播磨風土記新考、井上通泰、大岡山書店、589頁、7圓70錢、1931.5.30(1943.9.1.2p)
(1) 播磨風土記新考
目次
頁
緒言……………………………………………………………一
凡例…………………………………………………………一七
挿圖 三條西家本播磨國風土記
本文……………‥…………………………………………一九
後記…………………………………………………………五五
挿圖 播磨國慶長圖(二葉)
(2)附録
播磨の古地圖に就いて…………………………………五七三
追加…………………………………………………………五八五
頁
原文神名人名地名索引…………………………………………一
本註索引………………………………………………………五三
(3) 原文目次 頁
賀古《カコ》郡……………………………………………一九
望理《マガリ》里………………………………………四九
〔以下10頁まで目次略〕
(1)播磨國風土記新考
緒言
續日本紀の元明天皇紀に
和銅六年五月甲子 畿内七道(ノ)諸國(ノ)郡郷(ノ)名著2好字1 其郡内所v生銀銅・彩色・草木・禽獣・魚蟲等(ノ)物具録2色目1及土地(ノ)沃※[土+脊]・山川原野(ノ)名號(ノ)所v由又古老相傳(ノ)舊聞異事載2于史籍1言上
とある。甲子の下に制の字を落したのか又は略したのか。此文の前後には丁巳制・巳制などある。いづれにしても制の字を補ふべきである。はやく伴信友の風土記考(比古婆衣《ヒコバエ》卷十三)に此文を引けるには制の字を補うて居る。信友は又扶桑略記等に據つて(2)其郡内の上に令作風土記の五字を補つて居るが末に載2于史籍1言上とある史籍が即所謂風土記の事であるから若初に令作風土記と云はば載2于史籍1とは書くまい。又著好字は好字ヲ著ケヨト訓み、言上は言上セヨと訓むべきであるから其間に風土記ヲ作ラシメととあつては文を成さぬ。然らば續紀の今本のままでよいかと云ふに元來此制は郷郷の名に好字を著ける事と郡内云々の事を史籍に載せて言上する事と二つの事を命ぜられたのであるから其郡内の上に又といふ字が無くてはならぬ。さて扶桑略記を檢するに又令v作2風土記1の六字がある。然るに信友は又の字を捨てて令作風土記の五字を取つて居る。今述べし如く令作風土記の五字はあるべきでないから此五字を捨て又といふ字を取つて、今本の續紀に補ひ入るべきである。附けて云ふ。右の文中に銀銅といひて金を擧げざるは此時、金は未我邦に産しなかつたからである
さて右の制《オホセ》に從うて諸國から所謂風土記を奉つた事であらうが、やうやうにうせ果てで今日まで傳はれるは常陸・播磨・出雲・肥前・豐後五國のものに過ぎぬ。然も出雲風土記の外は完本で無い。之に次いで完全に近きは播磨風土記であるが惜むべし明石・赤穗二郡が缺けて居る。ここに類聚符宣抄第六に(朝野群載にも)
(3) 太政官符 五畿七道(ノ)諸國司應3早速勘2進風土記1事
右|如《コト》聞《キク》。諸國可v有2風土記(ノ)文1。今被2左大臣(○忠平)宣1※[人偏+稱の旁]《イハク》。宣d仰2國掌1令uv勸2進之1。若無2國底1探2求部内1尋2問古老1早速言上(セヨ)者《トイフ》。諸國承知(シ)依v宣行v之|不《ザレ》v得2延廻1。符到(ラバ)奉行(セヨ) 參議左大辨從四位上兼行讃岐權守源朝臣悦 外從五位下行左大史|阿刀《アト》宿禰忠行
延長三年十二月十四日
といふ文がある。延長は醍醐天皇の御世である。されば初の風土記の大部分は夙く一千年の昔に失せてゐたのである
此符にはまさしく風土記といふ名があらはれて居る。但いつから風土記といひ始めたかは知られぬ。因にいふ。風土といふ語は後漢書の張堪傳・同衛颯傳・同西域傳(二處)などに見えて居るが風土記といふ名は晋書の周處傳に處著2黙語三十篇及風土記1并撰2集呉書1と見えたるが始であらう
右の文中の若無國底はモシ國底ニ無クバと訓むがよい。國は國衙で、國底は國衙の手許である。日本紀略延喜十三年正月の下に
前太宰大貳源朝臣不v赴2太宰府1。召2位記1不v毀《ヤブラズシテ》2官底1
(4)とある官底は太政官の手許でここの國底と相對して居る。用明天皇紀なる門底・本風土記|託賀《タカ》郡|賀眉《カミ》里の下なる山底も門ノモト・山ノモトである。此外にも古典に何底といへる例がある
此延長の官符に從うて諸國から古き風土記を清書して奉つたのもあらうし新に作つて奉つたのもあらうと思はれるがその新作の分も今は殘つて居らぬやうである。然し播磨風土記のやうに此後何處からか現れようも知れぬ
然らば五國以外のものは少しも殘らざるかと云ふに其斷片は釋日本紀・仙覺の萬葉集註釋其他の古典に引用せられて殘り傳はつて居る。それを博く集めたのが栗田寛博士の古風土記逸文並に正宗敦夫君の改訂増補採集諸國風土記(日本古典全集本)である
立返つて五國の風土記の成りし時代を説かんに出雲風土記には末に天平五年二月三十日勘造とある。されば此書は今から一千百九十八年前に成つたものである。さて郡の下村の上をいにしへは里といひ後には郷というたのであるが出雲風土記に右|件《コノ》郷字者依2靈龜元年式1改v里爲v郷とある。靈龜元年は天平五年より十八年前である。(5)然るに常陸・播磨二國の記には里とあり肥後・豐後二國の記には郷とある。されば常陸・播磨二國の記は靈龜元年以前に成つたもので肥前・豐後二國のの記は其以後に出來たものである
又本風土記|揖保《イヒボ》郡|越部《コシベ》里の下に
別君《ワケノキミ》玉手等遠祖本居2川内國泉郡1
といふ文がある。河内國和泉都等の三郡を割いて和泉(ノ)監《ゲン》(監は特殊の國)を置かれたのは靈龜二年四月である。されば播磨風土記は靈龜二年四月以前に成つたのである。否同元年以前に成りし事前に云へる如くである
又本風土記の餝磨《シカマ》郡|安相《アサグ》里の下に
本名|△沙△部《アサグベ》云後里名依2改v字二字注1爲2安相里1
といへるは仙覺の萬葉集註釋内野の註に
於2國郡郷村等1用2二字1用2好字1元明天皇御宇和銅六年被v召2諸國風土記1時事也。其以前ハ國郡郷村ノ名或ハ一字二字、又郷村等ハ眞名假名ニテ或ハ三字四字モアリケル也。而《サテ》令v注2進風土記1之時任2太政官宣下之旨1各定2二字1用2好字1也
(6)とあり又延喜民部式に
凡諸國部内(ノ)郡里等(ノ)名竝用2二字1必|取《トレ》2嘉名1
とあるにかなうて居るが、ただ仙覺が和銅六年被v召2諸國風土記1時事也といへるは不審である。もし此時の制ならば冐頭に掲げたる元明天皇紀の文のうち著2好字1の上に用2二字1を脱したりとせねばならぬ。又本風土記安相里の下に後里名依2改v字二字注1とあるも穩で無い。前にも云へる如く此風土記は靈龜元年以前に成るつたもので、その靈龜元年と和銅六年とは僅に中間一紳年を隔てたるに過ぎぬから、もし和銅六年に二字を用ふる事を制せられたのであるならばよそよそしく後とは云はで依2新制1とか從2前年符1とか書くべきである。されば二字を用ふる事は夙く和銅六年より前に制せられたのであらう
出雲風土記には各郡の終に調査した郡司の名が見え又巻末に編纂者(勘造)の名が見えて居る。本風土記の編纂も出雲風土記の如く各郡司の調査に基づいたであらうが各郡の記事の樣式文體の略同一なる、賀古郡の下に明石郡の記事を指して上(ノ)解《ゲ》といひ印南郡|六繼《ムツギ》里の下にはやく賀古郡の下に云へりといふ事を已見於上といへるな(7)どを思へば一人の手によつて撰定潤色せられたものと見ねばならぬ。然らばその撰定潤色の任に當りしは誰ぞ。抑國には大中上下四等の別があつたが播磨は大國であつたから守・介・大少|掾《ジヨウ》大少|目《サクワン》・史生《シシヤウ》の職員があつた。然るに和銅靈龜年間の國司で續日本紀に見えたるは左の三人に過ぎぬ。
巨勢朝臣|邑治《オホヂ》 守 和銅元年三月任
樂浪河内《ササナミノカフチ》 大目 和銅五年七月見
石川朝臣君子 守 靈龜元年五月任
此外にどういふ人があつたか分らぬが右の三人の中で樂浪河内は後に高丘(ノ)連《ムラジ》河内と云うた人で、百濟から歸化した人の子で、當時の文人で、歌も作つた人てある。煩はしいが續日本紀から此人に關せる事を書拔いて見ると左の如くである
播磨國大目從八位上樂浪河内勤2建正倉1能效2功績1。進2位一階1賜2※[糸+施の旁]《アシギヌ》一疋布三十端1(和銅五年七月)
詔2正六位下樂浪河内等1退朝之後令v侍2東宮1焉(養老五年正月)
正六位下樂浪河内賜2姓|高丘連《タカヲカノムラジ》1(神龜元年五月)
(8) 授2高丘連河内(ニ)外《ゲ》從五位下1(天平三年正月)
外從五位下高丘連河内爲2右京亮1(同年九月)
散位外從五位下高岳〔右△〕連河内(天平十三年九月)
造宮輔外從五位下高岡〔右△〕連河内(天平十四年八月)
詔授2外從五位下高丘連河内外從五位上1(天平十七年正月)
外從五位上高丘連河内授2從五位下1(天平十八年五月}
從五位下高丘連河内爲2伯耆守1(同年九月)
授2從五位下高丘連河内從五位上1(天平勝寶三年正月)
詔授2從五位上高丘連河内正五位下1(勝寶六年正月)
卒去の年月は分らぬが神護景雲二年六月其子高丘宿禰比良麻呂卒去の條に
其祖沙門詠近江朝歳次癸亥(○天智天皇二年)自2百濟1歸北。父樂浪河内正五位下大學頭〔三字傍点〕、神龜元年改爲2高丘連1
とある。又僧延慶の藤原|武智《ムチ》麻呂傳に
當2此時1……宿儒〔二字傍点〕有2守部連大隅・越智直廣江・背奈行文・箭集《ヤヅメ》宿禰虫麻呂・鹽屋連吉麻(9)呂・楢原東人等1文雅〔二字傍点〕有2紀朝臣清人・山田|史《フビト》御方・葛《フヂ》井連廣成・高丘連河内〔五字傍点〕・百濟|公《キミ》倭麻呂・大倭忘寸《ヤマトノイミキ》小東人等1……竝順2天休命1補2時政1
とある。又萬葉集卷六に
高丘河内連歌二首 ふるさとは遠くもあらず一重山こゆるがからに思ひぞわがせし わが背子と二人しをらば山たかみ里には月はてらずともよし
とあり又卷十七なる天平十八年正月云々の歌どもの左註の連名の中に高丘連河内とある。さて本風土記の成つたのは和銅六年以後靈龜元年以前おそらくは和銅七年なる事、續紀和銅五年七月の下に河内が播磨國の大目たりし事の見えたる事、國司の年限は當時略四年なりし事、本風土記の文章は平凡の文人の作とはおぼえざる事などを思へば河内を似て本書の撰定潤色者に擬するは甚しき妄想ではあるまいと思はれる
はやく矢内正夫氏は其著書の甲乙に本書の編纂者は樂浪河内であらうと云はれて居る。氏より前にも云うた人があるのかも知れぬ
播磨風土記は夙く亡せたものとのみ思はれてゐたが嘉永五年即今より七十八年前(10)に谷森善臣翁が學界に傳へられたのである、即同氏手寫本の奥書に
播磨風土記は既く亡せて今の世には傳はらず。さきつとし三條西殿の文庫に古くより秘藏《ヒメヲサメ》たまへる御書どもの目録の中にたまたま此書の名を見出てこの六年のほど懇切にねぎまをしつるをやうやうことし三月廿三日ことさらに召れて御手づから借したまはりて寫しとどむべきよし仰あり。いとうれしくよろこばしくてすなはち本のままに寫しをへぬ。嘉永五年三月廿九日平種松
とある。所謂「この六年のほど」の谷森翁の苦心は察するに餘がある。原本はいつの世の筆寫であるか分らぬが誤脱錯亂が頗多い。然し此本の外には其後も古寫本の現れた事が無いから極めて貴重なる本である。敷田年治氏標註本はその奥に
右播磨風土記以2或家古卷1令v寫v之。當時出雲豐後之外諸國風土記逸(於2後人擬作1者餘國猶有)。最可2奇珍1矣 寛政八年六月廿六日(同日令2一※[手偏+交]1。而所々有2不審1。重以2正本1可v※[手偏+交]者也)正二位藤原紀光
とあるから別本かと思ふ人もあらうが卷首の缺けたるを始として三條西本の誤脱は此柳原本にも誤脱となつて居るから柳原本は三條西木と同本である。紀光卿が或(11)家古卷といへるは恐らくは三條西家の本であらう。さて此柳原本は敷田氏の標註の跋に
此風土記は安政元年の春京師なる學友ら或家に秘もたるを辛して取出しを予も寫しとりて云々
といへるを見れば谷森氏が三條西家の本を取出してから後に現れたのであるが敷田氏が三條西本との異同を言うて居らぬは不審である。さて從來谷森善臣翁の傳寫本と柳原紀光卿の傳寫本とのみ世に行はれて三條西家なる原本は見ることを得ざりしに大正十五年に至つて古典保存會から其複製本を公にせられたのは余一人の喜ではあるまい
三條西本に見えたるは賀古《カコ》(今加古と書く)印南《イナミ》(今インナミと唱ふ)餝磨《シカマ》(今飾磨と書く)揖保《イヒボ》(今イボと唱ふ)讃容《サヨ》(今佐用と書きてサヨウと唱ふ)宍禾《シサハ》(今宍粟東と書きてシサウと唱ふ)神前《カムザキ》(今神崎)託賀《タカ》(今多可)賀毛(今加東・加西二郡に分れたり)美嚢《ミナギ》(今ミノと唱ふ)の十郡である。民部式及和名抄と對照するに彼に有りて此に無きは明石郡と赤穗郡とである。就中明石郡はもと卷頭にあつたのが次なる賀古郡の初數行と共に亡せたので(12)あらう。釋日本紀に播磨國風土記曰として明石驛家駒手御井の文を引けるを見ても、賀古郡|鴨波《アハハ》里の下に赤石郡林(ノ)潮《ミナト》の事を云うて事與2上解1同といへるを見ても、もと明石郡の記事のあつた事は知られる。又赤穗郡は地理から見ても式・抄所載の順序から見ても揖保郡の次讃容郡の前にあるべきであるが揖保郡の末の文と讃容郡の初の文と共に全きを思へば赤穗郡の記事は此間にあつたのが全部脱落したのであるとも思はれぬ。されば赤穗郡の記事の無いのは、
一 此書の成つた時には赤穗郡は揖保・讃容二郡の中に屬してゐたか
二 又は備前國に屬してゐたか
三 此郡の記事は初から無かつたか
以上三樣の推測を下さぬばならぬ。然るに揖保郡の十八里一驛家と讃容郡の六里とはよく今の村々と一致し赤穗郡の村々に當つべきものが無い。又和名抄に出て居る赤穗都の郷名は一も本書に見えぬ。されば赤穗郡はいにしへ揖保・讃容二郡の中に屬してゐたかといふ疑問は成立せぬ。次に赤穗郡は海上からは備前との交通がたやすく土人の發音も寧備前人に近いからいにしへ備前國に屬してゐたかといふ疑問は(13)理由の無い事では無いが新撰姓氏録に
和氣朝臣……神功皇后征2伐新羅1凱旋※[歸を□で囲む]明年車駕還v都。于v時|忍熊別《オシクマワケ》皇子等竊構2逆謀1於2明石(ノ)堺1備v兵待v之。皇后監識遣2弟彦王於針間吉備(ノ)堺1造v關防v之。所謂和氣(ノ)關是也
とあつて和氣關を針間吉備堺と云つて居るから赤穗郡はおそらくは古くも備前に屬してゐたのであるまい。されば殘る所は「此郡の記事は初から無かつたか」といふ疑問だけである
三條西本には誤脱錯亂の多き事前に云へる如くであるが就中錯亂の最甚しきは餝磨郡の記事である。即
一 他郡の記述は地理の順序にかなうて居るが本郡の記述だけはさうで無い
二 伊和・漢部《アヤベ》二里の記事が二簡處に分れて出て居る
三 英資《アガ》里の二章が誤つて小川《ヲガハ》里に入つて居る
四 伊和里のうち手苅丘の一章は昔大汝命之子云々の章より後にあるべきである
右のうち三と四とは或は傳寫の際に生じた錯亂であるかも知れぬが一と二とはま(14)さしく起草のままである。されば此郡の文はまだ清撰を經なかつたものと見るべきである
前にいひし如く赤穗郡の記事が初から無かつた事と餝磨郡の文がまだ清撰を經なかつた事とを思へば三條西家に傳はれる此本はおそらくは和銅の末又は靈龜の初に太政官に奉つたものの寫で無くて、國衙に殘つたものの寫であらう。なほ云はば延長の官符に從うて國底に殘りしものを奉つた寫であらう
本書の註釋の刊行せられたるものには栗田寛博士の標註と敷田年治大人の標註とがある。前者は跋に文久三年夏とあるが發行せられたのは明治三十二年十二月である。又後者の成りしは跋文によれば明治四年五月であるが出版せられたのは明治二十年八月である。本書の研究は少くとも國文學國史學・地理學に亘らねばならぬが就中最困難なるは地理の研究である。二大人の時代には郡誌の類は勿論の事、正確なる地圖だに出來てゐなかつた事であるからその研究は非常に困難であつたらうと察せられる。敷田氏は其標註の跋に據れば姫路の射楯兵主神社の神主なる上月爲彦と室津の加茂神社の神主なる岡平保とに「地名等の中に知がたき所々」を尋ねられた。又(15)栗田氏は國圖・御圖帳・播磨名跡志に據られたる外に玉江春枝といふ者の説を到る處に引用せられて居る。然るに此春枝といふ者は言語道斷な男で其言は殆皆詐である。其詐は本註の其處々で發きおき更に索引中に春枝の詐〔四字傍点〕といふ見出しを設けておいた。此男の事は栗田氏の神祇志料附考下卷(二九七頁)に
文久三年の春伊豫國人玉江春枝遍く諸國を歴視て式内神社また倭名鈔郷名の沿革等を尋ね考ふるついで來て語りけらく云々
とある。おそらくは遊歴の疲を休める爲にしばらく栗田氏の許に逗留して問はれるままにデタラメを述べて篤學なる栗田氏を欺いたのであらう。其素生はよく分らず然も調べて見る氣も起らぬが余の有せる律逸の奥書に
安政四年閏五月請2借青柳翁(○種麻呂)之本1書2寫之1。伊豫國沙門〔二字傍点〕春枝
于v時安政四年閏五月中旬請2借青柳翁之本1於2博多本願院1書2寫之1。伊豫國松山里人〔四字傍点〕春枝
安政四已年閏五月上旬請2借筑前國青柳翁之本1書2寫之1。伊豫國和氣郡〔三字傍点〕春枝
とある。これが彼玉江春枝であらう
(16)播磨國の今の村名字名には明治の初年から中年に亙つて本風土記に據つて附けたものが往々ある。然るに他處他國の人はさやうな事情は知らぬから其新名を風土記の地名の殘れるもの又は風土記中の傳説に依つて夙く名づけたものと誤り認むる事がある。栗田寛博士が神崎都豐富村の大字御蔭に誤られ吉田東伍博士が同郡甘地村の大字神崎に誤られたるは其例である
昭和五年七月十二日
(17) 播磨國風土記新考
凡例
△は脱字の符
字の左傍の小さき△は誤字、右傍なるは※[傍点]と共に注目すべき字の符
□を以て圍めるは衍字の符なり
( )を以て括せるは原本の分註なり
體裁は必しも原本に從はずして見やすきを主とせり。原本の體裁は添附したる寫眞版に就いて知るべし
古字・俗字・略字は往々今體・正體に改め、誤字も望覽を望賢とせる如き顯著なるもの(18)は初より改めたり
傍訓には多くは敬語を略せり
原書又本書又原文といへるは播磨國風土記、原本といへるは同書の三條西家本、本註といへるは播磨國風土記新考なり
外題には國の字を略せり。長くては稱呼に便ならざればなり
〔三條西家本卷頭の写真省略〕
(19) 播磨國風土記新考
井上通泰著
賀古郡〔三字左△〕
所3以號2賀古1者品太天皇巡行之登2一丘1〔所以~左△〕望2覽〔右△〕四方1云。此2立〔二字左△〕丘1原野甚廣大。而見2此丘1如2鹿兒《カコ》1。故《カレ》名曰2賀古《カコ》郡1
敷田氏標注 上文明石郡を闕。但釋日本紀に引ける逸文あり。巻末に附。望覽以下賀古郡なり。是亦上文を闕。惜むべし○賀古の名、應神天皇十三年紀の一書に傳あり。此記と異なり
栗田氏標注 延喜民部式ニ云ハク。播磨國大云々。右爲2近國1。倭名鈔ニ播磨國管十二、(20)田二萬千四百十四町三段十六歩、正公各四十四萬束、本穎百二十二萬束、雜穎三十四萬束、明石・賀古・印南・餝磨・揖保・赤穗・佐用・宍粟・神崎・多可・賀茂・美嚢○按ズルニ應神紀十三年ノ注ニ鹿子《カコ》(ノ)水門《ミナト》ト號スル事ヲ載セタリ。此説ト異ナリ。宜シク併セ考フベシ(○原漢文。以下準之)
新考 標題として賀古郡の三字を補ふべし。覽の字原本に賢とあり。今改めつ。望覽の前に
所3以號2賀古1者品太天皇巡行之時登2一丘1
などいふ文のありしが落ちたるならむ○此立は立此の顛倒ならむ。揖保郡|枚《ヒラ》方里大見山の下にも、
品太天皇登2此山嶺1望2覽四方1。故曰2大見1
とあり。品太《ホムタ》天皇は應神天皇の御事なり○賀古郡は殆皆平地にて原野甚廣大とのたまへるにかなへり。此丘とあるは日岡なり○應神天皇紀、十三年の註に
一曰。日向|諸縣《モロガタ》君牛仕2于朝庭1。年既|老耆之《オイテ》不v能v仕。仍致仕退2於本土1。則|貢2上《タテマツル》己(ガ)女髪長媛1。始至2播磨1時天皇幸2淡路島1而遊獵之。於v是天皇西望(シタマフニ)之數十麋鹿浮v海|來《キタリキ》之。便《スナハチ》入2于(21)播磨(ノ)鹿子(ノ)水門《ミナト》1。天皇謂2左右1曰。其何麋鹿|也《ゾ》、泛2巨海1多來。爰左右共、視而奇。則遣v|使令v察《アキラメシム》。使者至見皆人也。唯以2|著v角《ツヌツケル》鹿皮1爲2衣服1耳。問曰。誰人|也《ゾ》。對曰。諸縣(ノ)君牛是。年|箒《オイテ》之雖2致仕1不v得v忘v朝《ミカド》。故|以《ヰテ》2己女髪長媛1而貢上矣。天皇悦(ビタマヒ)之即喚令v從2御船1。是以時人號2其著v岸之處1曰2鹿子水門1也。凡水手曰2鹿子1葢始起2于是時1也
とあると傳相同じからず。鹿子《カコ》(ノ)水門《ミナト》は加古川の河口なり。但播磨國の海岸線は埋没又は隆起によつて上古よりは遙に南方に進みたりと思はるれば上古の河口は今の鳩里村の稻屋附近なるべし。稻屋の古名を大津といふ○賀古郡は、今は加古と書く。大日本地名辭書に「正保國圖以來加古に作ること多し」と云へれど余の有せる慶長國圖にはやく加古郡と書けり。賀の音は元來カなれど夙くガと唱へなれたり。思ふに賀古を加古と書改めしはガコと訓まむことを恐れしと字畫の少きを好みしとの爲なるべし。余の友人に賀古鶴所氏賀古桃次氏兄弟あり。其祖先は本郡の出身なり。其氏はカコと唱へてガコと唱へず。是古を傳へたるなり
狩|之《セシ》時一鹿走登2於此丘1鳴。其聲比々。故號2日岡1。此岡有2比禮墓1(坐神大御津齒(ノ)命子伊波都比古(ノ)命)
(22)敷田氏標注 日岡、播州名所巡覽記に「日岡大明神は大野村に在。氷岡とも書」と云り。式に日岡(ニ)坐《イマス》天(ノ)伊佐々比古(ノ)神(ノ)社
栗田氏標注 延喜神名式ニ曰。賀古郡一座、小、日岡坐天伊佐佐比古神社。播州名所巡覽記ニ云ハク日岡大明神ハ大野村ニ在リト
新考 狩之時の之は助字にて上に引ける應神天皇紀の文の老耆之・遊獵之・西望之・浮海來之・年耆之の之に同じ。されば狩之時は之の字を捨ててミカリセシトキなど訓むべし○鹿の聲は古今集※[言+非]諧歌に
秋の野に妻なき鹿の年をへてなぞわが戀のかひよとぞなく
とあるより後の歌には皆カヒヨとよめり。いにしへはヒヒとぞききなしけむ。託賀《タカ》郡|都麻《ツマノ》里の下にも
品太天皇狩2於此山1。一鹿立2於前1鳴聲比々
とあり○日岡は加古川の左岸に沿へる小丘にて其頂に比禮墓即|印南別孃《イナミノワキイラツメ》の陵ありて其西麓に日岡神社あり。坐神云々の十四字は原本に分註とせり。元來此註は此岡の下にあるべく比禮墓の下にはあるべからず○日岡《ヒヲカ》を中世ヒヲカと訛り文字(23)
も日向に改めて岡を日向山、神社を日向大明神と稱しき。承應元年姫路の城主榊原忠次、日向大明神が所謂神名帳に見かたる日岡(ニ)坐《マス》天(ノ)伊佐々比古神社なる事を認めて日岡に復せしが其後又日向となり明治の初に至りて再、日岡に復し文字は又氷丘と書きしが今は永丘は主として村名(大野以下六大字を合せたる村の名)に用ひらるる如し○日岡神社の祭神の名は本書にイハツ比古(ノ)命とあり神名帳にイササ比古(ノ)神とありて相同じからず。栗田寛博士の神祇志料附考下卷(四〇八頁)に
己さきには播磨風上記賀古郡日岡、此岡有2比禮墓1。坐神大御津齒命(ノ)子伊波都比古(ノ)命とあるに因て伊佐佐比古神は此伊波都比古命ならんと思ひしかどよく按ふにそは比禮墓に坐す神にて日岡|坐《イマス》神とは別神なり。然らばいかなる神ぞと云ふに古事記孝靈天皇皇子に比古伊勢埋毘古(ノ)命、亦名大吉備津日子命云々、次若日子建吉備津日子命とみえたる伊佐勢理毘古(ノ)命(書紀に彦|五十狹芹《イサセリ》彦命とあり)にはあらじ歟。そは同書に大吉備津日子命與2若建吉備津日子命1二柱相副而於2針間(ノ)氷《ヒ》河之|前《サキ》1居2忌瓮《イハヒベ》1而針間(ヲ)爲2道口1以|言2向和《コトムケヤハシキ》吉備國1也とあるに由ありて聞え伊佐佐と伊佐勢理と言の近く通ひて聞ゆればなり。若し然らずば氣比神を伊奢沙和氣(24)大神と云をもて考ふるに天(ノ)日槍《ヒホコ》命を祭れるにやあらむ。……此二つの考いづれよしとも決めがたし。後人なほよく考へてよ
と云へり。風土記のイハツヒコノ命を比禮墓に坐す神とせるは誤解に基づけるなり。前に云へる如く風土記の坐神云々は此岡の註にて比禮墓の註にあらず。比禮墓は印南別孃の陵にあらずや。神名帳のイササヒコノ命を記紀のイサセリビコノ命即大吉備津日子(ノ)命の事としたるは此皇子が吉備國を平げむとして神を祭り給ひし針間(ノ)氷川が本書の印南川即今の加古川なる事、吉備氏の子孫が賀古郡に蕃衍せし事、古典に見えたる神又は上代人の名に往々少異ある事などを思へば一理無きにあらねど神名帳のイササ比古神はやがて風土記のイハツ比古(ノ)命なるにそのイハツ比古(ノ)命は風土記に大御津齒命(ノ)子とあればもし日岡神社の祭神を大吉備津比古命とせば大御津齒命を孝靈天皇の御事とせざるべからず。然も孝靈天皇にオホミツハノ命といふ御名なし。此難を免れむ爲にこそ栗田博士はまづイハツ比古命を日岡神社の祭神にあらずとしたるなれ。所詮日岡神社の祭神はイハツ比古命又イササ比古神と傳へて、出自不明なる神とすべし○日岡の東に古墳群あり。その中(25)の王塚といふ前方後圓墳即日岡神社の祭神の墓なりと云傳へたり
所3以號2褶《ヒレ》墓1者昔|大帶日子《オホタラシヒコノ》命誂〔右△〕2印南別孃《イナミノワキイラツメ》1之|△《時》御佩刀《ミハカシ》之|八咫〔左△〕釼《ヤツカツルギ》之|上結〔左△〕爾《ウヘヲニ》八咫(ノ)△《玉》、下結〔左△〕爾《シタヲニ》麻布都鏡(ヲ)懸《カケ》※[時を□で囲む]賀毛郡(ノ)直《アタヒ》等(ガ)始祖|息長《オキナガノ》命(ヲ)(一名伊志治)爲v媒而誂〔右△〕(ニ)下行之〔右△〕時到2攝津國高瀬之|濟《ワタリ》1請〔右△〕欲v度2此河1
敷田氏標注 褶を宍粟郡條に比良美と訓れど肥前風土記に用v褶振招。因名2褶振《ヒレフリノ》峯1とあるに據てよみつ○之(ノ)下、時(ノ)字を脱し勾(ノ)下玉(ノ)字を脱せり。例を以て補ふ。又誂を誹に、握を咫に、尺を咫に誤れり。今改つ○麻布都鏡、神代紀に八咫鏡一名眞經津鏡と有。繋の字を繁に誤れり○山(ノ)直は姓氏録に天(ノ)穗日命十七世孫日古曾乃己呂命之後也○媒、新撰字鏡に奈加太豆、催馬樂に名加比止、名義類聚抄にナカビト
栗田氏標注 誹、誂ニ作ルベシ。聘問ト同ジ。次第二行ノ時(ノ)字ハ衍ナリ。御佩ノ上ニ移スベシ○八咫劔ハ八握劔ニ作ルベシ。八咫勾ノ咫ハ尺ニ作ルベシ。勾ノ下疑ハクハ珠(ノ)字ヲ脱セルナラム。神代(ノ)卷ニ曰。八咫鏡一云經津鏡○姓氏録ニ曰。山直……○國(ノ)圖ヲ按ズルニ攝津|八部《ヤダベ》郡・播磨明石郡ノ界ニ界川アリ。又公見村アリ
(26)新考 原本に二の誂を誹に誤り誂2印南別孃1之の下に時の字を脱せる事、八咫釼が八握釼の誤なる事、八咫勾の下に玉を脱せる事、繋の下の時が衍字なる事(別孃之の下より移れるなり)皆前に云へる如し。但敷田氏が「繋の字を繁に誤れり」と云へるは非なり。原本には繋に似又繁に似たる字を書けるなり(活字にては摸しがたし)。又八咫勾玉の咫はもとのままにてもあるべし。ヤタはヤアタにてアタは大指と中指とを伸べたる長さなり○釼は劔の俗字なり。萬葉集などにも多ぐ見えたり。結は古典にヲと訓むべき處に往々此字を書きたれど(たとへは萬葉集卷二にアヅマビトノノザキノハコノ荷之結《ニノヲ》ニモと書けり)なほ緒の誤ならむ。請欲を敷田氏はホリストコヒタマフとよみ栗田氏はオモフトノリタマヒキと訓みたれど、もしくは將欲の誤ならざるか(本書には往々同音又は類音なるより寫誤れるにやと思はるる例あり)。もし然らば二字を聯ねてホリス又はホリシタマフと訓むべし○褶《シフ》は古典にヒラビと訓みたれどここは上に比禮墓とあればヒレとよむべし。ヒレはいにしへ婦人の領《クビ》より肩にかけし巾なり。されば領巾とも肩巾とも書けり。元來褶にはヒレの義なし。但我邦の古典にヒレに此字を借りたるはここのみにあらず。たとへば肥(27)前風土記にも
大伴(ノ)狹手彦(ノ)連《ムラジ》發v船渡2任那1之時弟日姫子《オトヒヲトメ》登v此用v褶振招。因名2褶振(ノ)峯1
とありてその褶振《ヒレフリノ》峯は萬葉集卷五に
まつらがたさよひめのこが比列ふりしやまの名のみやききつつをらむ
など見えたり○所3以號2褶墓1者は遙に下なる故號2褶墓1と呼應せるなり。大帶日子《オホタラシヒコノ》命は景行天皇の御事なり○誂《テフ》を二註にナアトラフとよめり。ここの誂は娉の義なればトフ又はツマドフと訓むべし萬葉集新考一八六七頁參照)○印南(ノ)別孃は古事記に 此天皇娶2吉備臣等之祖若|建《タケ》吉備津日子之女、名(ハ)針間之伊那毘能|大郎女《オホイラツメ》1生2御子櫛角別王・次大碓命・次小碓命亦(ノ)名|倭男具那《ヤマトヲグナノ》命・次倭根子命・次神櫛王1
日本紀に
立2播磨稻日大郎姫1(二云稻日(ノ)稚郎姫《ワキイラツメ》爲2皇后1。后生2二男1。第一曰2大碓皇子1第二曰2小碓尊1(一書云。皇后生2三男1。其第三曰2稚倭根子皇子1)
とあり。二書の傳ふる所相同じからざれどいづれに附きても日本|武《タケルノ》尊の御母なり。別孃は宇遲和紀郎子《ウヂノワキイラツコ》の和紀郎子と同例なり。ワキは若にて別と書けるは借字なり。(28)やがて日本紀には稚郎姫と書けり。さて大郎姫は姉姫にて稚郎姫は妹姫なり。されば景行天皇に召され給ひしを古典に姉姫とも妹姫とも傳へたるなり。誂2印南別孃1之時は例の如く之の字を除きて印南別孃ヲツマドヒタマヒシトキと訓むべし○八握劍の例は神代紀の一書に躬帶2十握劍・九握劍・八握劍1とあり。上結下結を敷田氏はウハムスビ・シタムスビと訓み栗田氏はウハヒモ・シタヒモと訓めり。宜しく結を緒の誤として(又はもとのままにて)ウハヲ・シタヲと訓むべし。古事記八千矛(ノ)神の御歌にタチガ遠《ヲ》モイマダトカズテとあり○麻布都《マフツ》鏡は神代紀に
中枝懸2八咫鏡1(一云眞經津鏡)
又倭姫命世記に
豐受《トユケ》太神一座(御靈形(ハ)眞經津鏡坐。圓鏡也)
とあり。記傳卷八(四六〇頁)に「眞經津鏡は眞太鏡なり」といへり。猶考ふべし○山(ノ)直《アタヒ》は姓氏録和泉國神別に見えたり。此氏人は今も播磨國に殘れり(たとへば加東郡佐保神社の社司神崎氏)。伊志治は眞に息長命の一名なりや疑がはし。なほ後に云ふべし○誂下行之時はツマドヒニクダリタマヒシトキなど訓むべし。之は助字なり○(29)瀬之濟を栗田博士が攝津播磨の間なる界川とせられたるは非なり。大日本地名辭書に今の攝津國中津川の渡津にて十三《ジフサウ》又は橋寺の附近なるべしと云へり。なほ下に云ふべし
度子《ワタリモリ》紀伊國人小玉申曰。我(ヲ)爲2天皇(ノ)贄人《ニヘビト》1否。爾《ソノ》時勅云.朕公《アギ》雖v然猶|度《ワタセ》。度子對曰。遂欲v度者宜v賜2度賃1。於v是即取d爲2道行(ノ)儲《マケ》1之|弟縵《オトカヅラ》u投2入舟中1。則縵(ノ)光明炳然滿v舟。度子待v賃乃_|度之《ワタシキ》。故云2朕君濟《アギノワタリ》1
敷田氏標注 度子、和名抄大須本及萬葉十九に和多理母理○贄人、催馬樂に仁戸比止《ニヘビト》、丹生姫記に大贄人○朕君、上下落字あり○賃、日本靈異記に傭賃(ハ)知加良豆玖乃比|春《ス》○茅を弟に誤れり
栗田氏標注 崇神紀ニ云ハク號2叩頭之處1曰2我君1。此ニ據レバ我君ハ蓋恭敬ノ詞○菅政友云ハク。猶度ハ猶ノ下疑ハクハ不ノ字ヲ脱セルナラム
新考 贄人は御料の魚鳥を捕る職なり○否の次に天皇の許し給はぬ御辭と度子の然ラバ度シ奉ラジといひし辭とありしが落ちたるならむ。さらでは雖然といふ(30)辭おちつかず○朕公はアギとよむべし。今キミといふに似たり。崇神天皇紀に
乃脱v甲而逃之。知v不v得v免叩頭曰2我君《アギ》1。故時人……號2叩頭之處1曰2我君《アギ》1
とあり(そのアギは神名帳に見えたる山城國相樂郡和伎なりといふ)。神功皇后紀なる忍熊王の歌にもイザ阿藝《アギ》とあり○菅政友氏が猶度を猶不度の誤とせるは非なり。猶度までが天皇の御辭なり。ナホワタセ又はナホワタシマツレとよむべし○度賃はワタシノツグノヒとよむべし○爲2道行儲1之弟縵、乃度之の之は共に助字なり。爲2道行儲1はミチユキノマケトシタマヘルとよむべし。道行ノマケは旅中の豫備なり○弟縵の弟を敷田氏は茅の誤としたれど遽に從はれず。縵(ノ)光明炳然滿v舟とあるを見れば玉もて飾れる鬘にて茅にて作れる粗製の物とは思はれざればなり。なほもとのままにてオトカヅラとよむべくそのオトは弟。乙子《オトネ》・乙姫・乙矢などのオトにて第二といふ意ならむ。縵は我邦にて鬘の髟冠を糸篇に更へたるなり。漢字の縵にはカヅラの義なし萬葉集新考三三三一頁參照)。カヅラは靈異記卷上第一捉v雷縁に緋※[草冠/縵]著v額とありて今のハチマキなり○炳然の例は揖保郡桑原里の下に
品太天皇御2立於|槻折《ツキヲレ》山1覽之時森然|所v見《ミユル》倉(アリ)。故名2倉見村1
(31)とあり○天平三年七月座2攝津職1住吉大社(ノ)司(ノ)解《ゲ》に
一處從2三國川尻1至2于|吾君《アギノ》川尻難波浦1
とあり。大日本地名辭書に「吾君川、中津川の古名なるべし」といへり。中津川は淀川の分流なり
遂到2赤石〔右△〕郡(ノ)※[麻垂/斯]《カシハデノ》御井1供2進《タテマツル》御食《ミケ》1。故曰2※[麻垂/斯]御井1
敷田氏標注 厨を厮に誤れり。賦役令義解に「厮猶使也。給2使汲炊1」とあれど讀がたければ改つ。雄略紀に播磨國御井隈人と有は此地か
栗田氏標注 ※[麻垂/斯]ハ厮に作ルベシ。延喜主税式ニ厮丁ヲ加之波天乃與保呂ト訓メリ。雄略紀ニ播磨國御井隈アリ
新考 原本に赤石郡の石を名と誤れり。敷田氏が※[麻垂/斯]を厨に改めたるは非なり。さて※[麻垂/斯]は厮と同字なり。その厮は孝徳天皇紀大化二年正月の改新之詔の中に
凡仕(ノ)丁者改d舊《モトノ》毎2三十戸1一人(ナリシヲ)u(以2一人1充《アツル》v厮也)而毎2五十戸1一人(トシ)(以2一人1充v厮)以充(テヨ)2諸司1
とあり。賦役令に
(32) 凡役2丁匠1皆十人(ノ)外(ニ)給2一人1充(テヨ)2火頭1
とある義解《ギゲ》に
謂2火頭1者厮丁也。執2炊※[學の字が(林/大/火)]之事1。故曰2火頭1
といひ又
凡仕丁者毎2五十戸1二人(以2一人1充2厮丁1)
とある義解に
謂(フハ)厮猶v使也。言v給2使於汲炊1。即與2火頭1同也
といひ又新撰字鏡天治本巻十※[麻垂]部に
※[まだれ/斯] 新移(ノ)反。下也。微也。隷也。加志波天又馬加比
とあり又ここに「供2食御食1。故曰2※[まだれ/斯]御井1」とあれば栗田博士の如くカシハデとよむべし。カシハデは勝夫即今いふ炊事掛なり○二註に雄略天皇紀に播磨國御井隈とあるを引きたれどその御井隈は此御井によれる名にはあらじ。御井即御用の泉は一國一處と限らざればなり。現に本書に又松原(ノ)御井あり。又本書逸文に駒手(ノ)御井あり
爾《ソノ》時印南(ノ)別孃聞而驚畏之。即遁2度於南※[田+比]都麻《ナビツマ》嶋1
(33)敷田氏標注 南※[田+比]都島(○麻を落せり)はナミツマとよむべし。島のシを略くは例なり。此島は、印南郡の海中にあり
栗田氏標注 玉江春枝云ハク。淡路津名郡松穗崎ニ奈毘松村アリト。按ズルニ南※[田+比]ハ蓋辭謝ノ義ナリ。別孃、天皇ヲ避ケテ隱ル。故ニ南※[田+比]都麻ト云フ
新考 二註の議悉く非なり。萬葉集卷四なる丹比《タヂヒノ》笠麻呂下2筑紫國1時作謌歌稻日都麻ウラミヲスギテ、又卷六なる山部赤人過2辛荷島1時作歌に伊奈美|嬬《ツマ》、カラニノ島ノ、島ノマユ、ワギヘヲ見レバ、又卷十五に
わぎもこがかたみにみむを印南都麻《イナミツマ》しらなみたかみよそにかもみむ
とあり。そのイナビツマ(又イナミツマ)は印南|端《ツマ》の義にて大日本地名辭書に云へる如く今高砂町及荒井村に分れたる加古川口の三角洲なり(萬葉集新考六三八頁參照)。さてここの南※[田+比]都麻は上に伊をおとしたるかと云ふに下にも仍號2南※[田+比]都麻1また郡(ノ)南海中有2小島1。名曰2南※[田+比]都麻1とある上に仍號2南※[田+比]都麻1とあるは必ナビツマならではかなはざる理由あれば伊を添へずしてナビツマとも云ひしなり。又萬葉集卷三に
(34) いなび野もゆきすぎがてにおもへれば心こひしき可古能島みゆ
とあるも同處ならむ。但可古能島は一云|潮《ミナト》とあり。可古能島が今の高砂なるべき事は夙く播州名所巡覽圖繪にいへり
於v是天皇乃到2賀古松原1而|※[不/見]訪《マギトヒキ》之。於v是白犬向v海長※[口+尨]〔右△〕。天皇問曰。是誰犬乎。須受武良(ノ)首《オビト》對臼。是別孃|所v養《カヘル》之犬也。天皇勅云。好告哉《ヨクノリツルカモ》。故號2告首《ノリノオビト》1
敷田氏標注 賀古松原、拾遺集にカコノ島松バラ越ニ鳴タヅノアナナガナガシキク人ナシニ○須受武良首、告首並|書《モノ》に見えず
新考、大日本地名辭書に
賀古松原、松原御井と云ふは即驛家の地とす。今の寺家篠原の邊なるべし
と云へるはいかが。
今の加古川町は篠原・寺家・加古川の三大字より成れり。辭書に「寺家とは此驛家中世寺領となりしに由り其名起れるならん」と云へるは宜し。隣村鳩里村北在家なる名刹|刀田《トダ》山鶴林寺の領地なりしより寺家《ジケ》とは稱せられしなり(35)今の尾上村のうも養田《ヤウダ》長田などより南は當時海底にぞありけむ。さて其海岸にぞ賀古松原はありけむ。なほ松原(ノ)御井の處に至りて云ふべし○※[口+尨]《バウ》は吠《ハイ》の俗體か。※[口+尨]といふ字はあれど字書に語言雜亂也とありてここにかなはず。須受武良(ノ)首は國人ならむ
乃天皇知v在2於此|少嶋《ヲジマ》1即欲v度。到2阿閇《アヘ》津1供2進御食1。故號2阿閇村1。又捕2江魚1爲2御坏物《ミツキモノ》1。故號2御坏物故號〔五字□で囲む〕御坏江1。又乘v舟之處以v※[木+若]《シモト》作v※[木+射]《タナ》。△《從》2△《此》津1遂度相遇。勅云。此嶋隱2愛妻1。仍號2南※[田+比]都1
敷田氏標注 號御坏物故の五字|衍《アマ》れり。削るべし○※[木+射]は和名抄に土(ノ)高曰v臺有v屋曰v※[木+射]、宇天奈とあれど新撰字鏡に阿波良、又太奈と注せるによりてタナとよみつ○隱愛妻、萬葉七に住吉波豆麻《スミノエノナミヅマ》君之、同四に愛《ハシ》妻之兒云々。ナミは隱《ナマリ》の原語にて同十六に廬作難麻理※[氏/一]居《イホツクリナマリテヲル》とあるは延語、同一に己《オキ》津物|隱《ナバリ》乃山と有は轉也
栗田氏標注 春枝云ハク。別府村ノ海濱ニ阿部崎アリ。古ノ阿閇村ハ蓋此○故號御坏物ノ五字ハ衍○※[木+射]ハ倭名鈔ニ臺※[木+射]、尚書注云土高曰v臺、有v屋曰v※[木+射]、、和名宇天奈、新撰(36)字鏡ニ云ハク太奈
新考 少は小の通用なり○阿閇《アヘ》村はアエと唱ふべし。アベとは濁るべからず。今本都に阿閇村あれどそは明治二十二年に本庄・野添・古宮・大中・古田・宮西の六相を合併して新に阿閇村と名づけしなり。されど今の尾上村の東部なる口里《クチリ》、今の別府《ベフ》村なる別府(古名一木の別府)西脇、今の阿閇村なる宮西・本莊〔二字傍点〕・古田・大中・古宮《コミヤ》などを近世までも阿閇圧と稱せしを思ひ本庄〔二字傍点〕の名を負へる大字に阿閇元といふ小字あるを思へばいにしへの阿閇村は今の阿閇村・別府村あたりならむ。又阿閇津は別府川の河口なる今の別府港ならむ。さてナビツマ島は賀古松原より西方に當り、阿閇津は東南に當るべければナビツマ島に渡るに阿閇津に到らむは迂路なるに似たれど賀古松原よりは舟を出し難きなどの事情ありし爲阿閇津に行きて舟に乘り給ひしならむ。栗田博士の標注に春枝云別府村海濱有阿部崎とあれどさる處眞にありやおぼつかなし。此玉江春枝といふ人の説には往々甚しき詐あり。後に證を擧げてその、栗田博士の如き篤學者を欺きし罪を顯すべし。因にいふ。住吉大社司解に
一賀胡郡阿閇津濱一處……右同皇后(○神功)御世、大神(○住吉)平2伏熊襲二國1從2(37)新羅國1還上賜時似2鹿兒1△滿v海浮漕來。見人皆奇異云d彼何物門〔左△〕似2鹿兒1物也u。近寄來2著於筑志崎1見、數十餘人有v角著2鹿皮1著2衣袴1梶取水手人大神船漕持來也。故其地號2鹿古濱1。皇后奉v饗2大神1以2酒鹽1入2於魚1奉賜時號2阿閇濱1奉寄定賜支云々
とあるはまづ異傳と見てあるべし。元來此解文は頗うたがはしき物なり○御坏物は御坏に盛りて奉る料にて坏《ツキ》は食物を盛る土器なり○※[木+若]《シモト》は細き木なり。以v※[木+若]作v※[木+射]の※[木+射]は二註の如くタナとよむべくそのタナは机の事にて細木を竝べ束ねて机を作りしか。春日神社の申《サル》祭に※[木+若]棚といふものを用ふとぞ。作※[木+射]の下に故號2何々1といふことのありしが落ちたるならむ○津の上にも從此の二字おちたるならむ。二註に此の字を補へるは何に據れるにか。唯一の古寫本なる三條西家本には此の字無し。從此津遂度相遇は阿閇津より發船して西方ナビツマ島に渡りて別孃を求め獲たまひしなり○此島隱愛妻を敷田氏はコノシマハナミハシヅマとよみ栗田氏はコノシマニハシツマイナミアリとよめり。隱は仍號2南※[田+比]都麻1とあるに合せて思ふにナビとよまざるべからず。
萬葉集に隱るる事をナバル又ナマルといへるはナビアル又ナミアルの約なれ(38)ばナブはナムともいふべし(萬葉集新考三四六九頁參照)
されば隱愛妻はハシヅマナビタリキとよむべし。ハシヅマは字の如き意にて古事記なる仁徳天皇の大御歌にアガ波斯豆摩ニイシキアハムカモ、萬葉集卷八なる山上憶良の七夕の長歌の反歌(新考一五六〇頁)にワガ波之|嬬《ヅマ》ノコトゾカヨハヌとあり。さてナビツマを隱妻の義としたるは傳説に據れるにて無論是に依りてナビツマの名義を定むべきにあらず
於是《ココニ》御舟與2別孃舟1同|編合而《ムヤヒテ》※[木+屈]。抄挾〔三字左△〕伊志治|爾《ニ》△《賜》v名號2大中伊志治1
敷田氏標注 堀(○敷田氏は堀と誤れり)は渡の誤なるべし○抄挾は下上に改むべし。大中の二字は姓か
栗田氏標柱 而ノ字ノ下恐ラクハ脱文アラム○掘ノ字詳ナラズ。或ハ渡ノ字ノ誤ナラム○按ズルニ倭名鈔ニ楊氏漢語抄云。柁徒可切、和名多以之。船尾也。今按舟人呼2挾抄1爲2舵師1是ト。此ニ據レバ抄挾ハ恐ラクハ倒ナラム○爾ハ疑ハクハ之ノ誤
新考 編合はしばらくムヤヒとよむべし。はやく敷田氏もモ〔右△〕ヤヒと訓めり。ムヤフは元來アミアフの訛ならざるか○※[木+屈](原本には本扁なり。土扁又は手扁にあらず)は(39)二註の如く渡の誤とすべし。もとの阿閇津の方ならで北方なる印南郡の方に渡り給ひしなり。抑加古郡に入りての後の加古川は近世までも今よりは東南の方を流れたりき。たとへば日岡の下を流るるは昔も今にかはらざらめど其下流は、加古川町の大字加古川宿・鳩里《キウリ》村の大字西河原・木村・稻屋などの東を流れたりき。されば加古川宿以下は明治二十二年まで印南郡に屬したりき。さて天皇はナビツマ島より北方なる大津即今の稻屋附近に渡り給ひしならむ○以下、有v年別孃薨2於此宮1までは印南郡にての事なるを一つづきの傳説なれば賀古郡の下に述べたるなり○抄挾は和名抄人倫部に挾抄和名|加知度利《カヂトリ》とあれば顛倒なり。又※[木+少]は木扁なり。手扁にあらず。※[木+少]は音ベウ、抄は音サウ又はセウにて字相異なり。日本紀(景行天皇紀十八年五月に挾者)延喜式(主税上に※[木+少]挾水手)などにも見えたり○ここに挾※[木+少]伊志治とあれば上に息長命一名伊志治とあるは誤ならむ。おそらくは息長と大中と音の相似たるより混同したるならむ。さて今の阿閇村の大字に大中あり。ここに大中ノ伊志治とある大中と關係あらむ。氏、もとか。地名原か○伊志治爾名號大中伊志治とある、穩ならねば栗田氏は爾を之の誤とし敷田氏は名號を聯ねてナヅクベシトノリ(40)タマヒとよめり。おそらくは名の上に賜を脱したるならむ○本書は漢文にて書けるに往々取外してテニヲハに當る字を顯し書けり。即ここに挟※[木+少]伊志治爾〔右△〕と書けるのみならず上に御佩刀之八握劔之上緒爾〔右△〕八咫勾玉、下緒爾〔右△〕麻布都鏡繋と書き、下なる印南郡大國里の下に帶中日子命乎〔右△〕坐2於神1而と書き、宍禾郡|雲箇《ウルカ》里の下に非v度《ハカラザリシ》2先到1之乎〔右△〕と書き、同郡御方里の下に云2於和等〔右△〕1於我美岐と書き、逸文にも新羅国矣〔右△〕と書けり
還到2印南(ノ)六繼《ムツギ》村1始成2密事1。故曰2六繼村1。勅云、此處浪響鳥聲|其〔左△〕《イト》※[言+華]。南遷2於高宮△《村》1△《造》2△△《高宮》1。故曰2高宮村1。是時造2酒殿1之處即號2酒屋村1、造2贄殴1之處即號2贄田村1、造2△《假》宮1之處即號2舘《ヤカタ》村1。又遷2於城宮田村1仍始成v※[民/日]也
敷田氏標注 密事、續紀十に武都事止思坐○其※[言+華]の其は甚の※[言+爲]り。豐後風土記に獵人聲甚※[言+華]。天皇勅曰|大囂《アナミス》。古注に阿那美須○酒殿、催馬樂に佐加止乃波比呂之末比呂之《サカドノハヒロシマヒロシ》、西宮記に酒殿有2別當竝預1。播磨庸米1造v酒○贄殿、内膳式に諸國所v貢云々收2贄殿1擬2供御1、西宮記に贄殿在2内膳中1
(41)栗田氏標注 迎字ハ衍○國圖ヲ按ズルニ印南飾東二郡ノ界ニ御着村アリ。蓋古ノ六繼村○其ハ恐ラクハ甚ノ字、豐後風土記ニ獵人聲甚※[言+華]トアリ○春枝云ハク。印南郡高洲村ニ高南宮崎(ノ)地アリ。疑ハクハ古ノ高宮村ナラム。又贄田村アリ。贄田新田二村ノ間ニ立山アリ。飾東郡ニ宮田村アリト○贄殿ハ内膳式ニ諸國所v貢云々收2贄殿1トアリ
新考 原本には還到迎〔右△〕印南六繼村とありて迎の字(實は印に之遶《シネウ》)を左傍に重點を打ちて消ちたり。敷田氏が此字を存じてカヘリイタリテ印南ノ六繼村ニムカヘテと訓めるは非なり。栗田氏が迎字衍と云へるは活眼なり○密事を敷田氏はムツゴトとよみ栗田氏はムツビゴトよめり。後者に從ふべし。ムツビが訛られてムツギとなれるなりとせるなり○鳥聲は鴎の聲ならむ。其は無論甚の誤なり。六繼村は其地今知られねど今の稻屋附近ならむ○南遷2於高宮1の下に村造高宮の四字を補ふべし。高宮を造りし事を云はでは辭足らねばなり。さて高宮は屋根高き宮か床高き宮か。高宮村の跡も今知られず○酒殿は御料又は神に奉る料なる酒を造る處なり。酒屋と云へるも同じ。揖保郡麻打里の條に作2酒屋於佐々山1而祭之、同郡|石海《イハミ》里の下(42)に闢2井此野1造2立酒殿1とあリ。萬葉集卷十六にもハシダテノ熊來《クマキ》酒屋ニマヌラル奴ワシとあり。贄殿は御料の魚鳥などを貯ふる處なり○造宮の間に假の字をおとせるならむ。館は敷田氏の如くヤカタとよむべし。之をタチとよむだにここにかなはざるを栗田氏はタテとよめり。ヤカタは今いふバラツク建なり。餝磨郡の下にも大三間津日子(ノ)命於2此處1造2屋形1而座時云々とあり○城宮田村にはおそらくは誤脱あらむ。もしくはもと又遷2於城宮1故曰2宮〔三字傍点〕田村1とありしか。さてもし城宮ならば今の鳩里村木ならむ。木村は稻屋の東北にあり。昔は木を紀伊と書ききといふ。因にいふ郡誌に紀村の古名を泊としたれど寛延地圖にこそ泊とあれ、それより古き慶長地圖には木村とあれば打任せて泊を古名とはすべからず○昏はいにしへ婚に通はし用ひき。上に始成2密事1とあり、ここに仍始成v昏也とあるは矛盾せるに似たれどここは婚禮を擧げ給ひしを云へるならむ○栗田博士の標注に例の玉江春枝の説を引きたれど印南郡に高南宮崎・贄田・新田。立山といふ地あるを聞かず。ただ洗川の川口の右岸に高須といふ處あるのみ。又飾東郡に宮田村ある事を知らず。又博士は飾東郡の御着を六繼村に擬せられたれど御着はゴチヤクにてミツキにあらず。又問(43)題の地とは三里ばかりもへだたれり
以後《ソノノチ》別孃(ノ)掃床(ニ)仕奉(レル)出雲(ノ)臣比須良|比賣《ヒメヲ》給2於息長命1
敷田氏標注 出雲臣、姓氏録に天穗日命五世孫久志和都命之後也
栗由氏標注 姓氏録に曰ハク。出雲臣……(○同文)
新考 敷田氏がノチ別孃、床ヲ掃ヒテ仕ヘ奉リキと訓みて句とせるは非なり。栗田氏のソノノチ別孃ノ掃床ニ仕へ奉れル出雲臣云々と訓めるに從ふべし。さて掃床はトコハキ又はトコハラヒと訓むべし。萬葉集卷十九にクシモ見ジヤヌチモ波可自とあり。又古語拾遺に作v箒掃v蟹とあり。掃床(ニ)仕奉は所謂マカタチにて侍女の事なり。出雲臣は氏とカバネとなり○以後云々の二十一字は上なる仍始成v昏也にも、下なる墓有2賀古驛西1にもつづかざる挿文なり。宜しく註文と認むべし。下にも例あり
墓〔左△〕《ミヤハ》有〔右△〕2賀古驛西1。有v手〔左△〕《トシ》別孃薨2於此宮1。即作2墓於日岡1而葬(ルト)之擧2其尸1度2印南川1之時大飄自2川下1來(テ)纏《マキ》2入其尸於川中1。求|南〔左△〕《テ》不v得。但得2匣與1v褶。即以2此二物1葬2於其墓1。故號2褶墓1
(44)敷田氏標注 賀古驛、兵部式に播磨國驛馬賀古四十疋○大飄、神功紀に飄風忽起云云、和名抄に※[風+火三つ](ハ)豆無之加世○求南の南字は誤れるか。姑(ク)字のままによみつ。匣(ノ)訓萬葉に據る。古事記弟橘比賣(ノ)條に御櫛依2于海邊1。乃取2其櫛1作2御陵1而治置とあるに似たる傳なり。景行五十二年紀に皇后播磨大郎姫薨
栗田氏標注 墓有ハ墓在ニ作ルベシ。所謂褶墓是ナリ。春枝云ハク。今印南郡ニ印南野村アリ。小川アリ。川上ニ王墓森アリ。俗ニ於都加佐武ト呼ブ或ハ此○瓢ハ※[風+票]ニ作ルベシ。按ズルニ字書ニ※[風+票](ハ)旋風也、倭名鈔ニ云ハク※[風+火三つ]、兼名苑云。※[風+火三つ](ハ)暴風從v下而上也。和名豆無之加世○求南ハ求而ニ作ルベシ
新考 墓有の墓は宮の誤なり。天皇が最後に造り給ひし宮なり(もし遷於城宮田村を遷於城宮。故曰宮田村の誤とせばその城宮)。
夙く大日本地名辭書印南郡宮前の下に「この墓字は宮字の誤ならん」と云へり
有は我邦の古典に在に通用せり。されば誤字とも云ふべからず。栗田氏が墓有を墓在に改めてその墓を褶墓とせるはいみじき誤なり。別孃薨去の事を云ふ前にまづ其墓の事を云ふべけむや。又褶墓は賀古驛の西にはあらで北方に在るをや。もし墓(45)のままとせば比須良比賣の墓とすべけれど比須良比賣の一句は挿文即註文にてここは其前なる仍始成v昏也を受け又下なる別孃薨2於此宮1と呼應したれば墓は宮の誤とせせざるべからず○さて賀古驛は河東なるに宮有2賀古驛西1tあれば宮も河東に在りしに似たれど下文に擧2其尸1度2印南川1とあるを見れば宮は實は河西に在りしにて賀古驛西は賀古驛と河を隔てての西と解すべし。もし上述の脱字説に據りて宮を城宮とし其所在を今の鳩里村の大字木村とせば如何。いにしへの賀古驛家の址は確には知りがたけれどしばらく今の加古川町の大字寺家町及篠原の附近とすれば木村は適に其西南に當れり。又木村が昔は河のあなたに在りし事は夙く云へる如し○手は年の誤なり○本書にては別孃の薨ぜしは數年の後なる如く見ゆれど景行天皇紀には
二年春三月立2播磨稻日大郎姫1(一云稻日稚郎姫)爲2皇后1
五十二年夏五月皇后播磨大郎姫薨
とあり。いづれか實ならむ○印南川は今の加古川の古名にて古事記孝靈天皇の段に
(46) 大吉備津日子命與2若建吉備津日子命1二柱相|副而《タグヒテ》於2針間氷河之|前《サキ》1居2忌瓮《イハヒベヲスヱテ》1而針間(ヲ)爲2道(ノ)口1以|言2向和《コトムケヤハシキ》吉備國1也、
とある氷川は又印南川の古名なり。日岡は此川の岸に沿へる岡なるが、そを日岡と云ふと此川を氷川といひしとの間に關係あるべし、又此川の源は丹波國|氷上《ヒカミ》郡なるが氷上は氷川の川上といふ義ならざるか○擧2其尸1云々は別孃の屍を川の右岸なる印南郡城宮(?)より左岸なる賀古郡日岡に持來らむとして印南川を渡りしなり。さて墓を日岡に作り給ひしは別孃の本郷が此附近なりし爲ならむ○飄はツムジカゼなり。栗田博士が當v作※[風+票]と云はれたるは卻りて非なり。飄が正しきなり○南は博士のいへる如く而の誤とすべし。揖保郡萩原里の下にも鷹鈴墮落、求而不v得とあり○この褶墓を近き世には金色《コンジキ》塚といひき、そのコンジキは同國明石郡垂水の五色塚のゴシキと同じくコシキを訛れるにてそのコシキは墓の立物《タテモノ》を甑と見なして云へるならむ。播磨鑑に金色塚ノ石ノカラウドと云へるを思へば石棺は夙く露出したりしならむ。カラウドは唐櫃の訛にて石ノカラウドは即石棺なり。此金色塚を宮内省にて景行天皇皇后の陵と認められしは明治十七年十月なり○作2墓於(47)日岡1而葬之を敷多氏のヲサメマツリキとよみ切りたるは非なり。ヲサメマツルト・カクシマツルトなど訓みて下へつづくべし。纏をマトヒとよめるもわろし○例の春枝は今印南郡ニ印南野村アリ云々と云へれど印南野村ある事を聞かず。印南野は賀古明石二郡に亙りたりし原野なり。萬葉集新考六(一〇六四頁)に
印南野は印南郡にとどまらで其東方なる賀古明石二郡に亙りしなり
といへるは上古の印南野を想像して云へるなれど辭足らで誤解を生ずべければ宜しく訂正すべし
於是天皇戀悲誓云。不v食2此川之物1。由v此其川年魚不v進2卸贄1。後得2御病1勅2云|者藥〔二字左△〕《クルリハモ》1也。即造2宮於賀古松原1而|還〔左△〕《ウツリキ》。或人於v此堀2出冷水1。故曰2松原御井1
敷田氏標注 御悩を御藥と云るは扶桑略記延長八年八月有2御讓位事1。依2御藥危1、同治暦四年四月御馬十六疋奉2諸社1。依2御藥重1也、源氏若菜上に御くすりの事猶たひらぎ給はぬにより○冷水、景行紀にサムキミモヒとよみ催馬樂飛鳥井に美毛比毛左牟之美末久左毛與之
(48)栗田氏標注 者藥ハ恐ラクハ倒ナラム。按ズルニ者ハ又疑ハクハ有ナラム○還ハ疑ハクハ遷ナラム○國圖ヲ按ズルニ小松原村アリ○冷水ハ景行紀云。サムキミモヒ、催馬樂飛烏井云。美毛比毛左牟之
新考 勅云者樂也を敷田氏はミクスリナリトノリタマヒキとよみてミクスリを御悩の事とし栗田氏は者を有の誤としてミクスリアリヤとよみたり。宜しく藥者の顛倒としてクスリハモとよむべし。ハモは物をいづらと尋ぬる辭なり。也の下に故號2其處1曰2△△1などありしが落ちたるならむ○還は栗田博土が遷の誤かと云はれたるに從ふべし。別孃のうせたまひし城宮(?)を捨てて新宮に遷りたまひしなり○冷は二註の如くサムキとよむべし。ツメタキは爪イタキの約にて古語にあらねばなり○今の尾上村|養田《ヤウダ》の小字に松原清水といふ處あり。是松原御井の址ならむ。此處はいにしへの賀古松原の西端に當るべし。栗田博士が小松原村を賀古松原に擬せられたるは非なり。小松原は今の荒井村の大字にて高砂町の北方に在り。此處は當時は海底にぞありけむ。たとひ海底ならずともいにしへのナビツマ島のうちなるべければ賀古松原より阿閇津を經てナビツマ島に渡りたまひしと一致せざ(49)るにあらずや
○望理《マガリノ》里(土(ハ)中(ノ)上) 大帶日子天皇巡行之時見2此村(ノ)川(ノ)曲1勅2云此川之|曲《マガリ》甚美哉1。故曰2望理1
敷田氏標注 望をマグともマガともよめるは古韻にて和名抄三河國|寶飫《ホ》郡にも同名の郷あり。上總國望陀郡をもマグダとよむべし。國造本紀に馬來田(ノ)國造見ゆ。同地なり
栗田氏標注 倭名鈔ニ日。賀古郡望理郷ト。春枝云ハク。今、退川アリ又退村アリト。按ズルニ國圖、御圖帳ニ郡南ニ福里村アリ。蓋後人|禍《マガ》ヲ忌ミテ福ニ改メシカ
新考 以下里名の上に圏を冠らせたるは檢出の便を慮りて新に加へたるなり○和名抄の郷名にも望理あり。流布本には訓無けれど高山寺本には末加里と訓ぜり(50)といへり。近世の書に望理郷野村・望理郷|宗佐《ソウサ》・望理郷加納庄などある野村・宗佐は八幡村の大字、加納庄は今の神野村(古くは加納又神納《カンナフ》と書けり)なれば望理郷はほぼ今の八幡神野二村に當るべし。國|包《カネ》は印南郡上庄村の大字にて、今は河東にあれど昔は今の加古川の河床に在りしなれば望理里に屬せじ。又本郡の印南野は今の母里村・加古新村・天滿村などなるが、いにしへの里は開拓せられたる地に置かれしにて全郡の地域を分ちて若干の里とせられしにあらねば當時いまだ開拓せられざりし否多くは近世又は近年に至りて始めて開拓せられし印南野はいにしへの望理里には屬すべからず
因に云ふ。孝徳天皇の御世に郡の下に里を置き里の下に村を置かれき。されば本書にては村は里に屬し里は郡に屬せり。但處によりては里のことを村と稱せり。なほ圖によりて明にすれば左の如し
郡――里――村
然るに出雲風土記に據れば靈龜元年に(令集解に據れば神龜二年に)
郡――郷――里
(51) とせられき。されば郷は里の改稱、里は村の改稱なり。その後又
郡――郷――里
となり莊園の制行はるるに及びて郷の傍に莊(及保)といふもの起りき。豐臣秀吉の時に郷莊を廢して村は直に郡に屬せしめしがそは行政上のみの事にて私には幕末まで某郷某村又何庄何村と云ひき。當國多可郡松井庄村・比延《ヒエ》庄村・黒田庄村の如きは今も庄の字ながら村名とせり
○土中止、土中中など云へるは地味を云へるにて夏書の禹貢に九州の土質地味などを述べて
厥《ソノ》土(ハ)惟《コレ》白壤……厥田惟中中(冀州)
厥土黒墳……厥田惟中下(※[なべぶた/兌]《エン》州)
厥土白墳……厥田惟上下(青州)
厥土赤埴墳……厥田惟上中(徐州)
厥土惟塗泥、厥田惟下下(揚州)
厥土惟塗泥、厥田惟下中(荊州)
(52) 厥土惟壤、下土(ハ)墳※[土+盧]、厥田惟中上(豫州)
厥土青黎、厥田惟下上(梁州)
厥土惟黄壤、厥田惟上上(雍州)
といへるに倣へるなり。本書には惟の字を添へざるが例なれど揖保郡|石海《イハミ》里の下には土惟上中とあり○さて加古川は北より來りて此處にて西に曲りて見2此村川曲1云々とあるによくかなへり。八幡村の大字下村に曲淵と呼ぶ地あり、こは里名と關係なからむか○春枝が「今|退《マカリ》川アリ又退村アリ」といへるは例のあとなし事なり○栗田博士が國圖御圖帳郡内有2福里村1、蓋後人忌v禍改v福乎と云はれたるはいみじき誤なり。望理里は郡の北端なるに、福里《フクサト》は今の二見村の大字にて郡の西南にありて地理全く相かなはず
○鴨波《アハハノ》里(土(ハ)中(ノ)々) 昔|大部造《オホトモノミヤツコ》等(ガ)始組|古理賣《コリメ》※[禾+并]〔右△〕2此之野1多種v粟。故曰2粟々《アハハ》里
敷田氏標注 鴨波里、和名抄に洩せり。鴨をアハの音に用《ツカ》へるは肥後國郡名合志を和名抄に加波之と註せるもおなじ例なり○大部造、姓名録に大部(ノ)首(ハ)膽杵穗命之後とあり
(53)栗田氏標注 鴨波郷ハ和名抄ニ載セズ。按ズルニ國圖ニ粟津村アリ○大部造ハ姓氏録ニ曰大伴造(ハ)任那國主龍王王孫、佐利王之後也
新考 鴨波を敷田氏はアハハとよみ栗田氏はアハとよみて粟々の々を衍とせり。前者に從ふべし。鴨の音はアフなり。そをアハに借れるは雜太《サハダ》・伊雜《イサハ》・合志《カハシ》などサフ・カフをサハ・アハに借れるに齊し○栗田博士の云へる粟津は今の鳩里村の大字なり。鴨波里は是かとも思へどさては地理かなはず。大日本地名辭書に
住吉郷 今二見村阿閉村是なり。……國郡考に本郷は風土記鴨波里なるべしと云ふ
と云へるも從はれず。今の野口村・平岡村あたりならじか○大部を敷田氏はオホベとよみ栗田氏はオホトモとよめり。これは後者に從ふべし。オホトモを大部とも書ける例は靈異記卷上第五に
大花(ノ)上大部〔右△〕(ノ)屋栖野古(ノ)公者紀伊國名草郡宇治(ノ)大件(ノ)連等先祖也。……以2大信大伴〔右△〕屋栖古連公1云々(○大信は推古天皇十一年に制定せられし冠位十二階中の第七階、大花上は孝徳天皇五年に改定せられし冠位十九階中の第七階なり)
(54)とあり。大伴(ノ)造は姓氏録大和國諸蕃に見えたり。任那《ミマナ》國主の後なり○※[禾+并]は耕の俗字ならむ
此里有2舟引原1。※[草冠/肖]〔左△〕《ムカシ》神前《カミサキ》村有2荒神《アラブルカミ》1。毎《ツネニ》半留2行人之舟1。村〔左△〕v是《ココニ》往來之舟悉留2印南之大津江1、上2於|川頭《カハカミ》1自2賀意理多《カオリタ》之谷1引|〔左△〕出《アゲ》、而通2出於赤石郡林(ノ)潮《ミナト》1。故曰2舟引原1。又事與2上(ノ)解《ゲ》1同
敷田氏標注 神前村、郡名に神崎あり。是か○賀意理多、地名ならむとは見ゆれど文字の用法如何○林潮は疾潮なるべし
栗田氏標注 按ズルニ國郡全圖ニ明石郡明石川ノ傍ニ舟上村林村アリ○加古川ハ印南郡ニ在リ。之ニ接シテ神前村印南村アリ○村ハ於ニ作ルベシ
新考 ※[草冠/肖]は昔の誤ならむ。神前村を敷田氏が「郡名に神埼あり是か」といへるは評するに足らじ。栗田氏が加古川在2印南郡1と云はれたるは川の加古川にあらで加古川宿ならむ。げに加古川宿は今より四十年前まで印南郡に屬したりき。さて接v之有2神前村印南村1と云はれたるは例の春枝の説に據られたるにや。さる村は無し。神前村(55)は加古川と明石川との間、おそらくは明石郡にぞありけむ。その名義は神ノマシマス岬ならむ○毎《ツネニ》半留2行人之舟1の例は揖保郡麻打里の下に
出雲御蔭大神坐2於|枚方《ヒラカタ》里神尾山1。毎遮2行人1半死半生
又神前郡|埴岡《ハニヲカ》里の下に
所3以號2生野1者昔有2荒神1半殺2往來之人1。由v此號2死野1
又倭姫命世記に
是時爾阿佐加乃|彌尼《ミネ》爾坐而|伊豆速布留《イツハヤブル》神百往人者五十人取死、四十人者廿人取死
とあり。諸國の風土記にも例多し○村是は於是の誤なり。印南之大津江は前にも云へる如く今の鳩里村稻屋あたりなり○川頭を二註にカハカミとよめり。按ずるに萬葉集卷九にオホハシノツメニイヘアラバのツメを頭と書き天武天皇元年紀に菟田(ノ)郡家(ノ)頭とある頭をモトと傍訓せり。又朗詠集に載せたる白樂天の甕頭竹葉經v春熟の甕頭を榮華物語にモタヒノホトリと和げたり。又吾妻鏡に田頭・火爐頭・社頭・林頭など云へるにはホトリの義とすべきとただ輕く添へたりとすべきとあるに(56)似たり。さればここの川頭も川ノヘ・川ノホトリの意とすべきかとも思へどなほ頭尾の頭としてカハカミと訓むべし○賀意理多《カオリタ》之谷は印南川の支流ならむ。其跡今知られず。今天滿村より發して日岡の北にて加古川に注げる曇川の事かとも思ひしかど、よく思ふに今少し川下ならむ○引出而の出は上の誤ならむ○林潮は一註にハヤシホと訓みたれどハヤシノミナトと訓むべし。萬葉集に可古能潮(卷三)明石之潮(卷七)潮葦(卷十一)潮核延《ミナトニサネハフ》子菅(同上)などミナトを潮と書けり。靈異記卷下第二十五に
紀(ノ)萬侶《マロ》朝臣居2於同國日高郡之潮〔右△〕1結v網捕v魚、
とある潮も、本書餝磨郡美濃里の下なる繼(ノ)潮の潮も共にミナトと訓まざるべからず(萬葉新考三六四頁及萬葉集訓義辨證上卷五二頁參照)。林ノミナトの林は今の明石郡林崎村の大字林なり。林ノミナトといへるは明石川の河口にて即萬葉集卷七に見えたるアカシノミナトならむ(萬葉集新考一三三一頁參照)。林の東につづきて(おそらくは昔は林のうちなりけむ)船上《フナゲ》といふ大字あるはいとおもしろし。西より來る舟はここにて海におろししかど東より來る舟はここにて陸に上げしが故(57)にフナゲと名づけしにこそ○思ふに神前村の海は暗礁ありて航行困難なりしかば舟を引きて陸行せしなり。明石郡特に林以西の海には暗礁多く今も海岸に沿ひて航行する和船は深く注意すといふ○さて舟を引きて又は擔ぎて陸上より運搬するは聊奇怪に思はるべけれど上古の舟は皆丸木舟にて小ければさばかり困難なる業にはあらざりしなり。今諸國に舟越といふ地名ある、多くは陸上より舟を運びし處なり。舟越の例は本嶼揖保郡|石海《イハミノ》里の下にも古事記にも見えたり。今も琉球には其實例ありと云ふ。たとへば柳田國男の海南小記に
恩納《オンナ》の仲泊から美里《ミサト》の石川まで島の幅が此邊では僅に三十町しか無い。……今でもサバラと稱する小さなくり舟だけは人が擔いで陸の上から往來し遠く邊土名《ヘトナ》喜屋武の岬を廻るの勞を避けて居る。内地の府縣で船越といふ多くの地名は何れも曾て此方法に由つて小舟を別の海へ運んだ故跡である
と云へり○解《ゲ》は公式令に
八省以下内外諸司上2太政官及所管1竝爲v解
といへり。下司より上司に呈する文書をいふ。本書は國司より太政官に奉りしもの(58)なれば解と云へるにて上(ノ)解とは脱落せる明石郡の記事を云へるなり
○長田里(土(ハ)中(ノ)々) 昔大帶日子命|幸2行《イデマシシニ》別孃之處1道邊有2長田1。勅2云《ノリタマヒキ》長田|哉《ナルカモト》1。故曰2長田里1
敷田氏標注 和名抄に奈加太と注せり
栗田氏標注 倭名鈔に曰。賀古郡長田郷(奈加太)。御圖帳ヲ按ズルニ今長田村アリ
新考 今尾上村の大字に長田あり。尾上神社のある處あり。近世までも長田庄長田村といひき。されば長田里はほぼ今の尾上村に當るべし○幸2行別孃之處1はナビツマ島に隱れし別孃を求めむ爲賀古松原より阿閇津に赴きたまひし時なり○道邊有2長田1云々は野路の傍に拓ける田の常よりは長きをめづらしみ給ひしなり
○驛家《ウマヤノ》里(土(ハ)中(ノ)々) 由2驛家1爲v名
敷田氏標注 驛家、和名抄に洩たり。凡諸國に驛家と云郷名、同書に載せたる其數七十七あれど總て訓注をもらせれば訓がたし。神功紀に驛をウマヤダチとよめるは(59)厩館也。孝徳紀に驛馬をハユマとよめるは早馬の約なり。今按に和名抄に驛を無末夜と注し萬葉十四に須受我禰乃波由馬宇馬夜能云々、古今六帖にアヅマ路ノ里ノ遠サモアラナクニウマヤウマヤト君ヲマツ哉。かかる例を以て驛家の二字をしばらくウマヤと訓つ
栗田氏標注 兵部式ニ曰。播磨國驛馬、賀古四十足ト。按ズルニ和名抄ニ驛家郷ヲ載セズ
新考 伴信友の若狹舊事考三方郡驛家の條(全集第五の二〇七頁)に
さてこの驛家の唱さだかならず。まづ天武紀に驛家また驛と書るをも共にウマヤとよめり。六帖に東路ノムマヤムマヤトカゾヘツツ近江ノチカクナルゾウレシキとよめるムマヤこれなり。色葉字類抄末(ノ)部に驛家を厩《マ》ヤ又驛をウマヤタチとよめり。厩《マ》ヤはウマヤのつづまりたる唱なり。ウマヤタチは驛發《ウマヤタチ》の義にてこは何ぞの文中に用語によめる訓を採り載せたるなるべし。然る例此餘にも見ゆ。また同書也(ノ)部にも驛家を出してヤカとよめり。驛は譯と同じく餘石(ノ)切にてエキともヤクとも通音に呼て其を連語につづめたる古の唱なるべし。また名目抄には(60)驛家をエカとあり。こは驛をエキの音に呼てつづめたる唱なり(○群書類從卷四六八に收めたる名目鈔には驛をヤケと訓ぜり。信友の見し本にはエカとありしにや)。かくとりどりには聞ゆれどなべてはウマヤと唱《イ》はむぞおだやかなるべきをただ驛と驛家との差別いま己が考のごとくならむには事別てはいにしへの唱に隨ひてヤカ(またエカ)とこそいふべけれ
といへり。後世はヤケ又はヤカと唱へもしけむ(エカはいかが)。いにしへはなほウマヤとぞ唱へけむ。元來ウマヤには驛の一字を充てて可なるを強ひて二字とせむが爲に家の字を添へたるにて
地名を附けていふ時には某驛といふが例なるを(上にも賀古驛といへり)天武天皇元年紀には隱《ナバリノ》驛家また伊賀(ノ)驛家といひ萬葉集卷四(新考六七四頁)には蘆城(ノ)驛家といへり
ここに驛家里とあるを思へば驛家は驛館の義にあらじ。天武天皇紀の彼|隱《ナバリノ》驛家もムマヤと傍訓せり。されば二註町如くウマヤとよむべし○今の加古川町は加古川・寺家・篠原の三の大字より成れり。その加古川(近頃まで加古川宿といひき。慶長國圖(61)には加子村とあり)は明治二十二年まで印南郡に屬し又昔は河の右岸にありき。されば賀古驛は今の寺家(近頃まで寺家町といひき。野口莊の寺家村と別たむ爲ならむ)篠原に當るかと云ふに加古川は古は今よりは東の方を流れきと思はるれば驛のありし處も今の加古川町よりは東の方ならむ。今加古川町の東端より十町ばかり東南なる野口村大字野口の南に驛池と書きてマヤガイケと唱ふる池あり。驛は此附近にありしにあらざるか。明石驛の地に擬せらるる明石郡大藏谷に摩耶坂及摩耶谷といふ字あるをも思ふべし。因に云ふ。野口は印南野の西口なるに由りて名を負へるなり
以上里四。本書に見えて和名抄郷名に出でざるは鴨波・驛家の二里、和名抄に出でて本書に見えざるは住吉・餘戸《アマルベ》の二郷なり○戸令に凡戸(ハ)以2五十戸1爲《セヨ》v里また
凡郡(ハ)以2廿里以下十六里以上1爲2大郡1、十二里以上爲2上郡1、八里以上爲2中郡1、四里以上爲2下郡1、二里以上|爲《セヨ》2小郡1
とあり。されば賀古郡は下郡なり
(62) 印南郡〔三字左△〕
一家云。所3以號2印南1者|穴門豐浦《アナトノトヨラノ》宮(ニ)御宇天皇與2皇后1倶欲v平2筑紫(ノ)久〔右△〕麻曾(ノ)國1下行之《クダリマシシ》時御舟宿2於印南浦1。此時滄海甚〔右△〕平、風波和靜。故名曰2入印南〔二字□で囲む〕浪郡1
敷田氏標注 豐浦宮、仲哀天皇二年紀に興2宮室于穴門1而居之。是謂2穴門豐浦宮1○滄海の下甚を其に誤り浪字を落せり。按に海上の穩なるをイナミと云るか。其は正しき證を得ざれど然よまざれば印南と云|縁《ヨシ》に應《カナ》はず○印南、和名抄に伊奈美と注し原本入浪の浪字を落し郡名に加て印南浪に誤れり。今改
栗田氏標注 印南郡ノ三字例ニ據リテ之ヲ補フ。按ズルニ印南ハ蓋南※[田+比]都麻ノ稱ニ由ル。然ラバ一家ノ上ニ恐ラクハ所3以號2印南1者已見2於上1ノ十字ヲ脱セルナラム。萬葉十三卷ニ※[さんずい+内]浪來依濱丹云々トアル※[さんずい+内]ハ説文ニ水相入曰v※[さんずい+内]トアリ○仲哀紀ニ二年二月戊子幸2角鹿1云々。即日定2淡路屯倉1。三月丁卯天皇巡狩南國1云々。當2是時1熊襲叛而不2朝貢1。天皇於v此將v討2熊襲國1自2徳勒津1發之、浮v海而幸2于穴門1○其平ハ甚平ニ作ルベシ○印南ノ二字ハ衍《アマ》レリ。故ニ原本ニ之ヲ勾セルナリ
(63)新考 標題の印南郡の三字は新に補へるなり。敷田氏標注に一家云……故名曰入印南浪郡の次に印南郡の三字を補へるは穩ならず○原本に久を又に、甚を其に誤れり。又故名曰入印南浪〔三字傍点〕郡とある印南浪の三字を消したれど衍字として消すべきは印南の二字なり○一家云の上に脱文あるべし。一家云は或云又は一云とあらむに齊しければまづ本説を擧げて次に一家云といふべきなり。餝磨郡手苅丘・揖保郡阿豆村・同郡菅生山・同郡桑原里・宍禾郡御方里・神前郡粳岡の下に一云とあり託賀郡甕坂の下に一家云とあると參照すべし。一家は或人といふ事なり。穴門豐浦宮御宇天皇は仲哀天皇の御事なり。御宇はアメノシタシロシメシシ(又は略してシロシシ又シラシシ)とよむべし。穴門は後の長門國なり○日本紀に
二年二月幸2角鹿《ツヌガ》1。……三月天皇巡2守南國1。……至2紀伊國1而居2于|徳勒津《トコロツノ》宮1。是時熊襲叛之不2朝貢1。天皇於v是將v討2熊襲國1、則自2徳勒津1發之、浮v海而幸2于穴門1。即日使(ヲ)遣2角鹿1勅2皇后1曰。便《スナハチ》從2其津1發之、逢(ヘ)2於穴門1。夏六月天皇泊2于豐浦(ノ)津1
とありて本書に與2皇后1倶といへると合はず○いにしへは海水深く檜笠山と伊保山との間に入りこみたりきと思はる。印南浦といへるは其浦ならむ○印南の名は(64)人浪《イリナミ》より起れりと或人云ひきと云へるなり○印南はいにしへイナミともイナビとも云ひしを近世はイをはねて(又は印の字に引かれて)インナミと云ふ。大日本地名辭書に「方俗インナンと訓む」といひ市町村讀方名彙にもインナンとよみたれば近年又南の字に引かれて然訓むこととなりたるに似たれど余が播磨に在りし間(明冶二十八年まで)はなほインナミと唱へき○大日本地名辭書に
今日に至るまで東播磨の稱あり。古書に稻日に作り其稻日野は明石賀古の二郡に在るを見れば印南明石は共に東播磨の總名にも使用せられしを知る
と云へり。抑今の播磨國は國造本紀に據れば針間・針間(ノ)鴨・明石の三國に分れたりき。さて地勢等より考ふるに後の十二郡中餝磨・揖保・赤穗・佐用・宍粟《シサハ》・神崎の六郡は針間國に屬し賀茂・多可二郡は鴨國に屬し印南・賀古・明石・美嚢《ミナギ》四郡は明石國に屬したりし如し。吉田博士が東播磨即明石國を又印南と云ひきとせられたるは主として日本紀・萬葉集等に見えたる印南野が印南郡に在らずして賀古・明石二郡に跨れるに據られたるなるべけれど思ふに印南野はもと印南・賀古・明石三郡に亙りて印南川即今の加古川によりて中斷せられたる廣野なりしがやうやうに西の方即印南郡(65)の方より開けて後には賀古・明石二郡のみに殘りしならむ。或は問はむ。印南別孃の本郷は印南郡ならで賀古郡なるに印南別孃と云ふは如何と。答へて云はむ。別孃の本郷は賀古郡日岡附近即いにしへの印南野のうちなれば印南別孃と云ひしならむと
○大國(ノ)里(土(ハ)中(ノ)々) 所3以號2大國1者百姓之家多居v此。故曰2大國1。此里有v山名曰2伊保山1。所3以△2△△1△《號伊保者》帶中日子《タラシナカツヒコノ》命|乎《ヲ》坐2於神1而息△帶日女《カミニマセテオキナガタラシヒメノ》命率2石作連△來《イシツクリノムラジオホク》1而求2讃伎國羽若(ノ)石1也。自v彼《ソコ》度賜、未v定2御廬〔右△〕1之時|大來《オホク》見顯。△《故》曰2美△《伊》保山1
敷田氏標注 伊保山、古歌にイホノ湊とよめり。即其わたりの山なり○帶中日子命は仲哀天皇を申。坐於神トは殯宮に在《マス》を萬葉二、弓削皇子薨時の歌に久方乃天宮爾神隨神等座者云々○息長帶日女命は神功皇后を申○石作連、姓氏録に垂仁天皇(ノ)御世云々作2石棺《イシキ》1獻之。仍賜2姓石作大連公1。類聚國史天長元年十二月詔、石作乃山陵爾申給久云々。是は天智紀に石槨之役《イシキノエダチ》とあるにおなじ○羽若、和名抄に同國阿野郡郷(66)名羽床(ハ)波以可とあれば若は床の誤なり○大來の大は人の誤なるべし。此件脱字多かりと見ゆ
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。印南郡大國郷(於保久爾)ト。圖帳ヲ按ズルニ今モ大國村アリ○名勝志ニ曰。伊保庄曾根村ト○號2伊保1者ノ四字例ノゴト補フ○乎坐於神ハ不詳。疑ハクハ脱誤アラム。又按ズルニ坐於神ハ蓋猶、天皇晏駕シ而モ神靈見存スト云ハムガゴトシ。因ニ謂フ。美保山ハ即御廬山ナリ。伊保モ亦廬ナリ。御廬ハ蓋殯殿ヲ謂ヘルナリ○姓氏録ニ曰。石作連火明命六世孫建眞利根命之後也。垂仁天皇御世奉2爲皇后日葉酢媛命1作2石棺1獻之。仍賜2姓石作大連公1也○下文ニ據ルニ來ノ上ニ大ノ字ヲ填ムベシ○羽若ハ和名抄ニ讃岐國阿野郡羽床郷(波以可)○盧ハ廬ニ作ルベシ○顯ノ下ニ恐ラクハ故ノ字ヲ脱セルナラム
新考 今西神吉村に大國といふ大字あり。是里名のなごりなり。地名辭書に
今伊保・米田・曾根・阿彌陀の諸村なるべし。大國と云ふ大字は西神吉村に屬すれど古の郷域は專ら龍山四周を指せるならん
といへれど大國里は伊保山(龍山《タツヤマ》は其東南の峰なり)の北西南三方に亙れる地域に(67)て略今の阿彌陀村・曾根町・伊保村に當るべし。或は西神吉村の南部に亙りもしけむ。西神吉村は阿彌陀村の東方に連なり大字大國はその南部に在りて伊保山の東北に當れり。之に反して伊保山の東方なる米田村は近世までも賀古川の支流その西部を流れきといへば恐らくは大國里に屬せじ。又前に云へる如く上古は海水深く檜笠山と伊保山との間に入りたりしかば今の伊保村と曾根町との大部分は海底なりしならむ。さて大國は近古此地方にても魚崎千軒・山本千軒・大村千軒・稻屋千軒・津田千軒など云ひし千軒と同じく大部落といふ義ならむ○百姓之家多居v此はただ多2人家1といふ意なり。萬葉集卷一に
かぐ山と耳なし山とあひし時たちて見にこし伊奈美國波良
とあるイナミ國ハラも此地方を指せるならむ○伊保山は伊保村の東北より阿彌陀村の東南に亙れり。栗田氏の如く所以の下に號伊保者の四字を補ふべし。又伊保はイオの如く唱ふべし。イボとは濁るべからず。伊保崎を明治の初年まで魚崎と書きしを思ふべし。魚の古語はイヲなればイオに魚を充てしなり。又古きものに五百崎とも書けり。こは假字もかなへり○帶以下十字は帶中日子《タラシナカツヒコノ》命ヲ神ニマセテとよ(68)みて神トマサシメテすなはち御遺骸ヲ奉ジテと心得べきか。帶中日子命は仲哀天皇、息長帶日女《オキナガダラシヒメノ》命は神功《ジングウ》皇后の御事なり。原本に息の下に帶の字を脱せり。さて乎坐2於神1而は古語のままに即漢文になほさずして書けるなり○石作連《イシツクリノムラジ》の下に下文に據りて大の字を補ふべし。大來《オホク》は人名なり。石作(ノ)連は姓氏録に
石作連……垂仁天皇御世奉2爲《ミタメニ》皇后日葉酢媛命1作2石棺《イシキ》獻《タテマツリキ》之。乃賜2姓(ヲ)石作(ノ)大連公《オホムラジノキミ》1也
とありて右棺を製作する部曲の長なり○羽若は二註に和名抄に讃岐國|阿野《アヤ》郡羽床(波以可)とあるを充てたり○自v彼度賜はソコヨリワタリタマヒテと訓むべし(敷田氏氏がカレ〔二字右△〕ヨリワタシ〔右△〕タマフとよめるは非なり)。讃岐國羽若ヨリ海ヲ渡リテ播磨國印南ニ來タマヒテといへるなり○御廬を栗田博士が蓋謂2殯殿1也と云はれたるはいみじき誤なり。かく誤れるは下文の大石を此時の製作と誤り認めし結果なり。播磨に殯宮又は山陵を作らむとしたまひしにあらず。西の方より大和に歸り給ふとて讃岐の羽若に立寄りて山陵用の石を採り御船を播磨の印南に停め給ひしまでなり。今伊保山の頂にある所謂磐船を此時大來の作りし石棺の蓋とせし人あり。(69)こは栗田氏の誤を脇の方へ擴めたる説なり○未v定2御廬1之時はサテ上陸シテイヅクニ宿リ給ハムトモ定マラザリシ時ニといへるなり。御廬は御宿なり。此御廬は假廬を作り給ひしにかと思ふに次に大來見アラハシキとあり。見顯は今いふ發見にて既存の物を見あらはすなれば伊保山の麓に然るべき人家を發見せしなり。宇治拾遺物語卷十三「清瀧川聖の事」といふ條(國史大系本二八一頁)に
いかなる人のおはしますぞと思候てみあらはし〔五字傍点〕たてまつらんとてまゐりたり
とあり○見顯の下に故を補ひ美保の間に伊を補ふべし○因にいふ。敷田氏の註に擧げたる伊保湊は今の洗川の河口ならむ。その河口が今より河上なりしは勿論なり
山西有v原。名曰2池之原1。々中有v池。故曰2池之原1。々南有2作石1。形如v屋。長二丈、廣一丈五尺。高亦如v之。名號《ナヅケテ》曰2大石《オホシ》1。傳云。聖徳王御世|弓削大連《ユゲノオホムラジ》折v造1之石也
大石傳云〔四字□で囲む〕
敷田氏標注 弓削大連は物部守屋大連なり。此公は用明天皇二年蘇我馬子がため(70)に命を失ひき。爰に聖徳王御世とあるはいぶかし。彼王の攝政は推古天皇元年より後にて大連の薨に後(ル)る事七年なり。此大石は世に所謂石寶殿にて是を社傳に大名持少彦名の神の作られし状に云るは非なり。爰に大石傳を脱せるはをしむべし
栗田氏標注 春枝云ハク。印南郡ニ伊保山アリ。山西ノ生石村ニ石室アリ。俗ニ石寶殿ト呼ブ。方各三間許。殿中ニ石アリ。形神社ノ屋ニ似タリ。長一丈バカリ。池アリテ之ヲ環ル・生石村ノ南ニ大石子村アリ。村ノ西ニ美保山アリト。按ズルニ三才圖會ニ云ハク。靜窟在2生石村1。祭2大已貴少彦名1稱2生石子大明神1。神殿號2石寶殿1。其高二丈六尺。經營甚奇ト。又按ズルニ萬葉集ニ生石(ノ)村主ノ靜窟ノ歌アリ。故ニ後人附會シテ石室ヲ靜窟トセルノミ。前説ニ據レバ所謂美保山ノ地勢、本文ト會ハズ。因リテ按ズルニ美保ハ伊保ニ作ルベキニ似タリ。然レドモ今輒改メズ、シバラク舊文ニ從ヒツ○傳云ノ上恐ラクハ一ノ字ヲ脱セルナラム
新考 山西以下は神功皇后の御事には更に與らざるを栗田博士は誤解せり。氏が傳云(ノ)上恐脱2一(ノ)字1といへるは大石を誤りて神功皇后の作らしめ給ひし殯殿としたれば聖徳王御世云々を異傳としたるなり。敷田氏も少くとも初には誤解しきと見(71)えてその稿本には「爰に兩説を傳へたる、何れか是ならむ」といへり○池之原は地名辭書に
今阿彌陀の大字北池南池是なり
といひ印南郡誌(前編四四頁)に
北池村南池村 此地は風土記池之原の地にして伊保莊石高四千餘石の用水池なりしを慶長中姫路城主池田三左衛門輝政のために開發せられ南池地方には魚橋村より北池途方には阿彌陀村より人明移住して民家を作り兩村合して新池村といひたりしを後寛永中分れて二村となりし也
といひ又(前編三二三頁)
魚橋村の西より北池南池兩村の間を經て中筋村の東方に及びし大池をアサガラ池と言へり。水淺き沼の謂也。即ち風土記大國里の條に見ゆる池之原の地にして魚橋村なる原が谷・阿彌陀村なる字北原はその遺稱なるべし。今の法華谷川は當時魚橋の南より此池に流込みたるものにして村の西外れなる海老山の麓は其注入口なりしと言へり。池の南端は今の池尻附近なりしなるべし
(72)といへり。北池南池は今の阿彌陀村の大字にて北池は大字阿彌陀の東方に、南池は北池の南方にありて共に伊保山の西北に當り本書に山西と云へると少し相かなはず。慶長十六七年頃に池田氏にて作りしものと思はるる國圖には東阿彌陀の東に池村と標し其東南(藥師村の東北)に新村と標せり。新池村は池村の子村にて親村ははやくうせしにあらざるか○作石は人工を加へたる石といふ事にて無論今の石(ノ)寶殿なるべきが南池といふ大字よりは東南に當れり。されば池之原は今の北池南池より遙に東方に亙りしかと思ふにさては伊保山の北方となりて山西有原といへると益合はず。但池之原はなほ慶長圖の池村附近なるべし○石寶殿は伊保山の東北の山腹なる郷社|生石《オホシコ》神社の後にありて阿彌陀村の大字|生石《オホシコ》に屬せり。郡誌に
石の寶殿 生石村の後の山腹にあり。三面斷崖を以て圍まれたる中に石殿を置く。石殿は大凡に社殿の形に作りたるを入口を上にして西に倒せしもの。基底方三間半、基底より棟まで四間半の大さあり。四圍に水を湛へたれば一見池中に泛べるに似たり
(73)と云へり。正面に見ゆるは基底、上方に向へるが本來の正面にてそこには土砂たまりて松數本生ひたり。棟は後方に向ひたれば見えず。兩側には深きほりこみあり。岩山の窪に横たはれる、その窪に水たまりたれば一見池中に浮べる如く見ゆるなり。圖は播州名所巡覽圖繪卷之三に出でたり。就いて見べし。春枝が山西ノ生石村ニ石室アリといひ(生石村は伊保山の東北にあり。山西にあらず)俗ニ石寶殿ト呼ブ。方各三間許。殿中ニ石アリ。形神社ノ屋ニ似タリ。長一丈バカリといひ(春枝は石造の社殿の中に作石を据ゑたりとせるにや。社殿は普通の木造にて作石はその後方にあるなり)生石村ノ南ニ大石子村アリといひ(生石村即オホシコなり。生石村の外にオホシコ村あるにあらず)村ノ西ニ美保山アリといへる(美保山といふは無し)皆詐なり。思ふに春枝は石寶殿だに見ざりしなり。否名所巡覽圖繪又は一枚摺の石寶殿社眞景だに見ざりしなり。かかる詐僞漢の學者を惑しし例他にありや○萬葉集卷三に
生石村主《オホシノスクリ眞人歌一首 おはなむちすくな彦名のいましけむしづのいはやはいく代へぬらむ
といふ歌あり。夙くより石寶殿を此シヅノイハヤとする説あり。そは石寶殿の在る(74)村の名と右の歌の作者の氏(孝謙天皇天平勝寶二年紀には大石と書けり)と同一なる事、石寶とのは大己貴少彦名二神の作れる所と言傳ふる事などに由れるなるべけれど靜(ノ)窟は石見國邇摩郡靜間村魚津なる俗に千疊敷と稱する窟にて石寶殿の事にあらず
萬葉集新考卷三(四四八頁)に靜窟を同國邑知郡岩屋村にありとせるはわろし。訂正すべし
○茵に云ふ。村の名の生石を今オオシコと唱ふるオオシはやがて大石《オホシ》なり(慶長圖には大生石と書きてオホイシコと傍訓せり)。但コを添へたるは心得ず。ココ・ソコなどのコにて大石處の義か○聖徳太子は天皇の御位には即き給はねど推古天皇紀に
立2厩戸(ノ)豐聰耳《トヨトミミノ》皇子1爲2皇太子1仍録2攝政1以2萬機1悉委焉
