倭(왜)

智名曾命 角凝魂命 久志多麻命

라디오에요 2012. 10. 6. 10:56

 

 

http://enjoy.pial.jp/~kokigi/keijiban/takemika1.htm

 

□ 中臣氏族の遠祖と武甕槌神

 

(問い) 神話上、大国主命の国譲りの場面で、派遣され、建御名方命を降伏させた神。

剣神、雷神とされる神話上の武甕槌神とは 誰に 比定されますか?


 中臣氏奉斎の実際には 山祇族、神話上の役割からいくと、経津主と同一神とされる点、やはり 天目一箇命の事を 指して いる 可能性も あるのでしょうか?


 なぜ剣神、雷神として武の神の主役なのか?
 謎のミカヅチ神の見解を提示願います。
 
  (鬼太郎様より、07.11.14受け)

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 (樹童からのお答え)


1 現在に伝わる中臣氏の系図では、天児屋根命の祖先は 抽象的な 神名で 三代あげられ、

これら遠祖神の実体が不明となっております。

天御中主神から始まるような神統譜の部分を別にすれば、

 

多くは その三代が「津速魂命-市千魂命-興台産霊命(興登魂命)、

 

その子が天児屋根命」(『旧事本紀』神代本紀)とされます。

その一方、中臣氏のこうした祖先系譜に見えない武甕槌神を鹿島神として、中臣連及び藤原朝臣の一族が春日神社・吉田神社などで奉斎する主要な神としている事情にあって、ここに大きな混乱が生じています。藤原氏の氏神春日社では、鹿島神は第一殿で、根本神として奉斎されてきました。

  結論を先にいえば、年代対比と祖先神信仰などから考えて、武甕槌神は天児屋根命の父(興台産霊命と同神)におくのが妥当だとみられます。そして、『神道大辞典』もいうように、「武甕槌神と経津主神とは同神とする説があるが、なほ別々の二神の名と見る方が妥当であらう」ということであり、剣神たる経津主神(天目一箇命)は雷神たる武甕槌神とは違うということでもあります。『旧事本紀』の陰陽本紀では、武甕槌神を石上布都大神として両神を混同している事情にありますが。
なお、経津主神は香取神宮の神であり、春日社では斎主神として祭られても、これは国譲り交渉の際の縁由からきたもので、主に物部一族が奉斎した神です。
 
2 『尊卑分脈』藤原氏系図では天児屋根命から始めて、「本系帳に云う、興台産霊命が王主命の許登能床遅媛命(下線部分には誤脱漏があり、正しくは「玉主命の女、許登能麻遅媛命」か)を娶り生む所」の者が天児屋根命だと記されます。男神の興台産霊(コゴトムスビ)と女神の許登能麻遅(コトノマチ)とは「言(コト・コゴト)」を共通にしており、対応します。かつ、両神は天香山に鎮座する櫛真知命(クシマチ。クシは「奇なること、霊異」で、マチは太兆〔ふとまに〕)にも通じますが、この神は名前のとおり卜占の神ですから(永留久恵氏も同旨)、中臣氏の祖神にふさわしいことが分かります。天辞代命(コトシロ)も対馬の太祝詞神も同じ神です。
  また、物部氏の祖・饒速日命の母は天香語山神の娘といわれ、これが『亀井家譜』には武乳速命の娘と記されますから、「天香語山神=武乳速命」ということになります。武乳速命は「津速魂命の男武乳速命」であって、中臣連一族の添県主の祖と『姓氏録』大和神別に見えますから、武甕槌神や興台産霊に相当する神です。
天の香具山(香山、香久山、香語山)と祭祀卜占との関係は、『書紀』には三個所(神代巻、神武紀、崇神紀)、同山の霊力・呪力ある埴土などで見えており、天の香具山は「大和朝廷の祭祀を担当した中臣氏に関連の深い山で、同氏の居地がこの山の付近であったと推定されている」と『奈良県の地名』でも記されます。香具山の畝尾に鎮座した健土安(たけはにやす)の神とは、武埴土の意であって、武神と卜占神を併せて表していることに留意されます。現在、健土安神社の祭神は女神の健土安比売とされますが、この女神がカグツチの妻神でない場合には、疑問もあります。
 
