倭(왜)

「白河本旧事紀と古今和歌集」

라디오에요 2009. 11. 4. 15:58

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お名前: 望月古亶    URL

 

「白河本旧事紀と古今和歌集」

 

 月曜日の晩、テレビで里見浩太朗が演ずる「水戸黄門」が放映されている。「この紋所が目に入らぬか」の名セリフの前に、ときおり城中の国家老の元に書状が届けられる。その書状に「梅里」の署名があり、そのル―ツの話である。
 徳川光圀は、家康の十一男・頼房の三男(頼重―亀丸―光圀)であるが水戸の藩主になった。そのいきさつは、長男の頼重が生まれたとき、尾張の義直や紀州の頼宣に未だ男子が生まれず、それを憚って頼重は正式に披露されなかったと伝えられる。儒教を重んずる光圀には、長子でないのに藩主になるのは筋ではないと思っていたのか。それで、兄の子の綱方を高松藩から迎えた。綱方が早死にするとその弟の綱条を迎えた。
 この「梅里」は、『古今和歌集』にでてくる王仁の「おほさざきの帝をそへたてまつれる歌」によるといわれる。おほさざきの帝とは、第16代仁徳天皇のことである。かりにこの歌が『古事記』や『日本書紀』の前に存在したとすると、紀貫之が宮中の祭祀を永年務めてきた白河家に伝わる『先代旧事本紀』すなわち『白河本旧事紀』の原本をみていた可能性がある。
 『古今和歌集』は、第60代醍醐天皇(897~929)のときに、勅撰和歌集の第1号として編纂された。撰進の勅命は延喜5年(905)に出され、受けたのは大内記・紀友則、御書所預・紀貫之、前甲斐少目・凡河内躬恒、右衛門府生・壬生忠岑の四人である。しかし、友則は撰進中に死亡しているので、その後は紀貫之が代表で進められたと考えられ、完成したのは延喜16年(916)のころである。
 『古今和歌集』には、《難波津の歌は帝の御初めなり》として、細書で〈おほさざきの帝、難波津にて皇子ときこえける時、東宮をたがひに譲りて、位につきたまはで三年になりにければ、王仁といふ人のいぶかり思ひて、よみてたてまつりける歌なり。「この花」はむめの花をいふなるべし〉と記載し、「難波津に咲くやこの花 冬ごもり今は春べと 咲くやこの花 と言へるなるべし」とある。この歌は『古事記』や『日本書紀』にはない。ところが、『白河本旧事紀』の「天皇本紀」の 「仁徳本紀」にはある。即位前紀の辛未年の10月の条につぎのように記載されている。

 《冬十月、皇太子菟道稚郎子尊を兎道の山上に葬る。是の後、大鷦鷯尊、尚を皇太子、位に即かざるを以て薨ずるを悲しみて、未だ天皇の位に即きたまはず。時に百済の王仁、奏して曰く。皇太子薨ずるは、此れ天命なり。之を如何ともすることあたはず。大王天相あり。須からく速かに天皇の位に即きたまふべし。乃ち歌を献て曰く。
 那迩波都迩 佐久耶許能波奈 布由許毛理 伊麻波波留遍仁 磋久耶許農波奈》
 
 『白河本旧事紀』は、 『古事記』や『日本書紀』に先立って編纂されたものである。それは第14代仲哀天皇の聖寿52歳が物語っている。(『在野史論・第十集』所収「数表で解く日本古代史」)また、成立時点は白雉元年(650)より以前と考えられる。(『異伝聖徳太子』解説五・白河本旧事紀の成立年代)。この歌には「と」と「仁」の違いがあり、またある人の言うのにここの「農」は「の」と読んで万葉仮名でないので、『古事記』や『日本書紀』以後に作られたものだという。「の」の読みは、第一次的な読みで万葉仮名より前の聖徳太子の作った仮名いわゆる「聖徳仮名」であり、万葉仮名とは完全に一致するものではないと考える。『古今和歌集』の序の作成者で、宮中の図書係である紀貫之は、900年ころ『白河本旧事紀』の原本をみていたのではないだろうか。
 なお、『白河本旧事紀』を永年保存していた白河家は、第65代花山天皇の皇子清仁親王に発し、親王の王子延信王が万寿2年(1025)源姓を賜わって臣列に下り、寛徳3年(1046)勅定によって神祇伯に任ぜられたのがはじまりと伝えられる。

 なお、この歌は、いくつかの木簡の出土状況からして『日本書紀』が成立する前から存在していたらしい。しかし、『古今和歌集』の序と同様に「と」と記載され、「仁・に」と記載している『白河本旧事紀』とは別ルートのようである。もとは一緒と考えられるが、紀貫之が『白河本旧事紀』をみていなくとも書けた可能性はある。

[2007/06/21 18:24:35]

 

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