http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/sendaikuji_7.htm
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開化天皇
諱は稚日本根子大日日尊(わかやまとねこおおひひのみこと)である。日本根子彦国牽天皇(やまとねこひこくにくるのすめらみこと)の第二子で、母は皇后の鬱色謎命(うつしこめのみこと)と云い、物部連公の先祖の出石心命(いづしこころのみこと)の孫である。
元年春二月 皇太子の尊は天皇位に登られた。
二年春正月 皇后を尊んで皇太后と呼び、皇太后に太皇太后を追贈した。
冬十月 都を春日の地に遷した。率川宮(いざかわのみや)と言う。
七年春正月 伊香色謎命(いかしこめのみこと)[庶母である]を立てて皇后とする。皇后は御間城入彦五十瓊殖命(みまきいりひこいにえのみこと)を生む。
これより先に天皇は丹波の竹野媛を納めて妃とする。彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を生む
妃の和邇臣(わにのおみ)の先祖の姥津命(おけつのみこと)の妹の姥津姫は彦坐王(ひこいますのきみ)を生む
八年正月 大禰の太綜杵命(おおへそきのみこと)を大臣とし、武建命(たけたつのみこと)と大峯命(おおねのみこと)を大禰をする。物部連公の先祖の宇摩志麻治命の子孫である。
二月 伊香色雄命(いかしこおのみこと)を大臣とする。物部連公の先祖の宇摩志麻治命の子孫である。
二十八年春正月 御間城入彦五十瓊殖命(みまきいりひこいにえのみこと)を立てて皇太子とする。年十九歳
六十年夏四月 天皇は崩御された
十月 春日の率川(いざがわ)の坂本[または坂の上とも云う]の陵に葬る。年百十五歳であった。
四人の皇子が生まれた。
御間城入彦五十瓊殖命(みまきいりひこいにえのみこと)
次に彦坐王(ひこいますのきみ)[当麻坂上君(たぎまのさかのうえのきみ)等の先祖]
次に彦蒋簀命(ひここすにみこと)[彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)とも云う。品治部君(ほむじべのきみ)等の先祖]
次に武歯類(たけはぐのみこと)[道守臣(みちのもりのおみ)等の先祖]
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崇神天皇
諱は御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいにえのみこと)で有る。稚日本根子大日日天皇(わかやまとねこおおひひのすめらみこと)の第二子で有る。母は、皇后の伊香色謎命(いかしこめのみこと)と云い、物部氏の先祖の太綜杵命(おおへそきのみこと)の娘である。天皇は十九歳の時に立って皇太子となった。識性が聡明であった。幼いころから武勇を好まれた。壮年になって寛容で博識であり、謹んで神祇を崇め重んじられた。恒に天業を経綸する心構えが有った。
開化天皇六十年夏四月 稚日本根子大日日天皇が崩御された。
元年春正月十三日 皇太子の尊は天皇位に登られた。皇后を尊んで皇太后と呼び、皇太后に太皇太后を追贈した。
二月十六日 御間城入姫命(みまきいりひめのみこと)を立てて皇后とした。これより先に皇后は活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)を生み、次に彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)、次に国方姫命(くにかたひめのみこと)、次に千千衝倭姫命(ちちつたやまとひめのみこと)、次に倭彦命(やまとひこのみこと)、次に五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)を生む。
妃の紀伊の国の荒川戸畔(あらかわとべ)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめめたはつひめ)は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)、次に豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を生む。
