお許しください。
 早速、オオクニタマとアマテル神の二宮を新しく造らせて、遷宮の準備を整えます。
 六年 秋、遂に念願かなってオオクニタマの御魂(みたま)を山辺(ヤマベ、大和神社、奈良)にお移しになりました。
 翌九月十七日は、いよいよアマテル神を笠縫(カサヌイ、桧原神社、奈良)の社にお遷しする盛大な遷宮祭です。
 参拝者は引きも切らず続き、夜ともなると神前の豊(とよ)の明りが色良く灯り、天上からアマテル神が供の神々とそろって降りてまいります。神官は神饌を捧げてよっぴいてイロのツズ歌を唄い奉じました。(最初の一音がイ、折り返しの十音がロ、ツズは十九音で一小節)
 神の御饗(みあえ)は華やいで尽きることを知らず明け方まで続きます。

(イ)ざ遠し  悠基(ゆき)のよ(ロ)しも 大夜(おおよ)すがらも

(豊の明りは夜通し神を迎え、遠き天上の神々は宜しく下ります。)

 七年二月三日、詔のり。
 我が代々の皇祖(みおや)が、国造りのために開かれた基礎は偉大である。しかしながら我が世に至り被った災害の様な悲惨な状況はかって聞いたことがない。きっと我が神祭が不十分で、天に祈りが届かず咎めを受けたものと思う。今後は神の御心のままに極めねばならない。と宣いて、アサヒノ原天宮(現・比沼麻奈為神社、ヒヌマナイ、京都)に御幸されトヨケ神に詣でました。
 又、君は八百万の神々を招く湯の花神楽をモモソ姫に奉納させると、姫は神懸(かみがかり)になり、サッサツズ歌が告げられました。(初音のサ、折り返しにツ音、終わりの音がサのツズ歌)

去(サ)る民も ツズにま(ツ)らで 汚穢(おえ)に乱るさ(サ)

(オオタタネコの祖父オオミケヌシは九代ワカヤマト・ネコヒコ天皇(開化天皇)に対して、前天皇(八代ヤマトクニクル・孝元天皇)の后のイカシコメをイキシコメと名を変えて中宮に立てるのは良くないと諌言(かんげん・いさめ)するが聞き入れられず、大臣を下り民となってチヌ(茅渟、堺市、大阪)のスエ(陶器、堺市、大阪)村に蟄居した。その孫がオオタタネコ)

 君はこの御神託を聞いて驚き、
 「かくお教え下さる神様は誰であるか」と問うと、
 「我は国神(くにのかみ)、大物主ぞ」と答えがありました。しかし、これ以上の神意(しんい)は得られませんでした。
 君は、斎戒沐浴(さいかもくよく)して更に告げ申すには、
 「我は神をこれほどまでに、敬えども、まだ受け下さらぬか」
 するとその夜の夢に、
 「我は大物主の神なるが、君よ憂えることなかれ。国が治まらないのは、我が意あっての事、我が裔(はっこ)のオオタタネコを斎主(いわいぬし)にして神を祭らせれば、国も無事治まり、海外の国(とおつくに)も自ら帰伏するであろう」
 八月七日、トハヤの娘のチハラメクワシ姫とオオミナクチとイセオウミの三人がミカドに告げ申すには、
 「夢に神託がありました。タタネコを大物主の斎主(いわいぬし)にして、シナガオイチをオオヤマトクニタマ神の斎主にすれば、疫病(えやみ)も去り国は天下泰平となります」
 君は、自分の夢と三人の夢が一致した夢合わせを大層喜んで、早速全国にオオタタネコを探す様お触れを発します。
 と、間もなくオオタタネコがチヌのスエ邑(むら)(スエアラタ・陶荒田神社 堺市、大阪)に居りますとの報告があり、君は八十人の供を引き連れチヌに御幸され、タタネコに直接問いかけました。
 「誰が子であるか」とお尋ねになるとタタネコの答えるには、
 「昔、物主(コモリ神)がスエツミの娘のイクタマヨリ姫との間に生んだオオミワ(カンタチ)神の子孫(はつこ)で、代々このスエ邑に住んでいます」これを聞いた君は、
 「この者こそ夢に見たオオタタネコに間違いない。これで我が世も天下泰平、栄えるであろう」と、大変喜んで親しくご歓談されました。
 十月一日、イキシコオに太占(フトマニ)を占わせ結果も吉兆と出たので、イキシコオに八十枚の平瓮(ひらか)を作らせて神祭りの用意を整え、オオタタネコをオオミワオオモノヌシ(大三輪大物主神 大神神社、奈良)の斎主に命じ、ナガオイチは、オオクニタマ(大和神社)の斎主を命じ、あまねく天下にお触れを出して、今度初めて神名帳も編纂して備えると神地神戸も定めて、八百万神(ヤオヨロズノカミ)を祭らせました。