3 一方、タケミカヅチについては、
(1)ふつうには「武+御雷」で、猛々しい雷神の意と解されます。山祇族には火神・陸蛇(竜、オカミ)・雷に縁由が深く、紀伊国造の系譜に見るように、火神カグツチ(迦具土)を始祖として、火雷神(鳴雷神、霹靂神、高オカミ神)、九頭竜神と続きますが、九頭竜神とは天の岩戸開きで著名な天手力男命であり、この別名が天石戸別安国玉主命、すなわち中臣氏系譜に見える「玉主命」に当たります。
火神迦具土は火産霊神(ホムスビ)ともいい、火之夜芸速男神(夜芸〔ヤギ〕は焼くの義だと『神道大辞典』はいう)からは山祇族の焼畑農業などに通じそうですが、「迦具土」は卜占に用いられる香具山の埴土を端的に表すものといえます。この神が中臣氏の始祖にかかげる津速魂命に当たりますが(平田篤胤に同旨)、「速魂・速男」は進行速度の速さから雷神、さらには雷に発する火神に当たるものかと思われます。
山祇族諸氏の名前は『丹生祝氏本系帳』に見えて、始祖天魂命の子の高御魂命が大伴氏の祖、その弟の血速魂命が中臣氏の祖、次の安魂命が門部連等(註:久米氏)の祖、次の神魂命が紀伊氏の祖と記されますが、大伴・久米・紀伊の諸氏の分岐は実際にはもう少し後ですから、「高御魂命=安魂命=神魂命」と把握されます。血速魂命は市千魂命に通じる神で、やはり雷神とみられます。『古事記』にはタケミカヅチの父を伊都之尾羽張神(『書紀』では稜威雄走神と表記。市と伊都は通じる)としますが、やはり雷神でしょう。
  天児屋根命か武甕槌神かの別名とみられる速経和気命(『常陸国風土記』に見えて中臣鹿島連の祖・片岡大連が奉斎したと伝える)も雷神に通じます。これらの事情があるのだから、その子孫となる中臣氏の系図にも端的に雷大臣命が見えますが、この者は仲哀・神功皇后紀の中臣烏賊津使主(イカツオミ)にあたります。その五代祖先にも伊賀津臣命の名が見えますが、ともに「雷」を名前にしています。
 
(2) タケミカヅチを武甕槌神と書くと、卜占にもつながります。鹿島には「斎瓮(いわいへ。祭祀に用いる甕のこと)」の伝承が多いとされます。長旅に出立する際に無事を祈って鹿島神の加護を求める習俗を「鹿島立ち」といいますが、そのときに斎瓮を据えました。この関係の歌が万葉集に五首も見えます。古い神人の伝えには、鹿島の海底に大甕があって、これは鹿島明神の祖先を祭る壺であって、鹿島第一の神宝として世々これを「甕速日」というともあります(『神日本』第三巻第六号)。『古語拾遺』には「武甕槌神は甕速日神の子」とありますから、甕速日神は市千魂命にあたることになります。
また、神武軍が香具山の埴土で斎瓮(天平瓮)を造って天神地祇を祭ったことは神武紀に見えます。吉井巌氏は、甕は神の依り代なる聖器だとみています(『天皇の系譜と神話・二』)。鹿島神には甕神・蛇神という性格があると大和岩雄氏が指摘しています。
 
 このように見ていくと、神祇・卜占を職掌とする中臣氏の性格には、別の側面で荒々しい雷神という山祇族の伝統の性格も併せてあって、遠祖の興台産霊命という名が前者を、武甕槌神や武乳速命という名が後者ないし両者を表すものと考えられます。こうした諸事情から、最初にあげた結論が導かれるものです。
 
  (07.12.21 掲上)
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 481 右京 神別 地祇 八木造和多羅豊命 布留多摩乃命之後也

 

http://www.genbu.net/data/tusima/hamadono_title.htm

豊玉彦尊 

海神。

紀の一書に豊玉姫の父の名としてみえる。

日子穂穂出見尊が訪れた海底の宮の主である。

姓氏録に、和多罪豊玉彦命の子布留多摩乃命を祖とする八太造が見える。 -『日本神名辞典』-

 

http://www.genbu.net/data/awa2/hayasame_title.htm

 祭神は、豊玉比女神。

『阿波國式社略考』では豊玉彦命。

鎮座地である八多は、新撰姓氏禄の八太造と関連があると思われ、

八太造は、豊玉彦命の子・布留多摩乃命の後である。

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http://ameblo.jp/katuraki-hiko/entry-11184701794.html

 

 世代  天皇           葛城直氏    兄弟姉妹   

 01  神武           剣根命(葛城国造)
 02  綏靖・安寧        夜麻都美命

 03  懿徳・孝昭        久多美命

 04  孝安・孝元              加豆羅支根命  <==  建諸隅命 = 建豊波豆羅和気王

 05  孝霊・開化        垂見宿禰     <===  大諸見足尼= 彦坐王
 06  崇神           伊牟久足尼    鸇媛   諸見己媛     (依網吾彦)
 07  垂仁・景行        宮戸彦宿禰
 08  成務                   荒田彦宿禰    止波足尼
 09  仲哀・応神        伊具足尼     葛媛(武内宿禰妻)                      
 10  仁徳           楯乃直

 

*:建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのみこ、= 武豊葉列別命= 武歯頬命) = 加豆羅支根命  <==  建諸隅命

*子 : 垂見宿禰     <===  大諸見足尼= 彦坐王= 八百彦王

*孫女:比売(わしひめ)。葛城垂見宿禰の女

 

*市辺押磐皇子(忍歯王)