妃の尾張の大海媛(おおあまひめ)は八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)、次に渟中城入姫(ぬなきいりひめ)、次に十市瓊入姫命(とおちにいりひめのみこと)を生む。
三年秋九月 都を磯城(しき)の地に遷す。瑞籬宮(みずがきのみや)と云う。
四年春二月四日 武膽心命(たけいこころのみこと)を大禰とし、多辨命(たべのみこと)を宿禰とし、安毛建美命(やすけたけみのみこと)を侍臣とした。皆、物部連公の先祖で有る。
四十八年春正月十日 天皇は豊城命と活目尊に勅して
「汝等二人を愛し慈しむ気持ちは共に同じである。どちらを後継ぎにすれば良いか判らない。各々が見た夢で私はこれを占おうと思う。」
と言われた。二人の皇子は命ぜられ、沐浴し眠って夢を見た。翌日、兄の豊城命は夢の事を天皇に奏じて
「自ら三諸山に登り東に向かって八回矛を突き、八回刀を撃つ」
と言った。弟の活目尊は夢の事を奏じて
「自ら三諸山の嶺に登って四方に縄を組沫を食べる雀を追う」
と言った。天皇は双方が見た夢を聞いて二人に
「兄は東に向いたので東国を治めなさい。弟はこの如く四方を見たので私の位を継ぎなさい。」
と言った。
四月十九日 活目尊を立てて皇太子とし、豊城尊に東国を治めるよう命じた。
六十年春二月(注1) 群臣に詔をして
「武日照命(たけひてるのみこと)が天より持ってきた神宝が出雲の大神の宮に納められている。これを見て見たい。」
と言われた。矢田部造の先祖の武諸隅命(たけもろすみのみこと)を遣わして、調べて献じさせた。
六十五年春正月 武諸隅命を大連とした。物部氏の先祖で有る。
六十八年冬十二月五日 天皇は崩御された。年百二十歳で有った。
明年八月十一日 山邊(あまのべ)の道の上の陵に葬る。
皇子は六男五女生まれた。
活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)
次に彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)
次に次に国方姫命(くにかたひめのみこと)
次に千千衝倭姫命(ちちつたやまとひめのみこと)
次に倭彦命(やまとひこのみこと)
次に五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)
次に豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
次に豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)[初めて天照大神を託し斎祠(いわいのみや)になる。]
次に八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)
次に渟中城入姫(ぬなきいりひめ)[初めて大国魂神(おおくにたまのかみ)を斎祭る。]
次に十市瓊入姫命(とおちにいりひめのみこと)
●注1:日本書紀では六十年秋七月の記載である。
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先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀
垂仁天皇
諱は活目入彦五十狭茅尊(いくめいりひこいさちのみこと)である。御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこと)の第三子である。母は、皇后の御間城入姫(みまきいりひめ)と言い、大彦命(おおひこのみこと)の娘である。崇神天皇二十九年春正月に瑞籬宮で生まれた。生まれながらに容姿が非常に良かった。壮年になって優れて大きな心を備え、性格は率直で歪んだ所が無かった。天皇はこれを愛され、常に左右に引き置かれた。二十四歳の時に夢の祥により立てて皇太子となった。
崇神天皇六十八年冬十二月 御間城入彦五十瓊殖天皇は崩御された。
元年 正月二日 皇太子の尊は天皇位に登られた。皇后を尊んで皇太后と呼び、皇太后を尊んで太皇太后と呼んだ。
二年 春二月九日 狭穂姫命(さほひめのみこと)を立てて皇后とした。皇后は誉津別命(ほむつわけのみこと)を生んだ。終生天皇はこれを愛で常に左右に置いた。壮年まで言葉を発する事が出来なかった。
冬十月 更に都を纏向(まきむく)に遷した。珠城宮(たまきのみや)と言う。
四年 秋九月二十三日 皇后の同母兄の狭穂彦王(さほひこのきみ)が謀反を行い社稷を危うくしようと思った。その記録は別にある。