 これをもって、神を崇める御心も天に通じて、やっと疫病(えやみ)も平癒(へいゆ)し、この年は、稲穂もたわわの豊作となって民の生活も豊かになり、再び平和がよみがえりました。
 八年四月四日、タカハシ邑のイクヒという者が、ミワ大神のために初めてお神酒(みき)を造り奉りました。その酒の味は大層美(うま)いとの評判です。
 十二月八日、オオタタネコにオオミワ神を祭らせて御幸されました。御饗(みあえ)の席でイクヒの造った酒を献上した所、君は心地良く歌われて、

この神酒(みき)は 我が神酒ならず
ヤマトなる 大物主の 神の神酒
イクヒサ造る 杉葉幾久(すぎばいくひさ)
(いつまでも造り続けよ 杉葉(酒林)よ 永遠に)

 御饗が終わると、今度は臣等が歌って

美酒(うまさけ)や 身はミワの殿(との)
朝戸(あさど)にも 出でて行かなん
ミワの殿(と)の戸(と)を

 この時、君は即座にこれを受けて返歌(かえしうた)を歌われました。

美酒(うまざけ)に 身はミワの殿
朝戸(あさど)にも 押し切らかねよ
ミワの殿(と)の戸(と)を

 美酒(うまざけ)と太平の世に酔いしれた君、臣等は一気に朝戸を押し開くと、御幸の宮を後にお帰りになりました。

 九年三月十五日夜、君の夢に神のお告げがあり、
 「赤、白、黄の幡矛(ほこ)立てて、神を祭れ。ウダのスミサカ(墨坂)も、オオサカ(逢坂)も、カワセサカ(河瀬坂)も、この三尾を残りなく祭れ。ここは罪科人(つみびと)等の死霊が迷い留まって、疫病を引き起こしている」と。

 四月二十二日、補佐役のオオカシマ(大暁島・伊勢神宮 神臣、初代神主)とタタネコ(大直根子・三輪臣、初代神主)に魂返しの法(のり)を祈らせました。その結果やっと明るい世が訪れました。

 十年七月二十四ネヤトの日、詔のり。
 民を治めるため教化に勤め、神意のままに神祭りを盛大におこない、やっと災いをほぼ克服することができたが、遠国(とおつくに)の荒人等(あらびと)は未だに法(のり)を守らず、我が詔のりを受けようとしない。故に、四方の国々に教使(おし)を派遣して、法(のり)を教化し、国の安定を計りたいと思う。
 九月九日、詔のり。
 オオヒコをコシ(越)の教使(おし)に、タケヌナガワケをホツマ(東海・関東)の教使(おし)に、キビツヒコをツサ(山陽道)の教使(おし)、タニワチヌシをタニワ(丹波)教使(おし)に任命する。
 もしも教えに従わない国神あらば、武力をもって討ち滅ぼせとの命が下りました。それぞれ神璽を賜わり、各将軍は兵を引きいて四方面に軍立(いくさだち)しました。
 十五日、オオヒコがヤマシロ(山背)ソエアガタ(添県神社・別名歌姫神社)のナラサカ(奈良坂町、奈良)に至った時のこと、どこからともなく少女の歌が聞こえてきました。

御世ミマキ イリヒコあわや 己が添人(そえ)
盗みしせんと 後(しり)つ戸を
い行き違(たが)いぬ 前つ戸よ
い行き違いて 窺(うかが)わく
知らじとミマキ イリヒコあわや(危急)

 オオヒコは、この意味ありげな歌を怪しんで、馬を引き返して少女に歌の訳を聞きました。少女が答えるには、
 「私は歌を唄うだけです。なにも存じません」と、言うやいなや又どこえともなく消え失せました。