 

http://blog.goo.ne.jp/ushiki111/e/43f5b74d0ea1c7080d1ca2ba9a7edc7d

雄略天皇により 葛城円が 殺害され 葛城首長一族が 没落した後に 忍海氏(おしぬみ:性格には 造一族)が 台頭する。

氏は 681年連の姓を 与えられた。

天智天皇の宮人・色夫古郎女などに見られる。 

色夫古郎女は 川島皇子、大江皇子(天武妃となり弓削皇子を生む)を生んだ。 

この忍海の地域で 最古の古墳は 新庄町屋敷山古墳で、ほかには 飯豊陵古墳・二塚古墳などが ある。 

葛城本家が 滅びるなかで 忍海氏が 生き残ったのには 忍海郎女つまり飯豊女王の存在が大きいと考えられる。(またの名を 青海郎女) 

 

河内、播磨、丹波、因幡に 大きく かかわりを 持って いた 忍海造氏は(河内忍海部)比古牟須美命を 祖とし、

因幡の忍海部は 建豊波豆羅和気王を 祖として いたのである。


http://www.geocities.co.jp/HiTeens-Panda/8640/tennou/koushitsu_shinwa1.htm

       *天御倉持命 ━━<3 代>━━━━ 道 根

        천어창지명

 

http://www1.atchs.jp/tokyoblog/k/?a=read&t_id=116&l=10

        天御倉持命天御鳥命(彦狭知命)─ 手置帆負命─ 天越根命─ 天道根命─

 

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02107.htm

 

 

http://www.norichan.jp/jinja/benkyou/minoagatanushi.htm

「古代河内の豪族・美努連(みぬのむらじ)・三野縣主が 祖神を 斎き祭った 神社である。

『新撰姓氏録』河内神別には、美努連は 角凝魂命の四世の孫・ 天の湯川田奈命から起こるとある。

角凝魂命は、

 

天御中主命→ 天八下尊→ 天三下尊→ 天合尊→ 天八百日尊→ 百日萬魂→ 神魂命 と続く次の御子にあたる由緒正しい神様なようです。

 

*天御中主命→ 天八下尊→ 天三下尊→ 天合尊→ 天八百日尊→ 百日萬魂→ 神魂命→ (........) → 角凝魂命

 

*角凝魂命伊佐布魂命天底立命天背男命天日鷲翔天命大麻比古命

   3代                                                                                     8代

 

 

 

天御倉命━ 天御鳥命(彦狭知命)━ 手置帆負命━ 天越根命━ 天道根命━ 比古麻命━ 鬼刀彌命━ 久志多麻命━ 大名草彦命━ 宇遅彦命

 

 

http://kamnavi.jp/log/kam1401.htm

ホームページ「神話の時代」を見ていたら、

智名曾は 天道根、麻き利、比古麻の 次に 位置して います。

智名曾の後は 鬼刀禰、久志多麻、大名草彦と続いており、

智名曾と大名草彦は 別人と思われますが、いかがでしょうか。

出典は「古代豪族系図集覧」となって います

 

*天道根命 ━━ 比古麻命 ━━ 鬼刀禰命 ━━  久志多麻命 ━━  大名草彦命 ━━ 宇遅彦命

 

*天道根命━ 麻き利命━ 比古麻命━ 智名曾命━ 鬼刀禰命━ 久志多麻命大名草彦命━ 宇遅彦命

*天道根命知名曽命━ 比古麻命━ 蔭佐奈朝命━ 鬼刀弥命━ 荒川戸畔命久志多麻命 大名草比古命宇遅比古命豊耳命

http://kamnavi.jp/log/kam1401.htm

にぎはやひおたくさん こんにちは。


*HP 神話の時代


*天道根命━ 麻枳利命比古夜真止乃命━ 智名曾命━ 鬼刀彌命━ 久志多麻命━ 大名草彦命━ 宇遅彦命
   1世                                                          4世                                                7世

 

*『紀伊続風土記』に引用の「國造家譜」


*天道根命━ 比古麻命鬼刀彌命━ 久志多麻命━ 大名草彦命━ 宇遅彦命

     1世                                           =                 5世           =菟道彦

                                                              弟:蔭佐奈朝命                             =宇豆比古命

                                                              弟:荒川戸畔命                          妹:山下影日賣

*名草比古命天道根命の五代の孫

*孝元의 子= 伊加利乃命

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葛津立 国造(ふぢつたちのくにのみやつこ)(佐賀県鹿島市)
志賀高穴穂の帝の御世に 紀直(きのあたい)と同祖 の大名草彦命(おおなくさひこのみこと)の子 の 彦命(わかひこのみこと)を 国造に定められた。
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http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/1230339937/   (맨밑에 기사가 있음)

 

*天御鳥命(彦狭知命)─手置帆負命─天越根命─天道根命(神武東征に従い畿内平定のち紀伊の國造に封じらる)─ 比古麻命─ 鬼刀禰命─ 久志多麻命(別名:目菅。弟:薩佐奈胡命[子:大屋古命〔石見国造〕]、弟:荒河戸畔命)─ 大名草比古命(名草宮に日前宮を移す。弟:若積命[子:穉日子命(葛津立国造。肥前藤津祖)、枳弥都弥命(肥前大村祖)])─ 宇遅比古命(初宇豆比古菟道彦山下影日賣[初宇遅比女。屋主忍男武雄心命妻。武内宿禰命母]。宇遅比古命の娘の宇乃姫は 武内宿禰命の妻)─ 舟木命(子: 夜都賀志比古命[夜都加志彦])、弟: 等与美々命初豊耳

 

*等与美々命= 等興美美命

*菟道彦= 宇豆彦= 宇豆比古命= 宇遅比古命= 宇遅彦命.