五年 十月一日 狭穂彦は妹の皇后と共に城中に死す。
十五年 春二月十日 丹波の五女を召して内宮に入れられた。第一が日葉酢姫(ひばすひめ)、次に渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ)、次に眞研野媛(まとのひめ)、次に薊瓊入姫(あざみにいりひめ)、次に竹野媛(たけのひめ)である。総ては開化天皇の皇子の彦坐皇子命(ひこいますのみこのみこと)の子の丹波道主王(たんばのみちぬしのきみ)
の娘である。
秋八月一日 日葉酢媛命を立てて皇后とし、また渟葉田瓊入媛、眞研野媛、薊瓊入媛を妃とした。唯、竹野媛は容姿が醜かったので本土に帰された。還されることを恥じて葛野の地に到着した時に輿より自ら堕ちて亡くなられた。その地を堕国(おちくに)と言う。今、乙訓と言うのは是が訛ったものである。皇后は五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)を生んだ。次に大足彦尊(おおたらしひこのみこと)、次に大中姫命(おおなかつひめのみこと)、次に倭姫命(やまとひめのみこと)、次に稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)を生んだ。
妃の渟葉瓊入媛は鐸石別命(ぬてしわけのみこと)、次に膽香足姫命(いかたらしひめのみこと)を生んだ。
妃の眞研野媛は磐撞別命(いわつくわけのみこと)、次に祖別命(おさわけのみこと)を生んだ。
妃の薊瓊入媛は池速別命(いけはやわけのみこと)、次に五十速石別命(いとしわけのみこと)、次に五十日足彦命(いかたらしわけのみこと)を生んだ。
二十三年 秋八月四日 大新河命(おおにいかわのみこと)を大臣とし、十市根命(とおちねのみこと)を五大夫の独りと為す。両名とも宇摩志麻治命(うましまちのみこと)の裔孫である。
八月二十二日 大臣の大新河命に物部連公の姓を賜う。大臣を改め大連と名付ける。
九月二日 群卿に詔をして
「誉津別王は生まれてから三十年になる。鬚が生えたけれども泣く児の様である。常に言葉が発せ無い。何故であろうか。」
と言って、群卿に諮られた。
十月八日 天皇は大殿の前に立たれていた。誉津別王子も側に居た。その時、鳴く鵠が大空を飛んで居た。王子は鵠を観て
「是は何者であるか」
と言った。天皇は王子が鵠を観て言葉を発する事を得たと知られ喜んで左右の者に
「誰かこの鳥を捕まえて奉れ」
と言われた。鳥取造(ととりのみやつこ)の先祖の天湯河板挙(あまのかわだな)が
「臣が必ず捕らえて献上します」
と言った。天皇は湯河板挙に勅をして
「お前が鳥を献じれば、必ず篤く賞すであろう。」
と言った。湯河板挙は遠く鵠の飛ぶ方角を望んで、追って行き出雲まで来て捕獲した。或いは但馬の国で得たとも言う。
十一月二十六日 湯河板挙は鵠を献上した。誉津別命この鵠をおもちゃにして言葉を言う事を得た。よって、湯河板挙は篤く賞された。即ち姓を賜り鳥取造を名付けた。また、鳥取部、鳥養部、誉津部を定めた。
三十年 春正月六日 天皇は五十瓊敷命と大足彦尊に詔をして「汝等各々が欲しい物をいえ」と言った。兄王は「弓矢が欲しい」と言い、弟王は「皇位が欲しい」と言った。天皇は詔をして「各々の願うものを与える」と言われ、弓矢を五十瓊命に瓊賜り、大足彦尊に詔をして「お前は必ず我が位を継げ」と言われた。
三十二年 秋七月六日 皇后の日葉酢媛命が薨去された。
三十七年 正月 大足彦命を立てて皇太子とした。
八十一年 二月 五大夫の一人の十市根命に物部連公の姓を賜り大連とした。
九十九年 秋七月十四日 天皇は纏向宮で崩御された。年百四十歳であった。
冬十二月十日 菅原の伏見陵(ふしみのみささぎ)に葬った。
生まれた皇子は十男三女
兄 誉津別命(ほむつわけのみこと)。[鳥取造(ととりのみやつこ)等の先祖]
次に五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)
次に日本大足彦忍代別尊(やまとおおたらしひこおしろわけのみこと)
次に大中姫命(おおなかつひめのみこと)
次に倭姫命(やあまとひめのみこと)[天照大神を斎祠。始めて斎宮を起こす。]
次に稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)
次に鐸石別命(ぬてしわけのみこと)
次に膽香足姫命(いかたらしひめのみこと)
