神武天皇の年齢
神武 甲寅年 => 神武 1年, 102年, 10月. <= (神武: 45歲)
神武 乙卯年 => 神武 2年, 103年, 3月.
神武 戊午年 => 神武 3年, 104年, 2月.
神武 己未年 => 神武 4年, 105年, 2月.
神武 庚申年 => 神武 5年, 106年, 8月.
神武 1年 => 神武 1年(6年), 107年, 1月. <= (神武 52歲 即位)
神武 2年 => 神武 2年(7年), 108年, 2月.
神武 4年 => 神武 4年(9年), 110年, 2月.
神武 31年 => 神武 31年(36年), 137年, 4月.
神武 32年 => 綏靖 1年, 138年, 1月.
神武 33年 => 139年. <= (神武의 崩, 86歲)
神武 76年 => 綏靖 2年, 139年, 3月.
綏靖 己卯年 => 綏靖 3年, 140年, 11月.
綏靖 1年 => 綏靖 1年(4年), 141年, 1月. (綏靖 即位, 141年= 辛巳)(即位: 52歲)
綏靖 2年 => 綏靖 2年(5年), 142年, 1月.
綏靖 4年 => 綏靖 4年(7年), 144年, 4月.
日本書紀
(甲申) 15歳 皇太子
甲寅 45歳 東征出発
辛酉 神武 元年 (52歳) 即位
(丙子)神武76年 127歳 崩御
古事記 137歳 崩御
扶桑略記等 127歳 崩御(紹運録、編年記など すべて127歳で同じ)
懿徳 22年 => 孝昭 1年, 154年, 2月.
懿徳 34年 => 孝昭 2年, 155年, 9月.
孝昭 1年 => 孝昭 3年, 156年, 1月.
孝昭 29年 => 孝昭 31年, 184年, 1月.
孝昭 68年 => 孝安 1年, 185年, 1月.
孝昭 83年 => 孝安 2年, 186年, 8月.
孝安 1年 => 孝安 3年, 187年, 1月.
孝安 2年 => 孝安 4年, 188年, 10月.
孝安 26年 => 孝安 28年, 212年, 2月.
有史8代 孝昭天皇、天性至孝にして、専ら皇太后に事(つかへ)まつりて、政務を事(つ)かへたまはず。
タケヒト(九州時代の神武)は年15(15才)で妻を娶り、手砥耳を生む。
現実には、17才で手砥耳を生む。
孝昭29年(213년) 甲午1月 3日 妃立つ ヨソタリヒメのトシソヰ(15才)ぞ
孝昭45年 五月 15日に 妃生む イムナヲシギネ
孝昭49年 甲寅 1月 1日に 妃生む イムナヲシヒト
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ホ31024 フソヨトシ キミヨツギなし 神武24年 君世継ぎ無し。
クメがコの イスキヨリヒメ ヲシモメに めせはキサキに
とかめられ ユリヒメとなり トノイせず
キサキはらみて あくるナツ カンヤヰミミノ ミコをうむ イミナイホヒト
フソムフユ マフリミユキの ヤスタレに カヌカワミミノ ミコうみて イミナヤスギネ
神武の妾である イスキヨリヒメに手砥耳が手を付ける。 イスキヨリヒメは、
ユリヒメと名を変えて他所(タカクラシタ)に嫁いでゆく。[天押男]
明くる夏、妃は、カンヤヰミミを生む。(神武25年)
カンヤヰミミとカヌカワミミの間は、1年半ほどである。この数字は認められる。
綏靖天皇の年齢
日本書紀
神武42年 (14歳)皇太子
神武76年 48歳 神武天皇崩御
庚辰 綏靖 元年 (52歳)即位 , 141年 即位.
(壬子)綏靖33年 84歳 崩御
古事記 45歳 崩御
扶桑略記等 84歳 崩御(編年記まですべて84歳)
安寧天皇の年齢
日本書紀(記述に矛盾あり)
綏靖25年 21歳 皇太子(57歳で崩御なら11歳皇太子)
癸丑 安寧 元年 即位 (20歳、又は30歳)
(庚寅)安寧38年 57歳 崩御 (21歳で皇太子なら67歳崩御)
古事記 49歳 崩御
紹運録等 57歳 崩御 (他すべての文献は57歳)
懿徳天皇の年齢
日本書紀
安寧11年 16歳 皇太子
辛卯 懿徳 元年 (44歳)即位
(甲子)懿徳34年 (77歳)崩御
古事記 45歳 崩御
紹運録等 77歳 崩御(他すべて77歳で同じ)
皇代記 「年77或80」とする。
http://gejirin.com/nenpyou.html
天鈴35年 | タタライスズ姫生まれる。 | |||
天鈴50年 | ツミハ843,048歳で罷る。 このとき、クシミカタマは108歳、イスズ姫は15歳。 | |||
天鈴51年 | キミヱ | 10月3日 | タケヒト東征開始。 | |
天鈴52年 | キミト | 3月 | 東征軍吉備の高島に着く。 3年滞在。 | |
天鈴55年 | ヲシヱ | 2月 | 東征軍 浪速のミツ崎から大和川を遡る。 | |
11月7日 | 東征軍 シギヒコを召す。 | |||
天鈴56年 | ヲシト | 10月20日 | タタライスズ姫を御后に、ツミハをヱミス神に、クシネを県主として社を造って大三輪の神南備を祭る。 | |
天鈴58年 | サナト | 1月1日 | ウマシマチ タケヒトに十種を奉る。 | |