とあればその御世を聖徳王御世とも云はば云ふべし。されど弓削大連《ユゲノオホムラジ》即物部(ノ)守屋の殺されしは用明天皇の二年にて守屋が大石を作りけむは用明天皇以前なれば崇峻天皇の御世を經て推古天皇の御世に至りて萬機を委ねられ給ひし聖徳太子(75)にかけて聖徳王ノ御世ニなどはいふべからず。おそらくは本書の筆者はさる事までは思はで守屋は太子と時を同くせし人なれば卒爾にかくは書きしならむ○原本に弓削大連所造之石也の次に行を改めて大石傳云と書きて左傍に重點を打ちて消したるは上文に名號曰大石傳云とある中の四字を誤りて再書けるなり。敷田氏が此四字を存じて「爰に大石傳を脱せるは惜むべし」と嘆きたるはあやなし。地名辭書にも「本書に其傳文を缺けるは惜むべし」といへり
○六繼《ムツギノ》里(土中々) 所3以號2六繼里1者已見2於|△《上》1。此里有2松原1生2甘※[草冠/取]〔左△〕1。色似2※[草冠/取]花1體如2鶯※[草冠/取]〔左△〕1。十月上旬生、下旬亡。其味甚甘
敷田氏標注 六繼里、和名抄に洩たり○甘※[草冠/取]未考へず
栗田氏標注 六繼里ハ和名鈔ニ載セズ○見於ハ原文ニ於見ニ作レリ。而シテ上ノ字闕ケタリ。今本書ノ例ニ依リテ訂補ス○國圖ヲ按ズルニ餝東郡ニ御着村アリテ本郡ト相接セリ
新考 地名辭書に和名抄の餘戸郷を考證して
(76) 今詳ならず。恐らくは風土記の六繼里にして大鹽・的形等にあたる
といへるは非なり。賀古郡の下に
還到2印南六繼村1始成2密事1。故曰2六繼村1
とあるを見れば南※[田+比]都麻島より六繼村に渡り給ひしなり。賀古松原より直に島に渡らずして東南に大まはりして阿閇津より舟を出し給ひし天皇が島の北方に在りて程近き印南之大津江に渡らずして西方なる印南浦をさへ過ぎて更にその西方に在りて舟を寄する便もあらざりけむ太鹽・的形などに渡り給はむや思ふべし。郡誌にも
六繼里のみ其所在を詳にせず。或は其當時印南川の中間島なりし砂部《イサベ》六本松(○砂部は今の東|神吉《カンキ》村の大字なり。六本松は同村の大字西井口のうちなり)の地方なりといひ或は遠く御着《ゴチヤク》佐土《サツチ》(○御着は今の飾磨郡の東部にありて御國野村の大字なり。又佐土は今の印南都別所村の大字)の附近なりともいへり
といへり。按ずるにいにしへは加古川、今の東神吉村升田の附近にて二分し本流は今より東の方を流れ支流は西より南に廻りき。されば今の印南郡米田村・今の加古(77)郡加古川町のうち加古川・同じく鳩里村のうち木村・稻屋などは加古川の本流と支流とに圍まれたりき。さてその一區域を河南莊といひき。
莊名を岸南・雁南とも書けるは河南の訛なるべし
河南と稱せしは彼支流の南にありしが故なり。本流の方より云へば河北なれど本流は賀古印南二郡の間を流れ彼村々の屬せし印南郡を貫きしは支流の方なれば支流に就きて河南とは稱せしなり。此河南莊ぞほぼ本書の六繼里に當るべき。さて六繼里のうち景行天皇が島より還り渡りたまひしは今の印南郡米田村の方にあらずして今の加古郡鳩里村のうちなる稻屋附近なるべき事上(三九頁)にいへる如し○見於は原本に於見と書きて顛倒の符を附けたり。又其下に上の字を落せり。さて見於上といへるは賀古郡の下に景行天皇が別孃と此村にて始めて密事を成し給ひし故にムツギといふといへるを指せるなり○甘※[草冠/取]鶯※[草冠/取]はもと甘茸鶯茸なりしが中間なる※[草冠/取]花のうつりて今の如くなれるにあらざるか。但鶯茸といふものある事は聞かず○※[草冠/取]は音シウ、字書に草叢生也又叢也とありて薄と同義なるを思へば※[草冠/取]花はヲバナならむか(78)薄は字書に草叢生曰v薄とありて元來草の名にはあらぬを我邦にては昔よりススキに借り來れるなり
○益氣《ヤケノ》里(土(ハ)中(ノ)上) 所2以號1v宅《ヤケ》者大帶日子命造2御宅《ミヤケ》於此村1。故曰2宅《ヤケ》村1。此里有v山。名曰2斗形《マスガタ》山1。以v石作3斗《マス》與2乎氣《ヲケ》1。故曰2斗形山1。有2石橋1。傳云。上古之時此橋至v天|八十衆《ヤソビトドモ》上下往來。故曰2八十橋1
敷田氏標注 斗形山云々、度量の制既く神代より定まれれど爰に斗を製らしめ給ひしも又久し○八十橋、夫木集に雲アレバ天ノ羽衣白妙ニ風サエ渡ル八十ノ岩ハシ。神社考に播磨風土記云。八十橋者陰陽二神及八十二神之隆迹也とあれど逸文の體に似ず。今升田村と云に八十橋の跡なりとて八十ばかり橋に似たる岩ありといへり
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。印南郡益氣ト。高山寺本倭名抄ニ益氣ヲ益國ニ作レリ。名跡志(○播磨名跡志)ニ曰。益氣郷今升田ト稱スト。伴信友云ハク。按ズルニ國圖ニ隣郡餝東郡ニ八家アリ。蓋此ナラムト。春枝云ハク。飾東郡馬子氣村是ナリト○播磨名跡(79)志ニ曰。印南郡八十岩橋ハ平(ノ)庄益田村ニ在リ。麓ヨリ岑ニ至ルマデ皆天然ノ石階ナリ。又八十川原アリ。即加古川ノ水脈ナリト
新考 地名辭書に
益氣郷 今東|神吉《カンキ》村大字升田及び平莊村に當るごとし
といひ郡誌に
益氣里は今の益田村池尻村の地方なり
といへり。池尻は東神吉村の東に續ける平莊《ヘイシヤウ》村(もと幣之庄といひしを改めたるなり)の大字にて升田とは問題の山を隔てたるのみ。升田に村社|益氣《ヤケ》神社あり、又益氣山佐伯寺といふ寺あり。又升田の後に石階ある山ありて升田は其西南麓に在れば益氣里が此附近なる事は疑を容れず。信友が飾磨郡の八家《ヤカ》(今八木村に屬せり)とせるは地理にかなはず。春枝の説は例の空言なり。飾磨郡に馬子村といふ村ある事を聞かず○升田の後の山は今は升田山といへど近古の書には益氣《ヤケ》山又岩橋山といへり。所謂石橋はその東南麓にありて益田堤より池尻に到る道路の左傍に沿へり。
(80) 本書に石橋と書けるは石階の借字なり。敷田氏が「八十ばかり橋に似たる岩ありと云り」といへるは借字に誤られたるなり
栗田氏の引ける名跡志に「麓より岑に至るまで皆天然の石階なり」と云へるは誤なり。石階は麓より十數級のみ。然も皆斧鑿の痕ありて天然の物にあらず。此山は元來小松|杜松《ムロ》などの疎に生ひたる一塊の巨岩にて高くはあらねど靴滑りていと登りがたきを強ひて登り見しに處々に岩に窪ありて水のたまれる、そが中には或は人の穿ちしものもあるべけれど見明らめがたし。斗と桶とはもとより影も留めず。此山の後に石を切出す山あり。恐らくは上古も此地方に石作ぞ住みたりけむ。さて此山は川を隔てて加古郡日岡と恰相對せり○ミヤケは上古御料の田より出づる穀を納置きし倉庫又は其田を管せし官舍なり。其田をミヤケ田といひ又つづめてそれをもミヤケと云ひき。ヤケは元來家屋の古語なり。さてそれをヤカといふは大伴|家持《ヤカモチ》などの如く下へ續く時に限る事にて酒・竹・赤《アケ》などの下へ續く時にサカ・タカ・アカとなると齊しきを中世以後は單獨なる時もヤカと云ひてミヤケなど熟語となれる外は郤りてヤケと云はぬ事となれり○播磨の地理歴史に精通せる矢内正夫(81)氏は「升田は益氣田を略して益田と書けるをマスダと訓み終に升田と書くこととなりしにてなほ駿河の燒津を益頭《ヤキヅ》と書き終にマシヅといふこととなりし如し」と云はれたり。マスダの文字は今こそ升田と定まりたれ近古の書には益田と書きたればげに然らむ。但し益氣田の氣を略したりしとせずしてヤケダ又はヤカダを地名として益田と書きしを後に字に就きてマスダと唱ふることとなりしなりとすべきにあらずや
益の呉音はヤクなり。クをケに轉借したる例は和名抄周防國|吉敷《ヨシキ》郡の郷名に益必(也介比止《ヤケヒト》)あり。さればヤケダを益田とも書きつべし。又クをカに轉借したる例は各務《カガミ》・美作《ミマサカ》・安積《アサカ》・安宿《アスカ》・博多《ハカタ》・相樂《サガラカ》などいと多し。さればヤカダを益田と書きつべき事勿論なり。現に持統天皇紀に巨勢(ノ)朝臣|多益須《タヤカス》といふ人名見えたり。因にいふ。クを又キに轉借する事あり。益頭《ヤキヅ》・信樂《シガラキ》など其例なり
○八十人衆の例は揖保《イヒボ》郡|香山《カグヤマ》里|阿豆《アツ》村の下に於v此人衆集來談論とあり。又同郡日下部里の下に連2立人衆1運2傳上川礫1作2墓山1とあり。ヤソビトドモとよみて可ならむ。敷田氏はヤソビトモロモロとよみ栗田氏はヤソヒトと訓めり
(82)○含藝《カムキノ》里(本名|瓶落《ミカオチ》。土(ハ)中(ノ)上) 所3以號2號瓶落1者難波高津御〔□で囲む〕宮|△△《天皇》御世|私部《キサキベノ》弓取等(ノ)遠祖|他田《ヲサダ》熊千、瓶(ノ)酒(ヲ)着2於馬尻1求2行(キシニ)家地《イヘドコロ》1其瓶落2於此村1。故曰2瓶落1
敷田氏標注 含藝里はカムキとよむべし。今同郡に神吉と書ける地あり○私部をキサイベと訓るは音便なり。此訓義を委く云べけれど所狹ければ註しえず。敏達天皇六年紀に詔置2日祀部私部1。局取は名なりと聞ゆれどよみえず。他田は姓氏録に膳《カシハデノ》臣同祖大彦命之後也とあり
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。印南郡含藝ト。御圖帳ヲ按ズルニ今、神木村アリ。蓋此ナラム。名跡志ニ曰。神木庄神木村ト。含藝瓶落ハ一聲ノ轉ナリ○御宮ハ御ノ字衍レリ。下文ノ例ニ據レバ宮ノ下ニ天皇ノ二字ヲ脱セルナリ○私部局取ハ詳ナラズ。按ズルニ下、小川里ノ條ニ私部(ノ)弓束アリ。併セ考フベシ○姓氏録ニ曰。他田膳臣同祖ト。又膳臣云々大彦命之後也ト
新考 原本に藝の云を力とし瓶の旁を風とし又扁を羊ともせり。活字にては摸し難ければ直に改めつ。御宮の御を衍字とし宮の下に天皇の二字を補ふべき事栗田(83)氏の云へる如し。揖保郡栗栖里の下にも難波高津宮天皇とあり。此天皇は仁徳天皇なり。私部弓取は原本に弓取とあり。二註の本文に局取とせるは傳寫の誤なり○郡誌に「含藝里は神吉村」といへり。按ずるに今東|神吉《カンキ》・西|神吉《カンキ》の二村あれど其區域この含藝里と同一ならざるは言を待たず。
益氣里に當る升田が東神吉村の内にあり大國里の名を傳へたる大國が西神吉村の内にあるを思ふべし
今東神吉村の大字に神吉ありて恰大國と升田との間に在り。此附近ぞいにしへの含藝里ならむ。否今の神吉よりは北にぞ寄りたりけむ○私部を栗田氏のキサイチ〔右△〕ベとよめるは非なり(同じ人の姓氏録考證には大私部をオホキサイベとよめり)。氏又は地名の私市ならばこそキサイチとよむべけれ。然らばキサイベとよむべきかといふにキサイベも音便なばここは然よむべからず。宜しく敷田氏の如くキサキベとよむべし(萬葉集新考四〇七六頁參照)○瓶落の瓶を敷田氏はミカとよみ栗田はカメとよめり。いづれとも訓むべけれどミカはカメの大なるものを云ふに似たるにここは大なる瓶を云へりと思はるれば寧ミカと訓むべきか。栗田氏がカ(84)メとよみて合藝瓶落一聲之轉と云れたるは從はれず。カメオチを訛るともカムキとはならじ。含藝里本名瓶落と云へるは下に少川里本名私里・香山里本名鹿來墓・林田里本名淡奈志・少宅里本名漢部里・吉川本名玉落川・庭音村本名庭酒・安師里本名酒加里・石作里本名伊和と云ひまた越部里舊名皇子代里・廣山里舊名握村・大家里舊名大宮里・桑原里舊名倉見里と云へると同じくてただ「含藝里は初は瓶落と云ひき」と云へるのみ
又有2酒《サカ》山1。大帶日子天皇御世酒泉涌〔右△〕出。故曰2酒山1。百姓飲者即醉相闘相|亂《ミダル》。政令2埋塞1。後庚午年有v人堀〔右△〕出。于v今《イマニ》猶有2酒氣《サケノカ》1、
敷田氏標注 庚午は何(レノ)事を云りけむ詳ならねど疑(ク)は天智天皇九年を云るか
栗田氏標注 春枝云ハク。今飾西郡作土村ニ酒峯アリ。其山足ヲ坂本村ト號スト
新考 涌は原本に酒に誤れり。堀は掘の通用と見べきか○庚午年は天智天皇の九年なり。戸籍を造られしによりて名高く國史に庚午年籍、庚午籍、庚午年造籍之日、庚午年并五比籍など見えて後までもただ庚午といひて通ぜしなり。又本書の成りし(85)時に最近き庚午なり○春枝は今飾西郡作土村有酒峯といへれど飾西《シキサイ》郡に作土村及酒峯といふ處あるを聞かず。たとひ、有りともここに引きて何の用かあらむ。又坂本は書寫山の南麓にありて其登口なるより東坂本・西坂本と呼ばれたるなり○この含藝里に關せる傳説の二つ共に酒に縁あるを思へばカムキの名義は釀酒《カムキ》にあらざるか。但近古の書には神木とも書けり
○郡(ノ)南海(ノ)中有2小島1。名曰2南※[田+比]都麻1。志我高穴〔右△〕穗宮御宇天皇御世遣2丸部臣《ワニベノオミ》等(ノ)始祖比古汝弟1令v定2國堺1。爾《ソノ》時吉備比古吉備比賣二人參迎。於v是比古汝弟娶2吉備比賣1生2兒印南別孃1。此女端正秀2於當時1。爾時大帶日古天皇欲v娶2此女1下幸行《クダリイマシキ》之。別孃聞v之即遁〔右△〕2度|件《コノ》島1隱居之《ナビヲリキ》。故曰2南※[田+比]都麻1
敷田氏標注 志吾高穴穗宮は成務天皇の朝○丸部臣、姓氏録に彦姥津命五世孫と有り。姥津命は孝昭天皇の御末なり。此氏人の此國に在し事は三代實録貞觀二年十二月播磨國音博士正八位上和邇部臣宅貞など見えたるは比古汝弟の後なるべし○令定國堺、成務天皇五年紀に隔2山河1而分2國縣1隨2阡陌1以定2邑里1○吉備比古云々、古(86)事記に天皇娶2吉備臣之祖若建吉備津日子之女名(ハ)針間之伊那※[田+比]能大郎女1とある吉備津日子は孝靈天皇之御子なり○遁度の上なる著の字は衍れり。件は塵添※[土+蓋]嚢抄にクダリとよめれど上件となくては然はよみがたし。クダンはクダリの音便讀なり
栗田氏標注 名跡志ニ云ハク。此郡ノ海中ニ小島アリ。南島ト號ス。又前島中山。或ハ云ハク衰島。又印南島ト稱スト○定國堺、成務紀五年ニ隔2山河1而分2國縣1○丸部ハ吉備ニ作ルベシ。日本紀ニ曰。崇神天皇十年吉備津彦遣2西海道1ト。古事記孝靈(ノ)段ニ亦此事ヲ載セテ曰。大吉備津日子命與2若建吉備津日子命1二柱相副而於2針間氷河之前1居2忌瓮1而針間爲2道口1以言2向和吉備國1也ト。景行(ノ)段ニ云ハク。娶2吉備臣等之祖若建吉備津日子之女名針間之伊那※[田+比]能大郎女1云々。伊那※[田+比]能大部女之弟伊那※[田+比]能若郎女ト。此ニ由リテ本文ヲ參攷スルニ比古汝弟ハ即若建吉備津比古命ノ名タリ。唯未比古汝弟ノ訓ノ何タルヲ詳ニセザルノミ。然レドモ此王ノ兄ニ比古刺肩別、比古伊佐勢理、日子|寤間《サメマ》等ノ稱アレバ比古汝弟ハ恐ラクハ比古沙茅〔二字右△〕ニ作ルベシ。今得テ詳ニスベカラズ。附ケテ攷ニ備ヘツ。又按ズルニ吉備都彦ノ裔孫|世《ヨヨ》賀古郡印南野に居(87)リき。事ハ天平神護元年五月庚戌ノ紀ニ見エタリ。併セ考フベシ○即者※[ノ/者]ノ者ノ字ハ衍《アマ》レリ。※[ノ/者]ハ即遁ノ字ノ缺畫ナリ
新考 原本に高穴徳の穴を宍に誤れり。大帝日古の日古は正しくは日子又は比古と書くべし。下文にも例あれど一々指摘せじ。遁は原本に※[ノ/者]とあり。※[ノ/者]は大寶令の流布本などに多く見えて看の俗字なり。ここの※[ノ/者]は遁の俗字なる※[しんにょう+※[ノ/者]]の誤字又は略字とすべし。原本に者※[ノ/者]度と書きて者を消したり。敷田氏が「著字はあまれり」といへるは者を著と寫誤れる本に據れるにて栗田氏が者字衍と云へるは原本に削りたるを知られざりしなり○南※[田+比]都麻島は賀古印南兩郡の界にあるが故に賀古郡の下にも此郡の下にも出せるなり。さて彼は賀古郡の古老の傳説に基づき此は印南都の耆宿の口碑に據りたればその内容相齊しからざるなり。南※[田+比]都麻島は今高砂町と荒井村とに分れたる加古河口の三角洲なる事前に云へる如し○志我高穴穗宮御宇天皇は成務天皇にて大帶日子天皇は御父景行天皇なり。成務天皇の御世に國界を定めに遣しし人が其國の女を娶りて生ませし娘を前代の天皇の召したまはむ事あるべきにあらず。景行天皇も亦志我(ノ)高穴穗宮にましましし事あればここに(88)云へるは景行天皇の御事にやとも思へど此天皇の此宮にましまししは御晩年三年の間なれば時代なほ合はず。されば志我高穴穗宮御宇天皇御世とあるは相傳の誤なり○さて古事記に據れば印南別孃の御父は吉備臣等之祖若|建《タケ》吉備津日子なり。これによりて栗田氏は比古汝弟を若建吉備津日子の事とし丸部《ワニベ》とあるを吉備の誤としたれどそは甚しき強辭なり。古事記には若建吉備津日子の御女とし(但古事記には大郎女とせり)ここには丸部臣等の祖なる比古汝弟を御父とし吉備氏を御母方とせるにて素より傳の異なるなり。又栗田氏は此古汝弟を比古沙茅の誤とせられたれど證とすべきもの無し○隱居之はナビヲリキとよむべし(三七頁參照)○栗田氏の引ける名跡志に云へる南島は聞知らず。眞にさる島ありや。いとうたがはし
以上里四、島一。和名抄に見えて本書に無きは餘戸《アマルベ》・佐突《サツキ》の二郷、此にありて彼に見えざるは六繼里なり○記述の順序は郡の西南方なる大國里に起り其東なる六繼里に及び其東北なる益氣里に及び其西なる含藝里に及びて終れり
(89) 餝磨郡
所3以號2餝磨《シカマ》1者|大三間津日子《オホミマツヒコノ》命於2此處1造2屋形1而|座《イマシシ》時有2大(キナル)鹿1而|鳴之《ナキキ》。爾《ソノ》時王勅云。牡鹿鳴哉。故號2餝磨郡1
敷田氏標注 太三間津日子命は御眞津日子|訶惠志泥《カヱシネ》命を申か。然らば孝昭天皇の御事なり。此天皇を王と記せるは未御位に即賜はざりし以前なるべし
栗田氏標注 按ズルニ大三間津日子命ハ此他ニ考フル所無シ。下ニ又讃容郡邑寶里ノ條ニ彌麻都比古命アリ。延喜式阿波國名方郡ニ御間津比古神社アリ。國造本紀長(ノ)國造ノ條ニ觀松彦色止命アリ。然ルニ日本紀ニ孝昭天皇ノ御名ヲ載セテ觀松彦香殖稻天皇ト曰ヒ本文ニ大三間津日子命ト云ヒ又王勅ト云ヘリ。此ニ據レバ大三間津日子ハ即孝昭天皇ナリ○倭名鈔ニ曰。餝磨郡國府ト。國圖ヲ按ズルニ餝磨ハ今分レテ餝東餝西二郡トナレリ。御圖帳ニ曰。餝東郡餝萬津村ト
新考 餝磨《シカマ》郡は中古より餝東《シキトウ》餝西《シキサイ》に分ちたりしを寛文の頃又合せて餝磨とし程なく又二郡に分ちたりしを明治二十九年郡制施行の時又合せて飾磨としき。餝は(90)飾に同じ。昔は多くは餝と書きしが今は專飾と書くこととなれり○この大三間津日子命は實に孝昭天皇の御事なりやおぼつかなし。勅といへるを天皇なる證とはすべからず。宍禾《シサハ》郡川音村の下にも
天(ノ)日槍《ヒホコノ》命宿2於此村1勅〔右△〕2川音甚高1
とあればなり。寧、王と云へるを天皇ならざる證とすべし○屋形を造り給ひし處を地名辭書に
其屋形と云ふは今姫路の西北城北村の大字に八代《ヤシロ》あり。屋形の地名に遺れるにあらずや
と云へるは固より妄なり。姫路市史(九頁)に
今飾磨郡平野村の南面にて俗に長者屋敷と稱する邊なり。其所字飾萬と呼べり
といひ飾磨郡誌(四九二頁)に
天皇の宮居したまひし地は同じ城北村の大字平野にして同地人見塚の邊ならんとの説あり。今に地字飾萬と言ふ地あり
といひ又(四九三頁)
(91) 平野に人見塚と稱する有名なる古墳ありて、其北方に飾萬の字遺れり
といへるは參考とすべし。こは矢内正夫氏の説なり。人見塚は長者屋敷の東に接したりしが明治三十年に削り平げられて長者屋敷と共に兵營の構内に入れられき○鹿はカとよケ牡鹿はシカと訓むべし。牝牡を通じてカといひ取分きて牡をシカ牝をメガと云ひしなり。勅云牡鹿鳴哉はシカナクカモトノリタマヒキとよむべし。原本に牡を壯に作れり
○漢部《アヤベ》里(土中上) 右稱2漢部1者|讃藝《サヌキ》國(ノ)漢人《アヤビト》等|到2來居《キタリヲリキ》於此處1。故號2漢部1
敷田氏標注 漢部里、和名抄に洩たり。同抄讃岐國部名|阿野《アヤ》を綾と注し欽明天皇元年紀に召2集秦人漢人等諸蕃投化者1安2置同郡1編2貫戸籍1云々
栗田氏標注 春枝云ハク。同郡ニ綾部村アリト
新考 此里、下に再出でたれば地理の論は其處にて云はむ○漢をアヤとよむ所以を古事記傳卷三十三(二〇一二頁)に
漢織《アヤハトリ》を書紀に穴織《アナハトリ》ともあるを以て思へばアナと云におなじく此《コレ》もアヤと歎く聲より出たるか
(92)と云へるはいかが。思ふに漢人の織れる文《アヤ》ある帛をアヤハタ又アヤと名づけしよりそを織る職工をアヤハトリといひ終に打任せて漢人をアヤビトと呼ぶこととなりしならむ。聖徳太子傳暦にも
明日|屆《イタル》2于|菟途《ウヂ》橋1。川勝(ノ)眷屬※[衣+玄]服騎馬奉v迎2橋頭1溢2滿道中1。太子謂2左右1曰。漢人親族其家富饒、亦手織2絹※[糸+兼]1衣服美妍。是國家之寶也
とあり。さて讃藝國(ノ)漢人は讃岐國|阿野《アヤ》郡に住みし漢織部《アヤハトリベ》ならむ。又阿野郡といひしは綾を織る漢人が住みし故ならむ。されば後に此郡を綾郡と書きしは無意義の借字にはあらじ。又續日本紀に
和銅五年七月令2播磨等二十一國始繊2綾錦1
とあり延延喜式播磨國の調に兩面十疋、九點綾二疋、一※[穴/果]綾十疋、二※[穴/果]綾・三※[穴/果]綾・小鸚鵡綾・薔薇綾各二疋などあるはここに云へる漢人などの織りしならむ。揖保都にも漢部(ノ)里あり。即|小宅《ヲヤケ》里の本名なり
なほ云はむに文《アヤ》即模樣は又アナとぞ云ひけむ。又文をアヤともアナとも云ふは宣長の云へる如く嘆辭より起りならむ。さてその文ある帛をも亦アヤ(アヤハ(93)タの略)といひその帛を織る民族をも亦アヤ(アヤハトリの略)といひしなり。上に宜長の説を評していかがと云へるはアヤハトリの略なるアヤを「嘆く聲より出たるか」といへるが從はれざればなり
○到來居は下にも多く見えたり。キタリヲリキとよむべし。キタリはもと來到リの約なれば來到と書くべきなれど古典には往々到來と書けり。萬葉集卷十八なる越前國掾大伴宿禰池主來贈歌三首の小序にも以2今月十四日1到2來深見村1と書けり○春枝の説は例の妄言なり。飾磨郡に綾部村と云ふは無し
○菅生《スガフノ》里(土中上) 右稱2菅生1者此處有2菅原1。故號2菅生1
敷田氏標注 菅生里、和名抄に須賀布と註せり。菅原もスガフとよまんか。萬葉十一に苧原《ヲフ》ノシタクサまた三苑原《ミソノフ》ノまた室原《ムロフ》ノケモモなどあり。是は原をフとよめる例也。然どしばらく普通の訓に從ふ。古事記にタチカアレナムアタラ須賀波良
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。餝磨郡菅生(須賀布)ト。春枝云ハク今菅生谷村アリト。按ズルニ名跡志ニ菅生庄アリ。御圖帳ニ菅生谷村アリ。竝ニ餝西郡ニ屬セリ
新考 今菅野村あり。その九大字はもと菅生・※[草冠/助]野《アゾノ》二莊に分屬したりしを明治二十(94)二年に合せて一村とせし時二莊名より一字づつ取りで菅野と名づけしなり。※[草冠/助]は※[薊の魚が角]の俗字なり。※[薊の魚が角]は薊に阿じ。本村の大字に菅生澗あり。又菅生川といふ川、本村より發し書寫山の西を流れ、同山の東を流るる置鹽《オシホ》川と手野にて相會して手野川一名夢前《ユメサキ》川となれり○菅はいにしへ笠に縫ひ席に編みなどして利用せし草なり。菅原を敷田氏がスガフとよまむかと云へるは泥めり。スガハラとよむべし
○麻跡《マサキ》(土土中上) 右號2麻跡1者|品太《ホムタ》天皇巡行之時勅云見2此二者〔左△〕1山〔左△〕能似d人(ノ)眼(ヲ)割下《サキサゲタルニ》u。故(ニ)號2目割《マサキ》1
敷田氏標注 麻跡里、和名抄に洩たり。訓義は目割にて古事記に見2大久米命|黥利目《サケルトメ》1而云々、履中紀に黥《メサキノキズ》皆未v差《イエ》
栗田氏標注 山者ハ舊《モト》者山ニ作レリ、今一本ニ從フ
新考 者山は二註に從ひて山者の顛倒とすべし○麻跡は二註の如くマサキとよむべし。跡の呉音シヤクその直音サクをサキに假れるにてヤキヅを益頭と書けるに齊し○マサキといふ地名今傳はらず。その上に本郡の記述は必しも地理を追は(95)ざれば考へむに由無し、地名辭書には「余部の南なる八幡村などにあらずや」と云へり。或は然らむ。今の八幡村の四大字中、蒲田・西蒲田は余部《アマルベ》郷に屬し才・則直《ノリナホ》は英賀保《アガホ》に屬したりき。因にいふ。英賀には保と郷とありて今の英賀保村は英賀郷の方なりき。されば英賀村又は英賀郷村と名づくべかりしなり○品太《ホムタ》天皇は應神天草の御事なり。その御遺蹟當國に多し。此天皇の當國巡幸は記紀に見えねど新撰姓氏録|佐伯直《サヘギノタヒ》の下に
譽田《ホムタ》天皇爲v定2國堺1車駕巡幸到2針間《ハリマノ》國神崎郡瓦村東崗上1云々
とあり○目割《マサキ》の例は古事記|白檮原《カシハラノ》宮の段に
見2其大久米(ノ)命(ノ)黥利目《サケルトメ》1而思v奇歌曰。あめつつ、ちどりましとと、など佐祁流斗米《サケルトメ》。爾《ココニ》大久米命答歌曰。をとめに、ただにあはむと、わがさけるとめ
又穴穗宮(安康天皇)の段に
於v是市邊王之王子等|意富祁《オホケ》王|袁祁《ヲケ》王聞2此亂1而逃去。故到2山代(ノ)苅羽井1食2御粮1之時面黥《メサケル》老人來奪2其粮1。爾二王言。不v惜v粮。然汝者誰人。答曰。我者山代之|猪甘《ヰカヒ》也
履中天皇紀に
(96) 召2阿曇連《アヅミノムラジ》濱子1詔之曰。汝與2仲《ナカヅ》皇子1共謀v逆將v傾2國家1。罪當2于死1。然垂2大恩1而免v死科v墨。即日黥之。因v此時人曰2阿曇目《アヅミメ》1
また
天皇狩2于淡路島1。是日河内(ノ)飼部等從v駕執v轡。先v是飼部之黥皆未v差《イエ》。時居v島|伊弉諾《イザナギ》神託v祝曰v不v堪2血臭1矣。因以卜之。兆云。惡2飼部等黥之氣1。故自v是後|頓絶《ヒタブルニ》以不v黥2飼部1而止之
雄略天皇紀に
鳥(ノ)官《ツカサ》之禽爲2菟《ウダ》人(ノ)狗1所v噛死。天皇瞋|黥面《メサキテ》而爲2鳥養部《トリカヒベ》1
などあり。記傳卷二十(一二〇二頁)に云へらく
黥利目は歌に依にサケルトメと訓べし。黥はただ借字にてサケルは裂有なり。そは自然に裂てあるをいふ。他の此を裂たるにはあらず
文長ければいくつにも切りて評すべし。以下一字下げたるは記傳の文の續と知るべし。サケルは裂キタルなり。裂ケタルにあらず。大久米命の歌にワガを添へてワガサケルといへる上に(このワガは利目にかかれるにあらず)サケタルはサケルとは(97)云ふべからず
黥は罪ある人の面を刻て墨を入るるを云てメサクと訓む字なり。そは目のあたりを裂ゆゑに然云るなるべし
支那の事と我邦のメサキとは相似て相齊しからず。メサキに黥の字を充てたるは相似たる所あるが故なれど誤りてメサキ即黥なりとは思ふべからず。まづ黥は所謂墨刑にて罪ある人の額に傷つけて之に墨を入るるなり(後世のイレズミといふ刑はまさしく支那の黥に倣ひしなり)。次にメサキは眥に傷つけて之に墨を入るるなり。かくすれば眼おそろしげに見ゆるが故にいにしへは勇士の好みて目さきし事あれど(大久米命の例)後には或は刑として行ひ(阿曇目の例)或は飼部即御料の鳥獣を飼ふ賤民を良民と別たむが爲に行ひしなり(穴穗宮の段なる猪飼・履仲紀なる馬飼・雄略紀なる鳥飼の例)。
因にいふ。雄略紀なるは鳥養部《トリカヒベ》としたまひしが刑罰なり。目さきたまひしは鳥養部としたまはむ爲にて本來の刑にあらず。魏書杜※[草冠/〓]傳にも於v是罪2玉(○鑄鐘工柴玉)及諸子1皆爲2養馬士1とあり
(98)又穴穗宮の段なる面黥・雄略紀なる黥面は、熟字と認めて即面の字に拘はらずしてメサケル・メサキテとだむべし。さて目サキは實に眥を割くにはあらで(眥は切り割きても直に癒え會ふものなり)眥の皮を斜に上の方に向ひて切りて之に煤などを入れしならむ。目は之によりて大きには見えねどするどく見えて伊須氣余里比賣命の御歌に利目《トメ》とのたまへるによくかなふものなり
さて此處に此字(○黥の字)をしも書るは此人の目大にして裂《サケ》たるが如くなる故にメサクてふ訓を借たるのみか。又は打見たるが彼|黥《メサケ》る者の目のさましたりし故に書るか。何れにまれ借字にてはあるなり
目さきても目は大きには見えざる事上にいへる如し。大久米命の目をサケル利目といへるが形容にあらざる事も上に云へる如し
さて此は此命の目のいと大にして裂《サケ》たる如くなるを云なり。利目は視ることの明らけき目なり
利目はするどき目なり。又同書(古事記傳)卷四十(二三五四頁)に
さてここ(○穴穗宮の段)の猪甘、右の履中紀・雄略紀などと合せて思ふにめさける(99)者をば皆諸(ノ)飼部とせられたりと見ゆ。但諸飼部皆黥者のみにてはあらざりけむ。さて此黥を面黥とも書きヒタヒキザムともメサクとも云る、面といひ額といひ目といへる皆同じことなり。又メサクといふも實に目を裂にはあらず。目の邊を刻むなり
といへり。目さけるものを皆飼部とせしにはあらず(阿曇(ノ)濱子は黥之とのみありて爲2飼部1とはあらざるにあらずや)飼部を皆目さきしなり。又ヒタヒキザムは支那の刑、目サクは我邦の俗にて元來相異なる事なり。額トイヒ目トイヘル皆同ジコトナリと云へるは強辭なり。又メサクトイフモ實ニ目ヲサクニハ非ズ目ノ邊ヲ刻ムナリといへるは額と目とを近づけむ爲に云へるにて卷二十にいへると矛盾したれどこはおのづから眞實に近し。但し眥ヲ切ルといはで目ノ邊ヲ刻ムといへるはいまだ的に中らず。次に日本書紀通釋の説を評せむに同書卷四十一(二二一五頁)に召2阿曇(ノ)連濱子1……料v墨。即日黥之。因v此時人曰2阿曇目1とあるを釋して
黥の殊、次に飼部之黥皆未v差とあるはたしかに刑ともおもはれず。雄略紀に天皇瞋黥面而爲2鳥養部1とあるは刑なり
(100)といへり。前にも云へる如く目サキには刑なると飼部のしるしにするとあり。而して兎田《ウダ》人を目さきで鳥飼部としたまひしは鳥飼部としたまひしが刑にて目サキは不來の刑にあらざる事も前に云へる如し○又前に云へる如く目サキは眼をおそろしげに見せむ爲なれば無論眥のあがるやうに切らざるべからず。さればここに割下とあるは割上の誤ならむかとも思へど山の形容としては割下の方かなへるに似たれば輕々しく改めず。さて似人眼割下は人ノ眼ヲ割キサゲタルニ似タリとよむべし
○英賀《アガ》里(土中上) 右稱2英賀1者伊和大神之子阿賀比古阿賀比賣二神在2於此處1。故處〔二字□で囲む〕故因2神名1以爲2里名1
敷田氏標注 英賀里、和名抄に安加○伊和大神は宍粟郡條に註○阿賀比古云々三代實録元慶五年五月五日播磨國正六位上英賀彦神・英賀姫神竝授2從五位下1。此二神、式に洩て世に知る人なし。寛延二年刻の輿地圖を見るに餝西郡の川尻に添ひ中濱山崎と云に來りてアガと云地あり。是英賀なるべし。此邊を遍捜なば舊祠も顯れ出べし
(101)栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。餝磨郡英賀(安加)ト。春枝云ハク今餝西郡ニ上下ノ安賀村アリト○此處ノ下モト故處ノ二字アリ。今一本ニ從ヒテ削ル○日本紀仁徳帝四十年ニ播磨(ノ)佐伯(ノ)直阿俄能古アリ。三代實録ニ元慶五年播磨國英賀彦英賀姫神竝叙2從五位下1ト
新考 アガのアに英の字を借れるは志摩國のアゴを英虞と書けると同例なり。下にもアボを英保と書けり。今|英賀保《アガホ》村ありてその大字に英賀《アガ》あり。その英賀に縣社英賀神社ありて英賀彦神・英賀姫神等を祭れり○伊和大神は神名帳當國|宍粟《シサハ》郡の下に伊和(ニ)坐《イマス》大名持御魂神社(名神大)とある是なり○下文の少川《ヲガハ》里の下なる所3以稱2高瀬1者の一節と所3以號2英馬野1者の一節とは此里の下にあるべきが誤りて彼處に出でたるなり○栗田氏の擧げたる播磨佐伯(ノ)直|阿俄能古《アガノコ》は英賀里に因れる名にやおぼつかなし○春枝が今餝西郡ニ上下ノ安賀村アリと云へるは例の詐なり。アガは昔も今も英賀と書きて安賀と書かず。又英賀に上下は無し
○伊和里(土中上)
船丘・波丘・琴丘・匣丘・箕丘・日子遂〔二字左△〕丘・※[草冠/依のなべぶたなし]〔左△〕丘・稻丘・冑丘・麻〔左△〕丘・大丘・雍〔左△〕丘・※[草冠/呂]丘(102)右號2伊和部1者|積△※[山+番]《シサハ》郡伊和(ノ)君等族|到來居《キタリヲリキ》於此1。故號2伊和部1
敷田氏標注 船丘以下十四丘に足らず。沈石丘を加ふべし。又船丘の傳を闕たり○積※[山+番]は餝磨なり
栗田氏標注 倭名鈔ニ云ハク。餝磨郡伊和ト。春枝云ハク。今餝西郡姫路伊和郷ト稱スト○※[草冠/依のなべぶたなし]ハ下文ニ據ルニ藤ニ作ルベシ○日女道ハモト日子道ニ作リ鹿ハ麻ニ作リ甕ハ雍ニ作レリ。竝ニ一本ニ從フ○積※[山+番]ハ讀ミ※[區の中が口]《ガタ》シ。按ズルニ神名式ニ宍粟郡ニ伊和(ニ)坐《イマス》大名持御魂神社アリ。此ニ據レバ伊和君ハ即大名持ノ神裔ノ宍粟郡ニ居リシ者カ
新考 原本に船丘以下十三丘を分註とし土中上の三字を本行に書けり。今體裁を改む。下もかくの如くせむ○伊和はもと伊和部なりしを部を略して二字として伊和と書き、少くとも初にはなほイワベと唱へしならむ。さらずば故號伊和部とは云ふまじきが故なり。河内國の安宿を部を略してもなほアスカベと唱ふるなど地名にも氏にも其例乏しからず○積△※[山+番]郡は宍粟郡の事なれどこのままにてはシサハとは訓みがたし。案ずるに積の一音はシ(資智(ノ)切)なり又※[山+番]の音はハ(補禾(ノ)切)なり。され(103)ばもと積紗※[山+番]などありし中間の字を落したるならむ。さて宍粟郡伊和君が大名持命の神裔なる事は栗田氏の云へる如し○日子遂・麻雍は日女道・鹿・甕の誤なり。【草冠/依のなべぶたなし】は瓜の俗字に似たれどここにては藤の俗字を誤れるなり。日木紀に藤原部(ノ)造などの藤を※[竹冠/修の旁が攵]と書けり(但これも篠の古字にまがへたる誤なり)。※[草冠/呂]は筥の通用なり。古典に竹冠を草冠に書ける例多し○此里の事も更に下に出でたり。例の春枝が今餝西郡姫路稱伊和郷と云へる餝西は餝東の誤なり。又姫路はもとは伊和郷の内なりしかど近古は國衙莊に屬したりき。明治維新まで伊和郷(又岩(ノ)郷と書けり)といひしは姫路の西南方にて飾西郡に屬したりき
所3以號2手苅丘1者近國之神到2於此處1以v手苅v草以爲2食〓1故號2手苅1。一云。韓人等始來之時不v識v用v鎌但以v手苅v稻。故云2手苅|村〔左△〕《ヲカ》1。右十四丘者已詳2於上1
敷田氏標注 手苅丘、神名式に高岳神社あり。印本にタカミクラと訓めれど此手苅丘の略にはあらじか○食薦、四時祭式及萬葉十六にスゴモとよみ和名抄に漢語抄を引て食單をよめり○手苅の下に丘字を脱せり。例によりて補ふ。已詳2於上1の上は(104)下に作るべし
栗田氏標注 所以已下五十九字ハ恐ラクハ錯簡ナラム○鈴木重胤云ハク。姫路ノ近傍ニ手柄山アリ。疑ハクハ手苅丘ナラム○〓ハ盖薦ノ俗體○春枝云ハク。今、田苅村アリト。按ズルニ右十四丘云々ノ九字ハ疑ハクハ錯簡
新考 手苅丘は姫路の西南にある手柄山なり。敷田氏の説は非なり。神名帳の高岳神社は今高岡村の蛤山の東麓にあり○食薦(〓は俗字ならむ)はスゴモと訓むべし。食事の時に用ふる席なれば食薦と書けど名義は簀の席なればスゴモと唱ふるなり。和名抄に漢語抄云、食單、須古毛とありて箋註に
食單ハ大神宮儀式帳ニ見エタリ。又貞觀儀式・掃部寮式・西宮記・萬菓集ノ食薦モ亦即是ナリ。西宮記ニ或ハ簀薦ニ作レリ。萬葉集同訓。按ズルニ類聚雜要ニ云ハク。簀薦ハ竹ヲ編ミテ簾ノ如クシ生平《キビラ》絹ヲ背トセリト。則須古毛ノ名義知ルベキナリ
と云へり(萬葉集新考三三九五頁參照)○手苅村の村は丘の誤ならむ○敷田氏が「已詳於上の上は下に作るべし」と云へるは十餘丘の事が上には見えずして下に見えたる故なれど已詳於下といふ文あらむや。栗田氏が所以已下五十九字恐錯簡とい(105)へるは可なれど未その所屬を示さず。案ずるに右十四丘者已詳2於上1とあれば此五十九字はもと曰2告齊1ノ次にぞありけむ。又里名の下なる丘名は十三丘にてここに右十四丘とあるに合はざれば此手苅丘を落したるならむ○春枝が今有田苅村と云へるは例の如き詐なり
昔|大汝《オホナムチ》命之子|火明《ホアカリノ》命心行甚強。是以父神患v之欲2遁〔右△〕棄1之。乃到2因達《イダテノ》神山1遺2其子汲1v水未v還以前即發v船遁〔右△〕去
敷田氏標注 火明命は書紀に瓊々杵尊の御子にも御兄にも見えたるを大汝命の御子にす此記を除ては見えたるなし○遁をアザムクとよめるは(○敷田氏氏は、欲遁棄之をアザムキステムトオモホシテと訓めるなり。下の遁去はノガレサリマシキとよめり)難字記及淮南子謬稱訓等に見えたる訓に據る○因達神山は式に射立兵主神社あり。即大穴持神を祭れるは此件の古傳に據れるにや
栗田氏標注 按ズルニ大汝命ノ子火明命ハ古書ニ徴スル所無シ○遁ハモト※[ノ/者]ニ作レリ。今訂ス。説ハ上ニ見エタリ○延喜神名式ニ曰。揖保郡中臣印達神社、名神大ト
(106)新考 遁は原本に二つながら※[ノ/者]と書けり。上(八七頁)にも例あり○大汝命は即伊和大神にて大名持命と書けるに同じ○丹後風土記殘缺に
當國者往昔天火明命〔四字傍点〕等降臨之地也
所3以號2志樂《シラク》1者△△少彦名命大穴持命當d巡2覽所v治天下1時u而悉巡2行於此國1畢、更到2坐于|高志《コシ》國1之時召2天火明神〔四字傍点〕1詔。汝命者可v領2知此國1。火明神〔三字傍点〕大歡喜乃曰。永毋〔左△〕也青雲志良久國矣。故云2志樂1也
とあり。此外二石崎・凡海郷・有道郷の下にも火明命の事は見えたり。此書は六人部是香《ムトベヨシカ》はその眞なる事を信じて※[手偏+交]正を加へたれど頗うたがはしきものなり。ただ播磨風土記の外には見えぬ大名持命と火明命との關係の見えたるがめづらしさに引出でたるなり。恐らくは基づく所ありて書けるならむ○心行甚強を敷田氏はココロイトサガナシとよみ栗田氏はミシワザイトサガナシとよめり。ミサガイトアヂキナシとよむべきか、神代紀に素戔嗚尊之|爲行《シワザ》也甚|無状《アヂキナシ》とあるに似たり。但心行は心と行と二つなれば一方に就きてココロともシワザとも訓むべからず。宜しくミサガとよむべし。強はサガナシともよむべし○因達はイダテと訓むべし。伊達政宗(107)の伊達も當時はなほイダテと唱へしにて間接に神名帳の陸奥國|色麻《シカマ》郡伊達神社に據れる氏なり。その伊達神社は恐らくは上古餝磨人が移住して本國の因達神の分靈を祭りしならむ。色麻は四竈とも書けり。共に餝磨の文字を更へたるなり。さて因達は里名にて下に見えたり。伊和里に因達神山あるにあらず。敷田氏が
因達神山は式に射立兵主神社あり。即大穴持神を祭れるは此件の古傳に據れるにや
と云へるは非なり。射楯兵主神社は射楯神と兵主神即大名持命とを合せ祭れるなり。一神にあらず。なほ下に云ふべし
於v是《ココニ》火明命汲v水還來〔右△〕見2船發去1即大〔右△〕※[口+眞]怨。仍起2風波1追2迫《オヒセム》其船1。於v是父神之船不v能2進行1遂被2打破1。所以《コノユヱニ》△《號》2其△《處》1△《曰》2波丘1。琴落處者即號2琴神丘1、箱落處者即號2箱丘1、梳匣《クシゲ》落處者即號2匣《クシゲ》丘1、箕落處者仍號2箕形《ミカタ》丘1、甕《ミカ》落處者仍處者〔三字□で囲む〕仍曰2甕丘1、稻落處者即號2稻牟禮《イナムレ》丘1、冑落處者即號2冑丘1、沈石《イカリ》落處者即號2沈石丘1、綱落處者即號2藤丘1、鹿《カ》落處者即號2鹿丘1、犬處者即號2犬丘1、蠶子《ヒメ》落處者(108)即號2日女道《ヒメヂ》丘1
敷田氏標注 波丘の上下落字あり○十四丘の地名等今存《ノコリ》たるもあらめど委は知がたし。土人に問べし。此中に箕形丘は式に宍粟都御形神社、藤丘は和名抄明石郡郷名に葛江(ハ)布知衣とあり。是か○仍處者の三字衍文なるべし○冑丘、神崎郡多馳里條併見るべし○沈石、色葉字類抄にイカリと註し萬葉に重石を訓り。和名抄に海中以v石駐v舟曰v碇、伊加利○日女道は今の姫路也。蠶を方言にヒメヂと云しにや。安房國にて今もヒメコと云り
栗田氏標注 來ハモト未ニ作リ大ハ火ニ作レリ。今一本ニ從フ○其ノ字ノ上下本書ニ闕ケタリ。今意ヲ以テ號處曰船丘曰ノ六字ヲ補フ○國圖ヲ按ズルニ餝西郡ニ立船野々々等ノ村アリ。又神種村アリ。春枝云ハク。此村ニ琴峰アリト。名跡志ヲ按ズルニ同郡玉手村ニ琴彈橋アリ……○春枝云ハク。餝西郡神種村ニ甕森山アリ。山下ニ稻村アリ。盖稻牟禮丘ナリト。國圖ヲ按ズルニ餝東郡姫路ノ南ニ加女山アリ○仍曰ノ上ニモト仍處者ノ三字アリ。衍レリ。今削ル○春枝云ハク。神種村ニ小山アリ。伊加利塚ト號スト○按ズルニ古、綱ト稱セシ者ハ※[既/木]、藤葛ヲ以テ之ヲ爲《ツク》リキ。顯宗紀(109)ノ室壽ニ築立稚室葛根ノ語アリ。以テ證スベシ○按ズルニ俗語ニ云ハク蠶子ハ王姫ノ化生ナリト。盖由ル所有ルナリ。國圖ニ餝東郡ニ姫路城アリ
新考 原本に來と大とを未と火とに作れり。所以其波丘を敷田氏は所以號〔右△〕波丘の脱字としてソヲ波丘トイヘルユヱナリと訓み、栗田氏は所以號〔右△〕其處曰船丘曰〔五字右△〕波丘の脱字とせり。宜しく所以號〔右△〕其處曰〔二字右△〕波丘の脱字としてコノユヱニと其處ヲイヒテ波丘トイフとよむべし。なほ下に云ふべし○琴神丘は里名の下には琴丘とあり○箱丘は上に筥丘とあり。下文|枚野《ヒラヌ》里の下なると同處なり○箕形丘は上に箕丘とあり○稻牟禮丘は上に稻丘とあり。牟禮は山の韓語なり。神前郡の下にも城牟禮山見えたり○沈石丘は上には見えず○藤丘は上に※[草冠/依のなべぶたなし]丘とあり。栗田氏は藤丘とあるを是として按古稱v綱者概以2藤葛1爲v之といへり。姫路に藤岡長者といふ娼家ありし傳説あるを思へばげに藤丘なるべし○蠶子の一種をいにしへヒメとぞ云ひけむ。今も諸國にて蠶を(又はその斑紋なきを)ヒメコと云ふ。ヒメコのコは蠶《コ》なり。さてヒメヂは本書に據らば蠶子落《ヒメオチ》のオを略したるものとすべし○波丘より日女道丘まで十三丘にて之に手苅丘を加ふれば適に十四丘なり。但里名の下に擧げたるには船(110)丘ありて沈石丘なく文中には、沈石丘ありて船丘なし。栗田氏は所以其波丘とある其の前後に字を補ひて號2其處1曰2船丘1曰2波丘1としたれどさては手苅丘を加へて十五丘となりて右十四丘と云へるに合はず。案ずるに波丘は船丘の一名ならざるか。もし然らば里名の下に擧げたるを訂正して船丘一名波丘とし又沈石丘と手苅丘とを補ふべし○こは姫路附近が海底なりし時代の傳説なり。さればうるはしくは
箱落處者即號2箱島1。今曰2箱丘1是也
とやうに云ふべきなり。因に云ふ。姫路一般の地層は凡二十五尺までが沖積層、それ以下が古生層にてその古生層は姫山男山などには露出せりと云ふ○姫路附近には今も小き岡多し。即姫路の中央に姫山〔二字傍点〕あり。一名鷺(ノ)山。姫路城の一部は其上に築けり。姫山の西に中壕及|船場川《センバ》川を隔てて男山〔二字傍点〕あり。一名長彦山。頂上に男山八幡宮を勸請したれば又男山(雄徳山とも書けり)又八幡山といふ。又妹背山といふは此山の下にて船場川に注げる大野谷川の一名を妹背川と云ふに依れるにてそを妹背川と云ふは姫山と男山との間を流るるが故なり。男山の西南に景福寺山〔四字傍点〕あり。一名嵐山、又増位山、又群鷺山。一名|増位《マスヰ》山(又増井と書けり)といふは増位山隨願寺が別所長治(111)に燒かれし後一時ここに避難せしが爲なり。又孝顯寺山といふは其南麓に孝顯寺ありし爲にて考顯寺の景福寺にかはりし後は山の名も改まりて景福寺山となりしなり。余の藏せる古圖には山の名は増井山、寺の名は久松寺とあり。久松寺は孝顯寺の前名にや。景福寺山の西北(男山の西)に秩父山〔三字傍点〕あり。秩父某の宅址なり。一名を水尾《ミノヲ》山といふ。その西に四峯より成れる岡あり。栗林山〔三字傍点〕といふ。その西端を名護《ナゴ》山といひ東端を青森山又|御前《ゴゼン》山といふ。名護山といふは名護某が居りし爲、御前山といふは城主の夫人の墓あるが故なり。栗林山の南(景福寺山の西)に藥師山〔三字傍点〕あり。山上に藥師堂ありしが故に名づけたるなり(其堂は今は山下に移せり)。藥師山の東に連りて小部山〔三字傍点〕(又大部山)あり。藥師山の西(栗林山の西南)に國道の北側に接して神子《・ミコ》岡山〔四字傍点〕あり。一名をカンナギ山といふ。其南方に一丘あり。是ヤコジ山〔四字傍点〕か。其西方と神子岡山の西北(今宿の東、北今宿の南)とに各一丘あれど共に名を知らず。男山以下は皆姫路の西方に當れり。又姫路の西南に冑山〔二字傍点〕あり。其上に冑山神社あり。其南方に大なる岡あり。手柄山〔三字傍点〕一名三和山といふ。其南端を栗山といひし如し。以上十三丘の外にも神守岡、南畝《ナウネン》の岡など夙く削聘平せられしものあるに似たり。さて風土記に見えたる十四(112)丘と現存の諸丘と關係はいかが、日女道丘が姫山なると冑丘・手苅丘が冑山・手柄山なるとは明なれど其他は明ならず。近年刊行の郷土誌には船丘を長彦山又は景福寺山とし琴丘を藥師山とし箕丘を秩父山とし甕丘を神子岡山又は龜山とせり。その中にて箕丘を秩父山とせるは秩父山の一名水尾山を、ミノ丘のノを延べてミノオと云ひしに水尾の字を充てたるなりとせるなるべし。又甕丘を神子岡山とせるはミカをミコと訛れりとせるにて之を龜山とせるはミカヲカと訓むべき甕丘をカメヲカと誤り訓み終に龜の字を充てたりとせるなり。甕丘を龜山とせるは栗田氏の一案にて地名辭書にも一説として擧げたり。但手柄村の大字龜山には少くとも今は岡を見ず。船丘を長彦山又は景福寺山とし琴丘を葉師山とせるは何に據れるにか。按ずるに下文枚野里の下に
所3以稱2筥丘1者大汝・少日子根命與2日女道丘神1期會之時日女道丘神於2此丘1備2食物及筥器等具1。故號2筥丘1
とあるを思へば筥丘は今の男山なるが如し。男山の一名否本名を長彦山といふは下文に
(113) 貽和里(ノ)船丘(ノ)北邊(ニ)有2馬墓池1。昔大長谷天皇御世尾治(ノ)連等(ノ)上祖長日子〔三字傍点〕有3善婢與2善馬1竝合2之意1。於v是長日子將v死之時謂2其子1曰。吾死以後皆葬准v吾。即爲v之作v墓。第一爲2長日子墓1、第二爲2婢墓1、第三爲2馬墓1。併有v三。後至d生石大夫爲2國司1之時u築2墓邊池1。故因名爲2馬墓池1
とある長日子に依れる名と思はるれば男山こそ船丘ならめとも云ふべけれど、こは船丘の北邊に長日子等の墓を作りきと云へるにて長日子は船丘に住みたりきと云へるにあらねば之によりて男山を船丘とは定むべからず。又藤丘は播磨鑑に
藤岡 姫路に藤岡長者といひし者の屋敷有しと云。今の二階町也
とあるに據りて今の姫路市二階町にありしが削平せられしなりとも云ふべけれどこれはた熟考を要すべし。藤岡長者の名はげに藤丘に依れる名なるべく其家は二階町にありしにもあるべけれど二階町に住みたりしが故に藤岡長者と稱せられきと書けるものは無ければなり○敷田氏が箕形丘を宍粟郡御形に擬し藤丘を明石郡藤江に擬せる、又春枝が琴丘・甕丘・稻牟禮丘・沈石丘を神種村の某々地に擬せるは評するに足らず。神種《カウノクサ》は本郡の内なれど鹿谷《カヤ》村の大字にて地理全く相かなは(114)ず。其上春枝の云へる如き地名は恐らくはあらじ。又栗田氏の擧げたる立船野(タチヤウノ)は鹿谷村の大字山之内の字にて神種より更に奥なり
爾《ソノ》時大汝神謂2妻|弩都比賣《ヌツヒメ》1曰。爲v遁〔右△〕2惡子1返遇2風波1被2太辛苦1哉。所以|△△《其處》曰2瞋鹽1曰2告〔左△〕齊1
敷田氏標注 惡子、鎭火祭詞に惡《サガナキ》子乎生とあり。是は考の訓をとる。後にはアシキコとよめり○瞋鹽仁徳紀に瀰箇始報破利摩波椰摩智《ミカシホハリマハヤマチ》云々。ミカもイカも相通ひ同義なり○告濟は辛苦によりて負せたる名なめれば苦濟の誤なるべし
栗田氏標注 所以ノ下脱字アリ。今、號其處ノ三字ヲ補フ○仁徳十六年紀ニ播磨國造祖速待歌云。瀰箇始報破利摩波椰摩智ト。猶怒濤ト云フゴトシ○齊ハ恐ラクハ濟
新考 惡子は二註に從ひてサガナキ子とよむべく被太辛苦哉はイタククルシメラエツルカモとよむべし(二註には辛苦をタシナメと訓めり)○號の下に其處の二字を補ふべし○瞋潮は敷田氏の如くイカシホと訓むべし。イカシホは嚴潮なり。仁徳天皇紀なる播磨國造の祖|速待《ハヤマチ》の歌にミカシホ、ハリマハヤマチと云へるはイカ(115)シホにミを添へてミカシホと云へるにて地名のイカシホを播磨の准枕辭として用ひたるなり。敷田氏が「ミカもイカも相通ひ同義なり」と云へるは曖昧なり。出雲國造神壽後釋なる倭大物主|櫛※[瓦+長]玉《クシミカタマノ》命の註に
※[瓦+長]は伊加と同じくて嚴《イカ》く健《タケ》きよし也。凡て神名人名に美加とひふ、みな同じ
といへり。これもイカにミを添へミイを約してミカと云へるなり○告齊を栗田氏は告濟の誤としてツゲノワタリとよみたれど告にては神の御辭と相與る所なし。宜しく告を苦の誤としてクルシミノワタリとよむべし○齊を敷田氏は濟に改め栗田氏は恐ラクハ濟と云ひたれど懷風藻に正六位上但馬守百齊〔右△〕(ノ)公和麻呂《キミニギマロ》とあり百濟寺印にも濟を齊に作りたれば誤字にはあらで通用なり(槻齋雜攷卷一の三六丁參照)。苦濟は其處を知らず。瞋鹽は或は置鹽川の河口にや。置鹽川(オシホと唱へ文字は小鹽とも書けり)は今は手野附近にて菅生川と相合ひたれどそは榊原氏の姫路城主たりし時代に人工にて河流を變ぜしにて以前は直に海に注ぎきといふ説あり。慶長圖に今の如く菅生川と相合ひたれば榊原氏の時代に河流を附替へしなりといへるは非なれど古くは恐らくは直に海に注ぎけむ。さて置鹽はイカシホを(116)オキシホと訛りし後瞋鹽を誤として置鹽と書き更にキを略してオシホと唱へし後小鹽とも書きしにか
○賀野《カヤ》里(土上中上)
幣〔右△〕丘
右稱2加野《カヤ》1者品太天皇巡行之時此處造v殿仍張2蚊屋1。故號2加野1。山川之名亦與v里同
所3以稱2幣〔右△〕丘1者品太天皇到2於此處1奉2幣〔右△〕(ヲ)地祇1。故號2幣〔右△〕丘1
敷田氏標注 賀野、和名抄に洩たり○蚊屋は大神宮式・内宮儀式帳等に記せる外は古く書に見えざりしを既《ハヤク》應神の御世に此物のありしを以其久しきを見るべし
栗田氏標注 春枝曰ハク。飾東郡廣峰神社ノ山下ニ加野村アリ。今廣峰ヲ稱シテ奉幣山ト云フト。按ズルニ國圖ニ飾西郡ノ北ニ置鹽山鹽田村アリ。名跡志ニ云ハク。鹽田村ハ賀屋郷ニ屬スト○蚊屋ハ按ズルニ太神宮儀式ニ曰。大神正殿装束六物云々内蚊屋生※[糸+施の旁]御帳二條ト○幣ハモト弊ニ作レリ。今一本ニ從ヒテ訂ス○按ズルニ國(117)圖及名跡志ニ曰。神木村ノ南ニ里村アリ。村ハ幣庄ニ屬スト
新考 飾磨郡の北部に鹿谷《カヤ》村あり。俗に鹿谷《カヤ》谷といふ。山川之名と云へる川は即置鹽川にて此村より發せり○春枝が廣峰神社山下有2加野村1といへるは例の詐なり。廣嶺は城北村(今は姫路市内に入れり)にあり。城北村の北に置鹽村あり置鹽村の北に鹿谷村あるにて此村は南北五里に亙れる大村なるがその南端だに廣嶺よりは二里餘も隔れり。又今稱2廣峰1云2奉幣山1といへるは廣嶺山三峯中の西峯なる白幣山の事を聞誤れるならむ。さてここの幣丘は白幣山としては地理かなはず。又栗田博士の云へる幣庄は今の印南郡平莊村にて幣丘とは風馬牛なり。又神木村南有2里村1といへるも誤なり。平莊村の大字里は東|神吉《カンキ》村の大字神吉の正東に當れり○應神天皇紀四十一年に見えたる蚊屋(ノ)衣縫の蚊屋は或は地名にはあらで文字の如く蚊屋にはあらざるか。但地名のカヤを蚊屋と書ける例は雄略天皇紀に紋屋野、舒明天皇紀に吉備國(ノ)蚊屋(ノ)采女などあり○原本に幣を皆弊に誤れり。幣丘を二註にミテグラヲカ(ミテグラノヲカ)とよめり。或はヌサヲカと訓むべきか
韓室《カラムロ》里(土中々) 右稱2韓室1者韓室(ノ)首《オビト》寶等(ノ)上祖家大富饒造2韓室1。故號2韓(118)室1
敷田氏標注 韓室里、倭名抄に辛室に作り加良牟呂と註せり
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。餝磨郡辛室(加良牟呂)ト。高山寺本倭名抄ニ曰。辛室今改2安室1ト。按ズルニ安室郷ハ又峯相記・書寫山行幸記ニ見エタリ
新考 寶等は敷田氏の如くタカララと訓むべし。栗田氏は二字を人名としてホトとよめり○韓室は韓式の塗籠《ヌリゴメ》なり。韓室(ノ)首の氏は更に里の名より出でたるなり。類聚賦宣抄第六なる天長九年の宣に少外記韓室諸成奉とあり。出自《スヰジ》は不明なり○今姫路市の西北に接して安村村あり。こは明治二十二年に御立・田寺・辻井・新在家の四村を合併して新に安室村と名づけしなるが、かく名づけしは右の四村が皆安室郷に屬したりし故なり。但本書の韓室里は近古の安室郷と必しも一致せざらむ。地名辭書には「辛室郷は今の曾左村にあたるごとし」といひ又「安室は辛室郷を改めて安室と爲すとも曰へば本來曾左の郷名なりしを後に至り轉じたる如し」と云へり。今の曾左村は安室の西北に隣れり
○巨〔右△〕智里(土上下)
(119) 草上《クサノカミノ》村・大立《オホタチノ》丘
右△2△△1△《稱巨智者》巨智等始△《作》v屋居2此村1。故因爲v名
敷田氏標注 巨智里、原本臣智に作れり。和名抄に巨智(ハ)古知とあるによりて改つ
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。飾磨郡巨智(古知)ト。春枝云ハク。今古地村アリト。國圖ヲ按ズルニ飾西郡ニ古地庄村アリ。姓氏録ニ曰。己智(ハ)秦太子胡亥之後也ト。巨モト臣ニ作レリ。今一本ニ從フ○右ノ字ノ下ニ脱文アリ。今、稱巨智者ノ四字ヲ填ム○始ノ下ニ祖ノ字脱セリ。而シテ次行ナル上祖ノ下ノ祚ノ字ハ衍《アマ》レリ。祚ハ恐ラクハ祚ノ訛ニテ、モト此行ニ在リシガ彼ニ※[手偏+讒の旁]入セルナラム。故ニ今彼ヲ削リ此ヲ補フ。屋ハ恐ラクハ衍ナラム
新考 栗田氏に從ひて右の下に稱巨智者の四字を補ふべし○始屋を栗田氏は始祖の誤としたれど恐らくは始作屋の誤としてハジメテ屋ヲ作リテと訓むべきならむ○巨智《コチ》(原本に巨を臣に誤れり)は姓氏録に 己智《コチハ》秦太子胡亥之後也
とあり又欽明天皇紀元年二月に
(120) 百濟人|己知部《コチベ》投化。置2倭國|添上《ソフノカミ》郡、山村1。今(ノ)山村(ノ)己知部《コチベ》之先也
とある己智・己知に同じ○今|置鹽《オシホ》村の北部に古知之庄といふ大字あるは里名の殘れるなり
所3以云2草上《クサノカミ》1者韓人山村等(ノ)上祖|柞《ナラノ》巨〔右△〕智賀那請2此地1而墾v田之時有2一聚〔左△〕草1其根|尤《イト》※[自/死]《クサカリキ》。故號2草上1
敷田氏標注 柞臣、按に柞字をばハハソとよめるが常なるに下條に所3以號2楢原1者柞生2此村1。故曰2柞原1とあるに據ればナラとよむべくおぼゆ。又和名抄備後國御調郡郷名柞原を美波良と註せればミノ臣《オミ》と訓まむか。新撰字鏡に柞を志比と註せり。姓氏録に志悲連あれどとにもかくにも定めがたし。猶よく考ふべし○草上は郷名にて和名抄に久佐乃加三と註し續紀卅二に餝磨郡草上驛戸便田今依2官符1捨2四天王寺1
栗田氏標注 草上ハ倭名鈔ニ曰。餝磨郡草上(久佐之加三)○山村ノ下ニ疑ハクハ忌寸ノ二字ヲ脱セルナラム。姓氏録ニ曰。山村忌寸(ハ)己智同祖、古禮公之後也○延喜兵部(121)式ニ曰。播磨國驛馬草上四〔左△〕十疋ト。峯相記ニ曰、安室郷高岳(ノ)西(ノ)原(ノ)草上寺、又昌樂寺ハ巨智大夫延昌ガ寺ナリト。按ズルニ國圖ニ神東郡ニ艸加邑アリ
新考 兵部省式に播磨國驛馬明石卅疋・賀古四十疋とある次に草上卅疋とあり。又續紀光仁天皇紀寶亀四年二月に
先v是播磨國言。餝磨郡草上驛〔三字傍点〕驛戸便田今依2官符1捨《シヤシ》2四天王寺(ニ)1以2比郡(ノ)田1遙授2驛戸1。由v是不v能2耕佃1。受v弊彌甚。至v是勅|班《カヘシ》2給驛戸(ニ)1
とあり。播磨鑑飾西郡之部に
草上寺 安室郷山吹野に有2寺跡1。草上(ノ)地、今は今宿村と云
と云へり。今宿は今の高岡村の大字なり。又山吹は今宿の字にて蛤山の東麓にあり。又姫路名勝誌に
袖振山(○蛤山)の東麓にあるは今は山吹村と稱すれども上世は名高き草上驛のありし地にて……村の北に近き頃まで古き杉林ありて草上寺の趾といふが殘れりし由なるが云々
といひ飾磨郡誌に
(122) 和名鈔草上驛の地は今山吹と稱せり。……此頃は非常に榮えしやうにて草上寺・草上明神等の記事諸書に散見す。里俗今の今宿は此草上宿の袁へし後に發達せし部落なりといへり
といへり。然るに姫賂市史には
草上驛の趾を後世長者屋敷と云ふ。平野村の南面にあり
といひて、もとの城北村(今は姫路市の内)なる平野とせり。平野は山吹の東北に當りて其距離三十町もあるべし。市史の説は何に據れるにか。或は延喜式の草上を山吹としては次驛|大市《オホチ》との距離近きに過ぐと云へる説に導かれたるにあらざるか。地名辭書には光仁天皇紀の草上驛の草を通本に革と書けるに據りてカハノカミとよみて
革上 古驛名なり。今詳ならず。……和名抄草上郷の地かとも思はる。然れども草上は國府の西に密接し驛家を置くべき地に非ず。革上は盖カハノカミと訓み市川以東の地とす。一説小川里なるべしと曰へり
といひ又
(123) 草上は又延喜式に見え驛名とす。賀古と大市との間にして驛馬四〔左△〕十匹とあり。然れども續紀に革上とあり(○草上と書ける本もあり)且地里を按ずるに國府の市川の東に一驛を要す。賀古より此に至る四里とす。而て國府の西、大市まで二里。此間は置亭の要なし。或は今宿の名に據りて高岡村を驛址と云ふは附會採るべからず
と云へり。革上はなほ草上の誤とし草上驛の址は今の高岡村今宿のうち山吹の地とすべく草上驛と大市驛との距離が何故に短きに過ぐるかは別に考ふべし○栗田氏の標註には韓人山村等上祖柞臣智賀那とある柞を誤りて祚と見て(又は祚と誤寫せる本に據りて)その祚を衍字とし同じ人の作なる姓氏録考證には柞のままにてナラとよめり。又敷田氏は柞臣智賀那の臣をもとのままにてオミとよめり。宜しく臣を巨の誤として(栗田氏は巨と改めたる本に據れり)ナラノコチ、カナとよむべし。柞をナラともよむべき證は敷田氏の夙く云へる如く本書賀毛郡の下に
楢原里 所3以號2楢原1者柞生2此村1。故曰2柞原1
とあり。さてナラノコチカナはナラノコチを氏とし賀那を名とすべし。ナラノコチ(124)は奈良之巨智なり。姓氏録に山村(ノ)忘寸《イミキ》巨曾同祖とあり又、欽明天皇紀に
百濟人己知部投化。置2倭國|添上《ソフノカミ》郡山村1。今山村(ノ)己知部之先也
とあり。山村は奈良市の南に續ける帶解《オビトケ》村なり。思ふに巨智部蕃殖して奈良にも住みたりしかば別ちて山村の巨智・奈良の巨智とぞ云ひけむ。さて其子孫は後に共に山村忌寸の氏カバネを賜はりしかば山村等上祖|柞《ナラノ》巨智(ノ)賀那と云へるならむ。又巨智は秦の二世帝胡亥の裔なるを韓人山村と云へるは其先、直に支那より來らでまづ朝鮮に移り次に我邦に移りし故ならむ。さる例少からず○栗田氏は山村の下に忌寸を補へり。無くて可なり○聚は※[草冠/聚]の草冠を落せるならむ。※[草冠/聚]は叢の俗字なり(萬葉集新考三五五一頁參照)○※[自/死]は臭に同じ○栗田氏が神東郡有艸加村といへるは何の誤にか
所2以稱2大立丘1者品太〔右△〕天皇立2於此丘1見〔二字右△〕2之地形1。故號2大立丘11
新考 原本に太を大に作り又丘見を一字とせり。栗田氏が丘見舊作竟と云へるは誤寫本に據れるなり○見之の之は助字なり○今高岡村の東北に接して安室村あり。その安室村の大字に御立あり。御立の南に前山といふ小丘ありて展望に適せり。(125)大立丘は即是ならむ。但オホタチが轉じてミタチとならむはうたがはし。文字には大立と書けどオホミタチと唱へしを後にそのオホを略してミタチと唱へしにあらざるか○損保郡|枚方《ヒラカタ》里の下に
御立草 品太天皇登2於此阜2覽v國。故曰2御立岡1
とあると相似たり
○安相《アサノ》里(土中々)
長畝《ナガウネ》川
右折3以△《稱》2安相里1者品太天皇從2但馬1巡△《行》之時△△△2△△△《御蔭墮於山前》1縁道不b※[木+徴]〔左△〕2御※[(尸/肖)+立刀)]〔左△〕1。故號2陰山|前《サキ》1。仍國造|豐忍別《トヨオシワケノ》命被v〓〔左△〕《ツミ》△《除》v名。爾《ソノ》時但馬國造|阿朝〔左△〕尼《アコネノ》命申給〔左△〕。依v此赦v罪。即奉2鹽代《ミシホシロノ》鹽田|廿〔左△〕千代《イチシロ》1。有〔左△〕《カレ》名2鹽代田1。飼〔左△〕《ノチニ》但馬國朝來人到2來居於此處1。故號2安相里1(本名△沙△部《アサゲベ》云。後里名(ヲ)依2改v字二字(ニ)注1爲2安相里1)
敷田氏標注 安相里、和名抄に洩たり。萬葉集十一に往而見而來戀敷朝香方山越置代宿不勝鴨《ユキテミテクレバコヒシキアサカガタヤマゴシニオキテイネガテヌカモ》とあるは元|安相《アサガ》にてアサカと清音によむは非也。猶古歌多かれど清濁(126)を誤れり○冠を原本〓に誤れれば改つ。神崎群蔭山里(ノ)條に御蔭墮2於此山1とあるも御冠なり。祝詞式に天乃美賀秘冠利とある秘は既《ケ》の誤にてミカゲとよむべし。古事記に伊邪那岐命投2棄|御冠《ミカゲ》1とある御冠にあやしき説を立つるの非なるを了解すべし○但馬國造、國造本紀に但遲麻《ダヂマノ》國造(ハ)志賀(ノ)高穴穗(ノ)朝(ノ)御世竹野君同祖彦坐王五世孫船穗足定2賜國造1○鹽代田、仲哀紀に獻2魚《ナ》鹽(ノ)地1とあるにおなじ○廿千代の代は借字にて頃《シロ》なり。仁徳紀に四萬餘頃、天武紀に五十餘萬頃などあり。拾芥抄に七十二歩爲2十代1五十代爲2一段1、爲尹千首に十代ニモタラヌ庭田ノ早苗カナ云々、此外五百代田など思ふべし○朝來、和名抄に但馬國郡名朝來(ハ)安佐古○改字二字云々、民部式に諸國部内都里等名竝用2二字1必|取《トレ》2嘉名1とあり。即和銅六年の格也
栗田氏標注 延喜神名式ニ揖保郡阿宗神社ト。今餝西揖保ノ界ナル正條川ノ上ノ阿宗村ニアリ。盖古ノ安相里此ナリ○巡ノ字ノ下ニ行ノ字ヲ脱セリ。例ニ據リテ之ヲ補フ。按ズルニ縁道ヨリ〓名ニ至ルマデ疑ハクハ脱誤アラム。又按ズルニ〓ハ恐ラクハ徴、〓ハ恐ラクハ※[まだれ/斯]ノ訛ナラム○胡ハモト朝ニ作レリ。今下文ニ據リテ訂ス○給ハ恐ラクハ衍ナラム○鹽代已下ノ十二字錯誤シテ讀ミ※[區の品が口]《ガタ》シ。按ズルニ鹽代鹽(127)田ノ四字ハ衍《アマ》レリ。宜シク削ルベシ。廿千代ハ當ニ有名鹽代田ノ下ニ在ルベシ。然レドモ今輙改メズシテ攷ニ備フ。國圖ヲ按ズルニ餝西郡ニ鹽田村・置鹽山アリ○倭名鈔ニ曰・但馬國朝來郡朝來(安佐古)○按ズルニ沙部ハ讀ミテ阿佐胡倍ト云ヒシカ。又按ズルニ沙部云ハ恐ラクハ阿沙古ノ倒※[言+爲]ナラム。安相ハ即朝來ヲ修セルナリ。相ノ音ハ佐胡ナリ。相模・相樂ノ相ノ字ノ如シ。加行一聲ノ轉ナリ。又按ズルニ沙部ハ當ニ阿沙古部ニ作ルベシ。又按ズルニ部ハ恐ラクハ阿、云ハ恐ラクハ古ノ訛ニテ沙阿倒置セルカ
新考 今の四郷村より絲引村に跨りて麻生山といふ山あり。俗に播磨富士又小富士山といふ。有名なる仁壽山の東につづける山なり。安相里は此附近、恐らくは麻生山の東北ならむ。栗田氏が揖東郡の阿宗を之に擬したるは地理かなはず○安相は但馬國朝來の名のうつれるなれば
但馬の朝來も下文なる神前郡埴岡里の下には阿相と書けり。又ここの安相も所謂荒陵寺御手印縁起には播磨國餝磨郡朝來郷とあり
アサクとよむべし。否相の字を充てたるを思へばアサグとクを濁りて唱ふべし(和(128)名抄に但馬國の朝來を安佐古と訓じたるははやく訛れるなり)。さるを後に字に從ひてアサウと唱へ終に字を更へて麻生と書しこととなりしなり。さて相《サウ》をサグに借れるは香《カウ》・望《マウ》をカグ・マグ(香山・望陀)に借れる如し。栗田氏が
安相即修2朝來1也。相音佐胡、如2相模・相樂之相字1
といへるは和名抄の訓が轉訛なるに心づかざるなり」(活字本の傍訓のアサフは寫本に據ればアサコの誤なり)。又敷田氏がアサガとよみて
萬葉十一に朝香方とあるは此安相にて清音によむは非也
といへるは相模・相樂の例をのみ思ひて朝來の名のうつれるなるを忘れたるなり。萬葉集卷十一なる朝香方は務論此地にあらず。但氏が「清音によむは非也」といへるはよろし○原本に所以の下に稱を脱せり。又巡の下に行を補ふべき事栗田氏の云へる如し。時の下にも脱字あらむ。なほ後に云ふべし○縁道を栗田氏はミチスガラとよみ敷田氏はミチヲメグリテとよめり。縁道は治道に同じ。南北史に多く見えたり。後漢書以下に縁路・縁海・縁界・縁邊・縁堤・縁山・縁江など見えたる縁は皆沿と心得べし。さてここは栗田氏の如くミチスガラどよむべし○縁道の次の四字を敷田氏は(129)不撒御冠の誤としてミカゲヲヌギタマハズとよみ栗田氏は不徴御厮の誤としてミツカヒビトヲメサズとよみ、さて敷田氏は御冠をミカゲとよみし理由として
祝詞式に天乃美賀秘冠利とある秘は既《ケ》の誤にて御冠《ミカゲ》なり
といひ栗田氏も亦神前郡蔭山里の註に古言ニ冠ヲ御蔭トセリといへり。案ずるにミカゲは日カゲノ蔓を云ふが原《モト》にてなべての縵《カヅラ》をもミカゲといひしなり。持統天皇元年三月甲申に
以2華縵1進2于殯宮1。此曰2御蔭〔二字傍点〕1
とあるを思ふべし。冠をカゲといひし事は無し。さてここは縵を冠にまとひ給ひしなり。巡行之時の下の文は
御蔭堕2於山前〔六字右△〕1縁道不v嚴〔右△〕2御冠〔右△〕1故號2蔭山前1
の誤脱にて神前郡蔭山里の下に
所3以云2蔭山1者品太天皇御蔭墮2於此山1。故曰2蔭山1。又號2蔭岡1
とあると同事ならむ。されば蔭山前《カゲヤマサキ》は安相里の地名にはあらぬを嚮導の國造が代の御蔭を奉らず之によりて罪を獲、その罪を贖ふとて此里の鹽田を奉りし事を言(130)ふとてその因に陰山前の名を擧げたるなり。右の如くなれば故號蔭山前の五字は註文と見べし。不嚴はヨソハズとよむべし。靈異記卷上第卅に路中有2大河1椅《ハシワタシ》之以v金塗嚴また卷中第十七に嚴《ヨソヒ》v輿安v像以奉v請v寺とあり。後漢書楊由傳にも
勅《イマシメテ》御者1曰。酒若三行|便《スナハチ》宜v嚴《ヨソフ》v駕。既而|趣《スミヤカニ》去
とあり○〓を敷田氏は蒙の誤とし栗田氏は罪の誤とせり。さて前者は名の上に罪の字を補ひて被v蒙2罪名1とよみ後者は被2罪名1とよめり。宜しく被罪除名の誤脱として罪ヲ被リテ名ヲ除カルとよむべし。除名はたとへば文選卷八閑居賦に除v名爲v民また再免一除名とあり國典にてはたとへば續日本紀神護景雲三年九月の下に
於v是道鏡大怒解2清麻呂本官1出爲2因幡員外介1。未v之2任所1尋有v詔除名〔二字傍点〕配2於大隅1
とありて朝籍を除くを云ふ○阿朝尼命の朝は下文に依りて胡に改むべし○申給は申宥又は申救の誤か。後のものながら往々古語を傳へたる吾妻鏡に文治元年七月の下に
爰貞能申2宥〔二字傍点〕朝綱并重能有重等1之間各全v身參2御方1
また建永元年七月の下に
(131) 不參之輩所領等雖被v召2放之1面々依v申2救〔二字傍点〕子細1五條藏人長雅已下所領被2返付1云々
とあり。古寫本にも往々類音の字を誤書けり。たとへば陰を隱と書けるは例多ければ特に擧げず(本書賀毛郡玉野村の下にも例あり)。萬葉集卷十七なる晩春三日遊覽一首の序に含黛を含苔と誤れり(新考三五六〇頁參照)。さればここの申給も或は申救の誤にあらざるか。但救の音はキウ、給の音はキフにて同音にあらず。右に云へる事はいづれにもあれ敷田氏の如くここを句とすべし○栗田氏は鹽代鹽田の四字を衍とせり。又敷田氏は下の鹽のみを衍とせり。もとのままにて可なり。さて鹽代鹽田は御鹽の料の鹽田といふ義なればミシホシロミシノホタとまむべし○廿千代は五千代の誤ならむ。さらばイチシロとよむべし。代は田の廣さなり。五十代が一段に當れりといふ。されば五千代は十町なり○有名鹽代田の有は故などの誤ならむ。又飼は後の誤ならむ。敷田氏は直に後と改めたり○沙部は阿沙具部の阿と具とを脱せるならむ。地名を二字に書く事を仙覺の萬葉抄には和銅六年の制としたれど恐らくは然らではやく然定められしならむ。くはしくは緒言に云へり
所3以號2長畝《ナガウネ》川1者昔此川生v蒔〔左△〕《コモ》。于v時賀毛郡長畝村※[村を□で囲む]人|到來《キタリテ》苅v蒔〔左△〕。爾《ソノ》時此處(ノ)(132)石作連《イシツリノムラジ》等爲v奪相闘。仍※[殺の異体字]2其人1。即投棄於此川1。故號2長畝川1
敷由氏標注 生蒔の上に血落字あり
栗田氏標注 春枝云ハク。今加茂郡ニ長畝村長畝川アリ。即赤石川ノ源流タリ○蒔ハ恐ラクハ※[草冠/封]ノ訛ナラム。按ズルニ字鏡ニ曰。※[草冠/封](ハ)菁也、菰根、阿乎奈○投ハモト捉ニ作レリ。今訂ス
新考 敷田氏が生蒔・苅蒔をオホシマク・カリマクとよめるは固より非なり。蒔は草名ならざるべからず。但栗田氏が※[草冠/封]の誤としてアヲナとよめるも非なり。アヲナは自生するものにあらず。姓氏録に應神天皇が青菜の葉が此國の神埼川を流るるを見そなはして川上に住める人あるをしろしめしし事を云へるを思ふべし。又アヲナは川に生ふるものにあらず。宜しく※[草冠/封]の誤とし、さてこコモとむべし。晋書毛※[王+據の旁]傳に
海陵縣界地名2青蒲1。四面湖澤、皆是菰※[草冠/封]〔二字傍点〕、逃亡所v聚、威令不v能v及。※[王+據の旁]建v議率2千人1討v之。時大旱。※[王+據の旁]因放v火。菰※[草冠/封]盡|然《モユ》。亡※[穴/君]迫、悉出詣v※[王+據の旁]自首
とあり韓愈の詩に刺v船犯2枯※[草冠/封]1とあり陳履道の詩に湖田廢後已生v※[草冠/封]とあり陸游の(133)詩に水落澤生v※[草冠/封]とありてその※[草冠/封]は廣韻に菰根也とあり○爲奪の下に之の字を脱したるか。※[殺の異体字]は殺の俗字なり○敷田氏は棄の上を捉としてナゲとと訓じ栗田氏も捉と見、投の誤として投舊作捉と註したれど原本を見るに投とあり。書樣のあやしき爲に捉の如く見ゆるのみ○石作(ノ)連ははやく印南郡大國里の下(六五頁)に見えたり
○長畝川を地名辭書に「麻生山の東北より八木濱へ流るる苧川の古名にや」といへり。苧川は八家《ヤカ》川の上流なり。案ずるに賀茂郡長畝村の人の來りて此川の菰《コモ》を刈りしは流に沿ひて下り來りし如く見ゆれば長畝川は恐らくは今の加西郡賀茂村の古法華谷より發し今の飾磨郡谷内・谷外《タニト》・御國野三村を貫き印南郡に入りて今の曾根町と大鹽村との間にて海に入る天《アマノ》川の事ならむ。更に案ずるに苧川は今は四郷村大字山脇の西にて市川より分れたれどいにしへは天川の支流なりしにて苧川の名は元來天川の古名なりしなり。其證は谷外村大字鹽崎なる郷社春日野神社の社傳(天和二年〔二字不明〕井上則春撰)に前有2苧川之清流1とあり。春日野の前を流るるは適に天川なり。又更に案ずるに苧川は麻生山に因める名と思はるれば苧川の名は麻生山の東麓を流るる川より其上流に及びしなるべく、又いにしへは此方本流なり(134)しなるべく天川は元來御著・佐土の西南を流るる支流の名なりしが苧川と上流との關係の絶えし後に天川の名が上流にも及びしならむ。因に云ふ。播磨鑑・名所拾録・播磨古跡便覽などに苧川を市川の事とせるは市川の古名小川と混同したるなり。さて長畝川を今の天川并に其分流なりし今の苧川とせば長畝村は今の加西郡賀茂村又は本郡谷内村の内とすべし。今姫路市の西南部に南畝と書きてノオネンと唱ふる町あり。古くは長畝と書きしを中ごろは農年と書きき(農人町とは別なり)。此町と長畝川・長畝村とは地理的關係は無けれど歴史的關係はあるべし。春枝が今加茂郡有2長畝村長畝川1といへるは口に任せたる詐なり。春枝の時代にも賀茂郡は加東加西二郡に分れたりき。さて加東郡にも加西郡にも長畝といふ村と川とは無かりき。又加西郡は明石郡との間に印南加古二郡を隔て加東郡は明石郡との間に美嚢郡を隔てたり。又其間には加古川といふ大河あり。即爲2赤石川之源流1といへるは富士川は美濃國より發すと云はむに齊しき妄言なり。此人は山陽道を通過せし事はあるべけれど播磨を遊歴せし事はあらざりけむ
本又〔左△〕阿胡尼命娶2英保村女1卒2於此村1。遂造v墓葬。以後《ソノノチ》正骨(ハ)運持|去之云|來〔左△〕《イニキトゾ》
(135)敷田氏標注 阿胡尼命、筑後國國内神名帳に安子音命
栗田氏標注 本又已下恐ラクハ脱誤アラム○倭名鈔ニ曰飾磨郡英保(安妣)
新考 本又を敷田氏はモトハマタとよめり。宜しく本文の誤とすべし。英保村は即下に見えたる英保里なり。安相里に英保村あるにあらず。此一節は賀古郡の下(四二頁)なる
以後別孃(ノ)掃床(ニ)仕奉出雲臣比須良比賣(ヲ)給2於息長命1の如く註文と認むべし。阿胡尼命の事を云ひし便に他里に關れる事を云へるなり○敷田氏は卒2於此村1の卒を率に誤りてヰテとよめり○以後云々は其後墓ハソノママニテ骨實《ホネザネ》ハ但馬國ニ持歸リキトゾと云へるなり。正骨を敷田氏はホネとよみ栗田氏はソノホネとよめり。もし訓讀せむと思はばホネザネとよむべし○運持云云を敷田氏はハコビモチイニシ〔右△〕トイヒケリとよみ栗田氏はハコビモチイニシ〔右△〕トイヒツタヘリとよめり(シは語格上キといふべし。栗田氏のツタヘリはツタヘタリの誤植ならむ)。來を尓の誤としてハコビモチイニキトゾとよむべし○飾磨郡誌に引ける播磨遍歴史に阿胡尼命の墓は、東阿保の山麓なるゴダン塚(ゴダイ塚とも聞(136)ゆ)かと云へり
○枚野《ヒラヌ》里
新羅訓村・※[草冠/呂]岡
右稱2枚野1者昔爲2少野《ヲヌ》1。故號2枚野1
敷田氏標注 枚野、和名抄に平野に作り比良乃と註せり○少野は小野にあらたむべし
栗田氏標注 春枝云ハク飾西郡ニ枚野ケ原アリト。按ズルニ國圖・御圖帳ニ竝ニ平野村アリ。飾東都ニ屬セリ
新考 枚野里の下に土性の記述なきは落ちたるならむ○もとの城北村(大正十四年四月姫路市に編入せられき)の大字に平野あり。此里は城北村より其東なる水上《ミナカミ》村に亙りしなり。春枝の説は例の如く詐なり。飾西都に枚野ケ原といふ處なし○少は小の通用なり。但少野は或は平野の誤ならむか
所3以號2新良訓《シラクニ》1者吉新羅國人來朝之時宿2於此村1。故號2新羅訓1(山各亦同〔右△〕)
(137)敷田氏標注 新良訓、式に同郡白國神社。今白國村あり。因云、訓をクニとよめる例は和名抄山城國郡名乙訓〈於止久邇とあり。是なり
栗田氏標注 神名式ニ飾磨郡白國神社。按ズルニ國圖ニ餝東郡白國村ニ白國明神社アリ
新考 水上《ミナカミ》村の大字に白國あり。白國と奥白國との二部落に分れ甲は増位《マスヰ》山下に、乙は増位廣嶺兩山の間の谷に在り○山名亦同(原本に同を固に誤れり)は山ノ名モ新蘿訓ト云フと云へるなり。シラクニ山は即|増位《マスヰ》山の古名なり○新羅國人は使節の一行にあらで歸化人の團體ならむ。又宿とあるはただ一夜宿りしにはあらでしばらく留りしならむ○三代實録陽成天皇紀に
元慶二年六月授2播磨磨國從五位上白國神(ニ)正五位下1
とあるは式内白國神社にて廣嶺山の東麓にあり
所3以稱2※[草冠/呂]丘1者|大汝《オホナムチ》・少日子根《スクナヒコネノ》命與2日女道《ヒメヂノ》丘(ノ)神1期會之《チギリテアヒシ》時日女道|△《丘》神於2△《此》丘1備2食物《ヲシモノ》及※[草冠/呂]器等(ノ)具1。故號2※[草冠/呂]丘1
(138)敷田氏標注 少日子根命、神前郡※[即/土]岡里(ノ)條にも少比古尼と有。記には少名毘古とのみあれど舊事紀にも少彦根命と記し文徳實録八及古語拾遺等に少比古奈とあるは此根の轉じたるなり
栗田氏標注 按ズルニ少日子根、少比古奈ト同ジ。少日子根命ハ舊事紀ニ見エタリ。又東大寺神名帳ニ大汝少汝ノ稱アリ
新考 ※[草冠/呂]は筥の通用なる事上(一〇三頁)に云へる如し。此筥丘はやがて伊和里の下に見えたる筥丘にて、今の男山ならむ○少日子根は神前郡埴岡里の下に小比古尼《スクナヒコネ》とある外に揖保郡林田里の下にも少日子根とあり。又一の命の字にて二神を兼ねたるは伊佐奈伎・伊佐奈美命などと同例なり○日女道丘神は國つ神ならむ。他より來りし強神と當處の神と會見せしなり。期會之時はチギリテアヒシ時とよむべし。豫約して相會ひしなり○下の日女道の下に丘を補ひ於丘の間に此を補ふべし。敷田氏は於を猶に誤り故號※[草冠/呂]丘の丘を脱せり
○大野里(土中々)
※[石+弖]堀《トホリ》
(139)右秤〔右△〕2大野1者|本《モト》爲2荒野1。故號2大野1。△△《志貴》島(ノ)宮(ニ)御宇《シラシシ》天△《皇》之御世村上(ノ)足島《タリシマ》等(ノ)上祖|惠多《ヱタ》志貴〔二字□で囲む〕請2此野1而|居《ヲリキ》之。乃爲2里名1
敷田氏標注 大野里、和名抄に於保乃と註せり。……今同郡國衙莊の内に大野郷あり○※[石+弖]堀の※[石+弖]は砥の略也。今土人はトヲリと呼○島宮、此宮號天武紀に屡見えて大和國高市郡に在。萬葉二に高光我日皇子乃萬代爾國所知麻之島宮婆毛、是は天武天皇の皇子草壁皇子の坐給ひし宮にて此皇子持統天皇三年四月に薨じ給ひしを傷奉れる歌也。然に爰に天皇としも稱奉れるは朱鳥元年に天武天皇崩給ひ翌年を持統元年として其四年に持統天皇位に即給ひしかば三年の間此皇子皇統を繼給ひし事疑ひなし。然を明治の追謚に洩たるは口をしき業也。續紀天平寶字二年の詔に日竝知《ヒナミシリ》皇子命天下未v稱2天皇1。宜v奉v稱2岡宮天皇1と宣ひ紹連録には、長岡天皇と記奉れり。日竝知皇子とは此草壁草子を申
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。餝磨郡大野(於保乃)ト。按ズルニ國圖ニ飾東都ニ大野村アリ○秤ハ稱ノ古字○志貴ノ二字誤ラレテ惠多ノ下ニ在リ。今彼ヲ削リテ此ヲ補フ(140)○皇ハ原《モト》無シ。今一本ニ從ヒテ補フ
新考 二註に云へるはもとの城北村の大字大野なれど此大野としては地理かなはず。今姫路市街地の北部、琵琶の柄の如くなる處を野里といひ野里の内に大野町あり又其東に野里といふ村落ありて水上村の大字の一なり。是皆大野里の名を傳へたるなり。又砥堀料は、今神崎郡に屬したれど水上村の北に接したり。されば大野里は砥堀・水上二村に亙りしなり。但水上村の西部なる、白國は枚野里の内なれば略今の縣道以東を以て大野里とすべし○※[石+弖]は砥なり。古寫本に※[氏/一]は多くは弖と書けり。秤(原本に扁を示に作れり)は音シヨウ、稱の通用なり。秤稱共にハカリの義あれど秤にはトナフの義無し。栗田氏が稱(ノ)古宇と云はれたるは當らじ。廣韻に秤(ハ)俗(ノ)稱(ノ)字とあり○惠多の下の志貴は栗田氏に從ひて移して島宮の上に置くべし。次なる少川里の下にも例あり。兩行の間に書入れたりしを誤りて左行に入れたるなり。志貴島宮御宇天皇は欽明天皇の御事なり。天の下に皇を補ふべし○敷田氏の云へる草壁皇子の御宇なる日竝知はヒナミシラス(又ヒナミシス)とよむべし。ヒナミは准日にて天皇ト齊シクといふ義なり(萬葉集新考七八頁參照)。此皇子は御母持統天皇に代(141)りて萬機をきこしめししかど皇位には登り給はざりき。敷田氏が「此皇子皇統を繼給ひし事疑ひなし」と云へるは妄斷なり
所3以稱2※[石+弖]堀1者品太天皇之世|神前《カムザキ》郡與2餝磨郡1之堺(ニ)造2大川(ノ)岸(ノ)道1。是時※[石+弖](ヲ)堀出。故號2※[石+弖]堀1。于v今《イマニ》猶|在〔左△〕《イヅ》
栗田氏標注 國圖ヲ按ズルニ神東群ニ上下ノ砥堀村アリテ飾東都ト相接セリ○國圖ヲ按ズルニ飾東群姫路ノ城北ニ一水アリ分流シテ二トナリ城ノ東西ヲ經、西ナル者ハ砥堀村ニ接シ兼ナル者ハ小川村ニ接セリ。是ニ由リテ按ズレバ古昔蓋東水ヲ呼ビテ小川トシ西水ヲ呼ビテ大川トシケムモ亦未知ルベカラズ。附シヲ考ニ備フ
新考 砥堀は今トオリと唱ふ。現に神崎郡に屬せる事は上に云へる如し○大川は神崎川の末にて萬葉集卷十五に
わたつみの海にいてたるしかま河たえむ日にこそあがこひやまめ
とある餝磨川即是なり。神崎川の末は今は東なる本流と西なる支流即船場《センバ》川とに(142)二分したれどいにしへは西なるが本流なりしなり。されば本書に大川といへるは今の船場川にて小川といへるは今の市川なり。栗田博士が
由v是按v之古昔蓋呼2東水1曰2小川1呼2西水1爲2大川1亦未v可v知
と云へるは卓見なり。但、西者接2砥堀村1東者接2小川村1と云へるは不良なる國圖にや誤られけむ。今二流の分岐せる處は砥堀村の南、くはしく云はば水上村の北端なる大字|保城《ホウシロ》字横手なり。地名辭書に
一説に此川(○船場川)を雲見川と云ひ古の飾磨川にして風土記に大川と云ふに同じと。此説によれば昔神崎川の末其西水を本流とし東水を支流とす
と云へるは栗田氏の説の外にも據れる所あるにや。但船場川の一名を雲見川と云へるは播磨古跡便覽などに據れるならめど輕々しく從はれず。府中めぐりの附圖を見るに後の船場川に注入る小川に雲見川と記せり○船場川は前に云へる如く今は水上村と砥堀村との間にて市川より分れたれど本書に砥堀村を餝磨郡に屬し、さて神前郡ト餝磨郡トノ堺ニ大川ノ岸ノ道ヲ作リキといへるを見ればいにしへは砥堀より北にて分流せしなり○于今猶在の在は出の誤にてソノ砥今モ出ヅ(143)と云へるならむ○于今は上(一三一頁)なる于時と同例なれど近古の俗文に多く見ゆれば我邦の古の用語ぞと思ふ人もあるぺけれど後漢書衛宏傳にも于v今傳2於世1とあり。求めなばなほ古き例あるべし
○少川《ヲガハ》里(土中々。本名|私《キサキベノ》里)
高瀬村・豐國村・英馬野《アガマヌ》・射目|前《サキ》・檀坂・多〔左△〕取山・御|※[取/丘]〔左△〕《丘》・伊刀《イト》嶋
右號2私里1△△△《者志貴》島宮御宇天皇(ノ)世|私部弓束《キサキベノユヅカ》等(ノ)祖|田又利《タタリノ》君鼻留志貴〔二字□で囲む〕請2此處1而|居之《ヲリキ》。故號2私里1。以後《ソノノチ》、庚寅年上|△《野》大夫爲v宰之時改爲2小川里1。一《アルヒト》云。小川自2大野|△《里》1流2來此處1。故目2小川1
敷田氏標注 小川里、和名抄に洩たり○庚寅年は持統天皇四年に當る
栗田氏標注 多取山ノ三字ハ衍ナリ。宜シク削ルベシ。御取ハ疑ハクハ御立ノ訛○志貴ノ二字ハ原文ニ誤ラレテ次行鼻留ノ下ニ在リ。今之ヲ訂ス○號私里ノ下ニ疑ハクハ者ノ字ヲ脱セルナラム○田又利君ノ又ハ恐ラクハ々ニ作ルベシ。姓氏録ニ曰。多多良公(ハ)御間名(ノ)國主|爾利久牟《ニリクム》王之後也。天國排開《アメクニオシハルキ》廣庭天皇(謚欽明)御世投化獻2金(ノ)(144)多々利金(ノ)乎居《ヲケ》等1。天皇譽之賜2多多良公(ノ)姓1也○大野ハ今飾西群夢崎川ノ西ニ大野村アリ
新考 今花田村の大字に小川あるは此里の名の遺れるなり。花田村は水上村の東南に接せり○少は小の通用なり。上文枚野里の下(一三六頁)にも例あり○多取山は名取山の誤か。栗田氏は此三字を衍とせり。さるは本文に其記事の見えざる故なり。檀坂は本文には檀丘とあり。いづれか是ならむ。御※[取/丘]は本文に據れば御立丘の誤なり○私里はキサキベノサトとよむべし。敷田氏はキサキノサトとよみたれぢ、もと私部《キサキベ》といふ氏より出でたる里の名なれば部の字は無くてもなはキサキベと訓むべきなり(一〇二頁伊和里參照)。栗田氏がキサイチノサトとよめるはあやなし。はやく印南郡|含藝《カムキ》里の下(八三頁)に辨へたり○私里の下に者の字を補ふべく又鼻留の下なる志貴を島の上に移すべし○田又利を敷田氏が田久利に改めたると栗田氏が又ハ恐ラクハ々ニ作ルベシと云へるとは共にいみじきひが言なり。田田利と書くべきを田又利と書けるにて萬葉集卷十(新考二一五三頁)にハギガハナサキノヲヲリヲのヲヲリを乎再〔右△〕入と書けると同例なり。さて田田利君はやがて姓氏録に見(145)えたる多々良(ノ)公なり。タタリは元來臺の上に柱をたてて絲をまとひかくる具にて姓氏録に金《クガネ》ノ多々利・金ノ乎居《ヲケ》等ヲ獻ズとあるヲケ即|麻笥《ヲケ》と共に女紅の具なり。神祇令の義解《ギゲ》に
謂(フハ)大幣者供神幣物各有2色目1。金(ノ)水桶《ヲケ》金(ノ)線柱《タタリ》奉2伊勢神宮1、楯矛奉2住吉神1之類是也
とあり。又萬葉集卷十二(新考二六二七頁)にヲトメラガウミ麻《ヲ》ノ多田有《タタリ》とあり○鼻留は人名なり。但誤字あらむ○故號私里の上にソノ子孫ガ氏ヲ私部ト云ヒシカバといふことを補ひて心得べし○庚寅年は持統天皇の四年なり。本書を撰せし時に最近き庚寅なるのみならず※[手偏+交]籍即戸籍調査に由りて名高き年なればただ庚寅年といひて通ぜしなり○上大夫は揖保郡越部里の下に上野大夫とあるを見れば野の字をおとせるならむ○大夫は公式令に