次に磐撞別命(いわつくわけのみこと)[三尾君(みおのきみ)等の先祖]
次に祖別命(おさわけのみこと)
次に池速別命(いけはやわけのみこと)
次に五十速石別命(いとしわけのみこと)
次に五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)
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景行天皇
諱は日本大足彦忍代別尊(やまとおおたらしひこおしろわけのみこと)で有る。活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)の第三子である。母は、皇后の日葉酢姫命(ひばすひめのみこと)と言い、丹波道主王(たんばのみちぬしのおお)の娘で有る。
元年秋七月 皇太子の尊は天皇位に登られた。皇后を尊んで皇太后と呼び、皇太后を尊んで太皇太后と追贈した。
二年二月 播磨の稲日太郎姫(いなひのおおいらつめ)を立てて皇后とした。皇后は三男を生まれた。第一に大碓命(おおうすのみこと)、次に小碓命(おうすのみこと)、次に稚倭根子命(わかやまとねこのみこと)で有る。その一二の皇子は一日に同じ腹に双子として生まれた。天皇はこれを怪しんで碓に向かって叫ばれた。故に、大碓小碓と言う。小碓命は幼少において勇者の気が有り、壮年になって偉丈夫の容姿となった。身長は一丈で力は良く鼎を持ち上げるほどであった。
四年 天皇は美濃の国に御幸された。左右の者が
「この国に美人がいます。弟姫(おとひめ)といい、容姿が丹精で八坂入彦皇子(やさかいりひこのみこ)の娘です。」
と言った。天皇は入れて妃にしようと思われ、弟姫の家に行かれた。天皇の輿が来る事を聞くと竹林に隠れた。天皇は弟姫を来させようと謀をして、泳宮(くくりのみや)に居て鯉を池に泳がせ、見て楽しまれた。弟姫は鯉が泳いでいるのを見たいと思い、密かに来て池を見た。天皇はこの時に召された。弟姫が思うには夫婦の道は古も今も同じで有る。しかし、自分からはどうしようもなく、天皇に願って
「私の性格は交接の道を欲しいと思いません。いまは、皇命に逆らえない為、暫く帷幕の中に召されています。しかし、私の気持ちは快く有りません。また、容姿も不器量です。久しく宮に仕えるのは甚だしく苦痛です。私に妹がいます。名を八坂入姫と言い、容姿は大変麗しく志も貞節です。後宮に入れられると宜しいでしょう」
と言った。天皇はこれを許され、八坂入姫を召して妃とされた。七男六女の皇子を生んだ。第一に稚足彦(わかたらしひこ)、次に五百城入彦(いほきいりひこ)、次に忍足別(おしたらしわけ)、次に稚倭根子(わかやまとねこ)、次に大酢別(おおすわけ)、次に五十狭城入彦(いさきいりひこ)、次に吉備兄彦(きびのえひこ)、次に渟熨斗姫(ぬのしひめ)、次に渟名城姫(ぬなきひめ)、次に五百城入姫(いおきいりひめ)、次に籠依姫(かごよりひめ)、次に高城入姫(たかぎいりひめ)、次に弟姫(おとひめ)である。
妃の三尾氏(みおのかばね)の磐城別(いわきわけ)の妹の水歯郎媛(ひずはのいらつめ)は五百野皇女(いほのみめ)を生む。
妃の五十河媛は神櫛皇子(かみくしのみこ)を生み、次に稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)を生んだ。
妃の阿倍氏(あべのかばね)の木事(こごと)の娘の高田媛(たかだひめ)は武国凝別皇子(たけくにわけのみこ)を生んだ。
妃の髪長大田根(かみながおおたね)は日向襲津彦皇子(ひゅうがそつひこのみこ)を生んだ。
妃の襲武媛(そのたけひめ)は国乳別皇子(くにちわけのみこ)と国凝別皇子(くにこりわけのみこ)を生み、次に国背別皇子(くにせわけのみこ)またの名は宮道別皇子(みやちわけのみこ)、次に豊戸別皇子(とよとわけのみこ)を生んだ。
妃の佳人を御刀媛(みはしひめ)と言う。豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生む。
冬十月 纒向に都を造る。日代宮(ひしろのみや)と云う。天皇は美濃の国造で名は神骨(かむぼね)の娘の兄遠子(えとおこ)、弟遠子(おととこ)は容姿が麗しい事を聞いて、大碓命を容姿を確認させる為に使わした。大碓命は密かに通じたので復命しなかった。ゆえに、天皇は大碓命を恨まれた。
十二年七月 熊襲が叛き貢物を奉らなかった。
八月 筑紫に御幸され、諸国の命令に従わないものを巡って討たれた。