 十年九月十七日、コシの教使(オシ)のオオヒコは、この歌に胸騒ぎを覚えて急ぎ軍を引き返し、ミズカキ宮に帰り着き君に申し上げるには、
 「ヤマシロのナラサカの少女が唄った歌は、しかじかかような内容の歌で悪い事の前兆ではないかと不安です。早急にご検討を願います」と申し上げました。
 君が、侍臣と協議を重ねている折に、常に君の政事(まつりごと)を助けて生まれつき聡明で予知能力に優れた姉のモモソ姫が君に申し上げました。
 「これは、タケハニヤスが謀反を起こす前兆です。彼の妻アダ姫がカグヤマの埴(はに・土)を領巾(ひれ)に入れ大切に持ち帰り、国の物実(ものざね)と称して、国を乗っ取ろうと祈っているのを知っています。この事に間違いありません。緊急事態です。早く決断を下してください」

 諸将が出発を延期して宮に留まって緊急作戦会議を始めるとまもなく、
「タケハニヤスはヤマシロから、妻(アダ姫)はオオサカ(現・逢坂、奈良)から、二人は共謀して二手に分かれ都を落とさんと反乱を起こし攻め上って来ます」との、ハヤキジ(伝令)が飛び込んできました。
 詔のりにより、イサセリミコをオオサカに追討の将として向かわしめ、ついに敵を打ち破りアダ姫(阿陀比売神社、奈良)を殺しました。
 オオヒコとヒコクニフクは、ハニヤスヒコ迎撃に向かわしめました。ヒコクニフコはヤマシロのワニタケスキ坂に斎瓮(いんべ)をすえ、戦勝祈願をして後、軍を引きいて軍立(いくさだち)して早々に、草木を踏み分け平(なら)しての白兵戦となり、まず手合い(勝負を試す)の戦いに軽く勝利を納めたこの地をナラザカ(現・奈良坂)と言います。オオヒコは下道(しもみち)を進み、川を挟(はさ)んで対戦し、兵供(つわものども)は我(ワ・地)から吾(ア・天)からと相挑みました。敵将のハニヤスヒコは川北(川上)に陣取って、ヒコクニフクを見下していわく、 「汝、何故邪魔だてするか」と。クニフクは答えていわく、
 「これ汝、天(あめ)に逆らう賊を成敗せんと、君の勅命により義兵を上げて討ちにまいった」と。言い終わるやいなや先を競ってお互い矢を放ったところ、ハニヤスが射る矢は当たらず、クニフクが射った矢はハニヤスの胸を貫通して討ち殺しました。大将を討たれたハニヤスの兵達は、混乱して我先にと逃げ惑います。その者達に追い討ちをかけると、
 「我君(わきみ)、我君」と悲痛な叫びを残しながら流れ去りました。ハニヤスの反乱も無事鎮圧し、全員宮に凱旋しました。

 十月一日、詔のり。
 大和国内は無事平定したが、遠国(とつくに)は未だにまつろわぬ乱暴者の騒動が絶えない。四道将軍達よ、今速やかに発つべし。二十二日、各将軍は四道に分かれて出発しました。この四方に派遣された将軍達を四方のオシエド(教導人)とも言います。

 モモソ姫が大物主の妻となる。
 夜になると主は来て、どうしたわけか昼には姿が見えません。
 ある日のこと、姫は何とか主人の尊顔を見たいと願い、明け方にお帰りを留めようとしますが、神の告げるには、
 「姫の願いはもっともなことだ。我は明朝必ず櫛笥(くしげ)に入っているので、我が姿を見ても決して驚かないでくれ」と言って去りました。
 モモソ姫は、この申し付けを不思議に思い、朝が来ると早速櫛笥(くしげ)を開けて見ると、小さな蛇がとぐろを巻いて入っていました。姫は驚きのあまり、おもわず泣き叫んでしまいました。 大神は、これを大変恥じて、人の姿になって現われて言うには、
 「汝は私の言いつけを守れず叫んでしまった。私には取り返しのつかない恥になった」と言うやいなや大地を蹴り大空跳んで駆け上り、ミモロの山(三輪山)に消え失せました。
 妻は、夫の去る方を仰ぎ見ながら、後悔のあまり後を追い箸(はし)で身陰(みほど)を突いて自害しました。モモソ姫の遺骸(いがい)を埋葬したのがオイチ(大市)の箸塚古墳(はしずか)です。
 この塚は、昼は人力により、夜は神の力でオオサカ山の石を運び築きました。諸人が並び継いで、手から手に石を渡して運び、ついに墓を築き上げました。
 墓が完成した時の喜びの歌。