唯《タダシ》於(テハ)2太政官1三位以上(ハ)稱(セヨ)2大夫1……其於2寮以上1四位(ヲ)稱2大夫1……司及中國以下(ニハ)五位(ヲ)稱2大夫1(謂(フハ)一位以下通用2此稱1)
とありて一位以下五位以上の總稱なり。但位階を位と稱せしは文武天皇の大寶元年以後なり○宰は即國司なり○一云は或人云なり。一云小川の小川は小サキ川な(146)り。地名にあらず。さてその小サキ川は今の市川の前身なり。いにしへは今の船場川の方本流なりし事上に云へる如し。大野は大野里なり。おそらくは里の字をおとしたるならむ○栗田氏が今飾西郡夢崎川西有2大野村1といへるは例の春枝の説に據れるにや。夢前川の西に大野といふ村あることを聞かず。たとひ有りても地理かなはず。又小川が夢前川を横ぎりて流來る事あらむや
所3以秤〔右△〕2高瀬1者品太天皇登2於|夢前《イメサキノ》丘1而望見者北方有2白色物1△《勅》2云彼(ハ)何物乎1。即遣2舍人上野國麻奈※[田+比]古1令v察之《アキラメシメキ》。申云。自2高處1流落水是也。即號2高瀬村1
敷田氏標注 夢前、夫木集に現ニハサテモイハズハ播磨ナル夢前川ノ流レテモアハム(○此歌夫木抄に見えざる如し。第二句はサラニモイハズの誤か。さてもなほ初二と第三句以下と相副はず)三代實録貞觀十年閏十二月授2播磨國正六位上射目崎神(ニ)從五位下1
栗田氏標注 春枝曰ハク。飾西部ニ高瀬村アリト
新考 此一節はもと他の里の下にありしがまぎれてここに入れるなり○春枝が(147)飾西郡有高瀬村と云へるは例の詐なり○ここの秤も原本にその扁を示に作れり○夢前《イメザキノ》丘はいづくにか。まづ三代實録に
貞觀十年閏十二月授2播磨國正六位上射目崎神(ニ)從五位下1
とあり。今|余部《アマルベ》村の大字に青山あり。夢前川の右岸にありて山陽道に當れり。其民戸の北に小丘あり。其岡に郷社稻岡神社あり。祭神は豐受大神并に射目崎大神なり。然らば此岡即夢前丘なりやと云ふに此岡は昔も今も稻岡といふが上に飾磨郡誌に引ける社寺明細帳に
青山村々民傳へ云。稻岡は山の名、此山に古く稻岡神社ありて中古射目崎の神を合せ祭る。其祭りし故は此山より八町北に行矢と云所あり。今字を森的場と云、矢の森とも云(今は田地となる)。此所に射目崎神社ありて其邊の小流を射目崎川と云(今に川跡ありて其名存す)。洪水の節此神社稻岡山の麓に流れ來りて止る。村民稻岡神社合殿に祭り來ると云傳ふ
とあれば射目崎神社はいつの世にか稻岡神社に合せ祭りしなり。從ひて夢前丘は稻岡にあらざる事明なり。然らば夢前丘は右の里民の口碑に見えたる、稱岡より八(148)町ばかり北なる行矢といふ處にて今田地となれる處かといふに少くとも中古以前に射目崎神のいましし處は夢前丘にて平地にあらざるぺければその行矢は之に擬すべからず。播磨鑑などに行矢社といふ神社飾西都に三處ありしうち一は青山にありきとあれば或は里民は洪水の爲に流れ來りし行矢神社を合祭せし事と射目崎神社を合祭せし事とを混同せるにあらざるか。元來射目崎神社は播磨國内神社記に飾東都二十六社の中に射目崎明神と擧げ飾西郡二十七社の中に見えざるを思へば其社地夙く不明となりしに似たり。さて神社記には射目崎明神の下に村名を註せざればその指せる所はいづれの神社にか明ならねど近年|谷外《タニト》村鹽崎なる郷社春日野神社を射目崎明神と主張せし人あり。その證とせるもののうち主なるものは春日野神社附近の地字を射目崎と稱せる事なり。さる字、眞に昔よりあるにや知らねど天和二年に本社社司井上則春の撰せし社傳に射目崎明神の事は更に見えざるのみならず本書下文射目前の事を記せる一節には伊刀島の記事あり、その伊刀島は飾磨揖保二郡の間なる海中にありし事明なれば少くとも風土記の射目前は、谷外村鹽崎にあらず。又地名辭書に谷内村の山崎かと云へるは風土記(149)に射目前を誤りて小川里の下に附けたると神社記に射目崎明神を飾東郡に擧げたるとに據りて之を小川里の附近に求め、たまたま山崎と云ふ地名を見出でてその音のイメザキに類せるに由りて此を彼に擬せしに過ぎず。本書の射目前は餝磨郡(飾西郡)の西南部、特に彼稻岡よりは遙に川下にありて英賀里に屬したりしに似たり。今英賀保村の大字に山崎あり其北の山を山崎山といふ。夢前丘は或は是ならざるか○云の上に恐らくは勅の字を落したるならむ○上野國は元來上毛野《カミツケヌ》なるを夙く二字にちぢめきと見えて續日本紀和銅四年三月の下に上野國|甘良《カムラ》郡とあり、彼上野國三碑中の和銅碑・神龜碑にも上野國片岡郡・緑野《ミドヌ》郡・甘良《カムラ》郡云々また上野國|群馬《クルマ》郡下|賛《サヌ》郷高田里云々とあればここに上毛野國と書かで上野國と書きたるは怪むべきにあらねど國人と書かでただ國と書ける、又朝臣なれば國の名を書かでもあるべきに書ける、又麻奈※[田+比]古とのみ云ひて氏もカバネも云はざる、いづれも疑ふべし。或は國の下に造をおとせるか。又或は上野は氏にて國は誤字又は衍字か。もし然らばカミツケヌとはよまでウヘヌとよむぺし。國名こそあれ氏のカミツケヌは後までも二字に修めずして上毛野と書きたればなり。さて其上野は揖保郡越(150)部里の下に見えたる上野大夫と同氏ならむ。拾芥抄性尸録部に上野《ウヘノノ》宿禰あり○高處は高瀬なり。川床急に低くなりたれば瀧を成して水の流れ落つるが遠くより白く見えしなり
所3以號2豐國1者筑紫(ノ)豐國之神在2此處1。故號2豐國村1
栗田氏標注 豐肥熊襲等(ノ)國ハ上古筑紫島ニ隷シタリキ。事ハ古事記・書紀神代卷ニ見エタリ○春枝云ハク。今飾東郡ニ豐國庄豐國村アリト。國圖・御圖帳ヲ按ズルニ飾東郡ニ豐國村アリ
新考 今|谷外《タニト》村の大字に豐國あり。谷外村は花田村の東北に續けり。例の春枝は今飾東郡有2豐國庄豐國村1と云へれど豐國村は春日野神社社傳には谷外庄といひ播磨鑑には星田庄といへり。いづれの時代にも豐國庄といふは無かりき
所3以號2英馬野《アガマヌ》1(ハ)爲品太天皇此野(ニ)狩時一馬|走逸《ハシリニグ》。勅《ノリタマヒキ》2之誰馬乎1。侍〔右△〕從等對云。朕〔□で囲む〕御馬也。△△△2△△△△《爾時勅云〔右△〕朕馬乎》1。即號2我馬野《アガマヌ》1。是時立2射目《イメ》1之處即號2射目前《イメザキ》1、弓折之處即號2檀《マユミ》丘1、御立之處即號2御立《ミタチ》丘1。時是〔二字左△〕大(ナル)牝鹿《メガ》泳v海|△《到》2鷲〔左△〕1。故號2伊|乃〔左△〕嶋1
(151)敷田氏標注 爲品田天皇の爲字は天皇の下に置くべし○侍從、八雲御抄にオモトヒトと註給るに從ふ。和名抄に於毛止比止、萬知岐美とあり○立射目云々、萬葉六に御山者射目立渡、略解に射目は射部にて弓射る人をいふと云り○檀丘、和名抄に檀(ハ)木名也、萬由三と註せり。檀は弓を作るに好木なるゆゑ然呼ならへり。天武紀に檀弓《マユミ》崗とあるは大和國高市郡なるを諸陵式には眞弓丘に作れり○伊刀島、原本伊乃島に作れり。揖保郡伊刀島に徴(シ)て改つ。伊刀の義下に見えたり
栗田氏標注 品ノ上ノ者ノ字ハ例ノゴト補フ○對云ノ下ニ字ヲ脱セリ。今六字ヲ補フ。爲ノ字ハモト上行ナル品ノ字ノ上ニ在リテ衍《アマ》レリ。故ニ彼ヲ削リテ此ヲ補フ○侍從ハ和名抄ニ於毛止比止ト云ヘリ○賀茂眞淵云ハク。萬葉八卷ニ、射目立而、跡見之岳邊之、卷六ニ見芳野之、飽津之小野※[竹/矢]、野上者、跡見居置而、御山者、射目立渡、朝獵爾、十六履起之、十三卷ニ高山之、峯之手折爾、射目立、十六待如、此ニ據レバ射目ハ射部ヲ謂フナリ。所謂射目立渡ハ猶射部ヲ配置スト云フガゴトキナリト○按ズルニ名跡志ニ云ハク。飾西郡木庭山ニ檀森アリ。傳ヘテ云ハク神功皇后軍ヲ屯セシ處ト○是時ハモト時是ニ作レリ。今一本ニ從フ○名跡志ニ曰。古記ニ云ハク青山村夢崎川(152)ハ昔伊流女崎明神ヲ祭ルト。又曰。余部庄青山村ニ射目崎明神ヲ祭ルト。國圖ヲ按ズルニ青山村夢前川ハ今飾西郡ニ屬セリ。又御立村アリ
新考 此一節も亦|英賀《アガ》里に屬すべきなり○英馬野は其名義に據ればアガマヌとよむべし。英の一音はアウなり。英賀《アガ》・英保《アボ》などアに充てたるは其略音なり。又ここの如くアガに充てたるはアウをアグに轉じ更にアガに轉じたるにて望《マウ》を望理《マガリ》のマガに充てたると同例なり。和名抄郷名にも伊勢國鈴鹿郡英太(阿加多)とあり○所以號英馬野の下の爲は者の誤なり。原本には又侍を待に誤れり。侍從は垂仁天皇前記に左右をミモトコ、同二年紀にモトコ、同二十三年紀にモトコビトと傍訓せるに從はばミモトコビトと訓むべし。ミモトビトと訓まむも可なり○對云朕御馬也の朕は衍字なり。その下に爾時勅云朕馬乎の七字を落せり。賀毛郡小目野の下に
右號2小目野1者品太天皇巡行之時宿2於此野1。仍望2覽四方1勅云。彼|觀者《ミユルハ》海哉河哉。從臣對曰。此霧也。爾時宣云。大體雖v見無2小目1哉〔爾時~傍点〕。故號曰2小目野1
とあるを見ても右七字の無かるべからざる事を知るべし○射目の目は借字にて部に同じ。ムレをつづめてメといひ、そのメを又ベと唱ふるなり○檀丘の所在は知(153)られず。御立丘を栗田氏は御立村に擬したれど今の安室村の御立は巨智里の大立丘に當る事上(一二四頁)に云へる如し。又その御立としては地理かなはず○時是は是時の顛倒なり○大牝鹿はオホキナルメガと訓むべし。いにしへへ牡鹿をシカといひ牝鹿をメガといひ總稱してカと云ひしなり。本郡の村名に妻鹿と書きてメガとよむがあるを思ふべし(九一頁參照)○原本に就島の二字を鷲の一字に誤り又伊刀島の刀を乃に誤れり○就島の上に到の字のありしを落したるか。もとのままにては故號伊刀島と云ふべき由なし。恐らくは海を泳ぎて島に到り就きしが故にイタリ島と號し終にイト島と訛りきと云ふ意ならむ。下文揖保郡伊刀島の下には
鹿者既到2就於彼島1。故名2伊刀島1
とあり○南※[田+比]都麻島の事が賀古印南二郡の下に見えたる如く伊刀島の事も餝磨揖保二郡の下に見えたり。さて南※[田+比]都麻島が二郡の界にあるを思へば伊刀島も恐らくは二郡の界にあるべし。然も今之に擬すべき島なし。地名辭書以下に之を家島群島とせをはいみじき誤なり。思ふに夢前川の河口もいにしへはいと廣くて伊刀島はそこにありしが海岸線の南進に由りて陸續となりしならむ○栗田氏が飾西(154)郡木庭山有2檀森1云々といひて之を檀丘に擬したるは非なり。木庭山は八木村大字木場の南の山にてその木場(古名は木庭)は飾東〔右△〕郡の東南隅なれば問題の地とは東西懸絶せり
○英保《アボ》里(土中上) 右稱2英保1者|伊豫〔左△〕《イガ》國英保村人|到2來居《キタリヲリキ》於此處1。故號2英保村1
敷田氏標注 英保里、和名抄に安母と註せり。今阿保と書けり○伊豫國は伊賀國の誤なるべし。和名抄に同國伊賀郡に阿保郷あり。續紀十三に伊賀國安保頓宮と見え同卅八に伊賀國阿保村とも見えたり
栗田氏標注 英保ハ已《ハヤク》上ニ註セリ。春枝云ハク。今安坊村アリ。又伊與國伊與郡長川郷ニ足火山アリ。此カ。又安保見山アリ
新考 今四郷村の大字に東阿保あり。城南村(もとの市殿村)に阿保(中阿保・西阿保の二部落より成れり)ありて市川を夾みたれど慶長の頃までは共に河東にありしが市川の流を附替へしによりて河の東西に分れしなり。されば英保里は麻生山の西(155)北にありしなり。春枝が今有2安坊村1と云へるは詐なり。阿保と書くなり○伊豫國は敷田氏の云へる如く伊賀國の誤ならむ。伊豫國に英保といふ村無きは其國人春枝の云へる如し○此里を安相里の下にも、英保村と云へり。巨智里の下に草上村を、枚野《ヒラヌ》里の下に新羅訓《シラクニ》村を、少川《ヲガハ》里の下に高瀬村・豐國村を擧げたるなどを見れば村は里に隷したりしにて今の大字の如きものと思はるるにここに英保里を英保村といひ上に六繼里を六繼村といひ益氣《ヤケ》里を宅《ヤケ》村と云へるなど村を里に通用したる處もあり
○美濃《ミヌ》里(土下中)
繼潮《ツギノミナト》
右號2美濃1者讃伎國|禰濃《ミヌ》郡人|到來居之《キタリヲリキ》。故號2美濃1
敷田氏標注 美濃里。和名抄に洩たり。讃岐國郡名三野は同書に美乃と註せり
栗田氏標注 餝西郡ハ神西郡ト相接セリ。春枝云ハク。今神西郡ニ御野村アリト。倭各鈔ニ曰。讃岐國三野郡○按ズルニ下説(○下説と云へる穩ならざるに似たり。寫本(156)を檢するに標注の上方に更に書入したれば下説と云へるなり。版本の如くつづけ書にするには上説と改むべきなり)誤レリ。國圖御圖帳竝ニ見野村アリ。飾東郡ニ屬セリ。又村ノ南ニ都藝村アリ。蓋繼潮ノ地ナリ
新考 四郷村の大字に見野ありて麻生山の東麓に當れり。又絲引村の大字に繼《ツギ》ありて麻生山の東南麓(麻生山の一峰船橋山の南麓)に當れり。絲引村は四郷村の南方に接し麻生山は適に二村に跨れるなり。されば美濃里は麻生山の東方より南方に亙りしなり。かくの如く英保・安相・美濃の三里が麻生山を圍みたりけむ事は即麻生山の周圍が上古より開けたりけむ事は此附近に古墳の多き事實と一致せり○春枝が今神西郡有2御野村1と云へるは詐なり。さる村は無し
所3以稱2繼潮《ツギノミナト》1者昔此|國〔左△〕《トコロニ》有2一死女1。爾《ソノ》時筑紫國(ノ)火(ノ)君等(ノ)祖(不v知v名)到來《キタリテ》復生《イノチヅギキ》。仍|取之《メトリキ》。故號2繼(ノ)潮1
敷田氏標注 火君、古事記に神八井耳命者火君|大分《オホギタ》君等之祖也。肥後風土記に肥君等祖健緒組とあり○繼潮とは如何なる義ならむ。強て按に蘇生して嫁するを云り(157)と聞ゆ。然ど書《モノ》に見えざれば猶能考ふべし
栗田氏標注 按ズルニ繼潮ノ義詳ナラズ。然レドモ今ノ俗潮汐ノ往來ヲ以テ人ノ死生ヲ占フハ盖據ル所有ルナリ云々○復生仍取之ノ上下ニ恐ラクハ誤脱アラム○按ズルニ取ハ娶古今〔二字左△〕字(○古今字は略字などの誤か。寫本には娶(ノ)省體とあり)
新考 繼潮を二註にツギシホとよめり。宜しく上(五六頁)に林潮をハヤシノミナトとよめる如くツギノミナトとよむべし。今絲引村の大字に繼《ツギ》ある是なり(此地名今はツグと訛れるにや、市町村大字讀方名彙にツグと訓じたれど慶長圖は勿論、寛延圖にも、近くは弘北圖にもツギと記せり)。此處今は海岸より二十町餘隔ちたれどいにしへは海に臨みたりし事ミナトといへるにて明なり。さてそのミナトは苧川の河口なりけむ。されば筑紫(ノ)火(ノ)君は陸路より此處を過ぎしにはあらで此港に舟を寄せしなり○此國は此處の誤ならむ○火(ノ)君は即肥(ノ)君なり。古事記に
神八l井耳《カムヤヰミミノ》命ハ火(ノ)君等ガ祖ナリ
とあり。又肥後風土記の逸文に肥(ノ)君等(ノ)祖|健緒組《タケヲクミ》とあり。又欽明天皇紀十七年に
百濟(ノ)王子惠、罷ラムト請フ。……別ニ筑紫(ノ)火(ノ)君ヲ遣リテ勇士一千ヲ率《ヰ》テ彌※[氏/一]《ミテ》(158)ニ衛リ送ル
とあり。筑紫はここにては大名なり。九州と云はむがごとし。靈異記下卷第卅五に筑紫(ノ)肥前國(ノ)松浦郡人火(ノ)君之氏とあり○敷田氏は到來復生をキツレバヨミガヘリヌとよみ栗田氏は到來をキタリシカバとよみ復生には訓を附せず。宜しくキタリテイノチツギキとよむべし。ツグとよまでは繼といふ名の起原とならざればなり。萬葉集卷十一に
何せむに命つぎけむわぎもこにこひざるさきに死なましものを
又卷十五に
わぎもこがかたみのころもなかりせばなにものもてかいのちつがまし
とあり○取はメトリテとも訓むべくトリテと訓みてメトリテとも心得べし。詩經〓風伐柯に取v妻如何、匪《ナケレバ》v媒不v得とあり。又漢書評林字例に取讀曰v娶とあり。敷田氏が娶に改めたるは、妄なり
○因達《イダテ》里(土中々) 右稱2因達1者|息長帶比賣《オキナガタラシヒメノ》命欲v平2韓國1渡坐之時△△《坐宇》御(159)船(ノ)前《サキ》1伊太代《イダテ》之神在2於此處1。
敷田氏標注 因達、和名抄に※[迎の異体字]達に作れり。※[迎の異体字]は印の誤にて※[二点しんにょう]の加りたる也○伊太代神、式に射楯兵主神社二座とあるを或書に大己貴五十猛の二神を祭ると云り云云
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。餝磨郡※[迎の異体字]達(伊多知)ト。高山寺本ニ※[迎の異体字]ヲ印ニ作レリ。從フベシ。延喜神名式ニ曰。餝磨郡射楯兵主神社二座○坐于ノ二字モト無シ。今古事記仲哀(ノ)段ナル墨江三神云。我之御魂坐2于船上1ノ文ニ據リテ補フ○之神已下モト分註トセルハ誤レリ。今之ヲ訂ス
新考 上文伊和里の下に因達神山とあり。その因達神山を地名辭書には秩父山とし、姫路名勝誌には書寫山とし、廣峯牛頭天王といふ書には廣嶺山とし、飾磨郡誌(三一〇頁)には新在家山とせり。本書に此里の前に美濃里を記し此里の後に安師《アナシ》里を記したれば記述の順序より見れば今の妻鹿《メガ》村附近なるべく思はるれど本郡の記述は必しも地理を追はざる上に上文伊和里の下に大汝命がその子|火明《ホアカリ》命を因達神山に棄てて船を出して遁去りし由云へるは外洋に向ひし趣なれば神山は波丘(160)以下十三丘(即十三島)より奥の方にあらざるべからず。されば書寫山とし廣嶺山とせるは地理はかなはざるにあらねど水を汲む爲には然奥まで漕入る要は無かるべし。否然奥まで漕入らば火明命はまだきに父神の下心を悟るべし。ここに今の安室村に八疊岩山といふ山あり。置鹽《オシホ》山・廣嶺山などの山脈の先端なれば無論清水の湧く處もあるべし。これぞ恐らくは因達神山ならむ。此山の東麓に新在家といふ大字あれば郡誌に新在家山といへるは即是ならむ。さらば郡誌の説を正しとすべし。地名辞書に伊和里の下に見えたる箕丘を今の秩父山としその秩父山を因達神山とせるは神山より船を出ししに風波に逢ひて船中の物件の海中に落ちしうち箕も落ちて箕丘となりきと云へると相かなはざるにあらずや○因達神山を八疊岩山とせば因達里は今の新在家以東とすべし。山の西側なる辻井附近は巨智里に屬すべければなり○因達を和名抄に伊多知と訓註したれどここに伊太代之神と書きたるその代はテとよむべく(萬葉集新考一三一五頁參照)又神名帳に韓國伊太※[氏/一]〔右△〕神社(出雲)と見え射楯〔右△〕兵主神社(播磨)と見えたればイダテとよむべし(一〇六頁參照)○伊和里の下に云ふべきをここに讓りおきしを今云はむに大名持命ガ因達神山(161)ニ到リテ云々といへるは後の名にて記せるにて大名持命の時に因達神山といふ名ありしにはあらじ○栗田氏が御船前の上に坐于の二字を補へるはいとよろし。但その坐をマシシとよめるはわろし。マセシとよむべし。上文印南郡大國里の下に帶中日子命ヲ神ニ坐《マセ》テといへるマセテ、萬葉集卷十六(新考三三七九頁)なる卜部マセ〔二字傍点〕龜モナ燒キソのマセと同語にてマサシメシ・スヱ奉リシ・勸請セシといふ意なり○原本に之神以下十四字を誤りて分註とせり○伊太代之神は韓國伊太※[氏/一]神ともいひて神代に韓國に渡り給ひし事ある五十猛《イダケルノ》神の御事なりといふ。五十猛神は素盞嗚尊の御子なり。以下因に射楯兵主神社の事を述べむ。延喜式神名帳に播磨國餝磨郡四座(竝小)とありて射楯兵主神社二座とあり。今是と定められたるは姫路市なる縣社|射楯兵主《イダテヒヤウズ》神社なれども安室村大字辻井の行矢《イクヤ》神社こそ式の射楯兵主神社なれと唱ふるものあり。まづ縣社射楯兵主神社は舊城内の東南隅にありて明治の初までは總社伊和大明神と稱せられ俗には略して總社といひき。初秩父山にありしを小野江(一名|梛本《ナギノモト》、後の城内の北部なり)に移し更に今の處に移ししなりといふ。又|行矢《イクヤ》神社はもと行矢明神といひて(行箭・行屋・生矢とも書けり)飾西郡に同名の神(162)社三ある内の一なるが初に矢落村(今の安室村新在家)にありしを今の、辻井に移ししなりといふ。さて明治の初に姫路藩廳にて府中社略記(天正年間山氏重民著)に草上郷射楯兵主神二座とあり(草上驛のありしは此辻井の西なる山吹なれば辻井は中古の草上郷の内ならむ)府中めぐり(天正年間蘆屋道海著)に
此山(○水尾山)の北に矢落村(○今の新在家)あり。家五六十許見ゆ。……此西高岡岩(○今の八疊岩山)に神座ましますを五社明神といふ(○今は西方なる蛤山に遷せり)。此西方に辻井村あり。民家三十許。此村の東に(○今は西に遷したるにや)二神まします。射楯兵主神といふ。今此神光照し給ふ
といひ、古跡便覽(寛延年間加藤敬直著)に
射楯兵主神社二座延喜式に出たり。辻井村山麓に有り
といひ三十四社巡拜名略記(寛延年間瀬川八百重著)に
餝西郡安室郷辻井村 一式内射楯兵主神社 一號2行矢社1
といひ、播磨鑑(寶暦年間平野庸修著)に
又あだ矢と成り落し所を矢おち村と云。今飾西群安室の郷なり(號新在家村)。後矢(163)おち村より北へ引と見えたり。此所に古しへ神社有、射楯兵主とて二座、大己貴・五十猛也(後に同郷辻井村にうつる。今は行矢明神と云。延喜式に入りしも其時分は矢落村に祭りしにや。古記に見ゆ)
また
射楯兵主神 安室郷辻井村 延喜式二座大己貴命・車代命。又五十猛共有。神功皇后麻生より射給ひし御矢あだ矢の落し所を失おちと云(新在家村の内)。是を射楯兵主神と祠る。安室郷の内に坐す
とあるなどにや據りけむ、行矢明神を延喜式神名帳の射楯兵主神社と定めて神官を任命し姫路龍野町三丁目に式内射楯兵主神社在辻井村と刻みたる道しるべの碑を建て又將に社殿を改築せむとせしに明治三年十一月總社の祠官上月爲彦氏、射楯兵主神社考を提出して射楯兵主神社は總社伊和大明神にして辻井明神にあらざる事を述べ藩廳より意見を徴せられし春山・庭山の二氏、上月氏の考證を證明せしかば藩廳之を是認して神官を免じ標石を毀ち社殿改築を止めき。三氏がその説の證據とせしは
(164) 播磨國内神社記に大神二十四社中に射楯大神あり、又小神百五十社中飾東〔右△〕郡に兵主明神ありて行屋明神は別に飾西郡小神の中に擧げたる事
安永九年總社書上明細帳所載社傳に「延喜式神名帳に播磨國餝磨郡射楯兵主神社二座と御座候は當社の事にて……常に神號を唱へ候は、射楯兵主神と申候へ共神供神酒を獻り候は先づ一ノ宮兵主神、次に二ノ宮射楯神と習ひ來候」とある事
などなり。總社に五十猛・大名持の二神即射楯兵主神を祭れる事は安永書上より古き播磨鑑にも
總社……東殿五十猛命、西殿大己貴命、中殿空社にして云々、
ともあれば疑ふべき筋無きに似たれど之を以て行矢神社が射楯兵主神社にあらざる證とはすべからず。なほ國内神社記の成りし時代并に其内容、何故に總社にては兵主神を先とし射楯神を次とするか、總社伊和大明神に冠する軍八頭は如何なる義かなどに就きても云はまほしき事あれどそを皆云はばあまたの紙數を要すべきによりて今はただ二社の關係と總社祭神の沿革とに就いて余の考定したる(165)所を略述せむに總社伊和大明神はもと伊和大神のみを祭りしにてそは宍粟郡なる伊和(ノ)君の一族が餝磨郡に移任せし後其處を伊和里と稱すると共に其本郷なる伊和(ニ)坐《マス》大名持御魂神社を分祭せしなり。さて遙に後に總社と合併せしかば總社伊和大明神と稱せしなり。
諸國の總社は國司が國幣を奉るべき一國の神社を國府附近に併せ齋きて巡拜の煩を省きしものにて平安朝時代の初にぞ始まりけむ。播磨の國府は今の姫路市の東部及東方に當れば總社も初はその附近にぞありけむ。今縣社射楯兵主神社の正殿の後方に八づつ建連ねたる祠二棟ありて東西に相竝びたるに播磨國十六郡の大小神を合せ祭れり。播磨は今は十三郡なれど明治の中頃までは明石・加古・印南・飾《シキ》東・飾西。揖《イツ》東・揖|西《サイ》・赤穗・佐用・宍粟《シサウ》・神西《ジンザイ》・神東《シンドウ》・多可・加|西《サイ》・加東・美嚢《三ノ》の十六郡なりき
射楯神は初獨八疊岩山にましまししに(一六〇頁參照)いつの世にか兵主神を合せ祭りしなり。神名帳に射楯兵主神社二座とあるによりて合祭の世の古きを知るべし(兵主神は大名持命なり。之を素盞嗚尊の御事とするは從はれず)。延喜式撰定の時(166)には恐らくはなほ八疊岩山にぞましましけむ。さるを後に同じ山の西麓なる行矢《イクヤ》といふ地(辻井の東方)に遷し奉りて行矢《イクヤ》明神と合稱せしならむ。同郡青山にましまして近世同村なる稻岡明神に合祀せし行矢明神も、同郡栗山(今の手柄村手柄)なる行箭明神(又三和社)も共にその分靈ならむ。總社伊和大明神にも此神を分靈合祀せしかど從來の祭神たる伊和大明神はやがて兵主神にましまししかば東殿に射楯神をいつき西殿に兵主神をいつきて中殿をば空しくしたりけむ。但今も中殿を空しくせるか知らず。ここに男山の南麓に村社水尾神社あり。その祭神をも射楯兵主神と稱せる由姫路名勝誌及姫路紀要に見えたり。元來此社は今の安室村の東南隅なる秩父山にありて伊和大明神を祭りたりしを前(一六一頁)に云へる如く中古小野江に移ししなれば、もとの社は廢せられしなるべきに其後復興せしにや國内神社記飾西郡の部に水尾明神とあり又其後に、もとの城北村(今は姫路市)山野井なる男山の南麓に移してなほ水尾明神と稱せしに元和五年本多忠政神守岡(今の姫路市船場材木町)なる岡(ノ)大歳社をここに移して大歳社年徳大明神と稱せしを明治の初に水尾神社と改稱しその後射楯兵主神の原社なりと唱へ始めし由なるが伊和(167)大明神の原社と云はむはなほ可なり。
秩父山より男山に移ししのみならず元和五年に大歳社と合祀せし後は大歳神の方、主神たりしなれば伊和大明神の原社と云はむだに實は穩ならず
射楯兵主神の原社なりといふは伊和大明神と射楯兵主神とを混同したるにていとあさまし
おほけなけれど因に云はむ。余は總社伊和大明神即今の縣社射楯兵主神社の正門と相對せし熊川《イウセン》舍(藩の町學校にて元鹽町にありき)にて生れ此御神を産土神とたのみ奉れり
○安師《アナシ》里(土中々) 右稱2安師1者倭(ノ)穴无《アナシ》神|々戸《カムベニ》託《カカリテ》△《令》2仕奉1。故號2穴師1
敷田氏標注 安師里、和名抄に穴無に作り安奈之と注せり。式に大和國城上郡穴師兵主神社
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。餝西郡穴無(安奈之)ト。御圖帳ニ云ハク。今飾東郡ニ穴無村アリト。國圖ニ阿成ニ作レリ。安ハ恐ラクハ穴ニ作ルベシ。延喜式ニ曰。大和國域上郡穴師坐兵主神社ト。按ズルニ新抄格勅符神封郡ニ穴師神五十二戸播磨卅九戸(○大(168)同元年)トアリ
新考 今高濱村に阿成と書きてアナセと唱ふる大字あり。アナセはアナシを訛れるにてなほミナシ川をミナセ川とも云ふがごとし。但慶長古圖にアナシ村とあればアナセと訛りじはそれより後ならむ○栗田氏が安師の安を穴の誤かと云はれたるは非なり。本書|宍禾《シサハ》郡の下なる安師里も安の字を書けり(今は安志と書きてアンジと唱ふ)。安の音アヌをアナに轉じて借りたるにて信濃・因幡・引佐《イナサ》・雲梯《ウナデ》のシナ・イナ・ウナに信・因・引・雲を充てたると同例なり○穴无師神戸託仕奉を敷田氏はアナシノ神ノ神戸ヲツケ仕ヘマツルとよみ栗田氏はアナシノ神ノ神戸ニツキテ仕ヘマツリキとよみたれどさては意義通ぜず。仕奉の上に令を補ひてアナシノ神、神戸《カムベ》ニカカリテ仕ヘマツラシメキとよみてアナシノ神、神戸ニ託宣シテ此處ニ分チ祭ラシメキと心得べし。神戸《カムベ》は神社に屬して田租を神社に納むる民戸なり。无は無に同じ○本社なる大和の穴師神社は神名帳に穴師(ニ)坐《イマス》兵主神社とありてその兵主神は大名待命なれば今阿成にありて大名持命を祭神とせる早川神社ぞ此安師神なるべき。日本紀略寛平三年三月に奉v授2播磨國正六位上|安志《アナシノ》神(ニ)從五位下1とあり
(169)○漢部《アヤベ》里
多志野・阿比野・手沼〔右△〕川
里名詳〔右△〕2於上1
右〔左△〕稱2多志野1者品太天皇巡△《行》之時以v鞭〔右△〕指2此野1勅云。彼野者宜2造v宅及墾1v田。故號2佐志野1。今改號2多志野1
敷田氏標注 漢部里、和名抄に洩たり。此里名既に見えたれば贅文なり
栗田氏標注 按ズルニ和名抄ニ漢部郷ヲ載せズ○行ノ字ハ例ノゴト補フ
新考 原本に詳を許に誤り巡の下に行をおとし沼の旁を呂に、鞭の旁を更に作れり。又右稱多志野者とある右は所以を誤れるならむ○漢部里ははやく上(九一頁)に見えたり○此里は地名辭書に云へる如くげに略和名抄の餘戸郷に當り又今の余部村に當るべけれど同書にそれに據りて「漢部はアマベとよむべきか」と云ひたるは從はれず。余部は近年までアマルベと唱へしかど今はヨベと唱ふとぞ。かくしつつ地名のかはり行くぞいとうたてき○多志野の地は今知られず。タとサと相通へ(170)る例はいと多し
所3以△《稱》2阿比野1者品太天皇從2山(ノ)方1幸行之時從臣等自2海(ノ)※[上/日]〔左△〕《カタ》1參會。故號2會野1
栗田氏標注 阿比野ハ國圖・御圖帳ニ揖東郡ニ相野村アリ。飾西郡ト隣レリ○稱ハ原本ニ脱セリ。今一本ニ從フ
新考 所以の下に稱を補ふべく自海の下は方の誤とすべし○阿比野は今揖保郡太市《オホイチ》村の太字に相野ある是なり。太市村は飾磨郡余部村の西に隣れり。名所拾録(元禄十一年劔持清詮増註)に
出あい野 大市郷内。考大市郷あいの村にや
といひ播磨古跡便覽(寛延三年加藤敬直著)に
出合野 大市郷の内。大市郷相野村
とあり。されば中世はデを添へてデアヒ野と稱せしなり。さて天皇は余部村より太市村に出で給ひ從臣等は舟にて夢前川を下りて海に出で、それより大津茂《オホヅモ》川を溯りて相野に到りしなり○古事記に
故《カレ》大毘古命者隨2先(ノ)命1而罷2行高志《コシノ》國1。爾《ココニ》自2東方1所v遣|建沼河別《タケヌナカハワケ》與2其父大毘古1共往2逢(171)于相津1。故其地謂2相》1
とあると相似たり
所3以稱2手沼《テヌ》川1者品太天皇於2此川1洗2御手1。故號2手沼川1(生2年魚1有味《ウマシ》
敷田氏標注 手沼川、今土人は手野川に訛れり。洗御手故號手沼川とあるを思ふに沼は洗の誤にはあらじか
栗田氏標注 春枝云ハク。飾西郡ニ手野川・手野町アリ。姫路ヲ距ル西二十町ニアリト。按ズルニ國圖・御圖帳竝ニ上下ノ手野村アリ
新考 今高岡村の大字に上手野・下手野あり(町とは云はず)。高岡村は余部村の東に在りて略夢前川を界とせり。今も夢前川の一名を手野川といふ○御手ヲ洗ヒ給ヒシ故ニ手沼川トイフと云へる、少し心得がたし。されど敷田氏が「手沼川は手洗川の誤か」と云へるは從はれず○有味は下文託賀《タカ》郡|都麻《ツマ》里の下に
播磨|刀賣《トメ》到2於此村1汲2井水1而|喰之《カレヒクヒテ》云2此水有味1。故曰2都麻1
とあり。二字を連ねてウマシと訓むべし
(172)○貽和《イワノ》里(ノ)船丘(ノ)北邊有2馬墓(ノ)池1。昔|大長谷《オホハツセ》天皇御世尾治(ノ)連《ムラジ》等(ノ)上祖長日子有3善婢與2△《善》馬1並|合2之《カナフ》意1。於v是長日子將〔右△〕v死之時謂2其子1曰。吾|死以後《シナムノチ》皆葬(ハ)准(ヘヨト)v吾。即爲v之作v墓。第一爲2長日子墓1、第二爲2婢墓1、第三爲2馬墓1。併有v三。後|上〔左△〕《イタリテ》d生石《オホシノ》大夫爲2國司1有〔□で囲む〕之時u筑〔左△〕《ツク》2墓(ノ)邊(ニ)池1。故因名爲2馬墓池1
敷田氏標注 貽和里、和名抄に伊和に作れり。此郷名宍粟郡にも見ゆ○大長谷天皇は、後に雄略天皇と申○尾治連、神代紀に天火明命兒天香山(ハ)是尾張(ノ)連等遠祖也とあり。姓氏録・舊事紀の傳竝おなじ○婢字は書紀及遊仙窟等に依て(○マカダチと)訓つ○上生石、よむべきを知らねば姑訓を闕く○大夫は上の小川里條に上大夫とあり。越部里條に上野大夫とあり。公式令に於2太政官1三位以上稱2大夫1於2寮以上1四位以上稱2大夫1司及中國以下五位稱2大夫1、西宮記節會(ノ)條に以2侍從1稱2大夫1、和名抄に職曰2夫1寮曰v頭云々、已上皆加美とあれば大夫《カミ》とよみてあるべけれど當時其國の長官を字音に大夫《タイフ》と云りしと聞ゆれば姑字音のままに訓べし○國司は天皇の御言を承て國政を執るゆゑにミコトモチと云
(173)栗田氏標注 倭名抄ニ曰。餝磨郡伊和ト。春枝云ハク、今飾西郡ニ岩村アリト○里ノ下ニ疑ハクハ脱文アラム○上大夫ハ小川ノ條ニ見エ上野大夫ハ越部ノ條ニ見エタリ。此ニ據レ㌦上生石大夫ハ疑ハクハ同人ナラム
新考 貽和里は即上(一〇一頁)に見えたる伊和里なり。以下二節は伊和里の記事の追加なり。緒言に云へる如く此郡の記は未撰定を經ざりしなり○善婢與の下、馬の上に善の字を落したるならむ。將死之時の將を原本に持に誤れり。爲國司の下の有は衍字ならむ。さて後上〔右△〕生石大夫爲國司之時の上は下文に後至〔右△〕2道守臣爲v宰之時1また後至〔右△〕d上野大夫結2卅戸1之時uとあるに據れば至を誤れるなり。筑は築に改むべし○栗田氏が貽和里下疑有2脱文1といへるは誤解なり。里にノを訓み添へて貽和(ノ)里ノ船丘ノ北ノ邊ニ馬墓(ノ)池アリと訓むべし○大長谷天皇は雄略天皇の御事なり。ハツセを長谷とも書くは古き事にて萬葉集・神名帳・和名抄などは古からず、はやく古事記に大長谷命・大長谷若建命・長谷朝倉宮など見えたり○尾治(ノ)連は即尾張(ノ)連なり。今の男山の一名を長彦山といへば長日子は其附近にぞ住みたりけむ(一一〇頁參照)。その播磨に在りし所以は知られず○婢を敷田氏はマカダチとよみたれどマカダチ(174)は今いふ腰モトにてここに婢と慍へるは妾の事なれば寧ヲミナメと訓むべし○上古貴紳が妾と馬とを相たぐへて愛せし例はたとへば國語に 子爲2魯上卿1相2二君1矣。妾不v衣v帛馬不v食v粟。……、文子曰……而我美2妾與1v馬|無乃《ムシロ》非2相v人者1乎。且吾聞以2徳榮1爲2國華1。不v聞v以2妾與1v馬
とあり。史紀項籍傳に
有2美人1姓虞氏、常幸(セラレテ)從。駿馬名|騅《スヰ》、常騎
とあるをも思ふべし○合之意の之は助字なり。その用法は上文、大立丘(一二四頁)の下なる見2之地形1の之と同じ○本文に顯れねど妾と馬とを殉死せしめしなり。孝徳天皇大化二年三月甲申の詔のうちに及強殉2亡《ウセシ》人之馬1……如v此舊俗一皆悉斷とのたまへるを見れば上古にははさる風俗ありしなり○生石はオホシとよむべし。萬葉集卷三なる生石(ノ)村主《スクリ》眞人を續紀天平勝寶二年正月の下に大石村主眞人と書きたればなり(七四頁參照)。大夫は音讀すべし。もし訓讀せむとならばマヘツギミなどよむべし。敷田氏は爵位の大夫と官職の大夫とを混同せり。卿をも大夫をもカミと訓むは官職の時なり。ここに最適切なる例を擧げむに萬葉集卷四に
(175) 京職(ノ)大夫〔二字右△〕藤原(ノ)大夫〔二字右△〕贈2大伴郎女1歌
とあり、前なるは官職の大夫なればカミとよむべく後なるは爵位の大夫なればマヘツギミとよむべし。又敷田氏が有善婢與馬竝合之意をヨキ婢ト馬トアヒアフノ意アリとよめるは非なり。「ヨキ婢トヨキ馬トアリ。竝《ミナ》意ニカナヒキ」とよむべし。又皆葬准吾即爲之作墓を皆葬ハ吾ニ准ヘテ即之ガ爲ニ墓ヲ作レとよめるも非なり。皆葬ハ吾ニ准ヘヨト。即之ガ爲ニ墓ヲ作ルとよむべし○春枝が今飾西軍有2岩村1といへる、これは事實無根にはあらねど岩村といふは無し。今の手柄村・荒川村あたりを岩(ノ)郷と云ひしなり。さて今の姫路附近は上古の伊和里のうちなれど近古は國衙庄といひき○馬墓池の在りし處は今知られず
所3以稱2餝磨(ノ)御宅《ミヤケ》1者|大雀《オホサザキ》天皇御世遣v人|喚《メス》2意伎《オキ》・出雲・伯耆《ハハキ》・因幡・但馬五國造等1。是時五國造即以2召使1爲2水手《カコ》1而向v京之。以v此爲v罪即退2於播磨國1令v作v田也。此時所v作之田即號2意伎田・出雲△《田》・伯耆田・因幡田・但馬田1、即〔□で囲む〕彼《ソノ》田(ノ)稻(ヲ)收納之《ヲサメシ》御宅(ヲ)即號2餝磨(ノ)御宅1。又云2賀和良久《カワラク》(ノ)三宅1
(176)敷田氏標注 大雀天皇は仁徳天皇を申○餝磨御宅は今國衙莊飾萬津に御宅町あり○意伎出雲云々國造は國造本紀に詳なり○水手、和名抄大須本に加古、應神紀に水手曰2鹿子1蓋始起2于是時1也とあり
栗田氏標注 即(○退の上の)ハモト御ニ作レリ。今訂ス○出雲ノ下ニ田ノ字ヲ脱セリ。今一本ニ從フ○按ズルニ國圖ニ飾東都餝磨町餝磨津村アリ。村ノ北ニ三宅村アリ。名跡志ニ曰。村ハ飾磨郷ニ處セリト○春枝云ハク。隣郡宍粟郡ニ川原久保アリト
新考 出雲の下に田を補ふべし○即退の即を栗田氏は原作v御と云はれたれど原本にまさしく即とあり。ただ蟲ばみて見えがたきのみ○今高濱村の大字に三宅あり。是餝磨(ノ)御宅の名の殘れるなり。備前國兒島の三宅氏は此地より出でしなりと云ふ。前に云へる阿成《アナセ》と同で高濱村の内ながら阿成は東南にあるに三宅は西北にありて姫路市より飾磨町へ行く道の中程にあり○大雀《オホサザキ》天皇は仁徳天皇の御事なり○召使はメシヅカヒとツを濁りて訓むべし。御召の御使なり。語例は萬葉集卷十八(新考三七六四頁)に先妻不v待2夫君之|喚《メシ》使1自來時作歌一首とあり。又聖徳太子傳暦に敏達天皇十二年秋七月百濟賢者葦北(ノ)達率月羅《タツソツニチラ》隨2我朝(ノ)召使吉備(ノ)海部《アマベ》羽島1來朝(177)とあり。大鏡・吾妻鏡などに見えたる職名の召使とは異なり。さてここはその御使を水手として使ひしを咎め給ひしなり○爲罪の語例はたとへば漢書元帝紀に
見d宣帝所v用多2文法吏1以2刑名1繩v下大臣楊惲・孟寛饒等坐2刺譏辭語1爲v罪〔二字傍点〕而誅u嘗侍v燕從容言云々
とあり。ここの作田は佃にあらで墾田なり。御宅の事は上(八〇頁)に云へり。即彼田稻收納之御宅とあるを敷田氏が即ソノ田ノ稻ヲヲサムル御宅ナリとよめる、栗田氏が即彼田ノ稻ヲ收メテ之ヲ御宅ニ納レキとよめる共にわろし。宜しく即ソノ田ノ稻ヲヲサメシ御宅ヲとよむべし。否上の即は恐らくは衍字ならむ○賀和良久三宅は久の下に乃を脱したるならむ。カワラクの名義は心得がたけれど試に云はば加和良久は加波良久の誤、そのカハラクはカハリと同じくカハルといふ動詞の名詞形にてツグノヒの意ならざるか。即罪を償ふ爲に田を墾きしよりカハラクノ御宅と稱せしにあらざるか。ツグノヒをカハリと云へる例は宇治拾遺物語卷四石橋下蛇の事といふ條に
かく宿させ給へるかはりに〔四字傍点〕、苧やある、績みて奉らむ。火とぼし給へ
(178)とあり。又此書に唱のままに假字を誤書(おそらくは語寫)せる例は宍禾郡石作里の下に
阿和〔右△〕賀山は伊和大神之妹阿和〔右△〕加比賣命在2於此山1。故曰2阿和〔右△〕加山1
とあるも、もし但馬國朝來郡粟鹿神社と同神とせば阿波〔右△〕賀の誤書とすべし
以上里十五。和名抄の郷名にて本書に見えざるは餘戸・草上・周智の三郷なり。但草上は本書にては巨智里に屬せり。又餘戸は本書の漢部里に當れり。周智は不明なり○本郡の記は草稿のままにて傳はりしと見えて重出錯簡あるのみならず記述の順序はた頗しどけなし。今試に順序を正さば伊和・英賀《アガ》・麻跡《マサキ》・漢部《アヤベ》・菅生・韓室・巨智・賀野《カヤ》・因達《イタテ》・枚野《ヒラヌ》・大野・少川《ヲガハ》・英保《アボ》・安相《アサグ》・美濃《ミノ》とすべきか
揖保《イヒボ》郡
事明v下
敷由氏標注 揖保郡事明v下とは粒丘(ノ)條に傳あるを云るなるべし○郡はコホリとよまむは常なれど總てアガタとよむべし。其事委(ク)云べけれど此所に盡ざれば卷末(179)に云を見るべし
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。播磨國揖保(伊比保)ト。國圖ヲ按ズルニ今分チテ揖東揖西二郡トセリ
新考 下といへるは揖保里|粒《イヒボノ》丘の條なり。イヒボを揖保と書けるは揖の音イフを轉じてイヒに借れるにてサヒガを雜賀と書けると同例なり。今はつづめてイボと唱ふ○此郡は中古より揖東《イツトウ》・揖西《イツサイ》二郡に分ちたりしを明治二十九年に又合せて揖保郡としき
○伊刀《イト》嶋 諸嶋之總〔右△〕名也。名〔左△〕《ムカシ》品太天△《皇》立2射目人於餝磨△《郡》射目前《イメザキ》1爲v狩之《ミカリシキ》。於v是《ココニ》自2我馬野《アガマヌ》1出《イデ》2牝鹿《メガ》1過2此阜1入2於海1泳2渡於伊刀嶋1。爾《ソノ》時|翼〔左△〕人《イメビト》等望見相語云。鹿者既《カハハヤク》到2就於彼嶋1。故名2伊刀嶋1
敷田氏標注 伊刀島、上の少川里條にはやく見えたれど名義は爰に到2就於彼島1とある到の伊刀に轉じたるなり○翼人は狩人《カリビト》とよむべし。其義は多可郡|都麻《ツマ》里(ノ)條に云を見よ
(180)栗由氏標注 也ノ下ノ名ノ字ハ衍レり○皇ノ字既セリ。今一本ニ從フ○射目人、原《モト》射人目ニ作レリ。今訂ス○翼人ハ未詳ナラズ。蓋上文ニ謂ヘル射目人ヲ言フカ
新考 總を原本に木扁・※[総の旁]旁に作れり。也の下の名は昔の誤なり。射目人を原本に射人目と書きて顛例の符を記せり。又天の下に皇を、餝磨の下に郡を脱せり○伊刀島を地名辭書に家島群島の總名とせるは非なり。家島は下文に別に見えたるにあらずや。又家島群島のうち男鹿《タンカ》島だに夢前川の河口を距る事凡七里なるべし。その島に鹿の泳ぎ到らむが見えむやは。伊刀島は恐らくは夢前川の河口と大津茂川(一名太田川)の河口との間にありし島嶼ならむ○射目前のサキは山崎なれば此阜と云へるなり○翼人は下なる託賀《タカ》郡|都麻《ツマ》里の處にも
品太天皇狩2於此山1。一鹿立2於前1鳴聲比々。天皇聞v之即止2翼人〔二字傍点〕1。故山者號2比也山1、野者號2比也野1
とあり。敷田氏は
周禮秋官に※[羽/是]氏掌v攻2猛鳥1とありて※[羽/是]讀爲v翅、翼之翅と註せり。かかれば翼人も※[羽/是]氏も同義なる事を知るべし
(181)といへり。按ずるに寧※[羽/是]人の誤とすべし。※[羽/是]は音シ、鳥の翼なり。又※[羽/是]氏は鳥を捕る官にてほぼ今の主獵官に當れり。されば※[羽/是]人はイメビトと訓むべし
○香山《カグヤマ》里(本名|鹿來墓《カグハカ》。土下上) 所3以號2鹿來墓1者伊和大神占v國之時鹿來立2於|山々《ヤマノミネ》1。岑々《ヤマノミネ》是亦似v墓。故號2鹿來墓1。後至2道守臣《チモリノオミ》爲v宰之時1乃改v名爲2香山1
敷田氏標注 香山里、和名抄に加古也萬と註せり。今香山村あり○山々岑々、仙覺抄に引けるには山岑に作れり○道守臣、姓氏録に開化天皇皇子豐葉頬別命之後也とあり
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。揖保郡香山(加古也萬)。按ズルニ國圖・名跡志ニ揖東都ニ香山村アリ○姓氏録ニ曰。道守朝臣開化天皇皇子|武豐葉頬別《タケトヨハヅラワケ》命之後也。道守臣同上
新考 香山はカグ〔右△〕ヤマと訓むべし。和名抄に加古也萬と訓註せるは之を訛れるなり。カグを香と書けるはアサグのサグを相と書けると同例なり(一二八頁參照)。今|香島《カシマ》村の大字に香山《カウヤマ》あり。元來香島村は明治二十二年に香山・吉島以下の五村を合一せし時香山・吉島の首尾を取りて名づけしなり。その香山を今カウヤマと唱ふるは(182)字に就きて又訛れるなり。香島村は郡の正北に在りて揖保川に跨れり○占國は國土の發見占領なり○山々岑々は山岑山岑なり。されば鹿來リテ山ノ岑ニ立チキ。山ノ岑是亦墓ニ似タリと句讀すべし。是亦はつらねてハタとも訓むべし。墓といへるは所謂前方後圓墳ならむ○道守臣《チモリノオミ》は氏とカバネとなり。名は傳はらぬなり。宰は國司なり。はやく上(一四五頁)に見えたり○墓といふ名を忌みて山と改めしならむ
家内《ヤヌチ》谷 即是香山之谷。形如2垣(ヲ)廻1。故號2家内谷1
敷田氏標注 家内谷、今平野と千本驛との間に在と云り
栗田氏標注 國圖ヲ按ズルニ香山ノ西北ニ家氏村アリ
新考 敷田氏はヤウチ谷とよみ栗田氏はイヘヌチ谷とよめり。さて敷田氏の云へる平野・千本《センボン》は共に東栗栖村の大字なるが兩部落の中間にヤウチ谷といふがあるを聞かず。たとひ在りとも地理にはかなはじ。栗田氏はイヘヌチ谷とよみて香山西北有2家氏村1と云へり。家氏を家内谷に擬したるはよろし。但家氏は香山の東の谷にありて大字香山の内にてイヨヂと唱ふるなり。思ふに家内はもとヤヌチと唱へしを後にイヘウチと唱へ次にそのチを濁りてイヘウヂと唱へて家氏の字を充て更(183)にイヘウヂをつづめてイユヂと云ひイヨヂと訛れるならむ
佐々村 品太《ホムダ》天皇巡行之時|※[獣偏+果]《サル》噛2竹葉《ササ》1而|遇《アヒキ》之。故曰2佐々村1
栗田氏標注 按ズルニ國圖・御圖帳ニ揖東都上下ノ佐々村、香山村ノ東南ニアリ○時ノ下、本書字體闕損シ僅ニ犬扁ヲ存ゼリ。疑ハクハ猿ナラム
新考 栗田氏は疑猿といひ敷田氏は直に猿に改めたれど原本を見るに明に※[獣偏+果]と讀まる。※[獣偏+果]は一種の猴(ヲナガザル)なれどここにては猴に通用したるなり。因にいふ猿は※[獣偏+爰]の俗字にて※[獣偏+爰]も亦一種の猴(テナガザル)なり○香島村の大字に上笹下笹ありて揖保川の東側に在り○※[獣偏+果]以下は竹葉《ササ》ヲカミテアヒキとよむべし。アフは今は己を主としてのみ云へど古は他を主としても云ひしなり。即我ガ人ニ遇フとも人ガ我ニ遇フとも云ひしなり。栗田氏の如くササヲカミタルニアヒタマヘリとよめば而の字不用なり。下文にも
大鹿出2己舌1遇2於矢田村1(宍禾郡總説)
有2嘶馬1遇2於此川1(同郡柏野里伊奈加川)
白横〔左△〕咋2己舌1遇2於此山1(賀毛郡|修布《スフ》里|鹿咋《カクヒ》山)
(184)とあり
阿笠〔左△〕《アツ》村 伊和大神巡行之時|告〔左△〕《クルシミ》2其|心中《ムネヌチノ》熱1而控2絶《ヒキタツ》衣(ノ)※[衣+丑]《ヒモ》1。故號2阿笠〔左△〕《アツ》1。一《アルヒト》云。昔天有2二星1落2於地1化爲v石。於v此《ココニ》人衆《モロビト》集來談論。故名2阿笠〔左△〕1
敷田氏標注 阿笠、アツシとよまざれば語をなさず。笠は必誤字なるべし○二星落云々、續紀卅二に有v星隕2南北1各一、其大如v瓮。史記始皇本紀に有2墜星1下2東郡1至v地爲v石
栗田氏標注 按ズルニ阿笠ハ苦其心中熟マタ人衆集來ナドノ語ニ據ラバ恐ラクハ阿豆ニ作ルベカラム
新考 阿笠村はアツシ又はアツマルと關係ある地名なれば栗田氏の如く阿豆村の誤とすべし。豆は今はヅとよめど古典には清音のツにも用ひたり(萬葉集新考二九五九頁・四〇一七頁・四〇二九頁參照)○告も栗田氏に從ひて苦の誤とすべし○※[衣+丑]は紐の俗字なり。栗田氏が袖に改めたるは非なり(標注の寫本には※[衣+丑]と書きてソデと訓じ版本には直に袖に改めたり)○控絶はヒキタチキとよむべし。敷田氏がヒキタエキとよめるはわろし○人衆を二註に、ヒトオホクとよめり。上文印南郡|益氣《ヤケ》里(185)の下に八十人衆上下往來とあり又下文日下部里の下に連2立人衆1とある共にヒトオホクとはよまれざれここはモロビトと訓むべし(日下部里の下なるは敷田氏はヒトビトとよみ栗田氏はモロビトとよめり)。字例は漢署元帝紀に地震2于隴西郡1……壓2殺人衆1とあり○心中は胸内なり。ムネヌチとよむべし。敷田氏はムネとよみ粟田氏は訓をふらず。神功皇后紀の歌に腹中を波邏濃知《ハラヌチ》といへり
飯盛山 讃伎國|宇達《ウタリ》郡|飯《イヒノ》神之妾名曰2飯盛(ノ)大刀自《オホトジ》1。此度來占2此山1而|居之《ヲリキ》。故名2飯盛山1
敷田氏標注 宇達郡、この達をタリとよむは古韻なり。和名抄に讃岐國鵜足(ハ)宇多利と註せり。式に同郡飯(ノ)神社なり。今飯(ノ)天神と稱す。祭神詳ならず○妾、字鏡集・色葉字類抄等に據て(○ヲナメと)よめり。猶應神紀・欽明紀等に例あり
栗田氏標注 延喜神名式ニ曰。讃岐國鵜足郡飯(ノ)神社○名跡志ニ曰。揖東郡ニ飯盛村アリト
新考 飯盛山も、各跡志に云へる飯盛村も余は之を知らず。元來飯盛山は諸國に多(186)き山名にて(本書賀毛郡楢原里の下にも飯盛嵩あり。又本書には見えねど神崎郡にもイモリ山あり)形、盛飯に似たるに依りて名づけたるなれば實地を踏査せば發見するに難からじ○神名帳の飯(ノ)神社は今讃岐國綾歌郡飯野村にありて飯(ノ)天神と稱する事敷田氏の云へる如し。祭神は本國の國魂なる飯依比古命かと云へり○ウタリを宇達と書ける、即タツのツをリに轉借したる例は知らねどタ行をラ行に轉借したるは達磨《ダルマ》・安達《アダタラ》を例とすべし○妾を敷田氏はヲナメとよみ栗田氏はミメとよめり。妾の訓ヲナメはヲミナメが(ヲミナ子がヲナゴに轉ぜし如く)ヲムナメ、ヲウナメ、ヲナメと轉ぜしに似たれば源に溯りてヲミナメとよむべし○大刀自は夫人と心得べし。萬葉集卷八(新考一二一九頁)に藤原夫人とある註に字曰2大原(ノ)大刀自1とあり
大鳥山 鵝〔左△〕《オホトリ》栖2此山1。故△《名》2大鳥山1
敷田氏標注 鵝、和名妙に訓を脱し類聚名義抄・字鏡集等に、ノセ・カリ・ククヒなど註せれどオホトリの訓なし。雄略紀に身狹村主《ムサノスクリ》青將2呉所v獻二※[鳥+我]1到2於筑紫1云々、※[鳥+我]鵝同字なり。古事記に内2剥鵝衣1とあるもククヒの類と見えたれば大鳥とよむべし
(187)栗田氏標注 名ノ字モト無シ。今一本に從フ
新考 栗田氏に從ひて故の下に名を補ふべし(敷田氏の本には名の字あり)○鵝はおそらくは鸛の誤ならむ。因に云ふ。古事記神代卷に
自2波穗1乘2天之|羅摩《カガミノ》船1而|内2剥《ウツハギニ》鵝皮1剥《ハギテ》爲2衣服1有2歸《ヨリ》來神1
とある鵝は延佳・宣長の云へる如く蛾の誤なるか又は少くとも蛾の通用ならむ。敷田氏が「オホトリとよむべし」と云へるは從はれず○大鳥山は新宮村宮内の後の山にて香島村に跨れりといふ
○栗〔右△〕栖里(土中々) 所3以名2栗栖《クルス》1者難波(ノ)高津(ノ)宮(ノ)天皇勅賜2刊栗子《ケヅレルクリノミヲ》若倭部連《ワカヤマトベノムラジ》池子1。即|將退來《モチマカリキテ》殖2生《ウヱオホス》此村1。故號2栗栖1。此栗子由2本刊《モトケヅレルニ》1後(モ)无《ナシ》v澁
敷田氏標注 栗栖里。和名抄に久留須と註せり。刊は刺の※[言+爲]か。……扨栗栖と云地名の和名抄に多かるも總て京に近き國々に見えたれば是は供御の科に、生し立けむ地のおのづから地名とはなりしにこそ○若倭部(ノ)連、姓氏録に神|魂《ムスビ》命七世孫天筒草命之後也
(188)栗田氏標注 倭名抄ニ曰。揖保郡栗栖(久留須)ト。栗モト粟ニ作レリ。今一本ニ從フ。按ズルニ名跡志ニ龍野領ニ栗栖川アリ
新考 初の栗の字を原本に粟に作れり○栗栖は和名抄の訓註に依りてクルスと訓むべし。クルスは元來栗林なり。因に云ふ。栗はいにしへクルと(又はクルとも)云ひしにあらざるか。萬葉集卷八(新考一六四六頁)にマモレル栗子とありてクルシのクルに栗を充てたり。さて今東西の栗栖村ありて香島村の西及南に隣れり。但今はクリスと唱ふ○刊《カン》は栗田氏に從ひてケヅレルとよむべし。俗語のムキタルなり。敷田本には誤りて刊《セン》とせり
廻川
敷田氏標注 廻川の上に落字あり
栗田氏標注 廻川ノ下ニ恐ラクハ脱文アラム
新考 敷由氏が次なる金箭川につづけてメグレル川ハ金箭川ナリと訓みて「廻川の上に落字あり」と云へるは誤れり。栗田氏の云へる如く脱文は廻川の下にあるなり○廻川はモトホリ川とよむべし。萬葉集にイハヒモトホリ・イユキモトホリなど(189)のモトホリを廻と書けり。さて此川は今の栗栖川ならむ。栗栖川は東西の栗栖村の界なる山間にて大なる弧線をゑがきてモトホリといふ名にかなへり。モトホリはマハリといふことなり
金箭《カナヤ》川 品太天皇巡行之時|御苅〔左△〕《ミカリノ》金箭落2此〔□で囲む〕於此川1。故號2金箭1
敷田氏標注 苅は狩の借字
栗田氏標注 御圖帳ヲ按ズルニ揖西郡ニ金屋村アリ○御苅ハ蓋御獵ノ義
新考 地名辭書に今の栗栖川としたれど今の角龜《ツノカメ》川ならむ。此川は西栗栖村より發し佐用郡に入りて志文《シフミ》川に注げり。因に云ふ。本郡の諸川中揖保川の支源ならざるは此川のみ○栗田氏は按2御圖帳1揖西郡有2金屋村1と云はれたれどさる村ある事を聞かず。香島村の北に隣れる宍粟郡|城下《ジヤウシタ》村の大字に金谷《カナヤ》ありて慶長圖には現今の如く金谷と書きたれど寛延弘化の國圖などには金屋と書けり。或は之を誤られたるにあらざるか。もし然らば此金箭川とは關係なし○苅は獵と同訓なるより寫誤れるならむ。下文出水里の下に挿櫛を指櫛と書き又上文印南郡益氣里の下、又下文越部里御橋山の下に階を橋と書けるが如き借字にはあらじ○特に金箭といへ(190)るを見れば當時金ならぬ外の物にて作れる矢たとへば石箭・角箭なども行はれしならむ
阿爲《アヰ》山 品太天皇之世|紅草《クレナヰ》生2於此山1。故號2阿爲山1。注〔左△〕《スメリ》2不v知v名之鳥1。起《ヨリ》2正月1至《マデ》2四月1見《ミエ》、五月以後不v見。形似v鳩色如v紺
敷田氏標注 紅草、和名抄に紅藍(ハ)久禮乃阿井○紺、孝徳紀にフカキハナダとよめるは義訓なり。字鏡集にフタヱとあるに從ふ。猶國典字徴紺(ノ)字(ノ)註に數多其證を引けり
栗田氏標注 名跡志ニ曰。揖東郡大市郷ニ阿爲能村アリト○紅草ハ和名抄ニ紅藍(久禮乃阿井)
新考 注は住の誤なり。二註には直に改めたり○今西栗栖村に相《アヒ》坂といふ峠あり。其山即阿爲山か。栗田氏が大市郷阿爲能村を之に擬せられたるは非なり。そは今の太市村相野にて飾磨郡|漢部《アヤベ》里の下に見えたる阿此野なり○紅草はクレナヰにてクレナヰは呉《クレ》ノアヰの約なれば、廣義に從ひてただ阿爲とも云ふべし
○越部《コシベ》里(舊名|皇子代星〔左△〕《ミコシロノサト》。土中々) 所3以號2皇子代1者|勾《マガリノ》宮(ノ)天皇之世寵人(191)但馬(ノ)君|小津《ヲツ》蒙v寵賜v姓爲2皇子代(ノ)君1而造2三宅於此村1令v奉v仕|之《キ》。故曰2△《皇》子代村1。後至d上野大夫結2卅戸1之時u改號2越部里1(一云。自2但馬國三宅1越《コシ》來。故號2越口〔左△〕《コシベ》村1)
敷田氏標注 越部里、和名妙に古之倍と註し兵部式に播磨國驛馬越部五疋とあり。令越部莊と云○勾宮、安閑紀に遷2都于大倭國勾(ノ)金橋1因爲2宮號1○皇子代は古事記標註に委註しおきつ○寵人は愛妾《ハシヅマ》の例に傚て(○ハシビトと)よみつ。姓又は名に間人《ハシビト》とあるもおなじ○但馬君は但馬|諸助《モロスケ》の後なるべし○三宅、安閑紀に置2磨國越部屯倉・牛鹿屯倉1○給卅戸は戸令に戸以2五十戸1爲v里、義解に若滿2六十戸1割2十戸1立2一里1とあり。按此時卅戸餘れる故に一里を立てしにや○但馬國三宅、式に丹波國桑田郡三宅神社。年治按越部は子代の轉訛なるべし
栗田氏標注 倭名抄ニ曰。揖保郡越部(古之倍)○注ノ里モト星ニ作レリ。今一本ニ從フ○安閑紀ニ曰。二年五月甲寅置2播磨國越部屯倉1ト。延喜兵部式ニ曰。播磨國驛馬越部五疋ト。十六夜日記ニ越部圧トアリ○皇子代ノ皇ノ字モト脱セリ。今一本ニ從フ(192)○注ノ越部ハモト越口ニ作レリ。口ハ蓋※[即の旁]ノ誤、※[即の旁]ハ即部ノ字ノ省ナリ。故ニ今之ヲ訂ス
新考 原本に里を星に誤り皇を脱せる事栗田氏の云へる如し。口は戸を誤れるか
○此里は今も越部《コシベ》村といふ。東栗栖村の東南につづきて揖保川の西岸にあり。藤原俊成の女なる彼越部禅尼の住みしは此地なり。俗書并に郷土誌に此尼と俊成の孫爲家の妾なる阿佛尼とを混同せるものあり○勾《マガリノ》宮は勾(ノ)金橋(ノ)宮を略したるにて其天皇は即安閑天皇なり○皇子代《ミコシロノ》君は皇子の代といふ御意にての賜姓なり。此天皇御子の無きを嘆きたまひし事日本紀に見えたり○三宅の三は御の借字なり。御宅の事は上(八〇頁)に云へり。安閑天皇紀に
二年五月置2播磨國越部(ノ)屯倉《ミヤケ》・牛鹿《ウシカノ》屯倉1
とあり。本書に初皇子代里といひしを上野大夫の時越部里と改めきと云へるに據らば安閑天皇紀に越部(ノ)屯倉と書けるは後の稱に從ひて書けるものとすべし。因にいふ。古事記考靈天皇の段に次(ニ)日子寤間《ヒコサメマノ》命者針間(ノ)牛鹿(ノ)臣之祖也といひ姓氏録右京皇別に
(193) 宇目可(ノ)臣(ハ)孝靈天皇(ノ)皇子|彦狹島《ヒコサシマノ》命之後也
といへる牛鹿・宇目可は地名によれる氏にて其地はここに云へる牛鹿屯倉と同處なるべきがここに播磨國内神社記飾東郡の下に牛壁明神あり。その牛壁は牛鹿部の借字なるべければ牛鹿屯倉の所在の飾東郡なりし事のみは略推定すべし○令仕奉之はツカヘマツラシメキとよむべし。其御宅をあづけ給ひしなり○結1卅戸1之時に就きて敷田氏が戸令《コリヤウ》の義解《ギゲ》を引きて「此時卅戸餘れる故に一里を立てしにや」と云へるはいまだ徹底せず。まづ戸令に凡戸以2五十戸1爲《セヨ》v里とありて義解に
謂(フハ)若滿2六十戸1者割2十戸1立2一里1置2長一人1。其不v滿2十家1者隷入2大村1不v須2別置1也
とあり。その意は
ここに或區域の民戸を結びて新に一里を立てむとするに其戸數適に五十戸なる時は戸令にかなひて幸なれど實際は必しも適に五十戸ならで五十戸に餘る事あるべし。否多くは五十戸に餘るべし。さる際には五十九戸までは一里とし六十戸以上なれば五十戸の餘を以て別に一里を立つと言へるなり。然らば或區域の民戸四十九戸以下なる時は如何と云ふにさる際に(194)は村のままにさしおきて里は立てざるなり。
從來の學者は一郡の民戸は必或里に屬すべきものの如く心得たれど里の外に尚いまだ里となるに至らざる村あるべく從ひて或郡は幾里なれば其戸數は若干といふ如き算定は試みるべからず。所詮里と村との關係は數の比例こそ懸絶したれ今の市町と村との關係の如くなるべし。一郡の土地が必或里に屬すべきものにあらざる事は夙く賀古郡の條(五〇頁)に云へる如し
又六十戸以上なる時五十戸の餘即十戸以上を以て別に一里を立てむにその名稱は如何せしかと云ふに令には見えざれど、しばらく餘戸里など稱して、その五十戸に滿たむを待ちて正しき里名を命ぜしならむ。餘部里の名は出雲風土記に見え餘部郷の名は和名抄に見えたり。但出雲風土記の餘戸里の里は本書の村に當れり。又餘部といふ地名の今も諸國に殘れる、多くはアマルベと唱ふれど伴信友はもとアマリベと云ひしを訛れるならむと云へり(全集第五册一九〇頁若狹舊事考參照)。右の如くなれば五十戸未滿の民戸を結びて一里を立つるは新に里を立てむとするに其戸數六十戸に餘れる場合か又は或里の民戸増加して六十戸に達せる場合に(195)限るべし。然らばここに結2卅戸1之時改2號越部里1とあるは如何。戸令の集解《シフゲ》に
古記云。若有2六十戸1者爲2二分1各以2卅戸1爲v里也
とあるは新に里を立てむとする場合を云へるなるべけれど、こは全く令を無視したる處分にてもし如此處分に依らば令の以2五十戸1爲v里は六十戸以上ある場合には全く空文となりて行はれざらむ。されば義解の一説に
若滿2六十戸1者……或説爲2二分1各以2卅戸1爲v里者非也
と云へるに從ふべし。思ふに此越部里はもと栗栖里に屬して皇子代村といひしに此村を込めたる栗栖里の戸數遙に規定の五十戸を過ぎしかば其中三十戸を割きて栗栖里より離ちて別に一里を立てしかど其戸數いまだ規定に達せざれば剰戸の義にてしばらく越戸《コシベ》と稱せしにて部は實は戸の借字ならむ。更に思ふに安閑天皇紀元年閏十二月の下に
枳※[草冠/呂]喩《キコユ》以2女幡媛1獻2采女(ノ)丁(ニ)1并獻2安藝國(ノ)過戸〔二字傍点〕廬城部屯倉《イホキベノミヤケ》1以贖2女(ノ)罪1
とある過戸にコシベと傍訓したるを日本書紀通釋(二六五八頁)に
過戸はアマルヘと訓べし(舊訓は誤なり。又思ふにコシと云も餘りて員外に超過《コシ》(196)たる義か。されどなほ誤なるべし)
と云ひたれど餘戸はいにしへコシベと云ひしか又はコシベとも云ひしならむ。右の傍訓は妄に誤として斥くべからず○上に云へる如くならば里名の註の舊名皇子代里は皇子代村の誤記とすべし。皇子代はいまだ里とならざる前の名なればなり○上野大夫は餝磨郡少川里の下(一四三頁)に
以後《ソノノチ》庚寅年上大夫爲v宰之時改爲2小川里1
とあると同人にて彼には上の字の下に野の字をおとせるならむ。庚寅年は持統天皇の四年なり。もし上野大夫、彼上大夫と同人ならばその此國の宰たりしは大寶以前なれば戸令に從ふべきにはあらねど五十戸を以て里とする事ははやく大化改新の詔に見えたれば上の説は變更を要せじ。敷田氏はここの大夫をもカミと訓めり。タイフと音讀するか又はマヘツギミとよむべき事上(一七四頁)に云へる如し○延喜兵部省式に驛馬越部五疋と見えたるは此里は當時の出雲街道に當ればなり。今越部村の大字に馬立《ウマタテ》あり。是古驛の址か○但馬國三宅は穴見庄三宅村といふがありし、それか。穴見は和名抄の出石郡|安美《アナミ》郷なり○敷田氏が原本に皇子代村の皇(197)を落せるをそのままにして「越部は子代の轉訛なるべし」といへるは特に論ずるに及ばじ。氏は又姓及名の間人《ハシビト》を愛妻《ハシヅマ》の同例としたれどハシビトのハシはハシタモノ・ハシタメなどのハシにて中間の義なり。こは因に辨ずるのみ
※[益+鳥]住《サギズミ》山 所3以號2※[益+鳥]住1者昔※[益+鳥]|住多〔二字左△〕《アマタスメリ》2此山1。故因爲v名
敷田氏標注 ※[益+鳥]、新撰字鏡に佐支と註せり
栗田氏標注 名跡志ニ曰。揖西郡庵村ニ鷲栖山アリテ今ニ至ルマデ鷲猶栖メリト。塵添※[土+蓋]嚢鈔ニ播州記ヲ引キテ曰。揖東郡※[益+鳥]住山アリ昔※[益+鳥]多栖2此山1故云v爾ト○多住ハモト住多ニ作レリ。今上文ニ據リテ訂ス
新考 原本に多住を顯倒せり○※[益+鳥]を敷田氏はサギとよめり。栗田氏は訓を附けざれど播磨名跡志に
揖西郡庵村鷲栖山郡中一の嶮山にて尖り山とも又は窟とも云。窟穴に十疊ばかりも敷くべきなり。今も鷲、巣をかくる也
といへるを逸文考證にも引きたればワシとよめるに似たり。名跡志にいへる庵村は揖西郡にあらで佐用郡平福村の大字|庵《イホリ》なり。即播磨鑑佐用郡之部に
(198) 鷲栖山 平福町より二十丁北。庵村 郡中第一の嶮山。尖り山とも天狗山とも云又は窟とも。窟の穴に十疊計り可敷也。今も鷲栖をかくる也
とありて問題の地といたく相離れたるのみならず郡も相異なれば、ここの※[益+鳥]住山には、擬すべからず。抑名跡志は本國人(飾東郡木場村の人白井長右衛門元貞)の著なるが原書はいまだ見ざれど栗田氏の標注に引けるを見るに往々信ずべからざる事あり。水戸には夙く傳はりきと見えて水戸人は屡此書を引用せり。案ずるに※[益+鳥]は龍頭※[益+鳥]首の※[益+鳥]にて水鳥の名なればワシとはよむべからす。宜しくサギとよむべし。字書に※[益+鳥]似v鷺而大とあり。元來※[益+鳥]は實在の鳥なりやおぼつかなし。或は鷺を理想化したるにあらざるか。因にいふ。船首に此鳥の形を附くるは水中の大魚を嚇さむ爲なり。證は逸文の註に引くべし
△《山》(ノ)石似v※[木+閣]。故號2※[木+閣]坐山1
敷田氏標注 ※[木+閣]は字書に見えず。和名抄に閣を多奈と註せり。即木扁の加はりたるなるべし
栗田氏標注 山石ノ山ノ字モト脱セリ。今下文ノ例ニ據リテ補フ○春枝曰ハク。佐(199)用揖西兩郡ノ界ニ棚倉山・棚倉權現アリト
新考 栗田氏に從ひて山の字を補ふべし。※[木+閣]は閣《タナ》に私に木扁を添へたるなる事敷田氏の云へる如し○春枝が棚倉山・棚倉權現ありと云へるは例の詐にあらずや。但佐用軍に界へるは西栗栖村のみなればたとひさる山ありともここには用なし
御橋《ミハシ》山 大汝《オホナムチノ》命積v俵立v橋。山石|△《亦》似v橋。故號2御橋山1
栗田氏標注 春枝云ハク。今佐用郡ニ御橋山アリト
新考 佐用郡に御橋山ありや知らねど、たとひ有りともここには用なし○橋は階の借字なり。印南郡|益氣《ヤケ》里の下にも石階・八十階を石橋・八十橋と書けり○山石の下に、亦を落せるか。下文に
即遣3稻種積2於此山1。山形|亦〔右△〕似2稻積1。故號曰2稻積山1
とあればなり。但上岡里の下に
故號2神阜1。阜形似v覆v船
とあれば落せるにあらで略せるか。敷田本には山の字をも落せり○以上三山は今の城《キノ》山の内か。城(ノ)山(又|龜《キノ》山と書けり)は越部村と揖西村(平井村)とに跨れり。地名辭(200)書に「御橋山は即|觜《ハシ》崎の山脈を云ふ」と斷言したるはおぼつかなし
狹野《サヌ》村 別(ノ)君玉手等(ノ)遠祖|本《モト》居2川内《カフチ》國泉郡1。因2地不1v便|※[遷の異体字]〔左△〕到2此|土《トコロ》1。仍云。此野|雖v狹《サクアレド》猶可v居也。故號2狹野1
敷田氏標注 川内國泉郡、續紀靈龜二年春三月割2河内國和泉・日根兩郡1令v供2診努宮1、夏四月割2大鳥・和泉・日根三郡1始置2和泉(ノ)監1焉。天平十二年八月和泉監并2河内國1焉。天平寶字元年五月和泉國依v舊分立とあり。未分立せざりし時を云○不便、書紀にモヤモヤモアラズとよめれど、よしなし。漢書文帝紀に省2※[徭の旁+系]費1以|便《ヨロシウセヨ》v民とあるに據る○狹野、今佐野村あり
栗田氏標注 按ズルニ國圖ニ揖東郡ニ佐野村アリ○按ズルニ靈龜二年河内國和泉等ノ郡ヲ割キテ和泉(ノ)監ヲ置ク。此ニ據レバ風土記ハ靈龜以前ニ成リシガ故ニ爾《シカ》イヘルナリ
新考 今も越部村の大字に佐野あり○別《ワケノ》君は和氣(ノ)公《キミ》におなじ。姓氏録和泉國皇別に
(201) 和氣(ノ)公(ハ)犬上(ノ)朝臣同祖、倭建尊之後也
とあり○二註に引ける如く元正夫皇紀に
靈龜二年三月割2河内國和泉・日野兩郡1令v供2珍努《チヌノ》宮1
夏四月割2大鳥・和泉・日根三郡1始置2和泉(ノ)監《ゲン》1焉
とあり。されば本書の成りし時(和銅七年か)には和泉郡はなほ河内國に屬したりしなり。イヅミはもと泉と書きたりしを例の地名は二字に書くべしといふ制に依りて和泉と書くこととなりしなり。日本靈異記には泉國泉郡とも和泉國泉郡とも和泉國和泉郡とも書けり○〓は還の俗體なり。但ここは遷を誤れるなり○雖狹はサクアレドとよむべし。敷田氏がサキトイヘドと訓めるは語格ととのはず。サシトとこそいぶべけれ。下文|邑智《オホチ》驛家の下にも
吾|謂2狹地《サキトコロゾトオモヒシニ》1此乃大内|之乎《ナルカモ》 、
又|宍禾《シサハ》郡宇波良村の下にも
勅此地|小狹《サクテ》如2室戸1
とあり
(202)出雲國阿菩大神聞大倭國畝火香山耳梨三山相闘此欲諫止上來之時到於此處乃聞闘止覆其所乘之船而坐之故號神阜々形似履〔出雲~□で囲む〕
出雲國以下五十四字は次なる上岡里の下にありしが紛れてここに入れるなり
○上岡《カムヲカ》里(本△《名》林田〔二字左△〕里。土中下) △3△△2△△1△《所以號神阜者》出雲國阿菩大神聞2大倭國畝火香山耳梨三山相闘1此欲2諫止1上來之時到2於此處1乃聞2闘止1其所v乘之船1而坐之。故號2神阜1。々形似v覆v〔出雲~□で囲む〕△《船》
敷田氏標注 阿菩大神所見なし。萬葉一なる三山爭ひの歌を見るに大神印南郡迄來坐しを闘止て後餝磨郡英保に止り給ひけむ。今東阿保西阿保と云村あり。かかれば地名を以神名に稱(シ)ならひしにや。彼處に後藤大明神と申社あり。或(ハ)阿菩大神を祭れりと云り。能土人に問べし○覆《フセ》、神代紀に覆槽をウケフセと訓るに從ふ○上岡、和名抄に上岡(ハ)加無都乎加
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。揖東郡上岡(加無都乎加)ト。各跡志ニ曰。揖東都ニ上岡村アリト○按ズルニ土中下ノ下ニ蓋脱誤アラム○名ハ例ノゴト補フ
(203)新考 敷田氏は原文に從ひて註し栗田氏は出雲國阿菩大神の前に神阜の二字を補へり。宜しく出雲國以下の五十四字を上岡里本林田里土中下の下に移すべき事上に云へる如し。栗田氏が按土中下之下蓋有2脱誤1と云はれたるは卓見なれどその脱誤がやがて右の五十四字なる事に心づかれざりしは惜むべし○和名抄の郷名に上岡(加無都乎加)とある都は恐らくは衍字ならむ○本林田里とあるは本名神阜里の誤脱ならむ。林田里は下文に別に擧げたればなり○記事の初に所3以號2神阜1者の六字を補ふべく其次に彼五十四字を前より移し來るべく其末に船の字を加ふべし。又似v覆v船の下に、もと後に字を上岡と改めし由の記事ありもぞしけむ○今神岡村といふがありて越部村の東に續きて揖保川の左に在りて林田川に跨れり。こは明治二十二年に、上横内以下十五村を合併せし時もと上岡郷と云ひしが故に神岡村と名づけしにて其際上の字を神に改めしなり○萬葉集卷一に天智天皇御製の三山歌を載せたり。其辭にいはく
かぐ山は、うねびををしと、耳梨と、あひあらそひき、神代より、かくなるらし、いにしへも、しかなれこそ、うつせみも、つまを、あらそふらしき
(204) 反歌
かぐ山と耳梨山とあひし時たちて見にこしいなみ國はら
此反歌には主格なければ誰が立ちて見に來しにか知られぬが本書の記述と對照して始めて出雲なる阿菩《アボノ》大神が見に來給ひしなりとは知らるるなり。但御製の趣は本書の趣と異なり。即天皇の據り給へる傳説にては阿菩大神は印南國原まで來給ひ
之を印南郡|神爪《カヅメ》なりとせる伴信友等の説の全く誤れることは萬葉集新考卷一(二九頁)に辨じたる如し
本書に探りたる傳説にては揖保郡神阜まで來給ひしなり。さて阿菩大神はいかなる神にか知られず。飾磨郡に阿保といふ處あれば此神と關係ありはせずやとは誰も思ふ所なるべけれど其阿保即|英保《アボ》里は本書に
右稱2英保1者伊豫〔左△〕國英保村人到2來居於此處1。故號2英保村1
とあるのみならず印南國原の内にあらねば恐らくは關係あらざらむ。敷田氏氏が
大神印南郡迄來坐しを闘止て後餝磨郡英保に止り給ひけむ
(205)と云へるは臆斷のみ。又
彼處に後藤大神明と申社あり。或(ハ)阿菩大神を祭れりと云り
といへるは今の城美並村阿保の村社阿保神社即舊稱伍堂大明神の事なるべきが此社の祭神を阿菩大神とせる説ある事を聞かず○山形似v覆v船の覆は二註の如くフセタルとよむべし。美濃國惠那山の一名を覆舟山といふもその形船を覆せたるが如きに由りてなり。覆船の字例は後漢書戴就傳に乃|臥《フセテ》就2覆船(ノ)下1以2ウマ通1薫v之とあるなどに據れるならむ。馬通は馬矢即馬糞なり
△△△《菅生山》 菅生2山邊1。故曰2菅生1。一云。品太天皇巡行之時闢〔右△〕2井(ヲ)此岡1水甚清寒。於v是《ココニ》勅曰。由2水(ノ)清寒1吾意|宗々我々志《ソガソガシ》。故曰2宗〔右△〕我|富《フ》1
敷田氏標注 古事記に我御心須賀須賀斯、故其地者於v今云須賀也とあり。此に宗々我々と書けるは古文の書法也
栗田氏標注 宗我岡ノ岡モト富ニ作レリ。今之ヲ訂ス
新考 菅生2山邊1の前に菅生山の三字を補ふべし。此三字重出せるが故に落せるな(206)り。菅生山邊は菅、山ノ邊ニ生フとよむべし。敷田氏が菅生山ノ邊ナリと訓めるは菅生山の三字の落ちたるに心附かざりし結果なれど然よみて故曰菅生といへるに續かむや。さてここの菅は山菅にて麥門冬即ヤブランなり○原本に闢の胎を※[豆+寸]と誤り宗我富の宗の兩點を落せり○井は泉なり。清寒はキヨクサムシと訓むべし。サムシは後世のツメタシなり○宗々我々志は宗我宗我志なり。上文香山里の下にも鹿來立2於山岑1山岑是亦似v墓を山々岑々〔四字傍点〕と書けり。ソガソガシはスガスガシに同じ○宗我富の富を二註に(敷田氏は何ともことわらで)岡に改めたり。もとのままにてソガフとよむべし。富はホに借りなれたれど又フにも借れり。たとへば下文|託賀《タカ》郡|都麻《ツマ》里の下に
阿富《アフ》山者以v朸《アフコ》荷v宍。故云2阿富《アフ》1
とあり。地の名をスガフともソガフとも云ひしなり○今の新宮村の大字に曾我井あり。是その地ならむ。もし然らば菅生山は曾我井の後の山とすべし
殿岡 造2殿(ヲ)此岡1。故曰2殿岡1。々生v柏
新考 今神岡村の大字入野の北に殿岡山ある是なり○柏は何とよむべきか。敷田(207)氏はカシハとよみ栗田氏は訓を附せず。古典を檢するに此字は記紀以下にカシハとよみ和名抄には※[木+解]と共にカシハとよめり。但記紀にいへるカシハは諸種の木葉を食具とする時の稱、和名抄に云へるは一木の名なれば指す所相同じからず。和名抄には又栢をカヘとよめり(箋注倭名抄卷九の六二丁、卷十の九〇丁及一一四丁參照)。
和名秒には柏と栢とを別字としたれど柏栢は同字なり
さてここの柏はカシハとよみて※[木+解]即ハウソガシハの類とすべきか。カヘとよみて今のカヤとすべきか。下文麻打里|意此《オシ》川の下に櫟2山柏1挂v帶挿v腰といひ又|讃容《サヨ》郡柏原里の下に由2柏多生1號爲2柏原1といひ宍禾《シサハ》郡柏野里の下に柏生2此野1、故曰2柏野1といへる、皆カヘとは思はれねばここもカシハとよみてハハソの類とすべし。ハハソには多くは柞の字を充つれど柞は本書にてはナラに充てたり(賀毛郡楢原里參照)
○※[日/下]部《クサカベ》里(土中々) 因2人(ノ)姓1爲v名
敷田氏標注 日下部、和名妙に脱。因2人姓1と有れば日下部某と云傳のありけむを失ひしにこそ
(208)新考 原本に因2人姓1爲v名の五字を日下部里の分註としたれど美嚢郡の下に枚野《ヒラヌ》里因v體爲v名とあると同例なれば改めて本文としたるなり○※[日/下]は日下の二合字なり。なほ麻呂を麿とも書くが如し。但ここにては二字の地名とせむが爲に二合字を用ひたるならむ。クサカを日下と書く所以は明ならず(古事記傳二三六一頁參照)○記事に據れば此里は今の龍野町附近ならむ。なほ下に云ふべし。龍野町は神岡村の西南、越部村の南に在りて揖保川の右岸に臨めり○三代實録に
貞觀六年八月播磨國餝磨郡人陰陽大屬正八位上日下部利貞・父武散位正六位下日下部歳直等賜2姓日下部(ノ)連1貫2附攝津國|島上《ミシマノカミ》郡1。狹穗彦命之後也
とあり。おそらくは此人等の祖先、此里に居りしならむ。さてその祖先は丹波但馬に榮えし日下部氏の支族にて上文餝磨郡|安相《アサグ》里の下(一二五頁)に見えたる但馬國造阿胡尼命の子孫にや。更に案ずるに顯宗仁賢二天皇の紀に御父|押磐《オシハノ》皇子の御尸を埋みたる處を教へ奉りし置目といふ老媼と、二皇子を見顯し奉りし來目部小楯《クメベノヲダテ》と、御父に殉死せし帳内《トネリ》佐伯部賣輪《サヘギベノウルワ》(更名《マタノナ》仲子《ナカツコ》の子孫とを賞し給ひし事は見えたれど二皇子を救ひ奉りし帳内《トネリ》日下部(ノ)連《ムラジ》使主《オミ》の子にて父の自殺せし後も尚二皇子を離(209)れずして窮厄の中にも固く臣禮を執りし吾田《アタ》彦を賞し給ひし事見えず。此父子の功は諸人に超えたれば固より賞なくてはあるべからず。恐らくは吾田彦は縁故深き播磨國の内にて封地を賜はりしにて此日下部里は其一なるべく又日下部利貞は吾田彦の子孫ならむ
立野《タチヌ》 所3以號2立野1者昔|土師弩美《ハニシノヌミノ》宿禰|往2來《カヨフト》於出雲國1宿2於※[日/下]部野1乃得v病死。爾時《ソノトキ》出雲國人|來到《キタリテ》連立《ツラネタテ》人衆1運2傳上《ハコビツタヘアゲテ》川(ノ)礫《コイシ》1作2墓山1。故號2立野1。即號2其墓屋1爲2出雲墓屋1
敷田氏標注 立野は今龍野と云る是なり○運傳云々、崇神紀|百襲《モモソ》姫命の御墓作(ノ)條に人民相|踵《ツギテ》以v手遞傳而運云々|伊辭務邏塢多誤辭珥固佐麼《イシムラヲタゴシニコサバ》とあるに似たれば其意以てよみたり○墓屋、今昔物語十九に嵯峨野ニ大ナル墓屋有リ。其墓屋ニ我年來住云々。按に墓は死者のためには屋なれば然云めり
栗田氏標注 春枝云ハク。揖西都ニ立野城墓原村宿毛塚アリ。塚ノ形、山陵ニ似タリ。城東ニ土師村アリト○垂仁紀ニ曰。出雲國有2勇士1曰2野見宿禰1ト。三十二年ノ條ニ曰。(210)野見宿禰云々喚2上出雲國之土部壹佰人1自領2土部等1取v埴以造2作人馬及雜々物形1獻2于天皇1曰。云々。天皇厚賞2野見宿禰之功1亦賜2鍛地1即任2土師職1。因改2本姓1謂2土師(ノ)臣1
新考 立野はタチヌとよむべし。今の龍野ならむ。なほ下に云ふべし○土師努美《ハニシノヌミノ》宿禰はやがて野見宿禰なり。垂仁天皇紀の三十二年に
天皇厚賞2野見宿禰之功1亦賜2鍛〔左△〕地《カタシドコロ》1即任2土師職《ハニシベノツカサ》1。因改2本姓1謂2土師《ハニシベノ》臣1
とあり。氏はハニシともハニシベとも云ひしなり。ハニシのシは爲なり。師と書けるは似つかはしき字を充てたるのみ。鍛の舊訓カタシは型爲《カタシ》なり。土師の例に依らば型師とも書くべし。土器の型を作ることなり。鍛と書けるは、鎔などの誤字かとも思ひしかど神代紀海宮遊行章に即以2其|横刀《タチ》1鍛2作新鉤1盛2一箕1而與v之とある鍛作を舊訓にカタシテとよみたれば誤字とも認むべからず○出雲街道は今の道は勿論、近古の書に見えたる舊道も龍野を經ざれど上古は揖保川と栗栖川との合流點より下を渡りて龍野にかかりしなり○來到は本書には多くは到來と書けり○人衆はヒトドモともモロビトともよむべし。連立はツラネタテとよむべし。敷田氏がツヅケタテとよめるは尚可なり。栗田氏がシキリニタテテとよめるは不可なり○運傳(211)上川礫を栗田氏がカミカハノコイシヲハコビツタヘテとよめるは非なり。カハノコイシヲハコビツタヘアゲテと訓むべし。敷田氏が運傳上をタゴシニコシアゲテとよめるはなほ可なれど礫をイシムラとよめるは非なり、こは神代紀の一書に伊弉諾《イザナギ》尊が軻遇突智《カグヅチノ》命を斬り給ひし處に
是時斬(ル)血|激灑《タバシリテ》染2於石礫樹草(ヲ)1
とある石礫を舊訓にイシムラと訓めると崇神天皇紀に倭迹々姫《ヤマトトドヒメ》命の墓を作りし處に
故運2大坂山(ノ)石1而造。則自v山|至《マデ》2于墓1人民相|踵《ツギテ》以v手遞傳而運焉。時人歌之曰。おほさかにつぎのぼれるいしむらをたごしにこさばこしがてむかも
とあるとに依れるなれどイシムラはユツイハムラのイハムラと同じくて磐石なり。まづ此歌を釋せむにツギノボレルは大坂に沿ひて下より上につづき昇れるとなり。其石をよき程に切りて手にて運ぶなり。タゴシニコスは手にて運ぶなり。馬|※[木+力]《アフコ》などは借らぬなり。
車は此時にはまだあらじ。雄略天皇紀にぞ始めて見えたる
(212)今いふ手グリをタゴシと云へるにあらず。さればタゴシは文の遞傳に當らず。結句にコシガテムカモといへるを見てもコスが運ぶといふ事なるを知るべし。コシガテムカモはコシアヘムカにてアヘムは得ムなり。日本書紀通釋に引ける守部等の釋は皆誤れり。又神代紀なる石礫を舊訓にイシムラと訓たるも誤なり。又(ノ)一書に
其血|激越《タバシリテ》染2於天(ノ)八十河(ノ)中|所在《ナル》五百箇《イホツ》磐石(ヲ)1
などある盤石こそイハムラ又はイシムラとよむべけれ、ここは小石木草を染めきと云へるなれば石礫はコイシ又はタビイシとよむべきなり。日本靈異記中卷第十七の訓註に礫をタビイシとよめり。かかれば神代紀及崇神天皇紀を證としてここの川礫をカハノイシムラとは訓むべからざるなり○即號2其墓屋1爲2出雲墓屋1といへる墓屋の例は今昔物語卷十九なる西(ノ)京(ノ)仕《ツカフ》v鷹者見v夢出家(セシ)語に
曉方ニ成ル程ニ寢入タリケル夢ニ嵯峨野ニ大ナル墓屋〔二字傍点〕有リ。其ノ墓屋〔二字傍点〕ニ我レ年來《トシゴロ》住テ妻子共引|列《ツレ》テ有ト思フニ冬極テ寒クシテ過ル程ニ春ノ節ニ成テ日ウララカニテ日ナタ誇モセム若菜モ摘《ツミ》ナムト思テ夫《カノ》妻子共引列テ墓屋〔二字傍点〕ノ外ニ出ヌ。煖ニ△△△《ココチ》ヨキママニ散々ニ或ハ若菜ヲ摘ミ或ハ遊ナむドシテ各墓屋〔二字傍点〕ノ邊ヲ(213)モ遠ク離レヌ
(213)宇治拾遺物語卷四なる「狐人につきてしとぎ食事」といふ條に
おのれは祟のもののけにても侍らず。うかれてまかりとほりつる狐なり。塚屋〔二字傍点〕に子どもなど侍るが物をほしがりつればかやうの所にはくひ物ちろぼふものぞかしとてまうで來つるなり
今鏡第五かざり太刀といふ條に
その左のおとど(○所謂惡左府頼長)は公事《クジ》行ひ給ふにつけて遲く參る人さはり申す人などをば家燒き壞ちなどせられけり。奈良に濟《セイ》圓僧都ときこえし名僧の公請《クジヤウ》に障《サハリ》申しければ京の宿坊こぼちけるに山に忠胤僧都と聞えしとたはぶれ敵《ガタキ》にて容貌《ミメ》論じて「もろともにわれこそ鬼」などいひつつ歌よみかはしけるに忠胤これを聞きて濟圓がり云遣しける
まことかや君がつかや〔三字傍点〕はこぼつなる世にはまされるここめ(○おにもカ)ありけり
返し
(214) やぶられてたちしのぶべき方ぞなき君をぞたのむかくれ蓑かせ
とぞきこえ侍りけるり
夫木抄卷二十二野の下に
眞熊野に雨そぼふりてこがくれのつかや〔三字傍点〕にたてる鬼のしこぐさ 俊頼朝臣
とあり。此等に據れば墓屋・ツカヤは同事にて
墓屋はハカヤとよみて妨なけれどツカヤとも訓むべし。萬葉集卷九なる見2菟原處女《ウナビヲトメ》墓1歌にヲトメヅカ・ヲトコヅカを處女墓・壯士墓と書けり(萬葉集新考一九七七頁參照)
荒れ壞れて口開ける石槨にで鬼・狐・雉などの好みて隱れ住む處なり。今昔物語の鷹をつかふ者は夢に雉になりたるなり。或辭書にツカヤ・ハカヤを釋して墓守の住む家と云へるは恐らくは非ならむ。右の如くなればここに號2其墓屋1爲2出雲墓屋1と云へるは其墓の破れ壞れし後の稱に從ひて云へるならむ。さらずは號2其墓1爲2出雲墓1といふべければなり○墓山は即塚なり。されば運2傳上川(ノ)礫1作2墓山1とは川原の圓石を手ぐりに運び上げて塚を作りしなり。抑小石を用ひたる古墳に葺石塚と積石塚(215)とあり。葺石とは土を以て築ける塚を小石を以て葺くをいひ積石とは土の代に小石を以て塚を築くをいふ。さてここはいづれかと云ふに恐らくは後者ならむ。もし前者ならば葺2墓山1といふべきを
例は推古天皇二十八年紀に以2砂礫1葺2檜隈《ヒノクマ》陵上1とあり。檜隈陵は欽明天皇の山陵なり
ここには作2墓山1とあればなり○ここに龍野町の西北方なる臺山の中腹に古來|宿毛《スクモ》塚と稱せらるる古墳あり。揖保郡地誌に
野見宿禰墓 龍野神社の上、臺山雨神の尾の中腹に舊塚あり。此塚の上には天保年間迄古松の枯木ありて圓滑なる川石五尺ばかりなる見えたるが其石は何處へか持去りて今はなし。塚上の廣三間高二十間あり。明治十五年此塚より一尺餘の古釼・曲玉・壺の缺、出たるを以て當時現品は内務省へ提出したり。爾來有志…墳墓を修理し且山麓に於て一祠を建て社殿となさん事を計畫し既に敷地地均しを了へたり。莊嚴の神社となるは蓋し近きにあらん云々
といへり。此塚は余も三十餘年前に一見せしが天然の山の中腹に露出せる石槨に(216)て本書に作墓山とあるにかなはざる如し。近年又同じ龍野町の西南なる宮山といふ山(臺山の右翼なり)にありて俗に狐塚と稱せらるる古墳を野見宿禰の墓に擬するものあり。元來此附近には古墳多し。さてその多くは此地を領ぜし日下部(ノ)連《ムラジ》の墓なるべきが
右の古墳のうち宮山なる大慈庵中にあるものを土人は貞觀中の播磨國司日下部朝臣村雄の墓といひ傳へたれど貞觀中の播磨國司に日下部村雄といいふ人なく又日下武氏に朝臣のカバネなるは無し。恐らくは日下部(ノ)連《ムラジ》をムラヲと誤りて人名とし、さてカバネ無くては物足らぬここちすれば妄に朝臣を添へたるならむ
其中に眞に野見宿禰の墓と認むべきものありやなほよく研究すべし。地名辭書揖保郡の下に
布勢郷、風土記日下部里と云ふに同じ。……今も布施村に土師《ハシ》の大字遺れるは布施は即古の日下部里たるを證す。又土師には鷄塚と云ふ古墳あり。之を出雲墓と傳ふ
(217)といへるは揖保郡地誌に
鷄池の塚 在2布施村之内土師村1。土人曰く土師職祖野見宿禰の墓なりと。考證とすべきものなし
といへる鷄池の塚の事なるべけれど、もし之を野見宿禰の墓とせば立野も布施村(今の揖西村の南部)の内に求むべく今の龍野とはすべからず。されど布施村に立野に擬すべき地名なし。又川ノ礫ヲ運ビ傳ヘ上ゲテとあるも恐らくはかなはじ。布施村には中垣内川の支源たる小流あるに過ぎざればなり。又龍野町は越部村の南に續きたれば日下部里を龍野町附近とすれば記述の順序にもかなへど布施村とすればかなはず○例の春枝が揖西郡ニ立野城墓原村宿毛塚アリと云へる半は詐なり。龍野に墓原村といふは無し。地名辭書に「舊城の傍に墓原といふ地ありて此に宿毛塚あり」といへるは栗田氏標註を通じて春枝に欺かれたるならむ。又春枝が城東ニ土師村アリといへるも詐なり。土師は龍野町の西南に當りて一里餘距れり。龍野の東は即揖保川なり。此人全く播磨の地理を識らず。宿毛塚の名を聞知りたりしは寧例外なり