十三年 日向の国に佳人が居て、名を御刀媛(みはしひめ)と言う。妃とされ、豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生む。
二十年二月四日 五百野皇女を遣わして天照大神を祭らせた。
冬十月 日本武尊(やまとたける)を遣わして、熊襲を討たせられた。年十六歳。
三十六年八月 大臣の物部膽咋宿禰(もののべのいぐいのすくね)の娘の五十琴姫命(いごとひめのみこと)を妃とした。五十功彦命(いごとひこのみこと)を生む。
五十一年春正月七日 群卿に詔をして数日宴を行った。稚足彦尊と武内宿禰(たけのうちすくね)は宴会に参加しなかった。天皇がその事を問われたので答えて
「宴会の日は群卿・百寮は必ず参加していて国家に不在で有です。もし、狂ったものがあり、隙を伺って居たらと考えました。御門に侍い非常時に備えました。」
と言った。天皇は詔をして
「たいしたものだ」
と言われ、特にこれを愛された。
秋八月 稚足彦尊を立てて皇太子とした。年二十四歳である。武内宿禰に命じて棟梁の臣とした。天皇は武内宿禰と同日に生まれたので、特に寵愛された。
日本武尊は東夷を平らげて、帰ってこられるときに途中の尾張の国で薨去された。初め両道入姫皇女(ふたちいりひめのみめ)を娶られ、稲依別王(いなよりわけのみこ)、次に足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)、次に布忍入姫命(ぬのしいりひめのみこと)、次に稚武王(わかたけのみこ)を生まれた。また、吉備武彦(きびのたけひこ)の娘の吉備穴戸武媛(きびのあなとたけひめ)を妃とし、武卵王(たけみこのみこ)と十城別王(とおきわけのみこ)を生んだ。また、穂積氏(ほずみのかばね)の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘の弟橘媛(おとたちばなのひめ)は稚武彦王(わかたけひこのみこ)を生んだ。
五十二年夏五月二十八日 皇后の播磨の太郎姫命が薨去された。
秋七月 八坂入姫を立てて皇后とした。
五十八年春二月十一日 近江の国に御幸し、志賀に三年居た。高穴穂宮(たかあなほのみや)と云う。
六十年冬十一月七日 天皇は高穴穂宮で崩御された。年百六歳であった。
後の帝二年 山邊の道の上の陵に葬る
生まれた皇子は男女合わせて八十一皇子であった。その内男は五十五人であり女は二十六人であった。この中の男五人、女一人の六皇子を留め、他は国の県主に封じた。皇子五十、皇女二十五、合わせて七十五は各々国の県主に封じた為、国史には記載しない。
稚倭根子命(わかやまとねこのみこと)
大酢別命(おおすわけのみこと)
吉備兄彦命(きびのえひこのみこと)
武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)[筑紫水間君(つくしのみずまのきみ)の先祖]
神櫛別命(かみくしわけのみこと)[讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)の先祖]
稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)[播磨別(はりまのわけ)の先祖]
豊国別命(とよくにわけのみこと)[吉備別(きびのわけ)の先祖]
国背別命(くにせわけのみこと)[水間君(みずまのきみ)の先祖]
忍足別命(おしたらしわけのみこと)
日向襲津彦命(ひゅうがのそつひこのみこと)[奄智君(あんちのきみ)の先祖]
国乳別命(くにちちわけのみこと)[伊與宇和別(いよのうわのわけ)の先祖]
豊門入彦命(とよといりひこのみこと)[太田別(おおたわけ)の先祖]
五十狭城入彦命(いさきいりひこのみこと)[三河長谷部値(みかわのはせべのあたい)の先祖]
稚屋彦命(わかやひこのみこと)
彦人大兄命(ひこひとのおおえのみこと)
武国皇別命(たけくにすめわけのみこと)[伊與御城別(いよのみこわけ)・添御枝君(そふのみこのきみ)の先祖]
天帯根命(あめたらしねのみこと)[目鯉部君(めこいべのきみ)の先祖]
大曾色別命(おおそしこわけのみこと)
五十河彦命(いかわひこのみこと)[讃岐値(さぬきのあたい)・五十河別(いかわけ)の先祖]
石社別命(いわさわけのみこと)
大稲背別命(おおいなせわけのみこと)[御杖君(みつえのきみ)の先祖]
武押別命(たけおしわけのみこと)