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道根命の後は 比古麻命―○―○―大名草比古命―宇遅比古命(孝元段 「木国造の祖 ・宇豆比古」)景行紀3年条 「紀直遠祖・兎道彦」)―○―○―等興美美命(神功紀「紀直 豊耳」。 ... 住むこと9年、紀直遠祖 兎道彦影姫を めとり武内宿禰を 産む。」

古事記 「比古布津押の信命、木国造の祖・宇豆比古 山下日売を 娶りて子 建内宿禰を 生む 。」

.... 阿多部王は 高貴王と号し、初めて 来日して 準大臣に なり、 ...

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101213_97.html  

 

道根命の後は
比古麻命―○―○―大名草比古命―宇遅比古命(孝元段「木国造の祖・宇豆比古」)景行紀3年条「紀直遠祖・兎道彦」)―○―○―等興美美命(神功紀「紀直 豊耳」。

補任「その子・豊布流・始めて大直を賜ふ。」)

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これには「智名曾命」は 出て いません。

和歌山 市冬野 鎮座の名草神社の社伝によれば

 

名草比古命神産霊命 五世の孫の天道根命の五代の孫とされて おり,

その名草比売命は 紀國造「智名曽」の妹と説明されています。
 

『先代旧事本紀』には

素盞嗚尊 六世孫豊御気主命(またの名を 武甕依命)が  紀伊の 名草姫(紀伊国造 智名曽の妹、中名草姫)を 妻としたとあります。

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*http://red.ribbon.to/~menorah/ki.html

*建斗米(妻: 中名草姫命) ---- 建田背命(母: 中名草姫命〔紀国造 智名曽女〕

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いずれにしても,系譜上では


にぎはやひおたくさん>智名曾と大名草彦は 別人でしょうね。

ただ,智名曾の妹を 中名草姫と称している所からは 智名曾は「中名草彦」であったとできないでしょうか。

「神奈備掲示板」の2001/09/29に上田充夫さんが 下記のことを 書き込まれて います。


【智名曾については「古屋家系図」にも現れます。

溝口睦子さんの書かれた「古代氏族の系譜」に 大伴氏の系譜が あり、

その中で「豊日命」の説明に「母 紀直 智名曾女 乎束媛命」とかかれています。

他の豪族の系譜に現れるほどの名前であるのに、

 

肝心の紀国造家に「智名曾」の名前が 現れないのは 不自然に感じられます。

天皇家に 対して、実名を 記載するのが はばかられる事情が あって「大名草比古」と表されたのでは ないかと考えています。】

また「HP:板東千年王国 紀伊氏系図」

http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/data/kei/k06.htm
では,

名草戸畔の子に 智名曽と中名草姫を あげて いますね。

面白い考え方だと思います。

紀伊氏とやっているのが シンドイのですが・・・。

 

http://www1.atchs.jp/tokyoblog/k/?a=read&t_id=116&l=10

 

*天御鳥命(彦狭知命)─ 手置帆負命─ 天越根命─ 比古麻命

─天道根命(神武東征に 従い 畿内平定のち 紀伊の國造に 封じらる)─ 麻枳利命─ 比古麻命鬼刀禰命

久志多麻命(別名:目菅。弟:薩佐奈胡命[子: 大屋古命[石見国造]、弟:荒河戸畔命

大名草比古命(名草宮に日前宮を 移す。弟: 若積命[子: 穉日子命(葛津立国造。肥前藤津祖)、枳弥都弥命(肥前大村祖)])

宇遅比古命(初: 宇豆比古、菟道彦。妹: 山下影日賣[初: 宇遅比女。屋主忍男武雄心命妻。武内宿禰命母]。宇遅比古命の娘の宇乃姫は 武内宿禰命の妻)

─ 舟木命(子: 夜都賀志比古命[夜都加志彦])、弟: 等与美々命初: 豊耳命

─ 紀豊布流(紀君、紀直。弟: 神奴小牟久[神奴君、丹生祝祖])

 

http://gejirin.com/src/U/utimaro.html

 

天道根命━ 知名曽命比古麻命蔭佐奈朝命鬼刀弥命荒川戸畔命久志多麻命━ 大名草比古命宇遅比古命━ 豊耳命

  1世                                                                                                                                              9世

 

                                                                                                 *兄:久志多麻命
                                                                                                 *弟:蔭佐奈朝命
                                                                                                 *弟:荒川戸畔命

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『紀伊続風土記』に引用の「國造家譜」


*天道根命━ 比古麻命鬼刀彌命━ 久志多麻命━ 大名草彦命━ 宇遅彦命

   1世                                     *弟:蔭佐奈朝命        5世

                                             *弟:荒川戸畔命

 

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 http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/10-1-tunagaru.html

 

 

 

 

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http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/kusegakunoto_tree_r_8418.html