(218)○林田里(本名|談〔左△〕奈志《アハナシ》、土中下) 所3以稱2淡奈志1者伊和大神占v國之時|御3志植《キウヱムトココロザシタマヘバ》2於此處1遂生2楡樹1。故詳〔左△〕名2淡奈志1
敷田氏標注 林田、和名抄に波也之多とあり。談は淡の草書より誤れるにや○御志(ノ)上下落字あるべし○淡奈志は梨の一種にて味の淡《アハキ》ゆゑ名づくめり。今按に楡は、※[木+冥]の※[言+爲]にや。兵衛式にカタナナシとよめり。是は俗にクワリンと云れば上代淡梨と云けむ。猶よく考ふべし
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。揖保郡林田(波也之多)ト。御圖帳ニ曰。揖東郡林田村ト。神名式ノ祝田神社ヲ林田社ト稱セリ○波奈志ノ奈ハ疑ハクハ夜ノ誤ナラム。神名式ニ林神社アリ○御心ノ上下ニ疑ハクハ闕脱アラム。又按ズルニ植ノ下ニ楡ノ字ヲ補フベシ○詳ノ字ハ恐ラクハ衍字
新考 今神岡村の北につづきて林田村あり。もと林田藩のありし處なり○本名談奈志の談は記事に據るに淡の誤なり。栗田氏が波奈志、奈(ハ)疑夜(ノ)誤といへるは談奈志・淡奈志を共に波奈志の誤とし更にその奈を夜の誤とせるにや。さらば標注に、談奈(219)志・淡奈志ノ談淡ハ疑ハクハ共ニ波ノ誤などいふべきを版本は勿論稿本にもさる註の見えざるははいかが。亦波夜志の誤なるべき證としてにや神名式有2林神社1と云はれたれど延喜式神名帳の林神社は同國ながら明石郡の林村(今の林崎村の大字林)にあるなり○御志植於此處を栗田氏は志を心に改め植の下に楡を補ひてミココロニ楡ヲ此處ニウヱムトオモホシケルニとよみ敷田氏は「御志の上下落字あるべし」とのみ云ひて此處ニキウヱタマハムトミココロザシマセバとよめり。案ずるに原のままにて御をタマフとよみ植を敷田氏の如くキウウとよみて此處ニキウヱムトココロザシタマヘバとよむべし。御をタマフとよむは萬葉集に御作歌などある御にて常の事なり。又植をキウウとよむべきは下文なる射をユミイルとよみ蒔をタネマクとよみ食をカレヒクフとよむべきと同例なり。又御志をココロザシタマヘバとよむべきは下文桑原里の下なる御2立於槻折山1の御立をタチタマヒテとよみ美嚢郡|志深《シジミ里の下なる御2食於此井1之時の御食をカレヒクヒタマヒシとよむべきと同例なり○アハナシは他の古典に見えず。遂生2楡樹1故詳名2淡奈志1とあるを見れば(詳は誤字ならむ。衍字にはあらじ)
(220) 楡《ニレ》の古名アハナシなるか
楡の字をいにしへニレに充てずして所謂アハナシに充てしなるか
楡と書けるは誤字なるか
の三つの内ならざるべかちず。まづ新撰字鏡に楡(ハ)は白枌也爾禮也とあり。和名抄に楡(ノ)白者名曰v枌、夜邇禮とあり。延喜式にも楡をニレに充てたり。茲に林田村林田の八軒町は林田川に沿へる片側町なるがその堤防に楡の大木の並木あり。かく楡が林田の地味に合へるを見ればここに楡とあるは恐らくは誤字にあらじ。從ひてアハナシをニレの古名とすべきならむ。因にいふ。舊林田藩に仕へ詩人として世に知られたる河野鐵兜が別號を楡村といひしはここの文に據りしなり。鐵兜は國學を野之口隆正に學びき
松尾阜 品太天皇巡行之時於2此處1日暮〔右△〕。即取2此阜(ノ)松1爲2之《シキ》燎〔右△〕1。故名2△《松》尾1
敷田氏標注 松尾、今松尾村あり○和名抄に燎庭火也、邇波比とあれど此所は然はよみがたし。軍防令義解に松明とあるに叶ひ源氏夕顔(ノ)卷及古歌にマツとのみもよめれどしばらく字鏡集・類聚名義抄等にトモシビと註せるに從ふ
(221)栗田氏標注 御圖帳ニ曰。揖東郡松尾村ト○暮ハモト墓に作レリ。今一本ニ從フ○松ノ字モト脱セリ、今一本ニ從フ
新考 今龍田村の大字に松尾あれど林田村とは神岡村・少宅《ヲヤケ》村を隔てたれば是にはあらじ。或人云はく。林田村西奥佐見なる八幡神社のある山なりと○原本に暮を墓に誤り燎の扁を立心(※[立心偏])に誤り名の下の松を脱せり○燎を敷田氏はトモシビとよみ栗田氏は訓をふらず。宜しくタビとよむべし。萬葉集卷二(新考三二八頁)に手火ノヒカリゾココダテリタルとあり。又神代紀の訓註に秉炬此云2多妣1とあり。新撰字鏡にも炬(ハ)は太比とあり
鹽阜 惟《コノ》阜〔右△〕之南(ニ)有2鹹〔右△〕水1。方三丈許。與v海相濶〔右△〕卅里許。以v礫爲v底以v草爲v邊與2海水1同2往來1。滿《ミテル》時(ハ)深三寸許。牛馬鹿等嗜而飲〔右△〕v之。故號2鹽阜1
栗田氏標注 惟阜モト惟過ニ作レリ。今一本ニ從フ○飲モト飯ニ作レリ。今一本ニ從フ
新考 惟阜の阜を原本に追に誤れり。栗田氏標注に原作2惟過〔右△〕1とあるは誤植なり。稿(222)本の寫本には、惟阜之阜原作v追〔右△〕とあり。又原本に澗の旁を閭に誤り又飲を飯に誤れり。※[酉+咸]は鹹の俗字なり。これは誤字にあらず○惟阜之南は栗田氏の如くコノ阜ノ南ニとよむべし。敷田氏がコレ阜ノ南ニテとよめるは誤訓なり。方は縱横なり。音讀して可なり。もし強ひて訓讀せむとならばタテヨコとよむべし。栗田氏がヒロサとよめるはなほ可なり。敷田氏がオモとよめるはわろし。相濶を栗田氏はアヒサルコトとよめり。それもわろからねどアヒサカルコトとよむべし。敷田氏は相の下に妄に通の字を補ひ濶を下へ附けて海ト相通《カヨフ》、ヒロサ卅里許とよめり○里は今の五町に當れり。されば卅里は今の四里許なり。記傳卷三十七(二二二二頁)に
雜令に凡|度《ハカル》v地五尺爲v歩、三百歩爲v里とあり(一尺二寸爲2大尺(ノ)一尺1云々度v地者用v大とあれば五尺爲v歩の五尺は常尺の六尺にあたれば今六尺を一間とするに合り。されば三百歩は今の五町にあたれり)
といへり○この鹹水は所謂鹹湖にて岩鹽の水に溶けたるがたまれるならむ。與2海水1同2往來1といへるは恐らくは傳説に過ぎざらむ。揖保郡地誌に
鹽阜 林田町の北方舊林田城墟の事なり。其外堀の中に方三丈計の鹽釜の如き(223)ものあり。以v礫爲v底、今に海水と相往來するよし云傳ふ
と云へり○栗田氏の標注に屡、一本と云へるは三條西家本の外に異本の傳はれるものある如く聞えて人を惑はさむ恐あり。今傳はれる本は悉く三條西家本より出でたるなり。敷田氏の據れる柳原本さへも然り。されば本によりて少異あるは傳寫の際に誤れるか又は臆を似て改めたるなり
△△△《伊勢野》 所3以名2伊勢野1者此野毎v在〔左△〕《アル》2人家1不v得2靜安1。於v是|衣縫猪手《キヌヌヒノヰテ》・漢人刀良《アヤビトノトラ》等(ノ)祖將v居2此處1立2社(ヲ)山本1敬d祭在2山岑1神伊和大神(ノ)子伊勢都△《比》古命伊勢都比賣命u矣。自v此以後家々靜安遂得v成v里。即號2伊勢△《野》1
敷田氏標注 伊勢野、今龍野より林田へ行間に然云地名ありとぞ○山岑、大祓詞に高山之未短山之末云々。齊明紀に宮材爛矣、山椒埋矣。文選月賦に山頂曰v椒とあり(○かく云ひて山岑をヤマノスヱとよめり)○伊和大神は大穴持神なり。此神の御子に然《サル》御名の神、紀記をはじめ見えざるは洩たる也。伊勢風土記に伊勢津彦と云神あれ(224)ど別神
栗田氏標注 按ズルニ國圖ニ揖東都ニ上下伊勢村アリ○在ハ有ニ作ルベシ○姓氏録ニ曰。衣縫は百濟國神靈命之後也ト。又曰。漢人は漢人黒之後(トイヘリ)者。不v見《ミエズ》ト○比古ハモト比ノ字ヲ脱セリ。今一本ニ從フ
新考 今林田村の東に伊勢村あり。村名は其地を俗に伊勢谷といふに據りて命じたるにて大字にも上伊勢下伊勢あり。此村は郡の東北境に當りて飾磨郡の菅生村及余部村と相隣れり。敷田氏の説は誤れり○記事の首に伊勢野の三字を補ふべく在は有と改むべく古の上に比を補ふべし。又伊勢の下に野を脱したるならむ○衣縫・漢人は共に百濟國より歸化したるなり。姓氏録右京藷蕃下にも
漢人(ハ)百濟國人多夜加之後也
とあり○今伊勢村大字下伊勢に村社|※[木+那]《ナギ》神社あり。昔は伊勢神明と云ひき。是伊勢都比古比寶神のまします社か。さて
同郡龍野町日山なる縣社粒坐天照神社(舊名三社權現)の祭神が天照國照彦火明命なる事
(225) 同社の末社に天照大神神社ある事
近古伊勢新明宮を日山三社權現の別宮と稱し又龍野の氏宮と稱せし事
本書餝磨郡伊和里の下に大汝命之子火明命とある事
ここに伊和大神子伊勢都比古命とある事
右を合せ考ふるに伊勢都比古命は即火明命にてもとより伊勢村にましますを後に龍野に分靈せしが、處がら分社の方の榮えしにてなほ飾磨郡なる行矢神社と今の縣社射楯兵主神社との關係の如くならむ。又本書の火明命は日本紀天孫降臨章第六(ノ)一書に見えたる天(ノ)火明《ホアカリ》命、第八(ノ)一書に見えたる天照國照天火明命即尾張連等の遠祖と同名異稱にはあらで元來同一神なるを本書には大名持命の御子とし日本紀の一書には天(ノ)忍穗耳《オシホミミノ》尊の御子とせるならむ。
因にいふ。尾治連(ノ)上祖長日子が此國に住みたりし事は餝磨郡|貽和《イワ》里の下に見えたり
又今伊勢村※[木+那]神社の祭神を天照大神とせるは村の名を伊勢といふと、社の舊稱を伊勢神明宮といふと、神名を天照國照彦火明命といふとより紛れたるならむ。又今(226)の縣社粒坐天照神社の未社に天照大神神社あるもさる紛より本社とは別に、畏くも末社として大御神を祭ることとなりしならむ
伊勢川 因v神爲v名
新考 今の大津茂《オホヅモ》川一名太田川なり○敷田氏は神の下に名の字を補へり。上文なる日下部里因2人姓1爲v名の倒に依らばさもあるべけれど下文揖保里の下に故因v山爲v名とあればなほもとのままなるべし
稻種山 大汝命|少日子根《スクナヒコネノ》命二柱神在2於|神前《カムザキ》郡|※[即/土]《ハニ》△《岡》里|生野《イクヌ》之岑1望2見此山1云。彼山者當v置2稻種1。即遣3稻種(ヲ)積2於此山1。々形亦似2稻(ヲ)積1。故曰2稻積〔左△〕山1
敷田氏標注 大汝命云々此二神の事神崎郡※[即/土]岡里(ノ)條に傳あり
栗田氏標注 積ハモト種ニ作レリ。今一本ニ從フ○春枝云ハク。今伊勢川伊勢明神アリ。稻積村ニ稻積山アリト。按ズルニ國圖に揖西郡ニ稻富村アリ。又按ズルニ倭名鈔ニ神崎郡ニ埴岡郷アリ。此ニ據レバ※[即/土]里ノ間ニ恐ラクハ岡ノ字ヲ脱セルナラム
新考 ※[即/土]の下に岡の字を補ふべし○記事の首なる稻種山と記事の尾なる稻積山(227)といづれか一を誤とせざるべからず。栗田氏は甲を稻積山の誤としたれど恐らくは乙をぞ稻種山と改むべからむ○稻種山は恐らくは有名なる峰相《ミネアヒ》山ならむ。峰相山(又峰合と書けり)は伊勢村と、其南なる太市村と、飾磨郡余部村とに跨れり。峯相記に
當山ノ麓ニ稻根明神トテ坐《イマ》ス。其跡久シテ本縁|舊《フリ》タリ。昔ハ當山鎭守九座ノ一也。古老ノ説ニ高嶽ノ上大磐石ノ間ニ小水|湛《タタヒ》タリ。今ニ有ル也。崇神天皇ノ御宇十三年丙辰九月日香稻四本出生セリ。即子細ヲ奏ス。彼稻ヲ種トシテ諸國普ク耕作スベシト云々。其以前ハ山野ニ自然ニ生ヒタルヲ人民分領ヲ定メ乃貢ヲ備ヘ私ヲ顧ルト見ヘタレ共更ニ此類ニ非ズ。當時國土流布ノ香稻恐クハ此種ナルベシ。當初勅ニテ彼地ニ神殿ヲ造リ稻根明神ト號ス。當國古來隨分ノ本社也。國衙ヨリ是ヲ祭リテ村里ニ仰ギ奉ル。國衙奉免ノ田地四至有リ。山嶽嶮難ナルニ依テ祭禮煩ヒアル間麓ニ崇奉ル。時ニ二如來二菩薩ノ感應夢相有ルニ依テ天慶年中其地ニ神殿ヲ移造奉ル。今ノ社ノ跡是也。天下撫育ノ本社也(○原書には多く送假字を略したるを今補ひつ。續群書類從第二十八輯上に收めたるには誤字衍字脱文あり)
(228)とあり。稻根明神は恐らくは稻種の略ならむ○春枝が稻積村有2稻積山1と云へるは例の詐なり。さる村もさる山も無し。栗田氏が稻種山を誤とし稻積山を是としたるは春枝に欺かれし結果ならむ。又氏が國圖に據りて擧げられたる稻富は今の御津村の内なれば地理かなはず
○邑智驛家《オホチノウマヤ》(土中下) 品太天皇巡行之時到2於此處1勅云。吾(ハ)謂2狹地《サキトコロゾトオモヒシニ》1此(ハ)乃大内|之乎《ナルカモ》。故號2大内《オホチ》1
敷田氏標注 邑智、和名抄の郷名に大市(ハ)於布知と有は假名違へり。兵部式に播磨國驛馬大市二十疋。今欅坂の東に大市と云地あり
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。揖保郡大市(於布知〕ト。延喜兵部式ニ曰。播磨國驛馬大市二十疋ト。御圖帳ニ曰。揖郡大市谷村横大市村ト。名跡志ニ曰。大市郷合野村ト
新考 延喜式に大市二十疋とありて飾磨郡草上の次驛なり。今伊勢村の南に續きて太市《オホイチ》村あり。本書に邑智と書けるは邑の音オフを轉じてオホに充てたるにてなほ備前の郡名オホクを邑久と書けるが如し。和名抄郷名の訓註に於布〔右△〕知とあるは(229)そのオホチを訛れるにて今オホイチと唱ふるは字に從ひて訛れるなり○吾謂狹地此乃大内之乎は、ワレハサキトコロゾトオモヒシニコハ大内ナルカモとよむべし。乎をカモに充てたる例はたとへば古事記神武天皇の段に
天神ノ御子即|寤起《サメ》マシテ長寢乎《ナガイシツルカモ》ト詔《ノ》リタマヒキ
とあり。太市村は口狹く内廣くて地勢げに此勅語にかなへり。さて此勅語は飾磨郡|漢部《アヤベ》里より峠を越えて此里の阿比野に到り給ひし時にのり給ひしならむ(一七〇頁參照)
※[さんずい+水]〔左△〕山、惟《コノ》山(ノ)東有2流井《ナガレヰ》1。品太天皇汲2其井之水1而|※[さんずい+水]〔左△〕之《コホラシメキ》。故號2※[さんずい+水]〔左△〕山1
敷田氏標注 ※[さんずい+水]之の※[さんずい+水]は冰の誤なるべし。萬葉一に磐床等川之|冰《ヒ》凝《コゴリ》とあるに依て(○※[さんずい+水]之をコゴラシメタマヒキと)訓つ。今龍野の町つづきに日山あり
栗田氏標注 按ズルニ※[さんずい+水]ハ疑ハクハ沐ノ訛ナラム。又按ズルニ國圖ニ立野ノ西南ニ日山アリ
新考 妹※[さんずい+水]は二水を三水に誤れるにて冰は氷の正字なり。さて冰山はヒヤマとよむべし○冰山は其處今知られず。龍野町の南部に日山といふ大字あれど地理かなは(230)ず○流井《ナガレヰ》の井は泉なり。冰之はコホラシメタマヒキと訓むべし。冰之の上に令の字ありしが落ちたるか○此一節は讃容《サヨ》郡|速湍《ハヤセ》里の下に
凍野 廣比賣命占2此土1之時凍v冰。故曰2凍野1
とあると相似たり○栗田氏の標註に本書の※[さんずい+水]をも標註の※[さんずい+水]をも其旁を氷に作りたるは誤植なり。稿本の寫本には皆※[さんずい+水]に作れり
※[木+觀]折《ツキヲレ》山 品太天皇狩2於此山1以2※[木+觀]弓1射2走猪《ハシリヰ》1。即|折《ヲレキ》2其弓1。故曰2槐〔左△〕折《ツキヲレ》山1。此山(ノ)南有2石穴1。々中生v蒲〔右△〕。故號蒲〔三字□で囲む〕故號2蒲〔右△〕阜1。至v今|不〔左△〕《ナホ》生
敷田氏標注 ※[木+觀]、新撰字鏡に豆支と注し槻におなじ。三代實録卅三に下2符相摸國1令v採2進槻弓百枝1など有。皇后紀にツクユミニマリヤヲタグヘ云々○不生の不は衍字か。大の誤か
栗田氏標注 字鏡ニ曰。※[木+觀](ハ)豆支
新考 故曰2槐折山1の槐は※[木+觀]の誤なり。故號蒲の三字|衍《アマ》れり。原本に蒲の體を誤りて補に作れり。不生は恐らくは仍生の誤ならむ○※[木+觀]はツキとよむべし。ツキはケヤキ(231)なり。されば※[木+觀]は槻に同じ。但槻を書き誤れるにはあらで我邦にて作りたる文字ならむ。木村正辭博士の、※[木+觀]齋雜攷卷二に
此木は衆木にぬけ出て遠方よりよく觀望することを得る意もて觀木の二字を合せて造れる會意の字なるにや
といべるはいかが。試に一説を出さば齊明天皇紀に
二年秋八月於2田身野嶺《タムノタケノ》上(ノ)兩(ノ)槻(ノ)樹(ノ)邊1起v觀爲2兩槻《ナミツキノ》宮1。亦曰2天(ツ)宮1
とあり。此宮名高かりしかば觀木の二字を合せて※[木+觀]の字を作りしにあらざるか。因にいふ。觀は日本紀の古訓にタカドノとよみたれど道教の寺ならむ○今太市村より西方|少宅《ヲヤケ》村に通ふ坂路をケヤキ坂といふが是にてツキヲレのヲレを略し槻を字に就きでケヤキと唱ふることとなりしにや○折其弓を栗田氏はソノ弓ヲ折リタマヒキとよみたれど我邦の語法にかなへて讀まむとならばソノ弓折レキとよむべし。かく訓むべきは上文伊刀島の下なる出2牝鹿1をメガイデと訓み又阿爲山の下なる住2不v知v名之鳥1を名ヲ知ラザル鳥住メリとよむべきと同例なり○少宅村に生長せし或人云はく。槻坂の西口に池あり。その周圍に蒲多し。池の南方の谷に石穴(232)若干あり。此附近にも蒲生ひたりと。蒲阜は此處か
○廣山里(舊名|握持〔左△〕《ツカムラ》。土中上) 所3以名2都可《ツカ》1者|石△《イハ龍》比賣(ノ)命立2於泉(ノ)里|波多爲社《ハタヰノモリ》1而|射之《ユミイキ》。到2此處1箭盡入v地唯出2握〔右△〕許1。故號2都可村1。以後《ソノノチ》石川王爲2總領1之時改爲2廣山里1
敷田氏標注 石比賣命、式に伊豆國賀茂郡伊波比※[口+羊]命神社有。紹運録に孝元天皇(ノ)後|葛城襲津《カヅラキノソツ》彦(ノ)女に磐姫あるはイハノヒメと訓て別なり。宣化天皇の皇女に石姫と申はイシヒメとよむべし○波多爲、地名なるべし○石川王、天武紀に見えたれど分脈詳ならず○總領、孝徳紀にスベヲサと訓み天武紀にスブルヲサと訓たれどヲサにて有べし
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。揖保郡廣山ト。名跡志ニ曰。廣山庄ト。御圖帳ヲ按ズルニ揖東郡ニ廣山村アリ○注ノ握村ハモト握持ニ作レリ。今一本ニ從ヒテ訂ス○按ズルニ下文|出水《イヅミ》里ニ石龍比古命妹石龍比賣命アリ。此ニ泉里云々ト云ヘリ。此ニ據ラバ石比賣命ハ石ノ字ノ下ニ疑ハクハ龍ノ字ヲ脱セルナラム○握ハモト堀ニ作レリ。(233)今一本ニ從フ
新考 原本に握村を握持に誤り石の下に龍を脱し握許を堀許と誤れる事栗田氏の云へる如し○今太市村の南に寵田村あり。龍田村の西に譽田《ホンダ》村あり。その大字に廣山あり。譽頁田は明治二十二年町村制實施の時廣山なる阿宗《アソ》神社の祭神が應神天皇なるによりて其御名を村名とせしなり○泉里は下文の出水里なり○波多爲《ハタヰノ》社の社はヤシロとよまでモリとよむべし。下文神前郡|的部《イクハベ》里なる高野(ノ)社、美嚢《ミナギ》郡なる志深《シジミ》里許曾(ノ)社又高野里|祝田《ハフタノ》社の社も然り。神武天皇紀に取2天(ノ)香山(ノ)社(ノ)中(ノ)土1とある社も、齊明天皇紀に※[昔+立刀]1除《キリハラヒ》朝倉(ノ)社(ノ)木1而とある社も、續日本紀天平神護元年八月の下に索2獲|率河《イザガハノ》社(ノ)中1流2伊豆國1とある社も亦然り。萬葉集にはモリを社とも神社とも書けり(たとへば卷九に石田社《イハタノモリ》とあり)。又續日本紀天平二十年八月以下に大神《オホミワ》社女とあるを天平神護二年十月には毛理賣と書けり(國史大系本に社女を杜女に改めたるはわろし)。モリは後世は杜と書けど杜の字には元來モリの義なし。之をモリとよまするは社の字を扁を木に更へたるなり。さればモリの杜は無音の邦製字にて漢籍に見えたる社とは別なり。然らば古典に見えたる社は皆モリとよむべきかと云ふ(234)にヤシロとよむべき處もあり、たとへば上文伊勢野の下なる立2社(ヲ)山本1の社はヤシロとよむべし。萬葉集卷三にもカスガ野ニ粟マケリセバシシマチニツギテユカマシヲ社《ヤシロ》シアリトモ、と書けり○射之はユミイキとよむべし(二一九頁參照)。ツカは一ニギリなり○總領は持統天皇紀に
三年八月辛丑詔2伊豫(ノ)總領〔二字傍点〕田中朝臣法麻呂等1曰云々
と見え天武天皇紀に
四年冬十月己未以2直大壹|石上《イソノカミノ》朝臣麻呂1爲2筑紫(ノ)總領〔二字傍点〕1、直廣參小野(ノ)朝臣|毛野《ケヌヲ》爲2大貳1、直廣參波多(ノ)朝臣|牟後閇《ムコベ》爲2周防(ノ)總領〔二字傍点〕1、直廣參上野朝臣|小足《ヲダリ》爲2吉備(ノ)總領〔二字傍点〕1云々
と見えたり。持統天皇紀の通釋(三八五一頁)に
これ當時の國司、大國に宰として數國を兼知するを云て其餘は直《タダ》に守と云ひしなり。伊豫總領は四國の管領なり
といへり(栗里雜著卷十の一〇頁參照。但「播磨國にも總領を置き」と云へるはいかが)。石川王は天武天皇紀に
八年三月己丑吉備(ノ)大宰石川王病之薨2於吉備1
(235)とある人なり。大宰は即總領なり。普通の國守を宰と云ひしに對して總領を大宰と云ひしなり。されば都可村を廣山里と改めしは天武天皇の御世なり
○麻打里 昔但馬國人|伊頭志《イヅシノ》君|麻良比《マラヒ》家2居此山1。二女夜釘v麻、即麻(ヲ)置2於己(ガ)※[匈/月]1死。故號2麻打山1。于v今《イマニ居2此邊1者|至《イタレバ》v夜不v打v麻矣。俗人云。讃伎國
敷田氏標注 讃伎國云々の六字爰に用なければ恐くは衍文ならむ
栗田氏標注 按ズルニ垂仁紀ニ三年春三月新羅王子天(ノ)日槍《ヒホコ》來歸焉。將來(ノ)物云々出石(ノ)小刀一口、出石桙一枝云々竝七物則藏2于但馬國1ト。古事記ニ云々并八種也。此者伊豆志之八前大神也ト。倭名鈔ニ但馬國出石郡出石郷ト。神名式ニ同國出石郡伊豆志(ニ)坐《イマス》神社八座竝名神大ト○俗人已下六字ハ蓋注文ナルガ誤リテ本文ニ混ゼルナリ
新考 里名の下に土質の記述脱したり(前例は飾磨(ノ)都|枚野《ヒラヌ》里)○今の斑鳩《イカルガ》村の大字阿曾は此麻打の訛ならむか。阿會はいにしへ阿宗《アソ》と書きき。即神名帳に揖保郡阿宗神社とあり。又古事記開化天皇の段に息長日子《オキナガヒコノ》王者針間(ノ)阿宗《アソノ》君之祖とあり。此息長日子王は神功皇后の御同母弟にて、其御母は葛城之高|額《ヌカ》比賣といひてここに見(236)えたる伊頭志(ノ)君麻良比と同族なり。もし想像を逞くせば出石(ノ)君麻良比、その領地なる麻打を其血族なる息長日子王に讓り王の子孫麻打をつづめて阿宗として氏とし、其祖息長日子王を祭りて阿宗神社とせしか。但文字を阿宗だ改めし後もなほ(かの多治比氏が煩文に縁りて比の字を除きし後も稱謂は變ぜずしてタヂヒと唱へし如く)アソチと唱へけむ。さて阿宗神社の祭神は應神天皇・神功皇后等とも阿宗親王ともいひ傳へたり。阿宗親王の名は史上に見えざればこは恐らくは息長日子王の事ならむ。地方の口碑に皇族貴人を親王と語り傳へたる例多し○阿曾は上に云へる如く斑鳩《イカルガ》村の内なれば阿宗神社はここにあるべきを今譽田村廣山なるを阿宗神社と稱し、此社(舊稱廣山八幡又阿宗八幡)はもと今の石海《イハミ》村立岡山にありし八幡宮(應神天皇此山に登りて國見したまひし事下文に見えたり)を文治五年に此處に移ししなりといひ傳へたり。斑鳩村の阿曾も此神社の氏子なるを思へば阿曾なる阿宗神社は夙く荒廢したりしを中古、立岡なる八幡宮と合祀せしならむ。さてこそ祭神も或は宇佐八幡宮と同じく應神天皇等とし或は所謂阿宗親王とせるならめ○家居はイヘヲリキとよむべし。いにしへ家ヰスルを家ヲルといひしなり。萬葉(237)集卷十以下に例あり(新考一九一〇頁及二一一六頁參考)○敷田氏の本には即麻(ヲ)置2 於己胸1死の麻を落せり。麻は績む前に打ち和ぐるものなり○至夜を敷田氏が夜ニ至リテとよめるはわろし。夜ニ至レバとよむべし○讃伎國の下に文落ちたるなり。敷田氏が「讃伎云々の六字爰に用なければ恐らくは衍文ならむ」と云ひて讃伎國意比川の文字を消したるはいかに思誤れるにか。意比川は意此川の誤にて次の記事の提要なるをや。栗田氏が俗人云讃伎國を俗人ハ讃伎ノ國《クニビト》ナリトモイヘリとよみて註文としたるも誤れり○斑鳩村は譽田村の東南にありて聖徳太子の縁故地なり。もと鵤と書きしを明治二十二年に其村の名刹斑鳩寺の名に因みて文字を斑鳩に改めしなり。因にいふ。法隆寺縁起資財帳に見えたる播磨國|佐西《サセノ》地は此附近ならむ
意此〔左△〕《オシ》川 品太天皇之世出雲(ノ)御蔭《ミカゲノ》大神|坐《イマシテ》2於|牧〔左△〕方《ヒラカタノ》里神尾山1毎《ツネニ》遮2行人1半死△《半》生。爾《ソノ》時伯耆人小保弖・因幡△《ヒト》布久漏《フクロ》・出雲△《人》都伎也《ツキヤ》三人相憂申2於朝庭1。於v是遣2額田部連《ヌカタベノムラジ》久等々1令v祷。于v時|佐〔左△〕2屋形(ヲ)於屋形田1、作2酒屋於佐々山1而(238)祭《マツリ》之。宴遊甚樂。即|櫟〔左△〕《ツミテ》2山(ノ)柏《カシハ》1挂v帶※[手偏+垂]〔右△〕v腰下2於此川1相|獻〔左△〕《オシキ》。故號2壓川1
敷田氏標注 出雲御蔭神、考なし。今按に朝庭より額田部氏の人を擇び遣し給ひて神慮を和《ナゴ》め奉りしを思へば御蔭神は天津彦根命の御子天(ノ)御影命にぞ坐けむ。額田部は其神の御末なればなり○半死生、筑後風土記に昔此堺上有2麁猛神1往來人半死半生、其數極多云々かかる事上代は常多かりき○屋形は齋場なり。酒屋は酒殿なり。上代の祭奠見べし○※[手偏+垂]、神代紀に※[手偏+垂]《サシ》v籤《クシ》伏《フセ》v馬と訓み猶古書に例有
栗田蛆標注 枚方ノ枚、牧ニ作レルハ誤ナリ。下文ニ據リテ訂ス○半生ハモト半ノ字無シ。今之ヲ補フ。筑後風土記ニ其文例アリ○都伎也ハ倭名鈔ニ出雲|意宇《オウ》郡ニ筑陽《ツキヤ》郷アリ。蓋此地ニ因リテ名ヲ命ジタルナリ○作ハモト佐ニ作レリ。今一、本ニ從フ○春枝云ハク。揖東郡上笹村ニ笹山アリト○櫟山ハ山ノ名○屋形ハ即宮殿、酒屋ハ即酒殿ナリ○柏挂帶云々ハ猶大嘗祭ニ柏葉ヲ戴キテ舞フガゴトシ○壓川ハ猶、意須比川ト云フガゴトシ。柏葉ヲ帶腰ニ挂クルハ蓋、襲衣《オスヒ》ヲ被《キ》ルニ似タリ○壓モト獻ニ作レリ。今一本ニ從フ
新考 原本の比は此、牧は枚、佐は作、獻に似たる字は壓の誤なり。又生の上に半を、因(239)播と出雲との下に人を落したり。※[手偏+垂]は挿の俗字なり。敷田氏の引ける神代紀一書の例は一本に秋則挿〔右△〕v籤《クシ》伏v馬と書けり。萬葉集卷八(新考一五九〇頁)なるカザシニ不搖〔左△〕《ササズ》カヘリナムトヤも不※[手偏+垂]を誤れるなり○意此《オシ》川は今の林田川なり。林田川は今の斑鳩村と譽田村との間を流れたり○出雲(ノ)御蔭(ノ)大神は古事記開化天皇の段に
日子坐《ヒコイマス》王……又|近淡海《チカツアフミ》ノ御上祝《ミカミノハフリ》ガモチイツク天之御影(ノ)神ノ女|息長水依《オキナガノミヅヨリ》比賣ニ娶《ア》ヒテ云々
姓氏録に
額田部湯坐連《ヌカタベノユヱノムラジ》ハ天津彦根命ノ子|明立《アケタツ》天(ノ)御影命ノ後ナリとありて額田部連は其後裔なる事敷田氏の考へたる如し。又天孫木紀(舊事本紀)には
天御陰〔右△〕命 凡河内直《オホシカフチノアタヒ》等(ノ)祖
とありて陰の字を書けり(栗里雜著卷六の五八頁參照)。さて下文に據れば神尾山に坐ししは御蔭大神の妃なり○枚方《ヒラカタ》里は次下に見えたり○半死半生は一人を半死半生ならしむるにあらず。十人此處を過ぎむに其五人を殺すなり。やがて同一事を(240)下文に十人之中留2五人1、五人之中留2三人1といへり(賀古郡|鴨波《アハハ》里參照)○さて伯耆・因幡・出雲三國の人が此神のあらびを訴へしは三國の人は都に上るに此處を過ぎざるを得ざる故なり。中にも特に出雲の人に祟りし事下文に見えたり。栗田氏が都伎也を地名の筑陽に因れる名とせられたるは一發見なり。小保※[氏/一]の小は誤字ならざるか。たとひ保※[氏/一]に小を添へたるなりとも袁保※[氏/一]など書くべきなり。讃容郡彌加都岐原の下なる因幡|邑由胡《オホユコ》の邑も大の義とおぼゆ○屋形は假屋にてここにては祭殿なり。酒屋は酒殿にて神酒を造る處なり。はやく上(四一頁)に云へり○作2酒屋(ヲ)於佐佐山1とある不審なり。作2屋形於屋形田1と相對したるを見又賀古郡の下に
是時造2酒殿1之處即號2酒屋村1
といひ下文萩原里の下に
爾《スナハチ》造2酒殿1。故云2酒田1
といへるなどを見れば酒屋を作りしが故に佐々山と名づけしに似たり。然らば古語に酒をササとも云ひしか。今酒をササとも云へどそは近古に始まりし女子語にあらざるか。按ずるに文選卷十八なる張景陽の七命八首に乃有2荊南(ノ)烏程・豫北(ノ)竹葉1(241)とあり。豫北は地名にて竹葉は酒の名なり。これより詩文に酒の異名を竹葉と云へり。たとへば白樂天の詩に甕頭竹葉經v春熟、階底薔薇入v夏開また呉酒一杯竹葉と作れり。又竹葉を美酒の名とせり。たとへば東坡集の註に宜城(ノ)九※[酉+媼の旁]酒號2竹葉酒1といへり。又我邦の典籍にも酒の異名を竹葉と云へり。たとへば吾妻鏡に
剰被v副2送竹葉上林已下1(元暦元年四月)
とあり。上林は又上林下若とも偶用して菓子《クダモノ》の異名なり。又
逗留之間連日竹葉勸2宴醉1(同年六月)
とあり。さればこの竹葉を譯して夙く中古より酒をササといひもしけむ。然も更に夙く上古より酒をササといひもしけむとは思はれず。或はここに作2酒屋於佐々山1とあるは佐加山の誤寫にあらざるかとも思ひしかど天平十九年に勘録せし法隆寺縁起資財帳に播磨國揖保郡佐々山(ノ)池一塘とあれば佐々山はなほ佐々山ならむ。されば
佐々山は酒屋を作りし事と交渉無き名なるか
又は初サカ山といひしを後にササ山と訛れるか(242)なほよく考ふべし○さてその佐々山はいづぐにか。例の春枝が揖東郡上笹村有2笹山1といへる上笹は上(一八三頁)に見えたる香山《カグヤマ》里佐々村なればここには與らず。又其地に笹山ありと云へるは例の詐なり。按ずるに佐々山は今も譽田村の大字福田にある笹山なり。天文十年まで此處に樂々《ササ》山圓勝寺といふ大寺ありきと云ふ(太田郷中太田村にありし樂々山極栗寺とは別なり)○柏は借字にてカシハは木葉の汎稱なり。但多くはハハソを云へり。櫟山柏を敷田氏は櫟を擽に改めて山ノカシハヲトリテとよみ栗田氏はもとのままにてイチヒ山ノカシハヲとよめり。櫟は恐らくは採の誤ならむ。なほその下に其の字を落したるか○採山柏の下にソノ柏ニ酒ヲ受ケテ飲ミサテソノ柏ヲといふことを補ひて心得べきか。貞觀儀式大嘗會(ノ)儀に
造酒司人別《サケノツカサヒトゴトニ》賜v柏。即受v酒而飲訖以v柏爲v縵而和舞
とあり。又夫未抄なる
柏 みわそそぐみつの柏のしだれ葉のながながし夜をいはひきにけり 鴨長明
といふ歌の左註に
(243) 此歌伊勢記云。この國にみつのがしはといふ物あり。……これは神宮四度の御祭の時かならずいる物なり。御前の御あそび果てて四の御門の脇にとくらのこといふ大みわを設く。社の司このみつのがしはを各ひと葉持ちて寄れば其上にこのみわを注ぐ、ことさらこれを腰にさして〔五字傍点〕出づるなり云々
といへり(萬葉集新考三八八九頁|酒柏《ミキガシハ》參照○挂帯の挂はシデテとも訓むべし。皇極天皇紀二年二月に折2取枝葉1懸2挂木綿1の懸挂をトリシデテとよめり○相壓は今いふ押合なり。こは此時に限らず又遊戯にはあらで或種の迷信より古人は往々かかる事をせしものとおぼゆ。尾張國中島郡|國府《コフノ》宮の追儺の神事に神社の前の川にて禊せし後押合する例などは其遺風にあらずや。北越雪譜に見えたる越後國浦佐の毘沙門堂の堂押なども
○枚方《ヒラカタ》里(土中上) 所3以名2枚方1者河内國|茨田《マムダ》郡|牧〔左△〕方《ヒラカタ》里(ノ)漢人《アヤビト》來到《キタリテ》始居2此村1。故曰21枚方里
敷田氏標注 枚方、河内國共に和名抄に漏る。繼體紀にヒラカタユフエフキノボル(244)とあるぞ茨田郡の枚方なる
栗田氏標注 御圖帳ヲ按ズルニ揖東郡ニ平坊村アリ。今河内國茨田郡ニ枚方村アリ。繼體紀二十四年影媛ノ歌ニ曰。比羅※[加/可]駄喩輔曳輔枳能朋樓《ヒラカタユフエフキノボル》ト。即此
新考 今龍田村大字佐用岡に平方といふ處あるは此里の名の殘れるなり。龍田村は太市村の南譽田村の束、斑鳩村の東北にあり。村名は此村もと龍野林田二藩に屬したりしかば明治二十二年に兩藩名の一字づつを取りて龍田と命ぜしなり○河内國|茨田《マムダ》郡|枚方《ヒラカタ》里は今の北河内郡枚方町なり○栗田氏がヒラカタユフエフキノボルといふ歌を影媛としたるは暗記の誤なり、こは毛野(ノ)臣の妻の歌なり
佐此岡 所3以名2佐比1者出雲之大神在2於神尾山1。此神出雲國人經2過此處1者十人之中留2五△《々》1人△《々》之中留2三人1。故出雲國人等作2佐比1祭(スレド)2於此岡1遂不2和《ナゴミ》受1。所2以然1者比古神先來、比賣神後來。此|男神不能鎭〔左△〕而《ヒコガミエマタズテ》行|去之《イニキ》。所以《コノユヱニ》女神怨怒也。然後河内國茨田郡枚方里(ノ)漢人《アヤヒト》來2至居《キタリヲリ》此山邊1而敬2祭之1僅得2和鎭《ナゴメシヅムル》1。因2此神(ノ)在1名曰2神尾山1。又作2佐比1祭處即號2佐比岡1
(245)敷田氏標注 出雲大神は右に見えたる御蔭大神なり○十人は履中紀に數十人をトタアマリと訓り。トタリアマリ也。五人は垂仁紀に五婦人ヲイツトリノヲムナと有に傚ふ(○さてトタリ・イツタリとよめりと云へるなり)。後拾遺集(ノ)序に五人をイツツノヒトとあるは五歳の人と聞えて非也○佐比、齋場所を云○和は推古紀に以v和《アマナヒ》爲v貴、繼體紀に和解《アマナヒトカシム》、續紀十一に和買《アマナヒカヒテ》、遊仙窟に甘心《アマナヒナム》(○寸斷亦甘心)などあるに據る○佐比、詳ならず(○前に「齋場所を云」といへると矛盾せり)
栗田氏標注 按ズルニ留五人ノ下ニ疑ハクハ五人ノ二字ヲ脱セルナラム。今意モテ之ヲ補フ○按ズルニ佐比ハ鋤持《サヒモチノ》神ノ鋤《サヒ》ト同ジ。小刀ヲ作リテ神ヲ祭ルナリ
新考 今龍田村の大字に佐用岡あり。是佐比岡の名の轉じたるにて其南方にありて太田村に跨れる山ぞ神尾山ならむ○出雲之大神は即前に見えたる出雲(ノ)御蔭(ノ)大神なり。但下文に據れば失《ヒコ》神にはあらで妻《ヒメ》神なり○ここに出雲國人經2過此處1者といひ、上文日下部里の下(二〇九頁)に昔土師弩美宿禰往2來於出雲國1宿2於日下部野1といひ、、下文桑原里琴坂の下に出雲國人息2於比坂1といへるを思へばいにしへ出雲國より都に上るには赤徳郡より揖保郡に入り琴坂即今の揖西村大字構の琴坂、日下(246)部野即今の龍野町附近を經て神尾山の麓を過ぎしなり。今の出雲街道は佐用郡より揖保郡に入り越部村の觜《ハシ》崎にで揖保川を渡り神岡村の奥・横内・追分、太市村の石倉を經て飾磨郡に越ゆるなれば上古の道路よりは遙に北に當れるなり○五人はもと五々人々とありて十人ノ中五人ヲ留メ五人ノ中三人ヲ留メキとよむべかりしを二つの々を落せるなり。敷田氏が五人の下に直に五人を補ひ栗田氏が五人の下に五人を脱せるなりとせるは當時の書式にかなはず(一八二頁參照)。又二氏が留五人・留三人を五人《イツタリ》シニ三人《ミタリ》シヌとよめるは從はれず。文字の如く五人ヲトドメ・三人ヲトドメキとよむべし○作2佐比1祭於此岡1を栗田氏が佐比祭ヲ此岡ニ作《ナ》スとよめるは誤れり。佐比ヲ作リテ此岡ニ祭スレドとよむべし。神尾山にいます神を其麓なる佐此岡にて祭りしなり○佐比を敷田氏は「齋場所を云」と云ひ又「詳ならず」といひ栗田氏は小刀とせり。案ずるに神代紀一書に蛇《ヲロチノ》韓鋤之劍とある韓鋤をカラサヒとよみ釋日本紀に
私記曰。問。韓鋤之意如何。答。其形似v鋤。故名v之。今世之須伎〔二字傍点〕也
といへり。又神武天皇紀に鋤〔右△〕持神とあるは、古事記穗々手見(ノ)命の段なる佐比〔二字傍点〕持(ノ)神に(247)當れり。又齊明天皇紀に膽振※[金+且](ノ)蝦夷《エミシ》とありて膽振※[金+且]此云|伊浮利娑陛《イブリサヘ》と註せり。又天武天皇紀なる小子部連《チヒサコベノムラジ》※[金+且]鈎をサヒチとよめり。又和名抄農耕具に※[金+傅の旁](ハ)鋤屬也。漢語抄云。佐比都惠《サヒヅヱ》とあり。又字書に※[金+且]《シヨハ》與v鋤同。又|鋤《シヨ》本作v※[金+且]とあり。されば佐比は鋤《スキ》の古語なり○不v能v鎭の鎭は俟の誤ならむ○又作2佐比1祭處を栗田氏が佐比祭ヲナセシ處とよめるはいとわろし。佐比ヲ作リテ祭セシ處とよむべし。又ナセシは語格上ナシシとあるべし
佐岡 所3以名2佐岡1者難波(ノ)△《高》津(ノ)宮(ノ)天皇之世召2筑紫(ノ)田部《タベ》1令v墾2此地1之時常以2五月《サツキ》1集2聚此岡1。飲酒宴△《樂》。故曰2佐岡1
敷田氏標注 佐岡は稻《サ》岡なり。五月は稻を植る月なれば然いふ。なほ國典字徴稻字に詳也○田部、和名抄筑前國|早良《サハラ》郡郷名田部(ハ)多倍と有に據て訓つ。景行紀に令3諸國興2田部屯倉1、是は朝庭の御料の田を作らしむる民等を云
栗田氏標注 高ノ字例ノゴト補フ○筑紫田部、按ズルニ倭名抄ニ筑前|早良《サハラ》郡ニ田部郷アル即此ナリ。今本郡ニモ亦田井村アリ
(248)新考 今大字佐用岡の西北に當り龍田・譽田《ホンダ》・斑鳩《イカルガ》三村に跨れる小丘あり。今も佐岡山といひ又坊主山といふ。北方の外は目を遮るもの無ければやも温暖なる時節には近村の男女登覽しで酒宴を催す事あり○古事記|日代《ヒシロ》宮(景行天草の段に此之御世定2田部1とあり又景行天皇紀に五十七年冬十月令3諸國興2田部《タベ》・屯倉《ミヤケ》1とあり。記傳に
田部と云物は役《エダ》てて屯倉《ミヤケ》の御田を佃らしむる料に定置るる民の部《ムレ》なり
といへり○今も田部といふ地名諸國に殘れり。和名抄に筑前國|早良《サハラ》郡田部(多倍)とあり。栗田氏が今本郡亦有2田井村1といへる本郡は揖保郡を指せるか。赤穗郡にこそ田井村はあれ、揖保郡に田井といふ村あるを聞かず。たとひありとも此處に用なし○サヲカのサはサ月・サ苗・サ少女・サミダレなどのサにて五月の農事をいふ。下文|讃容《サヨ》郡の下にも
爾《ココニ》大神勅云。汝妹《ナニモ》者五月(ノ)夜殖哉。即云2彼處1號2五月夜《サヨ》郡1
とあり○津の上に高をおとしたる外に宴の下に樂を落したるならむ
大見山 所3以名2大見1者品太天皇登2此山(ノ)嶺1望2覽四方1。故曰2大見1。御立之處(249)有2盤石1。高三尺許、長三丈許、廣二丈許。其石面往々有2※[うがんむり/(官の中+卜)]〔左△〕《クボメル》跡1。此《コレガ》名(ヲ)曰2御沓及御杖之處1
敷田氏標注 盤石の盤は磐石に作べし。此二字神代紀に據てイハと訓つ○※[うがんむり/辟の旁がト]字讀えず。穿の誤なるべし、穿をウゲとよむ事音韵啓蒙に委く論おきつ
栗田氏標注 春枝云ハク。揖西郡ニ大御山アリ。山下ニ三沓村アリト○盤磐ハ古通ハシ用ヒキ○※[うがんむり/辟の旁がト]ハ疑ハクハ窪ノ或體○飾磨郡少川里ノ條ニ御立丘アリ。併セ考フベシ
新考 御立之處はミタチセシトコロとよむべし(萬葉集新考二三七頁參照)○盤は古典に磐に通用せり。誤字にあらず。※[うがんむり/辟の旁がト]は窪の誤なり。栗田氏は窪跡の跡を處と誤れり○今太田村と勝原村とに跨りて檀特山といふ山あり。山中に聖徳太子の馬蹄の跡といふ石あり。大見山はおそらくは是ならむ。太田村は龍田村の南に接し勝原村は更に其南に接せり。右の檀特山は山陽線|網干《アボシ》驛より東北に見ゆ。揖保郡地誌には譽田村大字福田、字笹山、小字八軒屋の上なる東西兩山の中腹に對峙したる明神岩(250)一名夫婦岩のうちの女明神岩に擬して
男明神岩は攀づべからず。其西なる女明神は平坦にして十數人坐するに足る、是を以て春秋の頃近郷のもの此所に來り行厨を開くもの多し。眺望絶佳なり。磐上に一大足跡あり。明神の足跡といふ。因りて思ふに此地もと枚方里に屬し大見山といひし歟。猶考ふべし
と云ひたれど明神岩としては本文に高三尺許と云へるに合はざるにあらずや○春枝が揖西郡有2大御山1、山下有2三沓村1といへるは例の如く跡もなき詐なり
三前《ミサキ》山 此山(ノ)前《サキ》有v三。故曰2三前山1
新考 前は崎の借字なり。古典に例多し○此山は檀特山の北嶺を云へるにあらざるか。其北嶺には北方に向へる尾崎三つあり
御立《ミタチノ》阜 品太天皇登2於此阜1覽v國。故曰2御立岡1
敷田氏標注 登(ノ)下立(ノ)字を脱せり。今義を以補ひつ
新考 立といふ事は略したるなり。立の字を脱したるにあらず○御立阜は今の石(251)海《イハミ》村なる立《タツ》岡山なり。石海村は斑鳩村の南、太田村の西南に接せり。立岡は其東北部にありて檀特山の西々北に當れり。昔此山に八幡宮ありしを廣山に移しし事、上(二三六頁)に云へる如し
○大家《オホヤケ》里(舊名大宮里。土中上) 品太天皇巡行之時營2宮(ヲ)此村1。故曰2大宮1。後至2田中大夫爲v宰之時1改2大宅《オホヤケ》里1
敷田氏標注 大家、和名抄に大宅(ハ)於保也介と註せり。今千本驛ちかき邊に大屋と云 村有とぞ
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。揖保郡大宅(於保也介)ト。春枝云ハク揖西郡ニ大宅村アリト。國圖ニ大屋ニ作レリ
新考 今の勝原村なり。下にくはしく云ふべし。春枝が揖西郡有2大宅村1と云へるは例の詐なり。二註に擧げたる大屋は東栗栖村(即本書の栗栖里)の大字にて地理かなはず
大法《オホノリ》山(今名|勝部《スクリベノ》岡) 品太天皇於2此山1宣《ノル》2大法1。故曰2大法山1。今所3以號2勝部《スグリベ》1(252)者|小治田《ヲハリダノ》河原(ノ)天皇之世遣2大倭《ヤマトノ》千代(ノ)勝部《スクリベ》等1令v墾v田。即居2此山邊1。故號2勝部岡1
敷田氏標注 河原の下宮字を脱せり。小墾田宮は推古孝徳皇極のに見えたれど河原宮と續たる例なければ詳ならず。齊明紀に飛鳥河原宮とは見ゆ。按に小治田も河原も共に飛鳥の地にあれば推古天皇を申めり○千代勝部は二人の名なり
栗田氏標注 春枝云ハク。今赤穗郡ニ大法山大法村アリト○河原ノ二字恐ラクハ衍ナラム
新考 小治田河原天皇の河原の下に敷田氏の云へる如く宮を脱したるかと云ふに下文|石海《イハミ》里の下又|宍禾《シサハ》郡|比治《ヒヂ》里の下に難波|長柄豐前《ナガラトヨサキ》天皇とあればなほもとのままにて近江天皇・宇治天皇などと同例とすべし○小治田(ノ)河原(ノ)宮といふは國史に見えず。國史に見えたるは推古天皇紀の小治由宮と齊明天皇紀の飛鳥(ノ)川原宮となり。されば栗田氏は河原二字恐衍と云へるなれど小治田と飛鳥とは異名同地(又は小治田は飛鳥の内)なれば小治田(ノ)河原宮は即飛鳥(ノ)川原宮にて小治田河原天皇は皇(253)極(齊明)天皇の御事なり○千代勝部を敷田氏は二人の名とせり。栗田氏は黙したれど大倭の下にノを書添へながら千代の下に書添へざるを見れば亦二人の名とせるに似たり。按ずるに千代は地名なり。山城の千代こそ人に知られたれ(古歌に芹川ノ千代ノフル道とよめる是なり)大和の千代は世に聞えざれど近古まで殘りし地名と見えて諸國に行はるる田歌に
さんばえの乳母御をたづぬれば尋ぬれば大和の國の千代〔七字傍点〕がうば
とあり。サンバエ(又サンバイといふ)は田植の神なり○勝部は氏なり。又勝といふ氏あり。又勝といふカバネあり。この勝を古くはカチとよみしを谷川士清・本居宣長はマサとよみ伴信友はスクリとよめり。又村主といふカバネあり、こは古も今もスクリとよめり。
村主をスクリとよめる例の古典に見えたるは和名抄に伊勢國安濃郡の郷名村主を須久利と訓ぜり
村主は村長にてスクリはその韓語の轉訛なりといふ。日本紀(神功皇后紀以下)にも韓國の地名の村にスキと傍訓せり。さて姓氏録に據れば勝の氏・勝のカバネ・村主の(254)カバネなるは皆韓人の裔なり。又氏の勝・勝部の地名となりて諸國に殘れるを見るに多くはカチ・カチベと唱ふれど又スグレと唱ふる處あり。特に武藏國入間郡勝の如き後世訛りてスグロと唱へ呂の字をさへ加へ書きたるにて初よりカチ・マサなど唱へざりし事明に知らる。
聖護《シヤウゴ》院道興|准后《ジユゴウ》の廻國雜記に「勝呂《スグロ》といへる所に至て名に聞えし薄など尋てよめる云々」とあり。こは所謂スグロノススキをいへるなり
思ふに今カチ・カチベと唱ふる處ももとはスグレ・スグレベと唱へしを後に文字に附きて今の如く唱ふることとなりしならむ。スグレとよむべきを字に附きてカチとよむ事はあるべく、カチとよむべきをスグレと讀みひがむべきにあらねばなり。なほ後に其的例を擧ぐべし。さてスグレは勿論スクリの訛なり。スクリはもと韓語なるべき事上に述べたる如くなるが之を取りて歸化人の氏又はカバネとするに當りて或はその義に基づきて村主と書き或は其音に據りて勝の字を充てたるなり。然るに勝はスグレにてそのスグレは下二段活の動詞、又クは濁音なればスクリにはうまく當らざるが恐らくは外語に漢字を充つる如く又蝦夷の地名に漢字を(255)充てし如く清濁とリレの差とには拘らざりしならむ。
或はスグレはいにしへ四段に活き又そのクは清みて唱へしにか
ともかくも勝の字を書きても氏又はカバネの時には初はスクリと唱へしがやうやうに字に附きてスグレと唱ふる事となり終にカチとも唱ふることとなりしなり。
或人は勝をカチとよむべき證として萬葉集卷三なる勝野(ノ)原を擧げたれどこは蕃別の氏とは關係なき地名なるか、又はこれも初はスクリ野なりしを夙く字に從ひてカチ野とよむこととなりしならむ。抑字に依りて地名を改むる事を近世のみの事と思はむは迂濶なり。漢字の行はれし後は上古にもさる例あるべきなり
されば本書の勝部岡もスクリベノ岡とよむべきなり。さて此勝部岡即大法山は今のいづれの山なるべきか。
春枝が今赤穗郡有2大法山大法村1といへるは例の詐なり。赤穗郡にさる村さる山無し。又ここに記述せるは赤穗郡に接壤せる揖保郡の西部にはあらでその東南(256)部なり
まづ此郡の記述の順序は特によく地理にかなへるが前出の枚方《ヒラカタ》里は今の龍田村より太田村の西部及|石海《イハミ》村の東北部に亘れる地、又嗣出の大田里は今の太田村の東部に當る地なれば此|大家《オホヤケ》里は檀特山及朝日山の東南麓ならざるべからず。其處は今|勝原《カツハラ》村と云へど此勝原といふ名は明治二十二年四月に市町村制を實施せし時朝日谷等の七村を合せて其地方の舊稱|勝原《スグレハラ》を取りて新村名とせむとせしがスグレハラは唱へにくきが故にカツハラと唱ふることと定めしなり。即揖保郡地誌に
丁村外六个村團體區を勝原村と稱する所以は該地方を總稱して勝原《スグレハラ》と云ふ。然れども勝《スグ》れ原は口調あしきにより其文字を取りて名を附せり
といひ又|魚吹《ウスキ》八幡神社の社記に
今山戸邑より、宮内までの間二十町餘、往古は原野なりし由なり。此間に字勝原茶屋と云ふあり。今俗にソグリハラ茶屋と云ふ。山戸村の出村なり。其南に宮田村と云ふあり。昔の神田なりし由なり
(257)と云へるを引けり。さてそのスグレ原又ソグリ原は即スクリ原にて其處の山の名が原の名となりて幸に後世に傳はりしなり。されば大家《オホヤケ》里は今の勝原《カチハラ》村、否その西部なり。西部といふ所以は東部の丁《ヨウロ》と下太田とはいにしへの大田里に屬すべければなり。既に大家里が今の勝原村の西部と定まれば本風土記中最重要なる史蹟即應神天皇が建保を宣布したまひし名山大法山は一考を費さずして指示せらるべし。即檀特山の西南に連なりて山陽線網干驛の後に峙てる朝日山是なり。更に一證を附加せむに播磨鑑揖東郡之部に
勝陣屋 朝日山の南。赤松滿祐木の山籠城の時八十八騎を始め武士を勝《スグ》ると言傳ふ 兵をすぐりの陣屋幕はりてはげみいさめる朝日山かな 赤松滿祐
といひ又
勝城 在2朝日山(ノ)南1。城主は小松原の子孫福居次郎時家守り預る。赤松の幕下也
といへり。但スグリを赤松滿祐以來の地名とせるは固より非なり
上|※[草冠/呂]〔左△〕《ハコ》岡・下※[草冠/呂]〔左△〕岡・黒〔左△〕戸津《ナベツ》・勅〔左△〕田《アフコダ》 宇治天皇之世宇治(ノ)連《ムラジ》等(ノ)遠祖|兄太加奈《エダカナ》△《志》・弟〔左△〕(258)太加奈志《オトダカナシ》二人請2大田村|與富等《ヨホトノ》地1墾v田將〔右△〕v蒔來時|※[まだれ/斯]人《ツカヒビト》以v※[木+力]《アフコ》荷2食具等(ノ)物1。於v是《ココニ》※[木+力]折〔右△〕荷落。所以《コノユヱニ》奈閇(ノ)落處即號2黒〔左△〕戸津《ナベツ》1、前※[草冠/呂]〔左△〕落處即名2上※[草冠/呂]〔左△〕岡11、後※[草冠/呂]落處即曰2下※[草冠/呂]〔左△〕岡1、荷(ノ)※[木+力]落處即曰2※[木+力]田《アフコダ》1
敷田氏標注 黒戸は魚戸の※[言+爲]か。次なるも同○宇治天皇は宇遲能和紀郎子を申○宇治(ノ)連、姓氏録に宇治宿禰も宇治部(ノ)連も共に伊香我色雄《イカガシコヲ》命の後也と有○富等、正訓をしらず。地は村の※[言+爲]にて富等村にはあらじか。土人に問べし○所以、恐衍文。奈閇は※[木+力]のなへかに撓たる状也。源氏寄生・野分・初音等の卷に例あり
栗田氏標注 倭名抄ニ※[木+力]は杖名也。阿布古ト。字鏡ニ曰。阿保古ト。一聲ノ轉ナリ。延喜式・古今集・後撰集ニハ阿不古○宇治天皇ハ蓋宇治稚郎子命ヲ言フ○兄太加奈志ノ志ノ字モト脱セリ。今一本ニ從フ
新考 ※[草冠/呂]は筥の誤又は通用、黒は魚、勅は※[木+力]、第は弟の誤なり。將の字は蝕みたれどなほ將と讀まる。原本に志を脱し又折を析に誤れり○菟道稚郎子《ウヂノワキイラツコノ》皇子を宇治天皇といへる、めづらし。下文|美嚢《ミナギ》郡の下に押磐《オシハ》皇子を市邊天皇といひ常陸風土記に日本(259)武《ヤマトタケルノ》尊を倭武天皇といへると同例なり。又上文印南郡大國里の下には聖徳王御世と云へり。本書などは固より正史にあらねば世俗の稱せしままに記述して名分を正さざりしなり。なほ古事類苑帝王部十四私稱天皇の處(八五五頁)を見合すべし○大田村は即次に見えたる大田里なり。大田里は今の龍田村・太田村・勝原村の東部にて枚岡《ヒラヲカ》里及|大家《オホヤケ》里とは太田川を界とせしならむ。さてここは大家里より大田里の南部に到らむとする途の事を記述せるなれば大家里の下に云へるなり○請大田村與富等地は栗田氏の如く大田村ノ與富等ノ地ヲ請ヒテと訓むべし。敷田氏が大田村ト富等トノ地ヲ請ヒテと訓めるは非なり。與富等《ヨホド》は今の勝原村の大字丁(ヨウロ)ならむ○將蒔來時を敷田氏はマカムトシテキ〔左△〕シ時とよみ栗田氏はウヱニコシ時とよめり。宜しくタネマカムトシテコシ時ニと訓むべし。蒔をタネマクとよむべきは植をキウウとよみ射をユミイルとよむべきと同例なり(二一九頁及二三四頁參照)○※[まだれ/斯]人は二註の如くツカヒビトと訓むぺし。ここにては下男なり○※[木+力]折荷落の落はオチキとよみ切るべし。敷田氏がオチとよめるは非なり○所以を敷田氏が恐衍と云へるは誤解なり。所以は飾磨郡伊和里以下に例あり。故といへるに同じ。ソコ(260)ユヱニともコレユヱニとも訓むべし○黒戸津を栗田氏が字のままにクロヘツとよめるは誤れり。敷田氏の如く魚戸津の誤とすべく、さてナベツと訓むべし。奈閇落處の奈閇を敷田氏がナヘと清みて訓みて※[木+力]の撓める状といへるはいみじき誤なり(撓の意ならばナエとなるべし)。奈閇・魚戸と書けるは鍋の借字なり○筥岡・※[木+力]田の地は今知られず。魚戸津は太田川の渡津ならむ○印南郡含藝里の下に
瓶ノ酒ヲ馬ノ尻ニ著ケテ家地《イヘドコロ》ヲ求《マ》ギ行キシニ其瓶此村ニ落ツ。故瓶落ト曰フ
とあるとやや相似たり。筥は飾磨郡|枚野《フラヌ》里の下にも見えて飯器なり
○大田里(土中上) 所3以稱2大田1者昔|呉勝《クレノスクリ》從2韓國1度來、始到2於|紀伊《キノ》國名草郡大田村1。其後分來移2到於|攝津《ツノ》國三島(ノ)賀美《カミノ》郡大田村1。其△《後》又遷2來於揖保郡大田村1。△《依》v是|本《モトヅキ》2紀伊國大田1以爲v名也、
敷田氏標注 大田、和名抄に於保多と注せり。同(ク)名草郡郷名にも見えたり○三島賀美郡、和名抄に島上(ハ)志末乃加美。島下准v之と有。此地は史にも往々見えて三島とのみ書來れるを島とばかり云は後也。式に島下郡大田神社あり。是は同地にて島上に近(261)く上代は其邊も島上なりしと聞ゆ。攝津志島下郡に大田村有。欽明紀に攝津國三島郡|埴廬《ハニイホハ》新羅人之先祖也云々。右に韓國より度來ると有は新羅人にこそ有けめ
栗田氏標注 按ズルニ國圖ニ揖東都ニ太田・上太田・下太田村アリ○按ズルニ倭名鈔ニ攝津國ニ島上郡島下郡アリ
新考 呉勝《クレノスクリ》の勝はカバネなり○三島(ノ)賀美《カミ》郡は即島上郡なり。島上と二字に書きても初はミシマノカミとよみしなり○其又の間に後をおとし是の上に依を落せるなり
言擧《コトアゲノ》阜 右所3以稱2言擧(ノ)阜1者|大帶《オホタラシ》日賣(ノ)命之時|行《ヤリシ》v軍之日|御《イマシ》2於此阜1而教2令軍中1曰。此御軍者|愍〔左△〕懃《ユメ》勿v爲2言擧1。故號曰2言擧(ノ)前〔左△〕1
敷田氏標注 教令軍中、神武紀に令2軍中1曰云々。神功紀に皇后親執2斧鉞1令2三軍1曰云云
新考 大帶《オホタラシ》日賣命は後にも見えたり。息長帶比賣《オキナガタラシヒメ》命即神功皇后の御事なり。日賣はうるはしくは日女又は比賣と書くべし○行軍之日を敷田氏はイクサタタス日と(262)よみ栗田氏はイクサダチノ日とよみたれどイクサダチは出師の義にて行軍は孫子の軍爭第七に不v知2山林險阻沮澤之形1者不v能v行v軍とありて軍を進むる事なり。されば行軍之日は軍ヲヤリシ日とよむべきか○愍懃を敷田氏は慇懃に改めたり。げに愍は慇の誤ならむ。さて此二字を敷田氏はネモコロニとよみたれどネモコロニは丁寧反復といふことにてここにかなはねば栗田氏の如くユメとよむべし。萬葉集には勤・謹などをユメとよませ日本紀には努力・慎矣などをユメとよませたり○コトアゲは揚言なり。勢を張る事なり(萬菓集新考二五八九頁及二八一二頁參照)。敵を驕らしめむが爲に揚言を禁じたまひしならむ。さてこは※[鹿/弭]坂《カゴサカ》・忍熊《オシクマ》二王と戰はむとしたまひし時の事にや。新撰姓氏録和氣朝臣の下に
神功皇后征2伐新羅1凱旋歸、明年車駕還v都。于v時忍熊別皇子等竊構2逆謀1於2明石堺1備v兵待v之。皇后監識、遣2弟彦王於針間吉備堺1造v關防v之
とあれば日本紀には見えねど兩軍の先鋒は播磨國にて遭遇せしにや○言擧前の前は岡の誤か
皷山 昔|額田部連《ヌカタベノムラジ》伊勢與2神人《ミワビト》腹太1文〔□で囲む〕相闘之時打2鳴皷1而△《闘》之。故號曰2皷(263)山1(山谷生v檀)
敷田氏標注 皷山、林田より塚本村へ行道に大皷と云所あり○腹太文の腹は姓か。姓氏録に原(ノ)造あり。文は、夫の誤なるべし
栗田氏標注 名跡志ニ曰。揖東都大田庄原村ニ楯皷原アリ。傳ヘテ云ハク。昔皇后征韓ノ日楯皷等ヲ設ケシ地ト○天武紀十三年十二月ニ額田部(ノ)連賜v姓曰2宿禰1ト。姓氏録ニ曰。明日名門命六世孫天由久富命之後也ト。又曰神人(ハ)御手代(ノ)首《オビト》同祖可比良命之後也ト。又云ハク。御手代(ノ)首は天御中主命十世孫天諸神命之後也ト
新考 上なる麻打里の下に額田部(ノ)連《ムラジ》久等々といふ人名見えたり○神人《ミワビト》は姓氏録攝津國神別又河内國神別又未定雜姓に見えたり。神人は氏、腹太は名なり(ミワビトの訓はしばらく攝津國神別なるに從ひつ)。腹太の下の文は衍字ならむ。栗田氏は文を之に改め然も改字の理由を言はず。又稿本の欄外に
按腹太(ノ)下蠹食不v詳。然字形似v文
と記せり。版本に之とあるは誤植にあらざるか。全體版本には稿本に依りて訂正すべき處少からざる如し○而立の間に栗田氏に從ひて闘の字を補ふべし。敷田氏が(264)もとのままにて之をユクとよめるはいと惡し○峰相記に大田郷楯皷原とありて播磨鑑に
楯皷原 太田郷在2原村1。私云。皇后御首途の時楯皷を建し所と云
とあり。原村は今の太田村の大字太田原なり。楯皷原はタコハラと唱ふる由なれど楯皷はタコとよむべきにあらず。恐らくはタコハラといふ在來の地名に傳説に基づきて強ひて楯皷の字を充てたるならむ。さてその傳説は恐らくは皷山傳説の變形ならむ
○石海《イハミ》里(土(ハ)惟《コレ》上(ノ)中) 右所3以稱2石海1者難波(ノ)長柄豐前《ナガラノトヨサキノ》天皇之世是里中有2百便〔左△〕《モモエ》之野1生2百枝之稻1。即|阿曇連百足《アヅミノムラジモモタリ》仍取2其稻1獻之。爾《ソノ》時天皇勅曰。宜d墾2此野1作uv由。乃遣2阿曇(ノ)連|太牟《タム》1召2石海《イハミノ》人夫1令v墾之。故野(ノ)名曰2百便〔左△〕《モモエ》1村號2石海1也
敷田氏標注 石海、和名抄に石見は伊波美。今石見庄あり○難波云々孝徳天皇の宮號なり。白雉二年十二月紀に天皇從2於大郡1遷2居新宮1。號曰2云々宮1と有。史にしばしば幸2難波宮1と有は此宮也○百便よみ難し。類聚名義抄・字鏡集等に便をタルと注せるに(265)據てしばらくモモタリとよみつ。其は阿曇(ノ)連百足と云名に依て名づけけむ。次の太牟召は百足を三字に誤しにはあらじか○人夫、仁徳紀に役丁をエヨボロと訓るに從ふ
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。揖保郡石見(伊波美)ト。名跡志ニ曰。揖東郡石見庄ト○百便ノ訓讀ハ未考ヘズ○姓氏録ニ曰。安曇(ノ)連(ハ)綿積命(ノ)兒穗高見命之後也
新考 今斑鳩村の南に石海村あり、かく名づけしは明治二十二年にて此地方の舊稱を岩見郷といふに據りしなれど文字を石海と改めしは本書に據りしなり。さて唱は無論イハミなるを近來セッカイと唱へ僻むる者あるはにがにがし○難波(ノ)長柄豐前《ナガラノトヨサキノ》天皇は孝徳天皇の御事なり○百便は百技の誤ならむ。下に故野名曰2百便1とある故《カレ》は百枝ノ稻生ヒシガ故ニと聞ゆればなり○敷田氏が乃遣2阿曇連太牟1召2石海人夫1の召を上へ附けて太牟召を人名としたるはいみじき誤なり。栗田氏の如く阿曇(ノ)連《ムラジ》太牟ヲ遣シテ石海ノ人夫ヲ召シテと訓むべし○人夫を敷田氏はエヨボロとよみ栗田氏はタミとよめり。ヨボロとよむべし。石海人夫は石見國の田部ならむ。上文佐岡の下にも召2筑紫田部1令v墾2此地1之時云々とあり
(266)酒井野 右所3以△《稱》2酒井1者品太天皇之世造2宮(ヲ)於|大宅《オホヤケ》里1闢2井此野1造2立酒殿1。故號2酒井野1
栗田氏標注 稱ノ字モト脱セリ。今一本ニ從フ○國圖ヲ按ズルニ神東郡ニ酒井村アリ、考フベシ
新考 酒井野の地は今知られず。栗田氏の云へるは今の神崎郡豐富村大字豐富の内にて地理のかなはざる事言を待たず○闢2井此野1云々は造酒の料に井を穿ちしなり。酒殿は酒を造る處なり。はやく上(二四〇頁)に云へり
宇須伎津《ウスキツ》 右所3以名2宇須伎1者|大帶《オホタラシ》日賣命|將v平《コトムケムトシテ》2韓國1度行之時御船宿2於|宇《ウ》伎〔□で囲む〕頭《ヅ》川之|伯〔左△〕《トマリ》1。自2此泊1度2行於|伊都《イツ》1之時忽遭2逆風《サカシマカゼ》1不2得進行1。而〔左△〕《ヨリテ》從2船越1々《コス》2御船△《々》1。船々《ミフネ》猶亦不2得進1。乃|追2發《オヒタテテ》百姓1呑v引2御船1。於v是《ココニ》有2一女人1爲v資〔左△〕2上《オヒアゲムトシテ》己之|※[負の異体字]〔左△〕《オヘル》子1而|墮《オトス》2於江1。故號2字須伎1(新辭(ハ)伊波〔左△〕須久《イススク》)
熱田氏標注 宇須伎津、今は魚吹《ウスキ》津と書よし也○逆風、神武紀に暴風をアラシマカ(267)ゼ、景行紀にアカシマカゼなど訓るに從ふべけれど齊明紀に横遭2逆風1とあるにおなじくヨコシマカゼと訓べき所也。史に讒言をヨコシマゴトともよめり○伊都は次に見えたる伊都村なり○宇須伎、源氏朝顔に「うすすきいで來てとみにもえ開やらず」とあるにおなじく驚きあわつる状也。祝詞式に夜女能伊須々伎と云るも古事記に立走伊須々蚊伎とあるも同言なめり○新をイマとよめるは書紀に例おほし。伊波須久は宇須伎の轉訛にて播磨國の古き方言なり
栗田氏標注 春枝云ハク。佐用郡ガ備前ニ接セル地ニ臼木津山アリ。山下ニ水アリ。宇都川トイフト。按ズルニ播磨名跡考ニ宇須幾濱八幡宮一ニ魚吹宮ニ作ル。網干《アボシ》浦ニ在リト○宇伎頭川ハ下文ニ據ルニ伎ノ字恐ラクハ衍○泊ハモト伯ニ作レリ。今一本ニ從フ○按ズルニ船越ハ蓋地名ナリ。國圖ニ據ルニ揖西郡伊津村ノ東ニ宍粟川アリ。川ノ東ニ又一水アリ。傍ニ舟代村アリ。恐ラクハ舟代ハ或ハ古ノ舟越ノ地ナラム。一説ニ云ハク。從船ハ扈從臣僕ノ船ナリ。又越々御船々ハ越御船々々ニ作ルベシ。蓋、從船越2御船1、々々猶亦不2得進1ナリト○負ハモト員ニ作レリ。今一本ニ從フ○宇須伎ハ按ズルニ源氏朝顔(ノ)卷ニ宇須々支ノ語アリ。蓋祝詞ニ所謂夜女能伊須々支ト(268)同ジク驚惶ノ義ナリ○御圖帳ヲ按ズルニ隣郡宍粟郡ニ宇津見村アリ新考 今旭陽村の南端なる大字宮内に津(ノ)宮あり。又宇須伎津八幡宮又|網干《アボシ》八幡と稱せしが今は魚吹《ウスキ》八幡神社と稱して縣社に列せられたり。ウスキを魚吹と書くは無理なる事なれどはやく峯相記に魚吹《ウスキ》八幡と書けり。宮内の西方に津市場といふ大字あり。
旭陽村は石海村の東南に續けり。朝日山の南にあるが故に町村制實施の時かかる名を附けしなり
宇須伎津といひ津(ノ)宮といひ津市場といふ津は舟を泊てしが故の名にて其津は宇頭川の河口の東岸にありき。これより南即今の網干《アボシ》町は當時は海底なりき○日本紀に據れば仲哀天皇熊襲國を討たむ爲に紀伊より穴門《アナト》(今の長門)を經て筑紫に幸し神功皇后は角鹿《ツヌガ》(今の越前國敦賀)より發して穴門にて天皇に會しそれより共に筑紫に幸し天皇の筑紫にて崩ぜし後、皇后は上國に還らずして筑紫より直に新羅を征したまひしにて征韓の途、播磨を經たまはざりき。本書にいへると傳異なるなり。矢野玄道の神功皇后御傳記などに強ひて日本紀と本書とを一致せしめむとし(269)たるは從はれず○宇伎頭川之伯の伎は衍字、伯は泊の誤字なり。宇頭川は今の揖保川にてその泊は河口の東岸なり。春枝が佐用郡の備前界に臼木津山宇都川ありと云へるは例の詐なり○伊都はイツとよむべし。栗田氏がイトとよめるはわろし。今の御津村の大字岩見なり。岩見の内に今も伊津といふ部落あり○逆風を敷田氏はヨコシマカゼとよめり(栗田本の傍訓にシマカゼとあるは脱字ならむ)。宜しくサカシマカゼとよむべし。即ムカヒカゼなり○而は仍などの誤字ならむ○從船越々御船々猶亦不得進を敷田氏が船越ヨリ御船ニ越エマシテ、船猶亦《ミフネナホ》得進マズとよめるはいとわろし。御船ニ越エマシテといふ事あるべきにあらざればなり。栗田氏が船越ヨリ御船ヲ越セドモ船猶亦進ムヲ得ズとよめるも未よろしからず。氏が一説として擧げたる從船越々御船々を從船、越御船々々の顛倒として從船を御ともの船と心得べしと云へる説は又いとわろし。宜しく御の下に々を補ひて從船越々御々船々とすべし。從船越々御々船々は從2船越1越2御船1御船と書かむに同じ。例は上に(近くは二四六頁に)見えたり。さて船越ヨリ御船ヲ越サムトスルニ御船猶亦得進マズとよむべし。栗田氏の如く御船ヲ越セドモとよみてははやく越し果てしこととな(270)りて義通ぜざればなり。畢竟川ヲ溯リサテ陸上ヨリ御船ヲ越サムトスルニといへるなり○船越の事は夙く上文賀古郡鴨波里舟引原の註(五七頁)に云へり。古事記垂仁天皇の段に自2山(ノ)多和1引2越御船1逃上行《ニゲノボリイデマシキ》也とあり。又日本紀欽明天皇三十一年の下に
秋宰月壬子朔高麗使到2于近江1。是月遣3許勢臣《コセノオミ》猿與2吉士《キシ》赤鳩1發v自2難波津1控2引《ヒキコシテ》船(ヲ)於狹々波山(ヨリ)1而装2飾船1乃往迎2於近江(ノ)北山1
とあり(古事記傳一五二二頁及日本書紀通釋二八一〇頁參照)。今も御津村なる黒崎と片との間に船越といふ地あり。さて今は宇須伎津より宇頭川の河口を横ぎり更に海岸に沿ひて伊都に渡行かむとするに向風強くて船進まねば已むことを得ずして宇頭川を少し溯りさて船を陸上に引上げて船を擔ひて伊都に到らむとするに宇都川を溯る事だにかなはざりしなり。さてこそ百姓を呼集めて御船を引かしめ給ひしなれ○追發は敷田氏の如くオヒタテテとよむべし。栗田氏はメシタテテとよめり。令v引2御船1は左岸に沿ひて引かしめしなり○爲資〔左△〕上己之※[ム/具]〔左△〕子而堕於江の※[ム/具]が負の誤なる事は栗田氏の云へる如し(敷田氏は直に負に改めたり)。さて栗田氏(271)は己ガ負ヘル子ヲタスケントシテ江ニオチキとよみ敷田氏はタスケマツラムトシテ己ガ子ヲ負ヒテ江ニオチキとよめり。共に誤れり。宜しく資をも負の誤として
己ガ負ヘル子ヲ負ヒ上ゲムトシテ江ニオトシキ
とよむべし○宇須伎の例に二註共に源氏物語|槿《アサガホノ》卷なる御門守サムゲナルケハヒ、ウススキ〔四字傍点〕イデ來テトミニモエアケヤラズと祝詞《ノリト》(大殿祭(ノ)詞なる夜女《ヨメ》ノイススキ〔四字傍点〕とを引けり。敷田氏の云へる如くはやく古事記神武天皇の段に爾《ココニ》其美人驚而|立走《タチハシリ》伊須須岐伎〔五字傍点〕といへり。ウスキ・イススキ・ウススキは同語にて、おどろきあわつる事なり祝詞の夜女は宜長の説に夜目の借字なりと云へり(古事記傳一一九六頁參照)○新辭伊波須久とある波は須の誤にて「ウスキは古語にて、今いふイススクなり」と云へるなり。ウのイにかはれるはウダクがイダクにかはれると同例なり○栗田氏が揖西郡伊津村有2宍粟川1lといへるはやがて揖保川にて川東又有2一水1と云へるは林田川なり。氏がその林田川の傍なる舟代村即今の石海村の大字|船代《フナダイ》を船越に擬したるは誤なり。船越は揖保川より西に(即宇須伎津と伊都との間に)在らざるべからず。(272)上に云へる今の御津村の船越こそよく記述にかなひたれ。又栗田氏の擧げたる宍粟郡宇津見村は此處に用なし
宇頭《ウヅ》川 所3以△《名》2宇頭川1者宇須伎津(ノ)西方(ニ)有2絞水《ウヅ》之淵1。故號2宇頭川1。即是大帶日賣命|宿《トドメシ》v船之泊
敷田氏標注 絞水はウヅとよまむ外なければ渦を云り。この假名未定まらざるを此條に見えたるを的證とすべし
栗田氏標注 名モト脱セリ。今一本ニ從フ
新考 所以の下に名又は號又は稱の字を補ふべし。敷田氏の本には稱の字あり。元來此本も亦三條西家本を寫したるものなれば原本に無くて此本にある字は傳寫の際に補ひ入れしものと認むべし○渦の假字は此處を的證としてウヅと定むべき事敷田氏の云へる如し。萬葉集卷十五なるコレヤコノ名ニオフナルトノ宇頭シホニも珍潮・堆潮などの義にあらで渦潮の義なれば渦の假字のウヅなる傍證とすべし(新考三二三二頁參照)○宿船之泊を敷田氏がミフネニマシテハヲタマヒキと(273))よめるは從はれず。ミフネヲトドメタマヒシトマリナリとよむべし。下文御津の下にも例あり。さて即是云々は上文に御船宿2於宇頭川之泊1とあるに照應したるなり○因に云ふ。所謂住吉神社神代紀に針間宇刀川とあるは即宇頭川か
伊都《イツ》村 所3以稱2伊都1者御船(ノ)水手《カコ》等云。何時|將v到《イタラム》2於此|所v見之〔左△〕《ミユルトコロ》1乎。故曰2伊都1
栗田氏標注 國圖ヲ按ズルニ揖西都ノ海濱ニ伊津村アリ
新考 伊都村は上に云へる如く今の御津村の西端なる大字岩見なり○何時將v到於此所見之乎を敷田氏はイツ、コノミルトコロニイタラムとよみ栗田氏はイツカ、カノミユルトコロニイタラムとよみて共に之〔右△〕を助字とし所見をミユルトコロとよめり。宜しく所見をミユルに充て之〔右△〕を土の誤としてイツカコノミユルトコロニイタラムとよむべし。將はムに充てたるなり。土をトコロとよむべき例は上文越部里|狹野《サヌ》村の下に因2地不1v便遷到2此土〔右△〕1とあり又下文|託賀《タカ》郡の下に
自2南海1到2北海1自v東巡幸之時到2來此土〔四字傍点〕1云。他土〔右△〕(ハ)卑者《ヒクケレバ》常勾伏而行之。此土〔右△〕(ハ)高者|申《ノビテ》而行之
又美嚢郡の下に
(274) 此土〔右△〕水流甚美哉
於奚《オケ》袁奚《ヲケ》天皇等所3以坐2於此土〔右△〕1者
とあり
雀島 所3以號2雀島1者雀多|聚《アツマル》2於此嶋1。△《故》曰2雀嶋1(不v生2草木1)
栗田氏標注 春枝云ハク。揖西都ノ海中ニ雀島アリト、○故、原本ニ脱セリ。今一本ニ從フ
新考 播州名所巡覽圖繪に
伊津の浦 此浦の南の海に志島といひて石疊あり。汐干の時はいろいろの大石乾てあらはる。近隣の者爰に宴を設く
といひ揖保郡摘要に
雀島は岩見港の東南に在りて土人はシジマと稱せり。滿島全部岩石にして草木を生せず。石疊あり。干潮の時は巨石顯る。毎年春期に至れば岩見港より舟を艤して石疊の上に遊宴を開く
といへり。今もシャク・鴫などの小鳥極めて多く海の荒れたる時に特に多しとぞ。さ(275)て今シジマといふはスズメジマをシジマジマと訛り一つのジマを重複として削りしなり○聚を敷田氏はアツマリキとよみたれど過去一時の事にあらねばアツマルとよむべし○曰2雀島1の上に故を補ふべし
○浦上《ウラカミ》里(土上中) 右所3以號2浦上1者昔|阿曇連百足《アヅミノムラジモモタリ》等先(ニ)居2難波(ノ)浦上1後遷2來於此浦上1。故|曰〔左△〕《ヨリテ》2本居《ウブスナニ》1爲v名
敷田氏標注 浦上、和名抄に宇良加三。今攝津國にさる地名聞えず。今按に地名は文字に泥てよみ替たる例、中昔に多かれば始は難波の浦のほとりと云意にて浦上とは書けむも知がたし(○敷田氏の意は浦上は元來ウラノヘとよむべきを後にウラカミとよみ僻めしならむと云へるにこそ)
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。揖保郡浦上ト○因ハモト曰ニ作レリ。今一本ニ從フ
新考 浦上里は今の室津村に當れり○阿′連百足《アヅミノムラジモモタリ》は上文|石海《イハミ》里の下にも肥前國風土記|値嘉《チカ》島の下にも見えたり。但本書にては孝徳天皇の御時の人とせるに肥前風土記にては景行天皇の御時の人とせり。さて阿曇氏は海人の長なれば海邊に居(276)りしなり○難波(ノ)浦上は難波(ノ)浦ノホトリなり、敷田氏が「今攝津國にさる地名聞えず」と云へるは誤りて地名と思へるなり。浦ノホトリをウラカミといふは河ノホトリ・海ノホトリを河カミ・ウナガミ、といふと同例なり(萬葉集新考四一頁及八八二頁參照)
御津 息長帶《オキナガタラシ》日賣(ノ)命宿2御船1之泊。故號2御津1
栗田氏標注 春枝云ハク。今揖西郡ニ三津アリト
新考 今室津村の東北につづきて御津村あればここの御津は其村の内かと思ふに石海里の下に記せる伊都并に雀島が御津村の西端なる上に岩見といふ地名は明に此處が石海里の内なりし事を示したればここの御津は今の御津村の内には求むべからず。轉じて今の御津村の名の起を尋ぬるに此村はもと朝臣《アサトミ》・岩見以下七村なりしを明治二十二年に合併して新村名を擇びし時風土記に據りて御津村と名づけしなり。即揖保郡地誌に
神功皇后の船の伊都〔二字傍点〕に著せし故事により御津と稱しぬ
と云へり。即知る當時の吏胥が本書の伊都と御津とを混同したりしを。右の如くなればここの御津は伊都と室原《ムロフノ》泊との間即今の室津村の東海岸に求めざるべから(277)ず。然るに今の岩見港と室津港とはいと近くて其間に御船を停むべくもあらず。又此間(俗に七マガリと稱す)には御船を停むべき處も無し。是に依りて再考ふるに御津の一節は錯簡にて元來伊都村の後、雀島の前にあるべきなり。然らば伊都村と御津との關係はいかがと云ふに伊都村は後の伊津村に當り御津は後の伊津(ノ)浦に當るなり。なほ云はば伊都村は今の大字岩見に當り御津は今の岩見港に當るとも云ふべし。かかれば明治中年の吏胥が此御津の屬する村を御津と名づけしは失錯にあらず。但此一節が錯簡なるに心づきしにあらず。又伊都村と御津との關係を明にせしにもあらず。否伊都村と御津とを混同したりし事上に云へる如し。後れたれどここにて云はむ。石海《イハミ》里はいと廣き地にて今の石海村・旭陽村・御津村に亙りたりしなり。今の余部村も恐らくは包含せられたりけむ○春枝の言は例の詐なり。ミツ村は當時は無かりき
室原《ムロフノ》泊 所2以號1v室者此泊〔右△〕防v風如v室。故因爲v名
敷田氏標注 室原、今の室泊を云。上代はムロフと呼けむ。本朝文粹善相公意見の文に自2※[木+聖]生《ムロフ》泊1至2韓泊1一日行とあるは別地か考べし
(278)栗田氏標注 國圖ヲ按ズルニ揖西郡ニ室津アリ。蓋室原ナリ。又按ズルニ萬葉卷ニ室之津アリ。室之浦・室原ハ即今ノ室津ナリ。意見封事ニ云ハク。自2※[木+聖]生泊1韓泊1一日行ト。此トハ自別ナリ
新考 室原は三善清行の意見封事に※[木+聖]生《ムロフノ》泊とあれば敷田氏の如くムロフとよむべし。栗田氏がムロハラとよめるは非なり。萬葉集卷六(新考一一八一頁)に味經《アヂフノ》宮を味原宮と書けるを始としてフに原を充てたる例少からず。さてムロフノ泊は即後世の室津、今の室津村の室津港なり。敷田氏が別地かと云ひ栗田氏が自別と云へるは非なり○本文に防v風如v室。故圖爲v名とあれどこは一説にて實は杜松《ムロ》の多く生ひたりしに由れる名ならむ。然らずはムロ生ノ泊とは云ふまじき故なり。但ムロフをつづめてムロと云ひしも古き事にて夙く萬葉集卷十二(新考二七一二頁)に室之浦といへり。因にいふ※[木+聖]《テイ》は杜松にはあらねど古くムロに充て用ひき(萬葉集新考五七九頁以下參照)○原本に泊を伯に誤れり
白貝浦 昔在〔左△〕《アリ》2白貝1。故因爲v名
敷田氏標注 白貝、大和本草に形扁、淡白色、味不佳と有。又貝子一名白貝と云ものあ(279)り。本草和名・醫心方等に牟末乃都保加比と注し是を大和本草に大サ大拇指のノ如ク長一寸バカリ白キ小貝ナリ。腹兩方ニ開キテ相向フ處齒ノ如シと云ひ啓蒙の説も同じ○昔在の在は有(ノ)字の意に見るべし
栗田氏標注 昔在ハ昔有ニ作ルベシ
新考 シラガヒは蛤の一種なりと云ふ
○家嶋 人民昨v家而居之。故號2家嶋1(生2竹・黒葛《ツヅラ》等1)
敷田氏標注 家島、式に家島神社、萬葉四に家乃島荒礒之宇倍爾とあるもこの島にて古歌に敷見えたり。陸地を去事三里許、大小二十餘の屬島あり
栗田氏標注 名跡志ニ載セタル家島記ニ曰。陸地ヲ距ルコ三里ト。延喜式ニ揖保郡家島神社ト
新考 家島は今エジマといふ。室津港の南方二里餘の洋中にあり。大小二十五島之に附屬し東は飾磨郡の海より西は赤穂郡の海に及べり。就中最大なるものは男鹿《タンカ》・西・坊勢の三島なり。此群島は昔は揖保都に屬せしが明治十二年以來飾磨郡に隷せり。家島は萬葉集卷四(新考六三九頁)及卷十五(新考三二二二頁及三二八四頁)に見え(280)て卷四にはノを添へて家乃島とよめり○黒葛はツヅラなり。又アヲツヅラ又アヲカヅラといふ。此物にて編みたる籠をツヅラコといひしを今は略してツヅラとのみ云ふ
神嶋伊刀〔二字左△〕嶋等 所3以稱2神嶋1者此嶋西邊|在〔左△〕《アリ》石神1。形似2佛像1。故爲v名。此神(ノ)顔(ニ)△2△《有五》色之玉1。又※[匈/月](ニ)有2流涙1。是亦五色。所2以泣1者品太天皇之世新羅之客來朝。仍見2此神之奇偉1以爲2非常之珍玉1屠2其面色〔左△〕1堀〔左△〕《ホリキ》2其一瞳1。神由泣〔右△〕。於v是《ココニ》大怒即起2暴風1打2破客船1漂2没於高嶋之南濱1人悉死亡。乃埋2其濱1。故號曰2韓濱1。于v今過2真處1者慎v心固戒〔右△〕不v言2韓人|不〔左△〕《マタ》拘v盲事1
敷田氏標注 神島、今上島と書けり○伊刀島、細字に作るべし○石神は石體の神像也。古書に石神と云る總て是也。文徳實録八に有v神新降云々有2兩怪石1云々彩色非常或形2沙門1と有。似たる古傳なり○瞳、和名抄に眼は目子也。一云瞳。萬奈古○暴風、和名抄に、八夜知女乃和木乃加世とあれど姑(ク)神武紀の古訓(○アカラシマ、カゼ)による○盲、和名秒に目無2眸子1也。米之比。上に堀一瞳とあるに應じて甚奇なり。不拘と云事考(281)べし
栗田氏標注 有五ノ二字モト無シ。今補フ
新考 伊刀島等は多可島などの誤字ならむ。伊刀島は上(一五三頁)に云へる如く家島群島とは別なる上に、今は記事中に伊刀島の事を云はざるに其提要に伊刀島等と書くべきにあらざればなり○神島は今は上島と書く。家島群島中最東の小島にて飾磨港の東南三里許の洋中にあり○石神は自然石の人の形したるなり。下文|揖保《イヒボ》里の下にも此山有2石神1故號2神山1とあり。敷田氏が石體の神像なりと云へるは非なり○顔の下、色の上に栗田氏に從ひて有五の二字を補ふべし。敷田氏の本には初より有五の二字あり○奇偉は職員令内藏寮の下に諸蕃(ノ)貢獻(スル)奇※[王+韋]之物とある義解に謂2非常之物1とあり。※[王+韋]は偉の通用ならむ○面色は面上の誤か。堀は掘とあるべし。泣を原本に位に誤れり。一眸は一眼なり。屠はヱグルなり○慎心固の下の字原本に改竄ありて字體明瞭ならざれど或と書きしを※[戈の中が去のような字]と改めたる如く見ゆ。※[戈の中が去のような字]は※[戈の中が(エ/ハ)]の俗字なるべく※[戈の中が(エ/ハ)]は戒に同じ。されば栗田氏の本に慎v心固戒に作れるに從ふべし。敷田氏が或に作りて慎心固或《カタクツツシミアルハ》とよめるは從はれず○不言韓人不拘盲事はもとのま(282)まにては訓みがたし。下の不は恐らくは及などの誤なむむ。さらば韓人|及《マタ》盲に拘《カカ》ル事ヲ言ハズとよむべし、
韓荷嶋 韓人破船|所漂〔左△〕之物《ナガサエシモノ》漂2就於此嶋1。故號2韓荷嶋1
敷田氏標注 韓荷嶋島。古歌多し。引に堪ず。室明神の山より東南一里許、海中にあり
栗田氏標注 名跡志ニ曰。揖西郡唐荷島ト。按ズルニ萬葉卷六ニ辛荷島ノ歌アリ
新考 唐荷島は訛りてカラミとも云へり。室津港外に在りて地《ヂ》中《ナカ》沖の三小島より成れり。敷田氏は室明神の山より東南一里許と云ひたれど賀茂神社のある明神山即港崎より西南に在りて地(ノ)唐荷島は同じ山より十五六町に過ぎざらむ。萬葉集卷六(新考一〇五〇頁)に過2辛荷島1時山部宿禰赤人作歌一首并短歌あり○初の漂は流の誤ならむ。但はやく他覺がその萬葉集註釋に引けるにも所漂之物とあり
高嶋 高勝2於當處(ノ)嶋等1。故號2高嶋1
栗田氏標注 揖西郡の海中ニ大高島小高島アリ
新考 栗田氏の云へる大高島・小高島といふは無し。坊勢島の西南、西島の東南に高島といふはあれど記事に據ればそれにもあらで今の男鹿《タンカ》島ならむ。地名辭書は夙(283)く男鹿島に擬したり。此島は家島の東にある大島なり
○萩〔右△〕原里(土中々) 右所3以名2萩〔右△〕原1者|息長帶《オキナガタラシ》日賣命韓國(ヨリ)還上之時御船|宿《トドマリシニ》2於此村1一夜之間生2萩〔右△〕(ノ)根〔左△〕《キ》1。高一丈許。仍名2萩〔右△〕原1。即闢2御井1。故云2針間井2。其處不v墾。又|※[土+尊]《ダリノ》水溢成v井〔左△〕《カハ》。故號2韓(ノ)清△《水》1。其水朝(ニ)汲(メバ)△《湛》不v出v麻。爾《スナハチ》造2酒殿1。故△《云》2酒田1。舟傾|乾《ヒキ》。故云2傾田1。舂米女《ヨネツキメ》等(ノ)陰《ホドヲ》陪從|婚《クナギ》斷〔右△〕。故云2陰絶《ホドタチ》田1。仍2萩〔右△〕多榮1故云2萩〔右△〕原1也。爾《ココニ》祭(レル)神(ハ)少足《ヲサリノ》命(ニ)坐《マス》
敷田氏標注 萩原、和名抄に脱。原荻に作れど詞林採要に萩原に作れり○※[土+尊]、新撰字鏡に毛太比○韓清水、韓國より還給ふ時なれば此名あり。古歌に野中の清水とよめるは若(ク)は是か○陰は陰門也。古事記に於《ニ》v梭《ヒ》衝2陰上《ホド》1云々訓2陰上1云2富登1とあれど催馬樂に陰名にクボノ名ヲバナニトいふ、新撰字鏡に屎を久保とよめるも同からむ。此外空穗物語藏開・新猿樂記等に見えたれば姑(ク)是に從ふ○婚をマグハヒとよみならへれど類聚名義抄・字鏡集等にマグとよみ今昔物語十四に女ノ背ニ付テ衣ヲ※[塞の土が衣]ゲ婚グ、同十六に汝ハ此レ我ガ妻ヲ婚ムトスル盗人法師也云々。按に味をアヂハ(284)ヒ、幸をサチハヒと云如く婚をマグハヒとは云り。但古(キ)例によらば婚《マギ》ハヒなるべきをマグと體言に云すうる上はおのづから然云例おほし
栗田氏標注 按ズルニ※[土+尊]ハ樽ト同ジ。古、尊ニ作リシヲ後※[缶+尊]ニ作リ或ハ樽・※[土+尊]ニ作ル○按ズル不出朝ノ上下ニ恐ラクハ脱誤アラム○清水ハモト水(ノ)字ヲ脱セリ。今一本ニ從フ○酒ノ上モト云(ノ)字ヲ脱セリ。今一本ニ從フ○按ズルニ國圖ニ今片吹川片吹村アリ。萩原村ト相近シ○陰陪從婚斷ハ未詳ナラズ
新考 荻原は下に故云2針間井1とあるに據りて萩原の誤としてハリハラとよむべし。ハギはいにしへハリと云ひしなり(萬葉集新考三七頁及一〇〇頁參照)。ハギに充てたる萩は邦製宇なり。漢字の萩は義異なり。さてハギを萩と書けるは本書を以て最古の例となすべし。之に次げるは延喜馬寮式に信濃國萩倉枚と書ける、和名抄に
鹿鳴草 爾雅集注云。萩一名蕭(波岐》
とあるなどなり。萬葉集にはハギは芽又は芽子と(正しく云はば芽の如く)書けり。更に案ずるにここの萩は榛の借字なり。萩も榛も共にハリとよみしが故に古典に相通はして書けり。榛のハリは今のハンノ木なり○今揖保村の大字に萩原と書きて(285)ハイバラと唱ふる地あり、是萩原里の名の殘れるなり。御船宿於此村とあるは揖保川の當時の河口を少し溯りて御船を寄せ給ひしなり○一夜之間はヒトヨノホドニとよむべし。敷田氏がヒトヨノカラニとよめるは神代紀の一夜之間を古訓にヒトヨノカラニとよめるに據れるなれど一夜ノカラニは唯一夜ナルモノヲといふことにて一夜ノアヒダニといふ事にはあらじ(萬葉集新考三六九九頁參照)○萩根を栗田氏はハギとよみ敷田氏は根を下の高一丈許につづけてよめり。宜しく萩樹の誤としてハリノキとよむべし○針間井の針は借字なり。榛の間に穿てる井なるが故にハリマ井と名づけしなり。さて國號は此井にもとづけるならむ。更に思ふに萩原といひ針間井と云へるを見ればその榛は一木にはあらで林を成ししなり○其處不墾は史蹟として本書を撰せし頃までも保存したりしなり。不墾の上に至今の二字落ちたるにや○※[土+尊]は尊・※[缶+尊]・樽に同じ。否土にて作りしが故に尊に土を添へて※[土+尊]と書けるなり。されば※[土+尊]はやがて壺にて左傳襄公十七年なる
衛(ノ)孫※[萠+立刀]田《クワイカリシ》2于曹(ノ)隧《スヰ》1飲《ミヅカヒテ》2馬(ニ)于重丘1毀2其瓶1
の瓶とひとしく湧水を溜むる料ならむ。今方言に汚水|溜《ダメ》をダルといふは此語のな(286)ごりにや○又※[土+尊]はタルとよまでタリとよむべし。古事記雄略天皇の大御歌にホダリトラスモとあり。されば初タリといひしを後にタルと訛れるなり。正倉院文書神龜二年山背國|愛宕《オタギ》郡|雲下《イヅモノシモ》里計帳(大日本古文書一の三六八頁)に出雲(ノ)臣|酒足賣《サカダリメ》とあるも酒※[土+尊]女なり。古事記傳卷四十二(二四三六頁)に「※[缶+尊]《タリ》はもと酒を盃に注《ツ》ぎ入るる器なり」といへるはいかが。ホダリこそは口の細くなれる※[缶+尊]とおぼゆればげに後世の瓶子の如くなるべけれ。ただタリと云ひしは酒又は水を盛る器にて上に述べたる如く壺・瓶などいふべきものならむ
右の雄略天皇の大御歌を記傳に釋せるには此外にも從はれざる事あり。萬葉集新考卷十八(三七八四頁)にも云へり。參照すべし
○※[土+尊]水溢成v井の井は川の誤か。韓清の下に水の字を補ふべし。敷田氏の本には初より水の字あり。又※[土+尊]を※[缶+尊]と書けり。韓國より還り上りたまふ時に穿たせたまひし井より流れ出づる水なれば韓清水《カラノシミヅ》と名づけしならむ。敷田氏が「古歌に野中の清水とよめるはもしくは是か」と云へるはいみじき誤なり。新後拾遺集などにイナミ野ノ野中ノシミヅとよみたれば野中の清水は加古明石二郡の中にこそ求むべけれ○(287)其水朝汲む不出朝を栗田氏はソノ水ヲ朝《アシタ》ニ汲メバ朝ニイデズとよみ敷田氏は不出にて切りてソノ水ヲ朝ニ汲メバイデズとよみて第二の朝を下の爾に附けて朝爾《アシタニ》造2酒殿1と訓めり。共に非なり。宜しくアシタヲ〔右△〕イデズとよむべし。不終朝・不崇朝の義にて朝ニ汲ミ盡セバ朝ノ程ニ又タタフと云へるなり。更に案ずるに不の上に湛などを落せるか。さらばタタフコト朝《アシタ》ヲ出デズと訓むべし○爾《スナハチ》造2酒殿1は水質宜しかりしかばそをもて酒を造るべくここに酒殿を建てきと云へるなり。上文|石海《イハミ》里の下にも井ヲ此野ニ闢キテ酒殿ヲ造リ立テキとあり。原本に酒田の上に云を脱せり○舟傾乾の舟は所謂|酒槽《サカフネ》なり。酒槽は古事記に