豊門別命(とよとわけのみこと)[三島水間君(みしまのみずまのきみ)・奄智首(あんちのおびと)・壮子首(そうしのおびと)・粟首(あわのおびと)・筑紫火別君(つくしのひのわけのきみ)の先祖]
不知来入彦命(いさくいりひこのみこと)
曾能目別命(そのめわけのみこと)
十市入彦命(とおちいりひこのみこと)
襲小橋別命(そのおはしわけのみこと)[宇陀小橋別(うだのおはしわけ)の先祖]
色己焦別命(しここわけのみこと)
熊津彦命(くまつひこのみこと)
息前彦人大兄水城(おきながひこひとおおえみずきのみこと)[奄智白幣造(おちのはくへいつくり)の先祖]
熊忍津彦命(くまおしつひこのみこと)[日向穴穂別(ひゅうがのあなほわけ)の先祖]
櫛見皇命(くしみしらすのみこと)[讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)の先祖]
武弟別命(たけおとわけのみこと)[立知備別(たてちびわけ)の先祖]
草木命(くさきのみこと)[日向君(ひゅうがのきみ)の先祖]
稚根子皇子命(わかねこみこのみこと)
兄彦命(えひこのみこと)[大分穴穂御崎別(おおいたのあなほみさきのわけ)・海部値(あまべのあたい)・三野之宇泥須別(みぬのうですわけ)等の先祖]
宮道別命(みやちわけのみこと)
手事別命(てことわけのみこと)
大我門別命(おおがとわけのみこと)
豊日別命(とよひわけのみこと)
三川宿禰命(みかわのすくねのみこと)
豊手別命(とよてわけのみこと)
倭宿禰命(やまとすくねのみこと)[三川大伴部値(みかわのおおともべのあたい)の先祖]
豊津彦命(とよつひこのみこと)
五百木根命(いほきねのみこと)
弟別命(おとわけのみこと)[牟宜都君(むぎつのきみ)の先祖]
大焦別命(おおこわけのみこと)
五十功彦命(いこひこのみこと)[伊勢刑部君(いせのおさかべのきみ)・三川三保君(みかわのみほにきみ)の先祖]
櫛角別命(くしつのわけのみこと)[茨田連(まむたのむらじ)の先祖]
皇子に定めた六人の中、男五人、女一人。
大碓命(おおうすのみこと)[守君(もりのきみ)等の先祖]
次に小碓命(おうすのみこと)[日本武尊(やまとたけるのみこと)と追贈する]
次に豊国別命(とよくにわけのみこと)[日向の諸縣君(もろあがたのきみ)等の先祖]
次に稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)
次に五十城入彦命(いほきいりひこのみこと)
次に五十野姫命(いほのひめのみこと)[伊勢の天照大神を斎祠]
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成務天皇
諱は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)で有る。大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)の第四子である。母は、皇后の八坂入姫命(やさかのいりひめのみこと)であり、八坂入彦皇子(やさかのいりひこのみこ)の娘で有る。大足彦天皇四十年にたって皇太子となる。年二十四歳で有った。
六十年冬十一月 大足彦天皇は崩御された。
元年春正月五日 皇太子の尊は天皇位に登られた。皇后を尊んで皇太后と呼び、皇太后を尊んで太皇太后と追贈した。物部膽咋宿禰(もののべのいくいのすくね)を大臣とした。志賀の高穴穂宮(たかあなほのみや)に都をす。
二年冬十一月十日 大足彦天皇を倭国(やまとのくに)の山邊の道の上の陵に葬る
三年春正月七日 武内宿禰(たけのうちすくね)を大臣とした。
四十年春三月 甥の足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を立てて皇太子とした。大足彦天皇の皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二子である。
日本武尊は両道入姫皇女(ふたちいりひめのみめ)を娶られ、三男一女を生まれた
稲依別王(いなよりわけのみこ)[犬上君(いぬがみのきみ)・武部君(たけべのきみ)等の先祖]
次に足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)
次に布忍入姫命(ぬのしいりひめのみこと)
次に稚武王(わかたけのみこ)[近江の建部君(たけべのきみ)・宮道君(みやちのきみ)の先祖]
妃の吉備武彦(きびのたけひこ)の娘の吉備穴戸武媛(きびのあなとたけひめ)は二男を生んだ。
