倭(왜)

白鳥異伝

라디오에요 2011. 3. 11. 18:28

 

 

http://www4.ocn.ne.jp/~sucope/book/siryo/hakutyo.html

 

ヤマトタケルの出自


左図はヤマトタケルに至る「古事記」の沿った系図です。
ちょっと縦に長くなってしまったので見にくくて申し訳ないのですが。
何故こんな長い系譜を書いたか一目で判った方は・・・多分沢山いらっしゃることでしょうけど。

氷室冴子・著「銀の海 金の大地」で日子坐王から 氷羽州比売(媛)、沙本毘古(佐保彦)、沙本毘売(佐保媛)までが登場します。「古事記」によると、ヤマトタケルは 氷羽州比売の孫ということになります。「銀の海 金の大地」の氷羽州比売のイメージが強いと、どうしてもヤマトタケルと氷羽州比売が 血が繋がっているという事実が信じられないのですが・・・。


垂仁天皇の先妃が 沙本毘売、後妃が 氷羽州比売です。

垂仁天皇の時代に「沙本毘古の乱」が起こります。これは、沙本毘古が垂仁天皇を謀殺しようと企み、妹の沙本毘売に天皇を殺すように命じるのです。沙本毘売は兄と天皇のどちらを取るかで悩み、垂仁天皇の前で涙をこぼしてしまったために沙本毘古の企みが発覚してしまう、というものです。
沙本毘古の謀反が発覚し、沙本毘売は兄の城に逃げます。このとき、沙本毘売は妊娠していて、焼かれる沙本毘売の城の中で生まれたのがホムツワケ皇子。「日本書紀」では沙本毘売が沙本毘古の城に着いたときには既にホムツワケ皇子は生まれていたとなっていますが(「古事記」と「日本書紀」ってところどころが違うんですが、「日本書紀」の方はどうやら後世になって都合が良いように書き換えられている部分もあるようです)。

ヤマトタケルには系図の通り、名前がきちんと記されているだけで5人は兄弟がいます。一番よく知られているのが大碓命(オオウスノミコ)。
大碓命は父・景行天皇の后となる女性を迎えに出掛け、その女性を天皇に差し出さなかった(勝手に自分の妻にしてしまった)上に、そのまま天皇の宮殿に顔を出さなくなったことから、景行天皇は小碓命(オウスノミコ)に兄を諫めてくるよう命令されます。
そこでどのようなことが起きたのか、小碓命は力余って兄の大碓命を殺してしまいます。

実の兄を殺した小碓命を恐れた天皇は、小碓命を都から遠ざけるために軍を与えて西征を命じます。
この当時の小碓命はまだ10代半ばの若さでした。

日本の古代からの歴史書は「古事記」と「日本書紀」が二大歴史書として現存していますが、歴史は必ずしも史実ではない、ということがこの二冊からは読みとることができます。
「日本書紀」のヤマトタケルは「古事記」のヤマトタケルに比べておとなしく品行方正な皇子です。この二つの書物の中で異なるヤマトタケル像ですが、「日本書紀」はいわば後世の政府刊行書物だったので政治的に都合の悪いことは削除、または歪曲されて描かれていた傾向にあるようです。


何故ヤマトタケルについての記述について、「日本書紀」では「古事記」と大きく異なるのか。
これについては面白い仮説があります。
実はヤマトタケルという人物は後に天皇になったのだけれど、即位する前の経歴があまり天皇には相応しくなかった。でも、歴史にはこの皇子による東西征討は残さなければならない。困った挙げ句に「古事記」を書いた当時の役人は「ヤマトタケル」という架空の皇子を創り上げ、歴史上は「ヤマトタケル」が東西征討を行ったように書き残した、というものです。
古代人もまた歴史をねつ造していたのかもしれない・・・。
まさかこんな遠い未来までヤマトタケルの名前が残るなんて考えたこともなかったでしょうけど。

 

 

倭媛(比売)と伊勢

倭媛(ヤマトヒメ)とはヤマトタケルの叔母で、ヤマトタケルが天皇から西の熊襲(クマソ)の征討を命じられたときには女物(自分の?)衣装を与え、東の蝦夷(エミシ)の征討に向かうときには草薙剣と火打ち石の入った嚢(ふくろ)を与えています。
垂仁天皇皇女である倭媛は、垂仁天皇の前の天皇である崇神(すじん)天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の後を継いで「御杖代(みつえしろ)」となり、大和の国を出発して伊賀→近江→美濃等の諸国を渡り伊勢に辿り着きます。
やがてここに天照大神を祀る神宮を建設し、伊勢神宮が出来ました(伊勢には天照大神を始めとして、月読命・伊邪那岐・伊邪那美など数柱の神が祀られています)。
これより代々伊勢には未婚の皇女が伊勢に派遣され、神に遣えましたが、この皇女たちが斎宮と呼ばれるようになったのは実は桓武天皇(もしくは嵯峨天皇)の時代からのようです。

ヤマトタケルの伝説において、倭姫はヤマトタケルを助ける立場として重要な位置にいます。
その中でも一番有名なのが「草薙の剣」。
この「草薙剣」とは須佐之男命が八俣大蛇を退治した際に大蛇の中から出てきた剣で、「草薙」とは実は大蛇のことを意味しています。
つまり「草薙剣」イコール「大蛇の剣」ということになります。
古代には様々な剣が登場するので混同されがちですが、どうやら「草薙剣」に関しては「大蛇の剣」と同一視できます。
「白鳥異伝」の中に登場する「大蛇の剣」は時折、蛇の姿となって見えることがありますが、それは八俣大蛇の一部であるとすると別段不思議ではないわけです。

 

 

 

七掬について
「白鳥異伝」の中で重要な役割を担う大碓命の従者・七掬ですが、彼の名前は「日本書紀」に登場します。
ヤマトタケルが東征討将軍となった折り、従軍者の一人として吉備武彦・大伴武日連(たけひのむらじ)と共に七掬脛(ななつかはぎ)という名が記されています。「古事記」の方においてはヤマトタケルの副将にはミスキトモミミタケヒコの名があるだけなのですが。
「日本書紀」では天皇はまず大碓命に東征討将軍を命じたが、大碓命は将軍になることを嫌がって逃げたので小碓命が東征討将軍として蝦夷の平定に向かうことになったと記されています。
ということは、この蝦夷平定は将軍の首をすげ替えただけで従軍者は最初から吉備武彦・大伴武日連・七掬脛が決まっていたとすると、この三人は元は大碓命の部下であったと考えることができます。
東征討を天皇がまず大碓命に命じたということが、この時点まで「日本書紀」では大碓命が生きていたということになります。
古事記では西征討にヤマトタケルが赴くことになったきっかけはヤマトタケル(この当時はまだ小碓命と名乗っていた)が兄・大碓命を殺したその猛々しさを実の父である天皇が恐れて、ということになってます。
少なくとも「日本書紀」の方は政治的意図もあって書かれているものなので、七掬脛という人物が実在したか、少なくとも似た人物が実在したと考えることができます。
ヤマトタケルの東西征討からも分かるように、当時の天皇は都を中心とした限定的な地域のみを支配していました。
まだまだ地方には天皇の勢力に逆らう部族も多く、そのためにヤマトタケルたちはそれらの地域を支配下に置くために遠征を繰り返していたのです。
ただ、このヤマトタケルの征討によって、当時の天皇の勢力が全国に広がっていったことは確かな事実のようです。

 

参考文献:
「ヤマトタケル伝説と日本古代国家」石渡真一郎・著
「日本の歴史 2 大王の世紀」上田政昭・著
伊勢神宮ホームページ

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