>茅名麻は 男性

茅名麻=智名曾なら この人は 紀伊氏の人。
残念ながら 紀伊国造家の系譜を 伝える 日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)系譜には

智名曾は 登場しませんが、

丹生都神社社家の系譜などに その名前を 見ます。

ただし系譜上の位置は 不安定で どのように 続くのか 明確には できません。

紀伊氏の本拠地は 名草と称されたようで、

 

六世孫 建斗米の妻が 中名草姫、

七世孫 建宇那比の妻が 節名草姫、

 

大神氏の大己貴の六世孫 豊御気主天の妻も 名草姫

また 紀伊国造 天道根命の四世孫が 大名草彦命

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http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01209b.htm#003

《紀国造家》

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01209.htm#000

 


http://p.booklog.jp/book/29922/page/413483

2.尾張氏にかかわる氏族

(1)物部氏
 物部氏は日本書紀および物部氏の家譜である「先代旧事本紀」の中で、尾張氏と同じく饒速日命を始祖として持つ一族であると紹介されている。しかし、私は以下の理由から物部氏は饒速日命の本流ではなく、現地妻の子孫、傍流であったと考えている。

 

①饒速日命の天降り
「先代旧事本紀 巻第三 天神本紀」によると、饒速日命が大和地方に天降る際、従ったのは下記のとおり堂々たる陣構えの三十二柱の神、五部人(いつとものひと)、五部造(いつとものみやつこ)、二十五部、船長(ふねのおさ)および梶取(かじとり)であり、その総大将は尾張氏の祖先天香語山命である。
  物部氏は二十五部に属しているが、物部氏の祖「宇摩志麻遅(うましまぢ)」の名は見えない。三十二神の筆頭であり、尾張氏の祖でもある「天香具山」を陸軍大将とすれば、物部氏は連隊長クラスくらいである。以下に見える名前の序列から考えると物部氏は尾張氏より数段格下であり、饒速日命の本流とは到底考えられない。そのことを納得してもらうために冗長ではあるが以下に天降りの模様を紹介する。

 

『饒速日命が天降る際に高皇産霊尊に以下のように命じられた。
「もし、葦原の中国の敵で、ふせいで待ち受け戦うものがいるならば、方策をたて計略をもうけ平定せよ。」そして、三十二人の武将に命じて、防御の人として天降りに仕えさせた。
天香語山命(あまのかごやまのみこと)、 尾張連(おわりのむらじ)等の祖
天鈿売命(あまのうずめのみこと)、   猿女君(さるめのきみ)等の祖
天太玉命(あまのふとたまのみこと)、 忌部首(いむべのおびと)等の祖
天児屋命(あまのこやねのみこと)、  中臣連(なかとみむらじ)等の祖
天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)、 鴨県主(かものあがたぬし)等の祖
天道根命(あまのみちねのみこと)、  川瀬造(かわせのみやつこ)等の祖
天神玉命(あまのかむたまのみこと)、 三嶋県主(みしまのあがたぬし)等の祖
天椹野命(あまのむくぬのみこと)、   中跡直(なかとのあたい)等の祖
天糠戸命(あまのぬかとのみこと)、   鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の祖
天明玉命(あまのあかるたまのみこと)、 玉作連(たまつくりのむらじ)等の祖
天牟良雲命(あまのむらくものみこと)、 度会神主(わたらいのかんぬし)等の祖
天背男命(あまのせおのみこと)、 山背久我直(やましろのくがのあたい)等の祖
天御陰命(あまのみかげのみこと)、  凡河内直(おおしこうちのあたい)等の祖
天造日女命(あまのつくりひめのみこと)、 阿曇連(あずみのむらじ)等の祖
天世平命(あまのよむけのみこと)、   久我直(くがのあたい)等の祖
天斗麻弥命(あまのとまねのみこと)、 額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)等の祖
天背男命(あまのせなおのみこと)、  尾張中嶋海部直(おわりのなかじまのあまべのあたい)等の祖
天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)、 間人連(はしひとのむらじ)等の祖
天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)、 安芸国造(あきのくにのみやつこ)等の祖
天神魂命(あまのかむたまのみこと)、 葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)等の祖。
天三降命(あまのみくだりのみこと)、 豊田宇佐国造(とよたのうさのくにのみやつこ)等の祖
天日神命(あまのひのかみのみこと)、 対馬県主(つしまのあがたぬし)等の祖
乳速日命(ちはやひのみこと)、 広湍神麻続連(ひろせのかむおみのむらじ)等の祖
八坂彦命(やさかひこのみこと)、伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)等の祖
[天活玉命(あまのいくたまのみこと)]  伊佐布魂命(いさふたまのみこと)、倭久連(わくのむらじ)等の祖
伊岐志邇保命(いきしにほのみこと)、 山代国造(やましろのくにのみやつこ)等の祖
活玉命(いくたまのみこと)、     新田部直(にいたべのあたい)の祖
少彦根命(すくなひこねのみこと)、    鳥取連(ととりのむらじ)等の祖
事湯彦命(ことゆつひこのみこと)、    取尾連(とりおのむらじ)等の祖
表春命(うははるのみこと)   八意思兼神(やごころのおもいかねのかみ)の子
     信乃阿智祝部(しなののあちのいわいべ)等の祖
天下春命(あまのしたはるのみこと)、  武蔵秩父国造(むさしのちちぶのくにのみやつこ)等の祖
月神命(つきたまのみこと)、       壱岐県主(いきのあがたぬし)等の祖