武卵王(たけみこのみこ)[讃岐の綾君(あやのきみ)等の先祖]
次に十城別王(とおきわけのみこ)[伊豫別君(いよわけのきみ)等の先祖]
妃の穂積氏(ほずみのかばね)の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘の弟橘媛(おとたちばなのひめ)は九男を生んだ。
稚武彦王(わかたけひこのみこ)[尾津君(おつのきみ)・揮田君(きだのきみ)・武部君(たけべのきみ)等の先祖]
稲入別命(いないりわけのみこと)
武養鷲命(たけわしかいのみこと)[波多臣(はたのおみ)等の先祖]
次に葦敢竈見別命(あしかみのかまみわけのみこと)[竈口君(かまのくちのきみ)等の先祖]
次に息長田別命(おきながたわけのみこと)[阿波君(あわのきみ)等の先祖]
次に五十目彦王命(いめひこのきみのみこと)[讃岐君(さぬきにきみ)等の先祖]
次に伊賀彦王(いがひこのきみ)
次に武田王(たけだのきみ)[尾張の国の丹羽建部君(にわのたけべのきみ)の先祖]
次に佐伯命(さえきのみこと)[三川御使連(みかわのみつかいのむらじ)等の先祖]
大凡、皇子が十五人居て、内十四人は皇子、一人は皇女
六十年六月十一日 天皇は崩御された。年百七歳であった。
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仲哀天皇
大足彦天皇(おおたらしひこのすめらみこと)の第二子の童名が小碓命(おうすのみこと)[日本武尊(やまとたけるのみこと)]の第二王子である足仲彦王尊(たらしなかつひこのきみのみこと)は諱である。母は、両道入姫皇女(ふたちいりひめのみめ)と云い、活目入彦天皇(いくめいりひこのすめらみこと)の皇女である。天皇は容姿が端正で身長十尺。成務天皇に胤が無いため四十八年に立てて皇太子となる。年三十一歳。
元年春正月十一日 皇太子の尊は天皇位に登られた。皇后を尊んで皇太后と呼び、皇太后を尊んで太皇太后と追贈した。気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を立てて皇后とされた。開化天皇の子の彦坐皇子命(ひこいますのみこのみこと)の子の山代大筒城眞稚王(やましろのおおつつきのまわかおう)の子の迦爾米雷王(かにめいかづつのきみ)の子の息長宿禰(おきながのすくね)の娘の息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)である。群臣に詔をして
「朕は未だ若年の時に(注1)父王は亡くなられた。神霊(かみのたま)の白鳥になられ天に登られた。慕う気持ちは1日も止む事は無かった。白鳥を捕らえ、陵の池に飼いたいと思う」
と言われた。その鳥を見て慕う気持ちを慰めようとされた。諸国に命じて白鳥を献じさせたと伝えられている。天皇は父王を戀奉り、鳥を飼われた。弟の蒲見別王(かまみわけのきみ)が云うには、
「白鳥と雖も焼けば黒鳥となる」
と言った。天皇はその不孝を憎まれ兵を遣わし誅殺された。
(注1)原文は弱冠と有る。王侯は12歳で冠をかぶり(元服)それ以外は16歳ぐらいで冠をかぶる。日本書紀の訳本や辞書で二十歳としているのは誤っている考えられる。
先に叔父の彦人大兄(ひこひとのおおえ)の娘の大仲媛(おおなかつひめ)を娶り妃とし、二児を生まれた。●(かご)坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)を生んだ。次に天熊田造(あめのくまたのみやつこ)の先祖の大酒主(おおさかぬし)の娘の弟姫(おとひめ)を娶り妃とし一児を生む。誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)である。
二月 角鹿(つぬが)に御幸し、行宮(かりみや)を建てて居られた。笥飯宮(けひのみや)と言う。
三月 南の国を巡り狩をして熊襲が叛いた為、討とうとされた。
七月 皇后は豊浦津(とゆらのつ)に停泊された。皇后は如意珠(にょいのたま)を海中から得られた。
九月 宮室を穴門(あなと)に建てて居られた。是を穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)と云う。
八年春正月 天皇は筑紫に御幸し熊襲を討つ謀議をされた。この時に神が現れ皇后に託して教えられて
「天皇よ、何を熊襲が従わないのを憂いているのか。子の国は曽穴(そじ)の空国(むなくに=貧しい国)である。西に宝の国が有る。新羅国(しらぎのくに)と云う。もし、良く私を祭ったならば、自ら服従するであろう」