オオサカ(逢坂)も 継(つぎ)の顔揃(ソ・添)え 石群(いしむら)を
手越(たごし)に 越さば 越(こし)がてんかも

(遠いオオサカ山の石も皆で次々と顔をそろえる様に手渡しして運べば乗り越えられぬ事はないさ)

 十一年四月十六日、四道将軍が未開地征討から帰還して、各々が復命しました。
 「乱暴者等は、皆平和裏に朝廷に帰伏しました」との報告があり、君は安堵して国の安寧を確信しました。
 秋、君はオオタタネコに今度の軍立ちの犠牲者の供養を命じ、苦しみの霊(たま)の緒を解く祭りをハシズカ古墳上で盛大に行いました。群れ押し寄せる民の上に、神の法(のり)は照り輝きオイチ(大市)は大いに賑わいました。

 十二年三月十二日、詔のり。
 私が天(あま)つ日嗣(ひつぎ)を受けてからというもの、一日一日が追われるごとくで平穏な日とてなかった。天は陰(メ)と陽(オ)が乱れて天候不順が続き、ついには疫病が大流行して罪なき多くの国民を死亡させてしまった。
 私はこの罪や汚れを祓い清めんと心を改めて神を崇(うやま)い、神祇の教えに努めてきたおかげで、今やっと八方の乱暴者供もまつろい、平和で豊かな、民が楽しく暮らせる世の中に戻すことができた。
 この平安の世に感謝し深く考えた末、この度は成人と未成年者の区別を法をもって定めて若者を守るとともに、民に負担となる課役(かえき)を廃し、いとま明け(休養)としよう。又、男の弓端(ゆはず)の調(みつぎ)や、女の手末(たずえ・織物類)の調(みつぎ)も止めて、民の生活(くらし)に余裕を持たせて、豊かで賑わう国を造ろう。
 この秋には稲穂も大豊作となり、民の家屋も美しく整って、人々の暮らしや風俗も華やぎました。
 今、君の御心も安らかに、国の繁栄を心から楽しまれました。誰言うとなく、初めて国を平和に治めた御肇国(はつくにしらす)ミマキ天皇の世と称えました。

 四十八年一月十日、皇子(みこ)のトヨ君とイクメ君とに詔のり。
 「今日まで、汝等二人に平等に恵みを与えてきたが、今どちらか一人を日嗣(ひつぎ)皇子に選ばなければならない。ついては夢をもって占うので、二人とも沐浴(ゆあみ)して身を清め、日嗣の夢を見るべし」と、申されました。
 翌朝、兄のトヨギが申しあげるには、
 「ミモロの山に登って東を向き、八度矛遊戯(はちたびほこゆげ)をしました」
 次に、イクメが申さるは、
 「ミモロ山に登り、四方に縄を張って雀を追う夢をみました」と答えました。
 君は考えて、兄の夢は唯、東を向いているだけなのでホツマ(東海・関東)を治めよ。弟は四方の民を治める世嗣としよう。

 四月十九日ツミエ、詔のり。
 イソサチを立てて日嗣の皇太子とし、トヨギイリヒコをホツマツカサ(東国司)に任命しました。


ミマキイリヒコ天皇(人皇十代、崇神)
ツノガアラシトをミマナ(任那)国王に任命する。

 五十八年八月、君はツルガに御幸されケヒ大神(現・気比神宮)に詣でました。
 諸臣や北陸の国守達が集い、君に祝いの御饗をささげている処に、頭に角が一つある人物が、この北の津(現・敦賀市、福井)に船で漂い着きました。
 言葉が全く通じないので、ハラ(蓬莱山・現・富士山)のサカオリ宮(現・浅間神社、富士宮市、静岡)に使いを出し、外国語に詳しいハラの臣ソロリヨシタケを呼び寄せて、この者に質問させました。

 その答えは、こんな物語です。
 私は韓国(カラクニ・伽耶)の君の王子で、名はツノガアラシトと言います。父の名はウシキアリシトです。
 私が国に居た頃伝え聞いたところによると、日本国(やまと)には聖(ひじり)の君が居られると知り、君に服(まつら)おうと船出して、アナト(穴門国、山口県)に着きました。そこのイツツヒコなる者が、私にいわく、
 「この国の君は我なり。ここに居なさい」と申しました。しかし、その人となりがどう見ても品性卑しく君には見えませんでしたのでいったんは帰還して船出し、都への路を探して津々浦々を巡り、イズモを経てやっとこの地に着きました。
 幸い君が神祭りのためにご当地に御幸(みゆき)と聞き参上いたしました。どうか私をお召し下さい。