爾《カレ》速須佐之男命……其|足名椎《アシナヅチ》手名椎(ノ)神ニ告《ノ》リタマハク。汝等|八鹽折《ヤシホヲリ》ノ酒ヲ釀《カ》ミ且《マタ》垣ヲ作リ廻《モトホ》シ其垣ニ八ノ門ヲ作リ門毎ニ八ノ佐受岐《サズキ》ヲ結《ユ》ヒ其佐受岐毎ニ酒船〔二字傍点〕ヲ置キテ船毎ニ其八鹽折ノ酒ヲ盛リテ待テト告《ノ》リタマヒキ
とあり。日本紀には槽と書きたるに古訓にサカフネと訓じ和名抄には
酒槽 文選酒徳頌注云。槽(佐加不禰)。今之酒槽也
とありて酒を入れおく船形の器と思はる。さて船形即藥研形に作れるは酒の澱《オリ》の(288)沈み易く上澄《ウハズミ》の吸取られ易きやうにせるならむ。大和國|高市《タケチ》郡高市村大字岡字酒船に存ずる所謂サカフネ石の記事は本居宣長の菅笠日記に見え其圖は大正五年に同じ大字の字アグヒにて發見せし類似の石造物の圖と共に奈良縣史蹟勝地調査會第四囘報告に出でたるが、ここには舟傾|乾《ヒキ》。故云2傾田1とありて傾き乾《ヒ》まじき物の傾き乾し趣なるに彼石造物どもは初より傾け設けて注ぎたる液體の緩に流るるやうに作りたれば古來サカフネと稱し其名の地名ともなれるにもあれ、ここに云へる舟又古事記に云へる酒船とは同物ならじ○乾はヒキとよむべし。空《カラ》になりしなり。敷田氏がカワキヌとよめると栗田氏が傾乾の二字を聯ねてカタブキとよめると、共に宜しからず○今譽田村の南端に(揖保村の東界に近き處に)片吹といふ大字あり。是傾田の地なり。栗田氏の擧げたる片吹川は即林田川、即上(二三七頁)に見えたる息此《オシ》川の末にて片吹の東を流れたり○舂米女を栗田氏はツキシネメとよみたれど宜しくヨネツキメとよむべし(敷田氏はコメツキメとよめり)。史記・漢書などに城旦春といふ事あまた見えたり。男女の懲役に男をして毎旦城の内外を掃除せしむるを城旦といひ女をして米を舂かしむるを舂といひしなり。漢書惠帝紀に
(289) 惠帝立2呂后1(○惠帝の母、高祖の后)爲2皇太后1。廼《スナハチ》令3永巷(ニ)囚2戚夫人1(○高祖の寵姫、趙王如意の母)?鉗衣2赭衣1令v舂。戚夫人舂且歌曰。子爲v王母爲v虜、終日舂|薄《セマル》v暮、常與v死爲v伍、相離三千里、當2誰使1v告v女《ナムヂ》
とあり。又李太白の詩に
鄰女夜舂寒(宿2五松山下荀媼家1)
と作り白樂天の詩にも
西舎有2貧者1、匹婦配2匹夫1、布裙行(キテ)賃舂、※[衣+豆]《ジユ》褐坐傭書(效2陶潜體1詩之十五)
と作れり。又我邦の古典にては推古天皇紀二十九年聖徳太子の薨ぜし處に耕夫止v耕舂女不v杵とあり〈不杵を舊訓にキオトセズとよみたれどヨネツカズとよまむ方まさるべし)。又獄令に婦人|配《アテヨ》2縫作及舂1とあり、又大炊寮式に舂米女丁八人とあり、又日本靈異記卷上第二に稻舂女とあり、又萬葉集卷十四に
いねつけばかかるあが手をこよひもかとののわくごがとりてなげかむ
お志〔左△〕《キ》てい奈〔左△〕《マ》どいねはつかねどなみのほのいたぶらしもよきぞひとりねて
とありていにしへは和漢共に稻を舂くは女の業なりしなり。無論手杵もて舂きし(290)なり○陪從《ベイジユウ》はミトモ人なり。婚斷を二註にマギタチキとよめり。クナギタチキとよむし。斷の扁を原本に米に作れり○仍2萩多榮1故云2萩原1也といへるは不審なり。上文に
一夜之間生2萩樹1。高一丈許。仍名2萩原1
と云へるを皿に仍2萩多榮1故事2萩原1也と云ふべきにあらず。恐らくは仍2萩多榮1故云2榮村1也と書くべきを誤りて萩原と書けるならむ。今も揖保村の大字に榮といふがあり○ココニ祭レル神ハ少足命ニ坐《マ》スとある少足命を敷田氏はスクナタタラシと訓み栗田氏は訓をふらず。案ずるに少足はヲダリとよみて示※[土+尊]の借字とすべし。針間井の※[土+尊]の靈を神と祭りしならむ。因にいふ。萬葉集卷三(新考四一三頁)に波多朝臣少足とあり文武天皇紀四年に上野朝臣小足とあるなども小※[土+尊]の義ならむ
鈴喫《スズクヒ》岡 所3以號2鈴喫1者品太天皇之世|田《カリセシニ》2於此岡1鷹(ノ)鈴墮落、求而不v得。故號2鈴喫岡1
敷田氏標注 田は孟子に景公|田《カリス》
栗田氏標注 鷹鈴、按ズルニ仁徳紀ニ云ハク四十三年秋九月庚子朔|依羅屯倉阿弭(291)古《ヨサミノミヤケアビコ》捕2異鳥1獻2天皇1云々。天皇召2酒(ノ)君1示v鳥曰。是何鳥矣。酒君對言云々百濟俗號2此鳥1曰2倶知《クチ》1(是今時鷹也)。乃授2酒君1令2養馴1。未2幾時1而得v馴。酒君則以2韋緡1著2其足1以2小鈴1著2其尾1居2腕上1獻2于天皇1
新考 日本紀によれば我邦に鷹あるは仁徳天皇四十三年以來なり。ここに品太天皇云々といへると合はず。鷹の鈴は尾に著くるなり。仁徳天皇紀に似2小鈴1著2其尾1とあり○田は田獵の田なり。ミカリシタマヒシニとよむべし○地名辭書に「此岡は片吹の岩岡を指すにあらずや」と云へり。なほ考ふべし
○少宅《ヲヤケ》里(本名|漢口〔左△〕里。土下中) 所3以號2漢部1者|漢人《アヤビト》居2之《ヲリキ》此村1。故以爲v名。所3以後改曰2少宅1者川原(ノ)若侠《ワカサノ》祖父娶2少宅秦公《ヲヤケノハタノキミ》之女1即號2其家(ヲ)少宅1。後若侠〔左△〕之孫智麻呂|任《ヨサレテ》爲2里長1。由v此庚寅年爲2少宅里1
敷田氏標注 少宅、和名抄に小宅(ハ)古伊倍と有を今は少宅《ヲヤケノ》庄と呼ならへる由なれば和名抄を却て誤とせむか○祖父、和名抄に於保知○庚寅年は持統天皇四年也
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰、揖保郡小宅(古伊倍)ト。高山寺本(ノ)注ニ云ハク乎也計ト。從(292)フベシ。名跡志ニ曰。揖東都小宅庄ト○注(ノ)漢部ハモト漢口ニ作レリ。今下文ニ據リテ之ヲ訂ス○川原若侠ハ按ズルニ川原ハ姓。若侠ハ名ナリ。侠ハ蓋狹ノ古體ナリ。姓氏録ニ曰。河原(ノ)連《ムラジハ》廣階(ノ)連同祖、陳思王植之後也ト。又廣階(ノ)連は魏武皇帝(ノ)男陳思王植之後也卜
新考 今揖保村の北に續きて小宅と書きてヲヤケと唱ふる村あり。龍野町と揖保川を隔てて東西に相對せり。村名は舊莊名に據れるなり。和名抄の流布本に古伊倍と訓註したるは誤ならむ。同郡の大宅を於保也介とよむべきに對してもかなはざればなり○上文飾磨郡の下にも漢部《アヤベ》里あり。註の漢口は漢部の誤ならむ或は漢戸の誤か。上文越部里の下(一九一頁)にも部又は戸を口と誤れる例あり○漢人居之此村の之は助字なり○若侠は若狹の誤にて人名なり。
漢書叔孫通傳なる殿下郎中侠v陛の顔師古(ノ)註に侠與v挾〔右△〕同とあれど若狹は狹と書きて挾と書く事無ければ侠はなほ狹の誤とすべし
少宅(ノ)秦(ノ)公は大藏(ノ)秦(ノ)公の類なる複姓ならむ。川原氏も少宅(ノ)秦氏も共に歸化人の子孫なり○任爲2里長1は此里の長となりしなり。下文にも例あり。任はヨサレテとよむべ(293)し。サトヲサは萬葉集卷五及卷十六にも見えたり○庚寅年は持統天皇の四年にて所謂※[手偏+交]籍の年なり。はやく越部里の下にも見えたり
細螺《シタダミ》川 所3以稱2細螺川1者百姓|爲《ツクルト》V田闢v溝《ウナデ》細螺多在2此溝1。後終成v川。故曰2細螺川1
敷田氏標注 細螺、和名抄に之太々美、大嘗祭式に細螺二十※[土+甘]
栗田氏標注 春枝云ハク。今揖西郡ニ下田見村・シタタミ川アリト
新考 細螺の事はくはしく萬葉集新考卷十六(三四五一頁以下)に云へり。ここもシタダミとよむべけれどキシャゴにはあらじ。キシャゴは淡水に生ぜざればなり○地名辭書に「此細螺川は日飼より南方に導く養水の舊號なるべし」と云へり。日飼は小宅村の大字なり○例の春枝が今揖西郡ニ下田見村・シタタミ川アリと云へるは口に任せたる詐なり。揖西都にさる村・さる川なし。此春枝の所行は士人の使ふを許さるる言語にては評しがたし
○揖保《イヒボ》里(土中中) 所2以稱1v粒《イヒボ》者此里依2於粒山1。故因v山爲v名
敷田氏標注 揖保、和名抄に伊比奉。式に揖保郡粒坐天照神社。三代實録二に從五位(294)下勲八等粒坐天照神。皇后紀に取v粒爲v餌。和名抄に※[月+尤]目をよめるも形相似たれば也
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。揖保郡揖保(伊比奉)ト。春枝云ハク今揖東都ニ揖保村・揖保川アリ。或ハ正條川ト稱スト
新考 揖《イフ》をイヒに借れる所以、イヒボを今つづめてイボといふ事は夙く上(一七九頁)に云へり○依2於粒山1は倚2粒山1と書くべきなり。粒山ニ倚リカカレリとなり○粒山は揖保川の東岸にある今の中臣《ナカジン》山なり○さて本郡の記述の順序はよく地理にかなへるがここのみは例に違へり。抑|中臣《ナカジン》(又中陣と書けり)は今の揖保村の北部にありて彼|萩原《ハイバラ》などのある同村の南部と北隣|小宅《ヲヤケ》村との間にあれば記述の順序は
萩原里(今の揖保村の南部)
揖保里(今の揖保村の北部)
少宅里(今の小宅村)
とあるべきを揖保里を少宅里の後に敍したるは如何。案ずるに揖保川は今は中臣山の西を流れたれどいにしへは其東を流れ今の中臣《ナカジン》・揖保上《イボカミ》・揖保中《イボナカ》などは河西にありて半田村とつづき、少宅萩原の二里はもとより河東にありて南北に相接せし(295)にあらざるか○揖保川は上は揖東郡を貫き下は揖西郡を貫けり。又揖保村は舊揖西郡の内なり。春枝が今揖東郡有2揖保村・揖保川1と云へるは誤なり
粒《イヒボノ》丘 所3以號2粒丘1△《者》天(ノ)日槍《ヒホコノ》命從2韓國1度來到2於宇頭(ノ)川底《カハジリ》1而乞2宿處(ヲ)於葦原|志擧乎《シコヲノ》命1曰。汝爲2國主1。欲v得2吾所v宿之處1。志擧△△《乎命》即許2海中1。爾《ソノ》時客神以v釼〔右△〕攪2海水1而|宿《ヤドリキ》之。主神即畏2客神之盛行1而先欲v占v國巡(リ)上(リテ)到2於粒丘1而|※[にすい+食]之《カレヒヲシキ》。於v此《ココニ》自v口|落《オチキ》v粒。故號2粒丘1。其丘小石|比〔左△〕《ミナ》能似v粒。又以v杖刺(シシニ)v地即從2杖(ノ)處1寒泉湧出遂通2南北〔右△〕1。々(ハ)寒南(ハ)温(生2白朮〔右△〕1)
敷田氏標注 天日槍、アマノヒボコとよむべし。古語拾遺に海《アマノ》檜槍に作れり。垂仁紀一書曰。初天日槍乘v艇泊2于播麿國1在2於宍粟邑1云々。按に天日槍は紀記に崇神垂仁の御代の人に傳たれど此記によりて見れば神代の人也。げに然も有けむかし。志擧(ノ)下原本乎を脱せり。今補ひつ。占國の占は與の誤なるべし○客神、日本靈異記に佛を客神と云るとは別なり○白朮、新撰字鏡に乎介良。天武紀に令煎白朮。和名抄に朮をよみ似v※[薊の異体字]生2山中1、故亦名2山※[薊の異体字]1也と有。※[薊の異体字]は薊に作べし
(296)栗田氏標注 者(ノ)字例ノゴト補フ○按ズルニ盛ハ恐ラクハ威(ノ)字ニテ行(ノ)字ハ下句ニ屬セルナラム○比(ノ)字ハ恐ラクハ皆ニ作ルベカラム○北ヲモト比ニ作レルハ誤レリ。今意モヲ之ヲ訂ス
新考 粒丘は即粒山なり。所3以號2粒丘1の下に者の字を補ふべし○川底は河ジリなり。下にも例あり。上文賀古郡鴨波里の下(五四頁)には河カミを川頭と書けり。頭と底と相對せる例は白樂天の詩(晩從省歸)にも心頭眼底兩無塵と作れり。二註に川底をカハノホトリとよめるは非なり○葦原|志擧乎《シコヲ》命は大名持命の一名にて即伊和大神なり○汝爲國主を敷田氏が汝《イマシ》國主ナラメとよめるは誤れり。栗田氏の如く汝國壬タリとよむべし。さてその國は大名持命の占めたりし地方なり。されば當處と心得べし。播磨國と誤解すべからず。後の播磨國の内にも大名持命の未占めざる處多かりしなり。否當時大名持命のはやく占めたりしは宇頭川流域の一部に過ぎざらむ。なほ下に云ふべし○許2海中1は地を惜みてただ海中に宿る事を許ししなり。さてここに許2海中1とあるを見ても川底が河口なる事を知るべし。志擧の下に乎命の二字を補ふべし。敷田氏は乎の一字を補ひ栗田氏は補へる所無し○客神は外來の神(297)なり。釼は劔の俗字なり、上(二六頁)に云へり○攬2海水1は海水をかき亂して地となして宿りしなり。ここの趣は武甕槌《タケミカヅチ》・經津主《フツヌシ》の二神が劔を地につきたてて其鋒に踞《シリウタ》げて大己貴《オホナムチ》神をおどししに似たり。大己貴神は即大名持命なり○盛行を敷田氏はミイヅとよみ栗田氏は盛ナルワザとよめり。強ひて訓讀せむと思はばイキホヒとよむべし。原本に盛の上體を※[或のロの下なし]に作りて盛と認むるに難けれど栗田氏が又按ズルニ盛ハ、恐ラクハ威ノ字ニヲ行ノ字ハ下句ニ屬セルナラムと云へるは從はれず○先欲v占v國の占を敷田氏が與の誤としてマヅ國ヲアタヘムトオモホシテとよめるはいみじき誤なり。占國ははやく香山《カグヤマ》里及林田里の下に見え下文にもあまた見えたり。抑神代には未探檢の國土には所有者なかりき。播磨國は大名持命夙く來りて僅に其一部を占領したりしに天日槍命韓國より來りて大名持命の未探檢せざる地を占領せむ勢見えしかば大名持命はそを恐れて俄に未知の地を探檢せしなり。巡上は字頭川即揖保川に沿ひて上りしなり○※[にすい+食]之を敷田氏はモノクヒタマヒキとよみ栗田氏はミヲシキとよめり。宜しくカレヒヲシキ又はカレヒクヒタマヒキとよむべし。※[にすい+食]をカレヒクフ又はカレヒヲスとよむは植をキウウとよみ射をユミイ(298)ルとよみ蒔をタネマクとよむが如し(二五九頁參照)○落粒はイヒボヲオトシキとよまでイヒボオチキとよむべし(二三一頁折2其弓1參照)○比能似粒の比は皆の誤なり。南北の北をも原本に比に作れり○白朮はビヤクジユツとよむべし。邦名はウケラ、藥草なり○延喜式神名帳に見えたる粒(ニ)ユ坐(ス)天照神社の粒《イヒボ》を敷田氏は此處とし大日本地名辭書にも
粒坐天照神社 今粒山に在り。夜比良神社と混同し一祠を見るのみ。近世龍野の日山に天照神社を建つるも古祠にあらず
中臣印達神社 今中臣の中陣《ナカジン》明神是なり。……田間僅に小祠を見るのみ
と云ひたれど粒《イヒボ》山即中臣山にあるは中臣印達《ナカトミノイダテノ》神社にて粒(ニ)坐(ス)天照神社の本社は伊勢村の梛《ナギノ》神社ならむ。さて粒(ニ)坐(ス)天照神社の粒は山名又は里名にはあらで郡名なるべく、國内神社記なる中臣(ノ)粒(ノ)神の粒は山名にて中臣(ノ)粒(ノ)大神はやがて延喜式の中臣(ノ)印達(ノ)神社なるべし(二二四頁參照)
神山 此山|在〔左△〕《アリ》2石神1。故號2神山1(生2▲子1、八月熟)
敷田氏標注 神山は上の神島に傳あり
(299)新考 神山はいづれの山か。地名辭書には「神戸北山(○神部村の大字)の丸山を指すごとし。此山に神部明神を祭る」と云へり○石神は上文神島の下にも見えたり。註文の生の下・子の上の字、扁は木なれど旁は讀まれず。二註に椎の字としたれど隹とも見えず○敷田氏が「神山は上の神島に傳あり」といへるはいぶかし。氏は此神山を大海中なる神島と同處と思へるにや
○出水《イヅミ》里 此村出2寒泉1。故因v泉爲v名(土中々)
敷田氏標注 出水、和名抄に洩たり
新考 下文に據れば越部里の南車・桑原里の東にあるべきなれば今の平井村のあたりならむ。
明治四十二年五月以來平井・桑原・布施の三村を合せて揖西村と稱すれど其區域いと廣くて指示に便ならざれば、しばらく其以前の村名に依る
此村の大字に清水《シミヅ》あり。そこに隣れる大字|中垣内《ナカガイト》の字景雲寺の景雲寺址の近傍に籔あり。其籔の中に盛に湧き出づる清水あり。寒泉といへるは是ならむ。因にいふ。此景雲寺は今は名のみ殘りたれど藤原惺窩が少年の時修業せし寺なりといふ○土(300)質を記事の下に註せるは違例なり
美奈志《ミナシ》川 所3以號2美奈志川1者△《伊》が和大神(ノ)子|石龍《イハタツ》比古(ノ)命與2妹《イモ》石龍△《比》賣命1二神|相2競《アラソフ》川水1。妹〔左△〕神《セガミハ》欲v流2於北方越部村1妹《イモ》神(ハ)欲v流2於南方泉村1。爾《ソノ》時|妹〔左△〕《セ》神踰2▲山岑1而|流下之《ナガシクダシキ》。妹神見v之以爲2非理1即以2指《サシ》櫛1塞〔右△〕2其流水1而從2岑(ノ)邊1闢v溝《ウナデ》流2於泉村1格〔左△〕《オトシキ》。爾《ココニ》※[女+夫]《セ》神復到2泉|底〔左△〕《ムラ》之川1流(ヲ)奪而將v流2於西方桑原村1。於v是妹神遂不v許之而作2密桶〔左△〕《シタビ》1流(シ)2出於思村之田頭1。由v此川水絶而不v流。故號2无水《ミナシ》川1
敷田氏標注 妹は※[女+夫]の誤也。※[女+夫]は字鏡集・難字記等にセウトとよみ和名抄備中國賀夜郡郷名庭※[女+夫](ハ)尓比世と注し今は庭瀬と書けり。鎭火祭(ノ)詞た吾|奈※[女+夫]《ナセ》とあるは伊弉諾尊を申せり○格は挌に作べし。字書に撃也闘也と注せり○底之の二字衍文なるべし○密樋はシタビとよむべし。古事記にアシヒキノヤマダヲツクリヤマタカミ斯多備袁和志勢とあるは下樋ヲ命走にて土中に水を通はしむる樋を云り
栗田氏標注 和ノ上モト伊ノ字ヲ脱セリ。今之ヲ補フ○※[女+夫]ハモト妹ニ作レリ。今一(301)本ニ從フ。下モ此ニ倣フ○按ズルニ▲は蓋東ノ字ノ缺畫○塞ヲモト寒ニ作レルハ誤ナリ。今一本に從フ○格字未詳ナラズ。按ズルニ格ハ恐ラクハ落ノ訛ニテ於(ノ)字ノ上ニ在ルベキニ似タリ。又按ズルニ萬葉三山歌ニ相格ヲ阿良曾布ト訓メリ○按ズルニ底(ノ)字ハ疑ハクハ川(ノ)字(ノ)下ニ在ルベシ○樋ハモト桶ニ作レリ。今一本ニ從フ
新考 美奈之川は今平井村を南北に貫ける中垣内《ナカガイト》川一名平井川なり。此川は砂川にて水少し。故に無水《ミナシ》川といひしなり。郡誌にも
平時流れ少くして舟筏を通ぜず。又灌漑に用ひず
と云へり○和の上に伊を、賣の上に比を補ふべし○上文廣山里の下(二三二頁)に石比賣命立2於泉(ノ)里|淡多爲社《タタヰノモリ》1而|射之《ユミイキ》とあるはここの文に據れば龍の字をおとせるなり○相競を敷田氏はアヒキソヒタマフとよみ栗田氏はアヒキソヒとよみたれど語格上何々ヲキソフとは云はれず。宜しく相競を聯ねてアラソヒキとよむべし○男女二神の水爭は女神は出水《イヅミ》里に田を作り男神は越部《コシベ》里に田を作りて各其田に水を引かむとせしなり。田作に關係ありし事は下文に作2密樋1流2出於泉柑之田頭1とあるにて明なり○相競川水の下の妹神又爾時の下の妹神は※[女+夫]神の誤なり。※[女+夫]は我(302)邦にては夫に通用せり○踰の下・山岑の上は尓に似たれど確には讀まれず。敷田氏は爾に改め栗田氏は東の缺畫としたり。東とは認められぬ上に東とせむに地理かなはず。今の越部村なる市野保《イチノホ》の谷に流さむとせしなるべければなり。されば右の一字はしばらく衍字とすべし○指櫛の指は挿の借字又は誤字なり。上文金箭川の下(一八九頁)にも御狩を御苅と書けり。塞を原本に寒に誤れり○溝は栗田氏の如くウナデとよむべし。ウナデはミゾの古語なり○格を敷田氏は挌の誤として、アラソヒキとよみ栗田氏は落の誤にてもと流の下にありしならむかと云へより。字の位置はもとのままにて落の誤としてオトシキとよむべし。晋書温※[山+喬]傳に※[山+喬]因僞醉以2手版1撃2鳳(○錢鳳)※[巾+責]1墜とあり。この闢v溝流2於泉村1落の例とすべし○復到泉底之川流奪而を敷田氏は底之を衍字とし又流を川に附けて泉ノ川ノ流ニ到リ、奪ヒテとよみ栗田氏は底を川の下に引下して泉ノ川底ニ到リ流ヲ奪ヒテとよめり。敷田氏の説は評するに足らず。栗田氏が流を下の句に附けて流ヲ奪ヒテとよめるは可なれど泉底之川を泉之川底の誤とせるは非なり。案ずるに上(二九五頁)にも宇頭川底とありて川底は川尻の事なり。元來男神が西方桑原村に流さむとせしは泉村に流させ(303)じとせしなるに美奈之川の宇頭川に流れ入る流末を轉じて桑原村の方に向けつとも泉村は損ずる所無からむ。從ひて男神の復讎の目的は達せざらむ・更に案ずるに川の名は美奈之にて泉にあらず。されば栗田氏の如く泉之川底とせむは愈理なし。おそらくは泉村之川とありし村を底と誤れるならむ○桶は樋の誤なり。密樋は二註の如くシタビとよむべし。シタビは暗渠なり。暗渠を作りしは男神に流を知らしめざらむ爲なり○田頭はただ田と心得べし。社を社頭といひ路を路頭といふが如し。頭の字の事は夙く上文賀古郡鴨波里の下(五五頁)に云へり
○桑原里(舊名倉見里。土中上) 品太天皇|御2立《タチタマヒテ》於|※[木+觀]折《ツキヲレ》山1覽之《ミソナハシシ》時森然(ト)所見《ミユル》倉《クラアリ》。故名2倉見村1。今改v名爲2桑原1。一云、桑原(ノ)村主《スクリ》等盗2讃容〔右△〕郡(ノ)△《人》(ノ)※[木+安]1見〔□で囲む〕將來《モチコソヲ》其主|認來《ツナギキテ》見2於此村1。故曰2※[木+安]見1
敷田氏標注 桑原、和名抄に久波々良○森然、字鏡集・色葉字類抄・類聚名義抄等に森はイヨヨカと注せり。文選魏都賦に※[灌の旁]蒻|森《イヨヨカナリ》、白氏文集廿四に槍(ハ)森《イヨヨカニス》2赤豹尾1。もののつらなる事を云るなるべし○桑原村主、天武紀に侍醫桑原(ノ)村主※[言+可]都と云人見えたり。村(304)主は藷蕃人の姓にて姓氏禄に桑原(ノ)史(ハ)狛國人漢※[匈/月]之後也と有
栗田氏標注 容ヲモト客ニ作レルハ誤ナリ。今一本ニ從フ。又按見ノ上下ニ恐ラクハ脱謬アラム。按ハ鞍カ
新考 今平井村の西に桑原村あり(明治四十二年以來は平井・桑原・布施の三村を合同して揖西村と稱せる事上に云へる如し)。此村名は明治二十二年市町村制實施の時に命ぜしものなるが他村名の如く郷庄名などに據りしにはあらで風土記に據りしなり。但同村の大字に桑原北山といふがあれば命名者が私に桑原里の舊地と推定せしにはあらず○※[木+觀]折山は上文邑智里の下(二三〇頁)に見えたり。太市村と桑原村とは二里許も相離れたれば前者にある山に登りたりとも後者にある倉の見ゆべきにあらねどこは泉里にて射し矢の廣山里に到りきといへると同類にて、もとより傳説に過ぎざれば地理に拘るべきにあらず。さて本村の西偏に大藏内といふ處あり。ここに云へる所と關係あらざるか○御立はミタチシテ又はタチタマヒテ又はタタシテとよむべし。ミタタシテとよめるはわろし(二一九頁參照)。覽之時はミソナハシシ時とよむべし○森然は音讀して可なり。倉の聳えたる状を云へるか。(305)例は賀古郡の下に則縵(ノ)光明炳然滿v舟とあり。所見倉はミユル倉アリとよむべし。敷田氏が見ユルハ倉ナリとよめるはわろし○一云は一説云なり。前にも例あり○桑原(ノ)村主《スクリ》は姓氏録左京藷蕃上に
桑原(ノ)村主(ハ)漢高祖七世孫萬徳(ノ)使主《オミ》之後也
とあり。新羅より歸化せし族にてスクリはカバネなり○讃容《サヨ》郡の容を原本に客に誤れり。郡の下に人の字落ちたるか。將來の上の見は衍字ならむ。將來はモチ來《コ》シヲとよむべし○栗田氏の本に※[木+安]を皆按に作りて按ハ鞍カと云はれたれど原本には明に※[木+安]とあり。又※[木+安]は鞍の革扁を木扁に改めたるにて萬葉集を始めて古典には多く用ひたり。なほ鉾の金扁を改めて桙と書ける如し○認來はツナギ來テ又はトメ來テとよむべし、ツナグは追跡する事なり。萬葉集卷十六(新考三四三八頁)にも
いゆししを認《ツナグ》かはべのわかくさの身のわかくへにさねし兒らはも
とあり。さてツナグを認と書けるは後漢書卓茂傳に
時嘗出行。有v人認〔右△〕2其馬1。茂問曰。子亡v馬幾何時。對曰。月餘日矣。茂有v馬數年。心知(レド)2其謬1※[口+黒](シテ)解(キテ)與v之挽v車去
(306)又、劉寛傳に
寛嘗行。有2人失v牛者1。乃就2寛(ノ)車下1認〔右△〕v之。寛無v所v言下v駕歩歸
又魏書武帝紀裴松之註に
司馬彪續漢書曰。騰父節(○曹操の曾祖父)字元偉、素以2仁厚1稱。鄰人有2亡v豕者1。與2節豕1相類。詣v門認〔右△〕v之。節不2與爭1。後所v亡豕自還2其家1。豕主人大慙送2所v認〔二字傍点〕豕1并辭2謝節1。節笑而受v之
とあるなどに據れるにやと思ひしかど右の認は追跡する事にはあらで後漢書承宮傳に
後與2妻子1之2蒙陰山1肆《ツクシテ》v力耕種。禾黍將v熟。人有2認〔右△〕v之者1。宮不2與計1、推《ユヅリ》v之而去
とあり又呉書鍾離牧傳に
少爰2居永興1躬自墾v田種2稻二十餘畝1。臨v熟縣民有v識2認〔二字傍点〕之1。牧曰。本以2田荒1故墾v之耳。遂以v稻與2縣人1
とあり又魏書公孫※[王+鑽の旁]傳の裴註に
呉書曰。虞(○劉虞)東海恭王之後也。……甞有2失v牛者1。骨體毛色與2虞牛1相似。因以爲v(307)是〔傍点〕。虞|便《スナハチ》推2與之1。後主自得2本牛1。乃還謝v罪
とあるなどを見れば此等の認は自己の所有と主張する義なり。然らば追跡の義の認は漢籍に見えざるかと云ふに見聞乏しくしてあまたの例を擧ぐるを得ねど白樂天の詩に
認v春、戯呈2憑少尹・李郎中・陳主簿1 認得春風先到處、西園(ノ)南面水(ノ)東頭
と云へる認などや此例ならむ○見於此村を敷田氏は此村ニ見アラハシツとよみ栗田氏は訓を附せず。或は見の下に※[木+安]の字をおとせるにあらざるか。もし然らば※[木+安]ヲ此村ニ見キとよむべし。主は無論ヌシとよむべし、※[木+安]の所有者なり。栗田氏がアルジとよめるはいとわろし○桑原村主の居村なりしかば倉見(又は※[木+安]見を桑原と改めしならむ。さて桑原|村主《スクリ》の氏は大和國|葛上《カヅラキノカミ》郡桑原里より出でたるなり
琴坂〔右△〕 所3以號2琴坂1者大|帶《タラシ》比古天皇之世出雲國人息2於此坂1。有2一老父1與2女子1倶作2坂本之田〔右△〕1。於v是出雲人欲v使v感2其女1乃彈v琴令v聞。故號2琴坂1。此處有2飼※[丁の左に斜めに二画]〔二字左△〕石《ドウゲジヤク》1。形似2雙六之|綵《サイ》1
(308)敷田氏標注 琴坂、龍野より一里許西にあり○出雲人、イヅモノとよむべからず。崇神紀に玉※[草冠/妾]鎭石出雲人《タマモシヅシイヅモビト》○飼可は銅牙に作べし。典藥式諸國進2年科雜藥1條に播磨國より銅牙一斤と有。本草和名に銅牙を金牙の一名として出2但馬上野國1と注せれど本草金牙石の集解に金牙生2蜀郡1如2金色1云々似2粗金1大如2碁子1而方。又有2銅牙1亦相似とあれば金牙に亞て大方同物なるべし。康頼本草に味鹹旡v毒如2金色1和名之也世支と注たれど赭石と聞えて古言にあらず。本草の訓註には古加禰乃米伊志と注し啓蒙にはカナザコと注せり○雙六、和名抄に須久呂久、頭子(ハ)雙六乃佐以。萬葉十六に三四佐倍有雙六乃|佐叡《サエ》。持統三年紀に禁2斷雙六1。彈正式亦おなじ○此次赤穗郡闕たり。惜むべし
栗田氏標注 飼※[丁の左に斜めに二画]石詳ナラズ。※[丁の左に斜めに二画]ハ按ズルニ牙ノ字ノ或體。……再按ズルニ飼牙ハ銅牙に作ルベシ。典藥式諸國進年料雜物中ニ播磨銅牙一斤アリ。證トスベシ○雙六、和名鈔ニ云ハク。須久呂久、頭子(ハ)雙六乃佐以
新考 初の坂の土扁を原本に古に作れり。栗田氏の標注に下(ノ)坂云々と云へるは見誤れるなり○桑原村の大字構に今も琴坂といふ處あり○田を原本に由に作れり(309)○飼豕石は二註に典藥寮式に諸國(ヨリ)進(ル)年料(ノ)雜藥、播磨國五十三種とある中に銅牙一斤とあるを引きて銅牙石の誤とせる如し。銅牙は自然銅 Native Copper の一種なり。和漢三才圖會卷五十九に
案、自然《ジネン》銅今有2二種1。一種は方而形如2雙六(ノ)※[竹/塞]1(○采)赤色。石(ナリ)非v銅
といひ平賀鳩溪の物類品隲卷之一に
方解樣ノモノアリ。……此物形方ニシテ※[罍の缶が糸]々トシテ相|重式《カサナル》。大小不定。自然銅、金銀牙石と相似タリ
といへり○雙六之綵は常には采と書けど綵と書かむも亦非ならず、采はもと采色の采なればなり
以上十八里・一驛家・二島(伊刀島群島及家島群島)。本書に見えて和名抄の郷名に見えざるは麻打・枚《ヒラ》方・出水《イヅミ》・日下部の四里、和名抄に見えて本書に見えざるは布勢・新田・餘戸・中臣・神戸の五郷なり。今桑原村の南に布施村あり。村名は舊郷名に據れるなり。布施村の南に神部村あり。村名は舊庄名に據れるにて又神戸北山といふ大字あり。石海村の南に余部《アマルベ》村あり。村名は舊庄名に據れるにて又大字に上下の余部あり。中臣(310)の名はナカジンと訛られて揖保村の大字に殘れり。新田《ニヒタ》は大津村及網干町の内か
讃容《サ》郡
所3以云2讃△《容》1者大神|妹※[女+夫]《イモセ》二柱各競占v國之時|妹《イモ》玉津日女(ノ)命|捕2臥《トラヘフセ》生《イケル》鹿1割2其腹1而|種《ウヱキ》2稻(ヲ)其血1。仍一夜之|間《ほドニ》生v苗。即令2取殖1。爾《コゝニ》大神勅云。汝妹《ナニモ》者五月(ノ)夜(ニ)殖哉《ウヱツルカモ》。即|去〔左△〕《イヒテ》2他〔左△〕《ソノ》處1號2五月夜《サヨ》郡1、神(ヲ)名2賛用都比賣《サヨツヒメノ》命1。今(モ)有2讃窄〔右△〕(ノ)町田1也
敷田氏標注 和名抄に佐用(ハ)佐與○五月をサとのみ云べき理なし。是は稻をううる頃の夜と云意をしらしめむために五月夜とは書けり。猶揖保郡佐岡(ノ)條の標注を對(ヘ)見べし○汝妹、履仲紀に汝妹此云2儺邇毛《ナニモ》1○他處(ノ)下、故字を落せり。例によりて補ふ○賛用都比賣命、式に載れり。續後紀嘉祥二年預2官社1○今有の有は在の意なり
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。播磨國佐用(佐與)郡佐用(佐與)郷ト。御圖帳ニ曰。佐用村ト。按ズルニ下文ノ讃容郡事與v里同土上中ノ十字ハ恐ラクハコノ讃容郡ノ上ニ在ルベシ。サテ此郡ノ字ハ里ニ作ルベシ○下ノ讃容ノ容ハモト脱セリ。今一本ニ從フ○神(311)名式ニ曰。佐用郡佐用都比賣神社ト。按ズルニ市杵島姫ノ一名ナリ○去他ハ疑ハクハ云此ニ作ルベシ○按ズルニ神名賛用都比賣命ノ八字ハ恐ラクハ分注トシ、サテ神ノ字ノ上ニ坐ノ一字ヲ加フベキニ似タリ
新考 讃容郡は延喜式及和名抄に佐用と書けり。サヨとよむべし○栗田氏が下文の讃容郡事與里同土上中の十字を讃容郡の上に移し又讃容郡所以云々の郡を里に改むべしと云へるは非なり。誤字は下文にあるなり○讃の下に容を脱せり○大神は伊和大神なり。占國は近くは揖保郡|粒《イヒボ》丘の下(二九五頁)に見えたり○捕臥生鹿を敷田氏はイキジカヲトラヘフセと訓み栗田氏はイキシカヲトリテフサシメと訓めり。前者に基づきてイケル鹿ヲトラヘフセと訓むべし○種稻其血は稻ヲ其血ニウヱキとよむべし。敷田氏が其血ヲ種トウウとよめるはいとわろし○一夜之間の間を敷田氏はカラニとよみたれど宜しくホドニとよむべき事夙く揖保郡萩原里の下(二八五頁)に云へる如し。鹿の生血を苗代田に代へしにて令取殖は鹿の血より取りて田に殖ゑしめしなり○汝妹はナニモと訓むべし古事記上の卷にもウツクシキ我|那邇妹《ナニモ》ノ命ヤとあり。女を親しみて呼ぶ時につかふ語なり。古事記傳(二七(312)九頁)に「ナネイモのネイセつづめてニと云か」といへり、ナネは萬葉集卷四(新考七八五頁)にカクバカリナネ〔二字傍点〕ガコフレゾイメニミエケルとあり○五月夜殖哉は五月《サツキ》ノ夜ニ殖ヱツルカモと訓むべし。三月に播種し五月に挿※[禾+央]すべきをさる營ありとも見ざりしに、とみに田に殖ゑわたしたるを見て鹿の生血を利用せしを知らずて此五月ノ一夜ノ程ニ殖ヱタカ、マアと驚きたるなり○去他處を敷田氏はアダシ處ニイニマシキと訓み、さては號2五月夜郡1の上に辭足らずなるが故に故の字を補へり。又栗田氏は云此處の誤とせり。宜しく云彼處の誤としてソノ處ヲイヒテとよむべし○神名賛用都比賣命今有讃容町田也を敷田氏が有を在の誤として神ノ名サヨツヒメノ命ハ今讃容ノ町田ニマセリとよめるは非なり。「神ヲサヨツヒメノ命ト名ヅケキ。今モ讃容ノ町田アリ」とよむべし。郡の名を五月夜《サヨ》といひ妹神の一名をサヨツヒメノ命といふは大神の此御辭に由るなりといへるなり。サが五月の農事の稱なる事は夙く揖保郡佐岡の下(二四八頁)に云へり。栗田氏が神名賛用都比賣命の上に坐の字を補ひて分註としてイマス神ハサヨツヒメノ命とよむべきに似たりと云へるも非なり○古事記上卷に
(313) 天照大御神まづ建速須佐之男《タケハヤスサノヲノ》命ガ佩《ハカ》セル十拳《トツカノ》劔ヲ乞度シテ三段《ミキダ》に打折リテヌナトモモユラニ天之眞名井ニ振|滌《スス》ギテサガミニカミテ吹|棄《ウ》ツル氣吹《イブキ》ノ狹霧ニ成ラシシ神ノ御名ハ多紀理毘賣《タギリビメノ》命、亦ノ御名ハ奥《オキ》津島此賣命ト謂フ。次ニ市寸島《イチキシマ》比賣命、亦ノ御名ハ狹依《サヨリ》毘賣命ト謂フ。次ニ多岐都比賣命……多紀理毘賣命ハ胸形《ムナガタ》ノ奥津《オキツ》宮ニ坐《イマ》ス。次ニ市寸島比賣命ハ胸形ノ中津宮ニ坐ス。次ニ田寸津比賣命ハ胸形ノ邊津《ヘツ》宮ニ坐ス。此三柱ノ神ハ胸形ノ君等ガ以《屯チ》イツク三前《ミマヘ》ノ大神ナリ
とある狹依《サヨリ》毘賣命は即ここの賛用都比賣命なり。播磨鑑にも
佐用姫大明神 藝州嚴島明神と御同體也
といへり。嚴島明神は即市寸島比賣命なり。然るに古事記に
故《カレ》此大國主神(○即伊和大神)胸形ノ奥津宮ニ坐ス神、多紀理毘賣命ニ娶《ア》ヒテ子|阿遲※[金+且]《アヂスキ》高日子根(ノ)神ヲ生ム
といひ本書下文|託賀《タカ》郡黒田里の下に
昔|宗形《ムナガタノ》大神奥津島比賣命|任《ハラミ》2伊和大神之子1云々
といひたれば御姉もい亦伊和大神の妃なるかといふに書紀の一書には瀛津島《オキツシマ》姫命(314)亦ノ名ハ市杵島姫命とあり(但書紀には佐依毘賣命といふ名は見えず)。然らば所謂佐用姫大明神は仲姫ならで實は姉姫なるかと云ふに元來宗像三女神は三神にして一神、一神にして三神なれば人間の子女の如く確に姉仲妹を別つべからず○今有讃容町田也を敷田氏は有を在として今讃容ノ町田ニマセリとよめり。宜しく今モ讃容ノ町田アリとよみてソノ苗ヲ殖ヱシメシ田ハ今モアリテ讃容ノ町田トイヘリの意とすべし。今をイマモとよむべき例は下文賀茂郡|端鹿《ハシカ》里の下に今(モ)有2其神1また同郡川合里の下に其沼(ノ)鮒等今(モ)無2五藏1とあり○町田は畔によりていくつにも分れたる田なり。歌に千町田とよむその町田なり○佐用都比賣神社は本郡佐用村大字|本位田《ホンデン》にあり。本郡式内二社の一にて又今は本郡唯一の縣社なり。續日本後紀(仁明天皇紀)に
嘉祥二年十一月播磨國佐用津姫(ノ)神|預《アヅカル》2官社1
とあり。預2官社1とはやがて神祇官の神名帳に登録せらるるを云ふ○佐用都誌に
神田 大字長尾にあり。佐用都比賣神社西南一帶の廣き耕地の字なり
といへり。此神田ぞ中世の社領にて、やがて讃容(ノ)町田のなごりならむ○原本に讃容(315)町田の容を客に誤れり
即鹿(ヲ)放(チシ)山號2鹿庭《カニハ》山1。々(ノ)四面有2十二谷1。皆|有〔□で囲む〕生v※[金+截]〔右△〕也。難波(ノ)豐前《トヨサキノ》於〔□で囲む〕朝庭(ニ)始|進《タテマツリキ》也。見顯(シシ)人(ハ)別部(ノ)犬。其|孫《ヒコ》等(ゾ)奉發文〔二字左△〕初《タテマツリハジメシ》
敷田氏標注 發文の文は之の誤
栗田氏標注 即(ノ)字ノ上下ニ恐ラクハ脱文アラム○難波已下ニ蓋謬誤アラム○文ハ之ニ作ルベシ
新考 放を栗田氏は枚に誤りて疑ハクハ殺と云へり。原本を、檢するに此字蠹蝕したれどなほ明に放と訓まる。鹿の腹を割きて籾を其血に種ゑ其芽を取りし後に鹿は山に放ちしなり○生※[金+截]を敷田氏はマガネとよみたれど下文|宍禾《シサハ》郡柏野里及御方里の下に生v※[金+截]とあればここの生※[金+截]も※[金+截]ヲ生ズとよむべく又其上の有は衍字とすべし。※[金+截]は鐵の俗字なり。原本に※[金+截]の隹を非に作れり。さて鐵と云へるは砂鐵なり○於朝庭の於は削るべし。敷田氏は之をニとよめり○見顯は發見なり。はやく印南《イナミ》郡大國里の處(六九頁)にいへり○奉發文初を二註に奉發之初の誤とし、さて敷田氏(316)はアラハシマツルノハジメとよみ栗田氏はトリハジメケルとよめり。奉發はトリとはよよれず。されば文を之の誤とする外に發を獻などの誤として其|孫《ヒコ》等ゾタテマツリハジメシとよむべくや。即發見せしは別部犬なれどこを孝徳天皇の御世に朝廷に獻じ始めしは其子孫なりと云へるならむ○佐用都比賣神社の西方十町許に大撫《オホナデ》山あり。佐用・幕山・江川の三村に跨れり。此山にあまたの谷あり。就中東麓長尾の字本谷の奥をカナクソ谷といひて今も砂鐵と鐵滓とを見る。又此谷に神場《カンバ》神社といふ無格社あり。棟札には神羽大明神と記せり。俗に鞴の神と稱し又「カンバ樣は目が一つ」と云傳へたり。
カンバはカニハの訛にて所謂カンバ樣は鍛冶の祖天(ノ)目一箇《マヒトツノ》神を祭れるなり
又山の北麓なる江川村大字|仁方《ニカタ》字安井に村社神場神社あり。棟札には神庭明神と書けり。播磨國内神社記に佐用郡小社鹿庭明神と記せるは是ならむ。又同じく山の北麓なる江川村大字福澤字大谷に鹿庭《カニハ》といふ地名あり。右の如くなれば本書の鹿山は今の大撫山なる事明白なり
○讃容〔右△〕郡〔左△〕《サト》 事與v里〔左△〕《コホリ》同(土上中)
(317)敷田氏標注 讃容郡、事與v里同は讃容里、事與v郡同に作るべし。和名抄に佐用郷あり
栗田氏標注 讃容已下十字ハ蓋上文ノ錯出ナラム、説ハ已ニ上ニ見エタリ
新考 栗田氏が讃容已下十字蓋上文錯出といへるは誤れり。敷田氏の云へる如く郡の字と里の字といりちがへるのみ。今郡の中央より南に偏りて佐用村あり。郡中の主邑なり○原本に容を客に誤れり
吉川(本名玉落川) 大神之玉落2於此川1。故曰2玉落1。今云2吉川1者|稻狹部《イナサベノ》大吉川居2於此村1。故曰2吉川1(其山生2黄連《ワウレン》1)
敷田氏標注 吉川、和名抄に江川に作○稻狹部は出雲國の地名によりたる姓なるべし○黄連、和名抄・醫心方竝加久末久佐と注し古今六帖にカクモ草とよめるも同からむ
栗田氏標注 按ズルニ倭名抄ニ佐用郡ニ江川郷アリ。國圖ニ赤穗郡ニ大枝村アリ。西ニ川アリ。其源、因幡國界ニ發セリ。其地ニ吉川村アリ
新考 今佐用村の西北に接して江川村あり。江川といふ一小流此村より發して本(318)位田《ホンデン》の南方にて佐用川に注げり吉川《エカハ》一名玉落川は即是なり。栗田氏の云へる大枝村は赤穗郡赤松村の大字にて其西なる川は千種《チクサ》川なり。此川の水源より分水嶺を越えて因幡國に入らば八頭《ヤツカミ》郡池田村大字|吉川に《ヨシカハ》に出づべし。栗田氏が其地有吉川村と云へるは是なるが問題の吉川《エカハ》とは相與からず○大神之玉と云るは頸玉又は手玉なり○稻狹郡は氏、大吉川は人名なるべけれど大吉川といふ人名は異樣なり。或は大吉子《オホエコ》の誤ならざるか。下にも大仲子《オホナカツコ》といふ人の居りしによりて川を仲《ナカツ》川と號せし例なり。敷田氏氏が「稻狹部は出雲國の地名によりたる姓なるべし」と云へるは古事記上卷に見えたる伊那佐之小濱を思へるなり○黄連は和名をカクマグサといふ。但音讀して可なり○原本に其山を本文に續けて大書し生黄連を、右傍に寄せて小書せり。五字共に註文とすべし
※[木+安]見《クラミ》 佐用都比賣命於2此山1得2金《カネノ》※[木+安]1。故曰2山名〔右△〕(ヲ)金肆《カナクラ》、川名(ヲ)※[木+安]見1
敷田氏標注 故曰の曰(ノ)字は山名の下にあるべし
栗田氏標注 御圖帳ヲ按ズルニ赤穗郡ニ倉尾村アリ。疑ハクハ古ノ※[木+安]〔右△〕見》カ。佐用郡ニモ亦來見村アリ○按〔右△〕ハ即鞍ノ字○山名曰ヲ原本ニ曰山名ニ作レリ。例ニ據リテ(319)之ヲ改ム。曰按〔右△〕見ノ曰(ノ)字、例補ス○御圖帳ヲ按ズルニ佐用郡金谷村アリ
新考 ※[木+安]見の地は今知られず。※[木+安]は鞍に同じ(三〇五頁參照)。栗田氏は本文にも標注にも※[木+安]を皆按に誤れり○或人云はく。長谷《ナガタニ》村の口長谷と平福村の平福との間に佐用川にかけたる橋をカナクラ橋といふ。されば其右手の山や金肆《カナクラ》山ならむと。播磨國内神社記に佐用郡小社鎌藏明神とあるは金肆の訛ならざるか○※[木+安]見川は今の佐用川なり。近古の書に熊見川といふ名の見えたるはやがてクラミ川を訛れるかと思ふに播州佐用軍記(續群書類從卷六三九)に
熊見川と云は上の渡を上津と云ひ下の渡を九崎と云ひ中の道の渡を熊見川と云也
といひ播磨鑑に
熊見川 林崎村才|徳久《トクサ》村の間の川也。古戰場也。此川宇野庄中島村の邊にて熊見川と云、下にては久崎《クサキ》川と云、上にては上津川と云。佐用軍記に見えたり。此川は宍粟郡千草川の流也
といひて千草川の一節とせり。いといぶかし。栗田氏の擧げたる來見《クルミ》村は、今の幕山(320)村大字福中の字なり。又金谷村は今の幕山村大字金屋か。赤穗郡倉尾村(尾一作v屋)は知らず。さていづれも金肆山・※[木+安]見川に擬すべきにあらじ。但|來見《クルミ》はクラミと音相近けれど川の名とすべき土地にあらず○原本に山名を山石に誤れり。故曰山名金肆を二註に故山名曰金肆の誤とせり。正しくは然書くべし。但撰者の書けるはもとのままにて一の曰(ノ)字を以て山名川名を束ねたるにてもあるべし。栗田氏は更に川名の下に曰(ノ)字を補へり
伊師 即是※[木+安]見之|阿〔左△〕上《カハカミ》。川〔左△〕底如v床。故曰2伊師1(其山生2精▲▲麻1)
敷田氏標注 伊師詳ならず。強て按に中昔の書にイシノオマシなど云るは床をイシと云し古言の殘りけむを彼倚子の字音ならむと思ひ誤り我古言は何《イツ》となく亡びしも知べからず。猶よく考べし○精鹿、詳ならず○升麻、和名抄に止里乃阿之久佐、醫心方・本草和名等に宇多加久佐とも注せり。俗にアハボとも水筆とも云
栗田氏標注 精ノ下本書蠹食シテ▲▲ニ作レリ。按ズルニ字體、鹿升ニ似タリ。故ニ今之ヲ訂ス
新考 ※[木+安]見川の上流を伊師川といふと云へるなり。※[木+安]見川即佐用川は今の石井村(321)より發せり。石井村の名は右の伊師を訛れるにあらざるか。此村は本郡の最北部にありて明治二十九年に美作國より編入せられしなり○阿上は河上の誤なり。川底も水底の誤ならむ。上文(二九五頁)にも下文(賀毛郡|雲潤《ウルミ》里・同川合里)にも、川底といへるは皆川尻の事なればなり○イシを敷田氏は床の古語としたれどなほ椅子《イシ》(即今の椅子)の字音ならむ○精▲▲麻の中間の二字蠹触して讀みがたし。二註に精鹿升麻としたり。升麻(和名トリノアシ草)は延喜式なる本國より奉る年料雜藥の中にも見えたればさもあるべし。精鹿は從はれず。なほ考ふべし。
○速湍〔右△〕里(土上中) 依2川(ノ)湍(ノ)琴速1△v△。々《爲名速》湍(ノ)社坐《モリニイマス》神廣比賣命(ハ)故※[冉+おおざと]〔二字左△〕都比賣|△《命》弟
敷田氏標注 速湍、和名抄に速瀬に作○廣比賣命故那都比賣弟、當郡に佐用都比賣神社と天一神玉神社の外は式に見えず。かばかり神名まで著れたる舊社の埋(レ)果つるは甚々歎べき業也。廣姫は繼體天皇の妃に同名二人あり敏達天皇の皇后にも同名見ゆれど其らにはあらじ。那都比賣は仁賢天皇の御姉にて紹運録に載たれば廣(322)比賣は其御弟に坐て史に洩たるならむ。此姫命の播磨國に下り給ふは御兄弟の由縁あれば也
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。佐用郡速瀬ト。國圖ヲ按ズルニ佐用郡ニ早瀬村アリ
新考 原本に湍(ノ)字の山を而に作れり(即旁は而を重ねたり)。栗田氏の本に濡に作れるは誤れり○今西(ノ)庄村の東端に大字早瀬ありで佐用川に臨めり。西(ノ)庄相は佐用村の西南に接せり○川(ノ)湍とある川は佐用川なり。依2川湍速1の下に栗田氏の如く爲v名の二字を補ふべし。敷田氏の本には初より此二字あり。原本に依川湍速々湍社坐神云々とありて下の速を々と書きたるを見れば此本は爲名の二字を脱したる本に就きて書寫したるならむ。即此本は少くとも再傳本ならむ○社はモリとよむべし(二三三頁參照)○故※[冉+おおざと]都比賣弟の※[冉+おおざと]を二註に那とせり。さて敷田氏はモト、ナツヒメノオトナリとよめり。古寫本に往々那に一畫を添へて※[冉+おおざと]と書きたれば
上文飾磨郡巨智里の下なる巨智賀那の那をもてこの如く書けり。漢籍にも例ありて玉篇に同那とあり
※[冉+おおざと]を那と認めたるは可なれどよく思ふに名も聞えず上にも見えぬ神を擧げてソ(323)ノ弟ナリとはいふまじきなり。恐らくは故※[冉+おおざと]都比賣は散用都比賣の誤ならむ。又その下に命を脱せるならむ。古事記に據れば佐用都比賣命の妹は多岐都比賣命なり。その多岐はやがて速湍なれば此處に坐さむこと由ありといふべし。いま早瀬に村社白山神社あり。其祭神は譽田別《ホムタワケ》尊・天(ノ)兒屋根命・天(ノ)忍穂耳《オシホミミ》尊・素盞嗚《スサノヲ》尊なればここの速湍社とは別なるべし。但此白山神社は昔より佐用都比賣神社の社司の兼務なる由なり
凍〔右△〕野 廣比賣命占2此土1之時凍v冰〔二字右△〕。故曰2凍〔右△〕野、凍〔右△〕谷1
新考 原本に凍v冰の扁を共に三水に作れり○凍冰はヒ、コホリキとよむべし。萬葉集卷一從2藤原(ノ)京1遷2于寧樂(ノ)宮1時歌(新考一一九頁)にもイハドコト、カハノ氷《ヒ》凝《コホリ》とあり○上文揖保郡|邑智驛家《オホチノウマヤ》冰《ヒ》山の下(二二九頁)にも
惟《コノ》山ノ東ニ流井アリ。品太天皇其井ノ水ヲ汲ミテ冰ラシメタマヒキ。故《カレ》冰山《ヒヤマ》ト號ス
とあり○凍野・凍谷の地は今知られず
(324)○邑寶《オホ》里(土中上) 彌〔右△〕麻都比古命|治《ハリテ》v井|滄〔左△〕《ヲシキ》v粮、即云3吾|占《シメツ》2多國1。故曰2大村1。治v井處號2御井村1
敷田氏標注 邑寶、和名抄に脱○彌麻都比古命は上卷餝磨郡(ノ)條に大三間津日子命とあるにおなじかるべし。然ば孝昭天皇を申せり○滄は※[にすい+食]の誤なるべし○粮は和名砂に加天とあるは略にて日本靈異記に可里※[氏/一]、萬葉五に可利※[氏/一]ハナシニとあるに據れり○御井村、今仁井村あり
栗田氏標注 彌麻都比古命治井ハ或ハ是御井(ノ)神ナラム○按ズルニ倭名鈔ニ佐用郡大田郷アリ。疑ハクハ邑寶里ナラム
新考 原本に彌の扁を方に作れり。弓扁を方扁に作るは古人の習なり。近くは元弘の弘を多くは※[方+ム]と書きたり○彌麻都比古命は餝磨郡の總説の下(八九頁)に見えたる大三間津日子命に同じからむ。但二註の如く之を孝昭天皇の御事とするはなほ考ふべし。神名帳に阿波國名方郡に御間都比古神社あるもミマツヒコノ命が天皇にあらざらむ傍證とすべし。天皇は神社に祭り奉らざるが常例なればなり。即云3吾(325)占2多國1とあるも天皇の御辭にあらざるは勿論、人代の事にあらざるに似たり。然らばミマツヒコノ命はいかなる神ぞと云ふに太古の播磨國、特にその中部以西は伊和(ノ)大神系統以外の神の介在を許さざりし趣なれば恐らくは伊和大神の御子の一人ならむ○治井は井ヲハリテとよむべく滄粮は滄を※[にすい+食]の誤としてカレヒヲヲシキとよむべし。いにしへ旅ゆく人はカレヒ即|糒《ホシヒ》を携へて水に漬し柔げて喰ひき。されば糒を喰ふには良水を求めざるを得ざりしなり。下文|託賀《タカ》郡|都麻《ツマ》里の下にも播磨|刀賣《トメ》此村ニ到リテ井ノ水ヲ汲ミテ※[にすい+食]《カレヒク》ヒテ此水|有味《ウマシ》ト云ヒキ
とあり。又|美嚢《ミナギ》郡|志深《シジミ》里の下にも此井ニ御食《カレヒヲ》シシ時ニ云々とあり。井といへるは泉なり。井ヲハルとは泉の口を開くなり○吾占多國は吾ハ多クノ國ヲ占メツとよむべし。二註に占をシメムとよめるは誤れり○邑寶はオホとよむべし。邑智《オホチ》・邑久《オホク》の例に依らば邑の一字にてオホとよむべきを地名は二字とすべき定によりて寶を添へたるなり。さて此里は和名抄の大田郷にて今の久崎《クサキ》村の東部ならむ。元來本郡は到る處山岳相連りて平地少きが久崎村のうち千種川と佐用川と合流せる附近には多國といひ大村・大田郷とも稱すべき比較的廣き平地ある上に久崎村は西庄村(326)及佐用村の南方に接したれば此村とすれば記述の順序にもかなふなり○御井村は敷田氏の云へる如く今の仁位《ニヰ》ならむ。ミのニに通へる例はいと多し。仁位は西(ノ)庄村の大字にて佐用川の左岸に在りて久崎村の界に近し。御井やがて仁位ならば邑寶里はいよいよ久崎村の東部とすべし
※[秋/金]柄《クハエ》川 神日子命之※[秋/金](ノ)(ヲ)令v採2此山1。故其山之川(ヲ)號曰2※[秋/金]柄川1
新考 神日子命は彌麻都日子命の誤脱ならざるか○久崎村の西部より發して佐用川に注げる川あり。秋里川といふ。※[秋/金]柄川は是ならむ
室原《ムロフ》山 屏《フセグコト》v風如v室。故曰2室原1(生2人參・獨活〔右△〕。監〔左△〕▲・白朮・石灰1)
敷田氏標注 人參、和名抄に加乃仁介久佐一名久末乃伊。本草和名・醫心方等に爾己太とも註せり○獨活、和名抄に字止○監▲は藍漆の誤なるべし。典藥式播磨國年料雜藥の中又出雲風土記等に見ゆ○石灰、和名抄に以之波比
新考 上文揖保郡浦上里の下(二七七頁)に
室原《ムロフ》泊 所2以號1v室者此泊防v風如v室。故因爲v名
(327)とある例によらばここの室原もムロフとよむべし○此山は久崎村大字久崎の北の山か、同村に家内《ケナイ》といふ大字あり。名は室原に縁あれど地形、記述にかなはざる上に風いと寒き處と聞ゆればそれにはあらじ○原本に活を治に誤れり。監の下の字讀まれず。又摸しがたし(扁は月にて旁は集に似たり)。さて監▲は藍漆の誤なり。典藥寮式なる本國より進《タテマツ》る年料雜藥五十三種の中に見えたり
久都野《クヅヌ》 彌〔右△〕麻都比古命|告《ノリテ》云。此山|踰〔左△〕者《クエバ》可v崩。故曰2久都野1。後改而云2宇努《ウヌ》1。其邊(ハ)爲v山、中央(ハ)爲v野
敷田氏標注 中央、マナカとよむべけれど天武紀に有v虹當2于天|中央《モナカ》1とあるに據る。神武紀には中心をよめり
栗田氏標注 國圖ヲ按ズルニ隣郡宍粟郡ニ久都禰村アリ。又室村アリ(○版本に寶村とあるは誤植なり)○倭名鈔ニ曰。佐用郡宇野ト。名跡志ニ曰。揖西郡宇野庄宇野山ト
新考 踰は蹶の誤か。さらばクヱとよむべし。クヱは後のケ(蹴)なり○今の大廣村に(328)宇野山あり又西(ノ)庄村の大字に宇根あれど共に地理かなはず。和名抄に見えたる宇野郷は其區域知られねど近世宇野圧と稱せしは宇野庄米田・中島・土井・安川・寶藏寺などあれば略今の中安村に當るが如し。其中安村は久崎村の東に接したり。さて此山といへるは前節の室原山を指したるにか聊曖昧なれど其邊爲v山中央爲v野といへる山とは齊しかるべし。もし然らば山中に野ありて其野を久都野と名づけしものとせざるべからず。又此山踰者可v崩とあるを味はへば横斷すべき山脈ならざるべからず。ここに佐用川と千種川と合流せる處に久崎村の大字久崎あり。其北方に山の崎ありで兩河に夾まれたり。佐用川の流域より千種川の流域に到るには其山の崎に沿ひて迂囘すべきなれど、もし途を節せむと思はば山を横斷すべし。現に山中に徑ありて今も同村の大字圓光寺より大字櫛田に行かむとする人は此徑に由るなり。本文に云へる山は或は是か。但其山中に久都野に擬すべき野ありや知らず。もしさる野あらば宇努即宇野の名は此野より起りて東北方なる廣き地域に移りしものとせざるべからず。栗田氏の擧げたる宍粟郡|土萬《ヒヂマ》村なる葛根と同郡|千種《チクサ》村なる室とはここに用なし。又同氏の引ける名跡志に揖西郡宇野庄宇野山とあるは(329)佐用郡の誤なり
○柏原里 由2柏多生1號爲2柏原1
敷田氏標注 柏原、カシハラと略(キ)てよむべけれど姑ク和名抄駿河國駿河郡郷名訓注の例に據(○さてカシハハラとよめり)
栗田氏標注 倭名抄ニ曰。佐用郡柏原ト。春枝云ハク。今佐用郡ニ柏原庄アリト
斬考 略、後世の柏原庄即今の徳久《トクサ》村に當るべし○柏原は造酒司式に播磨※[木+解]二十俵とあればカシハバラとよみてそのカシハは今のハウソとすべし(二四二頁參照)
筌戸《ウヘド》 大神從2出雲國1來時以2嶋村(ノ)岡1爲2※[口/天]床《アグラ》1坐《イマシテ》而筌(ヲ)置2於此川1。故號2筌戸1也。不v入v魚而入v鹿。此(ヲ)取作v鱠|食《ヲスニ》不v入v口而落2於地1。故去2此處1遷v他
敷田氏標注 呉床、和名抄に胡床(ハ)阿久良。古事記・内宮儀式帳等に呉床をよめり。※[口/天]は呉の省文にて胡も同義
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。筌(和名宇倍)捕v魚|※[竹/句]《コウ》也ト
新考 島村岡の地は今知られず。地名辭書に中島(中安村の大字)の古名なるべしと(330)いへるは從はれず。今少し上流ならむ○呉床《アグラ》は多くは胡床と書けり。今の牀几《シヤウギ》なり。筌《ウヘ》は竹を編みて作れる捕魚具なり○此川といへるは千種川なり。不入魚而入鹿は魚入ラズテ鹿《カ》入ルとよむべし。元來魚不入而鹿入と書くべきなり○故云々は不祥なる地として他處に去りしなり
○中川《ナカツガハ》里(土上下) 所3以名2仲川《ナカツガハ》1者|苫編首《トマミノオビト》等(ノ)遠祖|大仲子《オホナカツコ》、息長帶《オキナガタラシ》日賣命度2行於韓國1之時船宿2淡路|石屋《イハヤ》1之。爾《ソノ》時風雨大起百姓悉濡〔右△〕。于v時大中子以v苫作v屋。天皇勅云。此《コハ》爲2國富〔左△〕1。即賜v姓爲2苫編(ノ)首1。仍居2此處1。故川(ヲ)△2△△1《號仲川》△《里》(ヲ)號2仲川里1
敷田氏標注 苫編首、姓氏録に、登美首(ハ)豐城入彦命男云々。是か○石屋、式に淡路國津名郡石屋神社○天皇勅云、天皇は息長帶日賣命を申せり。即神功皇后の御事
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。佐用郡中川ト。延喜兵部式ニ曰。播磨國驛馬中川五疋ト○國圖及名跡志ヲ按ズルニ飾西都ニ苫編村アリ
新考 中川はナカツガハとよむべし。尊卑分脈に赤松則祐の肩に中津川と註し近(331)古の書に此人の事を中津川殿と云へるは初此處を領したりしが故なり○此里は略、今の三日月村に當るべし。三日月村は徳久《トクサ》村の東に接せり○苫編を敷田氏が姓氏録の登美(ノ)首に擬してトミと訓めるは非なり。栗田氏がトマアミとよめるも宜しからず。今飾磨郡荒川村に苫編といふ大字ありてトマミと(訛りてトマモとも)唱ふればトマミとよむべし。但その苫編と此苫編(ノ)首と如何なる關係あるかは知られず○大仲子を敷田氏がオホナカノコとよめるは固より不可なり。さらば伴信友(長等の山風附録四(ノ)卷)が中大兄の中をナカチとよめるに從ひてオホナカチ子とよまむかと云ふにそれもわろし。仲は單獨なる時はナカチといひ下へ續く時はナカツとよむべきなればここはオホナカツコとよみ中大兄・佐伯部仲子などはナカツオホエ(信友の説に據ればオヒネ)ナカツコとよむべし○石屋の下の之は助字なり。濡の雨を原本に而に作れり○神功皇后を天皇と申し奉れる例は攝津國風土記逸文(釋日本紀所引)に所2以稱2住吉1者昔息長帶比賣天皇(ノ)世云々また常陸國風土記|茨城《ウバラキ》郡の下に天津多祁許呂《アマツタケコロ》命仕2息長帶比賣天皇之朝1とあり(二五八頁參照)○此爲國富はコハ國ノ富タリトと訓むべし。敷田氏が富トシテとよめるはわろし。更に案ずるに富(332)は寶の誤字ならざるか○仍居此處はヨリテ此處ニ居リキとよむべし。栗田氏が此處ニ居リシニ仍リテとよめるは宜しからず○末尾はもと故川號2仲川1、里〔四字傍点〕號2仲川里1とありて號仲川里の四字重出したりしを誤りて重複と認めて其一を削りし爲今の如く故川號仲川里となりて不通の文となりしなり○上文に
吉川 稻狹部大吉川〔左△〕居2於此村1。故曰2吉川1
とあると相似たり。さてこは共に傅會の傳説にて實はエカハは枝川、又は湯川(下文美嚢郡吉川里參照)、ナカツガハは中の川の義ならむ○川號2仲川1といへる仲川は今のいづれの川とかすべき。播磨鑑に久崎《クサキ》川即|千種《チクサ》川の上流を上津川といふと云ひ又今も千種川の上流を上津川、中流を中津川、下流を下津川といふ由なれど千種川は三日月村を貫かず三日月村を貫けるは志文《シフミ》川なれば本書に云へる仲川《ナカツガハ》は志文川に充つべきに似たり。なほよく考ふべけれど、もし志文川とせば千種川と本郷川との中間を流るる川の義とすべし(佐用軍記には千種川の上瀬を上津川、中瀬を熊見川、下瀬を九崎川といへる事※[木+安]見川の本註に引ける如し)
引船〔二字左△〕《フナビキ》山 近江天皇之世|道守《チモリノ》臣爲2此國之宰1造2官船於此山1令2引下1。故曰2船(333)引1。此山住v鵲。一云2韓國烏1。栖2枯木之穴1春時見《ミエ》夏(ハ)不v見《ミエズ》(生2人參・細辛1)
敷田氏標注 近江天皇は天智天皇を申○道守臣、姓氏録に豐葉頬別命之後也と有。即孝元天皇第八皇子也○船引は引船の顛倒か○鵲、和名抄に加佐々木と注せれど既《ハヤク》訓蒙字會に見えたれば朝鮮の方言也。字鏡集に豆々萬奈柱《ツツマナバシラ》と註し易林本節用集にヤマガラスとよめれど姑(ク)普通の訓に從ふ。塵添※[土+蓋]嚢抄《ヂンテンアイナウセウ》に此件の事を引けるに一云を世俗云に作れり○細辛、和名抄に美良乃禰久佐。是は加茂山に生る二葉葵に似たる草なり
栗田氏標注 船引ハモト引船ニ作レリ。今一本及下文ニ從ヒテ訂ス。國圖ヲ按ズルニ佐用宍粟二郡ノ界ニ舟越村アリ
新考 引船山は船引山の誤なり。敷田氏が故曰2船引1を引船の顛倒とせるは非なり。今の三日月村附近を近世まで船曳庄と云ひき○船引山は今の三日月村の北部に峙てる三方里《サンバウリ》山か○近江天皇は天智天皇なり。同天皇紀七年に小山下道守《セウサンゲチモリノ》臣、麻呂といふ人見えたり。ここに道守(ノ)臣といへるは此人ならむ。はやく揖保郡|香山《カグヤマ》里の下(一八一頁)にも後至2道守臣爲v宰之時1云々とあり○萬葉集卷十四に
(334) あしがりの安伎奈のやまにひこふねの云々
日本靈異記下卷第一に
熊野村(ノ)人至2于熊野河上之山1伐v樹作v船……後歴2半年1爲v引v船入v山
釋日本紀に引ける伊豫國風土記逸文に
野間郡熊野峰、所v名2熊野1由者昔時熊野|止《ト》云船(ヲ)設《ツクル》v此。至v今石(ニ)成(リテ)在。因謂2熊野1本《モト》也
晋書幸靈傳(藝術傳)に
時順陽樊長賓爲2建昌令1。發2百姓1作2官船於建城山中1。吏令3人各作2箸一雙1。……船成當v下。吏以2二百人1引2一艘1不v能v動。方請v益v人。靈曰。此以過足。但部分未v至耳。靈請自牽v之。乃手執v箸惟用2百人1而船去如v流。衆大驚怪、咸稱2其神1
とあり。いにしへの船は獨木舟なりしかば山中にて大木を伐りてそのまま引下さむよりは船に刳《ヱグ》りて引出さむ方、便よかりしなり(萬葉集新考三〇四一頁參照)。栗田氏はかの舟越(二七〇頁)と混同せり。因にいふ。宍粟郡三河村の大字に船越あり。栗田氏の擧げたるは是なり○鵲はもと我邦に産せざりしなり。推古天皇紀に
六年夏四月難波(ノ)吉士《キシ》磐金至v自2新羅1而獻2鵲二隻1。乃|俾v養《カハシム》2於難波(ノ)杜1。因《ヨリテ》以巣v枝而|産之《コウム》
(335)とあり。さていつの程よりか稀には産することとなりしなり。今鵲の棲息地として學界に知られたるは福岡・佐賀兩縣の一部并に千島なり。我、幼時郷里(播磨國神崎郡田原村)にありて屡、人の朝鮮烏ガ來タといふを聞きしことあり。但いかなる鳥とも見定めざりき。國によりては高麗烏・唐《タウ》烏・褐《カチ》烏・肥前烏など呼ぶとぞ(比古婆衣《ヒコバエ》卷十一・甲子夜話卷二十一・江漢西遊日記參照)○細辛は今のカンアフヒの類なり○敷田氏の本に春時見の下に之(ノ)字あれど原本には無し
昔近江天良之世有2丸《ワニベノ》具〔左△〕1也、是仲川里人也。此人買2取河内國|免〔左△〕寸《ウキ》村人之|賚《モチキタレル》劔1也。得v劔以後擧家滅〔右△〕亡。然後|苫編部《トマミベノ》犬猪圃2彼《ソノ》地之|墟《アトヲ》1土中得2此劔1、土與v△《劔》相去廻〔左△〕一尺許。其柄朽失而其刃|不v澁《サビズ》光如2明鏡1。於v是《ココニ》犬猪即懷2怪心1取v劔歸v家、仍招2鍛人《カヌチ》1令v燒2其刃1。爾《ソノ》時此劔屈申如v蛇。鍛人大驚不v營而止。於v是犬猪以爲2異劔1獻2之朝庭1。後(ニ)淨御原《キヨミハラノ》朝庭(ノ)甲申年七月遣2曾禰(ノ)連《ムラジ》麿12送本處1。于今〔二字右△〕安2置此里(ノ)御宅《ミヤケ》1
(336)敷田氏標注 丸部は孝昭天皇の後なり。具(ノ)字は直又首などの誤ならむと思へど姓氏録竝拾芥抄に直等見えざれば臣の※[言+爲]とすべし○免寸村古事記下卷に免寸河之西……とあり。此免寸を扶桑略記に厄寸に作れり。免は厄の誤として式に和泉國和泉郡に夜疑神社あり同郡に八木郷あれば厄寸《ヤギ》ならむと思へど厄を假字に用ひたる例なければ猶考べし○土中得2此劔1云々、天智紀に……○淨御原朝庭は天武天皇を申す○甲申は白鳳十三年に當る○曾根(ノ)連は姓氏録に神饒速日命之後也とあり○安2置此里御宅1、按に劔の有ばかりを云るには在とこそあるべきに安置としも記せるは神體として祭れるなるべし。式に天一神玉神とあるは天目一神にして此劔を祭れるにはあらじか。猶多可郡にも同神|坐《マセ》れば何れも劔に由ある神なり
栗田氏標注 天智紀(即位年)ニ曰……。按ズルニ今三日月驛ノ西ニ米田村アリ。此ニ據レバ日本紀ノ禾田ハ恐ラクハ米田(ノ)※[言+爲]ナラム○滅ハモト減ニ作レリ。今一本ニ從フ○今ハモト令ニ作レリ。今之ヲ訂ス
新考 有|丸部《ワニベ》具也とある具は敷田氏の云へる如く臣の誤にて也は助字ならむ。印南郡南※[田+比]都麻《ナビツマ》の下(八五頁)にも(337)志我(ノ)高穴穗(ノ)宮御宇天皇ノ御世ニ丸部《ワニベノ》臣等ノ始祖比子汝弟ヲ遣シテ國ノ界を定メシメキとあり○賚は齎に同じ。音セイ、持來なり。ここはモチキタレルとよむべし○河内國免寸村は古事記仁徳天皇の段に
コノ御世ニ免寸河ノ西ニ一高樹アリ。其樹ノ影|旦日《アサヒ》ニ當レバ淡道《アハデ》島ニ逮ビ夕日ニ當レバ高安山ヲ越エキ。故《カレ》コノ樹ヲ切リテ船ニ作リシニイトトク行ク船ナリキ。時ニ其船ヲ號《ヨ》ビテ枯野《カラヌ》ト謂ヒキ
とある免寸河と同處ならむ。記傳卷三十七(二二一七頁)に
免(ノ)字はうつなく寫誤なり。然れども其字未考得ず。されば訓べき由も無ければしばらく訓をも闕つ。そもそも此河は此高樹の朝夕の影の至る處を云るに因て考るに必高安山の西方なるべければ河内國高安郡もしは若江郡・澁川郡などにある川なるべし。……何れにまれ中間に山なくして高安山を東方に常に望《ミ》る地なるべきなり
といへるを大日本地名辭書にはもとのままにてメキ河と訓みて
(338) 河内國中河内郡三木本 三木は樟なり。延喜式志紀郡|樟本《ミキノモト》神社三座河内志南|木本《キノモト》に在りと爲す。今三木本村大字南|木本《キノモト》なり。三木の三は稱美の謂にて古事記に見ゆる免寸《メキノ》大樹蓋是なり。龍華《タツバナ》川、村を貫く。免寸川亦是なり
といへり。されど記傳に云へる如く免は假字にも借字にも用ひざる事、
萬葉集卷二十(新考四一九三頁)なるカクシコソメシアキラメ晩《メ》を一本に免としたる例あるのみ
もしメキとよまば免《メ》は音に許り寸《キ》は訓に許りたりとせざるべからざる事、又メキとよまばはやく御木をメキと訛りきとせざるべからざる事、右いづれもあるまじき事にはあらねどなほ心に滯る所あり。ここに加納諸平の免寸河考といふものあり。それには免寸河を兎寸河の誤としてウキ河とよみ、ウキを泥水の義として今の古市川とし、高樹の立てりし地を今の木(ノ)本とせり。按ずるに本書の原本に免寸村とあるは〓の一點を落したるならむ。〓は兎の正字なり。されば本書の免寸村・古事記の免寸河は〓寸村・〓寸河の誤としてウキ村・ウキ河とよむべし。その地理的考證は他日他處に讓りてむ○滅は原本に減に誤れり○苫編部は上(三三〇頁)に見えたる(339)苫編(ノ)首の配下なり。犬猪は乾にて人名なり○圃を敷田氏はツクリとよみ栗田氏はソノフニスルトキととよめり。ハタニハルトキとよむべきか。圃は蔬菜果※[草冠/(瓜+瓜)]をううる處なればやがてハタなり○土與の下に劔を補ふべし。廻は誤字ならむ(適などの誤字か)○不澁を敷田氏はシブラズとよめり。宜しく栗田氏に從ひてサビズと訓むべし。澁を銹の義につかひたる例は續日本紀寶龜十一年八月の下に今聞諸國甲冑稍經2年序1悉皆澁綻〔二字傍点〕多不v中v用とあり。屈申は屈伸なり○天智天皇前記に
是歳播磨國司岸田(ノ)臣麿等獻2寶劔1言。於〔□で囲む〕狹夜《サ
ヨ》郡人△《於》2禾田《アハダノ》穴内1獲焉
とあるは於禾田穴内獲焉とあるが異なれどなほ同事を云へるなり。禾田は粟田にて地名にはあらじ。栗田氏が今の中安村の大字米田を之に擬したるは非なり○淨御原朝庭甲申年は天武天皇の十二年なり○于今を原本に于令に誤れり。御宅は里の官倉ならむ。敷田氏は
按に劔のあるばかりをいへるには在とこそあるべきに安置としも記せるは神像として祭れるなるべし
と云へれど安置はただオケリといふ意なれば社を建ててその神體とせずとも安(340)置とはいふべし。現に景行天皇紀五十一年に蝦夷の俘囚を三輪山の邊に置かれし事を令v安2置〔二字傍点〕御諸山傍1と云へるにあらずや。又
式に天一神玉神とあるは天(ノ)目一《マヒトツ》神にして此劔を祭れるにはあらじか
といへる天一神玉神社(玉の字、神名帳の一本に王に作れり)は文徳天皇實録に
天安元年八月在2播磨國1正六位上天一神(ニ)授2從五位下1○在2播磨國1從五位下天一神預2官社1
とある神の社にて今も本郡|徳久《トクサ》村大字東徳久字西間(即播磨鑑などに云へる馬《マ》村)の山上にありて天一《テンイチ》神社と稱せらる。但本郡なる式内社は僅に二社にて其一はやがて本社なるに今は無格社となれり。祭神は播磨鑑以下に天御中主神とせるを伴信友(神名帳考證)は「和名抄に天一神(和名奈加加美)とあれば天一神王にてナカガミと稱せるにやあらん」といひ栗田博士(神祇志料)は天(ノ)目一箇《マヒトツノ》神とせり。案ずるに文徳實録に天一神とあれば延喜式に見えたる神玉(又は神王)の二字は天安以後に添へしならむ。さて天目一箇神ならば神名帳當國多可郡の下に見えたる如く天目一神社と記すべく主要なる目(ノ)字を略してただ天一と書き又稱すべからず。恐らくは信(341)友のいへる如く蕃神なる天一神を祭れるにて、そを邦語にナカガミと稱するより誤りて天御中主尊ともせるならむ。あて敷田氏が天一神玉神は彼劔を祭れるなら
むと云へるは何の證據も無き空想に過ぎず○因に云ふ。近世二囘までこの附近にて上代の異民族の遺物を獲し事あり。即文化十一年五月下本郷村(今の三月月村の大字)にて銅鐸を發掘し明治二十年頃徳久村大字平松にて大石の下より銅劔を發見しき。三日月村がいにしへの中川里にて徳久村の東に接したる事は上に云へる如し
北〔左△〕《コノ》山之邊有2季五根1。至《イタルマデ》2于仲冬1其實不v落
栗田氏標注 北山ハ此山ニ作ルベシ
新考 北山は此山の誤にて此山といへるは船引山ならむ。又此一節は恐らくは靈劔の一節と前後したるならむ
彌〔右△〕加都岐(ノ)原 難波(ノ)高津(ノ)宮天皇之世|伯耆加具漏《ハハキノカグロ》・因幡(ノ)邑由胡《オホユコ》二人大驕无v節〔右△〕以2清酒1洗2手足1。於v是《ココニ》朝庭以爲v過v度遣2狹井連佐夜《サヰムラジサヤ》1召2此二人1。爾《ソノ》時佐夜(342)仍悉|禁《イマシメテ》2二人之|狭〔左△〕《ヤカラ》1赴参之時屡|清〔左△〕《ヒタシテ》2水中1酷拷《クルシメキ》之。中有2女二人1。玉(ヲ)※[糸+原]〔左△〕《マケリ》2手足1。於v是佐夜怪問之。答曰。吾(ハ)此《コレ》服部《ハトリ》彌〔右△〕蘇(ノ)連《ムラジ》娶2因幡(ノ)國造《クニノミヤツコ》阿良佐加比賣1生《ウミシ》子字奈比賣・久波比賣。爾《ソノ》時佐夜驚云〔右△〕。此《コハ》是執政大臣之女。即|還送《カヘシオクリキ》之。所2△《還》送1之處即號2見置山1、所v溺《オビラセシ》之處即號2美加都岐(ノ)原1
敷田氏標注 狹井連。姓氏録に佐爲(ノ)連(ハ)速日命六世孫|伊香我色乎《イカガシコヲ》命之後也○吾此云云、宇奈比賣久波比賣に係る詞○美加都岐原は身潜《ミカヅキ》の謂なり。今は三日月と書けり
栗田氏標注 按ズルニ國圖ニ佐用郡ニ三日月村アリ。春枝云ハク。村ニ三日月山アリト○族ハモト狹ニ作リ漬ハモト清ニ作レリ。竝ニ一本ニ從フ○姓氏録ニ曰。服部連(ハ)天御中主命十一世孫天御桙命之後也○志ニ曰。舟曳庄三日月
新考 原本に彌の扁を方に、節の冠を艸に作れり。無節はやがて過度なり○清酒《スミサザケ》は支那にては夙く魏書に見えたり。濁酒の滓を澱ませ又は漉したるものなり。清酒とはいへども今の如く透明なるものにあらざりし事勿論なり。灰を入れて酒を澄ます事は近古に始まりしなり○狹井連《サヰノムラジ》は天智天皇以下の紀に見えたり。姓氏録なる(343)佐爲(ノ)連におなじ○二人之の下なる狹は族の誤なり。禁は拘なり。イマシメテなどよむべし○清水中の清は漬を誤れるなり。酷拷之は聯ねてクルシメキとよむべきか○※[糸+原]纏の誤ならむ。ここの文に據れば玉を手足に纏くはただ人のせざりし事と見ゆ○服部彌蘇連《ハトリノミソノムラジ》の彌蘇は名なり。此人國史には見えず。又姓氏録攝津國神別に
服部(ノ)連……允恭天皇御世任2織部(ノ)司1總2領諸國(ノ)織部1。因號2服部(ノ)連1
とあるに據れば仁徳天皇の御世には服部連といふ氏カバネはいまだ無かりしに似たり。ここに服部(ノ)彌蘇(ノ)連とあるは服部(ノ)連等(ノ)祖彌蘇といふ意か○驚云の云を原本に之に誤れり。當時いまだ大臣といふ職名は無かりき。さればここの大臣は大官と心得べし○所送の間に還をおとせるか。見置はミオクリの約ならむ。ミオクリといふ語は後めきて聞ゆれど欽明天皇紀十五年に來詣2筑紫1看2送〔二字傍点〕賜軍1とあり又萬葉集卷十九(新考三九四一頁)に
五日平旦上道。仍國司次官已下諸僚皆共視送〔二字傍点〕
同卷二十(新考四〇六三頁)に
松のけ《キ》のなみたる見ればい|は《ヘ》びとのわれを美於久流等たたりしもころ
(344)日本靈異記卷下第一に
優婆塞二人(ヲ)副(ヘテ)共(ニ)遣(リテ)使2見送〔二字傍点〕》1
とあり○所溺之處を敷田氏はオボレシ處ヲとよみ栗田氏は訓を添へず。上なる所送之處と對照して之の外に所をも助字としてオボラセシ處と訓むべし。但所は古典に令の如くつかへる例あり(萬葉集新考三三四八頁參照)○所溺之處は志文《シフミ》川なり。いにしへ因幡以西の山陰道より上國へ赴くには播磨國にてはまづ佐用郡に入りそれより直に、又は赤穗郡を經て揖保郡に入りしなり。さて前路を取るものは今の三日月村を經、從ひて志文川を渡りしなり。兵部省式諸國驛傳馬に播磨國驛馬、越部《コシベ》・中川《ナカツガハ》各五疋とある中川驛は今の三日月村の内なり。但驛址は今知られず。越部驛が今の揖保郡越部村大字|馬立《ウマテt》なるべき事は上(一九六頁)に云へり○本書にてはミカヅキを水潜の義とせるなり。敷田氏が「身潜の謂なり」と云へるは從はれず。春枝が村有2三日月山1といへるは例の詐なり。さる山は無し
○雲濃《ウヌ》里(土上中) 大神之子|玉足《タマタラシ》日子・日足比賣命生2子大石命1。此子|稱《ウナヒキ》2於(345)父(ノ)心1。故曰2有怒《ウヌ》1
敷田氏標注 雲濃和名抄に宇野。今宇根村あり○稱於父心の稱はカナフと訓べけれど、さては雲濃里てふ義を失へれば曲て(○ウナヅキタマヘリと)よめり。但中昔の書にウナヅクと云語しばしば見えたれば古言なるべし
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。佐用郡宇野ト。按ズルニ佐用郡ニ宇根村アリ。又按ズルニ御圖帳ニ赤穗郡字野村アリ
新考 上文|邑寶《オホ》里|久都野《クヅヌ》の下(三二七頁)に、後改而云2宇努1とあり。其處に云へる如く和名抄本郡の郷名に宇野あり。その宇野郷の地は今知られねど近古に宇野庄と稱せしは略今の中安村に當る如し。今徳久村大字林崎より大廣村の新宿へ越ゆる峠を宇野タワ又は宇野山といひ
佐思郡誌(六六四頁)に大廣相末廣字宇野山云々と云へると同處ならむ
又大廣村なる多賀登山といふ高山の一名を宇野山といふを思ひ又近古の宇野庄に當るべき中安村はやがて大廣村の西續なる事、徳久村(柏原里)三日月村(中川里)を記述したる後なれば今は大廣村及中安村に及ぶが順序なる事を思へば雪濃《ウヌ》里は(346)略今の中安村及大廣村に當るべし。二註に擧げたる宇根は西庄村の南北にある大字にて地理かなはず。又栗田氏が擧げたる赤穗郡宇野村は御圖帳を見誤りたるにあらざるか。いづれにもあれ此處に用なし○大神は伊和大神なり。玉足日子の下に命の字を落したるが如くなれど一の命にて二神を束ねたる例は上文餝磨郡|牧野《ヒラヌ》里の下にも大汝《オホナムチ》・少日子根《スクナヒコネ》命とあり○命の下に在2此處1などいふ事あらでは二神と此里との關係明ならず○大石を二註にオホイシとよめり。氏又は地名のオホシを大石と書きたる例を思はばオホシとよむべし。但神武天皇紀なる大御歌にカムカゼノイセノウミノ於費異之《オホイシ》ニヤとのたまへる例あり○此子稱2於父心1。故曰2宇怒1の稱を敷田氏はウナヅキタマヘリとよみたれど父ノ心ニウナヅキタマヘリと云はれむや。又栗田氏はカナヘリとよみたれど敷田氏の云へる如くカナフとよみてはウヌといふ名の起とはならず。思ふに心にかなふ事をいにしへウナフとぞいひけむ。さてそのウナフは項《ウナ》が動詞となれるならむ。領承・領會などいふ領も項の事なる事、ウナヅクはやがて項《ウナ》ヲ突クなる事などを思ふべし
鹽沼村 此村出2海水1。故△《曰》2鹽沼村1
(347)栗田氏標注 號(ノ)字例ノゴト補フ○春枝云ハク。今佐用郡ニ鹽野間村アリト。御圖帳ヲ按ズルニ宍粟郡鹽野村アリ
斬考 鹽沼村の地は今知られず。鹽沼を栗田氏がシホヌとよめるはヌマを新としヌを古しとせるなるべけれど萬葉集卷十四にもカミツケヌイナラノ奴麻ノオホヰグサ・カツミツケヌイカホノ奴麻ノウヱコナギ・奴麻フタツカヨ|ハ《フ》トリ|ノ《ナ》スなどあればヌマも新しからず○海水といへるはやがて鹹水なり。上文揖保郡林田里鹽阜の條(三二一頁)と參照すべし○故の下に曰又は號を補ふべし。栗田氏は號を補へり。敷田氏の本には初より曰(ノ)字あり○春枝が今佐用郡有2鹽野間川1といへるは例のあとなし言なり。敷田氏の擧げられたる宍粟郡鹽野村は今の安師《アナシ》村の大字にて此處に用なし
以上里六。和名抄の郷名と一致せるは讃容《サヨ》・速湍《ハヤセ》・栢原《カシハバラ》・中川《ナカツガハ》。雲濃《ウヌ》にて此に見えて彼に無きは邑寶《オホ》、彼にありて此に見えざるは江川・廣岡・大田なり。但江川は讃容里の下に見えたる吉川《エカハ》なり。又大田はやがて邑寶ならむ。記述の順序は中央なる讃容(おそらくは郡家《グンケ》所在地)に始まり、次に其西方なる速湍に及び、次に其南方及東南方なる邑(348)寶に及び、次に其東北方なる柏原に及び、次に其東方なる中川に及び、次に其西南方なる雲濃に及びて筆を止めたり
穴禾《シサハ》郡
所3以名2穴禾1者伊和(ノ)大神國|作堅了以後《ツクリカタメヲヘシノチ》界《サカヒニ》2此〔左△〕川谷尾1巡行之時大(ナル)鹿出2己(ガ)舌1遇2於矢田村1。爾《ココニ》勅云。矢|彼《ソノ》舌(ニ)在(トノタマヒキ)者。故故〔□で囲む〕號2穴禾2鹿〔□で囲む〕村名號2矢田村1
敷田氏標注 完禾、和名抄に宍粟に作り志佐波と注せり。鹿遇《シシアハ》の意也。垂仁紀に天日槍乘v艇泊2于播磨國1在2宍粟邑1○鹿(ノ)字は衍れり○名號の名は亦の誤
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。播磨國宍粟郡(志佐波)ト。按ズルニ宍禾ハ蓋鹿逢ヲ修セルナリ。播磨事始ニ云ハク。宍禾ハ肉多《シシサハ》ナリ。本郡ハ山深クシテ猪鹿多ク栖メリ。因リテ名ヅクロ・亦通ズ○禾ノ下ノ鹿字恐ラクハ衍
新考 シサハは今は音便にてシサウと唱ふ○敷田氏の本に完禾と書けり。原本を見るに寧宍と認むべし。因にいふ、古典に往々宍を完と書けるは宍を※[うがんむり/六]と書き終に(349)完に誤れるなり。本書の原本にも※[うがんむり/六]と書ける處あり。宍は肉の古字なり○堺此川谷尾の五字よみがたし。此は山の誤か。又尾は丘《ヲ》の借字か。さて山川谷丘ヲサカヒニと訓むべきか
いにしへサカヒスルをサカフといひき(萬葉集新考一〇六五頁參照)。さればサカヒニはサカヒシニなり。或は堺の上に爲《タメ》をおとしたるか
○大鹿云々は大キナル鹿己ガ舌ヲ出シテとよむべし。二註にイダセルニとよめるは非なり。遇の主格は鹿なり。さて此句は揖保郡香山里の下に※[獣偏+果]噛2竹葉1而遇之また賀毛郡|修布《スフ》里の下に白横咋2己舌1遇2於此山1とあると相似たり○故以下を敷田氏は故號宍禾村亦〔右△〕號失田村の誤として故《カレ》宍禾村トイヒ亦矢田村トイフと訓み栗田氏は一の故と鹿とを衍として故宍禾トイヒ村ノ名ヲ矢田村トイフと訓めり。案ずるに下の故を郡名〔二字右△〕の誤として故郡名〔二字右△〕號2宍禾1、村名號2矢田村1とよむべきかとも思へどなほ栗田氏の説に從ふべし○鹿遇《シシアフ》が轉じてシサハとなれりとせるにや。矢田村の地は今知られず
○比治里(土中上) 所3以名2比治1者難波(ノ)長柄豐前《ナガラノトヨサキノ》天皇之世分2揖保《イヒボ》郡1作2(350)宍禾郡1之時山部(ノ)比治|任《ヨサレテ》爲2里長1。依2此人(ノ)名1故曰2比治里1
敷田氏標注 比治、和名抄に比地に作。今比地郷と云○里長、ムラギミと訓べき例なれど姑(ク)文字の儘に(○サトヲサと)よみつ。戸令に凡戸(ハ)以2五十戸1爲v里毎v里置2長一人1
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。宍粟郡比地ト。國圖ヲ按ズルニ宍粟郡ニ上下ノ比地村・川戸村・宇原村・平三《ヒラミ》村アリ、皆相隣接セリ。但平三村ハ揖東郡ニ隷セリ○戸令ニ曰……
新考 今|城下《ジヤウシタ》村の大字に上下の比地あり。又戸原村の大字に川戸・宇原・下宇原あり。されば比治里は略今の城下・戸原の二村に當れり。二村は郡の南端の中央にありて揖保川を挾めり○難波(ノ)長柄(ノ)豐前(ノ)天皇は孝徳天皇の御事なり○任爲2里長1の例は揖保郡|少宅《ヲヤケ》里の下(二九一頁)に後若狹之孫智麻呂任爲2里長1とあり。ここの任はヨス(四段活)の所動格なればヨサレテとよむべし。栗田氏がヨサシテとよめるはわろし(敷田氏は任爲をつらねてナルとよめり)○依2此人(ノ)名1故曰2比治里1は依リテノ故ニとつづけて訓むべきか。晋書熊遠傳に
自2喪亂1以來農桑不v修、遊食者多。皆由〔右△〕2去v本逐1v末故〔右△〕
(351)また※[麻垂/臾]翼傳に亦似d由v有2佳兒弟1故小令c物情難uv之とあり。二註には名の下を句とせり○追ひて栗田氏標注の寫本を檢するに任にヨザサレテと傍訓せり。ザを濁れるは非なれどヨスの敬語ヨサス、その所動格ヨササルなればヨササレテとよまむは可なり。版本にヨサシテとあるは※[手偏+交]合の誤にこそ。此處の外にも版本には寫本に據りて訂すべき處あり
字波良村 葦原志許乎《アシハラシコヲ》命占v國之時勅3此地|小狹《サクテ》如2室戸1。故曰2表戸《ウハト》1。△△△《今人云》2△△△《字波良》1
敷田氏標注 表戸の戸は良の誤にてウバラとよむべきか。猶考べし
栗田氏標注 按ズルニ國圖・御圍帳竝ニ狹戸村アリ
新考 戸原村の大字に宇原及下宇原ある事上に云へる如し。下宇原の地は揖保川の南岸の山相逼りてげに門戸の如き地形なり○表戸はウハトとよむべし。下文比良美村の下に今人云2比良美村1といひ庭音村の下に今人云2庭音村1といへる例に依らばここも故曰2表戸1の次に今人云2宇波良1の六言あるべきなり。小狹如2室戸1は表戸(352)の縁起にして宇波原の由來にあらねばなり○栗田氏の擧げたる狹戸《セバト》は安師《アナシ》村の大字にて問題の地とは流域を異にせり。宇原は揖保川に沿ひ狹戸は安志川に臨めり
比良美村 大神之|褶《ヒラビ》落2於此村1。故曰2褶村1。今人云2比良美村1
敷田氏標注 褶は卷初にヒレとよみたれど爰はヒラビと訓べし。四時祭式に褶《ヒラビ》一條と有。是は平帶の略にて天武紀に褶《ヒラオビ》腰帶とあり。字書にはヒラミと注せり
栗田氏標注 褶ハ日本紀ニ比良於毘ト訓ミ衣服令集解ニ枚帶ニ作レリ。竝ニ平帶ノ義
新考 集を栗田氏がヒラミとよめるは非なり。宜しくヒラビとよむべし。もとはヒラビ村なりしを今は訛りでヒラミ村といふと云へるなり。もとよりヒラミ村ならば今人云比良美村とはことわるべからず。神武天皇紀に
時人仍號2鵄《トビ》邑1。今云2鳥見《トミ》1是訛也
とあるを思ふべし。さて村名のみならず村名の原なる褶も初ヒラビと云ひしを後にヒラミといふこととなりしなり。又ヒラビを從來|表裳《ウハモ》の事としたれど神祇式、鎭(353)魂祭官人以下装束料の下に表裙《ウハモ》一腰とありて別に褶《ヒラミ》一條(緋帛四丈)とあればヒラビは表裳にはあらざるべく又裳には表裙《ウハモ》にも下裙にも一腰といひたるに褶《ヒラミ》には一條といひ又ヒラビは平帶《ヒラオビ》の約なるヒロビの轉なるべければヒラビは裳にはあらで帶の一種ならむ。然らば和名抄に
袴(ハ)脛上衣名也。釋名云褶(音邑宇波美)襲也。覆2袴上1之言也
とあるは(宇波美は一本に宇波毛とあり)如何と云ふにこは漢籍に見えたる袴褶にて或は我邦のウハモに充つべければ充てたるなり。
漢籍の袴の製はよく知らねど呉書呉範傳還v呉遷2都督1の註に
範曰。今將軍(○孫策)事業日大、士衆日盛。範在v遠聞、綱紀猶有2不v整者1。範願※[斬/足]領2都督1佐2將軍1部2分之1。……策笑無2以答1。範出更釋v※[衣+構の旁](○葛巾※[衣+構の旁]とも※[衣+構の旁]※[衣+責]とも巾※[衣+構の旁]とも聯ねたり。武官の著用せざるものと思はる)著2袴褶1執v鞭詣2閣下1啓v事曰2稱領都督1
とあり又晋書楊濟傳に
嘗從2武帝1梭2獵北芒下1。與2侍中王濟1倶著2布袴褶1騎v馬執2角弓1在2輦前1
とあり。されば袴褶はズボン樣の馬ノリバカマなり。又同書郭璞傳に
(354) 初璞中興初、行經2越城間1遇2一人1呼2其姓名1、因以2袴褶1遺v之。其人辭不v受。璞曰。但取。後自當v知。其人遂受而去。至v是果此人行v刑
とあり。行刑は璞を斬りしなり。袴褶は股をひろぐるに便なれば行刑者は之を著用せしにこそ
又然らば褶はウハモには充つべぐヒラゼには充つべからざるかと云ふに元來褶の義は重にてカサネ著ル衣といふことなれば我邦にては裏裳《シタモ》の上に重ぬべきウハモにも、恐らくは衣の紐の上に卷附けたりけむヒラビにも、彼頸より肩に挂けしヒレにも此字を充てけむかし。ヒレに此字を充てたる例は本書にもあり。即賀古郡の下に比禮墓を褶墓と書けり。さて褶の字をウハモともヒラゼとも訓ませたればウハモはやがてヒラビなりと云ふはなほヒレとも訓ませたればウハモはやがてヒレなりと云はむが如くならむ(岡本保孝著難波江卷一上參照)。因にいふ。和名抄に褶音邑とあれど今の字書に據ればシフ・テフ・セフの音ありてイフの音無し○今揖保都香島村大字|香《カグ》山の字に平見あり。宇原よりは西北に、川戸よりは西南に當りて戸原村とは揖保川を隔てたり。思ふにもとは川の東にありしが川の流のかはりし(355)爲に川の西になれるならむ
