倭(왜)

ヤマトタケル

라디오에요 2011. 3. 10. 22:05

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ヤマトタケルの伝説は古事記下巻の中の白眉である。
悲劇の英雄、日本のオデッセイ、ジークフリートというべき存在である。
青木繁の名画「日本武尊」を前にする時、私の脳裏には、弟橘姫の辞世の句


「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の ほなかに立ちて 問ひし 君はも」


が浮かんでくる。
また、タケルの辞世の句


「やまとは くにのまほろば 青垣 山こもれる 大和し うるはし」


は、この国を思う心の歌として、私たちが子々孫々に伝えたい歌である。
この日本古代文学最大のヒーローと私個人に深いご縁があったというのが今回のお話である。
妻の母方祖母の実家は名古屋市中川区の旧家で、「高羽」の家名を名乗っている。たまたま法事で高羽の菩提寺を訪れたときに、そこに異様に大きな墓を見つけた。その4面に彫ってあった碑文を撮影して読み起こすと以下のような文章であった。


 

熱田新田高羽別祖
宗吾夫妻合葬之墓

高羽氏藤原姓出於 天日鷲尊其子孫世居豊前高羽川
上目氏焉 景行天皇十二年筑紫熊襲反 車駕親征次
周防娑磨國之魁師女子名神夏磯媛聞 皇師至来告曰
菟狭川鼻垂御木川耳垂高羽川麻剥緑野川土折猪折此
四賊各確除拒絶 皇命請急撃之 天皇乃遣武諸木菟
名手夏花拾降麻剥先至賞以赤衣褌及雑貨使之誘撝三
賊因捕誅之於是西州悉平以其功賜姓高羽臣居数季東
夷反 天皇使 皇子日本武尊征之吉備武彦大伴武日
高羽麻剥等従馬既而東夷平 皇子凱旋道而得疾至伊
勢能褒野自以為不能起使吉備武彦奏捷京師高羽麻剥
哀悼不知哥為初 皇子之過尾張宿熱田宮須媛家死留
踰月不覚○於是麻剥遂止于熱田其子孫居一柳荘中郷
稱一柳荘司盖中世王公食邑遣吏治之謂之庄司後従大
螳狼付言是時天下六乱終失其業其後有藤左衛門康利
慶長中我 邦君敬公就封 命為里正康利孫名良泰慶
安初 瑞龍公命墾辟斥鹵謂之熱田新田遂移居之構茂
左衛門延寳中卒良泰生正祐正祐娶坂野氏生道興道興
娶伊藤氏生正幸正幸娶浅井氏生正憲及道賢及道雄父
正幸欲使正憲嗣家固辞不嗣正幸興正憲謀使道雄嗣家
正憲別起家構宗兵衛後更宗吾至今三世為邑大姓正憲
以文政八年乙酉四月廿一日卒季七十九法名釋恵照宗
心居士正憲娶尾関氏生正次尾関氏以文化十一年甲戌
八月二日卒年六十一法名釋尼知照妙心大姉正次以文
政三年庚辰七月十二日先父卒年五十法名浄信別有墓
文政九年丙戌九月正次子正家葬祖父母荼毘遺骨於宗
家墓地海東郡前田村圓盛寺堂前立碑誌之
桝澤維賢書

現代語訳
高羽氏は藤原の出自ともいわれるが、天の日鷲の命の子孫が豊前高羽川の上流に住んでいた。景行天皇十二年(西暦300年ごろ)筑紫の熊襲が反乱を起こした。天皇自ら親征に乗り出したが、周防娑磨の國(今の山口県)の先遣隊の将軍の女性で名を神夏磯媛(カミナツイソヒメ)と聞こえしが、天皇の軍隊がやってきたぞと告げたのだが、宇佐川(大分県)の鼻垂、三木川(宮崎県)の耳垂、高羽川の麻剥、緑野川の土折、猪折兄弟の4つの豪族たちは天皇に服することを拒絶した。天皇の命令を受けてこれを急襲すると、天皇軍の木菟の夏花という武人が麻剥の投降を受け入れ、恩賞に赤いふんどしと雑貨を与えて味方にした。残りの3豪族は捕らえられ、殺されてこれにより西国はことごとく平定され、その功によって高羽の臣の姓が天皇家から与えられ、数年が過ぎたときに今度は東国で反乱が起きた。天皇は皇子のヤマトタケルを征伐に遣わし、吉備の武彦、大伴の武日、高羽の麻剥らが従軍して東国の蝦夷を征伐した。ヤマトタケルノミコトは凱旋の途中、伊勢の能褒野(のぼの)で病気になり、立てなくなり、吉備の武彦を都へ使わした。高羽の麻剥は嘆き悲しみ何もいえなかった。皇子は尾張の熱田のミヤスヒメの家で死んだ。麻剥もそのまま皇子を弔うために熱田の地に留まり、その子孫は一柳の荘園で荘園の管理人となって、家をなしていた。戦国時代が過ぎ、荘園もなくなり、家業を失っていたが、その頃、藤左衛門康利が慶長年間(1600年ごろ)邦君敬公(徳川義直)に領地を与えられた。主命により里を治めていたが、康利の孫良泰のとき、慶安の初め(1650年ごろ)瑞龍公(二代光友)の命令で土地を興して岩を除いて熱田新田を開墾し、そちらへ住まいを移した。康利は延宝年間(1670-1680)に死亡したが、良泰は正祐を生み、正祐は坂野氏を娶って道興を生み、道興は伊藤氏を娶って正幸を生み、正幸は浅井氏を娶って正憲と道賢と道雄を生んだ。父親の正幸は長男の正憲に家を継がせたいと思ったが、正憲が固辞したため、正幸と正憲が良く相談をした上で、道雄に家督を継がせた。正憲は別に家を興し、高羽宗兵衛と名乗り、さらに宗吾に至る今までに三代のあいだ、高羽家は大変興隆した。正憲は文政八年四月二十一日七十九歳で死亡。法名は釋恵照宗心居士。正憲は尾関氏を娶り、正次を生み、尾関氏は文化十一年八月二日に六十一歳で死亡。法名は釋尼知照妙心大姉である。正次は文政三年七月十二日五十歳で死亡。法名は浄信であるが、墓は別にある。文政九年九月に正次の子正家が祖父母を葬り、遺骨を荼毘に付し、宗家の墓地である海東郡前田村圓盛寺の堂の前にこの碑誌を立てた。
桝澤維賢 書