神武1年 | サナト | 1月20日 | タケヒト即位(神武天皇)。 | |
11月 | タケヒト大嘗会。 | |||
天鈴59年 | 神武2年 | ネウヱ | 1月11日 | 東征の論功行賞。 |
天鈴60年 | 神武3年 | ネウト | アメタネコとクシミカタマ、ヤスカワにて直りの祓い。 直り中臣、直り物主を賜る。 | |
天鈴61年 | 神武4年 | キアヱ | 2月23日 | ハリハラの鳥見山に御祖神を祭る。 アタネを山背のクニツコにする。 |
天鈴65年 | 神武8年 | ヲヤヱ | 秋 | 総勅使タカクラシタ帰り、国統絵を奉り、キの国造および大連を賜る。 |
天鈴77年 | 神武20年 | サヤヱ | コシウシロが再び背いたので、タカクラシタが成敗する。 | |
天鈴81年 | 神武24年 | キナヱ | タケヒト、イスキヨリ姫を御下侍にする。 | |
天鈴82年 | 神武25年 | キナト | 夏 | ヰソスズ姫、カンヤヰミミを生む。 |
天鈴83年 | 神武26年 | ツウヱ | ヰソスズ姫、カヌナカワミミを生む。 | |
天鈴87年 | 神武30年 | サミヱ | 夏 | ヤヒコにユリ姫が下される。 |
天鈴88年 | 神武31年 | サミト | 4月1日 | タケヒト、ワキカミのホホマの丘に御幸。 |
天鈴99年 | 神武42年 | キミヱ | 1月3日 | カヌナカワミミを世嗣御子。左右はウサマロとアタツクシネ。食国臣にウマシマチ。 |
天鈴133年 | 神武76年 | ツアヱ | 3月10日 | タケヒト罷る(127歳)。 |
http://www.genbu.net/data/higo/kusakabeyosimi_title.htm
(御神紋)草部吉見神社
御祭神 | ||
一の宮 | 日子八井命 | 神武天皇第一皇子にして草部吉見神または國龍命とも別称す。阿蘇神社に三の宮として合祠 |
二の宮 | 比咩御子命 | 日子八井命の妃 |
三の宮 | 天彦命 | 日子八井命の第一皇子・三郎神社の祭神 |
四の宮 | 天比咩命 | 天彦命の妃・三郎神社の祭神 |
五の宮 | 阿蘇都彦命 | 日子八井命の甥・阿蘇大神健磐龍命 |
六の宮 | 阿蘇都比咩命 | 日子八井命の女にして、阿蘇大神の妃 |
七の宮 | 新彦命 | 日子八井命の第二皇子 |
八の宮 | 彌比咩命 | 新彦命の妃 |
九の宮 | 速瓶玉命 | 日子八井命の外孫・阿蘇大神の嫡子 |
十の宮 | 若彦命 | 新彦命の甥・天彦命の御子 |
十一の宮 | 新比咩命 | 新彦命の女 |
十二の宮 | 彦御子命 | 日子八井命の外曾孫・速瓶玉命の男 |
当社は 熊本県阿蘇郡高森町宮原に鎮座し、旧社格は郷社。
主祭神は日子八井命で、ほか健磐龍命、阿蘇都比咩命など十二神を併せまつる。
日子八井命は、神武天皇の六十九年、東征の時、日向高千穂より草部に入られ、しばらく川走の窟(イワヤ)に住まわれたのち、今の草部吉見神社の所にあつた池を干し宮居を定められた、このとき襲ってきた大蛇を斬られ焼かれた、大蛇が血を流しながら逃げて行つた所を血引原(現地引原)、焼かれた所を灰原と言い、今もこの地名が残つている。
創建は阿蘇神社に先立つこと六年と言われる。
宮居を定められたその翌年、健磐龍命(神八井命の御子・阿蘇大神とも言う)が下向して来られると迎え、請われて姫を健磐龍命の妃になされた。この姫が阿蘇都比咩であり、日子八井命は健磐龍命と力を併せ、内には九州鎮護、外には東征という朝廷の国土統一事業の一翼を担われた。
天正年間には戦国大名化した豊後の大友氏が肥後に侵攻し、社領は略奪され権大宮司家は一時祠官家を離れて村民の中に身を潜めた、寛政五年(1793)に祠官家が復興され、文化七年(1810)には祝部(ハフリ)家が再興された。
社殿は、弘治二年(1556)に甲斐左近将親成によって造営され、のち傷みが激しくなつたので明暦二年(1656)に里人らによって現在の社殿に補修された旨、明和九年(1772)の棟札に記録が残る。以後明治二十五年までに十八回修理されたと伝えられる、構造、彫刻など技巧を凝らした造りとなっている。
社地は侵食が進んだ南外輪山の舌状台地の中央に位置し、社殿が鳥居より下にあるいわゆる下り宮と呼ばれる珍しい配置で、鵜戸神社(宮崎県日南市)貫前神社(群馬県富岡市)とともに日本三大下り宮の一つに数えられている。
社殿下の吉ノ池(八功徳水とも言う)と呼ばれる湧水池があり、境内地には年経た杉が繁茂し、参拝する者を厳粛な気分にさせる雰囲気が漂っている。
社殿の東方300mばかりのところに、石の玉垣で囲まれた日子八井命の御神陵(ミササキ)がある(陵墓参考地)。
摂社として、草部吉見神社から1・5Kmばかり西の菅道(スゲノサコ)に日子八井命の御子天彦命と天彦命の妃比咩命をまつる三郎神社がある。
例大祭は、七月三十一日と十月十七日の夏、秋の2回で、七月三十一には地引原の御仮屋まで御輿の御幸があるほか、社殿前の神楽殿で岩戸系の神楽三十三座が奉納される。十月十七日には社殿横の広場で大神御手相撲が奉納される。
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