川音《カハト》村 天日槍命宿2於此村1勅《ノル》2川音甚高1。故曰2川音村1
敷田氏標注 川音村、今比治郷に川戸村あり
新考 川といへるは揖保川なり。今此川の左岸に川戸といふ大字ある是なり
庭音《ニハト》村(本名庭酒) 大神(ノ)御粮《ミカレヒ》枯而生v※[米+面]〔左△〕。即令v釀v酒以獻2庭酒1而宴之。故曰2庭酒村1。今人云2庭音村1
敷田氏標注 庭音村、式に庭田神社あり。此地か○御粮、神武紀に嚴瓮之粮《イツヘノヲシモノ》とあるに依たり。カレヒと訓てはわろし○庭音は庭宴《ニハウタゲ》の轉略なり
栗田氏標注 按ズルニ粮糧ハ古今通ズ。※[米+面]ハ俗ノ麪(ノ)字ナリ。※[米+面]ハ疑ハクハ※[麥+曲]ノ訛○庭酒ハ蓋新甞ノ酒ナラム。新甞訓ミテ爾波乃阿比ト云フ、證スベシ
新考 ※[米+面]は※[米+曲]の誤にて※[米+曲]は※[麥+曲]の異體ならむ。※[麥+曲]は麹と同字なり。されば二註の如くカビとよむべし○庭酒を栗田氏は新甞の酒としたれど黴のはえたる糒を以て作(356)りたる酒をニヒナヘノ酒といふべけむや。庭酒は恐らくは俄酒《ニハザケ》の借字にて俄酒は一夜酒の類ならむ。粮はなほカレヒとよむべし敷田氏が「カレヒと訓てはわろし」と云へるはカレヒに黴は生ふべからずと思へるなるべけれど生干ならば黴も生ふべし。同じ人がニハトをニハウタゲの訛とせるは妄なり。本書にニハザケの訛と云へるにあらずや○宍粟郡誌に
式内村社庭田神社 染河内村|能倉《ヨクラ》にあり。……古傳に大名持大神天下を作り訖へ給へる時其の大擧に與れる諸神を招集へて酒を釀し山河の清庭の地を擇びて慰勞のため饗應し給へりし靈蹟なるにより社殿を造營し奉りて其の御魂を鎭め祭れりといふ
とありてここに云へると事稍相似たれば庭田は庭音の訛とすべし。更に案ずるに染河内村と戸原村との間には神戸《カンベ》・神野《カンノ》・河東の三村(本書の名稱にていはば伊和・安師《アナシ》の二里)あれば庭田を庭音の訛とし從ひて庭音を今の染河内村|能倉《ヨクラ》とせむに地理かなはず。なほ次に云ふべし
(357)奪谷 葦原志許乎命與2天日槍命1二|△《神》相2奪此谷1。故曰2奪谷1。以2其相奪之|由《ユヱ》1形如2曲(レル)葛《カヅラ》1
栗田氏標注 神(ノ)字例ノゴト補フ
新考 下文|神前《カムザキ》都|多駝《タダ》里の下に伊和大神與2天日桙命1二神〔右△〕各發v軍相戰とあるに依りて二の下に神の字を補ふべし○奪谷は染河内《ソメガフチ》川の谷ならむ。此谷は北方に彎出し・て形、曲レル葛ノ如シと云へるにいとよくかなへり。前述の能倉《ヨクラ》は適に此谷にあり○さて庭音村が染河内村大字|能倉《ヨクラ》と認むべく奪谷が染河内川の谷と認むべきを思へば以上二節は御方里の下に在るべきが誤りて此處に入れるならむ
稱〔左△〕舂《イネツキノ》岑 大神|令v舂《イネツカシメキ》2於此岑1。故曰2稱〔□で囲む〕稻舂前〔左△〕1(生2味《ウマ》クリ1)。其※[米+〓]〔左△〕飛到之處即號2※[米+庚]〔左△〕前《ヌカザキ》1
敷田氏標注 稱舂の稱は稻の誤○味栗詳ならず
栗田氏標注 稱舂岑ノ稻(ノ)字モト稱ニ作レルハ誤ナリ。今一本ニ從フ。舂稻ハモト稻(358)字ヲ脱セリ。今一本ニ從フ○按ズルニ曰稱ハ恐ラクハ稱曰ニ作ルベシ○春枝云ハク。佐用宍粟二郡ノ界ニ米舂山アリ。山下ニ上谷山アリト
新考 稱舂岑の稱は稻の誤なり○今舂の下に栗田氏が稻の字を補ひたるはわろし。もとのままにてイネツカシメキとよむべし。春をイネツクとよむべきはなほ植をキウウとよみ射をユミイルとよみ蒔をタネマクとよみ喰をカレヒクフとよむべきが如し(二九七頁參照)。敷田氏がウスヅカシメタマフとよめるもわろし○故曰稱〔右△〕稻舂前の稱は衍字なり。原本に右傍に二點を批《ウ》ちて消したり。前は岑の誤か。味栗はウマグリとよみて美味ナル栗の義とすべし。萬葉集にウマザケを味酒と書けるを思ふべし(敷田氏はアヂクリとよみ栗田氏は訓をふらず)○※[米+庚]〓は共に糠を誤れるならむ(二注には糠とせり)。糠は※[禾+更]の俗字にて※[禾+更]は又※[禾+杭の旁]に同じ。されば※[禾+更]※[禾+杭の旁]糠ともにウルシネなるを我邦の古典には※[禾+杭の旁]を※[米+杭の旁](糠の俗字)と混同し從ひて粳をヌカにも用ひたり。新撰字鏡にも※[禾+杭の旁]俗作v粳、志良介《シラゲ》米又|奴加《ヌカ》とあり○前二節が錯簡とおぼゆればそれに次ぎたる此一節も錯簡にやとも思へど稻舂岑・粳前の地知られねば推測を進めがたし。春枝の説は例の夢がたりなり
(359)○高家《タカヤ》里(土下中) 所3以名曰2高家1者天日槍命|告《ノリテ》云。此村高(サ)勝2於他村1。故曰2高家1
敷由氏標注 高屋、和名抄に高家に作
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。宍粟郡高家ト。按ズルニ名跡志ニ菅野庄高家〔右△〕村(?)又高家郷山崎トアリ。又按ズルニ御圖帳ニ都多下野村・都田上野村・高家村アリ
新考 高家里は伊澤川の流域にて今の蔦澤村より山崎町に亙れる地なり。近古まで此地方を高家郷と云ひき。地名辭書が高家に擬したる高下《カウゲ》は菅野村の大字にて菅野川の流域なれば當らず○敷田氏の本には高家里の家を屋に誤れり。原本には屋と書きたるを消して家と書けり
都太《ツタ》川 衆人|不能得稱《エイハズ》
敷田氏標注 衆人以下落字有べし
新考 都太《ツタ》川は今の蔦澤村を貫ける伊澤川なり(播州名所巡覽圖繪には伊曾川と書けり)。敷田氏が「古歌に津太の細江とよめるは此地か」といへるはいみじき誤なり。(360)ツタノホソ江は飾磨郡飾磨町の内なり○衆人不能得稱は其名の起を知る人無しと云へるなり。不能得稱はエイハズとよむべし(能得をつらねてエとよむなり)。敷田氏がナヅケエイハズとよめなるは意義を解せざりしなり。さればこそ「落字あるべし」と云へるなれ、
鹽村 處々出2鹹水1。故曰2鹽村1。牛馬等嗜而飲v之
敷田氏標注 嗜はタシムとよまむは、常なれど齊明紀に積2綵帛兵鐵等於海畔1而令2貪嗜《ホシメツナマ》1と有。ナとダは通へればツダミと訓たり○飲之の下に故曰2都太川1の五字落たり……
新考 鹽村は今の山崎町の大字庄能村ならむ○揖保郡林田里鹽阜及讃容郡|雪濃《ウヌ》里鹽沼村の下に似たる記事あり。參照すべし○敷田氏は衆人不能得稱の意義を解せず從ひて此句にて都太川の事の終りたるを知らねば嗜を強ひてツダミテとよみて都多川の名の起とせむとし又飲之の下に故曰都太川の五字を補はむとせるなり。嗜は安んじてコノミテ又はタシミテどよむべし
○柏野《カシハヌ》里(土中上) 所3以以名2柏△《野》1者△《柏》生2此野1。故曰2柏野1
(361)敷田氏標注 柏野和名抄に狛野に誤れり。今二十一村を柏野庄といふ
栗田氏標注 御圖帳ヲ按ズルニ赤穗郡柏野村アリ○名 柏ノ下ノ 野(ノ)字、者ノ下ノ柏(ノ)字ハ原本竝ニ脱セリ。今一本ニ從フ
新考 者の上に野を、生の上に柏を補ふべし○此里は今の菅野・土萬《ヒヂマ》・三河・千種《チクサ》四村に當れり。即菅野川・鷹巣《タカノス》川(一名|土萬《ヒヂマ》川)・千種《チクサ》川の流域をこめたり○讃容郡柏原里の下に由2柏多生1號爲2柏原1とあると相似たり。柏は※[木+解]の借字なり○今山崎町の西端、菅野村に接したる處に加生《カシヤウ》といふ大字あり。是柏野の名が訛られて一地方に殘れるにあらざるか。此加生はもと柏尾と書きて柏野庄に屬したりき○和名抄の郷名に狛野とあるは柏野を誤れるにて近世菅野谷を狛野谷とも云ひけむは和名抄に誤られしにあらざるか。なほ下文石作里の下に云はむと參照すべし○栗田氏の擧げたる赤穗郡柏野村は今の赤松村の大字にてここに與らず
伊加奈〔二字左△〕 葦原志許乎命與2天日槍命1△《競》占v國之時有2嘶馬1遇2於此川1。故曰2伊奈加川1
(362)栗田氏標注 伊奈加ハモト伊加奈ニ作レリ。今下文ニ據リテ訂ス、新考 加奈は奈加の顛倒なり。占國の上に競の字などを脱せるならむ。讃容郡の下に大神妹※[女+夫]二柱各競〔右△〕占拠v國之時とあり○伊奈加川は今の菅野川ならむ
土間《ヒヂマ》村 神衣附2土《ヒヂノ》上1。故曰2土間1
敷田氏標注 土間、今山崎より一里許首にヒヂマと云所ありと云り
栗田氏標注 土間ハ倭名抄ニ曰。宍粟郡土方郷ト。高山寺本ニ土万(比知末)ニ作レリ。從フベシ
新考 神の上に大の字落ちたるか。上にも
比良芙村 大神之褶落2於此村1
庭音村 大神御粮枯而生v※[米+面]
稻舂岑 大神令v舂2於此岑1
とあり○今菅野村の西北に接して土萬《ヒヂマ》村あり。土萬川(即|志文《シフミ》川)の源なり
敷草村 敷v草爲2神(ノ)座《オマシ》1。故曰2敷草1。此村有v山。南方去十里許有2澤二町許1。此澤(363)生v菅。作v笠最好。生2※[木+(ク/也)]・枌〔二字左△〕生鐵住狼罷〔五字□で囲む〕栗・黄連・△《黒》葛等1△v△△2△△1《生鐵住狼羆》
敷田氏標注 枌、色葉字類抄・和玉篇等にニレと註し詩(ノ)陳風に東門之枌、婆2娑其下1、又和名抄に夜仁禮などあれど新撰字鏡に枌(ハ)は符分反、須木、式に武藏國都筑郡枌山神社とあるを續後紀十八に杉山名神に作れるを證とす〇鐵をマガネとよむ事國典字徴に注しつ○羆、知名抄に之久萬
栗田氏標注 生鐵已下五字モト栗(ノ)字ノ上ニ在リ。今一本及下文ニ從ヒテ訂ス○羆ハモト罷ニ作レリ。今之ヲ訂ス
新考 敷草村は今の千種村ならむ。即シキクサをシクサとつづめ更にチクサと訛れるならむ。シとチとは隣行にて相轉じやすし○敷草云々は伊和大神巡行の時草を敷きて大神の御座とせしならむ、ここも神の上に大の字をおとせるか。草を敷きて座とせし例は神功皇后紀四十九年に百濟王の盟辭に若敷v草爲v坐恐|見2火燒《ヒニヤカレム》1とあり。後漢書陳留老父傳にも
陳留(ノ)張升去v官歸2郷里1。道逢2友人1班《シキ》v草而言
とありて註に班(ハ)布也とあり。下文賀毛郡河内里の下にも爾《ココニ》從神等、人(ノ)苅置(ケル)草(ヲ)解(キ)(364)散(シテ爲v坐とあり○當時の一里は今の五町に當れり。はやく揖保郡林田里の下に云へり○※[木+(ク/也)]は梔の誤にてクチナシなり。枌は新撰字鏡享和本に符分反、楡也、須木とあり(天和本には也の字無し)。元來|枌《フン》はニレにてスギは杉《サン》なるを我邦にてはいにしへ杉に一點を添へて※[木+珍の旁の一画少ないの]と書きしかば(萬菓集元暦校本などに須を、〓と書けり。例とすべし)字鏡の書者は枌と杉とを混同して符分反、楡也、須木と書けるなり。さてここは枌としてニレとよむべきか、杉としてスギとよむべきか明ならねどニレは揖保郡林田里又神前郡|粟鹿川内《アハガカフチ》の下に楡と書きたればここは恐らくは杉ならむ○葛の上に黒を落したるならむ。下文にも此村之山生2梔・杉・黒葛等1などあり○生鐵住狼羆の五字は二註の如く葛等の下に引下すべし。本郡の北部には今も鐵坑多し。特に千草ハガネは邦産中の最上と稱せられき○羆を二註にシグマとよみたれど熊の通用としてただクマとよむべし。シグマは内地に住まず、又下文に羆と書ける處と熊と書ける處とあり、又大安寺伽藍縁起に熊凝寺・熊凝村を羆凝寺・羆凝村と書きたればなり○生梔杉以下は此村有v山の下にあるべきか
飯戸《イヒベノ》阜 占v國之神|炊《イヒカシギキ》2於此處1。故曰2飯戸阜1。々形亦似2檜・箕・竈等1
(365)栗田氏標注 國圖を按ズルニ飯見村アリ
新考 占國之神は大汝神、即伊和大神、即葦原志許乎命なり○炊はイヒカシギタマヒキとよむべし。炊をイヒカシグとよむは。舂をイネツクとよむが如し(三五八頁參照)○※[木+曾]は新撰字鏡にコシキと訓じ太神宮儀式帳延喜式・法隆寺資財帳などにも見えたり。甑の瓦旁を木扁に變じたる邦字にて桙・※[木+安]・※[土+尊]などの類なり。漢字の※[木+曾]は別義なり(箋註倭名抄參照)○飯戸阜は今千種村の大字に岩野邊ある是か。栗田氏の擧げたる飯見村は奥谷村の大字にて引原川の流域なれば地理かなはず
○安師《アナシ》里(本名|酒加《スカ》里。土中上) 大神|※[にすい+食]《カレヒスカシキ》2於此處1。故曰2須加1。後所以〔二字□で囲む〕號2山守里1。△2△《所以》然1者山部(ノ)三馬|任《ヨサレテ》爲2里長1。故曰2山守1。今改v名爲2安師1者|安〔左△〕《ヨリテ》2因〔左△〕師《アナシ》川1爲v名、其川者因2安師比賣《アナシヒメノ》神1爲v名。伊和大神|將2娶誂《ツマドハムトス》1之。爾《ソノ》時此神固辭不v聽。於v是大神大瞋以v石塞〔右△〕2川源1流2下於三形之方1。故此川少v水。此村之山生2梔・杉・黒葛《ツヅラ》等1住2狼|羆《クマ》1
敷田氏標注 安師、和名抄に安志に作れり○※[にすい+食]、源氏若紫に「さるべき物つくりてす(366)かせ奉る」云々、同|總角《アゲマキ》に「松の葉をすきてつとむる山伏だに」云々。按に食と云に當れる古言なり○安師比賣神、此件の事書に見えず。此地の國津神なり○黒葛、類聚名義抄にツヅラと注せり。肥前・出雲等の風土記を始、古書に往々見えて筑前風土記には烏葛と記せり。同物なり。儀式に正殿一宇構以2黒木1云々以2黒葛1結v之と有。是は東國にてフヂといひ西國にてシヅラとよび深山に生じ色黒く強き蔓草也。但疑(シ)きは齋宮式に曝黒葛七兩と有。曝と云事考べし。防己と云る草に數名ある中ツヅラと云名もあれど別種也
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰。宍粟郡安志ト。御圖帳ニ安師町・須加村アリ。春枝云ハク。安志町ノ西北ニ足川アリト。按ズル二名跡志に曰。安志庄東關村ト。國圖ニ安知ニ作レリ○所以ノ二字モト後(ノ)字ノ下ニ在リ。今一本ニ從フ○因安ハモト安因ニ作レリ。今一本ニ從フ○安志藩神社書上帳ニ云ハク。三森村安志姫大明神ハ湍津《タギツ》姫命・田心姫命・市杵島《イチキシマ》姫命ヲ祭レリト○按ズルニ國圖ニ安知川(○寫本には安知川村とあり。共に安知町の誤ならむ)ノ北ニ味方村アリ
新考 安師も和名抄の郷名なる安志も共に飾磨郡安師里と同じくアナシとよむ(367)べし。栗田氏がアシとよめるは非なり。今安師村に安志と書きてアンジと唱ふる大字あり。是古名の殘れるなり。村名の安師《アナシ》は町村制實施の時本書に據りて命ぜしなり、さて本書の安師里は今の富栖・安師二村即安志川(林田川の上流)の流域と河東村とに當れり。今安師村の西北に接せる河東村に須賀澤といふ大字あり。慶長國圖に須賀町とあり寛延國圖にもスカとあれば近世その東方なるカニガ澤と合併して須賀澤と名づけしならむ○※[にすい+食]を敷田氏はスカシタマフとよめり。宜しくカレヒスカシキとよむべし。カレヒを添へてよむべきは炊をイヒカシグどよみ※[にすい+食]を又カレヒヲスとよむべきに同じ。スカスは、スクの敬語(他作格)にてスクは嚥下する事なり。皇極天皇紀に子麻呂等以v水|送《スクニ》v飯恐而反吐とある送を古訓にスクとよめり。又宇津保物語|貴《アテノ》宮に木ノ實松ノ葉ヲスキテまた湯シテスキ人レテ、又今昔物語に湯ヲ以テ令漉《スカシム》レバとあり。さてここは粮ヲスカシシニヨリテ須加ト名ヅケキといへるなり○後所以〔二字右△〕號山守里然者の所以は栗田氏の云へる如く里の下、然の上に引下すべし。敷田氏の本には然(ノ)字を落せり○山部は即山守部なり。顯宗天皇紀に來目部《クメベノ》小楯《ヲダテ》の功を賞し給ひし處に
(368) 小楯謝曰。山官|宿《カネテ》所v願。乃拜2山官改2賜姓山部(ノ)連《ムラジノ》氏1……以2山守部1爲v民
とあり。ここの山部は其部民なり。上文比治里の下にも山部(ノ)比治任爲2里長1とあり○因安師川の因安を原本に顛倒せり○安師川は安志町の東を流るる安志《アンジ》川にて林田川(二三九頁參照)の上流なり。春枝が安志町ノ西北ニ足川アリといへるは栗田氏が誤りて安師をアシと訓みたるを迎へたる妄言なり○安師比賣神の社は今も安師村大字三森字平谷なる丘陵の南面にありて安志姫神社と稱せられて境域いみじく神さびたり。此社は播磨國内神社記に見えたる太神二十四社の中なるに今は口をしくも無格社となれり。祭神は敷田氏の云へる如く國神《クニツカミ》ならむ。栗田氏の引ける書上帳に宗像三女神とせるは恐らくは非ならむ。宗像(ノ)神は伊和大神の妃なるに安師比賣命は大神の誂《ツマドヒ》に從はざりし趣なればなり○將2娶誂1之は娶誂をつらね之(ノ)字を助字としてツマドハムトシタマフとよむべし。敷田氏がメトラムトオモホシテアトラヘタマフとよめるは誂にアトラフといふ訓あるをのみ知りてツマドフといふ訓あるを知らざるにていといとわろし(二七頁參照)○大瞋云々は安師比賣の作れる田に水を遣らじとしたまひしなり。水爭の事は揖保郡|出水《イヅミ》里の下にも見(369)えたり。今安師村の北に富栖村あり其北に染河内村あり其北に下三方村又其北に三方村あり。本書の安師里は北、今の富栖村に及び又御方里は南、染河内村に及びしなり。さて流2下於御形之方1とあるはいま染河内村を貫ける染河内川なり。又此川少v水とあるは即安志川なり。兩川の水源は相近し○原本に塞を寒に誤れり○黒葛の事ははやく揖保郡家島の下(二八〇頁)に云へり
○石作《イシツクリ》里(本名伊和、土下中) 所3以名2石作1者石作(ノ)首《オビト》等居2於△《此》村1。故庚午年爲2石作里1
敷田氏標注 石作、和名妙に石保に作れるは誤也。姓氏録に石作(ノ)連(ハ)火明命六世孫|建《タケ》眞利根命之後也
栗田氏標注 倭名抄ニ曰。宍粟郡石保ト。高山寺本ニ石作(以之都久利)ニ作レル、從フベシ。名跡志ニ曰石保郷棧村ト○此ノ字モト脱セリ。今一本ニ從フ○按ズルニ石作モト伊和里ニ屬セシヲ廣午年ニ至リテ立テテ一里トセシナリ
新考 和名抄の通本に石保とあるは石作を誤れるか。さて近古まで石保といふ庄(370)ありしは和名抄に誤られしか(上文柏野里參照)。
播磨鑑に石保庄棧村とあり。棧はカケハシとよむべし。今は梯と書きて神野村の大字なり
又同書に石保の外に伊和を擧げたるは本書に石作里本名伊和とあると相かなはず。栗田氏が按ズルニ石作モト伊和里ニ屬セシヲ庚午ノ年ニ至リヲ立テテ一里トセシナリと云へるは和名抄に誤られたるなり。本書に含藝《カムキ》里本名|瓶落《ミカオチ》・少川《ヲガハ》里本名|私里《キサキベ》・香《カグ》山里本名|鹿來墓《カグハカ》・林田里本名淡奈志・少宅《ヲヤケ》里本名|漢戸《アヤベ》里・吉《エ》川本名玉落川・安師《アナシ》里本名|酒加《スカ》里など云へるは越部里舊名|皇子代《ミコシロ》里・廣山里舊名|握《ツカ》村・大家《オホヤケ》里舊名大宮里・桑原里舊名倉見里といへると相同じきを思ふべし。或は本名舊名を表として大法《オホノリ》山今名|勝部《スクリベノ》岡とも云へり。もし石作里本名伊和とあるを伊和より石作の離れしなりと解せば吉川本名玉落川とあるをばいかにか解せむ○石作(ノ)連《ムラジ》は上文|印南《イナミ》郡大國里の下又飾磨郡|安相《アサグ》里の下に見えたり。首《オビト》も同族にや○庚午年ははやく上(八四頁)に見えたり。天智天皇の九年にて戸籍を造られし年なり○今|神戸《カンベ》村の大字に伊和あり。延喜式神名帳に見えたる伊和(ニ)坐《イマス》大名持|御魂《ミタマノ》神社即今の國幣中社伊和神(371)社は同村大字|須行名《スギヤウナ》字宮の元なる平地の森林中に鎭坐し社殿は北面せり。須行名は大字伊和の北方にあり。播磨鑑には杉行名と書けり。須行名・伊和共に揖保川の東にあり。本書に大名持神を伊和大神といへるは伊和里にいますが故にて揖保川流域は此神の、當國にての根據地なりしなり○河東村大字須賀澤字宮の下に村社石作神社あり。こは石作(ノ)首《オビト》が其祖を祭れるならむ。地名辭書に據れば此附近に石保谷といふがありとぞ。これにても石保がやがて石作なるを知るべし。或は近古に至りてさかしら人が和名抄に據りて文字は石保に改めしかどなほ少くとも初にはイシツクリノ庄・イシツクリ谷と唱へしにあらざるか○伊和神社は明治の初まで一(ノ)宮神部大明神又伊和大明神と稱せられき。伊和里と飾磨郡伊和里との關係は彼處(一〇二頁)に云へり
阿和賀山 伊和大神之妹阿和加比賣命在2於此山1。故曰2阿和加山1
新考 阿和賀・阿和加の和は波を寫し誤れるにて但馬國朝來郡なる式内粟鹿神社と同神ならざるか。飾磨郡賀和良久(ノ)三宅の和も波をうつし誤れるにあらざるかの疑ある事其處(一七七頁)に云へり
(372)伊加麻川 大神占v國之時烏賊在2於此川1。故曰2烏賊間川1
敷田氏標注 烏賊、眞水にすめる事|書《モノ》に見ゆ
栗田氏標注 國圖ヲ按ズルニ宍粟郡ニ五十波村アリ。讀ミテ伊加八ト云フ。即烏賊間ナリ
新考 今神戸《カンベ》村の南に神野《カンノ》村あり。其南部に大字|五十波《イカバ》あり。其附近を流れて揖保川に入れる小流を梯《カケハシ》川又|五十波《イカバ》川といふ。伊加麻川といへるは是ならむ○烏賊は淡水に産せず。人又は鳥の烏賊を持來りて此川に置きたりしを古人のすなほなる心より此川に産したるやうに思ひしならむ
ウルカコノハナサクヤヒメ
○雲箇《》里(土下々) 大神之妻|許乃波奈佐久夜比賣《》命其形|美麗《ウルハシ》。故曰2字留加1
敷田氏標注 雲箇、和名抄に闕。今潤賀村と云由也。大神は伊和大神にて即大名持神也。其御妻にかかる御名の神坐しけむ事めづらし
栗田氏標注 國圖ヲ按ズルニ宍粟郡ニ閏加村アリ
(373)新考 今神戸村の河西部に大字|閏賀《ウルカ》あり。神戸村は揖保川に跨れり○神代記に見えたる木花開耶《コノハナサクヤ》姫とはもとより同名異神なり。このコノハナサクヤヒメは奥津島
比賣命の一名なり。下文|託賀《タカ》郡黒田里の下に云ふべし○ウルに雲を借れるはスルガを駿河と書くと同例なり
波加《ハカ》村 占v國之時天日槍命先到2△《此》處1伊和大神後到。於v是大神大怪之云。非v度2先到1之乎《サキニイタラムムトハカラザリシヲ》。故曰2波加村1。到2此處1者不v洗2手足1必雨(其山生2梔・杉・檀《マユミ》・黒〔右△〕葛・山薑《ワサビ》等1住2狼熊1)
敷田氏標注 波加村、今波加庄と稱し九村有○山薑、本草に杜若の一名とし又白朮の一名にも見え本草和名・醫心方等も是に從ひ又朮一名山薑、乎介良と注せれど和名抄に山葵(ハ)和佐比、漢語抄用2山薑二字1と有に從ふ。齋宮式に山薑《ワサビ》二升
栗田氏標注 此ノ字モト脱セリ。今一本ニ從フ
新考 處の上に此を補ふべし。敷田本に此字あるは私に補へるならむ○神戸村の西北に接して西谷村あり。其大字|上野《カミノ》に波賀城址あり。昔波賀七郎といふ武士ここ(374)に住みきといひ傳へたり。されば波加村は此附近ならむ。佐用軍記に芳賀(ノ)庄住人山崎與一郎芳方と見えたる芳賀庄もここにや。同書には又芳賀七郎左衛門尉など芳賀氏の人々の名見えたり。いづれも赤松氏の譜第にて天正五年に佐用郡上月なる太平山の城に籠りし人々なり○非度先到之乎を敷田氏はハカラズモ先ニ到リシカモとよみ、栗田氏は先ニ到ラムトハハカラザリキとよめり。先ニ到ラムトハカラザリシヲとよむべきか。之乎は漢文の助字にあらで印南郡大國里の下(六五頁)なる帶中日子命乎〔右△〕坐2於神《カミニマセテ》1而また下文なる云2於和等1乎我美蚊などの如く古語をさながら漢字にうつせるならむ○山薑はワサビなり。山葵に同じ。原本に黒を里に誤れり
○御方里(土下上) 所3以號2御形1者葦原志許乎命與2天日槍命1到2故〔左△〕黒土志尓嵩1各以2黒〔右△〕葛三條1着v足投之。爾《ソノ》時葦原志許乎命之黒△《葛》一條落2但馬|氣多《ケタ》郡1一條落2夜夫《ヤブ》郡1一條△《落》2此村1。故2三條《ミカタ》1。天日槍命乏黒葛皆落2於但馬國1。故占2但馬|伊都志《イヅシノ》地1而|在〔左△〕之《ヲリキ》。一云。大神爲2形見1植〔右△〕2御杖於此村1。故目2御形1
敷田氏標注 御方、和名抄に三方に作。上の安師里(ノ)條に三形と書けり同地也。式に御(375)形神社○故墨志尓の四字よみえず。試按に故は衍字、墨志尓は黒葛を誤たるにはあらじか○夜夫郡、和名抄に養父に作。但式に夜夫|坐《イマス》神社と記せり。伊都志は郡名にて出石に改たり○故占の占えお古事記傳卅四に卜(ノ)字に改て引けり。釋紀には在の字に作れり
栗田氏標注 倭名抄ニ曰。宍粟郡三方ト。按ズルニ御圖帳及國圖ニ味方村アリ。式ニ御形神社ト。國圖ヲ按ズルニ郡ノ西北山嶺重疊シ黒土村アリ。志ヲ按ズルニ公文村ニ御方谷アリ○鈴木重胤云ハク。到故ハ恐ラクハ倒○故黒土ハモト故墨ニ作リテ讀ミガタシ。故(ノ)字ハ恐ラクハ衍ナラム。墨ハ宜シク分チテ黒土ノ二字トスベシ。今訂ス○黒モト里ニ作レリ。今一本ニ從フ○葛(ノ)字モト脱セリ。今一本ニ從フ。按ズルニ但馬國ニ養父郡・出石郡・氣多郡アリ○落(ノ)字モト脱セリ。今一本ニ從フ。國圖ヲ按ズルニ味方ノ東北ニ落山アリ○植モト槇ニ作レリ。今一本ニ從フ
新考 今神戸村の東北に、下三方村あり。又その北に三方村あり。但本書の御方里は南、今の染河内《ソメガフチ》村に及びし事安師里の下(三六九頁)に云へる如し○到故黒土志尓嵩の故を二註に衍字としたれど故は於の誤ならむ。到に於を添へたる例は揖保郡上(376)岡里の下に到2於此處1乃聞2闘止1云々また同郡揖保里の下に到2於宇頭皮底1而云々また到2於粒丘1而※[にすい+食]之とあり○黒土は原本に黒土とあり。敷田氏の本に墨とし栗田氏が原作墨と云へるは共に誤寫本に據れるなり○黒土志尓嵩は黒土ノ志尓嵩とよみて黒土を地名とし志尓嵩を山名とすべきか。さて本文に一條落2此村1とあれば黒土は寧御方里に求めずして他里に求むべし。地圖を檢するに三方村の西に西谷村あり西谷村の西に千種村ありて千種村の大字に黒土あり。是此黒土ならむかとも思へど千種村黒土の附近には高山無し。更に案ずるに二神の黒葛すべて六條なるうち五條まで但馬國に落ちしを思へば問題の山は播但國界の山脈のうちなるべく、さらば三方村の北方に聳えたる藤無山を以て之に擬すべきか。又ここに蔦澤・神野・神戸三村の間に聳えたる黒尾山といふがありて藤無山にこそ及ばね郡中第一の高山にて天氣晴朗なる日には其山上より北海さへ見ゆと云へば或は是にや○但馬國夜夫郡即今の養父《ヤブ》郡は本郡の東北に接したり。又氣多郡は其北にありしが今は城崎郡に合せられたり○故曰2三條1とあるを見ればいにしへ三スヂを三カタとも云ひしにや○三方村の東に繁盛《ハンセイ》村あり。此村も三方里の内なりけむ事、地形上(377)より察せらるる事なるが其村の大字に百千家滿《オチヤマ》あり。古きものには落山と書けり。もしくは本文の故事によしある地名か。はやく栗田氏も按2國圖1味方東北有2落山1と云はれたり○原本に各以2黒葛三條1の黒を里に誤り植2御杖1の植を槇に誤れり。又黒葛一條の葛と一條落2此村1の落とを脱せり。在之は居之の誤か。敷田氏の本には直に居之に改めたり○一云は御形見を略して御形とせりと云へるなり○垂仁天皇紀に
三年春三月新羅(ノ)王子天(ノ)日槍來歸焉……一云初天(ノ)日槍乘v艇泊2于播磨國1在2於|完粟《シサハノ》邑1。時天皇遣d三輪(ノ)君(ノ)祖大友主與2倭(ノ)直《アタヒノ》祖|長尾市《ナガヲチ》於播磨u而問2天日槍1曰。汝|也《ヤ》誰人。且《マタ》何國人|也《ゾ》。天日槍對曰……仍詔2天日槍1曰。播磨國|出淺《イヅサノ》邑・波路島(ノ)宍粟邑是二邑汝|任意居之《ママニヲレ》。時天日槍啓之曰。臣將v住處若垂2天恩1聽2臣(ガ)情(ニ)願(フ)地1者臣親歴2視諸國1則|合《アヘルヲ》2于臣心1欲v被v給《タバラム》。乃聽v之。於v是天日槍自2菟道《ウヂ》河1泝(リ)北入2近江國|吾名《アナノ》邑1暫住、復更自2近江1經2若狹國1西到2但馬國1則定2住處1也……(○播磨國出淺邑・淡路島宍粟邑は誤れり。宍粟は播磨なり。出淺は淡路にや)
とあり。時代も事蹟も本書に云へると相合はず(黒川眞頼博士著天日槍歸化時代考(378)參照)
大内川・小内川・金内川 大者稱2大内1小者稱2小内1生v鐵者稱2金内1。其山生2梔・林〔左△〕《スギ》・黒葛《ツヅラ》等1住2狼熊1
栗田氏標注 按ズルニ御圖帳ニ金宿村・金谷村アリ○林ハ恐ラクハ枌ノ訛
新考 繁盛村より發する横住川と、三方川の本流(黒原・倉床二川の合流)と、三方村より發する公文《クモン》川とを云へるか。繁盛村の北部には鑛山多し○栗田氏の擧げたる金宿村・金谷村は知らず。林は杉の誤なり
伊〔左△〕和《オワ》村(本名|神酒《ミキ》) 大神釀2酒此村1。故曰2神酒村1。又云。於和村(ハ)大神國作|託以後《ヲヘテノチ》云2於和等《オワト》1於〔左△〕我美岐《カガミキ》。△△2△△《故曰於和》1
敷田氏標注 伊和村、和名抄に郷名に出せり。大神は……○於和は勞(シ)給ふ状を云。出雲風土記に御杖衝立而|意惠登《オヱト》詔。故云2意宇《オウ》1とあるに同じ○於我美は下屈《オリカガミ》の略にて拜みと異也
(379)栗田氏標注 倭名抄ニ曰。宍粟郡伊和ト。延喜神名式ニ曰。宍粟郡伊和(ニ)坐《イマス》大名持御魂神社(名神大)ト。新抄格勅符神封部ニ曰。播磨伊和神十三戸ト。播磨全圖ニ云々ハク。伊和大明神ハ宍粟郡伊和村ニアリト○故曰於和ノ四字例ノゴと補フ
新考 二註にここの伊和村を和名抄の伊和郷としたれど伊和郷は上文に石作里(本名伊和)とありて本書の石作里なればここに(御方里の下に)更に伊都の事を云ふべきにあらず。其上に本文に
於和村ハ大神國作リ訖ヘテノ後ニ於和ト云ヒテ於我美岐
とあれば伊和村とあるは於和村の誤なる事明なり。さてその於和村は(此一節の錯簡ならざる限)御方里即今の繁盛・三方・下三方・染河内四村の中に求むべし。揖保川の川尻より泝り水源を窮めて占國の功を畢へたる趣なれば御方里とすれば地理もかなへり。揖保川には二源ありて一は奥谷村(雲箇《ウルカ》里)より發し一は繁盛・三方二村(御方里)より發せり。但於和の地は今知られず。或は神名帳に見えて今は縣社に列せられたる三方村太字森添の御形神社の所在地か。御形神社の祭神は葦原志許乎命、即ここにいへる大神なり○神酒は敷田氏に從ひてミキとよむべきか、又は栗田氏の(380)ミワとよめるに從ふべきか、まづ崇神天皇紀八年に
活日《イクヒ》自擧2神酒1獻2天皇1仍歌之曰。この瀰枳《ミキ》はわが瀰枳ならずやまとなすおほものぬしのかみし瀰枳いくひさいくひさとありて神酒の古訓にミキ又ミワとあり。又日本紀私記に神酒、和語云2美和1とあり。又舒明天皇紀四年の即日給2神酒1をも古訓にミワとよめり。此等によりて先哲多くは神酒をミワとよみたれど彼崇神天皇紀なるは歌にコノ美枳ハ云々とあればミキとよむべき事勿論なり。又萬葉集卷二(新考二八五頁)なる
なき澤のもりに三輪すゑいのれどもわがおほきみは高日しらしぬ
とある三輪を契沖は酒の事としたれど眞淵の如く酒甕の事とせではスヱといへるにかなはず。かかればミワは酒の古語にあらず。私記に神酒和語云2美和1とあるは誤とすべし。今傳はれる私記が深く信すべからざる書なる事ははやく先哲もいへり。和名抄に神酒(美和)とあり日本紀の一訓にミワとあるは私記に據れるなれば私記と共に斥くべし。但仙覺の萬葉集鈔に見えたる
神河訓2三輪川1。源出2北山之中1屆《イタリテ》2于伊豫國1水清。故爲2大神1釀vい酒也用2此河水1。故爲2河名1(381)也
といへる土佐國風土記の文は酒ヲ釀ミシガ故ニ三輪川ト名ヅクと云へるに似てミワを酒の古名とすべき證となるが如くなれど實は三輪ノ大神ノ爲ニ酒ヲ釀ミシガ故ニ三輪川ト名ヅクといふ意ならむ
栗田氏は此文を古風土記逸文には採りて共考證には採らず
○云於和等はオワトイヒテとよむべし。漢文の法に據らば等は加ふまじきを古語のままに傳へむとしてかくは書けるにて賀古群總説の下に
御佩刀《ミハカシ》之八握劔之上緒爾〔右△〕八咫(ノ)勾玉(ヲ)下緒爾〔右△〕麻布都《マフツ》鏡(ヲ)繋《カケ》
と書き、印南郡大國里の下に帶中日子命乎〔右△〕|坐於神而《カミニマセテ》と書き本郡波加村の下に非v度2先到1之乎〔二字右△〕と書けると同じ類なり。於和は前註に云へる如く出雲風土記に
今者國引訖(ト)詔而意宇(ノ)社爾御杖(ヲ)衝立而|意惠登詔《オヱトノリタマヒキ》。故云2意宇《オウ》1
といへる意惠《オヱ》と同語にて今俗にヤレヤレといふに同じからむ○於我美岐を敷田氏はオリカガミキ吼略としたれど古典に此處の外にオガムといへる例無し。さる例あらばこそオリカガムの略ともいふぺけれ。又栗田氏はヲガミキと傍訓して然(382)も於(ノ)字のヲに當らざる事を論ぜず(寫本にはオガミキと傍訓せり)。案ずるに於を乎の誤寫として乎我美岐とすべきに似たれどそのヲガミキは、如何にか解せむ。もし祖神ニ感謝シタといふ意とせば何々ヲと云はずば辭足らじ。おそらくは於は加の誤寫にて加我美岐にて俗語のヘタバツタに當るべし○其下に栗田氏に從ひて故曰2於和1の四字を補ふべし
以上里七。今の町村名を之に充てなば比治はほぼ城下・戸原に、高家《タカヤ》は高澤・山崎町に、柏野《カシハヌ》は菅野・土萬《ヒヂマ》・三河・千草《チクサ》に、安師《アナシ》は河東・安師・富栖に、石作は神戸の東部及神野に、雲箇《ウルカ》は神戸の西部・西谷・奥谷に、御方《ミカタ》は染河《ソメカフチ》・下三方・三方・繁盛《ハンセイ》に當るべし。又七里を河川の流域に充てなば比治・石作は揖保川の本流に三方は染河内川及三方川に、雲箇は引原川に、高家は伊澤川に、柏野は菅野川と土萬川及千種川とに、安師は安志川の流域に當るべし。唯一の例外は安師里に屬する河東村なり。此村は流域上より見なば比治里又は石作里に屬すべきなり。さて記述の順序は本郡南端の中央なる比治に始まり、次に其西北なる高家に及び、次に其西方なる柏野に及び、次に轉じて比治の東北なる安師に及び、次に其西北なる石作に及び、次に其西北なる雲箇に及び、次(383)に其東方なる御方に及びて終れり
神前郡
右所3以號2神前《カムザキ》1者伊和(ノ)大神之子|建石敷《タケイハシキ》命、山使〔左△〕《ヤマサキ》村在2於神前山1。乃因2神(ノ)在《イマス》1爲v名。故曰2神前郡1
敷田氏標注 神前、和名抄に神崎に作、加無佐岐と注せり
栗田氏標注 倭名抄ニ曰ク播磨國神崎(加無佐岐)ト。按ズルニ今分チテ神東神西二郡トセリ○在於ハモト子字ノ下ニアリ。今一本ニ從フ
新考 延喜民部式には神崎と書き和名抄には神埼と書けり。今は神崎と書きてカンザキと唱ふるなり。夙く神東(ジンドウ)神西(ジンザイ)二郡に分れきと見えて貞和四年の作なりといふ峰相記(微考本下卷七丁)に
郡者元(ハ)十二郡、今(ハ)十七郡(ト)申。元(ハ)明石・加古・印南・餝磨・揖保・神崎・赤穂・佐用・宍粟・多可・加茂・美嚢是也。今ハ餝磨(ヲ)分(テ)飾東飾西トス。揖保(ヲ)分(テ)揖東揖西トス。神崎(ヲ)分(テ)神東神西トス。加(384)茂(ヲ)分(テ)賀東賀西トスト云ヘリ。剰近(ゴロハ)飾東西(ノ)間(ニ)中條郡トテ有也
と云へり。其後一たび合ひ二たび分れしを明治二十九年に再合せて神崎郡と稱せしなり○栗田氏が在於|原《モト》在2子字下1と云はれたるは誤れり。原本には山使村の下、神前山の上にあるなり。さて山使村在於神前山は宜しく在於山使村神前山と書くべきなれど美嚢郡の下にも坐2於高野里|祝田社《ハフタノモリ》1神と書くべきを高野里坐2於祝田社1神と書ける例あれば誤寫とも認むべからず。敷田氏の本には山使村の三字を脱せり○山使村の使は埼・前《サキ》などの誤ならざるか。此神のいます村を今も山崎といふ事下に云はむが如し○神前山を地名辭書に鶴居村大字神前の神前山としたれど鶴居村神崎(神前にあらず神崎なり)に神前山といふ山ある事を聞かず。
明治二十九年に神崎郡役所より發行せし神東神西郡沿革考に郡中の山名一百二十二を擧げたる中にも神前山といふは見えず。神崎山といふは見えたれどそは神西郡山崎村の山なり
又鶴居村の大字神崎は古き名にはあらで明治九年に今井・福渡二村を合せて新にかく稱せしなり。土人の今も神崎山といふは福崎町大字山崎の山にて一名を山崎(385)山又千束山といふ。さて其山の端に郷社二之宮神社あり。俗に山崎明神といひ國内神社記にも鎭守山崎明神とあり、播但線鐵道福崎驛の北に見ゆる森即是なり。これぞ痙石敷命の御座《オマシ》ならむ。建右敷命の建は健の略字なり○乃因2神在1爲v名は神ノ坐スニヨリテ山ノ名ヲ神前トイフと云へるにで故曰2神前郡1は神前山アルニヨリテ郡ノ名ヲ神前郡トイフと云へるなり
○※[即/土]《ハニ》岡里(土下々)
生野・大|内川〔二字左△〕《カフチ》・湯川・粟鹿△△《川内》・波自加|寸《ムラ》
所3以號2※[即/土]岡1者昔大汝命與2小比古尼《スクナヒコネ》命1相爭云。擔2※[即/土](ノ)荷1而遠行(ト)與2不v下《マラズ》v屎而遠行1此二事何能爲乎。大汝命曰。我不下v屎欲v行。小比古尼命曰。我持2※[即/土]《ハニノ》前〔左△〕(ニ)1欲v行。如是《カク》相爭而|行之《ユキキ》。逕《ヘテ》2數日1大汝命云。我|不v能2忍行《エユカズ》1。即坐而下v屎之《クソマリキ》。爾《ソノ》時小比古尼命咲曰。然(リ)苦。亦擲2其※[即/土]於此岡1。故號2※[即/土]岡1。又下v屎之時|小竹《シヌ》彈2上其屎1行〔左△〕2於衣《キヌヲケガシキ》1。故號2波自賀村《ハジカムラ》1。其※[即/土]與v屎成v石于v今不v忘。一家《アルヒト》云。品太天皇巡行之時造2宮於此岡1。勅云此土爲※[即/土]耳、故曰2※[即/土]岡1
(386)敷田氏標注 ※[即/土]岡、和名抄に埴岡に作れり。※[即/土]は※[次/土]の古文にて説文に以土増大道上とあり○小比古尼は餝磨都|枚野《ヒラヌ》里條に少日子根命に作り舊事紀に少彦根命に作れり。小は少に改べし○※[即/土]荷は土を荷ふために構たる物○小竹、皇后紀に小竹此云2之努1○行於の行は※[さんずい+于]の誤か○姓氏録佐伯直(ノ)下に譽田天皇爲v定2國堺1車駕巡幸到2針間國神崎郡瓦村東崗上1とあるは此巡幸のをりにや○爲※[即/土]云々※[即/土]は練たる土を云
栗田氏標注 按ズルニ※[即/土]ハ即埴字ノ或體○大川内ハモト大内川ニ作リ粟賀ノ下ニ川西ノ二字ヲ脱セリ。竝ニ一本ニ從ヒテ之ヲ補フ○荷ヲ原《モト》前ニ作レルハ誤レリ。今之ヲ訂ス○爭而ノ下ニ恐ラクハ行之ノ二字ヲ脱セルカ○經ヲモト逕ニ作レルハ恐ラクハ誤ナラム。今訂ス○※[さんずい+于]ヲモト行ニ作レルハ恐ラクハ誤ナラム。今訂ス
新考 和名抄の郷名に埴岡あり。※[即/土]は我邦にて埴に通用せしなり。漢字の※[即/土]とは別なり。敷田氏の説は當らず。ハニは黏士なり。今ハニヲカといふ地名は殘らざれど本郡甘地村には埴岡氏多し○小比古尼の小は少の通用なり。古典に小少を通用せり○※[即/土]荷はハニノ荷と訓むべし。埴を畚などに盛りたるなり。敷田氏がハニニと訓み(387)て「土を荷ふために構へたる物」といへるは心得られず○※[即/土]前は※[即/土]荷の誤なり。相爭面の下に原本に行之の二字あり。栗田氏の據れる本には此二字落ちたりしなり○逕は萬葉集・靈異記などにも經に通用せり。栗田氏が恐誤と云へるは從はれず○不能忍行を敷田氏はエユキタヘジとよみ栗田氏はユクニエタヘジとよめり。宜しくエユカズとよむべし。エは元來アヘの約なれば能忍の二字に當るべし。宍粟郡高家里の下に衆人|不能得稱《エイハズ》とあり○然苦は栗田氏の如くシカリクルシとよむべし。敷田氏がシカリクルシカラムとよめるはわろし○行は※[さんずい+于]の誤なり。於は常にはニとよめど漢籍にも此處の如くヲとよむべき例あり。たとへば論語に三年無v改2於父之道1可v謂v孝矣、また君子傳學2於文1約v之以v禮、また多識2於鳥獣草木之名1、また大學に畜2馬乘1不v察2於※[奚+隹]豚1などあり。我邦の古典にも豐後風土記|球覃《クタミ》郷の下に奉膳之人擬v炊2於御飯1令v汲2泉水1、また法隆寺藥師像銘文に召3於大王天皇與2太子1などなり○波自賀村は今粟賀村太字福本の南部に字|初鹿野《ハジカノ》ある、是その名を傳へたるなり○一家はアルヒトとよむべし。上(六三頁以下)にも例あり、敷田氏がアルイヘニとよめるは非なり○此土爲※[即/土]耳を敷田氏は此土ハ※[即/土]ニセムとよみて「※[即/土]は練たる土を云」と云へれ(388)どハニは粘土なれば異土を變じてハニにはすべからず。栗田氏は※[即/土]ナラクノミとよめり。爲を衍字として此土ハ※[即/土]ニコソとよむべきか○下文に據れば大内川は大川内の誤にて又粟鹿の下に川内を落せるならむ。但栗田氏が大川内原作2大内川1粟鹿下脱2川内二字1竝從2一本1補v之と云はれたるは穩ならず。げに敷田氏の本には大川野・粟鹿川内とあれどそは傳寫せし人が意を以て改めLにこそあらめ。三條西家本の外に古寫本の傳はれるもの無ければなり○波自加寸の寸を二註共に村に改めたり。石村《イハレ》を石寸と書き村主《スクリ》を寸主と書ける如き例あればここも村を省きて寸と書けるならむ
所3以號2生野《イクヌ》1者昔此處在〔左△〕2荒神1半殺2往來之人1。由v此號2死野《シニヌ》1。以後《ソノノチ》品太天皇勅云。此爲2惡名1。改爲2生野1
新考 生野は今但馬國朝來郡に屬せり。抑播但自然の國界即分水嶺は、生野の北なる※[虫+糺の旁]《ミヅチ》坂なれば生野は本來播磨國神崎郡に屬すべきなり○在は有の誤なり○半殺2往來之人1の例ははやく賀古郡|鴨波《アハハ》里の下(五四頁)に
(389) 昔神前村有2荒神1毎半留2行人之舟1
又揖保郡麻打里の下(二三七頁)に
出雲御蔭大神坐2於|枚方《ヒラカタ》里神尾山1毎遮2行人1半死半生
とあり○死野を生野と改めたまひしは今も梨子を忘みてアリノミといひ葦を忌みてヨシといふが如し。宇治拾遺物語卷二清徳聖きどくの事といふ條(國史大系本三一頁)にも
その小路を糞の小路とつけたりけるを帝聞せ給てその四條の南をば何といふととはせ給ければ綾の小路となん申と申ければ「さらばこれをば錦の小路といへかし。あまりきたなき名かな」と仰られけるよりしてぞ錦の小路とはいひける
と見えたり
所3以號2粟鹿川内《アハガカフチ》1者|彼《ソノ》△《川》自2但馬|阿相《アサグ》郡粟鹿山1流來。故曰2粟鹿川内1(生v楡)
敷田氏標注 粟鹿山、和名抄に但馬國朝來郡郷名粟鹿(ハ)安波加。式に粟鹿神社
栗田氏標注 御圖帳・國圖ヲ按ズルニ神東都ニ粟鹿村アリ。村邊ニ川アリ。蓋粟鹿川(390)ナラム
新考 粟鹿川内は今の越知谿・粟賀の二村なり。川内は流域なり。川は今も粟賀川といひ又|越知《ヲチ》川又根宇野川といふ○彼の下に川字を補ふべし○但馬國阿相郡はやがて朝來郡なり。飾磨郡安相里の下(一二五頁)にも
後但馬國朝來人到2來居於此處1。故號2阿相里1
とあり。阿相はアサグと訓むべし。敷田氏がアサゴとよみ、栗田氏がアサコとよめる共に非なり○粟鹿山は朝來郷の東界にありて丹波國氷上郡に跨れり。粟鹿川を此山より流れ來といへるは誤れり。此川は越知谷《ヲチダニ》村の奥より起れるなり。此川と彼但馬なる神山と同名なるは他に理由あるべし
大川内《オホカフチ》 因2大△《川》1爲v名(生2槍杉1。又有2異俗人卅許口1)
敷田氏標注 此に異俗は何のために記せるか詳ならず。次なるもおなじ
新考 大の下に川字を補ふべし○前の粟賀川は支源にて本流は生野川なれば粟賀川に對して生野川を大川といひその流域を大川内といへるなり。生野川は但馬(391)國生野町の三國が嶽より發し播磨に入りて神崎川又飾磨川と稱せらる。即今の市川なり○大川内は略今の長谷《ハセ》村に當れり。近世まで長谷寺前二村の大部分を大河内庄といひき。今寺前村の大字に大河あれどこは明治九年の新命名なり○異俗人は蝦夷《エミシ》にて即|佐伯部《サヘギベ》の祖なり。なほ後にいふべし。敷田氏の本には異俗人の上の有字を落せり
湯川 昔湯出2此川1。故曰2湯川1(生2檜・杉・黒葛1。又在〔左△〕2異俗人卅許△《口》1)
栗田氏標注 注ノ在ハ有ニ作ルベシ。上文ノ例ニ據ル○許ノ下ニ口字アルベシ
新考 湯川は寺前村を貫きて生野川に注げる小田原川なり。此川の沿岸なる上小田南小田(共に今の寺前村の大字)を明治十年までは小田原村といひその小田原村を天正の頃までは湯川村と云ひきといふ○右によれば埴岡里は凡今の越知谷・粟賀(以上粟鹿川内)長谷《ハセ》(大川内)寺前(湯川)大山并に但馬國生野に當れるなり。大山村は猪篠《ヰザサ》川(未は粟賀川と相合ひて市川に注げり)の流域にて粟鹿川内にも大川内にも屬せず。その猪篠川は生野町より起れるなれば本書の生野は今の生野町の外、大山(392)村をも含めるに似たり○異俗人は蝦夷《エミシ》なり。景行天皇紀五十一年に
於v是所v獻2神宮1蝦夷等(○四十年紀に則以2所v俘蝦夷等1獻2於神宮1とあり)晝夜喧嘩出入無v禮。時倭姫命曰。是蝦夷等不v可v近2就於神宮1。則進2上於朝庭1。仍令v安2置御諸山傍1。未v經2幾時1悉伐2神山樹1※[口+斗]2呼隣里1而脅2人民1。天皇聞v之詔2群卿1曰。其《カノ》置2神《ミワ》山傍1之蝦夷是本有2獣心1難v住2中國《ウチツクニー1。故髓2其情願1令v班2邦畿之外1。是今播磨・讃岐・伊勢〔左△〕《イヨ》・安藝・阿波凡五國佐伯部之祖也
とあり。中國は畿内なり。伊勢は伊豫の誤なり。又姓氏録佐伯(ノ)直《アタヒ》の下に
譽田天皇爲v定2國堺1車駕巡幸到2針間國神埼郡瓦村東崗上1。于v時青菜自2崗(ノ)邊(ノ)川1流下、天皇詔v應2川上有1v人也。仍差2伊許自別《イコジワケノ》命1往問。即答曰。己等是日本武尊平2東夷1時所v俘蝦夷之後也。散遣2於針間・阿藝・阿波・讃岐・伊豫等國1、仍2居地1爲v氏也(後改爲2佐伯1)。伊許自別命以v状復奏。天皇詔曰。宜2汝爲v君治1v之。即賜2氏〔□で囲む]針間別佐伯(ノ)直(トイフ)姓1也(佐伯〔二字左△〕者前所v賜氏、直者謂v君也)
とあり。瓦村は今の香呂村ならむ。又瓦は磧の借字ならむ。今の香呂村の南端に山岬の市川に逼れる處あり。東崗といへるはここならむ。佐伯者前所v賜氏とある佐伯は(393)針間別の誤なるべし
○川邊《カハノヘ》里(土中下)
勢賀川・砥川山
此村居2於川邊1。故號2川邊里1
敷田氏標注 川邊、今村名に存れり
栗田氏標注 國圖ヲ按ズルニ神東郡ニ東西ノ川部村・上下ノ世賀村アリ
新考 和名抄の郷名に川邊あり。此里は今の川邊・瀬加二村に當るべし。川邊は慶長國圖に東川野邊・西河野邊と書きたれど今はカハナベと唱ふるなり。渡邊と同じくノのナに轉じたるなり
所3以△《號》勢賀1者品太天皇狩2於此川内1。猪鹿多約2出〔□で囲む]於此處1殺。故曰2勢賀1
敷田氏標注 勢賀、今瀬賀に改、上下二村に分たり○約出はセガムとよむべし。此語十訓妙にしばしば見えたり。古言也
栗田氏標注 勢ノ上ノ號字モト脱セリ。今一本ニ從フ
(394)新考 所以の下に號又は云を補ふべし。敷田氏の本には云字あり○勢賀はセカとよむべし。今もセカと唱ふるなり。敷田氏がセガとよめるはわろし。賀は元來清音なり。されば本書にも(たとへば賀古)萬葉集にも清音に用ひたり○川内といへるは今の岡部川の流域なり。岡部川の末は市川に注げり。今も本村大字下|牛尾《ウシノヲ》に河内《カフチ》といふ字あり。但此河内は岡部川の末流に沿へり○約出の出は次行なる彼山の下にあるべきが誤りてここに入れるか。約も阨などの誤字ならざるか。たとひ然らずともセカレテとよむべくおぼゆ。敷田氏がセガマレテとよめるは從はれず。セクは遁路を塞ぐなり。彼狩につかふ卒をセコといふもセキヲの約ならむ
所3以云2砥川山1者|彼《ソノ》山△《出》v砥。故曰2砥川山1
栗田氏標注 名跡志ニ曰ク。蔭山郷砥堀村砥堀山ハ飾東郡ト相接セリト。説上ニ見エタリ
新考 彼山の下、砥の上に出字を補ふべし。敷田本には有字あれど恐らくは原書のままにはあらじ○砥川山は今詳ならず。瀬加村には今笠形山・大谷山・加茂地山など(395)あり。栗田氏が砥堀村砥堀山に擬したるはいみじき誤なり。瀬加村は本郡中部の東偏にあり。砥堀村は本郡の南端にありていたく相離れたり
至2于星出1狩殺。故山名2星肆《ホシクラ》1
敷田氏標注 星出詳ならず。強按に薄暮の頃を云か。しからば星肆は星闇の意也
新考 此十一字は故曰2勢賀1の次にあるべきか。至于星出は星出ヅルニ至ルマデと訓むべし。穀梁傳に日入至2于星出1謂2之(ヲ)昔(ト)1とあり。昔は夕なり○星肆はホシクラとよむべし。ホシクラはげに星闇の義ならむ。ホシクラ山は今知られず
○高岡里(土中々)
神前山・奈具佐山
右云2高岡1者此里有2高(キ)岡1。故號2高岡1
敷田氏標注 高岡、和名抄に洩たり
栗田氏標注 志ニ曰ク。神西郡高岡庄ト
新考 今福崎町の大字に高岡あり。神前《カムザキ》山は前に云へる如く福崎町にあり、七種《ナグサ》山(396)も福崎町にあり。されば此里は今の福崎町に當れり。近世まで今の福崎町の内なる福崎新・山崎・福田・高岡・田口・西治《サイヂ》・高橋・馬田などを高岡郷といひき○今の鶴居《ツルヰ》・甘地《アマヂ》二村も此里に屬せしか
前神〔二字左△〕《カムザキ》山 與v上同
敷田氏標注 神前山、與上同とは郡名の條に傳あるを云
栗田氏標注 神前ハモト前神ニ作レリ。今一本ニ從フ
新考 前神は神前を顛倒したるなり。敷田本には直に神前に改めたり○與v上同とは郡名ノ下ニ云ヘルニ同ジとなり
奈具佐山 (生v檜)不v知2其由1
敷田氏標注 不知其由は奈具佐山と云る由をしらずとなり
栗田氏標注 名跡志ニ曰ク。神西郡奈具佐山又七種村アリト
新考 不v知2其由1はナグサ山といふ所以を知らずとなり。宍禾郡|高家《タカヤ》里の下(三五九頁)に都太《ツダ》川(ハ)衆人不2能得稱1とあるに同じ。ナグサの義は萬葉集にココロナグサ・戀ノ(397)ナグサなどあるナグサにて慰ならむ○名種《ナグサ》山は福崎町大字田口にあり。此山にナグサの瀧といふ名高き瀑布あり。其末はナグサ川となりて市川に通ぜり。但平日は水無き砂川なり
○多馳〔左△〕《タダ》里(土中下)
邑曰《オホワチ》野・八千軍《ヤチクサ》野・粳《ヌカ》岡
所3以號2多馳〔左△〕1者品太天皇巡行之時|大御伴人佐伯部《オホミトモビトサヘギベノ》等〔左△〕《アタヒノ》始祖|阿我乃古《アガノコ》申v欲v請2此土1。爾時天皇勅曰。直請哉《タダニコヒシカモ》。故曰2多馳〔左△〕《タダ》1
敷田氏標注 多馳、和名抄に洩せり○佐伯部、仁徳紀に播磨佐伯直阿俄能胡、姓氏録に佐伯直は景行天皇皇子稻背(ノ)入彦命之後也。男御諸別命は(ハ)稚足彦天皇御代中2分針間國1給之。仍號2針間別1。男阿良都命(ハ)譽田天皇云々(○以下上文湯川の下に引けり)
栗田氏標注 多馳ハ疑ハクハ多駝ナラム。國圖ヲ按ズルニ多田村・西多田村アリ
新考 多馳は栗田氏の説に從ひて多駝の誤とすべし。天皇の直《タダ》ニ請ヒシカモとのたまひしによりて名を得たるなればなり。駝の異體なる〓を馳と誤れるなり。今山(398)田村の大字に多田あり。是大名の小名となりて殘れるなり○等は直《アタヒ》の誤ならむ○阿我乃古《アガノコ》は仁徳天皇紀に
四十年……是ニ天皇、隼別《ハヤブサワケ》皇子ノ逃去リシヲ聞キタマヒ即吉備ノ品遲部雄※[魚+即]《ホムチベノヲブナ》・播磨(ノ)佐伯(ノ)直阿俄能胡ヲ遣ハシテ目ク。之ヲ追ヒテ逮《シ》カム所ニ即殺セト。爰ニ皇后奏シテ曰ク。雌鳥皇女寔ニ軍罪ニ當レリ。然レドモ其殺サレム日ニ皇女ノ身ヲ露《アラハ》サム碧欲セズト。乃由リテ雄※[魚+即]等ニ皇女ノ賚《モタ》ル足玉手玉ヲナ取リソト勅(ノ)リタマヒキ。……急ニ伊勢ノ蒋代《コモシロ》野ニ追及《シ》キテ之ヲ殺シキ。時ニ雄※[魚+即]等皇女ノ玉ヲ探リテ裳中ヨリ之ヲ得キ。……皇后、雄※[魚+即]等ニ問ハシメテ曰ク。皇女ノ玉ヲ見シカト。對ヘテ曰ク。見ザリキト。是歳新甞ノ月ニ當リテ宴會ノ日ヲ以テ酒ヲ内外ノ命婦《ヒメトネ》等ニ賜ヒキ。是ニ近江ノ山(ノ)君|稚《ワカ》守山ノ妻ト釆女磐坂媛ト二女ノ手ニ良珠ヲ纏《マ》ケリ皇后其玉ヲ見タマヒシニ既《マタク》雌鳥皇女ノ珠ニ似タリ。則之ヲ疑ヒテ有司ニ命ジテ其玉ヲ得タル由ヲ問ハシメシニ對ヘテ言《マヲ》サク。佐伯(ノ)直呵俄能胡ノ妻ノ玉ナリト。仍リテ阿俄能胡ヲ推鞠セシニ對ヘテ曰《マヲ》サク。皇女ヲ誅《コロ》シシ日ニ探リテ之ヲ取リキト。即河俄能胡ヲ殺サムトシタマヒキ。是ニ阿俄能胡乃己ガ私地ヲ獻ジテ(399)死ヲ免《ユル》サレムコトヲ請ヒキ。故《カレ》ソノ地ヲ納レテ死罪ヲ赦シタマヒキ。是ヲ以テ其地ヲ號ケテ玉代《タマシロ》ト曰ヒキ
とあり。アガノコは前(三九二頁)に見えたる伊許自別《イコジワケ》一名|阿良都《アラツ》命の子なるべし○直を二註にタダチニと訓めり。宜しくタダニとよむべし。タダニは人ヲ經テモ申サズ直ニとなり
所3以云2邑曰《オホワチ》野1者|阿遲須伎高日古尼《アヂスキタカヒコネノ》命神在2於|新次社《ニヒスキノモリ》1造2神宮於此野1之時|意保和知《オホワチヲ》苅|廻《モトホシテ》爲〔左△〕v※[こざと+宛]《カキ》。故名2邑曰野1
敷田氏標注 新次、式に新次神社○意保和知詳ならず○邑田の田は曰の誤也
栗田氏標注 延喜神名式ニ曰ク。神崎郡新次神社○意保和知、按スルニ意保ハ大ナリ。和知ハ弱茅ナリ。茅ヲ苅リテ垣トセシガ故ニ云フ。今雨月村アリ讀ミテ和知ト云フ。蓋ソノ地
新考 邑曰は意保和知ヲ苅廻シテとあればオホワチと訓むべし。邑をオホとよむべき事は夙く揖保郡邑智驛家の下(二二八頁)に云へり。曰は音ワツなれば轉じてワ(400)チに借れるなり。
諸國の地名又陸前の郡名のワタリを曰理と書けるはワツをワタに借れるにて今の例とすべし
今加西郡下里村に兩月と書きてワチと唱ふる大字あり。神崎郡の界とは中間に加西郡賀茂村を隔てたり。おそらくは今の兩月はいにしへのオホワチノ野の東偏にオホワチの名のワチと省かれて殘れるならむ。さてそのワチはもと兩月の二字を充てしなるべきを(ウグワチをつづむればワチなれば)今は雨を兩に誤りて兩月と書くなり、飾磨郡|鹿谷《カヤ》村大字前之庄字中島に兩月といふ部落あり。もと加西郡なる兩月より分れ來りしなるがこれも兩月と書きでワチと唱ふなり。此方は知らねど加西郡なる兩月は今は多くは字に從ひてリヤウゲツと唱ふとぞ。かくて後にワチといふ古き唱さへ亡びなば兩月が元來雨月の誤なる事も知られずなりなむ、嗚呼うたてきかな○阿遲須伎高日古尼命は伊和大神の御子、宗形(ノ)大神|奥《オキ》津島比賣命の御腹なり。下文に依れば託賀《タカ》郡黒田里にて生れ給ひしならむ○命の下に、神を添へて命神といへるは下文にも豐穗命神とあり○原本に新次神社と書きて神字の右(401)傍に重點を加へて之を消したり。然るに二註には神字を存ぜり。こは神ノヤシロとよむべしと心得て然せるならめど社はここにてはモリとよむべし(二三三頁參照)。なほ云はば神社とありともモリとよむべし。萬葉集にモリに社をも神社をも充てたり○新次《ニヒスキ》神社は今豐富村大字御蔭の曾坂山の南麓にありて村社に列せり。但明治の初まではカツラギ權現といひしを姫路藩が式内の新次神社と認めて改稱したるなり。新次を栗田氏はニヒツギとよめり。宜しく敷田氏に從ひてニヒスキとよむべし。スキは次《ツギ》の古語なり○造神宮とあるは祖神などをいつき奉るべき社を造り給ひしにや。又は御自坐すべき殿舍を構へたまひしにや。おそらくは後者ならむ○意保和知のオホは大なるべくチは茅なるべけれどワを栗田氏が弱とせるは遽に從ふべからず。弱《ワカ》を略してワとは云ふべからざればなり。ワは或は三勾《ミワ》のワにて曲線を成せるを云へるにあらざるか。ここに郷土研究社第二草書猪鹿狸といふ(東三河の山村の事を記せる)に
田や畑を繞つて深い堀が穿つてあつた。猪除けが目的であつた事は言ふ迄もない。……其外側には高い垣根が築いてあつた。多く石で積上げたもので猪除け(402)の垣根といふが或は又ワチとも謂うた。然し一般にワチと呼んでゐたのは燒畑に繞らした垣の謂であつた。二本づつ杭を打つてそれを骨組として横木を互ちがひに組んで行つたものである。又燒畑でなくとも山村の畑には多くワチが繞らしてあつた。この方は燒畑とはちがつて頑丈な杭を隙間なく打つて半永久的な柵で材料は栗の木を割つた角であつた
と云へり。畢竟東三河の山村にては一種の垣をワチといふなり。こは古語の轉義して殘れるならむ。即本書に見えたるオホワチは意保和知ヲ苅廻シテとあれば明に一種の植物なるをそを以て作れる垣をもワチといひ更に三河などにては一種の垣をワチといふこととなれるならむ○※[こざと+宛]は院の誤字なり。院は音ヱン(ヰンは慣用音)字書に周垣也とあり。さればカキと訓むべし。敷田氏がミヤとよめるは非なり○敷田本には邑曰野の曰を田に誤れり○邑曰野に就いて更に云はむ。大日木地名辭書に
田原に西光寺野と呼ぶ空閑あり。いはゆる邑曰野のかたみなるべし
といへり。思ふにオホワチノ野は今の山田村を中心とせし廣野にて其状略曲尺」(403)の如く西光寺野はその縱條に當り加西郡下里村の兩月《ワチ》はその横條の右端にに當るべし。因にいふ。西光寺野は北は田原村より南は豐富村に亘りし三百數十町歩荒野なりしを近年工を起して今は全く開墾したり。それまでは其南端は豐富村大字豐富の北端なる太尾に達したりき
△《所》3△△《以云》2粳《ヌカ》岡1者伊和大神與2天日桙命1二神各發v軍相戰。爾時大神之軍集而舂v稻之。其|粳《ヌカ》聚爲v丘。△△《故曰》2△△《粳岡》1
敷田氏標注 粳岡、宍粟郡奪谷(ノ)條なる糠前も粳前に作り賀茂郡粳岡など總てヌカとよむべし。新撰字鏡に※[禾+杭の旁]俗作v粳、稻也、奴可と注し續紀の人名に阿倍朝臣粳虫又紀袁祁臣之女粳女など枚擧に遑あらず
栗田氏標注 所以云ノ三字例ノゴト補フ
新考 粳岡の上に所以云の三字を補ふべきのみならず爲v丘の下に故曰2粳岡1の四字を補ふべし○粳は糠の通用なり。はやく上(三五八頁)に云へり○今豐富村の北隣に船津村あり。其北端なる八幡といふ部落に糠塚といふ字あり。是この粳《ヌカ》岡ならむ
(404)一云堀城處者〔四字□で囲む]品太天皇|御俗〔左△〕《ミヨニ》參度|來《コシ》百濟人等|※[こざと+有]2有〔二字左△〕俗1《ソノテブリノママニ》造v城居之。又〔□で囲む]其|簸置《ヒオクノ》粳|云〔左△〕《ナス》v墓《ツカ》。△△《故曰》2△△《粳岡》1。又△《造》v△△△《城處者》云2城牟禮《キムレ》山1。其孫等川邊里三家人夜代等△《也》
敷田氏標注 御俗の俗は伴の誤かと思へど世に借てよむべし○※[こざと+有]は隨の誤なるべし○三家以下落字ありと見ゆ
栗田氏標注 按ズルニ二者已下恐ラクハ脱誤アラム
新考 一云の下なる掘城處者の四字は下文より紛れてここに入れるならむ○御俗の俗は代又は世の誤ならむ○※[こざと+有]有俗は隨其俗の誤なるべく隨2其俗1造v城居之とは部落の周圍に土壘などを築きしを云へるなるべし○其の上の又は衍字ならむ○云墓は爲墓の誤なるべく又其下に故曰粳岡の四字を落せるなるべし○又の下、云2城牟禮山1の上に造城處者の四字を補ふべし。上なる堀城處者の四字はもと此行の傍に補ひ書きたりしが前の行の本文となり加之造が掘に誤られたるならむ○牟禮は元來山の韓語にて日本紀に多く見えたり(たとへぼ神功皇后紀五十二年・顯宗天皇紀三年)。さればキムレにて城山といふ意なるを更に邦語の山を添へたるな(405)り。飾磨郡伊和里の下(一〇九頁)にも稻丘を又稻牟禮丘と云へり○土人に質ししに或は糠塚の一名を今もキムラ山と云ふといひ又或はキムラ山といふ名は聞きしこと無しと云ひき。さて二註に又城牟禮山トイフハとよみて下へつづけたるは非なり○三家人夜代等の六字心得がたし三家人は上野國なる神龜碑の高田里三家子等の類ならむか。又三家人夜代は夜代三家人の顛倒にて夜代は地名ならむか。又等の下におそらくは也を落したるならむ
所3以云2八千軍《ヤチクサ》1者天(ノ)日桙(ノ)命軍在〔左△〕2八千1。故曰2八千草野1
栗田氏標注 在ハ有ニ作ルベシ
新考 今|八千種《ヤチクサ》村あり。近世まで此附近を八千種庄と稱せしに據りて明治十年に命名せしなり。イクサはこにては兵士なり○多駝里は略今の田原・八千種・山田・船津の四村に當るべし。右のうち田原は余が幼時六年ばかり住みし處、又余の弟三人(柳田國男・松岡靜雄・松岡輝夫)の生れし處なり
○蔭山里(土中下)
(406) 蔭岡・冑岡
云2蔭山1者品太天皇(ノ)御蔭墮2於此山1。故曰2蔭山1。又號2蔭岡1。爾△v△《以鎌》除v道刃|鈍《ニブリヌ》。仍云2磨布理許《マブリコ》1。故云2磨布理村1
敷田氏標注 御蔭は御冠なる事餝磨郡安相里(ノ)條の標注に云き○磨布理許、詳ならず。按に眞振來か。其は劍を振て拂ひ乍來つと云事なるべし。明日香井集に「夕附日けふ紅のまふりでに包む涙や色に出らむ」と云マフリも紅色を兼て眞振手とは云る也
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰ク。神城〔左△〕郡蔭山ト。春枝云ハク。今神東部ニ蔭山郷蔭山村アリト。按ズルニ名跡志ニ蔭山庄トアリ。出雲風土記ニ神門郡蔭山トアリ。古言ニ冠ヲ御蔭トセリ
新考 和名抄の郷名に蔭山あり。又太平記卷二十一鹽谷判官讒死の事といへる段に鹽谷高貞の妻が丹波播磨を經て出雲に逃げ下らむとせし事を述べて「播磨の陰山にて早追ひつかれにけり」とありて其遺跡は豐富村大字豐富なる酒井といふ部(407)落にあれど今蔭山といふ山名地名は無し。春枝が今有2蔭山郷蔭山村1と云へるは例の放言なり。但近世まで今の山田・豐富・砥堀三村の大部分を蔭山庄といひき。今豐富村の大字に御蔭あれどそは明冶十年の新命名なり○この蔭山里は餝磨郡安相里の下に
品太天皇從2但馬1巡行之時御蔭墮2於山(ノ)前〔六字右△〕1縁道不v巖〔右△〕2御冠〔右△〕1。故號2蔭山前1
とあると同處なり(引用文の右傍に△を附けたるは我補ひ又は改めたるなり)。二註に御蔭を冠の古言としたれど冠を蔭といひし事無し、ここにいへる御蔭は縵《カヅラ》を御冠にまとひたまひしなり(一二九頁參照)○爾の下に以鎌の二字を脱したるならむ。除道刃鈍は道ヲハラヒシニ刃鈍リヌとよむべし。道に生ひたる荒草を拂ひしなり。さて鎌の刃鈍りしによりて傍人(監督者など)が鎌ヲ土ニマブリ來ヨと云ひしならむ。マブルは今|塗《マミ》れしむる事をマブルといふ、それなるべし。此語は我も人も近世語とのみ思ひたりしかど此書に出でたるを見れば古語なりけり。此書には蠶をヒメと云ひハギを萩と書けるなど意外なる事少からず○磨布理村は今知られず○更に案ずるに蔭山といふ山は豐富村大字|神谷《コダニ》と大字御蔭字曾坂との中間なる山な(408)らむ。彼新次神社は恰此山の西南端にあり。因にいふ鹽谷高貞の妻は今の加西郡の方より神谷《コダニ》を經て酒井に來りしならむ。俚俗に印南飾磨二郡の界より曾坂を經て來りしなりといふは信ぜられず
云2冑岡1者|伊與都比古《イヨツヒコノ》神與2宇知賀久牟豐富《ウチカクムトヨホノ》命1相闘之時冑墮2此岡1。故曰2冑岡1
敷田氏標注 伊與都比古神、式に伊豫國伊豫郡伊豫豆比子命神社
栗田氏標注 宇知賀久牟ハ戸ノ冠辭○豐富・豐穗ハ蓋一神○今神東郡陰山莊ニ豐富村アリ。多可郡ニ又豐部村アリ。穗部ハ一聲相通
新考 伊與都比古は下文|託賀《タカ》郡|都麻《ツマ》里并に法太《ハフダ》里の下に見えたる讃伎日子と同じく四國より内海を渡りて來りし侵略者なるべし○ウチカクムはウチカコムにして豐富命にかかれる枕辭なり。神名に枕辭を冠らせたる例はコモマクラ高御産栖日《タカミムスビノ》神三代實録)ヤトカカス御諸命(本書美嚢郡)などあり○豐富命は下文に豐穗命神とあればトヨホと訓むべし。敷田氏がトヨトミとよめるはわろし。今村名をトヨト(409)ミと唱ふるは字に就きて唱を改めたるにていとうたてし。此豐富村は明治十年に太尾・江鮒・鍛冶内・重國・酒井・津熊の六村を合せて一村とせし時新に命名せしにて明治二十二年四月に其豐富村を御蔭・神谷《コダニ》二村と合せし時なほ豐富村と稱せしなり。栗田氏の標注に今神東郡陰山庄有2豐富村1と云へるはいぶかし。但此文は初稿本には無し。又栗田氏の擧げたる今の多可郡松井庄村の大字豐部はここに與からず○今豐富村大字豐宮宇江鮒に甲《カブト》山ありて市川の東岸に臨み其山上に郷社甲八幡神社あり○此蔭山里は略今の豐富村に當るべし
○的部《イクハベ》里(土中々)
石坐《イハクラ》神山・高野(ノ)社《モリ》
右的部等居2於此村1。故曰2的部里1
敷田氏標注 的部、和各抄に射※[(土+乃)/木]を以久波止古路と注し筑後國郡名生葉(ハ)以久波とあるは景行紀に見えたる的《イクハ》邑と同地なるにて的をイクハと訓事を知べし。的部の氏祖の事は仁徳紀に詳なれば爰に略
(410)栗田氏標注 倭名鈔二曰ク。神城〔左△〕郡的部ト。圖ヲ按ズルニ神東ノ隣郡多可郡ニ的場村又岩坐神村アリ
新考 今中寺村の東南偏に大字岩部あり。是イクハベの名の訛られて殘れるならむ。イクハは的の古語にてイクハ部は的を造る手人の部曲なり。栗田氏の擧げたる多可郡の地名はここに用無し○大日本地名辭書に引用せる貞治三年の天龍寺文書に播磨國的部南條とあり。近世の南條郷は略今の香呂村に當り北條郷は略今の中寺村に當り、さて彼岩部は中寺村の内なれば今の中寺・香呂二村を中世まで的部郷と云ひしにあらざるか
云2石坐《イハクラ》山1者此山戴v右。又在〔左△〕2豐穗(ノ)命(ノ)神1。故曰2石坐(ノ)神山1
新考 上面平坦なる岩を神座に擬してイハクラと云ひしなり○播磨鑑に
岩藏山萬福寺在2奥須加院《オクスカヰ》村1。九間之岩屋。毘汐門天。開基法道仙人也
とあり又
毘沙門岩屋 有乳山岩屋寺ト云。岩屋村ニ在リ。天台宗。本尊毘沙門天。又岩藏山萬(411)福寺須賀院と云々。山ノ中程ニ岩屋有。九間許ノ長キ岩屋、奥入二間計……
とあり。萬福寺は今廢れ て其跡に無住の小庵ありといふ。須加院《スカヰ》は香呂村の大字なり。香呂村は中寺村の南につづけり
云2高野(ノ)社《モリ》1者此野高2於他野1。又在〔左△〕2玉依比賣命1。故曰2高野社1(生2槐社〔左△〕1)
敷田氏標注 玉依比賣命、是は神武天皇の御母。又山城風土記等に同御名見えたり○高野社、式にも漏て世に隱れたるは惜べし。普く郡中を捜て顯し奉らまほしき業也○槐社の社字よみえず。杜の誤か。然らば古字書にヤマナシともユヅリハともよみて槐と二種也
栗田氏標注 社寺ハ恐ラクハ衍
新考 播磨鑑に
彌高山 蔭山庄砥堀村(村ノ乾ノ山)此所ニ奇跡アリ。彌高峯ト歌枕ニ有ハ此山ナルベシ。又鷹ノ山トモ云フ
とあり。鷹の山は即高野(ノ)社《モリ》にあらざるか。砥堀村は香呂村の南につづきたればその(412)乾の山は香呂村太字須加院との界なり、○社はモリとよむべき事上(四〇一頁)に云へる如し。モリは樹叢にて神のまします處なり。建造物無ければ神ましまさずと思ふは後世の思想なり。敷田氏が社をヤシロと訓み標注にうれたみ言を述べたるは建造物と誤解しての事なが高野社は天然の樹叢に過ぎざれば延喜神名式に載せらるべくはあらず○生槐社の社は敷田氏が杜の誤字とせるぞ宜しからむ。その杜は樹名なれど何の木に充て用ひたるにか明には知るべからず。神代紀にはカツラに充てて杜木此云2可豆邏1と註せり
的部里は今の中寺・香呂二村に當るべし
以上六里。就中埴岡は郡の北端に在りて神崎川の兩岸に跨りそれに接して河東に川邊《カハノヘ》、河西に高岡あり。川邊の南につづけるは多駝、又其南につづけるは豐富《トヨホ》にて高岡の南につづけるは的部《イクハベ》なり。又其南につづける砥堀は當時は餝磨郡に屬したりき。六里のうち高岡・多駝の二は和名抄に見えず。和名抄の五郷のうち此記に見えざるは槻田《ツキタ》なり。因にいふ。和名抄の郷名の標に神崎郡を神城郡と誤れり。但郡名の處には正しく神埼郡と書けり
(413) 託賀《タカ》郡
右所3以名2託加1者昔在〔左△〕2大人1常|勾行《カガマリユキキ》也。自2南海1到2北海1自v東巡行之時到2來此土1云。他土(ハ)は卑者《ヒクカレバ》常勾(リ)伏而|行之《ユキキ》。此土(ハ)高者|申而行之《ノビテユカル》。高哉。故曰2託賀郡1。其|踰《フミシ》迹處|數々〔左△〕《アマタ》成v沼
敷田氏標注 託賀、和名抄に多可に作れり。高者は天也。所謂跼天なめれば此大人は決して人にはあらじ。神にぞ坐けむ。踰は日本靈異記に不牟と注せり
新考 延喜式及和名抄には多可郡とあり。今も多可と書くなり○南海ヨリ北海ニ到リ東ヨリ巡行スといへるを思ふに此大人は天日槍命の面影を傳へたるならむか。然思はるるは垂仁天皇紀に
初天(ノ)日槍《ヒホコ》艇ニ乘リテ播磨國ニ泊《ハ》テ宍粟邑ニ在リ。……是《ココ》ニ、天日槍|菟道《ウヂ》河ヨリ泝リ北、近江國|吾名《アナノ》邑ニ入リテ暫ク住ミ復更ニ近江ヨリ若狹國ヲ經テ西、但馬國ニ到リテ則住處ヲ定ム
(414)とあればなり○他土ハ卑カレハといひ此土ハ高カレバといへるは地の高卑にはあらで天の高卑ならむ。地の卑きが爲にかがまりて行かざるべからざる理なければなり。或は他土の下に天の字をおとせしにあらざるか。さて昔大人アリテ他土ハ天卑ケレバカガミテ行キシガ此土ハ天高ケレバ伸ビテ行カルトイヒキといへるは昔人アリテ他處ハハヤク他人ガ占メテ窮屈ナリシガ此處ハ未占メタル人無ケレバ自由ナリト云ヒキといふ事を大人に托し天の高卑に托したるならむ○此土高者申而行之は栗田氏に從ひてコノ土ハ高カレバノビテ行カルとよむべし。敷田氏が高哉につづけてノビテユクニモタカキカモとよめるはわろし○其以下は々を多の誤としてソノフミシアトドコロアマタ沼トナレリとよむべし。踰は日本靈異記卷中第二十六に
有v縁出v里度2彼|椅《ハシ》1往、椅下有v音曰。嗚呼莫2痛踰1邪、
とありて訓註に踰不牟□とあり
○賀※[尸/貝]〔左△〕《カミ》里(土下上)
(415) 大海山・荒田村
右|田〔左△〕《ヨリテ》v居2川上1爲v名
敷田氏標注 賀負〔左△〕、和名抄に賀美に作れり。此郡に那珂・資母の二郷あれど此記に見えず。即上中下にて諸國に例あり
栗田氏標注 倭各鈔ニ曰ク多可郡賀美ト。御圖帳ヲ按ズルニ上村アリ○因ハ原、田ニ作レリ。今一本ニ從フ
新考 ※[尸/貝]は眉を誤れるか。賀眉はカミとよむべし。和名抄の郷名には賀美とあり。賀美は上にて那珂(中)資母(下)に對せるなり○田は由の誤なり○川上といへるは今の杉原川の川上なり。杉原谷村大字大河字轟に村社川上神社あり○栗田氏が按2御圖帳1有2上村1と云へるはいぶかし。本郡に上村といふ村無し
所3以號2大海《オホミ》1者昔明石郡大海里人到2來居於此山底1。故曰2大海山1。生v松
敷田氏標注 大海、オホミと訓べけれど爰に明石郡大海里とあるは和名抄に邑美に作り於布美と注せるに據れり(○かく云ひてオフミと傍訓せり)
(416)栗田氏標注 大海ハ倭名鈔ニ明石郡邑美郷ト曰ヘル是ナリ。國圖ヲ按ズルニ今近江寺村ニ作ル○生松ノ二字例ニ據リテ分注トスベシ
新考 大海はオホミとよむべし。和名抄の訓註に於布美とあるは訛に從へるにて揖保郡大市の訓註にオフチとあると同例なり。敷田氏が和名抄に從ひてオフミとよめるはオホウミの約と認めたるなるべけれど海の古言はミにて之にウを添へてウミといふはなほマにウを添へてウマ(馬)といふが如し。さて、明右郡邑美ははやく萬葉集卷六なる山部宿禰赤人の長歌(萬葉集新考一〇四八頁)にイミ野ノ大海《オホミ》ノ原ノアラタヘノ藤井ノ浦ニとあり。明石郡と多可郡とは、美嚢郡及加東郡を隔てたり○今杉原谷村大字大箸字|箸荷《ハセガイ》に近江坂あり。又鬼坂といふ。ここに云へる大海山は即是なり。オニ坂といふはアフミのアフがつづまりてオとなり又ミがニに轉ぜるなり。ミがニに轉ずるは常の事なり。下文のミカ坂も今はニカ坂といふ○山底は山下なり。敷田氏に從ひてヤマモトとよむべし。用明夫皇紀に門ノモトを門底といひ懷風藻の大友皇子傳に腋ノシタを腋底といへり。又上文揖保郡揖保里の下(二九五頁)に川尻を川底と云へり
(417)所3以號2荒田1者此處(ニ)在《イマス》神名(ハ)道主日女命无v父而生v兒。爲v之|釀2盟酒《ウケヒザケカムト》1作(リシニ)2田七町1七日七夜之|間《ホドニ》稻成熟。意〔左△〕乃《スナハチ》釀v酒集2諸神1遣2其子1捧v酒而|令v養《タテマツラシメキ》之。於v是其子向2天(ノ)日〔左△〕一《マヒトツノ》命1而奉之。乃知2其父1。後|荒《アレキ》2其田1。故號2荒田村1
敷田氏標注 盟酒は祈事ありて神に申て造る酒を云○令養の養は饗の誤なるべし○天日一命式に天目一神社と有。日は目の※[言+爲]○知其父、かかる事上代は常にありけむ。山城風土記にも見ゆ○荒田村、和名抄に荒田郷、式に荒田神社
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰ク多可郡荒田ト。春枝云ハク今荒田村アリト○意ハ恐ラクハ竟○養ハ恐ラクハ饗○神名式ニ曰ク多可郡荒田神社天目一神社ト○新抄格勅符ニ曰ク荒田神社四戸、播萬國、天平神護元年充ト
新考 今松井庄村大字福原に奥荒田といふ字あり。又中村の北部に安樂田《アラタ》といふ大字あり。此安樂田ももとは荒田と書きしを享和元年に字を改めしなり。安樂田の西北二十町許なる松井庄村大字福原字的場に武内荒田神社あり。今縣社に列せり。其祭神はやがて道主日女命ならむ○意乃は爾乃の誤ならむ。さらば二字を聯ねて(418)スナハチとよむべし(萬葉集新考三三二八頁參照)○養を二註に饗の誤とせり。下に向2天目一命1而奉之とあるを見れば奉の誤ならむ○神名帳の多可郡天目一神社は今の日野村大字大木にありて村社に列せり。日野村は中村の東南に接せり○釀盟酒作田七町はウケヒザケヲカムト田七町ヲ作リシニとよむべし。ウケヒは誓約なり。また荒其田はソノ田アレキとよむべし。二註にアラシキとよめるは非なり。其田といへるは作田七町とある田なり○此傳説は山城國風土記逸文に
玉依日賣於2石河瀬見(ノ)小川之邊1爲v遊時丹塗《ニヌリノ》矢自2川上1流下。乃取挿2置床邊1。遂感孕生2
男手1。至2成人1時外祖父|建角身《タケツヌミノ》命造2八尋屋《ヤヒロヤ》1堅2八戸扉《ヤトビラ》1釀2八※[酉+媼の旁]《ヤシホノ》酒1而|神集集而《カムツドヘニツドヘテ》七日七夜|樂《ウタゲ》遊。然《サテ》與v子|語言《カタラク》。與2汝父1將v思人(ニ)令v飲2此酒1。即擧2酒杯1而向v天爲v祭。即分2穿屋(ノ)甍1而昇2於天1
とあると相似たり。賀眉里は今の杉原谷村・松井庄村より中村の北部に亘りし如し。和名抄の郷名に》は賀美・那珂・資母あれど本書に見えたるは賀眉里のみ。又今村名として殘れるは中村のみ(中村は近年中町と改稱すといふ)
(419)○黒田里(土下上)
袁布山《ヲフヤマ》・支閇《キヘ》岡・大羅《オホアミ》野
右以2寿肆土黒1爲v名
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰ク多可郡黒田ト。國圖ヲ按ズルニ今黒田村アリ。下文楢原里ノ條ニ國造黒田別アリ。蓋此ニ居ルカ
新考 和名抄郷名に黒田あり。今も黒田庄村ありて其大字に黒田あり。此村と松井庄村との間に中町あり。されば中町は本書の時代には賀眉里に屬したりしにて和名抄時代にはその賀眉里が賀美・那珂二郷に分れたりしならむ○出雲風土記|意宇《オウ》郡の下に
黒田驛 土體色黒。故云2黒田1
とあると相似たり○敷田本には以を次に誤れり
云2袁布《オフノ》山1者昔|宗形《ムナガタノ》大神|奥津嶋比賣《オキツシマヒメノ》命|任《ハラミ》2伊和(ノ)大神之子1到2來此山1云。我可v産《コム》之時|訖《ヲフ》。故曰2袁布山1
(420)敷田氏標注 奥津島比賣命は多紀理毘賣命也○任は妊の誤。古事記に大國主神娶d坐2※[匈/月]形奥津宮1神多紀理毘賣命u生子云々
栗田氏標注 古事記ニ云ハク大國主神娶d坐2胸形奥津宮1神多紀理毘賣神u生子阿遲※[金+且]高日子根神ト○按ズルニ妊、古任ニ作リキ
新考 任は妊の通用なり。史記にも紂|刳《サキテ》2任者1觀2其胎産1とあり。任者は孕婦なり○訖はヲフとよむべし。キハマルといふに同じ。萬葉集卷五(新考八九一頁)にカクシコソ梅ヲヲリツツタヌシキヲヘメとあり祝詞にタタヘゴヲヘマツルとあるはキハムルにてフヘの活なるが、別にキハマルの意にてハヒフヘの活なるがありしなり。辭を換へていはば今ヲハルといふをいにしへヲフといひしなり(ナバルをナブといひヘダタルをヘダツといひし如く)。二註にヲヘヌとよめるはいとわろし。ヲハリヌとこそよまばよむべけれ。さてもなほヲフノ山の名の起とはならず○敷田本には時を侍に誤れり
云2支閇キヘノ》丘1者宗形大神云。我可v産《コム》之月|盡《キヘヌ》。故曰2支閇丘1
(421)敷田氏標注 月|盡《キヘ》、古言也。萬葉五にキヘユクトシノ、同十五に月日モキヘヌ云々。此キヘを盡《キヘ》也としらで來經てふ事に見て朝爾|食《ケ》爾など云ケを來經の切と云るは云にたらぬ僻説也。總て反切の格は音韵啓蒙に論ひおきつ
栗田氏標註 春枝云ハク今木部岡村アリト。按ズルニ古事記ノ美夜受比賣ノ歌ノあらたまのつきはきへゆく、萬葉(卷五)あらたまのきへゆくとしの、又(卷十一)璞之寸戸我竹垣、又(卷十四)あらたまの伎倍のはやしハ皆歳月ノ經過スルヲ言ヘルナリ
新考 盡は二註の如くキヘヌとよむべし。キヘヌは來經ヌにてやがて過ギヌなり。さればこそここに盡と書けるなれ。栗田氏は萬菓集卷十一なるアラタマノ寸戸《キヘ》ガタカガキ・同じ卷十四なるアラタマノ伎倍ノハヤシニのキヘをも經過の義としたれどキヘノタカガキのキヘは柵戸《キヘ》にて城内の民戸といふこと、又キヘノハヤシのキヘへ遠江國の地名なり(萬葉集新考九五四頁・二三五一頁・二九六五頁參照)○我可v産之月盡は上文の我可v産之時訖と同意なり○春枝が今有2木部岡村1と云へるは例の詐なり。さる村無し
(422)云2大羅《オホアミ》野1者昔|老婦《オキナ》與2老女《オミナ》1張2羅於袁布(ノ)中山一1以捕2禽鳥1。衆鳥多來負v羅飛去|落《オトス》2於|件《コノ》野1。故曰2大羅野1
敷田氏標注 老女、和名抄に嫗(ハ)老女之稱也、於無奈
新考 袁布山・支閇丘・大羅野共にその所在今は知られず、ここに神名帳に古奈爲神社あり。その神社は今の黒田庄村大字小苗にありてもとは齋《イツキ》姫宮とも齋大明神とも云ひしを今は再、古奈爲神社と稱して村社に列したり。其祭神は社傳に木花開耶《コノハナサクヤ》姫命とし里人は安産を護りたまふ神とせり。此コノハナサクヤ姫ノ命は瓊々杵尊の御妻なるとは同名異神にて宍禾郡|雲箇《ウルカ》里の下(三七二頁)に
大神ノ妻許乃波奈佐久夜此賣命其形|美麗《ウルハシ》カリキ
とあると同神にてやがて宗形(ノ)大神即奥津島比賣命の御事ならむ。齋《イツキ》姫宮・齋大明神といふイツキはイチキの轉訛なり。日本紀の一書には瀛《オキ》津島姫命亦ノ名ハ市杵《イチキ》島姫命とあり。されば袁布山・支閇丘は今の小苗附近に求むべし。小苗は古奈爲の轉訛なる事言ふを待たず。その古奈爲は國内神社記に子動明神と書きたれば胎動の義(423)にや。但地震をこそナヰとは云へ、ただ動搖する事をナヰといへる例を知らず○老女はオミナとよむべし。和名抄の訓註にオムナとあるは訛れるなり
○都麻《ツマ》里(土下上)
都多岐・比也山・比也野・鈴堀山・伊夜丘・阿富山・高瀬・目前・和尓布多岐・阿多加野
所3以號2都麻1者播磨|刀賣《トメ》與2舟〔左△〕波刀賣《タニハトメ》1堺v國之時播磨刀賣到2於此村1汲2井(ノ)水1而|※[にすい+食]之《カレヒクヒテ》云。此水|有味《ウマシ》。故曰2都麻1
敷田氏標注 都麻、和名抄に洩たり。味《ウマ》の轉也○都麻は有味《ウマ》と音通ふ
栗田氏標注 國圖ヲ按ズルニ多可郡ニ都麻町アリ○舟波ハ恐ラクハ丹波○按ズルニ播磨國加東多可二郡ハ丹波國氷上多紀二郡ト相接セリ○宇末・都麻通音ナリ。故ニ都麻ト云フ
新考 今の西脇町の太字に津萬あり(西協町は近年まで津萬村といひき)○播磨刀賣・丹波力賣は共に女酋長なり。そのトメは日本紀なる名草|戸畔《トヘ》・丹敷戸畔《ニシキトベ》のトベに(424)同じくて女子の稱なり○堺はサカフとよむべし。堺する事をいにしへサカフといひしなり。萬葉集卷六(新考一〇六五頁)に
おほきみのさかひたまふと山守すゑもるちふ山に入らずばやまじ
とあり。天武天皇紀十二年十一月なる限2諸國之境界1の限分もサカフと傍訓せり。下文にも昔丹波與2播磨1堺v國之時とあり(三四九頁宍禾郡註參照)○井は泉なり。※[にすい+食]《ソン》之の之は助字なり。※[にすい+食]之はカレヒクヒテとよむべし。敷田氏がノミテとよめるは妄なり。乾飯をほとぼす爲に良水を求めしなり。讃容都|邑寶《オホ》里の下(三二四頁)にも彌麻都比古《ミマツヒコ》命|治《ハリテ》v井※[にすい+食]v粮とあり又下文美嚢郡|志深《シジミ》里の下に伊射報和氣《イザホワケ》命御2食於此井1之時とあり。※[にすい+食]は※[歹+食]とおなじく※[夕+食]の俗體なり。今黒田庄村の南部に大字津萬井あり。是此井の遺跡か。但西脇町大字津萬とは加古川を隔て又いたく相離れたり○云2此水|有味《ウマシ》1故曰2都麻1といへるはウマを訛りてツマといへりと云へるにや。有味の例は飾磨郡|手沼《テヌ》川の原註(一七一頁)に生2年魚1有味《ウマシ》とあり
云2都太岐1者昔讃伎日子神|誂《ツマドフ》2※[さんずい+水]〔左△〕上刀賣《ヒカミトメ》1。爾《ソノ》時※[さんずい+水]上刀賣答曰v否。日子神猶強(425)而誂之。於v是※[さんずい+水]上刀賣怒云。何故|△《強》v吾。即雇2建石《タケイハ》命1以v兵相闘。於v是讃伎日子負而還去云《マケテイヌトイハク》。我(ハ)其〔左△〕怯哉《イトツタキカモ》。故曰2都△《太》岐1
敷田氏標注 ※[さんずい+水]上、和名抄に丹波國氷上郡氷上郷(ハ)比加美とあるに據てよみつ○建石命は建石敷命の略か。神前郡の條に伊和大神の御子と有○我其の其は甚の誤なるべし
栗田氏標注 吾字ノ上ニ疑ハクハ強字ヲ脱セルナラム。故ニ今之ヲ補フ○建石命ハ神前郡ノ條ニ建石敷命アリ。疑ハクハ同神○我其ノ其ハ恐ラクハ甚字○太字モト脱セリ。今一本ニ從フ
新考 ※[さんずい+水]は冰の俗體なり(二二九頁參照)○丹波國氷上郡は本郡に隣れり。今も本郡より氷上都に通ぜる道數條あり。氷上刀賣は即前文の丹波刀賣にや。崇神天皇紀に丹波氷上人名(ハ)氷香戸邊とあるは別人なり○誂(原本に誹に誤れり)はツマドフとよむべし。二註にアトラフとよめるは非なり(二七頁參照)○何故の下、吾の上に栗田氏に從ひて強字を補ふべし。敷田本に誂字を填めたるは穩ならず○建石命は神前郡(426)の下に伊和大神之子建石敷命とあると同神ならむ。石の下に敷をおとせるかとも思へど下にも建石命とあり。神崎郡は本郡の西に隣れり。兵は兵器なり。ツハモノとよむべし。還去はカヘリイヌトとよむべし。イヌトはイヌトテなり○我甚怯哉(原本に甚を其に誤れり)といひしによりて都太岐といふといへるはツタナシのナを省きたるにあらでいにしへツタナシをツタシといひしならむ。このナはハシタナシ・オギロナシなどのナにて無の義にはあらで調を助くる助辭に過ぎざればいにしへ無くテ後に添へるも、古ありて後に除かれたるもあるべし(萬葉集新考三五五七頁參照)。さてこのツタキは字の如く卑怯なるなり○都岐の間に太字を補ふべし
云2比也山1者品太天皇狩(セシニ)2於此山1一鹿立2於前1鳴聲比々。天皇聞v之即止2翼〔左△〕人《イメビト》1。故山|者《ヲバ》號2比也山1、野|者《ヲバ》號2比也野1
敷田氏標注 翼人は揖保郡伊刀島(ノ)條にも見えて何れもカリビトと訓おきつ。韻書に翼(ハ)與職切、音弋とあれば弋人の音を借たるか。今按に周禮秋官に※[羽/是]氏掌v攻2猛鳥1とありて※[羽/是]讀爲v翅、翼之翅と注せり。かかれば翼人も※[羽/是]氏も同義なる事を知べし
(427)栗田氏標注 國圖ヲ按ズルニ今下比延・上比延及比延町アリ
新考 西脇町(津萬村)の東に比延庄《ヒエノ》村あり、比延はやがて比也のうつれるならむ○比々は賀古郡の下(二一頁)にも
一鹿走2登於此丘1鳴。其聲比々。故號2日岡1
とあり○翼人ははやく揖保郡伊刀島の下(一七九頁)に見えたり。※[羽/是]《シ》人の誤としてイメビトとよむべし(敷田氏はカリビトとよめり)。イメ人ヲ止メタマヒキは射る事をとどめ給ひしなり