と言われた。云々。しかし、天皇は西の方に国は無いと言われ神の教えられた事を信じなかった。なお、自ら熊襲を撃ち敵の矢に中った。
九年春二月五日 武内大臣は天皇自ら皇后に自ら琴を弾くように勧められ皇后に神託を問われた。欲しい神託は無く、神が教えて
「皇后の孕んだ皇子は宝の国を得られる」
と言われた。云々
武内大臣は天皇に謹んで琴を弾くように懇ろに勧めて、神の名を問うように言った。この時は日が暮れて明かりを付けようとしたら、琴の音が絶えて火をつけて見れば天皇は病まれ、明日崩御された。時に年五十二歳であった。神の教えを信じず、敵の矢に当り早く亡くなられたのを知った。時に皇后と大臣に天皇の亡くなられたのを隠して、天下に知らせなかった。皇后は大臣・中臣烏賊連(なかとみのいかのむらじ)・大三輪太友主君(おおみわのふとともぬしのきみ)・物部膽咋連(もののべのいくいのむらじ)・大伴武以連(おおとものたけもつのむらじ)・物部多遅摩連(もののべのたちまのむらじ)に詔をして
「天下は未だ天皇が崩御された事を知らない。もし百姓が知れば怠るものが有る」
と言われた。即ち命は大夫・百寮に命じて、宮中を守らせ天皇の遺体を棺に納め、武内宿禰に付き沿わせ海路により穴門に遷した。豊浦宮で明かりを付けずに仮の殯(もがり)をされた。
二十二日 武内宿禰は穴門より帰り、皇后に復命を行った。この年、新羅国の役の為に、天皇を葬る事が出来なかった。
生まれた皇子は四人
?坂皇子(かごさかのみこ)
忍熊皇子(おしくまのみこ)
誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)
誉田別尊(ほむたわけのみこと)
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神功皇后
気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)は稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)の曾孫の気長宿禰王(おきながすくねのきみ)の娘で有る。母は葛城高頬媛(かつらぎのたかぬかひめ)と云う。仲哀天皇二年に立てて皇后となった。幼少の頃より聡明で容姿は麗しかった。父王はその事を怪しんだ。
仲哀天皇九年春二月 足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)は筑紫の橿氷宮(かしひのみや)で崩御された。皇后は天皇が神が教えてくれた事に従わず、早く崩御された事を傷まれて、その神の名前を知ろうと思われ、群臣百寮に命じて、罪を祓い過ちを改め、更に斎殿(いみどの)を造り信託を受けようとされた。皇后先に信託を下された神の名を請い願われた等の事は別に記録がある。
十月三日 神々の荒魂(あらみたま)を別の船に斎奉り、また、和魂(にぎみたま)を皇后の船に祭り、軍船を率いて和珥津(わにのつ)より艫縄を解き出発され、新羅の国に御幸された。記録は征服三韓記にある。
十二月二十四日 皇后は新羅より還られ、誉田別天皇(ほむたわけのすめらみこと)を筑紫でお生みになった。時の人は生んだ所を宇彌(うみ)と名付けた。
明年春二月 皇后は群臣・百寮を率いて穴門豊浦宮に還られ、天皇の遺体を収めて海路で都に向かわれた。●(かご)坂王と忍熊王は天皇が崩御され皇后が西を制し皇子が誕生した事を聞いて、密議を行い
「今、皇后に皇子が居て群臣は皆従っている。必ず共に図って幼王を立てる。我等は兄であり、なぜ弟に従わなければならないのか」
と言った。兵を挙げて待受けて逆らった事、並びに誅殺された事は別に記録がある。
元年冬十月三日 群臣は皇后を尊んで皇太后と言う。改めて摂政元年とした。物部多遅麻連公(もののべのたぢまのむらじのきみ)を大連とした。
二年十一月八日 天皇を河内の国の長野の陵に葬る
二年春正月三日 誉田別皇子を立てて皇太子とする。磐余に都を造る。稚桜宮(わかさくらのみや)と言う。物部五十琴宿禰(もののべのいごとのすくね)を大連とする。
六十九年四月五日 皇太后は稚桜宮で崩御された。
冬十月十五日 狭城楯烈陵(さきたたなみのみささぎ)に葬る。この日、尊んで皇太后に気長足姫尊と追贈した。
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