 君はツノガアラシトを召して仕えさせて見ると、忠義に厚く勤勉で、大変有能である事も解り、五年目には君ミマキイリヒコの名前の頭の二音をつけてミマというナ(名)の新国名をミマナとして賜いました。
 後、君はたくさんの国の産物やカゾミネ(緑の山々の模様)の綾錦織(あやにしき)を土産に持たせてアラシトを本国に送り出しました。これがミマナ(任那)建国の初めとなりました。

 アラシトの昔し話。
 黄牛(あめうし)に荷物を背負わせ、アラシトが旅行中のことです。少しの間、木陰で微睡(まどろ)んでいるうちに、いつしか牛の姿を見失ってしまい、たまたま近くに一軒の家があったので、そこの老人に聞いたところ、老人いわく、
 「荷物はもうとっくに盗まれちまい、牛もバレたら後で金を払えばいいとして、とっくに殺して食べられてしまったろうよ」
 「もしも、先に行って牛の値段を聞かれたら、この地の祭神(まつるかみ)が欲しいと答えりゃいい」
 牛の後を訪ね行くうち、この村の君が、牛の値段を聞いてきました。アラシトは老人に言われるままに、祭神(まつるかみ)が欲しいと答えると、村君が神の白石(しらいし)を牛の値(代金)として差し出したので、城中に持ち帰って寝室に大切に置いておくと、いつのまにか美しい少女の姿に変身しました。
 大変喜んだアラシトは、いつか必ず結婚しようと心に誓いました。しかししばらくの間、外国に行っている間に少女は消え失せていなくなりました。
 帰国して驚いたアラシトが、妻に問い正してみると、妻は、
 「少女は東南の方に去った」と言いました。アラシトは少女の行方を訪ねて追い求め、船旅の果てについに日本国(やまと)ナニワのヒメコソの宮(比売許曽神社、大阪)にたどり着きました。が、そこにも少女はすでになく、宮より出でてトヨの国のヒメコソ宮(比売語曾神社、姫島、大分)ですでに神上がっていました。

 時に、アラシトは自国に帰る途中、日本(やまと)からの土産をシラギ(新羅)人に奪い取られた事が原因で、シラギ国と戦いが起こりました。
 この一件で、ミマナ国王の使者が日本国に遣わされ、君に奉じていわく、
 「我が国の東北地方に三巴群(ミハエ)有り。上、中、下に分かれた土地は、土も肥えていて四方の広さは三百里に及び、民も豊かに暮らしています。しかし、今すでにシラギの敵との戦いが長く続いて、治めることも難しくなっています。農民は皆、戦いに明け暮れして農作業を欠き、今では国民の死活問題となっています。臣(とみ)、願わくば国平定のために、貴国の遠征軍を派遣されんことを切に乞うのみでございます」
 君は、この申し出を大変喜ばれて、早速、臣(とみ)等と相談したところ、皆がいわく、
 「クニフクの孫のシオノリツヒコこれ吉(よし)」と答えました。
 頭の三瘤(みこぶ)から松の君とも呼ばれ、背は何と一丈五尺にも及び力量は八十人力で勇壮で激しい性格です。

 詔のり。
 シオノリヒコをミマナ国に派遣する将軍に任命する。又、別名を外国遠征道司(ユキトクニムケミチツカサ)の名を授ける。
 ついに敵地をくまなく平定し、凱旋将軍として意気揚々と帰朝しました。

 君は帰れば吉(よし)と、吉(よし)姓をシオノリヒコに賜わりました。

終り

出典
 ホツマツタエ (国立公文書館蔵)
 秀真(ほつま)政傳紀 (和仁估安聰訳述)


 高畠 精二

http://gownagownaguinkujira.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-e33e.html