鈴堀山者品太天皇巡行之時鈴落2於此山1雖v求不v得。乃堀v土而求之。故曰2鈴堀山1
新考 栗田氏は鈴堀山者・伊夜丘者・阿富山者・目前田者・阿多加野者の上に各云字を補ひて云字例補と註したれど云字は略したりと見てもあるべし○比延庄村大字堀にスソウジといふ山あり。或説に是鈴堀山なりと云へり。又傳説に今も雨降の日などには鈴の音聞ゆといへり○揖保郡|萩原《ハリハラ》里の下に
(428) 所3以號2鈴喫《スズクヒノ》岡1者品太天皇之世|田《カリセシニ》2於此岡1鷹(ノ)鈴堕落、求而不v得。故號2鈴喫岡1
とあると相似たり
伊夜丘者品太天△《皇》※[獣偏+葛]犬(名(ハ)麻奈志漏《マナシロ》)與v猪走2上此岡1。天皇見v之云2射乎《イムヤ》1。故曰2伊夜岡1。此犬與v猪相闘死。即作v墓葬。故此岡(ノ)西有2犬墓1
敷田氏標注、麻奈志朗は眞之白也。犬に名ある事垂仁紀に有v犬名曰2足往1とあるをはじめしばしば書に見え今も然り
栗田氏標注 天皇ハ原、皇字ヲ脱セリ。今一本ニ從フ
新考 獵は獵の古宇なり(原本に獵の曷を鳥に誤れり)○純白なる犬なりしかばマナシロと名づけられしならむ。マナはマナ鹿《カ》・マナ子・マナ鶴などのマナと同じくて敷田氏の云へる如く眞之の義ならむ。垂仁天皇紀八十七年に
昔丹波國桑田村有v人名曰2甕襲《ミカソ》1。則甕襲家有v犬名曰2足往《アユキ》1
とあり。是犬の名の我邦の書に見えたる初なり○射乎を二註にイヨとよみたれど然は訓まれず。もしイヨとよむべくは射与の誤字とすべけれど
(429) テニヲハを顯して書ける例は賀古郡の下に上緒爾・下緒爾また挾※[木+少]《カヂトリ》伊志治爾・印南郡大國里の下に帶中日子命乎、宍禾郡御方里の下に云2於和等1、本書逸文に新羅國|矣《ヲ》と書き上に引ける山城風土記逸文にも與2汝父1將v思人と書けり
寧イムヤとよみてイムヤを略して伊夜としたりとすべし○馬を葬りて馬墓と稱せし飾磨郡|貽和《イワ》里の下(一七二頁)に見え、本國の枚夫《ヒラヲ》といふ武士がその命を救ひし二黒狗の爲に伽藍を建て又之を祠りて地主神とせし事は元亨釋書卷二十八播州犬寺の條に見えたり 其犬寺は今も神崎郡粟賀村大字中村なる粟鹿川北岸にありて寺號を法樂寺といふ
○今の比延庄村大字堀なる村社犬次神社は右の麻也志漏を祭れるなりといふ説あり。いかが。村人は寧然らざらむ事を望むべし
阿富《アフ》山者以v朸《アフコ》荷v宗〔左△〕《シシ》。故號2阿富1
敷田氏標注 荷宗の宗は家の誤なるべし
(430)栗田氏標注 宍ハ原、宗ニ作レリ。恐ラクハ誤ナラム。今訂ス
新考 阿富はアフコより起れるなりとせるなればアフとよむべし。富は多くホに借りたれど又フにも借りたり。たとへば揖保郡上岡里菅生山の下に故曰2宗我富《ソガフ》1とあり○宗は栗田氏の云へる如く宍の誤とすべし。宍はは肉の古字にて猪鹿の借字なり○栗田本に號有阿富とあるは誤植なり。稿本には正しく故號阿富と書けり
云2高瀬村1者因v高2川(ノ)瀬1爲v名
新考 本來因川瀬高と書くべきなり。此川は加古川の川上なり。今の比延庄村と西脇町との間を流れたり○飾磨都の下(一四六頁)にも
申云。白2高處1琉落水是也。即號2高瀬村1
とあり
目前田《マサキダ》者天皇※[獣偏+葛]犬爲v猪所v打2※[うがんむり/舌]〔左△〕目《メヲウチサカル》1。故曰2目割《マサキ》1
敷田氏標注 目前田は日割田也。此次に和尓布多岐の傳を脱せり
栗田氏標注 打害ノ害ハ疑ハクハ割
(431)新考 目前を二註にメサキとよみたれど飾磨郡|麻跡《マサキ》里の下(九四頁)に能似2人目割下1故號2目割1とあればマサキとよむべし○※[うがんむり/舌]は害の俗體なり。さてここは割の立刀をおとせるなり○目割の事は麻跡里の下にいへり。但ここなるは猪の爲に目を咋ひ割かれたるにて人の爲る目割とは裂けたる状も異なりけむ○此次に和爾布多岐の縁起をおとせるか
阿多加野者品太天皇狩(セシニ)2於此野1一猪負v矢爲2阿多岐1。故曰2阿多賀野1
敷田氏標注 阿多岐は猪の怒状也。古事記雄略天皇御世の件に猪怒而宇多岐依來。故天皇畏2其宇多岐1云々、夜美斯忘能宇多岐加斯古美とあるに同語也
栗田氏標注 古事記雄略天皇ノ條ニ猪怒而宇多岐依來トアリ。宇多岐ハ怒ナリ。阿多岐ト同語
新考 爲阿多岐はアタキス又はアタキシキとよむべし。アタキヲナスとはよむべからず。アタキが古事記雄略天皇の段なる其猪怒而宇多岐|依來《ヨリク》のウタキに同じき事は二註に云へる如し。そのウタキはうなる事なり○故曰2阿多賀野1の賀を二氏共(432)に加に誤れり。原本に上なるは阿多加〔右△〕野、下なるは阿多賀〔右△〕野とあり
○法太《ハフダ》里(土下上)
甕《ミカ》坂・花波山
所3以號2法太1者讃伎日子與2建石命1相闘之時讃伎日子負而|逃去《ニゲイヌト》以v手|匍去《ハヒイニキ》。故△《云》匍田《ハフダ》1
敷田氏標注 法太、和名抄に脱せり
栗田氏標注 法太ハ高山寺本倭名鈔ヲ按ズルニ多可郡蔓田郷(波布太、國用2這田1)トアリ。流布本倭名鈔ニ蔓々ニ作レルハ誤レリ。注太・這田ハ音訓相同ジ。國圖ヲ按ズルニ多可郡ニ中畑奥畑ノ二村アリ。即法太ノ意カ○云字モト脱セリ。今一本ニ從フ
新考 今加西郡に芳田《ハウダ》村あり。多可郡の日野・重春二村と野間谷村とに挿まれたり。是本書の託賀郡法太里なり。和名抄の郷名に蔓々とあるは蔓田の誤なり。蔓は萬葉集にも根蔓《ネハフ》ムロノ木などハフにつかへり○故の下に云を補ふべし○中畑奥畑は比延《ヒエ》庄村の大字にて芳田《ハウダ》村とは懸絶せり。又そのハタは無論ハフダの約にあらず
(433)甕《ミカ》坂者讃伎日子逃去之時建石命逐2△《來》此坂1云。自v今以後更|不v得《エジ》入2此界1。即御冠(ヲ)置2此坂1。一家云。昔丹波與2播磨1堺v國之時大甕(ヲ)堀2埋於此此△《坂》(ノ)上1以爲2國(ノ)境1。故曰2甕坂1
敷田氏標注 逐、神代紀の訓に從ふ(○かく註してヤラヒテとよめり)○冠をミカゲとよむ事前件にしばしば見えたり(○やがて御冠をミカゲとよめり)○堺國の上落字あり
栗田氏標注 逐ノ下ノ來字今意モテ之ヲ補フ○按ズルニ丹波播磨界ヲ定メシ事|已《ハヤク》都麻里ノ條ニ見エタリ
新考 今|芳田《ハウダ》村より多加野村(加西郡)に出づる峠を二个《ニカ》坂といふ。是ミカザカの轉じたるなり○逐の下に栗田氏に從ひて來字を補ふべし○不得入此界といひしも冠を坂に置きしも共に呪詛《トゴヒ》なり。さて冠を置きしが故にミカガフリ坂といふべきをつづめてミカ坂といふなりと云へるなり○御冠はミカガフリとよむべし(四〇七頁參照)○一家はアルヒトなり。上にも見えたり○堺はサカヒシとよむべし。敷田(434)氏がワクルとよめるはわろく又「堺國の上落字あり」と云へるは誤解なり。敷田氏も上文都麻里の下(四二三頁)にては同じく堺國之時とあるを國ヲサカフトキとよめり○此上の間に坂字を補ふべし○多可郡が昔丹波に屬せし事は史に見えざれど此郡は播磨の東北偏にて丹波に接したる上、上文に據れば氷上刀賣の勢力範圍なりし趣なれば丹波に屬せし時代もあるべし。否播磨丹波と分れしは神話時代の事にはあらで遙に後の事なるをここは此地方が後の丹波と共に一豪族の勢力範圍なりし事を、後を前にめぐらして丹波ト播磨ト國ヲ堺ヒシ時とは云へるなり
花波山者近江國花波之神在2於此山1。故因爲v名
敷田氏標注 花波之神、賀茂郡川合里條に花浪神に作れり
栗田氏標注 國圖ヲ按ズルニ郡南ニ板波ムラアリ(○稿本には按2國圖1都南有2板波山〔右△〕1とありて朱書追註に按2國圖1有2板波村1蓋花波也とあり)○神名式ヲ按ズルニ近江國伊香郡波彌神社・丹後國丹波郡波彌神社アリ。又丹後宮津志ニ云ハク熊野郡花波里今波見ト稱スト。此ニ據レバ花見・波彌蓋同地ニシテ波彌・花浪或ハ同神ナラム
(435)新考 下文賀毛郡川合里の下に
右|腹辟《ハラサキ》沼ト號スルハ花浪神ノ妻|淡海《アフミノ》神己ガ夫ヲ追ハム爲ニ此處ニ到リ遂ニ怨ミ瞋リミヅカラ刀ヲ以テ腹ヲ辟キテ此沼ニ没ス云々
とあり。今野間谷村大字貴船字中野間に村社貴船神社あり。俗に花の宮と稱し慶安元年の棟札にも花(ノ)宮木船明神と書けりといふ。又其附近の山林田畑の小字をも花の宮といふ由なれば花ノミヤはおそらくは花ナミヤマの轉訛ならむ。さて花の宮の祭神は高※[靈の巫が龍]《タカオカミノ》神なりといふ。タカオカミノ神は水神にて雨雪を掌る神なれば花浪(ノ)神の妻を淡海神といひ其神、沼に入りきと云へるも由ある如くおぼゆ。更に思ふにハナナミは始浪《ハナナミ》の義か。因にいふ。山城の貴船神社の祭神は水神|罔象女《ミヅハノメノ》神なり○栗田氏は神名帳より近江丹後の波彌神社を引出でて波彌花浪或同神と云ひたれど恐らくは別神ならむ。ハナナミを略してハミとは云ふべからざればなり。續日本紀天平神護二年七月の下に
散位從七位上昆解宮成得d似2白鑞1者u以獻言曰。是丹波國天田郡華浪山〔三字傍点〕所出也
とあるは固より神名帳の丹後國丹波郡波彌神社とは別地なり。此神社は今の中郡(436)|新山《シンザン》村大字荒山にありて宮津志にいへる熊野郡波見とも別地なり。因にいふ。同國與謝郡養老村の大字にも里|波見《ハミ》・奥波見・中波見あり○又栗田氏の擧げたる板波村は本郡重春村の大字にて、唱はイタバにて花浪山とは相與からず
以上四里(賀眉・黒田・都麻・法太)之を和名抄の郷名荒田・賀美・那珂・資母・黒田・蔓田《ハフダ》と比較するに彼には都麻なく此には那珂・資母なし(荒田は本書にては賀眉里に屬せり)。更に今の町村と比較せむに賀眉が略今の杉原谷村・松井庄村より中町の北部に亙れる事ははやく上に述べたる如し。黒田は黒田庄村に當り都麻は西脇町・比延庄村に當り法太は加西郡大和村・本郡野間谷村・加西郡芳田村に當れり。然らば今の中町・日野・重春の二村はいかが。思ふに和名抄の那珂は中町・日野村に當り、おなじく資母は今の重春村(及本書の都麻里)に當るべし。而して本書に賀眉のみありて那珂・資母の無きは中町は賀眉里の内、日野・重春は都麻里の内なりしか
賀毛郡
所3以號2賀毛1者品太天皇之世於2鴨村1雙鴨《ツガヒノカモ》作v栖生v卵。故曰2賀毛郡1
(437)敷田氏標注 賀毛郡和名抄に賀茂に作れり。國造本紀に針間國造とあり。此地也
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰ク播磨郡賀茂郡
新考 續日本紀に
天平元年夏四月播磨國賀茂〔右△〕郡加2主政主帳各一人1
とあり。是本郡の名の史に見えたる始なり。之に次ぎて續日本後紀に
承和七年七月以2播磨國揖保郡大道寺・賀茂〔右△〕郡清妙寺・觀音寺1並爲2天台別院1
三代實録に
元慶六年十二月勅。播磨國賀古郡野・印南郡今出原印南野・神埼郡北河添野前河原・賀茂〔右△〕郡宮來河原爾可支河原先既有v制。今重禁斷……
とあり。延喜式・和名妙にも賀茂郡と書けり。今加東・加西二郡に分れたり○本書賀古郡の下(二五頁)に賀毛郡(ノ)山(ノ)直《アタヒ》等始祖|息長《オキナガノ》命とあり○國造本紀に
針間(ノ)鴨(ノ)國造 志賀(ノ)高穴穗(ノ)御世|上毛野《カミツケヌノ》同祖御穗別〔三字傍点〕(ノ)命(ノ)兒|市入別《イチリワケノ》命(ヲ)定2賜國造1
とあり志賀(ノ)高穴穗御世は成務天皇の御時なり。庇御時に針間(ノ)國造と針間(ノ)鴨(ノ)國造とを定め給ひ應神天皇の御時に更に明石(ノ)國造を定めたまひしなり
(438)姓氏録に
佐伯直《サヘギノアタヒ》ハ景行天皇ノ皇子稻背入彦(ノ)命ノ後ナリ。男御諸別(ノ)命〔四字傍点〕、稚足彦《ワカタラシヒコノ》天皇(謚成務)ノ御代ニ針間國ヲ中分シテ給ヒキ。仍《カレ》針間別トイヒキ。男阿良都(ノ)命(一名|伊許自別《イコジワケ》)……
とあり國造本紀に
針間國造 志賀高穴穗ノ朝ニ稻背入彦命(ノ)孫伊許自別(ノ)命ヲ國造ニ定メ賜ヒキ
とあるを見れば其系圖は左の如し。
景行天皇――稻背入彦命――御諸別命〔四字傍点〕――伊許自別命
又姓氏録に
下毛野《シモツケヌノ》朝臣ハ崇神天皇ノ皇子|豐城入彦《トヨキイリヒコノ》命ノ後ナリ
上毛野《カミツケヌノ》朝臣ハ下毛野朝臣卜同祖ナリ。豐城入彦命五世ノ孫|多奇波世《タケハセ》ノ君ノ後ナリ
景行天皇紀に
五十五年春二月以2彦狹島王1拜2東山道十五國都督1。是《コハ》豐城命之孫也
(439) 五十六年秋八月詔2御諸別王〔四字傍点〕1曰。汝父彦狹島王……とあり、さればその系圖は左の如し。
崇神天皇――豐城入彦命……(孫)彦狹島王――御諸別王〔四字傍点〕
さて栗田氏の姓氏録考證(二四八頁)に
國造本紀に志賀高穴穗朝御世上毛野同祖御穗別命〔四字傍点〕兒市入別命定2賜國造1とある御穗別は御諸別なるべし。姓氏録に御諸別命成務天皇御代中2分針間國1給v之仍號2針間別1と云へるにて然思はる
といひ大日本地名辭書にも
國造本紀には云云とあり姓氏録に云云とあるは蓋此にて御穗別は御諸別の謬と爲す
といへり。案ずるに國造本紀の御穗別命は景行天皇紀に據りて御諸別の誤ともすべし(又は景行天皇紀の御諸別王を國造本紀に從ひて御穗別の誤ともすべし)。但そは崇神天皇の玄孫にて景行天皇の孫なる御諸別とは同名異人なり。されば姓氏録なる佐伯直の條は「御穗別は御諸別の誤なり」といふ證には引くべからず(440)○今加東郡の北偏に加茂村あり。又加西郡の西偏に賀茂村あり。共に町村制實施の時の命名なり。ここに鴨村と云へるは下文の上鴨里・下鴨里の總稱にて二里共に今の加西郡なるは下に云ふ如し○雙鴨は敷田氏に從ひてツガヒノカモとよむべし
○上鴨里(土中上)下鴨里(土中中) 右二里△3△《所以》號2鴨(ノ)里1者已詳2於上1。但後分爲2二里1。故曰2上鴨・下鴨1。所以〔二字□で囲む〕品太天皇巡行之時此鴨|發飛《タチトビテ》於2居《ヰキ》※[行人偏+條の旁]〔三字左△〕布《スフノ》井(ノ)樹1。此時天皇問曰。何鳥哉。阿〔左△〕從當麻品遲部《ミモトビトタギマノホムヂベノ》君|前玉《サキタマ》答曰。住2於川1鴨。勅|今〔左△〕令v射《イシメシ》時發2一矢1中2二鳥1。即負v矢從2山(ノ)岑1飛越之處號2鴨坂1、落斃之處者仍號2鴨谷1煮v羮之處者△《號》2煮坂1
敷田氏標注 下鴨、和名抄に脱せり。總て同郡郷の名の上下に分れたるは大方は上ツ某下ツ某と云べき例なれど又然よまざるものもあれば姑よまざる例に習〔左△〕ふ。詳於上は郡名の下に傳あるを云○於居の於は條布の上にありけむを誤て爰に書入しならむ○當麻は和名抄に大和國葛下郡の郷名にて同郡に品遲部郷もあり。古事記垂仁(ノ)御件に定2品遲部1と有、垂仁紀に品遲部(ノ)雄※[魚+即]と云人見ゆ
(441)栗田氏標注 倭名鈔ニ曰ク、播磨郡賀毛郡上鴨ト、國圖ヲ按ズルニ加東郡ニ上下ノ鴨川村アリ○按ズルニ所以ノ二字本書ニ次行下鴨ノ下ニアルハ誤レリ。今彼ヲ削リテ此ヲ補フ○※[行人偏+條の旁]布ハ疑ハクハ修布ノ訛ナラム。然レドモ下文皆※[行人偏+條の旁]布ニ作レリ。故ニ輒改メズ。下之ニ倣ヘ○侍從ハ原阿從ニ作レリ。今一本ニ從フ○令ヲ今ニ作レルハ誤レリ。今一本ニ從フ○國圖ヲ按ズルニ加西郡ニ鴨谷村アリ○號字例ノゴト補フ
斬考 品太天皇の上なる所以の二字は右二里の下、號鴨里者の上に移すべし○發飛はタチトビテとよむべし。敷田氏はトビキテとよみ栗田氏はトビタチテとよめり○於居は居於の顛倒なり○※[行人偏+條の旁]は修の誤なり。居はヰキとよむべし。トマツタといふ事なり。修布《スフノ》井の事は下文に見えたり。修布(ノ)井(ノ)樹は其井の邊の木なり。井の邊には日光を隔て塵を防ぎなどせむ爲に好みて木を栽ゑ又はおのづから生ひたるを茂らせきとおぼゆ。たとへば神代紀の海宮遊行章に
門前有2一井1井上有2一(ノ)湯津杜《ユツカツラ》樹1枝葉扶疏
とあり。又本書逸文に明石驛家の駒手(ノ)御井に楠の生ひし事見えたり○阿從は侍從(442)の誤なり。侍從は飾磨郡英馬野の下(一五〇頁)にも見えたり○住2於川1鴨はソコノ川ニ住メル鴨ナリとの意なり。されば住於川は川ニスムとよまで川ニスメルとよむべし。さて川といへるは下里川の一源にて今の賀茂村より起れる小川ならむ○今射は令射の誤なり。されば時に聯ねて射シメシ時ニとよむべし○修布(ノ)井は今の富田村の内なり。富田村は加西郡の西端にあり。其東方に在田村あり。此村の南部に大字鴨谷あり。鴨坂は鴨谷と北條町古坂との間なる古坂峠か○煮羮は其鴨を羮とせしなり。煮坂の上に栗田氏に從ひて號字(又は仍號の二字)を補ふべし。敷田本に號字あるは近人の私に補ひたるなり○栗田氏が鴨里に加東郡なる上下の鴨川村を擬したるは誤れり
下鴨里有2碓居《ウススヱ》谷・箕△《谷》・酒屋谷1。此〔左△〕《ムカシ》大汝命造v碓稻(ヲ)舂之處者號2碓居谷1、箕(ヲ)置之處者號2箕谷1造2酒屋1之處者號2酒屋谷1
栗田氏標注 谷字、下文ニ據リテ補フ○國圖ヲ按ズルニ加西郡酒見村ニ酒大明神社アリ○碓居ハ今、牛居村アリ○酒屋ハ今加東郡ニ榮枝村アリ。蓋是
(443)新考 箕の下に谷を補ふべし。此(ノ)字は昔の下を落し上を誤れるか。敷田氏本に稻舂之處の下に者字を脱せり○今下里村の大字に牛居《ウシヰ》あり。是ウススヱのつづまりてウスヱとなり更に訛られてウシヰとなれるならむ○酒屋は酒を造る處なり。賀古郡の下(四〇頁)揖保郡|石海《イハミ》里及|萩原《ハリハラ》里の下(二六六頁及二八三頁)に見えたる酒殿におなじ。やがて賀古郡の下には造2酒殿〔右△〕1之處即號2酒屋〔右△〕村1とあり。萬葉集卷十六に能登國|熊來《クマキ》といふ地にある造酒處を熊卦酒屋といへり(萬葉集新考三四四九頁参照)○和名抄の郷名に上鴨ありて下鴨無きは落ちたるにや。さて上下の鴨里は今のいづれの村に當るべきか。上鴨里の下にいへる鴨谷は今の在田村なる鴨谷なるべく又下鴨里の下にいへる碓居谷は今の下里村なる牛居なるべければ上鴨里は今の西在田村及在田村に當り下鴨里は今の賀茂村及下里村に當るべきかと思ふに上鴨・下鴨は鴨里が分れて二里となれるなる事本書に云へる如くなれば二里は必相續きたるべきに今の西在田・在田二村と賀茂・下里二村とは富田村(即本書の修布里)と北條町(即本書の三重里)とに隔てられたり。されば上鴨里はおそらくは西在田・在田二村には當らざらむ。然るに本書に上鴨里の下に鴨谷の名の起をいへるは射られし(444)鴨の成行を云ふとて勢、他里に及びたるにてなほ飾磨郡|安相《アサグ》里の下に神前郡なる陰山の名の起を云へる如くならむ。進みて案ずるに上鴨里は略今の賀茂村に當り下鴨里は略今の下里村に當るべし。なほ云はば上鴨里・下鴨里を略して上里・下里といひしに上里の名は亡びて下里の名のみ郷名として殘りしが町村制實施の際にたまたま取られていにしへの下鴨里の新村名となりしならむ。或は云はむ。近世下里郷といひしは今の賀茂村及下里村なり。もし賀茂村が本書の上鴨里に當らば之を併せて下里郷といふべけむやと。答へて云はむ。おそらくは昔は上里郷といひけむに上里の名の亡びし後|劔坂《ケンザカ》庄と稱せられしが其名も亡びて終に(下里が上里に對する名なる事も知られずなりし後に)下里郷の内となりしにこそ○栗田氏のいへる酒見は酒見《サガミ》北條の事にて即今の北條町の大字北條なれば本書の酒屋谷に擬すべからず。又酒大明神社といへるは酒見《サガミ》大明神の誤にて酒見大明神は今の縣社住吉神社の舊稱なり。又ここは加西郡の西南偏の事を云へるなれば加東郡の榮枝村(たとひさる村ありとも)などを擬すべきにあらず
(445)○※[行人偏+條の旁]〔左△〕布《スフ》里(土中々) 所3以號2※[行人偏+條の旁]〔左△〕布1者此村在〔左△〕v井。一女汲v水即被2吸|没《イレ》1。故曰號2※[行人偏+條の旁]〔三字左△〕布1
敷田氏標注 條布、和名抄に脱せり。條は修の誤なるべし○没は仁徳紀に没《イリテ》v水而死を云
栗田氏標注 國圖ヲ按ズルニ加西郡ニ吸谷村アリ。按ズルニ條布郷は和名鈔ニ載セズ○在井ハ疑ハクハ有井ニ作ルベシ○號曰ハ原、曰號ニ作レリ。蓋倒ナリ。今之ヲ訂ス
新考 修布《スフ》里は今の富由村ならむ。其大字に吸谷あり。之をスヒタニと唱ふるはスフヰのつづまりてスヒとなれるならむ近世までも富田村の大字西谷・畑・窪田・吸谷を總稱して須富《スフ》庄といひき○汲水は水ヲ汲ミシニとよむべし。二註に水ヲ汲メバとよめるは非なり。或時一人ノ女ガ水ヲ汲ミシニと云へるにて女ガ水ヲ汲ム毎ニと云へるにあらねばなり
鹿咋《カクヒ》山 右所3以號2鹿咋1者品太天皇狩行之時白横〔左△〕|咋《クヒテ》2己舌1偶2於此山1。故曰2(446)鹿咋山1
敷田氏標注 白横は白鹿の誤なるべし。景行紀に以v蒜彈2白鹿1、仁徳紀に獲2白鹿1乃還之獻2于天皇1
栗田氏標注 白横ハ詳ナラズ。蓋白猪ノ訛ナラム
新考 白横は白鹿の誤ならむ。但鹿と横とは字形相遠し。如何にして誤れるか○咋己舌はオノが舌ヲクヒテとよむべし。二註にクヘルニとよめるはわろし○此一節は揖保郡|香山《カグヤマ》里佐佐村の下(一八三頁)に
品太天皇巡行之時|※[獣偏+果]《サル》噛2竹葉1而遇之
とあり、宍禾郡の下(三四八頁)に
伊和大神……巡行之時大鹿出2己舌1遇2於矢田村1
とあり、同郡柏野里の下(三六一頁)に有2嘶馬1遇2於此川1とあると相似たり
品遲部《ホムヂベ》村 右號v然者品太天皇之世品遲部等(ノ)遠祖|前玉《サキタマ》所2賜《タマハリキ》此地1。故號2品遲部村1
(447)栗田氏標注 春枝云ハク。加東郡積岡山下ニ本知村本知院アリト
新考 前玉は上文に當麻《タギマノ》品遲部(ノ)君前玉とあり。品遲部は垂仁天皇の御世に本牟智別《ホムヂワケ》皇子の御名を後に傳へむが爲に諸國に置かれし部曲《カキベ》の稱なり。古事記に此皇子が出雲大神を拜みに下ります處に毎2到坐《イタリイマス》處1定2品遲部1とあり。日本紀には擧津部《ホムツベ》とあり。當麻《タギマノ》品遲部(ノ)君は大和國當麻なるホムヂ部の長なり○栗田氏の擧げたる春枝の説は例の妄語なり。加東郡に積岡山・本知村・本知院などいふ地名・寺名ある事を聞かず。又ここは加西郡の西偏の事を云へるをや
○三重里(土中々) 所3以云2三重1者昔在〔左△〕2一女1拔v※[竹/(土+向)]〔左△〕《タカナ》以v布|裹食〔左△〕重居《ツツミシニミヘニヰテ》不v能2起立1。故曰2三重1
敷田氏標注 ※[竹/(土+向)]は字書に見えず。是は※[竹/均]の誤か。※[竹/均]は平他字類抄に、ワカタケと注せれば筍字に通はし書しならむ。三重居は古事記倭建命の御件に吾足如2三重1勾而甚疲とあるに同
栗田氏標注 倭名抄ニ曰ク賀茂部三重○在ハ恐ラクハ有○※[竹/(土+向)]ハ疑ハクハ筍字○(448)以布裹食ハ上下ニ恐ラクハ脱誤アラム、重ノ上ニ疑ハクハ三(ノ)字ヲ脱セルナラム。古事記景行ノ段ナル伊勢國三重村ノ名義此ト稍同シ○按ズルニ夫木抄ニ云ハクおいらくのこしふたへなるみなれどもうづゑをつきてわかなをぞつむ、大鏡ニ云ハク此姨いとい・う老てふたへにてゐたりト。此ニ據レバ一女筍ヲ拔キテ之ヲ負ヒ加以《シカノミナラズ》、糧ヲ裹ミ任ニ勝フル能ハズシテ遂ニ其身※[人偏+句]僂シ起ツベカラザルニ至リシナリ
新考 峰相記微考卷下に
三(ノ)宮酒見大明神者(加西郡北條郷酒見村)養老六年壬戌住吉大明神竝五所(ノ)王子當國入坐(酒見社記曰養老元年高官(ノ)化人親子五八入2當國1)。先上鴨西條鎌倉嶺坐(北條郷鴨谷村西條鎌倉峯)從神佐保明神私意有(テ)此嶺不v宜由申(テ)三重北條〔四字傍点〕(ニ)誘引、鴨坂(同所)北谷石上御優息時佐保明神(加東郡福田庄佐保社鎭座)御裹(ヲ)盗(テ)加東川東(ヘ)逃去畢云云(○括弧内なるは劔持見立が元禄十一年に加へし所謂微考なり。見立名は清詮、號は一愚齋、越より來りて播磨に住みたりき)
とあれば三重里は今の北條町附近ならむ。然るに今の北條町大字北條は俗に酒見(449)北條といひて(サカミのカを濁りてサガミと唱ふ)三重北條とは云はず。北條の西端に縣社住吉神社あり。即所謂延暦八年住吉大社解状にいへる賀茂郡住吉酒見社にてもとは酒見大明神といひしを明治の始に延喜式神名帳に據りて住吉神社と改稱せしなり。其東隣に酒見寺あり、其縁起に播州三重北條〔四字傍点〕泉生《センジヤウ》山酒見寺記と題したるものあて其中にも
天正慶長之際三重北條〔四字傍点〕十二箇村氏子中毎2公田一段1米穀一斗二升捧2明神及本尊之供燈料1
といへり。又酒見北條といふ名ははやく播磨事始に見えたれど三重北條といふ名よりは新しき如し。さればもと三重北條といひしを酒見社并に酒見寺のあるに由り酒見北條といふこととなりしかと思ふにはやく和名抄郷名に三重の外に酒見を擧げたり。されば源順の時代には三重・酒見の二郷ありしにて其二郷の關係は如何といふに酒見は恐らくは三重より分れしにて二郷は相續きたりけむ。さればこそ後には二郷混一して酒見神社及酒見寺の所在をも三重北條といひ更に後には三重北條の名亡びて酒見北條の名之に代りて起りしならめ。又中ごろ須布北條(450)といひしにや。佐保神社記に須布北條今云2酒見北條1とあり。修布里は三重里の西隣なる事上に云へるごと○※[竹/(土+向)]はげに筍の誤ならむ。筍はタカナとよむべし。タカナは竹菜なり。菜は食用とすべき草の總稱なり。又タカナは古の俗語にて雅にはタケノコと云ひき。今タケノコを俗と思ひタカナを雅と思ふは倒なり。古今集雜歌下にタケノコノとよみ詞花集雜上なる花山院御製に
世の中にふるかひもなき竹の子〔三字傍点〕はわが經む年をたてまつるなり
とありて其端書に「冷泉院へたかんな〔四字傍点〕奉らせ給ふとてよませ給ひける」と書けり。タカンナはタカナを撥ねたるなり○栗田氏は重上疑脱2三(ノ)字1といひ敷田本には三の字を補ひたれど裹食の食は恐らくは之三の二字を誤りて一字とせるならむ。即|原《モト》は
昔有2一女1拔v筍以v布裹v、三重(ニ)居(テ)不v能2起立1
とぞありけむ。三重居とは躯幹と大腿と下腿と三重に折れ重なりたるなり。古事記景行天皇の段にも
其地《ソコ》ヨリ幸《イデマ》シテ三重村ニ至リマシシ時ニ亦吾足三重ノ如ナリテ甚《イタ》ク疲レ(451)ヌト詔《ノ》リマシキ。故《カレ》其地ヲ三重トイフ
とあり、但こは大腿と下腿と※[足扁+付]と三重になりしなり
○楢原里(土中々) 所3以號2楢《ナラ》原1者|柞《ナラ》生2此村1。故曰2柞原1
敷田氏標注 楢原和名抄に脱せり。楢は常にナラとよみ柞はハハソと訓ならへるを新撰字鏡に楢を波波曾と注し柞を奈良乃木と注せれば何れによみても妨なきに似たれど和名抄に大和國葛上郡郷名楢原(ハ)奈良波良と注せるに傚て柞字をも然よみつ
新考 楢原里は今の富合・九會《クヱ》二村より加東郡|來住《キシノ》村に亘れり。今の西在田・在田二村も此里に屬せしか。なほ下に云ふべし○新撰字鏡に柞をも奈良と訓めり
伎須美野 右號2伎須美野1者品太天皇之世大伴(ノ)連等請2此處1之時喚2國造黒田別1而問2地状1。爾《ソノ》時對曰。縫(ヘル)衣(ヲ)如v藏《キスミタル》2※[木+貴](ノ)底1。故曰2伎須美野1
敷田氏標注注 伎須美野、今來住村ありとぞ。※[木+貴]底の※[木+貴]は(○※[木+貴]をキとよみて)音を借た(452)るにはあらず・盃《ツキ》・缶《ホトギ》・甑《コシキ》・棺《ヒツギ》などのキにて音訓暗合の字也
栗田氏標注 國圖ヲ按ズルニ加東郡ニ上下ノ來住村アリ○按ズルニ多加郡ニ黒田里アリ。必由アラム○按ズルニ萬葉集ニ云ハク。伊奈大吉爾伎須賣流玉者無二ト。仙覺抄ニ云ハク、伊奈太吉ハ頂ナリ。伎須賣流ハ來住ナリ。明珠髻中ニ在ルヲ言ヘルナリト。今風土記ニ據リテ之ヲ考フルニ伎須美ノ言ハ藏ナリ。倭姫世記ニ國太摩伎志賣留國ノ語アリ。亦伎須美ト同言
新考 國造は針間(ノ)鴨(ノ)國造なり。針間(ノ)鴨(ノ)國は今の加東・加西・多可の三郡なり。黒田別は託賀郡黒田里を名に負へるか。多可郡は、加西郡の北隣なり○縫衣如藏※[木+貴]底はヌヘル衣ヲヒツノソコニキスミタルゴトシと訓むべし。※[木+貴]は櫃の略字なり。敷田氏が※[木+貴]底をキノスミとよみて伎須美野に合せ又六字を衣ヲヌヘルハキノスミニイルルガゴトシと訓めるはひがごとなり。藏を栗田氏がキスメルとよめるはいとめでたし。但キスミタルとよみて伎須美野の名を導くべし。萬葉集卷三(新考五〇〇頁)に
いなだきに伎須賣流たまはふたつなしかにもかくにもきみがまにまに
とあるもここの文を證として藏有の義とすべし○今來住と書きてキシノと唱ふ(453)る村あり(ノを添へてキシノといふなり)。キスミのスミがつづまりてシとなりたれど幸に文字に原稱を殘せるなり。此村今加東郡に屬せり○來住村の東北に大部村あり。又小野町|久下《クゲ》山に下大部あり。又市場村大島に字大部(ノ)前(舊稱大部新)あり。此大部は東大寺の舊領なる彼大部庄の跡なるがここにいへる大伴連と關係あらざるか。大伴を古典に往々|大部《オホトモ》と書けり。本書にも加古郡|鴨波《アハハ》里の下(五二頁)に大伴造を大部造《オホトモノミヤツコ》と書けり。されば大部はもとオホトモと唱へしを後に字に就きてオホベと唱たることとなりしにあらざるか
飯盛嵩《イヒモリノタケ》 右號v然者大汝命之御飯(ヲ)盛2於此嵩1・故曰2飯盛嵩1
新考 豐合村と下里村との界の山を飯盛山といひ其南麓を飯盛野といふ。上文に大汝命造v碓稻舂之處號2碓居谷1とあるに當るべき牛居と飯盛山とは相遠からず○原本に大汝命之御飯の之の傍に云歟と註せり。もとのままたるべし
粳《ヌカ》岡 右號2粳岡1者大汝命令v舂2稻於下鴨村1。故粳飛2到於此岡1。故曰2粳岡1
新考 九會《クヱ》村|網引《アビキ》に糠塚山あり。是か。九會村は下里村(即下鴨里)の東に接せり○宍(454)禾郡比治里稻舂岑の下(三五七頁)に其粳飛到之處即號2粳前《ヌカザキ》1とあり。又神前郡多駝里の下(四〇三頁)にも粳岡といふ地名見えたり○大何時命が碓を造りて稻を舂かしめし事は下鴨里の下に見えたり
有〔□で囲む〕玉野村 所3以△《號》2△△《玉野》1者|意奚《オケ》・袁奚《ヲケ》皇子等坐2於坐〔□で囲む〕美嚢《ミナギ》郡|志深《シジミ》里高宮1遣2山部(ノ)小楯1誂《ツマドフ》2國造|許麻《コマ》之女根日女命1。於v是根日女已依v命訖。爾《ソノ》時二皇子相辭不v娶。于2△《逕》v日間1根日女|老長《トシタケテ》逝。于v時皇子等大哀即遣2小立《ヲダテ》1勅云。朝△《日》夕日|不v隱〔左△〕《カゲラヌ》之地造v墓藏2其骨1以v玉餝v墓。故縁v此墓號2玉丘1其村號2玉野1
敷田氏標注 意奚は仁賢、袁奚は顯宗天皇を申○根目女老云云是は雄略天皇の御世の赤猪子の古事に殆似たり。長逝は死る事を云。扨根日女の身まかりしは二皇子京に還まして後にや
栗田氏標注 按ズルニ所以ノ下、例ニ據レバ號玉野ノ三字ヲ脱セリ○坐字ハ恐ラクハ衍○國圖ヲ按ズルニ加東郡黒川ノ南ニ玉崎村アリ
新考 有玉野村の有は衍字ならむ。敷田本には之を削れり○所以の下、者の上に栗(455)田氏に從ひて號玉野の三字を補ふべし。敷田氏本には號然の二字あれど此本は元來三條西本とは別本にあらで三條西本を寫したるものなる事夙く云へる如し。されば敷田本の三條西本に異なる處は傳寫者が改め又は補ひ又は削りたるにて敷田本に據りて三條西本の誤脱衍字を訂すべきにあらず○下の坐字は衍字とすべし。敷田本は之を削れり○意奚《オケ》袁奚《ヲケ》二皇子は後の仁賢・顯宗二天皇なり。山部小楯は播磨にて二皇子を見顯し奉りし人なり。古事記にも山部(ノ)連《ムラジ》小楯とあれど日本紀によれば初|來目部《クメベノ》小楯といひしが二皇子を見顯し奉りし功に依りて山官に任ぜられて山部(ノ)連といふ氏を賜はりしなり。小立は小楯に同じ。原本に小楯の盾を※[ノ/者]と書けり。遁の盾をも上に※[ノ/者]と書けり○誂を原本に誹に誤れり。誂はツマドフとよむべし。二註にアトラフとよめるはわろし○國造は鴨國造なり。その在所は後の加西郡の内なりきとおぼゆ。美嚢郡は加東郡の東につづきて當時は明石國に屬したりき○已依命訖はスデニオホセニヨリヲハリヌとよむべし。敷田氏はスデニミコトニシタガヒヲヘヌとよめり。オホセニヨルとミコトニシタガフとはいづれにても可なれど訖は必ヲハリヌとよむべし。さてスデニはコトゴトクなり。全クなり。ハヤクと(456)いふことにあらず○于の下、日の上に逕を補ふべし。逕は經の通用なり。栗田氏は過を補へり。敷田氏が于日間をそのままにてアヒダとよめるはいとわろし(不娶につづけてメトリタマハザリシアヒダとよめり)○老長逝は老長にて切りてトシタケテシニキとよむべし(但逝はスギニキともいかにともよむべし)。栗田氏が老長をトシオイテとよめるは老字に拘はり過ぎたり。敷田氏が老にて切りてオイテミマカリヌとよめるはいとわろし。清寧天皇紀に二年冬十一月に來目部小楯が二皇子を見顯し奉りし草見えて
是月使d小楯持v節將2左右舍人1至2赤石1奉迎u
と見え顯宗天皇紀に
白髪天皇(○清寧)三年春正月天皇隨2億計王1到2攝津國1
と見えたれば見顯されたまひての後播磨國にましまししはただしばしの程なるべきにここに于2逕v日間1根日女老長逝と書けるはいといぶかし。思ふにこは第二の命を待ち奉る間にうせしなるをいと久しき事のやうに傳へ誤れるならむ○朝の下に日を補ふべし。敷田本には此字を補へり。不隱は不陰の誤としてカゲラヌとよ(457)むべし。朝日夕日ノカゲラヌ地とは一日中日ノヨクサス處となり。古人の日ざしをめでし事は今人の想像以上なり○玉は美しき圓石なり。以玉餝墓とはその圓石もて墓を葺かしめられしなり。さて川石にもあれ海石にもあれ此附近にはさる石を産する地無し。されば遠くより運ばしめられしなるべきが、ただ墓の形の大なりしのみならず土人の見なれぬ美しき圓石もて葺きたりしかばいとめでたく見えて玉丘としもたたへられしならむ○縁此墓を栗田氏がコノ墓ニヨリテとよめるはわろし。敷田氏の如くコレニヨリテ墓ヲとよむべし○栗田氏が擧げたる玉崎村は今の加東郡市場村の小字なるべけれどここには與からず○玉丘は加西郡北條町北條の東方凡半里なる富合村大字玉野|新家《シンケ》にあり。今玉塚とも水塚とも千壺ともいふ。干壺といふは近くまで埴輪の甕のあまた殘りたりし故にて水塚といふは今も環隍の儼然として存せるが爲なり。余が昭和三年六月三日に此墓を訪ひし時、睡蓮盛に此環隍にさきたりき。墓は東南面せる前方後圓墳にてその廣さは五反三畝二歩、環隍の廣さは六反三畝十五歩ありといふ。
環隍は年々に埋もれ行くにや、明治四十四年に播磨史談會員が踏査せし時には(458)腰まで水に没して徒渉しきと云へるに余の踏査の時には前方の一部(東方)最狹くて徑一間許に過ぎず一躍して飛越ゆるに難からざりき
後圓部の中央に深さ七八尺の穴あり。聞く明治十七年加東郡の一癡人此處を掘りて劍と多數の玉類とを獲て石棺と共に散逸せしめしなりといふ。今は穴の底に石棺の遺材若干枚を見るのみ。穴の後に小さき石祠あり。是彼癡人が祟を恐れて發掘せし劍を祭れるなりといふ。土人は今も土中より坪の現るることありといひ加西郡誌には「今も※[奚+隹]卵大の白色石がある」と云ひたれど余の數分間の徘徊中には何をも發見せざりき。墓を下り隍を越えて田間に出づるに墓の西南方に環隍を帶せる一小墳あり。此外にも附近になほ若干の陪塚と見べき小墳あれど中には殆全く鋤かれて竹林となれるありといふ。顧みて思ふに此墓は眞に根日女命の墓なりや。根日女命は實在の人なりや。發掘物中に劍ありしは適に男子の墓なる事を語るものにあらざるか。さて當局者が此墓を史蹟と指定するに躊躇せるは彼癡人の暴行に由りて墓の内容が空虚となれる爲なるべけれど此地方に大關係ある太古人の墓なる事は明にて然も二千年後の今日まで※[山/歸]然として獨存ぜるものなれば郡人(459)は宜しくその永遠に傳はらむことを計るべし。今の如く二三の村民の私有たらしむるは決して賢明と稱すべからず○下文の雲潤・河内・川合三里は此次にあるべきなり
○起勢《コセ》里(土下中)
※[自/死]江《クサエ》・黒川
右號2起勢1者巨勢部等居2於此村1。仍爲2里名1
敷田氏標注 起勢、和名抄に脱たり。起は假名に用たる例なければ巨字の誤なるべし
栗田氏標注 國圖ヲ按ズルニ加東郡ニ西中東ノ古世三村アリ○巨モト臣ニ作レリ。今一本ニ從フ○等モトホ〔右△〕ニ作レリ。即草體ナリ。今之ヲ訂ス
新考 加東郡福田村の大字に東|古瀬《コセ》・中古瀬・西古瀬あり。是なり○巨勢部は巨勢氏の部曲なり
※[自/死]江《クサエ》 右號2※[自/死]江1者品太天皇之世播磨國之田〔左△〕村君〔□で囲む〕在〔左△〕2百八十村君1而已〔左△〕《オノガ》村(460)別《ゴトニ》相闘。之〔左△〕《ソノ》時天皇勅追2聚於此村1悉皆新斬|死《コロシキ》。故曰2※[自/死]江1。其血黒流。故號2黒川1
敷田氏標注 播磨之國の之字は衍也(○原本には播磨國之とあり)
栗田氏標注 田村君ノ君字ハ恐ラクハ衍○在ハ有ニ作ルベシ○國圖ヲ按ズルニ加東郡ニ黒川村アリ
新考 ※[自/死]は臭と同字なり。田村は里村の誤か。上の君は衍字ならむ。之時は爾時の誤か○已村別を敷田氏がスデニ村ゴトニとよめるはわろし。已を、己として栗田氏の如くオノガ村ゴトニとよむべし○勅……斬死を二註にキリコロセトノリタマヒキとよめるは故曰※[自/死]江につづかでわろし。宜しく勅シテ……キリコロシキともよむべし○福田村の南に小野町あり。小野町の大字に黒川あり。黒川といふ川は今は無けれどもと同町淨土寺山の南方より發して加古川に注ぎし川にて其跡今も處々に池又は窪田となりて殘れりといふ
○山田里(土中下)
猪飼野
(461)右號2山田1者人居2山際1。遂由爲2里名1
敷田氏標注 山田、和名抄に洩せり○遂田の上下落字あり(○敷田氏の本には由を田と誤れるなり)
栗田氏標注 國圖ヲ按ズルニ加東郡ニ山田村アリ
新考 小野町の南に市場村あり。其大字に山田あり○山際は谷なり。ヤマノマとよむべし。萬葉集に多く見えたり
猪飼野《ヰカヒヌ》 右號2猪飼1者難波高津(ノ)宮(ニ)御宇《シラシシ》天皇之世日向(ノ)肥人《クマビト》朝戸《アサベノ》君、天照大神|坐《イマセル》舟(ノ)於《ウヘニ》猪(ヲ)持參來(テ)進之《タテマツリキ》。可v飼所(ヲ)求申。仰〔□で囲む〕仍《カレ》所2賜《タマハリ》此處1而放2飼猪1。故曰2猪飼野1
敷田氏標注 肥人朝戸君、和名抄に肥後國益城郡郷名麻部有。是也。益城は日向に堺ひ上代は彼わたり迄日向と云し故に日向(ノ)肥人とは云り。姓氏録未定雜姓に朝戸(ハ)百濟國人※[匈/月]廣使主朝戸之後と有○天照大神、式に揖保郡粒坐天照神社○申の下なる仰は衍字
(462)栗田氏標注 和名鈔ニ肥後益城郡ニ麻部郷アリ。即朝戸ナリ、○按ズルニ仰字ハ恐ラクハ衍
新考 猪養野は今の草荷《サウカ》野の一部なり。草荷野は加東郡の東南部より美嚢郡に亘れる一大原野なり○肥人はクマビトとよむべし。薩人《ハヤビト》の類の異民族なり。肥(ノ)國わたりに住みしによりて肥人と書くなり。くはしくは萬葉集卷十一なる
肥人《クマビト》のぬか髪ゆへる染ゆふの染めてし心われ忘れめや
といふ歌の下(萬葉集新考二三二六頁以下)に云へり。數田氏が姓氏録未定雜姓左京なる朝戸を引き栗田氏の姓氏録考證朝戸の証に「播磨風土記賀毛郡山田里云云とあるは此氏人にや」と云へるは誤れり。日向肥人朝戸君は先住民族にて百濟より歸化せし民族にあらねばなり。特に栗田氏は風土記なる朝戸は和名抄の郷名に據りてアサベとよみ姓氏録なる朝戸は「阿差止と訓みてぞあるべき」と云ひながら兩者を混同せり。さてここの朝戸はアサベとよむべき事二註に云へる如し○天照大神坐舟於は天照大神ノイマセル舟ノウヘニとよむべし。敷田氏がウヘノとよめるはわろし。於は上なり。古書に用例多し。さて何故に天照大神を船に坐せまつりしにか(463)又いかなれば肥人が其船に物を獻ぜしにか明ならず。試にいはばこは應神天皇紀に
十六年八月|平群木菟《ヘグリノツク》宿禰・的《イクハノ》戸田宿禰ヲ加羅ニ遣ス。仍リテ精兵ヲ授ケテ詔リタマハク。襲津彦《ソツヒコ》久シク還ラズ。必新羅人ノ拒ニ由リテ滯レルナラム。汝等急ニ往キテ新羅ヲ撃チテ其道路ヲ披ケト。是《ココ》ニ木菟宿禰等精兵ヲ進メテ新羅ノ境ニ莅ム。新羅ノ壬愕キテ其罪ニ服ス
仁徳天皇紀に
十七年新羅朝貢セズ。秋九月|的《イクハノ》臣ノ祖砥田宿禰・小泊瀬造《ヲハツセノミヤツコ》ノ祖|賢遺《サシノコリノ》臣ヲ遣シテ闕貢ノ事ヲ問ハシム
五十三年新羅朝貢セズ。夏五月|上毛野《カミツケヌノ》君ノ祖|竹葉瀬《タカハセ》ヲ遣シテ其闕貢ヲ問ハシム。……シナラクシテ重ネテ竹葉瀬ノ弟田道ヲ遣ス。即詔《ノ》リタマハク、若新羅|距《フセ》ガバ兵ヲ擧ゲテ撃テト。仍リテ精兵ヲ授ク
とあるなどの時、神功皇后が新羅を討ちたまひし時の吉例に倣ひて天照大神を(おそらくは攝津國廣田神社に座す荒御魂を)船中に坐せ奉りしならむ。さて御使が事(464)終へての歸るさに筑紫に立寄りしかば肥人朝戸君《クマビトアサベノキミ》御使を犒らはむ爲に猪を贈りしならむ。然るに其船には天照大神を勸請したりしかば猪を屠りて食ふ事かなはざるによりて途より其猪を放ち飼ふべき處を朝廷に請ひ奉りしならむ。可v飼處求申の主格は肥人朝戸君にあらで御使なり。されば其上なる進之はタテマツル又はタテマツリキとよみ切るべし(敷田氏はタテマツリとよみて下へつづけたり)○敷田氏が延喜式神名帳の揖保郡|粒坐《イヒボニマス》天照神社を引けるはあやなし。船に坐せ奉りたりし天照大神と何の關係かある。特に粒坐天照神社の祭神は天照大神にはあらで天照國照彦火明命なるをや○仰は二註に從ひて衍字と認むべし○所賜をタマハリとよむべき例は上なる品遲部《ホムヂベ》村の下に所2賜《タマハリキ》此地1とあり
○端鹿《ハシカ》里(土下上) 今在其神〔四字□で囲む〕右號2端鹿1者昔神(△△△△《今有其神》)於2諸村1班《アカチシニ》2菓子《コノミ》1至2此村1不v足。故仍《カレ》云2間有哉《ハシタナルカモ》1。故號2端鹿1。此村至2于有〔□で囲む〕今1山木無2菓子1(生2眞木・梔・杉1)
敷田氏標注 端鹿、和名名抄に洩たり。今在其神は猪飼野に書つづけしが離れたるな(465)めり
栗田氏標注 國圖ヲ按ズルニ加東郡ニ椅鹿《ハシカ》寺アリ○按ズルニ今在其神ハ未何ノ神ナルカヲ詳ニセズ。良弼(○村岡氏)按ズルニ今在其神ノ四字ハ上文ナル曰猪飼野ノ下ニ移シテ分註トスベシト○有今ノ有字ハ恐ラクハ衍
新考 今上東條村に椅鹿《ハシカ》谷あり。はやく延暦八年の住吉大社|解《ゲ》状に播磨國賀茂郡|椅鹿《ハシカ》山とあり○今在其神の四字はもと昔神の下に分註したりしならむ。さて其神は素盞嗚尊の御子にて到處に木種を播き生したまひし五十猛《イダケルノ》神ならむ。今上東條村天神に村社一(ノ)宮神社あり。天神・椅鹿谷・黒谷の三大字并に接續せる隣村の部落の産土神にて祭神はスサノヲノ尊といひ傳へたり。今モソノ神アリといへるは此社にて祭神はもとイダケルノ命なりしが後に配祀せる御父スサノヲノ尊に蔽はれ給ひしにや。今有其神の今はイマモとよむべし○故仍は二字を聯ねてカレとよむべし。敷田氏はカレココニとよめり○間有哉を二註にハシアルカモとよめり。宜しくハシタナルカモとよむべし。ハシタナリはハシタナシに同じ。ハシタナシのナシは無の義にあらず(四二六頁參照)。さてここのハシタナルカモは都合ガワルイナア(466)とうつすべし○至于有今の有は衍字なり。敷田本には此字を削れり。梔・杉は原本に例の如く怪しき文字を書けり
○穗積里(本名鹽野、土下上)
小目野《ヲメヌ》
所3以△《號》2鹽野1者※[酉+咸]〔左△〕水出2於此村1。故曰2鹽野1。今號2穗積1者穗積臣等族居2於此村1。故號2穗積1
敷田氏標注 穗積臣、姓氏録に伊香賀色雄命男大水口宿禰之後也
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰ク賀茂郡穗積ト。御圖帳ニ日ク賀東郡穗積村ト○號字モト脱セリ。今一本ニ從フ
新考 和名抄に穗積郷あり。今加茂村の大字に穗積あり○所以の下に號字を補ふべし。敷田本には此字を補へり○※[酉+咸]は鹹の俗體なり。原本には其旁をさへ※[咸の中が臣]に作れり○本郡には食鹽泉多し。但加茂村の所在地なる瀧野川以東三草川以北には聞えたる鑛泉無けれど穗積の東北に鹽田(ノ)池あり。又此地方には往々鹹水の湧き出でて(467)稻を害する田あり。俗に之を鹽田といふ。かかる田には鹽拔といふ事をして稻を作るとぞ
土中に栗石を入れその先頭に竹筒を挿むなり。旱魃にはその竹筒を塞ぐ
又鹽拔井を掘る事ありといふ
小目野《ヲメヌ》 右號2小目野1者品太天皇巡行之時宿2於此野1仍望2覽四方1勅云。彼觀《ソノミユルハ》者海|哉《カ》河|哉《カ》。從臣對曰。此《コハ》霧也。爾《ソノ》時宣云。大體雖v見無2小目1哉《カモ》。故曰2號〔二字左△〕小目野1
於v是從臣開v井。故云2佐々(ノ)御井1
又因2此野1詠v歌 宇都久志伎、乎米乃佐々|波《バ》爾、阿羅禮布理、志毛布留等毛、奈加禮曾禰、袁米乃佐々|波《バ》
敷田氏標注 無小目とは廣く一目に見ゆるを云○佐々御井、古歌にはりま井しとよめるは是か。愛《ウツクシ》き小目の篠葉に霰降霜降とも勿枯《ナカレソ》ね小目の篠葉也
栗由氏標注 國圖ヲ按ズルニ穂積ノ西南ニ小部野村アリ○故號曰ヲモト故曰號(468)ニ作レリ。恐ラクハ倒ナラム。今訂ス
新考 今社町大字野村の字《カチ》に小部野あり。
因にいふ。本郡などにては大字の下なる字(部落)をカチといふ。カチは垣内の轉訛なり
是小目野のなごりなり○ヲメナシは細ニ見エズ即オホホシといふ意ならむ○曰號は栗田氏の云へる如く號曰の顛倒ならむ。但上文修布里の下にも故曰號修布とあり。敷田本には修布里の下には曰字を脱し、ここには號字を脱せり○於是從臣云云、前に小竹《ササ》の事あらずば故云佐々御井とは云ふべからず。されば此十二字はもと小目ノササ葉といふ歌の次にありしを誤りて上に移せるなり○又といへるも爾時宣云大體雖見無小目哉云云とあるにこそつづくべけれ○因此野詠歌を敷田氏は此野ニヨレル詠歌《ウタ》とよめり。栗田氏の如く此野ニ因リテ詠v歌とよむべし。さて詠はヨミマシキなどよむべし○ヲメノササバニは小目野ノササ葉ニの野を略したまへるなり。ナカレソネは勿枯にて枯レルナとなり○第六句は小目野の小竹葉を呼びかけてのたまへるなり。もし此句無くば第二句はヲメノササバ又はヲメノサ(469)サバヨとあるべく、ササバニとはあるべからず。○敷田氏が「古歌にはりま井とよめるは」といへるは如何なる歌を思へるにか、知らねど
播磨鑑にハイ原ノヤヤサムゲナル神無月ソノハリマ井ト今ニ傳ヘシといふ歌を擧げたれど敷田氏はかかる物を指せるにはあらじ
そのハリマ井は本書揖保郡萩原里の下(二八三頁)に見えたる針間井ならむ
○雲潤《ウズニ》里(土中々) 右號2雲潤1者|丹津日子《ニツヒコノ》神、法太《ハフダ》之|川底《カハジリヲ》欲v越2雲潤之方1。云爾之《カクイヒシ》時在2於|彼《ソノ》村1太〔左△〕水《オホミヅノ》神辭云。吾以2宍《シシノ》血1佃《タツクル》故不v欲2河水1。爾《ソノ》時丹津日子云。此神倦2堀v河事1云爾而已《カクイフニコソ》。故號2雲彌《ウミ》1。今人號2雲潤1
敷田氏標注 雪潤、和名秒に脱たり。この雲潤を如此(○ウズニと)よみてはあれど潤は韻鏡十八轉※[禾+淳の旁]字の所属にて奈行の韻なれば雲彌《ウミ》の轉じてウズニとはよみ難し。猶よく考べし○云爾、この件に二所ありて外に如此書ける例なし
栗田氏標注 國圖ヲ按ズルニ三木郡東西這田村ノ北ニ法太川アリ。川ノ北ニ久留美村アリ。久留美ハ疑ハクハ雲潤ノ轉
(470)新考 雲潤を敷田氏はウズニとよみ栗田氏はウルミとよめり、栗田氏がウルミとよめるは三木郡即美嚢郡なる久留美村に充てむが爲なれど法太ノ川底ヲ雲潤ノ方ニ越サムト欲スと云へるを思ふに美嚢郡久留美村としては地理かなはず。
栗田氏は加西郡|芳田《ハウダ》村(本書の託賀郡法太里)と美嚢郡別所村の大宇這田とを混同せり。又栗田氏が東西這田村北有2法太川1といへるは美嚢川の誤なり
又大日本地名辭書にはウズミとよみて加西郡多加野村なる和泉とせり。げに雲潤里は略今の多加野村に當るべし。但雲潤はウズミとはよむべからず。潤は音ジユンなればズニには借るべぐ、ジ工ムにあらねばズミには借るべからざればなり。然らばウズニ・ウルミ二訓のうちいづれに從ふべきかといふに雲はウルともよむべけれど潤をミに充つべきにあらねば、しばらく敷田氏の如くウズニとよむべし。さて今の多加野の東半即大工・馬渡谷《マヲタニ》・青野以東を近世まで宇仁郷といひき。又同村大工より發して東南に流るる小川を今も宇仁川とぞいふ。この宇仁は雲潤の舊名ウミの轉じたるならむ。ミがニに轉ずるは常の事なり(四三三頁參照)○丹津日子はニツヒコとよむべし。栗田氏がニフツヒコとよめるはわろし○法太川は今の野間川な(471)り。多可郡野間谷村と本郡大和村とより發して芳田村を經て加古川に注げり○川底は河尻なり。揖保郡揖保里の下(二九五頁)に到2於宇頭川底1とあり。又下文川合里の下に端鹿川底とあり。法太之川底欲v越2雲潤之方1は法太川の流を南方なる多加野村に引かむとせしなり○云爾之時は敷田氏の訓に基づきてカクイヒシトキニとよむべし。栗田氏はトマヲス時ニとよめり○太水神の太は大に改むべし。宍ノ血ヲ以テ佃《タヅク》ルとある宍《シシ》は借字にて猪鹿なり。上にも例あり。讃容郡の下(三一〇頁)に生ケル鹿ヲ捕ヘ臥セ其腹ヲ割キテ稻ヲ其血ニ種《ウ》ウとあると相似たり○爾時は例の如くソノ時とよむべし。栗田氏は他處なるは皆トキニとよみながらここのみカレとよめり○丹津日子云此神倦堀河事云爾而巳を敷田氏は丹津日子神〔右△〕、此神ハ河ヲ掘ル事ニ倦メリト云ヒカク云ヒテヤミキとよめり(同氏の本には丹津日子の下に神字あり)。宜しく丹津日子云ハク此神ハ河ヲ掘ル事ニ倦ミテカク云フニニコソとよむべし。栗田氏は云爾而已をシカイフノミとよめり。それも仍わろし○云爾を敷田氏は此處の外に例無しと云ひたれど萬葉集卷十七に右一首傳誦主人大伴宿禰池主云爾〔二字傍点〕また卷十九に河邊朝臣東人傳誦云爾〔二字傍点〕とあり○原本に彌の扁を方・作れり
(472)○河内《カフチ》里(土中下) 右由v川爲v名
敷田氏標注 河内、和名抄に川内に作
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰ク賀茂郡川内ト。御圖帳ニ曰ク賀西郡河内村ト
新考 和名抄郷名に川内あり。記述の順序(雲潤里と川合里との間なる)と河内といふ地名とに依りて思ふに今の加東郡瀧野村ならむ。加東郡誌には
今の加西郡多加野村普光寺川の流域地方に當れるならんか。同地には今尚河内の大字を遺存せり
といへれど多加野村は雲潤里に當るべき事上に云へる如し。又加西郡誌には
河内里を今の加西郡多加野村に河内の地名があるからこの邊のことであらうとするものがあるが今の加東郡上福田・米田等を昔河内郷と稱したから河内里はそこのことであらうと云ふ
と云へり。即加西郡側は※[谷+おおざと]りて加東郡とせり。元來|河内《カフチ》は川に抱かれたる地をいふなるが轉じて地名となれるなれば到る處にある地名なり。かく普※[行人偏+扁]なる地名を唯一の證として斷案を下さむはいと危し。其上米田村・上福田村地方とすれば記述の(473) 順序にかなはず。抑本書の記述は郡里共に一定の順序を逐へり。然るに從來本書の地理を研究せし人多くは記述の順序を輕視せるに似たり。是實に從來の研究の一缺陷なり
此里之田不v敷v草|下《オロス》2苗子《ナヘ》1。所2以然1者住吉大神上坐之時|食《カレヒヲス》2於此村1。爾《ココニ》從神等、人(ノ)苅|置《オケル》草(ヲ)解散爲v坐。爾《ソノ》時草主大患訴2於大神1。判《コトワリテ》云。汝田苗者必|雖《トモ》v不v敷v草如v敷v草|生《オヒム》。故其村(ノ)田于v今不v敷v草作2苗代1
敷田氏標注 住吉大神は式に長門國豐浦郡住吉坐荒御魂神社・筑前國那珂郡住吉神社とある此二坐の中なるべし。然らざれば上坐と云に叶はず。又此郡に和名抄に住吉郷あり。式に住吉神社坐るも此件の事に依て祭れるなるべし。然に賀古郡・明石郡に住吉郷ありて和名抄に須美與之と訓註あれば然よむべき理なれど猶古訓に從ひぬ(○さてスミノエとよめりとなり)
新考 敷v草とは草を刈りて苗代田に敷くをいふ。苗代草には又木の若枝を用ふる事あり○人苅置草の人は栗田氏の如くヒトノとよむべし。村人ノとなり。敷田氏が(474)ヒトゴトニとよみて從神等の事としたるは誤れり○草解散爲v坐の例は宍禾郡柏野里の下(三六二頁)に
敷草村 數v敷爲2神座1。故曰2敷草1
とあり○解散爲坐の坐は座と書くを正しとす。但漢籍にも坐を座に通用せり○皇大神宮儀式帳にも
爾時伊鈴乃御川乃漑水道田波苗草不v敷弖作食止大御事垂給支
とあり
○川合《カハヒ》里(土中上)
腹辟《ハラサキ》沼
右號2川合1者端鹿(ノ)川底與2鴨川1會《アフ》村。故號2川合里1
栗田氏標注 倭名鈔ニ曰ク賀茂郡川合ト。名跡志ニ曰ク河合郷粟生川ト。是ナリ。源丹波ニ出デ南流シテ高砂ニ會ス。國圖ヲ按ズルニ賀東郡ニ川井村アリ
新考 和名抄郷名に川合あり。今の河合村なり○端鹿川は今の東條川なり。今の東(475)條村は古の端鹿里なる事上にいへる如し。又鴨川は今の七郷《シチガウ》川なり。普光寺川(一名和泉川)を合せたる萬願寺川(一名在田川)と下里川とが九會《クエ》村にて相合ひて七郷川となれるにて今は萬願寺川を本流とすれどいにしへは下里川の方廣くその下里川は鴨里より發して鴨川と呼ばれしかば萬願寺川と相會ひし後の流をも鴨川といひしなり。さて東條川は東より來りて加古川に合し七郷川は西より來りて加古川に合せり。但其合流の處はいたく相隔たれり。即前者は後者の上手凡一里なり。されば川合里は印南川(加古川)ト鴨川ト會フ村ナリといふべく端鹿川ト鴨川ト會フ村ナリとは云ふべからざるに似たり。ここに上東條村の北に鴨川村あり。鴨川といふ谿流此村より南下して上東條村に到りて東條川の上流に會せり。これに由りて大日本地名辭書は本書の川合里を此附近に擬したれど此附近は端鹿里なる事上に云へる如し。又端鹿川底といへる川底は川尻の事なれば鴨川村より來れる鴨川と合せる處を川底とはいふべからず。案ずるに加古川の上流と東條川とは今は加古川の方本流なれどいにしへは東條川の方本流なりしならむ。されば端鹿川底といへるはやがて加古川の本流なりと知るべし。或書に東條川は本書の成りし頃に(476)は七郷川と同じ處にて加古川に注ぎしならむと云へれど三川を三枝に譬へむに中枝と西枝との間にある物を(中枝をさしおきて)東枝と西枝との間にありと云ふべけむや思ふべし
腹辟《ハラサキ》沼 右號2腹辟1者花浪神之妻|淡海《アフミノ》神爲v追2己(ガ)夫1到2於此處1遂怨瞋|妾《ミヅカラ》以v刀辟v腹|没《イリキ》2於此沼1。故號2腹辟沼1。其沼(ノ)鮒等今(モ)无2五藏《ハラワタ》1
敷田氏標注 己夫、萬葉九に預己妻離而《アラカジメオノヅマカレテ》、同十三に己夫之歩從行者《オノヅマノカチヨリユケバ》○妾、和名抄に妾非2正嫡1故以v接爲v稱、和名乎無奈養女○五藏、和名抄に肝心脾肺腎とのみ有て訓を洩せり。是は各其名あれど五藏と總《スベ》云名をしらず。大同類聚方に奈可和太と云るは藏府を總云りと聞ゆれば姑く從ひて訓つ(○イツツノワタとよめり)
栗田氏標注 春枝云ハク。川合郷今存ゼリ。郷ニ原前村・原前池アリト
新考 花浪神ははやく託賀郡法太里の下(四三四頁)に見えたり○妾は栗田氏に從ひてミヅカラとよむべし。女神淡海神が腹を辟き此沼に沈みて自殺せしなり。敷田氏が妾を上なる怨瞋に附けて即、怨瞋妾としてヲムナメヲウラミイカリテとよみ(477)没をオチイラシメキとよめるはいとわろし○栗田氏の引ける春枝の説は例の妄語なり。川合郷に原前村・原前池といふ地名は無し。こは河合村の舊家斯波・河合二氏と同村役場との證言せし所なり
以上十一里。その順序はもと鴨・修布・三重・楢原・雲潤・河内・川合〔六字傍点〕・起勢・山田・端鹿・穂積とありしを誤れるにや。さて鴨・修布・三重・楢原・雲潤は今の加西郡に屬し(楢原の一部は加東郡に亘れり)河内以下六里は今の加東郡に屬せるならむ。別けていはば上鴨は略今の賀茂村に下鴨は今の下里村に、修布《スフ》は今の富田村に、三重は今の北條町に、楢原は今の富合・九會《クヱ》・來住《キシノ》の三村に、雲潤《ウズニ》は今の多加野村に、河内《カフチ》は今の瀧野村に、川合は今の河合村に、起勢《コセ》は今の福田村・大部村・小野町に、山田は今の市場村に、端鹿《ハシカ》は今の鴨川村竝に上中下の東條村に、穂積は上福由村・米田村・加茂村・社町に當るべし。大日本地名辭書にも加東加西兩郡誌にも上鴨里を今の西在田村・在田村に當て、はやく峯相記微考にも上鴨を鴨谷に當てたれど上鴨と下鴨とは相續きたりしなるべきに、もし上鴨を今の西在田・在田の二村とし下鴨を今の賀茂・下里の二村とせば兩里は修布・三重の二里によつて相隔てられきとせざるべからざる事上に云へる如し。(478)轉じて諸川の流域より見むに加西郡には四流域ありて之を南より數ふれば下里川・萬願寺川・普光寺川・芳田川の流域なり。さて下里川の流域にあるは賀茂・下里の二村、萬願寺川の流域にあるは西在田・在田・富合の諸村、普光寺川の流域にあるは多加野・富合の諸村、芳田《ハウダ》川の流域にあるは大和・芳田の二村にて富田村・北條町は下里川の支流の流域にあり。かくの如くなれば西在田・在田二村はもし當時夙く開けたりせば寧同流域なる富合村等と共に楢原里に屬すべきなり。和名抄に見えたる郷名九。本書と合へるは三重・上鴨・穗積・川内・川合にして、合はざるは酒見・大神・住吉・夷俘なり○まぎらはしからむを避けて上文に云はざりし所を云はむに峯相記に
三宮酒見大明神者養老六年壬戌住吉大明神竝五所(ノ)王子當國入坐、先上鴨西條鎌倉嶺坐〔八字傍点〕。從神佐保明神私意有(テ)此嶺不宜由申(テ)三重北條(ニ)誘引(シテ)鴨坂(ノ)北(ノ)谷(ノ)石(ノ)上(ニ)御優息(ノ)時佐保明神御裹(ヲ)盗(テ)加東(ノ)川東(ヘ)逃去畢
とある上鴨西條鎌倉嶺の註(即劔持見立の微考)に北條郷鴨谷村〔六字傍点〕西僚鎌倉峯と云へれどこは明に劔持氏の失考なり。鴨坂は今の北條町と在田村大字鴨谷との間の峠なればその北谷はやがて鴨谷の内なり。鴨谷村に坐しけむ神が同村内なる鴨坂の(479)北の谷に動座せむに鴨坂の南なる三重北條を經べきにあらず。されば上鴨西條鎌
倉嶺と鴨坂の北の谷とは中間に三重北條を隔てざるべからず。從ひて上鴨西條鎌倉嶺は在田村鴨谷の内には擬すべからず。在田村の東に多加野村あり。その太字|河内《カハチ》に普光寺山あり。其奥を鎌倉山といふ。山に鎌倉寺一名鎌倉觀音堂あり。或書に此鎌倉山を峯相記の上鴨西條鎌倉嶺に擬したるは同書に峯相記微考等の説に從ひて上鴨を鴨谷とせると矛盾せり。在田村鴨谷と多加野村河内なる鎌倉山とはいたく相へだたれり。即後者は前者の東北四五十町の處にあり。所詮上鴨里は今の賀茂村にて西條鎌倉嶺も同村附近なるいづれかの山に擬すべきなり
美嚢郡
所3以號2美嚢《ミナギ》1者昔|大兄伊射報和氣《オホエノイザホワケノ》命|堺《サカヒシ》v國之時到2志深《シジミ》里許曾(ノ)社《モリ》1勅云。此|土水流甚美哉《トコロミナガレイトウルハシキカモ》。故號2美嚢郡1
敷田氏標注 美嚢、和名抄に美奈木と注し今三木と書けり○大兄伊射報和氣命は(480)履中天皇を申○甚美哉はイトウルハシキカモと訓べけれど地名に疎し。神代紀に妍哉美哉を然(○アナニエヤと)よめるに從ふ。甚字添たるは妨なし
栗田氏標注 倭名抄ニ曰ク。播磨國美嚢(美奈木)ト。按ズルニ美嚢ハ今三木ニ作ル○按ズルニ大兄伊射報和氣命ハ即履中天皇ノ御名
新考 美嚢は和名抄郡名に美奈木と訓註せり。今はミノと唱ふ。中世以來又三木郡といひき。嚢の音はナウなるをナギに轉用せるは愛宕《オタギ》・當麻《タギマ》のタギと同例なり
因にいふ。美袋と書きてミナギと唱ふる地名あり。又それを訛りてミナイと唱ふる氏あり、こは嚢を同義の袋に誤れるなり。袋は音タイなればナギには借るべからず
○大兄伊射報和氣《オホエノイザホワケノ》命は履中天皇の御事なり。日本紀にも大兄と書きたれど古事記仁徳天皇の段に大江之伊邪本和氣命と書き又御弟の御名の墨江之中津王なるに對したればオホエは地名にてエを兄と書けるは借字ならむ○志深はシジミとよむべし。シミを深と書けるはイナミを印南と書けると同例なり○社はヤシロとよまでモリとよむべし。はやく上にも然よめり(揖保《イヒボ》郡、廣山里・神前《カムザキ》郡多駝里・同郡|的部《イクハベ》(481)里の下に)○水流を栗田氏はミヅノナガレとよめり(敷田本には流字を脱せり)。宜しくミナガレとよむべし。そのミナガレをつづめてミナギといふなりといへるなり。或はいにしへはミナガレといはでミナガリといひしにや。隱《カクル》・忘《ワスル》・觸《フル》など今下二段活なる語のいにしへ四段活なりし例少からず○甚美哉は栗田氏の側くイトウルハシキカモとよむべし。此辭よりミナギの名の起りしにあらず。敷田氏は誤解せり。さて水流甚美哉とのたまへるは美嚢川の支源なる淡河《アウゴ》川一名|志染《シジミ》川なり、○勅云此土云云とあるは賀古郡|望理《マガリ》里の下に
勅云。此川之曲甚美哉。故曰2望理1
とあると相似たり○堺はサカヒタマヒシとよむべし。敷田氏がワケタマフとよめるは宜しからず(四三三頁參照)
○志深《シジミ》里(土中々) 所3以號2志深1者伊射報和氣命|御2食《ミヲシセシ》於此井1之時|信深《シジミ》貝|遊2上《ハヒアガリキ》於御飯筥(ノ)縁1。爾《ソノ》時勅云。此貝者於2阿波國|和那散《ワナサ》1我|所食《ヲシシ》之貝|哉《カモ》。故號2志深里1
(482)敷田氏標注 志深、和名抄に之々美と注し紀に縮見に作れり○信深貝、和名抄に蜆貝(ハ)之々美加比、萬葉六に住吉ノ粉濱ノ四時美アケモミズ○御飯筥、古代の状仲見べし○和那散、式に阿波國那賀郡和奈佐意富曾神社
栗田氏標注 倭名抄ニ曰ク美嚢郡志深(之々美)。名跡志ニ曰ク。志染庄縮見岩尾アリ。履中天皇ノ二皇子ノ隱レシ所ト云フト。按ズルニ此二皇子ハ即履中帝ノ孫ナリ。此ニ子トセルハ誤レリ○按ズルニ倭名抄ニ阿波國那賀郡和射郷ト。國圖ニ今尚和射村アリ。蓋古ノ和那散ノ地
新考 和名抄郷名に志深(之々美)とあり。今もシジミと唱ふれど文字は志染に改めたり○御食はカレヒヲシシ又はミヲシセシとよむべし。敷田氏はミヲシシとよみたれど動詞(ここにてはヲス)にミを添ふる事無し(萬葉集新考二三七頁ミタチセシ參照)。さて古の旅行者は良水を求めて粮《カレヒ》を食ひしなり。上にも
遂到2赤石郡|※[まだれ/斯]御井《カシハデノミヰ》1供2進御食1。故曰2※[まだれ/斯](ノ)御井1(賀古郡)
彌麻都比古(ノ)命治v井※[にすい+食]v粮(讃容《サヨ》郡|邑寶《オホ》里)
播磨|刀賣《トメ》到2於此村1汲2井水1而※[にすい+食]《カレヒクヒテ》之云2此水|有味《ウマシ》1(託賀《タカ》郡|都麻《ツマ》里)
(483)などあり。今志染村の大字に井上あり。ここの井に關係あるか○遊上を敷田氏はアソビアガレリとよみ栗田氏はアソビアガリキとよめり。ハヒアガリキとよむべきか(いづれにまれ上字は過古格にてアガリキとよむべし。繼續現在格にてアガレリとはよむべからず。)○飯筥は敷田氏の如くイヒノハコともよむべく又イヒケともよむべし。家ニアレバ笥ニモル飯ヲの笥なり。縁は推古天皇紀の傍訓・新撰字鏡などに據りてモトホリとよむべきか。モトホリは後世のヘリ又はフチに當れり。二註にはフチとよめり○所食を敷田氏はキコシメシシとよみ栗田氏はキコシメセルとよめり。セルは繼續現在格なればここにかなはざる事言ふまでも無し。さて所食はヲシシとよむべし。ヲスを所食と書けるは萬葉集にオモホシ・オモホス・シロシ・シラシ・キコシ・アソバシ・シヌバシ・トラシ・ヨセを所念・所知・所聞・所遊・所偲・所取・所依と書けると同例なり○蜆は夙くより食用に供しき。そは貝塚に此貝の多く交れるによりて知らる
於奚《オケ》袁奚《ヲケ》天皇等斬3以坐2於此土1者|汝〔左△〕《ミ》父|市邊《イチノヘノ》天皇(ノ)命折v殺2於近江國|摧綿《クタワダノ》(484)野1之時率2※[日/下]部連意美《クサカベノムラジオミ》1而逃來隱2於|惟《コノ》村(ノ)石室《イハヤ》1。然後|意美《オミ》自知2重罪1乘馬等《ノリシウマハ》切2斷其|※[草がんむり/(角+力)]〔左△〕《タヅナ》1逐〔左△〕放之《オヒハナチキ》。亦|特〔左△〕《モテル》物按等(ハ)盡|燒廢之《ヤキウテキ》。即經死之《ワナキシニキ》
敷田氏標注 於奚袁奚の皇子等の御事は顯宗天皇前紀に詳也。市邊天皇は市邊押羽皇子にて履中天皇の御子なり。天皇と稱申は倭建命を常陸風土記に天皇と申せり。准知べし○摧綿野の摧は※[糸+崔]の誤か。またクダクともよめれば妨なし。雄略紀に來田綿蚊屋野とあり。古事記も同かれど來田を久多に作れり○日下部連意美、顯宗紀に帳内《トネリ》日下部連|使主《オミ》に作れり○石室、顯宗紀に縮見山石室と有。萬葉三にハダススキ久米能|若子《ワクゴ》がイマシケル三穗乃|石室《イハヤ》ハミレドアカヌカモ此歌の詞書に紀伊國とあるはおぼつかなし。顯宗紀に弘計《ヲケ》王更名來目稚子とあれば此所の石室なるべし
栗田氏標注 汝ハ疑ハクハ御ノ訛○顯宗紀ニ云ハク。穴穗天皇三年十月……○持モト特ニ作レルハ誤ナリ。下文ノ※[秋/金]持モ亦同ジ
新考 於奚《オケ》。袁奚《ヲケ》天皇は仁賢・顯宗兩天皇の御事なり○汝父の汝は下文なる汝母手(485)白髪命の汝と共にナガとよみて其といふ意とすべきかとも思へど、なほ共に御字の誤とすべし
萬葉集卷九に己之《ナガ》心カラオソヤコノ君(新考一七四七頁)またウグヒスノカヒコノナカニホトトギス獨生レテ己《ナガ》父ニ似テハナカズ己《ナガ》母ニ似テハナカズ(新考七七三頁)卷十三に己之《ナガ》母ヲトラクヲシラズ己之《ナガ》父ヲトラクヲシラニアソバヒヲルヨイカルガトシメト(新考二七九五頁)などある己は汝の通用にてナガとよむべき事彼書の新考にいへる如し。但此等は浦島子・霍公鳥・イカルガ及シメに對してナガと云へるなれば今の例とはしがたし
○市邊《イチノヘノ》天皇(ノ)命は市邊押磐《イチノヘノオシハノ》皇子にて履中天皇の御子なり。其御血脈左の如し。
――履中天皇――押磐皇子――仁賢天皇(意奚皇子)
顯宗天皇(袁奚皇子)
仁徳天皇――反正天皇
――允恭天皇――安康天皇
雄略天皇――清寧天皇
御いとこなる安康天皇の崩せし後天皇の御弟なる大泊瀬《オホハツセ》皇子(後の雄略天皇)の爲(486)に殺されたまひき。市邊《イチノヘ》は地名にて御名は押磐《オシハ》なり(古事記には忍齒《オシハ》王と書けり)。ここに市邊天皇命とあり下文なる袁奚皇子の御辭に市邊之天皇とあると、顯宗天皇紀なる同じ皇子の御辭に於2市邊宮1治2天下1天萬國萬押磐尊とあると、雄略天皇紀に
天皇恨d穴穗天皇(○安康)曾欲2以市邊押磐皇子傳1v國而遙付c囑後事u
とあるとを思ひ又顯宗天皇紀に
吾父先主雖2是天皇之子1遭2遇※[しんにょう+屯]※[しんにょう+檀の旁]《チユンテン》不v登2天位1
とあるを思へば安康天皇の崩ぜしまり雄略天皇の即位せしまで數月の間市邊宮に坐して假に〔二字傍点〕天下しろしめししなるべし(記傳卷四十三【二四六〇頁】參照)○其市(ノ)邊はいづくにか。元來此皇子の御名は履中天皇紀に磐坂(ノ)市(ノ)邊(ノ)押羽(ノ)皇子とありて市邊といへるは磐坂市邊《イハサカノイチノヘ》を略したるなれば(又市邊を略して磐坂皇子とも云へり)いにしへ磐坂市といふ處ありて宮は其市の邊にありしならむ(磐坂と市邊とを二つの地名とはすべからず)。今大和國|磯城《シキ》郡朝倉村の大字に岩坂ありて初瀬町の西南に當れり。又雄略天皇の泊瀬(ノ)朝倉(ノ)宮の址なる同村大字黒崎は岩坂の西北に當れり。
初瀬町と黒崎とは初瀬川の北に、岩坂は川の南にあり
(487)此岩坂こそ押磐皇子の坐しし處ならめ。記傳卷三十八(二二三二頁)に山城國綴喜郡市之邊村かといひ大日本地名辭書に大和國山邊郡山邊村即いにしへの石上郷なりといへるは共に從はれず○さて市邊天皇命といへるは本書は正史にあらざれば世人の唱へ來れるままに書きて深く名分を正さざりしなり。上文にも聖徳王御世(印南郡大國里)といひ菟道稚郎子《ウヂノワキイラツコ》皇子を宇治天皇(揖保郡|大家《オホヤケ》里)といひ神功皇后を天皇(讃容《サヨ》郡中川里)といへり。又常陸風土記には日本武《ヤマトタケル》尊を倭武天皇といひ攝津風土記逸文には神功皇后を息長足比賣《オキナガタラシヒメ》天皇といへり(古事類苑帝王部卷十四私稱天皇參照)○摧綿野《クタワタノヌ》は古事記に久多綿之蚊屋野、日本紀に來田綿蚊屋野といへり。記傳に蚊屋野をも地名としたれど地名はクタワタにて蚊屋野は茅野ならむ。さて來田綿(ノ)蚊屋野の所在は今明ならず。ここに大安寺三綱記に
近江國分西明教寺在2蒲生郡綿向嶽下1……神龜五年始號2來田綿寺1
とあり又東大寺三綱紀に
來田綿西明西寺在2蒲生郡來田綿熊野1
とありといふ。今蒲生郡西大路村の大字に西明寺及北畑ありて錦向山の西麓に相(488)續けり。又同村の大字に熊野あり。是東大寺三綱記に云へる來田綿熊野ならむ。されば來田綿は此地方にて彼北畑ぞ來田綿の訛られて大名より小字となれるならむ。但今はキタハタケと唱ふとぞ(日本書紀通釋第四の二三一一頁以下參照)○※[日/下]は日下の二合字なり。日下部連意美《クサカベノムラジオミ》は顯宗天皇紀に
帳内《トネリ》日下部(ノ)連|使主《オミ》與2其子|吾田《アタ》彦1竊奉3天皇與2億計《オケ》王1避2難丹波國|余社《ヨサ》郡1。使主遂改2名字1曰2田疾來《タトク》1。尚恐v見v誅從v茲遁2入播磨國|縮見《シジミ》山石室1而自經死
とあり。余社《ヨサ》郡は丹後國の内なれど丹後國は和銅六年に丹波國の五郡を割きて始めて置かれしなればここには丹波國余社郡と云へるなり○日本書紀通釋(二四五六頁)に
日下部氏の丹波に由縁あることは上なる浦島子も丹波與謝郡人日下部(ノ)首《オビトノ》祖筒川(ノ)嶼《シマ》子とあり。また氏族志に日下部氏與2但遲麻《タヂマ》國造1同宗。故其族多居2本國1補2朝來養父等郡領1。後世猶有d稱2國造1帶2衛府官1者u。子孫蕃衍有2朝倉・磯部・絲井・日下・小泉・三方・高田・輕部・土田・八木・山本・建屋・稻津・石和田・太田垣等族云々とある但馬も丹波の隣國なればよしあり。今難をここに避玉へるも日下部氏の族などによられしなら(489)ん
といへり。日下部(ノ)首《オビト》は日下部(ノ)連《ムラジ》と同祖なり。さて丹後國より此志深里に來たまひしはただ足に任せたまひしにはあらで理由ある事なるべし。上文に
昔大兄(ノ)伊射報和氣命堺v國之時到2志深里許曾社1勅云……
とあるに據りて臆測を逞くすれば此時此地を御料地と定めて所謂|縮見屯倉《シジミノミヤケ》を置きたまひその屯倉、オホエノイザホワケノ命即履中天草より御子推磐皇子に傳はりしかば二皇子はその縁故をたどりて此里に來りたまひしにて屯倉の首《オビト》なる細目は或は初より皇子と知りて保護し奉りしならむか
はやく大日本地名辭書に
履仲帝此屯倉に行幸したまへりと云へば於奚袁奚の二皇子の此に潜匿したまへるも由緒なきに非ず。履中帝の置きたまへる屯倉ならん
と云へり
○今志染村大字|窟屋《イハヤ》字池野の窟屋山一名金山の東麓に一石室あり。高さ三間・幅八間・奥行六間許にて口は東南に向へり。本書に
(490) 率2※[日/下]部連意美1而逃來隱2於惟村石室1
とあり今も此石室即、二皇子の隱れ給ひし處なりといひ傳へたれど此石室の状は美嚢郡誌附録(二二九頁)に
窟中二ツノ井戸アリ。巨巖斜ニ覆ヒカカリテ巖ノ隙間ヨリ點滴トナリテ落ツル水溜リテ窟中一個ノ瀦水ヲナス。窟中ノ面積七八坪、奥マリタル谷ノ底ニ濕氣ヲ含メル風ハ心ナシカ異樣ノ感ヲ起サシム。土俗ハ呼ンデ池野ノ金水ト稱ス。陽春三月菜花ノ季至レバ瀦水ノ處々ニ硫黄華樣ノモノ點々トシテ浮ビ出デ日ヲ經ルニ從ヒテ多ク、遂ニハ一面ニ黄金色ヲ呈シ美觀限ナシ。是即金水ノ名アル所以ナリ。夏季ニハ黄金色次第ニ褪セテ赤銅色ニ變ジ秋季ニ入ルニ從ヒテ白濁色トナル。此時ヲ銀水トイフ。冬季ニ至レバ黒鐵色トナル……
又兵庫縣史蹟名勝天然紀念物調査報告第三輯(四〇頁)に
志染村小字池野ニ金山又ハ金穴ト稱スル洞窟アリ。幅約八間奥行目測約四間、常ニ泉水湧出ス
とありてしばしなりとも人の住むべき處にあらず。されば顯宗天皇紀に
(491)帳内《トネリ》日下部(ノ)連|使主《オミ》……尚恐v見v誅從v茲遁入2播磨國|縮見《シジミノ》石室1而自經死。天皇尚不v識2使主所1v之《ユキシ》。勸2兄|億計《オケ》王1向2播磨國明石郡1倶改v字曰2丹波小子《タニハワラハ》1就2仕《ツカフ》於縮見(ノ)屯倉首《ミヤケオビト》1
とある如く石室には二皇子の住み給ひしにはあらでただ意美が縊れ死なむが爲に入りしのみならむ。さて石室に入りて縊れ死にしは其遺骸を隱さむが爲ならむ。此石室の北數丁ばかりの山の尾に意美の墓と傳へたる小丘ありといふ(郡誌一〇〇六頁・同附録二四○頁又二五五頁)○なほ日本紀の文を味はふに使主《オミ》即|意美《オミ》が丹波國より播磨國縮見に來りしは二皇子を奉じてにあらで單身にて、然も二皇子に行先を申さずして來りしなり。さて余社郡と縮見とは交通の便あるにあらず且其中間に丹波の數郡と播磨の數郡とを隔てたるに使主の來りしも縮見、二皇子が使主の行方とも知らで來たまひしも縮見なるを思へば上にいへる「御祖父天皇以來の屯倉たる縁故をたどられしならむ」の疑は益深くならざるを得ざるなり○因にいはむ。縮見は美嚢郡の内なるに紀の文に
向2播磨國赤石郡1……就2仕於縮見屯倉首《シジミノミヤケノオビト》1
とあるはいかがと疑ふ人もあるべし。抑播磨は太古針闘國・針間(ノ)鴨國・明石國の三に(492)分れ後の美嚢郡は後の明石・賀古・印南三郡と共に明石國に屬したりき。又郡には廣狹二義ありて古典には國をも後の郡をも郡といへり。たとへば萬葉集卷九なる過2足柄坂1見2死人1作歌(新考一八三九頁)にクニトヘドを郡問跡と書き晋書張華傳に久v之論2前後忠勲1進2封壯武郡公1といひ初華所v封壯武郡有v桑化爲v柏といひ壯武國臣竺道又詣2長沙王1求v復2華欝位1といひて華の所封を壯武郡とも壯武國ともいへり。さればここの赤石郡も明石國と心得べし○ここに萬葉集卷三なる博通法師往2紀伊國1見2三穗石室1作歌三首の中(新考四〇六頁)に
はだすすき久米のわくごがいましける(一云けむ)三穗のいはやはみれどあかぬかも(一云あれにけるかも)
とあり又同卷(五三六頁)に
みづみづし久米の若子がい觸《フリ》けむ礒の草根のかれまくをしも
とあり又顯宗天皇紀に弘計《ヲケ》天皇|更《マタノ》名(ハ)來目稚子《クメノワクゴ》とあり。それによりて眞淵は右の歌どものクメノワクゴを天皇の御事とせり。然るに天皇の紀伊國にましましし事、物に見えざれば宣長は
(493) 萬葉三にハタススキ……此歌端書によるに紀伊國なり。然るに袁祁《ヲケ》王は木國に坐けること見えざれば此久米若子は別人にやとも思はるれどもなほ此御子なるべきか。若播磨より前に紀國にもしばし坐ししことありしが二記に其事は漏たるにや。なほ詳ならず(記傳卷四十【二三五三頁】)
といひ又
なほつらつら思ふに此二柱(ノ)王は實は押齒王の御子にはあらで御孫にや坐けむ。そは押齒王の殺され賜へる時に逃去賜ひしは二柱にまれ一柱にまれ其一柱は此|意富祁《オホケノ》命|袁祁《ヲケノ》命の御父王にて丹波播磨などに民間に流離《サスラヘ》て薨《スギ》坐けむ。さるに御名を深くかくししぬぴてさる民間に終世坐る故に其王の御子たちをも押齒王の御子と申して遂に其|直《タダ》の御子の如くに申傳へたるにや(記傳卷四十三【二四五二頁】)
といへり。又本居内遠の三穗窟考に右の第二説を敷衍して
此二柱(ノ)王の御父の御名則久米(ノ)若子と申せりけむを袁祁《ヲケ》天皇の一名と記したるは……その御子二柱も大久米尊・小久米尊と負せて申せるがやがてオホケノ(494)尊ヲケノ尊とつづまりたるならむ。さる故に御名の似たるより一名にも紛ひ〔左△〕て傳へけむ。その父王の久米若子ははじめは紀記の傳の如く丹波へ逃れまして丹波にて二柱王は生れまして其後父王は二柱の御子を丹波に殘し置て紀の國に猶深く逃れましてみほの窟に日下都連使主と共にましましけるが終に此石窟にて薨じましける成べし
といへり。右の諸説は、
一 顯宗天皇の御一名をクメノワクゴといひし事
二 顯宗天皇も石室に住みたまひ萬葉集なるクメノワクゴも石室に住みし事
を基としたるなれど、まづいにしへ久米(ノ)直《アタヒ》といへる神別の名家ありていと廣く蔓りけむとおぼゆ。二皇子を見顯し奉りし來目部小楯《クメベノヲダテ》もやがて某氏人なり。此久米家の若旦那は皆久米ノワクゴと稱せられしなるべければ物にこそ見えざれ久米ノワクゴと稱せられし人は同一の世にもあまたありけむかし。されば萬葉集に見えたる久米ノワクゴを直に顯宗天皇の御事とせむはいと輕卒なる事なり。次に顯宗天皇の石室に住みたまひし事は日本紀に見えず。さる事ありし如く思ふは書を見(495)る事の精しからざるなり。
或は播磨風土記に據れりとせむか。此書は眞淵宣長の時にないまだ世に現れさりき。内遠も少くとも三穗窟考を書きし時にはいまだ此書を見ざりし事此書を彼考に引かざるによりて知らる
かくの如くなれば何に苦みてか播磨と紀伊との扞格を調和せむとかはせむ。一言にして云はば萬葉集なる久米若子は荒木田久老のいへる如く顯宗天皇とは別人なり、○重罪はオモキ罪ナラムコトヲとよまでオモクツミナハレムコトヲとよむべし。意美の所爲は罪にあらねばなり。ツミナフは罰する事なり。續日本紀卷二十六(第三十五詔)に必法 乃末爾末仁 罪 奈比 給とあり○乘馬等切斷其※[草がんむり/(角+力)]を敷田氏は馬ドモニノセソノスヂヲキリタチテとよみ栗田氏はノレル馬ドモノソノスヂヲキリタチテとよめり。宜しく※[草がんむり/(角+力)]を勒の誤字としてノリシ馬ハソノタヅナヲキリタチテとよむべし。等は輕く添へたるなり。下に云はむ○遂放之を敷田氏はツヒニハブリタヤヒとよみ栗田氏は遂を逐の誤としてハブリステとよめり。遂を逐の誤とする事は栗田氏に從ひでオヒハナチキとよむべし。馬を逐ひ放ちしなり。又かくせしは(496)意美がせしにて二皇子のしたまひしにあらず(二皇子は此時なほ丹波に居たまひしなり)。されば敷田氏の如く敬語を添ふべからず○同氏が亦持物※[木+安]等盡燒廢之を
亦モチタル物・※[木+安]ドモヲコトゴトクヤキウテタマヘバとよめるも亦モテル物※[木+安]ドモハ〔右△〕コトゴトクヤキウテキとよみ改むべし。盡は又栗田氏の如くミナともよむべく廢はステキともよむべし。敷田氏が自知重罪の自知をオノヅカラシロシメシとよめるもミヅカラシリテとよみ改むべし。敷田氏は二皇子が意美の罪の重きを知りたまひて意美を馬に乘せ又意美の筋を切斷ちたまひ又意美の持てる物を盡く燒棄てたまひしかば意美はせむ方なくて縊れ死にし如く誤解せるなり。二皇子に濡衣を著せ奉れる畏しともかしこし○經死之はワナキシニキともクビレシニキともよむべし
爾《ココニ》二人|子等《ミコ》隱2於彼此1迷2於東西1仍志深村(ノ)首《オビト》伊等尾《イトミ》之家(ニ)所役《ツカハレタマヒキ》也
敷田氏標注 伊等尾、紀に逸せり
栗田氏標注 顯宗紀ニ縮見屯倉首(ハ)忍海部造細目也トアリ。古事記清寧ノ段ニ山部(497)連小楯任2針間國之宰1時到2其國之人民志自牟之新室1樂トアリ
新考 子の上に皇の字をおとしたるか。賀毛郡楢原里の下には意奚袁奚二皇子等とあり。又はもとのままにてミコとよむべきか。下文にも二子等また爲此子とあり
○古事記安康天皇の段の未に
至2針間國1入2其國人名(ハ)志自牟《シジム》之家1隱v身|役《ツカハレキ》2於馬|甘《カヒ》牛|甘《カヒ》1也
又清寧天皇の段に
爾《ココニ》山部連小楯任2針間國之宰1時到2其國之人民名志自牟之新室1樂《アソブ》
とあるは地名の志深《シジミ》を人名と誤れるなり。顯宗天皇紀には
向2播磨國赤石郡1倶改v字曰2丹波小子《タニハワラハ》1就2仕《ツカフ》於|縮見屯倉首《シジミノミヤケノオビト》1
とありて註に縮見屯倉首|忍海部造細目《オシミベノミヤツコホソメ》也とあり。清寧天皇紀にも赤石郡縮見(ノ)屯倉(ノ)首忍海部造細目とあり。屯倉首《ミヤケノオビト》は御料地の宰なり。其名を本書に伊等尾とし紀に忍海部(ノ)造細目ししたるはいづれか是ならむ。今の明石郡押部谷|神出《カンデ》の二村をもと押部谷といひき。二村は美嚢郡志染村の南につづけり。その押部はやがて忍海部《オシミベ》なり。オシミベを撥ねてオシソベと唱へ更に省きでオシベと唱ふるなり。思ふに忍海(498)部(ノ)造《ミヤツコ》は押部の領主にて隣接地なる志深の御料地を預けられたりしならむ。今も押部谷村大字小村に細目井といふ井ありといふ○因にいふ。今志染村の大字に細目あるは明治初年に上和田・四合谷の二部落を合併して新に名を命じたるにて古名にあらず
因2伊等尾(ノ)新室之宴1而|二子等《フタリノミコニ》令v△《秉》v燭仍令v擧2詠〔左△〕辭《ナガメコトバ》1
栗田氏標注 詠モト誅ニ作レルハ誤ナリ。今之ヲ訂ス
新考 二子等の等は一種の助字なり。之を捨ててフタリノミコニとよむべし。賀毛郡の下(四五四頁)にも
意奚袁奚二皇子等〔右△〕坐2於美嚢郡志深里高宮1
とあり上文にも
於奚袁奚天皇等〔右△〕所3以坐2於此土1者
又二人子等〔右△〕とあり。萬葉集にもワレを吾等と書けり○古事記
燒火少子《ヒタキワラハ》二口在2竈傍1
(499)日本紀に
屯倉(ノ)首|命《オホセテ》居2竈傍左右1秉《トラシム》v燭
とあり。紀に據りて令燭の間に秉字を補ふべし○當時は所謂原史時代に屬し史實の不明なる事多きは勿論、記紀の所傳にも一致せざる事少からず。今煩しきを避けてただ顯宗天皇の御壽を見むに古事記には
天皇御年參拾捌歳治2天下2八歳〔二字傍点〕
とあり日本紀には
三年〔二字傍点〕夏四月天皇崩2于八釣宮1
とありて御年を記さず。大日本史に
本書享年缺ケタリ。古事記・水鏡竝ニ三十八ト曰ヒ一代要記・歴代皇紀・神皇正統記・皇年代略記竝ニ四十八トアリ。未孰カ是ナルヲ知ラズ
といひ日本書紀通釋卷四十六(二五一三頁)に
紹運録云。顯宗天皇ハ允恭三十九年庚寅誕生。此文に據て推考すれば崩年は三十八年に坐せり。これを正しとすべし。さらでは御兄仁賢の允恭天皇三十八年己丑御(500)降誕と諸書に見えたるに合はず
といへり。しばらく御壽三十八歳とせむに御父押磐皇子の殺されたまひし安康天皇の三年には御年七歳、來目部(ノ)小楯が見顯し奉りし清寧天皇の二年には御年三十二歳(古事記の治天下八歳といふ説に據れば二十七歳)なり。然るに古事記に燒火少子〔二字傍点〕二口といへるはいかにと云ふにこはいまだ元服したまはで御頭つき、童のままにていまししかばワラハといへるにてなほ後世の牛飼童・朝鮮のチヨンガアの如くならむ。はやく古事記傳卷四十三(二四五二頁)に
いにしへ火燒には多く童子を用ひたりしなるべし。さるから必しも童ならぬをも火燒少子とぞ云けむ(後世の車の牛飼童も必しも童ならず年長たるをも然云たぐひなり)。さて此|意富祁《オホケ》命・袁祁《ヲケ》命は既に御父押齒王の殺されたまへる時に逃去座るよしあるを其後雄略・清寧二御代を經て今なほ童なるべきにあらず。袁祁命治2天下1八歳御年參拾捌歳と下にあるに依れば此時は三十歳の御時なり。されば是も火燒なるに因て少子とは云るにて實に童なりしよしにはあるべからず(然るを下文に坐2左右膝上1といひ書紀には兩兒とあるなどは火燒少子と云より(501)まぎれたる言なるべし)
と云へり。清寧天皇紀に見2市邊押磐皇子(ノ)子|億計《オケ》弘計《ヲケ》1畏敬兼抱とあるもよく年紀を正さで童子と心得て書けるならむ○仍令擧誅〔左△〕辭は記に次|弟《オト》將v※[人偏+舞]時爲v詠曰云云とあり紀には天皇次起自整2衣帶1爲2室壽1曰云云また天皇遂作2殊《タツツ》舞1誥《タケビテ》曰云云とあり。誅は詠を誤れるなり。その詠辭を二註に、ナガメコトバとよみ次なる立詠の詠をウタヒテとよめり。共にナガメとよむべし。ナガムはやがてウタフなり