また、五部(いつとも)の人々が副(そ)い従って天降り、仕えた。
物部造(もののべのみやつこ)等の祖、   天津麻良(あまつまら)。 
笠縫部(かさぬいべ)等の祖、       天勇蘇(あまつゆそ)。 
為奈部(いなべ)等の祖、         天津赤占(あまつあかうら)。 
十市部首(とおちべのおびと)等の祖、   富々侶(ほほろ)。
筑紫弦田物部(つくしのつるたもののべ)等の祖、 天津赤星(あまつあかぼし)。

 

五部の造(みやつこ)を供領(とものみやつこ)とし天物部(あまのもののべ)を率いて天降り仕えた。
二田造(ふただのみやつこ) 大庭造(おおばのみやつこ) 舎人造(とねりのみやつこ)
勇蘇造(ゆそのみやつこ)  坂戸造(さかとのみやつこ)

天物部ら二十五部の軍団が、同じく兵杖を帯びて天降り、仕えた。
二田物部(ふただのもののべ)。      当麻物部(たぎまのもののべ)。
芹田物部(せりたのもののべ)。      鳥見物部(とみのもののべ)。
横田物部(よこたのもののべ)。      嶋戸物部(しまとのもののべ)。
浮田物部(うきたのもののべ)。      巷宜物部(そがのもののべ)。
足田物部(あしだのもののべ)。      須尺物部(すじゃくのもののべ)。
田尻物部(たじりのもののべ)。      赤間物部(あかまのもののべ)。
久米物部(くめのもののべ)。       狭竹物部(さたけのもののべ)。
大豆物部(おおまめのもののべ)。     肩野物部(かたののもののべ)。
羽束物部(はつかのもののべ)。      尋津物部(ひろきつのもののべ)。
布都留物部(ふつるのもののべ)。     住跡物部(すみとのもののべ)。
讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。 相槻物部(あいつきのもののべ)。
筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。  播麻物部(はりまのもののべ)。
筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)。

 

(天の磐船の)船長が、同じく、梶をとる者たちをひきいて、天降り仕えた。
船長・跡部首(あとべのおびと)等の祖  天津羽原(あまつはばら)
梶取・阿刀造(あとのみやつこ)等の祖  天津麻良(あまつまら)
船子・倭鍛師(やまとのかぬち)等の祖  天津真浦(あまつまうら)
笠縫等の祖     天津麻占(あまつまうら)
曾曾笠縫(そそかさぬい)等の祖   天都赤麻良(あまつあかまら)
為奈部(いなべ)等の祖    天津赤星(あまつあかぼし)

 

 饒速日命は、天神の御祖神の命令で、天の磐船(あめのいわふね)にのり、河内の国の河上の哮峰(いかるがみね)に天降りした。さらに、大倭の国の鳥見(とみ)の白山に遷った。天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地を天から眺め見て天降った。すなわち、「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」と言われたのは、このことであろうか。』

 

②宇摩志麻遅に関する疑問
「先代旧事本紀」の中には下記のとおり、宇摩志麻遅は饒速日命が死んでから誕生したという記述もあるので、饒速日命が天降る際にはまだ誕生していなかったか、幼児であったとも解釈できる。
饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を妻とした。御炊屋姫は妊娠した。まだ子が生まれないうちに饒速日尊は亡くなった。
 その報告がまだ天上に達しない時に、高皇産霊尊は速飄神(はやかぜのかみ)にみことのりしてのべた。「私の神の御子である饒速日尊を、葦原の中国につかわしたが、疑わしいところがある。お前は天降って復命するように。」
 速飄神は天降って、饒速日尊が亡くなっているのをみて、天に帰りのぼって復命して、「神の御子はすでに亡くなっています。」と奏上した。
 高皇産霊尊はあわれと思って、速飄の神をつかわし、饒速日尊のなきがらを天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし、悲しんだ。そして天上で葬った。
  饒速日尊は妻の御炊屋姫に夢の中で教えて言った。「お前の子は、私の形見のものとするように。」すなわち天璽瑞宝をさずけた。また、天の羽弓矢、羽羽矢、また神衣、帯、手貫の三つのものを登美(とみ)の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。饒速日尊は天上にいたとき天道日女命(あめのみちひめのみこと)を妻として、天香語山命(あまのかごやまのみこと)を生んでいた。天降って御炊屋姫を妻として、宇摩志麻治命が生まれた
。』

 