 

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 早い話が、大分県の高羽川の流域の豪族であった高羽の麻剥が、ヤマトタケルの家来となって従軍していたのが、ヤマトタケルが能褒野で死んだあと、熱田の宮須姫(熱田神宮)の家来となり、名古屋で暮らすようになったと書いてある。妻の先祖はヤマトタケルの家来だったというわけである。ヤマトタケルは私にとってただのおとぎ話ではなくなった。

2005年愛知万博開催地で、全国的にも有名になった愛知県長久手町の氏神は「景行天皇社」といって、承和4年(837年)に創建されたと伝えられている。ご祭神は「景行天皇:大帶日古淤斯呂和気命」であるが、景行天皇をお祀りするとはどういう意味かなと以前から少し疑問には感じていた。が、先日気になって日本全国のお社で、他に景行天皇をお祀りしているところはないかと探したら、全く他には見当たらないのである。少なくとも神社庁のHPの一覧表にはない。ネットで検索しても全くヒットしない。とすると、この長久手町で、「景行天皇」を祀っているのにはなにか意味があるのかもしれない。

 さらに不思議なことは、この長久手町の東の豊田市にあるこの地域の神奈備山ともいえる猿投山にある猿投神社のご祭神は子供の時に寝坊して、便所で小碓命(ヤマトタケル)にくびり殺された同母兄の大碓命なのである。景行天皇は小碓に「朝飯に間に合うように大碓を呼んで来い」と命じただけなのに、「便所で捉まえて首を絞めて袋詰めにして捨ててきました。」と答えたので、小碓が乱暴なのを嫌って熊襲征伐に使わしたという有名なエピソードの一方的な被害者である大碓命が、まさか西三河では人気が高く初詣でごったがえす猿投神社の主祭神とは知らなかったので大変驚いた。
 
 さらに驚くことには、愛知県岡崎市にはヤマトタケルの弟の五十狭城入彦皇子の陵墓に治定されている古墳もある。岐阜城のある稲葉山の麓の伊奈波神社の主祭神が垂仁天皇の第一皇子(景行天皇の兄)五十瓊敷入彦命であること、その弟の八坂入彦も美濃に在住していたことも指摘したい。で、さらにヤマトタケルの妃の宮須媛が尾張氏の娘であり、ヤマトタケルの残した草薙の剣が熱田神宮のご神体となっているというところまで考え合わせると、垂仁・景行の時代に大和朝廷が美濃・尾張・三河を根拠地として東国経営に邁進していたという仮説が成り立つのではなかろうか。

 その意味で、ヤマトタケル伝説は象徴的なのである。そして大和朝廷に征服された各地の豪族が臣従して、新たに封ぜられた領地にその拠点を移動させていたのではないか。もともと葛城が出自と言う尾張氏も、この頃に濃尾平野に進出したのかもしれない。また、私の妻の先祖の高羽氏も、大分の高羽川流域から、名古屋市中川区にこの頃に移動してきたのだろう。纏向遺跡から日本全国の土器などの遺物が発掘される背景にこうした統一国家の成立に合わせた人々の大きな移動があったことが読み取れる。
 しかし、景行天皇の一族が、本当にその頃尾張・三河地区に拠点を構えていたのかもしれないと思うと、名古屋人として、いっそう「ヤマトタケル」に愛着を覚えるのです。
P.S.名古屋市熱田区にもヤマトタケルの墓と伝えられる白鳥塚古墳があります。

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http://www5d.biglobe.ne.jp/~kintaro2/rotomain.htm

 

崇神朝の謎~プロローグ~ 出雲国譲りの真相 7
崇神朝の謎 第一章 出雲国譲りの真相 8
崇神朝の謎 第二章 出雲国譲りの真相 9
崇神朝の謎 第三章 出雲国譲りの真相10
崇神朝の謎 最終章

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