出雲が何の中心なんだろう

参考のためにウィキペディア見てみた。
いろいろ書いてあるね。これ全部信じる人がいるのかなあ。
国府が意宇郡あったってのはウソではないんだろう。この意宇郡ってのは「くにこの人」が国つくりを終えたから「おえ」と言ったことからきてるらしい。まあ、もちろんそんなことを本気で信じてる人はいないでしょうけど。あ、私はわかっちゃってるから。佐世保の日宇が元だね。「ヒウ」が「イウ」になって「オウ」に変化してるんだな。前も言ったけど、ヒイ川は福岡にもあるし。それに松江には日野もあるみたい。死の国ならそんな地名が残ってるはずないじゃん。ヒイ川ってほんとに緋色からきてるのかなあ??アヤシイなあ。いつから赤いことを緋色と言うようになったのかってのもわからないじゃない??だいたいこの緋色ってのも「日」から来てるっぽいしな。だからさ、ヒイ川はほんとは「日川」なんじゃないの?日だらけじゃん。出雲にアマテラス系統じゃない独自の太陽信仰があったという確たる証拠があればわかるけど、どう考えても西北〜北部九州の影響でしょ?オーコクじゃーとか言う前に、銅鐸の謎を解明して欲しいよな。

あーだこーだ言ってますけど、こんな私でも鍛造製鉄の「日本での」はじまりは出雲だと素直に思ってますよ。だからイズモオーコクなんて幻想が存在するんだろうけどね。朝鮮半島では鉄をとってたんだね。それは魏志に書いてあるね。倭人も韓人もとってた。採ったあとどうしますか。朝鮮半島には倭人のクニあるいはムラはあるんですよ。九州系の。場所はあるんだから普通は現地で加工するでしょ?原料を船にのせてえっちらおっちら北部九州まで来ますか??そんな効率の悪いことしますか??いくら弥生時代っていっても、昔の人はそんなにバカじゃないよ。それに、邪馬台国は鉄の技術は独り占めしたかったハズでしょ?最新の武器だもの。そんなん九州以外のクニにはなるべく渡らない方がいいじゃない。私は村長でも町長でもないけど、それくらいのことはわかるよ。いわんや弥生時代の九州ですよ。平和な時代ではないんだよな。もう鉄の武器が必要不可欠な時代になろうとしてるんだな。だから朝鮮半島で加工したんだよ。その方が安全じゃない??九州人以外の人も半島にはちらほら来てただろうけど、(半島において)圧倒的に勢力があったのは邪馬台国でしょ?そうでなきゃ、新羅とかの建国のときに倭人がしゃしゃり出たりとかはしないでしょ?

都会ってのは変化が激しいものでしょ。風俗とか文化とかの。流行とかもコロコロかわる。銅鐸は変化しないね。大きくなったりかざりがついたりとかはするけど、基本は何もかわらない。刺激がなかったから変わらないんだよ。大きくなるのは世情が安定していた証拠。変化が乏しかった証拠。銅鐸にお金(金はないですが)をかけられるほどの精神的な余裕があったんだね。どれほどの多様性が出雲にあるのか私は知りませんけども。

いろいろ言ってますが、出雲に恨みがあるとかじゃないんですよ。なんか世間の考察の仕方があまりにも単純だからこれはおかしいんじゃないの?と言いたいんだな。私は古代史に興味を持ってから、山陰とか北陸とかになんとなく親近感を持つようになったんだよ、これでも。山陰はカニがいるしさ。

独自に鍛造製鉄をやるようになったと言うのなら、どういうルート(海の道)でどういう地域から製鉄が伝わったのかということを考えてほしいな。対馬の港にはよれないよ??対馬は九州のもんだから。渡来人とやらは隠岐経由で来たんでしょうね。おもしろいのは、青銅器王国じゃーとか言う人も、日本側から半島へ行ったんだとは書いてないんだよな、大抵。あくまでも受け入れるだけ。そういうのはやめた方がいいね。行動範囲が狭かったということがバレちゃうよ?

日本海沿岸の人たちがそんなに行動範囲が狭かったわけないね。ただ、九州側には交易以外では近寄らなかったと思うよ。それは日本海の北側にも逆のことが言えるけど。海は陸地と同じだよ、海洋民にとっては。だからね、北経由でものや文化が伝わったとするのならわかるよ。だからね、九州の人間も拠点を持ってたのは山陰くらいまでかなあとは漠然と思う。んだからさ、コシのクニと関係をもたなきゃいけなかったんだな。婚姻関係。日本海を越えて大陸から外国人が攻めて来たら大変だしね。

もしかしたら、出雲大社あたりって、そういう北と南の交流ポイントだったのかもしれないね。だから、神様が集まるっていう伝承ができたのかもね。

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