③「先代旧事本紀」は尾張氏の家譜である
  以上のことから私は、「先代旧事本紀」は傍流の物部氏が饒速日命本流の尾張氏の家譜を基に捏造したものであろうと考えている。しかし捏造したものなら、32神のトップに宇摩志麻遅を記載することもできたのに、という疑問も生じるが、それをしていないのは、饒速日命の業績および子孫については、古代豪族間で周知の事実であり、当時でもごまかすことができなかったからであろう。
 周知であった好例が「日本書紀」であり、全国を統一した崇神天皇を始祖とする大和朝廷といえども、大和地方を先に国見をした、即ち統治していたのは饒速日命であると記述をせざるを得なかったのである。
  饒速日命の家譜は広く知られており、後に権勢を誇った物部氏といえども無闇に改竄することができず、やむを得ず物部氏の祖、宇摩志麻治命の手柄話のみを付け足して名門の証とするしかなかった。

 

④尾張氏との関係
 物部氏と尾張氏の関係については、第1回目の使いでは、尾張氏が正使、物部が副使となっていることからも推察できるように物部氏は従来尾張氏より下位にあった。しかし、2回目以降は使者となった者はいない。尾張氏と物部氏の間には倭国内の権力争いから対立が生じていたと思われる。対立の結果は、物部氏が尾張氏を凌駕する形で終了した。出石心大臣の孫にあたる欝色謎(うつしこめ)が第8代孝元天皇の皇后となった。さらに欝色謎の姪である伊香色謎(いかがしこめ)も第8代孝元天皇の妃および第9代開化天皇の皇后となり、第10代崇神天皇の母ともなった。
 尾張氏からも尾張大海媛が崇神天皇の妃となったが、劣勢を覆すことはできなかった。以降、尾張氏の勢力範囲は物部氏により蚕食されることとなる。尾張氏の本拠地である東海地方にも物部氏の勢力が及び、多くの物部郷の存在を許している。

 

(2)海部氏
 尾張氏の系図が現れるものとして「海部氏系図」がある。私は海部氏は饒速日命の子孫ではないと考えている。以下に「海部氏系図」について紹介する。

 

①「海部氏系図」の概要
 宮津湾と内海の阿蘇海を分けて南北に連なる天橋立の北側、宮津市字大垣に丹後一ノ宮の籠(この)神社が鎮座する。この延喜式内の名神大社には、代々海部(あまべ)氏が祠官(祝部)として奉仕してきており、天火明命を始祖として現宮司海部光彦氏はその第82代にあたる。
 同家には古代から伝来の「海部氏系図」(首題に「籠名神社祝部氏系図(このみょうじんしやはふりべうじけいず)」とあり、別名「海部氏本系帳」という)一巻があり、附(つけたり)の「海部氏勘注系図」(「籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之氏系図」(このみょうじんぐうはふりべたんばくにのみやつこあまべあたいとうのうじけいず)」、別名「丹波国造本記」という。)一巻とともに長年秘匿されてきたが、平成4年に全文が公開され文化財保護法に基づく国宝に指定されている。
「海部氏勘注系図」は平安時代の仁和年間(885~889)に、海部直稲雄(あまべあたいいなお)によって修録され、さらにこれを江戸時代初期に海部勝千代が修録書写した物とされる。修録にあたって『日本書紀』や『古事記』が参照された事は充分推測できる。
 本文の体裁は竪系図(たてけいず)の古態をよく存し、正史に見えない古代地方豪族の変遷のあり方を伝えて、わが国の歴史研究上もその価値が極めて高いものと評価されているものである。

 

②「海部氏系図」の真贋
 私の検討の結果、以下の疑問点を発見し、海部氏は尾張氏とは無関係と考えざるを得ない。国宝といえども信用できないものである。


、「海部氏系図」では第7世「建諸隅」を「由碁理」と同一とし、由碁理の娘「丹波竹野姫(たにはのたけのひめ)」を第9代開化天皇の妃としたとしているが、日本書紀では建諸隅の妹「大海姫(おおしあまひめ)」は第10代崇神天皇の妃であるとしている。「海部氏系図」が正しいとすると、開化天皇は自分の息子の崇神天皇に、妻の叔母を迎えさせたこととなり、到底信じられない話である。


、「先代旧事本紀」では第11世「乎止與(おとよ)」が誰の息子であるか明確ではない。ところが、「海部氏系図」でも乎止與が第10世か11世か、つまり誰の息子かが明確でない。両方の系図において尾張氏の要ともいえる人物の繋がりが混乱しているということは、一方が他方を参考にして同じ混乱を引き写したものと考えざるを得ない。

 

(3)紀伊国造
①饒速日尊との関係
 紀伊国造の祖先「天道根命(あめのみちねのみこと)」は饒速日命により紀伊国造に任ぜられた。その子孫は「2。麻枳利」、「3。比古麻夜真止乃」、「4。智名曾」「4。中名草姫」、「5。鬼刀禰」、「6。久志多麻」「6。荒河戸畔」、「7。大名草彦」、「8。枳弥都弥」と続いている。
「古代豪族系図集覧」では「高皇産霊尊」に始まる系譜の中に、「1.天道根命」「2.麻枳利命」「3.比古麻夜真止乃命」「4.智名曾命」「5.鬼刀禰命」「6.久志多麻命」「7.大名草彦命」「8.宇遅彦命(紀伊国造祖)」と紹介されている。


②尾張氏との関係
 紀伊国造「智名曾(ちなそ)」の妹「中名草姫(なかつなぐさひめ)」は饒速日尊の6世「建斗米」の妻となっている。「建斗米」の息子「建宇那比(たけうない)」も節名草姫という紀伊國名草にゆかりの名を持つ姫が妻として迎えられている。


③大伴氏との関係
 大伴氏の古系譜である「古屋家家譜(ふるやけかふ)」の中で、大伴氏6世「豊日命(とよひのみこと)」の説明として「母は紀直智名曾のむすめ乎束媛命」であることが記されている。このことから「乎束媛命」は大伴氏5世の「角日(つのひ)」の妃であることがわかる。


④大和朝廷との関係
 6世「荒河戸畔(あらかわとべ)」の娘「遠津年魚眼眼妙姫(とおつあゆめまくわしひめ)」は第10代崇神天皇の妃となっている。


 ⑤「智名曾」の謎
以上みたように「智名曾」の名前は 古代の文献に 二度 現れる。

 

一つは「先代旧事本紀」で、

「建斗米命」が紀伊国造 智名曾の妹 中名草姫を 妻と為し 六男一女を 生む旨が 記されて いる。


もう一つは、大伴氏の古系譜である「古屋家家譜」の中で、「豊日命」の「母は紀直智名曾のむすめ乎束媛命」であることが記されている。この二つのまったく系統が異なる系譜に現れる以上、「智名曾」が実在の人物であることは疑う余地がない。さらに言えば、わが国の系図の中で「実在と確認できる最古の人物」であるといえる。この「智名曾」の存在のおかげで、その妹を妻とする「建斗米」はもちろんのこと、弟「妙斗米」およびその子孫が実在の人物であると断言できるのである。
 

しかし、奇妙なことに天道根命を始祖とする紀国造氏、紀氏、大丹生氏、丹生氏 および 天野祝氏の系図には、

「智名曾」が 削除されて いる。

 

丹生祝氏の系図には 天道根命の子として記載されている。

 

なぜ「智名曾」だけが 削除されるのか。

なぜ「智名曾」の系譜が 乱れて いるのか。


 私は、紀伊国造家が「智名曾」の存在そのものを 否定する 必要に 迫られたからだろうと考えている。

それは「智名曾」が 大和朝廷に 従わなかったからであろう。

そのように 考えられる理由は 以下のとおりである。


.智名曾の祖先 天道根命は 神武天皇より 先に 大和一帯を 支配して いた 饒速日命により 紀伊国造に 任ぜられて おり、

大和朝廷から 見ると敵の配下の武将となる。


.日本書紀には、神武天皇が東征の際、紀伊国から攻め立てたにもかかわらず、紀伊国造は敵とも味方とも紹介されず、全く無視されている。


.紀伊国は大型の後期銅鐸が日本で一番多く残されており、倭国の大国の一つと考えられるにもかかわらず、四世紀の前方後円墳が少ない。これは、大和朝廷が古墳を造ることを許さなかったからであろう。


.紀伊国には 始祖である「天道根命」を 祭る神社が ない。

日前(ひのくま)、国懸(くにかかす)神社は 位置的に 紀伊国造の祖先を 祀るべき 紀伊国の中心的 神社であるにもかかわらず、

人間でも大和朝廷ゆかりの神でもない「日矛および鏡」を祀っている。

大和朝廷に背いた紀伊国造の祖先を祀ることが許されなかったものと思われる。


.「智名曾」の妹が「中名草姫」であることから 智名曾は 名草地方を 統治して いたと思われるが、

神武天皇は「軍(みいくさ)、名草邑(むら)に 至る。則(すなわ)ち、名草戸畔(なくさとべ)という者を 誅(ころ)す」と この名草地方を 蹂躙したことを 記して いる。

智名曾も しくは その祖先は あきらかに 敵軍として 扱われて いたのである。

 

 ちなみに、この名草地方には 名草戸畔の死に まつわる 伝説が ある。
「名草戸畔を 祀る三社」、『宇賀部神社、杉尾神社、千種神社」の由緒書には
『名草の邑の名草戸畔は おそらくは 卑弥呼と同じく国の祭祀を 司って いた女王であった。

そこに侵略して きたのが 磐余彦の軍である。

食料・物資と兵士の調達、紀ノ川の水運の確保など この地は 大和攻略とその後の政権維持の戦略上の拠点であり、

完全に 制圧する 必要が あったのであろう。

女王軍の抵抗むなしく、名草戸畔は 残酷にも 頭、胴、足と切り刻まれたのである。

…邑人は 捨て置かれた頭、胴、足をそれぞれ葬り、祀ったのである。

その三社を 紹介する。

 

地元の人々の生活の中で言い伝えられてきた伝承は長い。

そこに神社の形をとると一層長く伝えられるものである。』
とあり、

以下に頭部が祀られ「おこべ(頭)さん」と呼ばれる「宇賀部神社」、

胴体が祀られ「はら(腹)かたさん」と呼ばれる「杉尾神社」、

脚部が祀られ「あし(足)がみさん」と呼ばれる「千種神社」について説明されている。

 

神武軍の征服の模様が 今に うかがい知れる貴重な伝説である。