爾《ココニ》兄弟各相讓。乃弟立|誅〔左△〕《ナガメキ》。其辭曰。多良知志吉備(ノ)※[金+截]侠〔左△〕※[秋/金]特《マガネノサグハモチ》如《ナス》2田打1手柏〔左△〕《タウツ》子等、吾|將v爲v※[人偏+舞]《マヒセム》
敷田氏標注 多良知志伎、評ならず(○原本には伎字無し)○吉備※[金+截]は古今集にマガネフク吉備ノ中山云云
栗田氏標注 按ズルニ應神紀ノ歌ニ阿羅知之吉備那流伊慕ノ句アリ。此ニ據レバ多良知之ハ蓋冠辭ナリ、吉備ガ鐵ヲ貢スルハ三代格・延喜主税式ニ見エタリ
新考 タラチシは吉備にかかれる枕辭とおぼゆ。應神天皇紀なる御製歌に阿羅智(502)之吉備ナルイモヲアヒミツルモノとあり。これも陀ラチシの誤ならむと栗田氏は云へり(日本書紀通釋二〇五七頁)○吉備※[金+截]云云を敷田氏は侠を使と見てキビノマガネヲクハニモタシメとよみ栗田氏は侠を狹の誤、特を持の誤としてキビノマガネサグハモテとよめり。栗田氏の説に基づきてキビノマガネノ〔右△〕サグハモチ〔右△〕とよむべし。揖保郡|少宅《ヲヤケ》里の下にも狹を誤りて侠と書けり。※[金+截]は鐵の古字なり。サグハのサは添辭にてサ夜・サヲ鹿などのサに同じ○如田打を敷田氏はタウチナスとよみ栗田氏はタウツガゴトとよめり。宜しくタウツナスとよむべし○手拍はタウツとよむべし。柏は拍の誤なり○將爲※[人偏+舞]はマヒセムとよむべし。二註にハタマハムとよめるはわろし。マハムをマヒセムといへる例は古事記雄略天皇の段に天皇幸2行吉野宮1之時……於2其處1立2大御|呉床《アグラ》1而坐2其御呉床1彈2御琴1令v爲v※[人偏+舞]《マヒセシメキ》2其孃子1。爾因2其孃子之好※[人偏+舞]1作2御歌1。其歌曰。あぐらゐのかみのみてもちひくことに麻比須流をみなとこよにもがもとあり○一章の意は吉備ノ鐵ニテ作レル鍬ヲ持チテ人ノ田打ツ如ク手拍《タウ》ツ子等ヨ、吾舞ハムといへるなり。鍬を持ちて田を打つと手を拍ちて拍子をとるとは相似(503)ざる事ながら共にタウツといへば吉備ノマガネノサグハモチ田ウツナス手《タ》ウツ子ラとのたまへるにてその子等は御兄皇子などを指したまへるなり○こは詠辭の首にて次なるはその尾ならむ。首と尾との間になほあまたの章ありしをおとし又は省けるならむ○此詠辭、記なるとも紀なるともいたく異なり。ただ紀なるが末に
わが※[人偏+舞]をば……たなぞこもやららにうたげたべ吾常世等
とあるはここにタウツ子等ワレマヒセムとあると相似たり
紀の歌の吾常世等には誤字あるべし。其外にも誤脱ありと見えてととのはざる處あり。今は煩しきを避けて全辭を擧けず
又|誅〔左△〕《ナガメシ》其辭曰。淡海者《アフミハ》水|渟《タマル》國、倭者青垣々〔□で囲む〕山△△《隱國》投〔左△〕|坐2市邊1之《ヤマトノイチノヘニマシシ》天皇(ノ)御足末《ミアナスヱ》奴津〔□で囲む〕|良麻者《ラマトイヘバ》即諸人等皆畏(ミテ)走出
敷田氏標注 投坐、遊仙窟に欲d役《ヨリテ》2娘子1片時停歇u○御足末、繼體紀に枝孫をよめり○奴良麻云々、麻は助辭也。紀に弟日|僕《ヤツコラマ》と有(○敷田本には奴の下の津字無し)
(504)栗田氏標注 按ズルニ青垣々ノ々ハ當ニ之ニ作ルベシ。山投ハ未詳ナラズ。按ズルニ山投ハ恐ラクハ山於ノ訛ニテ即大和山邊郡ヲ言ヘルカ。蓋市邊皇子ノ居リシ所
新考 渟は原本に丁の上に一横線あれどなほ渟とよまる。さて渟は栗田氏がタマルとよめるに從ふべし。水タマル國は大湖あるをのたまへるなり。敷田氏が水隔國としてミヘノクニとよめるはいとわろし○淡海國云云は倭者云云とのたまはむ序のやうにのたまへるなり。家屋にたとふれば淡海國云云は玄關なり、○青垣々山投坐を敷田氏はアヲカキカキ山ヨリマスとよみ栗田氏は青垣之〔右△〕山於〔右△〕》坐の誤とせり。
さて活字本にはアヲカキノヤマトニマスと傍訓したれどヤマノヘニマスとすべきならむ。寫本には傍訓無し
案ずるに景行天皇紀十七年なる御製歌に古事記には倭建命の御歌とせり)
やまとは、くにのまほらま、たたなづく、あをがきやまごもれる、やまとしうるはし
とあり又萬葉集卷六(新考一〇三四頁)なる山部宿禰赤人作歌にタタナヅク青垣|隱《ゴモリ》とあるによりて思へばここは倭者青垣山|隱《ゴモル》國とあるべく其次は倭ノ市邊ニマシ(505)シ天皇とあるべきなり。さればもと
倭者青垣山隱國倭坐市邊之天皇
とありしを青垣の下に々を入れ隱國を脱し倭を投に誤れるならむ。さて坐2倭市邊1と書くべきを倭坐2市邊1と書けるは下文に坐2於高野里祝田社1坐2於志深里三坂1と書くべきを高野里坐2於祝田社1と書き志深里坐2於三坂1と書けると同例なり○記には云云ノ市邊之押齒王ノ奴|末《ミスヱ》とあり紀には押磐尊ノ御裔僕《ミアナスヱヤツコ》是也とあり。奴津良麻を栗田氏がヤツラマとよめるはいとわろし。津を衍字としてヤツコラマとよむべし。良麻はゾといふに近き辭にて紀の是也に當れり。宣長の詔詞解卷一(全集第五の二〇七頁)に現御神止大八嶋國所知天皇大命良麻止詔《ノリタマフ》大命乎とあるを釋して
艮麻止は附ていふ辭と聞えたり。武烈紀に臣をヤツコラマ、顯宗紀に御裔僕をミナスヱヤツコラマなど訓るに同じ。親御神云云ノ大命ゾとたしかにいひ聞する意に添たる辭なるべし
といへり。御足末《ミアナスヱ》は
日本紀の訓にミナスヱとあるはアを落せるならむ。又僕是也の僕にヤツコラマ(506)と傍訓し是にナリを添へたるは非なり、ラマは是也に當るなり
子孫といふことを足ノサキといひしなり○者はトイヘバとよむべし。栗田氏がテヘレバとよめるはあさまし○即諸人等皆畏走出は御歌辭によりて高貴なる御方といふ事知られしかば同席を畏多しとして走り出でしなり。記には此處を
即小楯(ノ)連聞驚而自v床墮|轉《マロビテ》而追2出其室人等1
と書き紀には
小楯大驚離v席悵然再拜
と書けり
爾《ココニ》針間國之|山門〔左△〕領斯遣《ヤマベヲシラシニツカハセル》山部(ノ)連|少楯《ヲダテ》相聞相見語云。爲2此子△《等》1汝〔左△〕《ミ》母|手白髪《タシラガノ》命|盡〔左△〕《ヒル》者不v食夜者不v寢|有〔左△〕《アルハ》生|有〔左△〕《アルハ》死|位〔左△〕《ナキ》戀(フル)子等《ミコゾト》。仍參上|※[石+成]〔左△〕《マヲスコト》如2右(ノ)件1。即歡哀|位〔左△〕《ナキ》還2遣少楯1召上、仍相見相語戀〔□で囲む〕
敷田氏標注 領、和名抄に國曰v守郡曰v領、皆加美とあれど西宮記に大領コホノミヤツコ少領スナイミヤツコと注し孝徳紀に國(ノ)造郡(ノ)領《ミヤツコ》と有に從ふ(○さてミヤツコ(507)とよめり)○山部連少楯、少は小に作べし。紀に山部連先祖伊與來目部小楯○手白髪命は仁賢天皇の皇女にて繼體天皇の大后也。此二皇子の御母は蟻臣女※[草がんむり/夷]媛なれば母は伯母忍海命の誤なる事しるし。紀には此命を二皇子の御姉に傳たれど今古事記によりて論ふ○※[石+成]、或人云※[(石+戈)/口]の誤也。※[(石+戈)/口]は古き啓字也とぞ
栗田氏標注 晝モト盡ニ作レルハ誤ナリ。今之ヲ訂ス○按ズルニ手白髪命ハ繼體天皇ノ皇后タリ。二皇子ノ母ニ非ザルナリ○※[石+成]ハ疑ハクハ啓字ノ訛ナラム。古文ニ啓ヲ※[啓の攵が戈]ニ作レリ
新考 山門領を敷田氏はヤマトノミヤツコニとよみ栗田氏はヤマトヲヲサメニとよめり。宜しく門を部の誤としてヤマベヲシラシニとよむべし。但山部ヲシラシニツカハセルといへるは山部連といふ姓より誤れるなり。小楯は此時の功によりて後に顯宗天皇の御世にいたりて山官に任ぜられて山部連《ヤマベノムラジ》といふ姓を賜はりしなり。此時はまだ山官ならねば山部を領《シラ》しに遣されむ由なし。記には
爾山部連小楯任2針間國之宰1時到2其國之人民名(ハ)志自牟之新室1樂《アソブ》
とあり清寧天皇紀には
(508) 二年冬十山元依2大甞(ノ)供奉《タテマツリモノ》之料1遣2於播磨國1司〔右△〕山部(ノ)連(ノ)先祖伊與(ノ)來目部(ノ)小楯云云(○司は使の誤か。舊事本紀には使者とあり)
又顯宗天皇紀には
白髪天皇二年冬十一月播磨國司山部(ノ)連(ノ)先祖伊與(ノ)來目部(ノ)小楯於2赤石郡1親|辨《ソナフ》2新甞(ノ)供奉《タテマツリモノ》1(一云。巡2行郡縣1收2斂田租1也)適會《タマタマ》縮見屯倉(ノ)首|縱賞新室《ニヒムロアソビシテ》以v夜繼v晝
とあり。此等の方ぞ正しからむ。當時國宰即國司はまだ臨時の任命なれば新甞祭(當時は毎年のをも大甞祭とも云ひき)の料物を徴さむが爲に播磨國の宰として遣ししなり。更に思ふに當時はまだ國造時代即封建時代なれば少楯が國司として播磨國に下りしは同國なる處々の屯倉即御料地を巡りしならむ。さてこを邊鄙なる志深里にも來りしならめ○少楯の少は小の通用なり。相聞相見の相はただ輕く添へたるなり。下文の相見相語の相とは異なり○此子の下に等を補ふべし。上文に二人子等また二子等とあり下文にも泣戀子等とあればなり○汝母は御母の誤ならむ。さて御母手白髪命といへる不審なり。まづ兩皇子の御母は蟻(ノ)臣(ノ)女|※[草がんむり/夷]《ハエ》媛にて手白髪命にあらず。次に記に手白髪命(紀に手白香皇女)あれどそは於奚皇子即仁賢天皇が(509)後に生ませたまひし皇女なり。抑小楯が兩皇子を見顯し奉りしを記には清寧天皇の崩後とし紀には同天皇の御在世中としたるがおそらくは後者ならむ、もし記にいへる如く天皇の崩後にて天下を治むべき君なき程ならば直に大和に迎へ奉るべく紀并に風土記にいへる如く播磨にて處々に宮を營みたまはむ餘裕なかるべきが故なり。さて飯豐皇女(記には御叔母とし紀には御姉又は御妹とせり)此時大和にましまししが兩皇子の御行方をぞ尋ねたまひけむ。又紀に從ひて清寧天皇の御在世中とせば天皇も御子無くて皇統の絶えむ事を憂へたまふ餘に兩室子の御行方をぞ尋ねたまひけむ。此御二柱を誤りて一人とし兩皇子の御母とし天皇の御名を白髪命と申し奉るより手白髪命とは語り傳へけむ
因にいふ。仁賢天皇は清寧天皇を徳としたまひしこと紀に見えたれば其御女に手白髪命と名づたたまひしは清寧天皇の御名を繼がしめ給ひしならむ
○盡は晝の誤、二つの有は或の誤、又二つの位は泣の誤なり○泣戀子等を敷田氏はミコタチヲナキコヒタマヘリとよみ栗田氏も亦ミコタチヲナキコヒマセリとよめり。宜しくナキコヒタマフミコ等ゾトとよむべし○※[石+成]は※[(石+戈)/口]の誤なり。晋書劉演傳(510)に演の弟啓を※[(石+戈)/口]とも書けり。※[(石+戈)/口]は啓の俗字なり。件はコトとよむべし。二註にはクダリとよめり。相語の下の戀は衍字ならむ
自v此|以後《ノチ》更還下造2宮於此土1而|坐之《イマシキ》。故有2高野宮・少野《ヲヌ》宮・川村宮・池野宮1。又造2△《屯》倉1之處即號2御宅村1造v倉之處號2御倉尾1
敷田氏標注 高野宮、次に高野里あり。件の宮は還幸前なる事紀に見えたり○倉は屯倉と有べし
栗田氏標注 按ズルニ倉ノ上ニ恐ラクハ屯字ヲ脱セルナラム○按ズルニ仁賢天皇紀元年ノ注ニ言ハク。或本云億計天皇之宮有2二所1焉。一宮於2川村1、二宮於2縮見高野1。其殿柱至v今未v朽ト。所謂或本ハ蓋此風土記ヲ指セルナリ。此ニ據レバ少野池野ノ二宮ハ則弘計天皇ノ御セシ所ナリ○播磨ノ御圖帳ニ三木郡池野村アリ
新考 坐之はイマシキとよむべし。栗田氏がマサシメキとよめるはわろし。記に二皇子の顯れたまひし處に
集2人民1作2假宮1坐《マセ》2置其假宮1而|貢2上《タテマツル》驛使1
(511)とあり紀には
奉養甚謹、以v私供給。便《スナハチ》起2柴宮1權《カリニ》奉2安置1乘v驛馳奏
また
於v是悉發2郡民1造v宮不v日權奉2安置1即詣2京都1求v迎2二王1
とあれど大和に上りたまひし後に再播磨に下りたまひし事は記紀に見えず。但二天皇紀の註文に
或本云。弘計《ヲケ》天皇之宮有2二所1焉。一(ノ)宮於2少郊1、二(ノ)宮於2池野1。又或本云。宮《ミヤヰス》2於甕栗1或本云。億計《オケ》天皇之宮有2二所1焉。一(ノ)宮於2川村1、二(ノ)宮於2縮見(ノ)高野1。其殿柱至v今未v朽
とあり。又二皇子が志深里高宮にましまして小楯をして國造許麻の女根日賣命を娉《ツマド》はしめたまひし事は賀毛郡楢原里の下に見えたり○日本紀の註に據れば高野・少野・川村・池野四宮のうち高野・川村の二つが御兄|意奚《オケ》皇子の宮にて少野《ヲヌ》・池野の二つが御弟|袁奚《ヲケ》皇子の宮なり。さて、仁賢天皇紀に二(ノ)宮於2縮見高野1とあるは本書賀毛郡楢原里の下に志深里高宮とあると同處なるべければ(高宮とあるは野をおとせるにや)高野宮には初兩皇子竝び坐ししなり。ここに聊まぎらはしき事あり。下文に(512)高野里といふ里名見えたれば高野宮は其里にあるべきを日本紀に縮見高野、本書に志深里高宮とあるは如何。二皇子の御時には後の高野里までもシジミといひしにや。案ずるに日本紀に少郊・池野・川村には大名を添へず高野のみ縮見(ノ)高野といへるを味はふに高野里と紛れむことをおそれて縮見といふことを添へたるに似たり。されば高野は高野里にはあらで志深里の小名なりけり。さて美嚢郡誌(一〇〇八頁)に
高宮 和田(細目村)ニアリ。億計弘計二王ノ宮居ノ跡ナリト傳フ
といひ同書附録(二五四頁)には
仁賢天皇紀ニ……此縮見高野宮トイフハ志染ノ吉田村ニ今尚高宮ト稱スル所アリテ川ニ臨ミテ高燥ノ地ナリ。眺望モ亦頗ル可ナリ
といへり。即本文には志染村大字細目字和田の内とし附録には同村大字吉田の内とせり○少野は今知られず。但顯宗天皇紀の少郊は少野の誤ならむ○川村も知られず○池野は志染村大字|窟屋《イハヤ》の一部落なり。明治の初に池野と高男寺《カウダンジ》とを合併して窟屋と稱せしなり○因にいふ。明石郡押部谷村大字木津に柴垣(ノ)宮といふ神社あ(513)りて二皇子を祭り二皇子還上の時の駐輦の跡といひ傳へたりといふ。こは日本紀なる柴宮と關係あらざるか。又同書の甕栗宮はおそらくは播磨にあらじ○又造の下に栗田氏に從ひて屯字を補ふべし。御宅村・御倉尾共に知られず○栗田氏が日本紀の註に云へる或本を此風土記の事とせるは從はれず。本書には二皇子の宮を別たず又其殿柱至v今未v朽など云はざるにあらずや
高野里(ノ)坐2於|祝田社《ハフダノモリ》1神|玉帶志比古大稻女〔左△〕《タマタラシヒコオホイナヲ》・玉帶志比賣豐稻女・志深里(ノ)坐2於|三※[土+且の中一本横線多い]〔左△〕《ミサカ》1神|八戸挂須御諸《ヤトカカスミモロ》命(ハ)大物主葦原志許△△《乎命》國堅(メシ)以後《ノチ》自v天下2於三坂(ノ)岑1
敷田氏標注 高野、和名抄に多加乃○祝田、式に揖保郡磐田神社○玉帶志比古、佐用郡引舟山條に大神之古玉足日子玉足比寶命とある是也○大稻女神詳ならず○帶志比賣は神功皇后なるべし○豐稻女は三代實録貞觀二年十一月授2河内國從五位下豐稻賣神正五位下1とあるに同神なるべし○坐於は志深の上に有べし○三坂は同郡御坂神社○八戸挂云云考なし○志許の下乎字を脱せり
(514)栗田氏標注 按ズルニ祝田ハ當ニ讀ミテ波布太ト云フベシ。倭名鈔ニ山城國祝園郷ヲ波布會乃ト訓メリ。例トスベシ。今東這田・西這田ノ二村アリ。播磨國東這田莊ト東鑑ニ見エタル是ナリ○大稻女ノ女ハ恐ラクハ男○三坦ハ恐ラクハ三坂ノ訛ナラム。神名式ニ曰ク美嚢郡御坂神社ト
新考 高野里は、下に見えたり。今の別所村に當るべし○坐於は高野里・志深里の上におきかへて見べし。これと同じ類なる顛倒は神前郡の下(三八三頁)にも見えたり○祝田は栗田氏の如くハフダとよむべし(敷田氏はハフリダとよめり)。今別所村の大字に東這田・西這田あり。社はモリとよむべし(四八〇頁參照)。敷田氏が神名帳なる揖保郡祝田神社を擧げ特選神名牒同神社の下に今按社傳祭神高|※[靈の巫が龍]《オカミ》神・美豆波能賣神とあり。されどこは玉帶比古大稻女・玉帶比賣豐稻女の二神を誤り傳へたるなるべし。さるは播磨風土記美嚢郡高野里坐2於祝田社1神玉帶志比古大稻女玉帶志比賣豐稻女とある其明證なればなり。さて大稻女は大稻男などの訛ならん歟
と云へるは美嚢郡と揖保郡との相異を思はざりしにや○大稻女はげに大稻男の(515)誤ならむ○敷田氏本には玉帶志比倍の玉を脱せり。敷田氏がそれに基づきて神功皇后なるべしと云へるはあやなし○三※[土+且]は三坂の誤ならむ。敷田氏本には三坂に改めたり。なほ下にいふべし○八戸挂須を敷田氏はヤトカケとよめり。栗田氏の如くヤトカカスとよむべし。國カカス大神などのカカスなり。さて其八戸カカスは彼ウチカクム豐富《トヨホ》命(四〇八頁)のウチカクムに似たる枕辭ならむ。葦原志許の下に乎命の二字を補ふべし○此一節よ他里の事をも此志深里の下にいへる如く聞えて穩ならず。或は
此里ニ三坂岑アリ。今〔九字傍点〕高野里祝田社ニイマス神玉帶志比古大稻男・玉帶志比賣豐稻女・志深里三坂ニイマス神八戸挂須御諸命ハ大物主葦原志許乎命ノ國竪メシ後倶ニ〔二字傍点〕天ヨリ此〔右△〕三坂岑ニ下リキ
といふ意をかく云へるか。なほ若干の脱字あるべくおぼゆ○大稻男は玉帶志比古の一名、豐稻女は玉帶志比賣の一名なり。さてタマタラシヒコ・タマタラシヒメは讃容郡|雲濃《ウヌ》里の下に大神之子玉足日子玉足比賣命とあると同神ならむ(敷田氏が引舟山條といへるは誤れり)。大稻男・豐稻女の別名に據れば二神は穀物を掌る神とお(516)もはる。今東這田に加賀守神社ありて倉稻魂《ウカノミタマ》神|保食《ウケモチ》神等を祭れり。又御鎭座本紀に宇賀之御魂稻女神といふ神名見えて、ここに大稻男・豐稻女といへると相似たれば二神の社は加賀守神社ならざるかと思へど※[穀の禾がのごめ]物の神を祭るは農村一般に行はるる習なれば(現に東西の這田に各大年神社あり)右に述べたる所は證としがたからむ。更に案ずるに東這田字前山に村社美坂神社あり。此神社は這田部落中最古きものと思はるる上に社名の美坂も二神に縁あれば此神社や或はいにしへの祝田森ならむ。但社侍には祭神はクニトコタチノ命・イザナギノ命・イザナミノ命にて景行天皇三年に紀伊國熊野宮より勸請せしなりと云へり○三垣は前にいへる如く三坂の誤とすべし。下に自v天下2於三坂岑1とあり、又延喜式神名帳に美嚢郡一座小御坂神社とあり、又志染村の大字に御坂あり、又本郡にはミサカ(三坂・御坂・美坂)といへる神社多かればなり○御坂神社の所在はたやすく定むべからず。郡誌を檢するに同郡内にてミサカと稱せる神社は左の如し
志染村大字御坂 郷社御坂社
別所村大字東這田 村社美坂神社
(517) 久留美村大字加佐 村社三坂社
細川村大字豐地 村社三坂神社
志染村大字吉田 無格社御坂社
同村大字|阿福田《アフタ》 無格社御坂社
播磨鑑(寶暦十二年成)には右の外に
中石野村(今別所村の内) 三坂大明神
を擧げたり。此等のうちいづれか本社、いづれか分靈(勸請)ならむ。播磨鑑には
三坂大明神 志染庄大柿村(○今細川村豐地)……延喜式ニ御坂トアリ。這田村・中石野村(○共に今別所村の内)志染(ノ)大柿村三所有之。何レヲ本社何レヲ攝社トモ不知。然レドモ大柿村ノ社ヲ本社トセンカ。……三木郡ノ内ニテハ一ノ宮ト稱ス。志染庄十个村ノ氏宮ナリ
といへり。今の細川村大字豐地字|上垣内《カミノカチ》の村社三坂神社は社傳に
當三坂神社ハ昔播磨國三木郡細川之庄大柿簀子橋西南ニ御鎭座アリシ由ニテ今ニ字宮西トテ雜木林存在セリ。然ルニ此地ハ川端ニテ且地所低キ爲出水ノ際(518)ハ浸水スルコト時々ナレバ神威ヲ慮リ長享元年(○後土御門天皇御時)現今ノ位置ニ御遷座シ奉ル
とあり。今はいたく衰へて氏子は細川村大柿・佐野・金屋・桃津・高篠・高畑・脇川の一百七十五戸に過ぎずといふ。又播磨鑑に
御酒大明神 上芝原村(○今細川村垂穂)……延喜式神名帳曰。播磨國五十座ノ内美嚢郡一座 小 御坂神社ト云。當村之御酒大明神則此事也ト云云。酒坂文字異也。然ドモ通音成故乎
又同郡大谷山伽耶院ノ境内ニ三坂大明神有。是レハ三坂ト書ク。當郡志染庄上村ニ三坂大明神ト有。是ヲ上芝原村ヘ勸請成ベシ。……伽耶院境内ノ明神モ上村ヨリノ勸請成ベシ
とあり。されば播磨鑑の著者平野庸修は志染莊上村なるを御酒大明神竝に伽耶院鎭守三坂大町神の本社としたれどこれを式内社とは認めずして武内社は志染荘大柿村(今細川村豐地)なる三坂大明神ならむと云へるなり。轉じて現今式内社に擬せらるるはいづれぞと問はむに
(519) 郷社御坂社 志染村御坂字宮ノ東
村社御酒神社 細川村垂穂字前田
村社三坂神社 同村豐地字上ノカチ
の三社なるべし。まづ御酒神社は社傳に初御坂神社と稱せしを明和八年に御酒大明神と改稱せしなりと云へれど御酒はミキにて郡名の三木と同稱なり。もし強ひて訓まばミサケとはよむべけれどミサカとはよむべからず。されば御酒神社は神名帳の御坂神社と無關係ならむ。次に御坂の御坂社は本書に志深里三坂ニマシマス神云云とあるに據れば神名帳の御坂神社なるが如くなれど
但播磨鑑にいへる志染村上村と郡誌にいへる志染村御坂字宮の東と同一なりや其地方の人に問ふたべし
今の社地は古來の社地にあらざる如し。即郡誌(七一三頁)に
徃古ハ當庄内志染中村ニ鎭座ノ所天正年間(○別所長治が滅されし時なり)兵燹ニ罹リ燒失ノ後當村ニ遷靈相成由志染|中《ナカ》、八幡社棟札ニ書キ記シアリシト云ヘドモ天正年中炎燒シ記録寶物等皆燒失シテ詳ナラズ。明治維新ノ際三坂ヲ御坂ト改ム
(520)といひ又(附録二三一頁)に
今ノ御坂神社ハ是レ井上村ニ有リシヲ今ノ地ニ遷座シ奉リシモノニシテ云云
といへり。井上は御坂の西に隣り志染|中《ナカ》は更に其西に憐れる大字なり。次に豐地の三坂神社は播磨鑑に
三木郡ノ内ニテハ一ノ宮ト稱ス。志染庄十个村ノ氏宮ナリ
とあるに據れば(郡誌に引ける當社の縁起には一宮といふこと見えず)尋常の神社にはあらざれども本書に坐2於御坂1神云云とあるにかなはず。おそらくは他よりは早く三坂より分靈せしものならむ。さて神名帳の御坂神社は夙くうせて其址だに殘らぬにこそ○大物主は即葦原志許乎命、即大汝命の一名なり
○吉川《エカハ》里 所3以以號2吉川1者吉川大刀自(ノ)神在2於此1。故云2吉川里1
敷田氏標注 吉川、和名抄に與加波
栗田氏標注 倭名抄ニ曰ク美嚢郡吉川(與加波)
(521)新考 吉川はエカハとよむべし。敷田氏がヨガハとよめるはわろし。エカハといひしをはやく和名抄の成りし頃にヨカハと訛りたりしなり。今もヨカハといひて奥中口の三村に分てり。郡誌(九三三頁)に引ける中吉川村法光寺の縁起に
往昔此谷奥ニ温泉涌出、則湯谷ト號ス
とあるを思へばエカハ・ヨカハは湯川の訛ならむか。神前郡|埴岡《ハニヲカ》里の下にも
湯川 昔湯出2此川1。故曰2湯川1
とあり
○枚野《ヒラヌ》里 因v體爲v名
○高野里 因v體爲v名
敷田氏標注 枝野の枝は枚の誤なるべし。和名抄に平野(ハ)比良乃(○原本に明に枚とあり)
栗田氏標注 倭名抄ニ曰ク美嚢郡高野(多加乃)平野(比良乃)
新考 體は敷田氏のクニガタとよめるに從ふべし
(522)以上四里。和名抄には此外に夷俘郷をあり。四里を今の町村に當てなば志深里は上|淡河《アウゴ》ムタ・淡河村・志染村(即|淡河《アウゴ》谷、臥淡河川一名志染川の流域)に當り吉川《エカハ》里は北谷村・奥中口の吉川《ヨカハ》村・細川村(即吉川谷、即美嚢川の流域)に當り枚野里は久留美村・三木町に當り高野里は別所村に當るべし。久留美・三木・別所は今いふ三木盆地にて志染川が美嚢川に合流する處より美嚢川が加古川に合流する處までの間にあり
(523)播磨風土記逸文
一 (釋日本紀卷八熊野諸手船之下所引)
播磨國風土記曰。明石驛家駒手御井者難波高津宮天皇之御世|楠《クス》生2於|吉〔左△〕《キノヘ》1。朝日(ニハ)蔭《オホヒ》2淡路嶋1夕日(ニハ)蔭2大倭《ヤマト》嶋根1
敷田氏標注 於吉の吉字を萬葉緯に井只〔左△〕に改引けり。按に吉は井上を一字に誤合たるか。日本紀纂疏に引ける風土記に明石驛家有2一井1楠樹生2其上1と有。是は略て引たる文にはあれど其上は井上を換たるなるべし○朝日云云、明石の地理を推(フ)に淡路は正南、聊東にふれたれば朝日に蔭刺べき方にあらず。是は同御世の古事を古事記に兎寸川之西有2一高樹1其樹之影云云を誤語傳たるなるべし
(524)栗田氏標注 按ズルニ此文ハ釋日本紀卷八ニ引ケル本國風土記ノ逸文ニテ蓋明石郡ニ載セタル一條ニ係ル。サテ本書明石郡ハ闕ケテ傳ハラザレバ其詳ナルコトハ得知ルベカラズ。故ニ今之ヲ補フ。又按ズルニ續歌林良材ニ載セタル、粗本文ト同ジ。亦一證ニ備フヘシ。故ニ此ニ附出ス
はりまの國風土記云。明石の驛家に駒手の御井あ。井上に楠木有。其長百丈。切て舟に作りて奉る。其舟、足のはやき事鳥の飛がごとし。一旦明石の濱より發して半時を以て住吉の岸にいたれり。時人早鳥と名づく。歌にいはく。住のえの大くらむきてとべばこそ早鳥といへいづれ早鳥(○分註)
同上 井口モト井口ニ作レリ。今萬葉緯ニ據リテ之ヲ訂ス○國圖ヲ按ズルニ明石郡明石ハ淡路島ト相對セリ
同氏著古風土記逸文考證 明石は和名抄播磨國明石(安加志)郡明石(安加之)郷とある是にて兵都式に播磨國驛馬明石三十疋とみえたれば此所に驛家ありしなり○駒手御井はいまだ考へず○難波高津宮は仁徳天皇の朝なり○楠生於井上印本に井上を吉の一字にあ〔左△〕るは誤れり。神代卷口訣に此傳を載て楠樹生其上また續歌林(525)良材には本文を假字に改めて「明石驛家に駒手の御井あり井上に楠木有」また萬葉緯には井口とあるによりて考ふるに吉は井上の二字を寫し誤れるものなる事著ければ今は訂して引けり。駒手御井の上に生立たる楠樹ありと也○朝日蔭淡路島夕日蔭大倭島根は大楠樹の朝日夕日にあたれば其樹の影の淡路島また大倭島根を蔽ふばかりなりしと也。景行紀十八年秋七月辛卯朔申午到2筑紫國御木1居2於高田行宮1時有2僵樹1長九百七十丈焉……古事記(仁徳段)に此御世兎寸河之西有2一高樹1……とあるにいとよく似たり。古くはかかる大木の諸國に多かりしなり。記傳に「そもそも今世人の心にはいかに高くとも然ばかりならん樹はあるべくもあらざるに如此云るは虚説の如く思ふべかめれど然らず。今世にすら思ひの外なる大木の深山中などにはあること此彼《ココカシコ》に聞り。況《マシ》て上代にはさる大木のありしこと此彼物に見えたり。近江國|栗太《クリモト》郡に語傳へて云く。古に粟の大木ありて其の枝數十里にはびこれり。故栗本と云。今も地を掘れば粟實又枝などあり。又すくもと云て里人の薪に用る物ありて土中より掘出す。是も其栗の葉なりと云り。此の類の語傳なほ國國に往々あり。然れば上代には殊なる大木の處々に有しこと知るべし」とあるが如(526)し
新考 こは明石郡の逸文なり。明石郡の記事は全部、今傳はれる風土記に缺けたり
○明石(ノ)驛家《ウマヤ》は延喜兵部式に
播磨國驛馬 明石卅疋……
とあり○明石驛家駒手御井は此ままならば驛家にノを添へてよむべけれどおそらくは原書にはかくつづけて書きたりしにはあらで明石驛家云云駒手御井云云とありしをつづめて引けるならむ。驛家に名水ありし例は萬葉集卷十四に
すずがねのはゆまうまやのつつみ井のみづをたまへないもがただ手よ
とあり。駒手御井の在りし處は知られず。俗書に大藏谷としたれど確なる證無し。なほ下にいふべし○吉は誤字なるべき事明なるが下河邊長流の續歌林良材集に此文を和げて書けるに「井上〔二字傍点〕に楠木有」とあるは證とするに足らねど神代紀に門前有2一井1井上〔二字傍点〕有2一(ノ)湯津杜樹《ユツカツラノキ》1とあるを思へばおそらくは井上の二字を誤りて吉字とせるならむ。さて楠生2於井土1は仁徳天皇の御世に生ひしにあらで此御世に生ひてありしなり。されば生はうるはしくはオヒタリキとよむべし○大倭《ヤマト》島根は大和國な(527)り。萬葉集卷三に
なぐはしき稻見の海のおきつ浪千重に隱奴やまと島根は
とあると同例なり(萬葉集新考三二〇九頁參照)○淡路島は明石の南にあり。又明石の東方には大和國との間に攝津・河内の二國あり。されば朝日ニハ淡路島ヲオホヒ夕日ニハ大倭島根ヲオホヒキトは攝津國又は河内國に生ひたらむ大木(たとへば古事記に見えたる免寸河の高樹)にこそいふべけれ。なほ下に云ふべし
仍伐2其楠1造v舟、其|迅《ハヤキコト》如v飛一※[楫+戈](ニ)去2越《ユキコユ》七浪1。仍號2速鳥1
敷田氏標注 速鳥、續紀廿に舶名播磨速鳥竝叙從五位下……とあるは此件の古事によりて名づけしならむ
栗田氏標注 續紀ニ天平寶字二年三月丁亥船名播磨速鳥竝叙從五位下トアリ。但年代悠久ナレバ疑ハクハ同名異舶ナラム
逸文考證 速鳥は舟の甚捷きをほめて名けたるなるべし。續紀に舶名播磨速鳥に從位下を授けらるる由みえたり。此風土記の故事によりて名けしにやあらん。…(528)…舟に鳥を以て名くる事は書紀神代卷に鳥磐※[木+豫]樟船と云もみえ天鳩船と云もあり。萬葉集に奥鳥鴨云船《オキツトリカモチフフネ》ともあり。その行ことのいと迅《トク》して足輕きを鳥にかたどりたるものとみえたり。さて船に名をつくる事は應神紀に五年冬十月科2伊豆國1令v
造v船……故名2其船1曰2枯野《カラヌ》1また續紀三に船號佐伯、同廿四に船名能登、續後紀六に船號大平良など見え義經紀四に「月丸といふ大船に五百人の勢をとりのせて云云」ともあり。今世に某《ナニノ》丸|某《ソレノ》丸と云名どもの聞ゆるも古の名遺《ナゴリ》なるべし
新考 船に名を命ぜし事は應神天皇紀の枯野《カラヌ》を始めて後の國史にも見えたり。特に速鳥といふ名は續日本紀(孝謙天皇紀)に
天平寶字二年三月舶(ノ)名播磨速鳥竝叙2從五位下1其冠者各以v錦造。入唐使所v乘者也
と見えたり。竝とあり各とあれば播磨と速鳥と二舶の名なり。敷田氏が「かくあるは此件の古事によりで名づけしならむ」といひ、栗田氏が
續紀に舶名播磨速鳥に從五位下を授けらるる由みえたり。此風土記の古事によりて名けしにやあらん
といへるは誤りて播磨速鳥といふ一舶の名と思ひしにや○※[楫+戈]は楫と同字なり
(529)於v是《ココニ》朝夕乘2此舟1爲v供2御食《ミヲシニソナヘムタメニ》1汲2此井(ノ)水1。一旦《アルヒ》不v堪《アヘズ》2御食《ミヲシ》之時1。故作v歌而|止《ヤメキ》。唱《ウタ》曰
住吉之《スミノエノ》大倉|向而飛者許曾速鳥云因〔左△〕何《ムキテトベバコソトイハメナニカ》速鳥
敷田氏標注 住吉和名抄に明石郡住吉は須美與之とある此地にて大倉は今大倉谷と云所あり是也○云因の因は目の誤なるべし
栗田氏標注 目モト因ニ作レリ。今釋紀伊澤本及古本ニ據リテ之ヲ訂ス
逸文考證 爲供御食はオホミケツカヘマツルタメニと訓べし……○一旦不堪御食之時、一旦はアルヒと訓べし。不堪御食は御食仕奉るに得堪ざる由にて舟の壞《ヤレ》損はれし故なるべし。故作歌而止とは云るなり。堪の下に供或は汲字あり御食の下に水の字ありしが脱たるなるべきか○住吉之大倉向而飛者許曾速鳥云目〔右△〕何速鳥(目一本に因、記傳・萬葉緯に閇とあれど今は古本に從へり)この歌は此舟の一楫に七浪を越去ばかりいととく行さまの飛ぶが如く住吉の大倉に往|來《カヨ》へば速鳥と名に負しもさる事なはら今大御食の時に得及ばで遲く滯りたらんにはいかで速鳥とは云ふべきと嘲りし意なり……
(530)新考 朝夕乘2此舟1の上に主水《モヒトリ》などを略したるなり○爲v供2御食1を敷田氏はミケニタテマツラムタメニとよみ栗田氏はオホミケツカヘマツルタメニとよめり。宜しくミヲシニソナヘム爲ニとよむべし。下なる御食もミヲシとよむべし○一旦は或日なり。即アルヒとよむべし。不堪はタヘズとよまでアヘズとよむべし。俗語のマニアハズなり。栗田氏が不v堪d供〔右△〕2御食水〔右△〕1之時u又は不v堪d汲〔右△〕2御食水〔右△〕1之時uの脱字かといへるはいとわろし。同氏が御食之時に堪へざりしを「舟のやれそこなはれし故なるべし」といへるもいとわろし。さては舟の疾からぬを嘲る歌を作りて舟の往來を止むとあるにかなはざるにあらずや。故はカレとよむべし。栗田氏がコトサラニとよめるは右の矛盾を緩和せむと試みたるならむ○作v歌而止は天皇の御しわざなり。されば止は二註の如くヤミキとよまでヤメキとよむべし。なほ云はば作歌而止唱曰はうるはしくはミウタツクリテヤメタマヒキソノミウタハとよむべし○因は二註にいへる如く目の誤なり。さて御歌は
すみのえのおほくらむきてとばばこそはやとりといはめなにかはやとり
とよむべし。栗田氏の逸文考證にトベバとよめるは誤植にてもあるべし。同氏の標(531)注には正しくトババとよめり。オホクラムキテは大倉ニ向キテなり。ナニカハヤトリはカク遲キモノヲ何カ速鳥トイハムとなり○スミノエは攝津國の住吉にて大倉はそこに御食料などを納むる倉を置かれしにこそ。敷田氏が住吉を明石郡の住吉とし大倉を今の大倉谷とせるはいみじきひが事なり。明石にては直に井に就きてこそ水を汲むぺけれ、倉を作りて汲みし水を貯へむやは。或書に駒手御井の所在を大藏谷としたるも敷田氏の如き誤解に基づけるにあらずや。但大日本地名辭書に
今大藏谷に摩耶坂・摩耶谷の名殘る。磨耶は宇摩耶の訛りならずや
と云へり。こは傾聽すべし○此傳説は古事記高津宮(仁徳天皇)の段に
此之御世(ニ)兎寸河之西有2一高樹1。其樹之影當2旦日《アサヒ》1者逮2淡島島1當2夕日1者越2高安山1。故切2是樹1以作v船。甚捷行之《イトトクユキシ》船也。時號2其船1謂2枯野《カラヌ》1。故以2是船1旦夕酌2淡道《アハヂ》島之寒泉1獻2大御水《オホミモヒニ》1也。茲船破壞。以燒v鹽取2其燒遺《ヤケノコリノ》木1作v琴。其音響2七里1
とあると相似、又古事記の傳説は日本紀應神天皇の紀に
五年冬十月科《オホセテ》2伊豆國1令v造v船。長十丈。船既|成之《ナリキ》。試|浮《ウカブルニ》2于海1便《スナハチ》輕(ク)泛(ビ)疾(ク)行(クコト)如v馳。(532)故名2其船1曰2枯野1
三十一年秋詔2群卿1曰。官船名(ハ)枯野者伊豆國所v貢之船也。是朽之《コレクチテ》不v堪v用。然久爲2官用1。功不v可v忘。何《イカデ》其船(ノ)名(ヲ)勿v絶《タツコトナクテ》而得v傳2後葉1焉。群卿|便《スナハチ》被《ウケ》v詔以(テ)令2有司1取2其船(ノ)材1爲v薪而燒v鹽。……初枯野船(ヲ)爲《シテ》2鹽(ノ)薪1燒之《ヤキシ》日有2餘燼《モエノコリ》1。即奇2其不1v燼而獻之。天皇|異以《アヤシミテ》令v作v琴。其音|鏗※[金+將]《カウサウトシテ》而遠|聆《キコユ》
とあると相似たり。兎寸河は本文|讃容《サヨ》郡中川里の下に此人買2取河内國兎寸村人之齎劔1也とありて河内國の川名なれば地理は右の逸文よりは古事記の方かなへり。但船の名はトババコソ速鳥トイハメ何カハヤトリといふ御製歌さへ添ひたる事なれば逸文に速鳥とせるが正しからむ。古事記に船の名を枯野《カラヌ》とし其船の壞れたるを以て鹽を燒く料とし其燒餘の材を似て琴を作りきといへるは日本紀に見えたる應神天皇の御世の事にまがへたるならむ。
後漢書蔡※[災の火が邑]傳に呉人有2燒v桐以〓者1。※[災の火が邑]聞2火烈之聲1知2良木1因請而裁爲v琴。果有2美音1而其尾猶焦。故時人名曰2焦尾琴1焉とあると相似たるは偶然にや
日本紀は古事記より後れて成りし書なれば確なる據あらずば古事記に記せる事(533)を覆さじ。これにても古事記の記事のさながらに信ずべからざるを知るべし。兔寸は兎寸の誤としてウキとぞよむべからむ。くはしくは彼兎寸村の註(三三七頁)に云へり
因にいふ。本書に後めきておぼゆる事若干あり。第一には山直《ヤマノアタヒ》はもと山部直といひし延暦四年五月の詔に依りて桓武天皇の御諱を避けて山直と改めしに似たるに賀古郡の下に賀毛郡山直とある事、第二には餝磨郡伊和里の下に蠶子をヒメと云へる事、第三には同郡|賀野《カヤ》里の下に張2蚊屋1と云へる事(但蚊屋は神祇式などにも見えたり)第四には揖保《イヒボ》郡|越部《コシベ》里御橋山の下に俵といふ語の見えたる事、第五には同郡麻打里|意此《オシ》川の下に酒を佐佐といへりとおぼゆる事、第六には同郡|萩原《ハリハラ》里の下にハリを萩と書ける事、第七には神前《カムザキ》郡蔭山里の下に塗《マミ》れしむる事をマブルどいへりとおぽゆる事、第八には此逸文に云へる船名速鳥が孝謙天皇紀に見えたる船名播磨速鳥に據れるに似たる事是なり。此等に由りて本書は或は和銅靈龜の交の物ならじといふ淡き疑も起らぬにはあらねどなほ文體により又緒言にいへる如く郷を里といひ和泉國和泉郡を川内國泉郡と云へる(534)に由りて和銅六年以靈龜元年以前の撰と認むべし
二 (釋日本紀卷十一便到新羅時云云之下所引)
播磨國風土記曰。息長帶日女《オキナガタラシヒメノ》命欲v平《コトムケムト》新羅國1下坐之《クダリマシシ》時祷2於衆神1。爾《ソノ》時國竪(メシ)大神之子|爾保都比賣《ニホツヒメノ》命|者〔左△〕《カカリテ》2國造|石坂比賣《イハサカヒメ》命1教曰。好治2奉(ラ)我前1者《バ》我|爾《スナハチ》出2善驗1而比比良木(ノ)八尋|杵〔左△〕根《ホコネ》底|不v附《ツカヌ》國・越賣眉引《エオトメノマヨビキノ》國・玉甲賀賀益《タマヨロヒカガヤク》國・苦尻〔二字左△〕《コモマクラ》有v寶|白衾新羅《タクブスマシラギノ》國|矣《ヲ》以2舟〔左△〕浪《ニナミ》1而|將2平賜伏〔二字左△〕1《コトムケタマハム》
敷田氏標注 命の下の者は著の誤か○出善驗而の而は下の以舟浪へ係れり○八尋桙根の根は加たる也。續紀二に獻2杠谷樹《ヒヒラギノ》八尋桙根1、倭姫世記に以2比比羅木乃八尋鉾根1云云。是は底附と云に掛れる序也○底不附とは無限遠き國を云○越賣眉引は仲哀紀に如美女之※[目+碌の旁]《ヲトメノマヨビキナス》とある是にて遠山の幽に見ゆる状を云○玉甲は玉を磨き整たる状を云○苦尻有寶の四字考なし。日本紀通證に苦を若に改め若v尻《ミカ》とよみたる(535)は如何○白衾、仲哀記に栲衾に作れり。其織たる布の白き故に義を以て白衾と書けり○平伏賜を原本平賜伏とあるは決《キハメ》て誤なめれば今改つ
栗田氏標注 名跡芯ヲ按ズルニ三木郡ニ丹生野アリ。古所集ニ云ハクここにますかみのとりゐもあけにほふさとのたみくさにふのとはよぶト。又三才圖會ヲ按ズルニ三木郡丹生山田に丹生山丹生寺アリ。此ニ據レバ本文ハ蓋美嚢郡ノ逸文○著ヲモト者ニ作レルハ誤ナリ。今伊澤本ニ從フ○桙ヲモト杵ニ件レルハ誤ナリ。今宇佐縁起ニ據リテ之ヨ訂ス○匣ハモト甲ニ作レリ。今伊澤本ニ從フ○苦ハ伊澤本ニ云ハク。異本ニ苔ニ作レリト。縁起ニハ苫ニ作レリ。皆誤ナリ。今按ズルニ苦尻ハ當ニ薦枕ニ作ルペシ。薦ハ省キテ〓ニ作リ枕尻ハ字畫相似タリ。傳寫ノ久シキ遂ニ誤リテ苦尻ニ作レルナリ。薦枕ハ即寶ノ冠辭ナウ。神名式ニ薦枕高御産日神アリ。萬葉集ニ薦枕高久尊伎ノ語アリ。之ヲ證トスベシ○賜伏ハ宇佐縁起ニ代賜ニ作レリ。按ズルニ代賜ハ疑ハクハ當ニ伏賜ニ作ルベシ
逸文考證 欲平新羅國下坐之時祷於衆神は神功紀に……とある時の事なり。此時に播磨國に下り給ひてまた衆神を祭られしと見ゆ。其事は史に漏れたり。されど(536)播磨風土記に飾磨軍因達里……また揖保郡大田里言擧阜……また讃容郡中川里……などみえたるにて此國にも久しく坐しこと知られたり(○二六八頁參照)○國堅大神は他書に見あたらねど伊弉諾尊を稱へ奉れる御名なるべく思はる。其は古事記に天神諸命以詔3伊邪那伎命伊邪那美命二柱神修2理固成是多陀用幣流之國1賜2天沼矛1而言依賜也とある詔命のままに大八洲國を生なしまた山川草木の諸神を生成し給へる功業のいともいとも大なりしによれり……○爾保都比賣命は丹生告門に伊佐奈支伊左奈美乃命乃御兒天乃御蔭日乃御蔭丹生津比※[口+羊]乃大御神また丹生祝天平十二年籍文に紀伊國伊都郡天降坐伊佐奈岐命御兒丹生津比※[口+羊]また雜筆要集に丹生大明神者云云天照大神之小妹とあるによりて伊邪那岐命の御子たる事を喩るべし。爾保を丹生と云ふは音便によれるなり○著國造石坂比賣命教曰は此婦人に神託して教《サト》し給へるなり。……國造は播磨國造と聞ゆれど石坂比賣命は他書に見あたらず。國造本紀に針間國造……また針間鴨國造……また明石國造……とありて、三族あれば何れの国造の族とも決めがたし○好治奉我前者、古事記少名毘古神常世國に度りませる時の事を於v是大國主神愁而告(537)……是時有2光v海依來之神1其神言能治2我前1者〔五字傍点〕吾能共與相作成……この傳に云云と云る如く此も我前とは爾保都比賣命のうへを申せるにて我をよく打棄おかずして嚴かに齋祀り給はば云云と云るなり○比比良木八尋桙根底不附國、この比比良木八尋桙根は古事記倭建命東征の條に給2比比羅木之八尋矛1、續紀二に大寶二年正月造宮職獻2杠谷樹長八尋1俗曰2比比良木1また同年夏四月秦忌寸尋庭獻2杠谷樹八尋桙根1、遣2使者奉2于伊勢大神宮1とあるなどみな同物なり。……記傳に云「桙を桙根とも云るは云云」○底不附國は心得がたけれど強て思ふに新羅は皇國と甚く隔らぬ國なる由にて底依不附國と云るならむ……○越賣眉引國は下に引る仲哀紀に如2美女之※[目+碌の旁]1有2向津國1ともみえ萬葉六に如眉雲居爾所見阿波乃山ともある如く此方より遙々と見|放《サケ》たるさまを云りと聞ゆ○玉匣賀賀益國、玉匣を印本には玉甲とあれど今は伊澤本によれり。玉匣は玉もてうるはしく飾れる櫛笥にて光輝くと云爲の冠辭と聞ゆ。また玉甲にてタマヨロフにても聞ゆ。其は肥前風土記基肄郡長岡神社の條に景行天皇の御甲鐙の事を御具甲鎧光明《ミヨソヒノヨロヒヒカリカガヤキテ》異v常といふ事もあればなり。賀賀益は即耀くなり。神功紀一書に筒男神の神教を載て於v是神託2皇后1以誨之(538)曰云云とある眼炎國《マカガヤククニ》に同じく金銀の多きを云るなるべし○苦尻有寶白衾新羅國、苦を一本に苔とあり。されど苦尻にても苔尻にても其義詳かならず。……かくて後かにかくに考ふるに、苦は薦の誤、尻は枕の誤にて薦枕の高とつづける事、常陸風土記に薦枕多珂之國もあるもの證とすべし○白衾新羅國は仲哀紀に是謂2栲衾新羅國1焉とみえ萬葉卷十五にタクブスマ新羅國とつづけあり。卷十四にタクブスマシラヤマカゼノ云云、これらは栲布《タクヌノ》ノ衾ノ白キとつづけたり。栲《タク》は木綿《ユフ》なるが故に集中にシロタヘといふ所に白栲と書るもあり。古事記にタクヅヌノシロキタダムキ云云、萬葉卷三に栲角《タクヅヌ》乃新羅國|從《ユ》などあるも栲綱ノ白とかかれるにて異なる事なし○以丹浪而將平伏賜は爾保都比賣命の神意にて丹浪をもて新羅をことむけ給はむと思ほしめせる由にて是までの文即神の御教なり。さていかなる由縁ありてかく詔《ノリ》給へるにや神の御心なれば凡人の測りしるべきにあらず。かかる神聖のある事と思ひてあるべきものぞ
新考 此一節を敷田氏は不知何郡逸文といひ栗田氏は蓋美嚢郡之逸文といへり。按ずるに美嚢郡志深里の逸文なり。おそらくはもと高野里坐2祝田社1神云云の一節(539)の後にぞありけむ○國堅大神を栗田氏の標注にはクニカタメオホムカミとよみ同氏の逸文考證にはクニカタメノオホカミとよめり。宜しくクニカタメシ〔右△〕オホカミとよむべし。さて國堅大神とはいかなる神ぞ。紀國天野に傳はれる丹生大明神|告門《コウモン》に伊佐奈支伊佐奈美乃命乃御兒天乃御蔭日乃御蔭|丹生津比※[口+羊]《ニフツヒメ》乃大御神とあり又雜筆要集に丹生大明神者……天照大神之小妹とあるなどに據れば伊弉諾尊の御事なり。されど本書|宍禾《シサハ》郡の下に伊和大神國作堅以後云云、同郡御方里の下に大神國作訖以後云云、美嚢都志深里の下に大物主葦原志許乎命國堅以後云云とありて少くとも本書にては伊和大神を指していへりと見ゆ。おそらくはいにしへより國堅大神之子と語り傳へしを古人も心々に解釋し或は伊和大神の御子とし或はイザナギノ尊の御子とせしならむ○爾保都比賣命の爾保は丹生の訛なり。逸文考證に丹生を爾保の訛とせるは顛倒せり。さて神功皇后紀に筑紫國小山田邑の齋宮にくさぐさの神の現れたまひし事見えたれど此神の名は見えず。但彼紀に見えたる稚日女《ワカヒルメ》尊と同神とせる説あり。稚日女尊はイザナギノ尊の御子、天照大御神の御妹にて神戸市なる官幣中社生田神社の祭神なり○此爾保都比賣命を祭れる(540)社は今も攝津國武庫郡山田村大字坂本なる丹生山上にあり。但此社はもと丹生山明要寺の境内にありて鎭守山王社と稱せしを明治維新の初明要寺の廢絶せし時獨立せしめて丹生神社と改稱せしなり。元來此附近はもと丹生山田庄と呼ばれ北方播磨國美嚢郡|淡河《アウゴ》圧に接し恰攝播二國の界にありて其所屬曖昧なりしなり。されば寛永年中及元禄年中にも淡河庄と丹生山田庄との間に山論即兩國境堺についての訴訟の起りし事あり。
丹生谷よす發せる山田川の西北に流れて淡河川に注げるを見ても少くとも今の山田村の北部は地勢上美嚢郡に屬すべきなり
中古の書にも或は攝津とし或は播磨とせりり。播磨とせるものの一を擧げなば暦應二年十月九日島津忠兼軍忠状(島津家文書)に
播磨國爲2山田丹生寺御敵退治1大將軍御發向之間今年七月十三日馳2參志染軍陣1同八月四日馳2向男神山1同十三日發2推押部1云云
とあり。
因にいふ。明石郡の北部に雄岡《ヲカウ》・雌岡《メカウ》の二山あり。そは元來|男神《ヲカミ》・女神《メカミ》なるを(いにし(541)へは山を神といひ二峯相竝べるをフタガミといひ其高きをヲガミ又はヲノカ
ミといひ低きをメガミ又はメノカミといひき)ヲウウ・メカウと訛りし後に雄岡・雌岡の字を充てたるなり。又志染村の東南部に入寺ケ市といふ部落あり。こは丹生寺垣内《ニフジガイチ》の擬字なるべし
又和漢三才圖會に丹生山丹生寺在2三木郡丹生山田1とあれど當國慶長圖の國界は今の國界と同じ○者は釋日本紀正安年間古寫本に據りて著に改むべし。石坂比賣はイハサカヒメとよむべし(敷田氏はイシザカとよめり)。國造は明石國造ならむ。但國造本紀に
明石國造 輕嶋(ノ)豐明《トヨアキラノ》朝(ノ)御世大倭(ノ)直《アタヒノ》同祖八代(ノ)足尼《スクネノ》兒|都彌自《ツミジノ》足尼(ヲ)定2賜國造(ニ)1
とありて始めて明石國造を定めたまひしは應神天皇の御時なり○好治2奉我前1者とはヨク我ヲ祭リタマハバとなり。又奉治と書かで治奉と書けるを思へば奉は祭の借字にてもあるべし。古事記なる少名毘古那神の辭にも能治2我前1者吾能共與相作成とあり○善キ驗ヲ出シテとあるは靈驗ヲアラハシ示シテといふ事か。さては出の字穩ならず。又按ずるに驗は神武天皇紀に是實天神之子|者《ナラバ》必有2表物《シルシモノ》1とある表(542)物と同じきか。さてはそのシルシノモノは下文に見えたる赤土なり。後説おをらくは可ならむ。更に按ずるに續日本紀第四十五詔(詔詞解卷五の六十丁)に
復|詔《ノリタマハ》ク。此賜フ帶ヲタマハリテ汝等《イマシタチ》ノ心エオトトノヘ直シ朕《ア》ガ教事ニ不違《タガハズ》シテ束ネ治《ヲサメ》ム表《シルシ》トナモ此帶オ賜《タマハ》クト詔《ノリタマ》フ御命《オホミコト》ヲ衆諸聞食《モロモロキコシメセ》ト宣《ノル》
とある驗《シルシ》はやがてシルシノモノなれば
同第四十一詔に如此《カ》ク奇《クスシ》ク尊キ險《シルシ》ハ顯《アラハレ》賜ヘリとあるシルシは舍利を指したるなればこれもシルシノモノなり
險はシルシとのみ訓みても可なれどなほシルシノモノとよみて誤解を防ぐべし○比比良木以下は新羅國の事をさまざまに辭を飾りていへるなり。さてヒヒラギノ云云(杵は桙の誤)はヒヒラギノ八尋桙根モ〔右△〕底ニ〔右△〕ツカヌ國といふ意、イト長キ物ニテモ底ニトドカヌ國といふ意にていと廣き國といふことならむ。根は桙に添へて心得べし。續日本紀に
大寶二年夏四月丁未從七位下秦(ノ)忌寸《イミキ》廣庭獻2杠谷《ヒヒラギノ》樹(ノ)八尋桙根1
とあり。記傳卷二十七(一六二二頁)に
(543) 桙を桙根と云るはいにしへ物名に根てふ言を添て云る例多し。杵を古書にキの借字に多く用ひたればネは添たる言なり。屋根・岩根・島根なども同じ
といへり。桙根・杵根・屋根・島根・羽根などのネは神名少日子根の根と同じくてネには義無し。根と書けるは一種の借字なり。但岩根は(垣根のカキホに對したる如く)イハホに對したればそのネは無義の接尾辭とは認められず○ソコは今は縱の果にのみ云へどいにしへは横の果にもいひしなり(記傳卷三【一七〇頁】天之常立神之註參照)○越賣眉引國《ヲトメノマヨビキノクニ》は少女ノ眉ノ如ク見ユル國といふ意なり。仲哀天皇紀にも譬如2美女之※[目頁碌の旁]《ヲトメノマヨビキ》1有2向津國1といへり。その津は流の誤にあらざるか○玉甲を敷田氏はタマヨロフとよみ栗田氏は或は玉匣の誤としてタマクシゲとよみ或はもとのままにてタマヨロフとよめり。前田家所藏の正安年間筆寫本に匣に作りたれどカガヤクの枕辭にタマクシゲといへる例無ければ確に玉匣の誤なりとも云ひがたし。逸文考證の第二説に從ひて玉モテ飾レル甲ノ如ク照リカガヤク國といふ意とすべきか。さらば玉甲はタマヨロフとはよまで名詞と認めてタマヨロヒとよむべし○苦尻は栗田氏の考へたる如く薦枕などの誤としてコモマクラとよむべし。栗田氏の擧げた(544)る例の外に武烈天皇紀の歌にコモマクラタカハシスギ、神樂歌にコモマクラタカセノヨドニとあり○古事記仲哀天皇の段に
西方有v國金銀(ヲ)爲v太《ハジメ》目之|炎耀《カガヤク》種々珍寶多在2其國1
とあり仲哀天皇紀に
眼炎耀《マカガヤク》之金銀彩色多在2其國1。是謂2栲衾新蘿國《タクブスマシラギノクニ》1焉
とあるはここに有寶といへるに當れり○タクブスマはシラギノ國のシラにかかれる枕辭なり。萬葉集にはタク綱《ヅヌ》ノシラギノ國とも云へり。タクに白字を充てたるは、タクは或種の木より製したる絲又はそれを織りたる布にて色白きものなればなり○矣《ヲ》といふテニヲハを顯して書ける例は本文にも賀古郡の下に上緒爾下緒爾と書けるを始めて往々あり○舟浪は丹波の誤なり。以丹浪而はニナミモチテとよむべし。栗田氏が丹浪をニフナミとよめるは、わろし。但逸文考證にはニナミとよめり。又敷田氏が丹浪とある本に據りながら「舟浪の誤なるべし」といへるはひが言なり。赤土にて青浪を丹浪に染め成して敵をおどさむと謀りたまへるなり○將平賜伏は二註にいへる如く將平伏賜の顛倒としてコトムケタマハムとよむべし。下(545)へ平2伏新羅1とあるは此處に應じたるなり。國史大系本に平字を正安本に據りて卒に改めたるは郤りてわろし○敷田氏標注竝に栗田氏の逸文考證に如此教賜を將平伏賜に附けてコトムケタマハムトカクヲシヘタマヒキ・コトムケタマハムトヲシヘタマヒキとよめるは誤れり。栗田氏標注の如く下文に附くべし
如此教腸(ヒテ)於v此《ココニ》出2賜(ヒキ)赤土《アカニ》1。△《爾》其|土《ニヲ》塗2天之逆桙1建2神〔左△〕神《ミ》舟之|艫舶〔左△〕《トモヘ》1又染2御舟(ノ)裳《スソ》及御軍之|著《キタル》衣1又|攬〔左△〕2濁《カキニゴシテ》海水1渡賜之時底|潜《クグル》魚及|高飛《タカトブ》鳥等不2往來1不《ザリキ》v遮v前
敷田氏標注 舟裳は記傳に後世の幕の類なるべしと云り。通證に丹裳に改たり
栗田氏標注 舳モト舶ニ作レルハ誤ナリ。今之ヲ訂ス○攬ハ疑ハクハ攪
逸文考證 如此教賜於此出賜赤土は上件の如く御|教《サト》しありけるに異しくも神の御しわざにて播磨國に赤土を出し賜へりとなり。平田篤胤が説に「丹生都比賣命名義云云」と云る如く赤土《ハニ》を掌り給ふ由と聞ゆれば舟浪はニナミ、赤土はハニと訓べきなり○天之逆桙は天逆手などの例によらばサカホコと訓べき歟。されど逆ホコ、書に見あたらず。逆は邇の誤にて邇桙ならむか。釋紀の印本にトホコと訓たるは俗訓(546)なれば取がたし……○神舟は神功紀に住吉神の御誨言を擧て荒魂爲2先鋒1而導2師船1とみえ攝津國風土記美奴賣の條に擧たる神船またた上に引る因達里の條なる伊太代之神の御船に坐し事などを合せて先鋒の船々に神等をませ奉りし事を知るべし……○御舟はここにては皇后の乘御の舟を云り。神功紀に請2和魂1爲2王船《ミフネ》鎭1と見えたる御舟なり。宇佐八幡宮縁起に此文を引たるには舟を丹とあり。丹裳ならば皇后の服し給へる丹き裳なるべし。裳は、俗に云ふ幕などの如きものにや○御軍之蕃衣は軍人どもの身に著せる衣にて其|著衣《ケセルコロモ》は即甲冑を云りと聞ゆ。……逆桙以下の諸物にも赤土を塗りたまへとなり○又攪濁海水渡賜は其赤土もて海水を攪みだして海原を渡りたまへと誨《サト》し給へるなり。此下に而渡賜の三字脱たるか。然らざれは文義聞えがたし○而渡賜〔三字右△〕之時底潜魚及高飛鳥等不往來不遮前は神誨の如くにして渡給ふ時に底潜る魚も高飛鳥どももみな往來《ユキカヨ》ふ事もなく御前に遮らずてありしは彼心なき鳥魚にいたるまで悉く神の意に從ひ奉りし由なり。さて底潜魚は……水底に潜り居る魚を云事なり。高飛鳥は……總て鳥にタカユクともタカトブとも云るなるべし。此も天を掠めて高く飛鳥を云るなり。不往來不遮(547)前は常陸風土記久慈郡なる賀毘禮之高峯に坐す立速男命の神異なるを云る條下に凡諸鳥經過者盡急飛避無v當2峰上1と云るに同じ意ばへなり……
新考 如此教賜は栗田氏標注の如くカクヲシヘタマヒテとよむべし○出賜赤土は宣長の如く又逸文考證の如く赤土ヲイダシタマヒキとよみ切るべし。敷田氏がタマヒとよめるも栗田氏標注にタマヒテとよめるも共にわろし。赤土はアカニともただニともよむべし。上古には染料として廣く用ひしものなり。此土を産せしによりでて生生山と稱せしなり。但ニを丹た書けるは借字なり。赤土は丹(朱・鐵丹など)にあらざればなり。今も丹生山附近の山々には赤土多しといふ○栗田氏標注本には(稿本にも)其土の二字を脱せり。其土の上に爾《スナハチ》などありしが落ちたるならむ。其土以下は皇后の御しわざなり。栗田氏標注には誤りて不遮前までを神語とせる如し○天之逆桙はいかなる鉾にか。他の古典には見えず○神舟は宣長のいへる如く御舟の誤ならむ。敷田氏はもとのままにてミフネとよみたれど下のミフネは御舟と書きながらここのみ神舟と書くべしやは。舶は舳の誤なり。艫舳はトモヘとよむべし○御舟裳を宣長及敷田氏はミフナモとよみ栗田氏はミフネモ又はミフネノモと(548)よめり。宜しくミフネノスソとよむべし。スソは下體なり。宣長が記傳卷三十(一八三〇頁)に
舟裳《フナモ》は後世の幕の類なるべし。人の裳を著たる状に似たるが故に云ならむ
といへるは從ひがたし。舟の下體を赤く塗りしは海神をおどさむ爲なるべし。事は異なれど晋書王|※[さんずい+睿]《シユン》傳に又畫2※[益+鳥]首怪獣於船首1以懼2江神1とあり○御軍はミイクサとよみて兵士と心得べし。栗田氏の如くヒトを添へてミイクサビトとよむに及ばず
○著衣を栗田氏はヨロヒとよみたれど字のままにキタルコロモとよむべし。甲には限るべからず。敷田氏がケセルキヌとよめるも宜しからず。ケセルはキタルの古語にあらず。聊敬意を帶びたる語なり。余は此格を假に他作格と稱せり○攬は栗田氏が攪の誤とせるに從ふべし。揖保《イヒボ》郡揖保里の下にも爾時客神以v釼攪2海水1而宿之とあり。ここは赤土もて海水をかき濁ししにて上に以丹浪而將平伏賜とあるに應ぜるなり。さて攪濁はカキニゴシテとよむべし○渡賜之時はワタリタマヒシトキニとよむべし。逸文考證に渡賜の下に而渡賜の三字を補はねば文宜通ぜずと云へるは誤りて此處をもなほ神語の續とし渡賜をワタリタマヘとよまむと欲せし爲(549)なり。さて栗田氏ばかりの學者がかく誤解せしは其土の上に爾《スナハチ》などいふ語の無き
が爲なり。元來將2平伏賜1までが神、如v此教賜於v此出2賜赤土1は神の御しわざにて其土以下は皇后の御しわざなれば赤土の下、其土の上にかならず爾字などあるべきなり○高飛はタカク飛ブといふことにあらず。高はタカヒカル・タカシル・タカユクなどのタカにて空といふことなり。北陸人などは今も空をタカといふ(萬葉集新考六六二頁參照)。さて底潜魚云云は大魚猛鳥も神威皇威におそれし状なり。王※[さんずい+睿]傳に江神といへるもやがて大魚なり○不遮前は宣長及敷田氏の如くミマヘヲサヘギラザリキとよむべし。栗田氏標注にサヘギラジとよめるは誤りて此處までを神語と思へるなり
如是而《カクテ》平2伏《コトムケ》新羅1已訖《ヲヘテ》還上(リマシテ)乃|鎭2奉《イハヒマツリキ》其神(ヲ)於|紀伊《キノ》國|管川藤代《ツツカハノフヂシロ》之峯1
敷田氏標注 藤代は海部有田二郡の堺にありて管川も其邊にありと或書に云れど爾保都比賣命は式に伊都郡丹生都比女神社とある是にて海部郡とは遙に隔れり。猶土人に問べし。この比賣神は大神之子とあれば大國主神の御子なるを諸神記(550)には伊弉諾・伊弉冊之御娘と記せり
栗田氏標注 加納諸平云ハク。按ズルニ管川ハ今訛リテ筒香ト稱ス。即天野邊ノ莊名ナリ。又之ヲ郷人ニ聞クニ云ハク。今富貴・筒香・大和等ノ高峯、水呑峯又石堂峯或ハ子粒嶽ト稱スル者即古、藤代峯ト名ヅケシ是ナリト
逸文考證 乃鎭奉其神於紀伊國筒川藤代之峯は丹生都姫の神教によりて韓國を平げ給ひし故に其神を紀伊藤代之峰に鎭祭りしとなり○筒川藤代之峰加納諸平云「管川は今筒香と訛りて天野あたりの總ての庄名也。藤代峰は宮貴《フキ》・筒香・大和等の界の高峰を云りと里人云り。今は水呑峰とも粒が嶽とも云へど古名藤代なりと云り。後此峯より今地には遷奉れるなり。彼山は海部の藤代より山つづきなれど甚く隔れり」。丹生大明神告門に云云とあるによりて所々に忌杖を立て神界を定め給ひしかど終に天野原に鎭坐し給へる事を知るべし。神名帳紀伊國伊都郡丹生都比女神(名神大月次新甞)とあり……今高野山鎭守の神とて鳥居額に正一位勲八等丹生大明神とある社是にて其社人數人あり。總神主を丹生祝といふ。天道根命の神孫にて其家に古系譜を藏《モタ》り。延暦十九年のほどに書るものとみゆ。さて告門に那賀(551)郡赤穗山 乃 布氣と云處に此神ます由みゆ。播磨風土記に此神の事を傳へたるに同國に赤穂郡あるを思ふに赤穂の地に由ありて紀伊にも播磨にも祀られ給へる故播磨にて神の御誨ありしにやあらん。なほよく考へ定むべきなり
新考 鎭は敷田氏の如くイハヒとよむべし。萬葉集卷十九賜2酒肴入唐使1御歌(新考三九五七頁)にもイハヘル・イハヒテを鎭在・鎭而と書けり(栗田氏はシヅメとよめり)○紀伊國の東北端を伊都《イト》郡といふ。即高野山のある郡なり。其東端を富貴《フキ》村といふ。大和國吉野郡|大塔《オホタフ》村に憐れり。村の大字に上中下の筒香《ツツガ》あり。是此|管川《ツツカハ》なり。上筒香の東方なる山を今も藤代(ノ)峯《タケ》といふ。敷田氏が「藤代は海部《アマ》有田二郡の界にあり爾保都比賣命の社は伊都郡にありていたく相隔れるは如何」と訝れるは今の海草郡の藤白即齊明天皇紀に見えたる藤白坂と混同したるなり。日本書紀痛釋にも二處を混同したり。さて此神を管川の藤代の峯に祭りたまひし時期は日本紀に
皇后南詣2紀伊國1會2太子於日高1……更遷2小竹《シヌ》宮1
とある時の事なるべく又此處に祭りたまひし理由は此處も亦赤土を産する故なるべし。丹生川といふ川此あたりより出でて紀伊《キノ》川に注げり○延喜式神名帳に
(552) 紀伊國伊都郡丹生都比女神社(名神大、月次新甞)
とある社は今も同郡天野村大字上天野にあり。管川の藤代の峯より後に此處に遷ししなり。筒川即筒香は高野の奥なる東谷に、天野は高野の西谷にあり。此社は明治維新の初までは丹生《タンジヤウ》と唱へて高野の鎭守としたりき。元來高野山は此神の領したまふ處なりしを空海が取りて寺地としたるなり。神領を奪ひて寺地とし在來の神を地主と稱して其寺の鎭守とする事は中世の僧侶の慣用手段なりき。比叡山延暦寺と日吉《ヒエ》神社との關係も然り。上に述べたる丹生山明要寺と丹生神社との關係も亦然り○さて天野の丹生都比賣神社にいと古き祝詞《ノリト》を傳へて丹生大明神|告門《コウモン》と稱せり。本居内遠の天野告門考は之を釋したるものなり。
内遠は告門を祝詞《ノリト》の假字としたれど告文《コウモン》の擬字ならざるか。或は告文と書きてノリトとよみしを文はトとよむべからずと思ひてさかしらに門に改めたるか
又栗田氏の著せる丹生大明神告門考證は栗里雜著第二冊に載せたり
(553)播磨國風土記新考
後記一
大正十四年三月五目に弟柳田國男が來て話のついでに云ふには
播磨風土記の研究は文學史學地理學に亘る爲頗困難であるが、あなたは幸國文・國史を兼修せられて居る上に播州の産で地理の研究にも便宜があるから是非やつて御覧なさい
と云うた。恰萬葉集新考卷十六の第二稿を作つて居る時で毎日早朝から診療に從事し夕方に歸宅し夜間ばかり執筆して時間の乏しきに苦んで居る際であつたから一たびは思遣の無い事を云ふよと思うたが忽、柳田の言には裏があつて余が萬集集新(554)考を完成した後安心して頓に衰へん事を恐れて余をして氣を張らしむべく、わざと新考完成以前に此話を持出したのだナと悟つたから、よく考へて見ようと答へておいた。さて熟考の未に第一余の微力でも出來ぬ事はあるまい、第二萬葉集新考の完成を待たず新考著作中に隙を伺うて執筆する方が種々の點に於て得策であると決定したからいよいよ四月十日を以て起筆した。然るに余は前々年即十二年の九月一日の大火に藏書全部を失ひ其後門人諸君の助を得て盛に新古の書籍を集めて居るが播磨風土記は栗田博士の標註を獲ただけで敷田翁の標註はまだ手に入らず、播磨國の地誌の如きも播州名所巡覽圖繪と姫路紀要及赤穗郡誌との外は持つて居らぬ。元來余は播州人ではあるが國に住んだの幼時十三年餘と壯時二年餘とに過ぎず、其上天性旅行を好まぬから此國の地理の知識は極めて乏しい。そこで考へたには
どうで三四囘稿を重ねねばなるまいから第一稿はまづ文學・史學・語學の上の研究に止めよう。其内に參考書も集まらうから
かく思定めて餝磨郡の註まで書いて見たが地理上の研究をさしおいては外の研究も完全には出來ぬと知つたから大日本地名辭書と陸地測量部の地形圖と其頃出た(555)小川琢治博士の市町村大字讀方名彙とに據つて一とほり地理を研究して辛うじて第一稿を作り終へたのは同年八月の中旬である。さてかやうに文辭ばかりを用ひては長くなつて讀んでくれられる人にも煩はしからうから以下文辭に表を併用しよう
大正三年〔四字傍点〕六月十八日播州會にて三山神話に就いて講演しその際播磨國風土記揖保郡の下なる出雲阿菩大神云々の一節の誤脱を訂正す
大正十四年〔五字傍点〕四月十日播磨風土記註第一稿起筆
八月十八日第一稿卒業
第一稿の本文は栗田博士の標註本に據つたが同書は活字本で多少の誤植は免れまいから成るべくは三條西家所藏の原本に據りたいと思うたがその本は同家の秘藏であるから、たとひ伊勢に居らるる伯爵の好意によつて一見する事は出來ても帶出を許されぬ事は勿論である。さればせめては原本の摸寫本を見たいものだと願うて居つたが柳田から内閣に摸寫本があると聞いたから借覽を乞うたが如何なる故か許されなかつた。そこで外山且正君を煩して夏休を利用して毎日内閣へ行つて數葉(556)づつ復摸してもらふ事にした。然るに恰門人及播州人の有意から本書の講釋を望まれたが其望に應ずる事となると聽講者は各人一部づつの本を要する事となるが、たとひ栗田博士の標註本にしても一時に數十部を探し集める事は到底出來ぬ事であるから(大岡山書店の再版本は當時まだ出來てゐなかつた〉外山君に面倒ついでに摸寫したものを謄寫版で刷つてもらふ事にした。さて九月九日に五十部の謄寫版本が出來たが元來俗字異體を其儘に摸寫した本であるから聽講者中誰も通讀し得るものが無く從つで聽講用には供せられぬ。そこで折角ながら余の著述用にのみ供する事として聽講用には毎回入用なだけ俗字異體を改め誤脱を訂補したものを作つてそれを久保田米齋君に清書し謄寫版で刷つてもらふ事にした。後に日本古典全集刊行會から出た余の播磨風土記訂正本の前半は此謄寫版に依つたのである。然るに翌十五年の六月に古典保存會から彼三條西家本の影印本が出で、すこし行違があつて遲延したが十月に至つて其本が手に入つたからそれからは原本に據つて著述する事が出來た
次には地理の研究であるが地理の研究にはまづ地誌を獲なければならぬ事勿論で(557)あるが當時播磨史談會から播磨鑑と播陽萬寶知慧袋名跡部とが出版せられてをり又郡誌では賀古・印南・揖保・赤補・宍粟・加東の六郡誌が出版せられて居る事が分つた。然し此等はいづれも數百部しか印刷せられなかつたもので獲得は勿論、借覽だに困難である。まして播磨鑑及萬寶智慧袋以外の寫本で傳はつて居る古地誌はまづ手に入る望が無い。まだ手に入る望のあるのは刊行書であるがそれ等が自他の盡力で手に入るまで手を束ねて居るわけには行かぬ上にそれ等が手に入つても余の求むる所のものが必それ等の書中にあるともきまらぬから、まづ在京の播州人の中で其出身地方の地理にくはしい人々の助力を借らうと考へた。それにしても某村附近にかういふ地名が無いかと尋ねるにはまづ本書の或里が凡今の何村に當るかといふ事を研究しておかぬばならぬから地名辭書と地形圖とを便にして心を深め念を凝したが思うたよりたやすく目的を達する事を得た。そこで八月十日から各郡出身の人々との會見を始めたが往々にして得る所があつた。さて第二稿の起筆は同年九月七日、事情があつて一時中絶して再筆を執つたのが十五年一月二十日、筆を收めたのが翌昭和二年一月十八日であるが一々書立てるのは煩はしいから其他は表に讓らう
(558)大正十四年〔五字傍点〕八月十日佐用郡の人見村龜三郎(元佐用都比賣神社社司)和田耕(今は故人)二氏の來訪を煩はす
同月十八日揖保郡人佐々木半太郎氏(今は故人)の來訪を煩はす○第一稿卒業
同月二十一日揖保郡人西村知本氏(今は故人)の來訪を煩はす
九月四日阪正臣氏より敷田氏標註の寫本を借る
同月六日多可郡人村上直治郎氏の來訪を煩はす
同月七日加東郡人松尾新一郎氏の來訪を煩はす○第二稿始筆
同月九日風土記摸寫本謄寫版製本成る
同月十三日播磨鑑入手(柳田國男寄贈)
同月十四日宍粟郡人多田友雄氏の來訪を煩はす
同月十九日宍粟郡誌入手(多田氏寄贈)
同月二十一日揖保郡人竹内杢太郎氏の來訪を煩はす
同月二十四日同郡人眞殿※[光+廣]氏の來訪を煩はす
同月二十六日風土記始講
(559)同月二十九日印南郡誌入手(大岡靜子氏寄贈)
十月二日揖保郡指要入手(多田氏寄贈)
同月八日明石史資料入手(三浦幸彌氏寄贈)
同月十一日加東郡誌入手(山口次郎氏寄贈)
同月十五日多可郡誌入手○播州會の爲に播州上古地理を講話す(赤石郡林潮・神埼郡瓦村・揖保郡宇須伎津)
十一月五日揖保郡地誌を借る(田邊密藏・中原精三二氏紹介)
十二月二日古風土記逸文考證入手
同月十日上古地理第二囘講演(餝磨川・揖保郡日下部里)
同月二十六日加古郡誌入手(大岡子爵夫人寄贈)
大正十五年〔五字傍点〕一月二十日播陽萬寶智慧袋名跡部入手(力丸繁氏寄贈。今は故人)
三月二十二日佐用郡誌入手
四月十八日上古地理第三囘講話(揖保郡大法山)
六月六日美嚢郡誌入手(美濃部俊吉氏寄贈)
(560)七月二十六日播磨國風土記訂正本原稿成る
十月十四日古典保存曾本播磨國風土記即三條西家所藏原本の影印本入手(片山經治氏寄贈)
十一月一日日本古典全集刊行會より單獨に余の訂正本を印刷したる本二十部を特製して寄贈せらる
同月十一日敷田氏標註の版本入手(森繁夫氏寄贈)
同月二十日姫路市史入手
同月二十五日余の訂正本を收めたる古風土記集下巻日本古典全集刊行會より發行せらる
承和二年〔四字傍点〕一月十八日第二稿卒業
三月二十六日本書講了(始講は大正十四年九月)
十月十三日弟松岡靜雄より其新著播磨風土記物語を寄贈せらる。思ふ所ありてしばらく讀まず
十二月十四日飾磨郡誌入手(川口木七郎氏寄贈)
(561)昭和三年〔四字傍点〕一月四日神崎郡福崎町郷社二之宮神社即山崎明神を參拜す
六月三日明石郡五色塚に登り、海神社を拝し、印南郡升田山に登り、加古郡日岡神社及稻日大郎女命御陵を拜し加西郡玉野新家の玉塚を見る。翌日明石に遊ぶ
昭和四年〔四字傍点〕一月四日加西郡飯盛野・鴨谷等を見る
同月五日正木勢機氏播磨國内神社記を寫して寄贈せらる
同月九日播磨國慶長圖を感得す
二月二日第三稿始業
同月二十二日帝國大學播磨學生會の爲に、三月二十六日地理歴史學會の爲に、四月二十二日播州會の爲に播磨國慶長圖に就いて講演しその手稿「播磨國の古地圖に就いて」は同年六月發行の雜誌歴史地理第五十三卷第六號に出す
四月二十三日彌富破摩雄氏より栗田博士標註の寫本を寄贈せらる
五月九日財團法人啓明會より本書研究費を補助せらる
六月十三日三木拙二氏また峯相記微考の木版本を借る
同月二十一日阪正臣氏よりその若き時に寫されし敷田氏標註の稿本を寄贈せら(562)る
十二月十九日加西郡誌入手(加西郡教育會寄贈)
昭和五年〔四字傍点〕一月四日宍粟郡伊和神社及安志姫神社を拜し、翌五日神崎郡甲八幡神社を拜し又いにしへの蔭山を認定す
二月二十五日啓明會より第二囘分補助金を受領す
五月四日神崎郡の北部(瀬加村・大山村猪篠・寺前村)を巡見す
七月十二日第三稿卒業
同月十四日播磨風土記物語を讀む。幸に牆に※[鬥/兒]くことを要せず
後記二
郡誌の類は通常發行部数が少い上に發行した事も廣告せぬから特に地理を研究して居る人でも其書の存在を知らぬ事がある。されば左に其書名を掲げて後の研究者の参考に供しよう
(563) 明石志(西攝大觀下卷) 明治四十四年 四六四倍判 和装一
明石史資料 大正十四年 四六判 假装一
加古郡誌 大正三年 四六二倍判 和装一
印南郡誌 明治三十九年 半紙本 和装一
増補印南郡誌 大正五年 菊判 洋装二
兵庫縣飾磨郡誌 昭和二年 四六二倍判 洋装一
姫路紀要 大正元年 菊判 洋装一
姫路市史 大正八年 菊判 洋装一
兵庫縣揖保郡地誌 明治三十六年 四六判 洋装一
揖保郡指要 明治四十四年 四六判 假装一
赤穂郡誌 明治四十一年 菊判 假装一
佐用郡誌 大正十五年 菊判 洋装一
兵庫縣宍粟郡誌 大正十二年 菊判 洋装一
神東神西郡沿革考 明治二十九年 半紙本 和装一
(564) 多可郡誌 大正十二年 菊判 洋装一
加西郡誌 昭和四年 四六二倍判 洋装一
加東郡誌 大正十二年 菊判 洋装一
兵庫縣美嚢郡誌 大正十五年 菊判 洋装一
兵庫縣史蹟名勝天然紀念物調査報告は第六輯まで發行せられて居るやうであるが其第一輯と第五輯とはまだ手に入らぬ。陸地測量部の二萬分一地形圖は當國の北半部が缺けて居る。就中佐用・宍粟・多可三郡は全部缺けて居る。之に反して五萬分一地形圖は完備して居る。摩磨史談會の報告・記事・會誌・會報は手を盡したがそろへる事が出來ず、從つて十分に利用する事が出來なかった。兵庫縣下の特別保護建造物竝に國寶の寫眞は國粹美集(四六二倍判和装本二冊-帙、大正十一年十月發行)といふ書に網羅してある
後記三
(565)所藏の播磨の古地誌・古史籍は大震火災後の蒐集であるからまだ極めて貧弱で、之を發表するはやがて恥さらしであるが余と同じくどういふ書物が出來て居るかといふ事を知るに苦む人もあるであらうと思ふから左に南天莊文庫書目から抄出する
赤穂義士關係のものは特別の物の外は省略する○ここに發表するものは所庫播州關係圖書の全部では無い。其中の古地誌・古史籍ばかりである○便宜上叢書所收・地誌・史籍・地圖。一枚搨の五類に分ける
ア 叢書所收
書寫山行幸記 群書類從 卷三九
性空上人傳 同 卷六九
赤松記 同 卷三九三
赤松再興記 同 同
別所長治記 同 同
播州御征伐之事 同 同
上月紀 同 卷三九八
(566) 群書類從本版本は牧野悦子・大高せつ子の二君より各一部を寄贈せられたり、同活字本は藤原鐵太郎君の寄贈なり
赤松系圖 續群書類從 卷一三六
赤松略譜 同 同
廣峯氏系圖 同 卷一八三
大燈國師行状(外僧傳二種) 同 卷二三〇
嘉吉物語 同 卷五七七
播州佐用軍記 同 卷六三九
峯相記 同 卷八一六
播磨國大部庄公文職舊記 同 卷九七八
書寫山十地坊過去帳 同 卷九九六
續群書類従は藤原鐵太郎君の寄贈なり
嘉吉物語 改定史籍集覽 第一〇七
播磨風土記 同新加書 第八四
(567)播州色夫録 列侯深秘録(國書刊行會本)
姫路城主榊原式部大輔政岑惑溺の事を記せり○國書刊行曾第一期乃至集六期出版圖書は中野忠一郎君の寄贈なり
イ 地誌 寄贈者
播磨鑑 菊判洋装一 柳田國男君
明治四十二年播磨史談會發行
播陽萬寶智慧袋名跡部 菊判假装一 故力丸繁君
大正七年播磨史談會發行
寛延新撰播磨風土記 寫本一 森繁夫君
播磨古跡便覽 寫本二 同上
前者と異名同書なり。加藤敬直の同名の書とは別なり
播磨古城記 寫本 同上
播磨國總寺社領 寫本
前者と一冊に合綴せり
(568) 姫路總社古記集録 寫本一 森繁夫君
西仙二柱考 同上
多可郡和多山西仙寺の本堂に白雉木と稱せられて躑躅と榛との柱の白雉年間創立の時のままに殘れるを天保十四年に花垣幸國の記述せしものなり
播磨めぐり(一名播磨巡覽記) 一 同上
攝播案内記 一 同上
播州名所巡覽圖繪 五 山本朝子君
播磨國内神社記 新寫 正木勢機君
ウ 史籍
姫陽陰語 寫本一 森繁夫君
寛延年間酒井氏が前橋より姫路へ所替を命ぜられし後、家老川合勘解由左衛門が同僚本多・犬塚の二人を斬殺し己も切腹せし物語なり
名川武鑑録 寫本三
前者と異名同書なり
(569 )姫路城隷郡二十四孝傳 寫本一
子華孝状 一
安志藩儒員稻垣淺之丞隆秀の事蹟を中井竹山の述べたるものにて版下も自書なり
忠誠後鑑録 寫本五 池田淑江君
第五冊には忠誠後鑑録或説二卷及義士統論を收めたり。全部赤穂藩儒員村上眞輔の筆なり。眞輔名は允修、號は天谷、文久二年十二月年六十五歳にて政敵の五壯漢に暗殺せらる。所謂高野の仇討は眞輔の爲に其子等が復讎せしなり
赤城義士傳追加 寫本一 同上
前者と同じく村上眞輔の筆なり
見聞随筆 寫本五
榊原氏家中の逸話を記したる書なるが同家は二囘まで姫路城主たりし事あれば其第三・第四の巻には姫路竝に領内の記事あり
エ 地圖
(570) 播磨國慶長圖 肉筆
縱七尺四寸、横一丈三尺三寸。慶長十六七年の頃國主池田氏の作製せしものにて國寶級の貴重品なり
姫路城古圖 肉筆
明石城古圖 肉筆
立野城古圖 肉筆
赤穂城古圖 肉筆
龍門寺古圖
播磨國大繪圖(寛延) 森繁夫君
播磨國細見繪圖(弘化) 同上
オ 一牧搨、附瓦版
明石郡五色塚圖 森繁夫君
尾上のかね由來 同上
高砂社相生靈木之圖 同上
(571) 石寶殿社眞景
柿本大夫祠堂碑銘
播磨名所略記(天保一一年)
射楯兵主神社略縁起(明治十八年)
赤穂之藩敵討 瓦版三葉
所謂高野の仇討を描きたるものにて明治四年頃版賣せしものなり
後記四
本註著述に就いて助力せられたのは左の人々である
啓明會・伊藤長次郎・牛尾彦十郎・大岡靜子・片山經治・川口木七郎・久保田米齋・故佐々木平太郎・多田友雄・竹内杢太郎・田邊密蔵・鶴見左吉雄・外山且正・難波壽太郎・中原精三・長澤林太郎・故西村知本・阪正臣・播磨辰治郎・堀川美治・正木勢機・松尾新一郎・眞殿輝・正宗敦夫・三浦幸彌・美濃部俊吉・見村龜三郎・三木拙二・村上直治郎・森繁夫・森十司・柳田國男(572)・彌富破摩雄・山本朝子・山口次郎・山口大五郎・山口直泰・故力丸繁・故和田耕以上諸氏
右の中に漏れたる方もあらう。又間接に助力してくれられた方もある筈である。茲に謹みて謝意を表する
(573)附録
播磨の古地圖に就いて
余は本年(○昭和四年)一月七日に旅行から歸つたが其翌日二三の古書目録の配達を受けた。其中に村口のもあつたがザツト一見せしに大震火災の時に燒失して其後まだ手に入らないで不自由してゐる或書物があった。其外に描寫著色の地圖が澤山出てゐたが此は深く気に留めなかつた。さて其次の日即九日にやうやく時間の都合を附けて村口へ行つて尋ねた所が樂にしてゐた書物ははや賣れてしまうて居たので頗落膽したが店の次の間に紙袋人の地圖が澤山見えたからフト思附いて播磨の地圖はまだ殘つてゐるかと聞いた所がまだありますと云うて擇出してくれた。余が播(574)磨の地圖はと問うたのは余は新著述の資料として數年來播磨の地誌を集めてゐるからである。出してくれた二袋のうち一袋は姫路・明石・龍野・赤穗の四城圖と網干《アボシ》龍門寺の圖とであつた。今一袋の分も廣げて見ようとすると主人の云ふには大きな圖でとても私共の狭い室では廣げられませぬと云うた。時計を見ると都合をした時間も切れんとしてゐるので不安ながら見ぬままで買うて歸つた。當時は恰萬葉集新考の校正の終らんとしてゐる時で非常に忙がしかつたから歸つてからもすぐには見られなかつた。元來播磨の地圖の版行せられたものには寛延二年のものと弘化三年のものとがある。それよりさきに正保元年と元禄十年と享保四年とに徳川幕府が諸國に命じて所謂國圖を作らしめた事は普く人の知れる所であるが其圖は幾部づつ作つたであらうか。たとへば正保度に岡山の池田家で備前備中の地圖を作つた時には三部作つて一部は幕府に呈し二部は時の老中に呈し、一部は副本としで藩に殘したさうである。江戸の執政に呈する事は例ではあるまいから、まづ諸國共に二部づつ作つたと見てよからう。否備前のやうな國主大名の處はさうとしてよからうが播磨のやうに城主領主の入亂れてゐた國ではどうであらうか。元禄圖作製の時には姫路城(575)主本多中務少輔政武に命が下つたさうである。これは姫路城主の石高が國内で一番多いから之を總代と認めたのであらうが姫路の役人が諸藩の役人と立合うて作つた播州全圖の圖はやはり二部だけ作つて一部は公府に納め一部は姫路藩に留めておいたであらうか。又は諸藩でも一部づつ寫して藏したであらうか。正保・元禄の地圖の世間に傳はれるものの少きを思へば恐らくは幕府に呈したものの外は一國に一部づつ副本として殘すに過ぎなかつたであらう。かやうな事まで考へたのは實は後の事で、當時或は此圖は正保圖又は元禄圖の寫ではあるまいかと云ふ淡い好奇心が湧かぬでも無かつたが前にも云うた通り取込中であつたので袋のまま書斎の床に棄てておいた。さて十四日に校正がすんでやうやく暇が出來たかち三室續になつて居る書齋の端の六疊敷の日本室で廣げて見ようとしたが村口の云うた通り、とても廣げられぬ。そこで十疊敷の出居《デヰ》を片附けて始めて廣げて見た。まづ紙袋には播磨國圖と記し圖の裏面の一隅には播州之圖と書いてある。圖の大さは縦七尺四寸強、横一丈三尺三寸強で各郡は白線を以て界し山は緑に川は青く道路は赤く彩色し平地は郡によつて色を異にし村々の名は圏に胡粉を塗り、それに直に、又はそれに著色して(576)その上に記してある。其色も御覽の通り郡によつてちがうて居る。つまり筆者は飽くまでも一目瞭然たらん事を期したのである。元來余は高度の近視で、圖の中央は圖の上に乗らぬと見えぬから、まづ圖の右下端なる明石郡の處を見た。さうして一見するとアツト驚いた。それは明石町も明石城も無く明石川の河口の西なるフナゲとハヤシ高濱との間に明石古城と記し今日の明石町の處に大明石村・中の庄村とあり其北方なる丘上即今日明石城のある處に松林と建築物とを畫いて人丸と記してあるからである。抑明石城が築かれ明石町が設けられ又|舟上《フナゲ》の古城の壞たれたのは元和年間である。即元和三年に小笠原右近大夫忠眞が明石に封ぜられたが其時まだ今の明石城は無かつたから舟上の古城にはひつて居た。同年に姫路に封ぜられた本多美濃守忠政は小笠原忠眞の舅であつたが幕府は之に命じて同國三木・高砂兩城を毀つて獲た材料を以て明石城を築かしめた。元和五年に明石城が成就したので同六年に忠眞は舟上の古城から明石の新城に移轉した。右の築城の時に人丸社は東方なる大蔵谷に移した。否人丸社は本丸の西北隅に殘しておいたが諸人參拜の便を計つて大藏谷に新造した。されば此地圖は元禄の物ならざるは勿論正保のものでも無くて元和(577)三年以前の物である。ここに彼池田三左衛門輝政は慶長五年十月に播磨一國を賜はり同十八年正月に卒し嗣子利隆は元和二年六月に卒し、その嗣子光政は翌三年三月に因伯に轉封せられ其跡へ彼本多忠政が姫路城主となつて來たのであるが余は直覺的に此圖は池田家の手で慶長六年から元和二年迄の間に作つたものであらうと認めたから村口へ出處を聞合せしに岡山の家老某氏の家から出たといふ答であつた。岡山の池田氏は言ふ迄も無く利隆・光政の後で光政の時代に因播・伯耆から備前・備中に移されたのである。さて此圖は前にも云うた通り、あまりに大きくて之を骨董として保存するには妨が無いが之を使用研究するには不便であるから何かよい工夫が無いかとよく調べて見しに元來仙華紙を繼いで縱七尺五寸許・横二尺五六寸の物とし、それに圖を描きたる後、横に繼立てたものであるから其横の繼目を剥ぎ離してかやうに六片とした所が大に披閲しやすくなつた。剥離の時に胡粉が落ちて地名が分らなくなつてはならぬと思うたから水で濕す事は禁じた。それのみならず初から※[石+滷の旁]砂を引かせて置いた。又此圖は初は疊んであつたが折目の處の胡粉の剥落する恐があるから御覽の通り卷いて箱に納めるやうにした。かやうにして披閲に便利にな(578)つたが余は萬葉集新考の刊行が終つてから引續いて新著述に從事する事になつたからやはり晝夜共に忙しくて此圖を研究する事が出來ぬが、それでも今日迄に明石・加古・印南・餝東四郡即海寄りの東半分ばかりを不十分ながら研究する事が出來た。その研究の中で此圖作製の年代に關するもののみを述べるならば、まづ高砂町の處に城と記してある。高砂城は池田輝政が築いたのである。或書に梶原某の築いた城を輝政が修築したのであると書いてあつたが、それは間違で別所長治の旗下梶原平三兵衛景行の取立てた城は同じ高砂ではあるが町の北方船頭村と小松原村との間に在つた。輝政の新に築いたのは町の東南、今の高砂神社の社地である。即當時の牛頭天王を町の西北隅に遷してその跡に高砂城を築いたのであるが本多忠政の時代に至つて一國一城の制に從うて此子城を破却し寛永二年に至つて社を舊地に復したのである。さうして此城の古材と三木城の古材とを以て明石城を築いた事は前に云うた通りである。諸書に明石城は伏見城と三木城との古材を以て造つたとあるはどうであらうか。明石城を築いたのは元和三年から五年までで、伏見城を壞つたのは元和九年であるから諸書の説は恐らくは誤であらう。さて此地圖に高砂町の處に城と記せ(579)るは亦此地圖が慶長六年から元和二三年迄に成つた一證である。次に姫路城南の三左衛門堀の處を見て愈此地圖の出來た年代が分つた。三左衛門堀は池田三左衛門輝政が作つたのであるから三左衛門殿堀と云うたのをいつしか殿を略して三左衛門堀と云ふやうになつた。余が姫路に居た頃(明治二十八年まで)はまだ明に三左衛門堀と云うたが今は訛つてサンザンボリと云ふといふ。今の城南村豊澤の東から起つてやや東北から西南に向うて一直線を成して高濱村袋尻の西で終つて居る。長さ凡十八町、幅は二十間乃至二十四間で二條の里道によつて横斷せられて三節に分れて居るから一の切《キレ》・二の切・三の切の稱がある。元來輝政が姫路城の飾磨門から南方凡一里半なる飾磨津まで掘鑿して船舶を通ずる積りで始めた工事であるが測量に違算があつて、たとひ出來上つても通船は出來ぬといふ事が分つたので工事を中止したのであると云傳へて居る。然るに不思議なるかな此地圖では芝原(今の豐澤の小字)の東北から始まつて立派に飾磨港まで通じて居る。依つて思へば此地圖は三左衛門堀工事中止後に出來たので無く、その工事中に出來たのである。工事中に成りたればこそ豫定のままを圖に現したのである。されば此運河の出來た時が分つたならば此圖の(580)出來た時も知らるべきである。然るに姫路地方に殘れる史料では此運河の出來た年代はサツパリ分らぬ。茲には岡山の地方史に池田家履歴略記といふ書がある。大震火災後は手許に持つて居らぬからハツキリとした事は云はれぬが備前藩士齋藤清次右衛門一興といふ人が藩命に依つて藩に傳はれる文書を資料として編纂した藩史である。或は此書を見れば分るかも知れぬと思うたから森銑三君に頼んで史料編纂掛の本を調べてもらうた所が
里民の説には慶長十一二年の頃穿れしと云。去ながらたしかなる事をしらず
とあるさうである。されば池田家にも史料とすべきものが無いと見える。そこで研究の方針を轉じて見るに口碑に此堀は輝政が播磨・備前・美作三國の人夫を使うて掘らせたものであるといひ彼一の切・二の切・三の切を又備前堀・播磨堀・作州堀といひ總稱して三國堀と云うて居る。即三左衛門堀の又の名を三國堀と云ふ。然し池田家履歴略記にも疑うて居る通り輝政は美作を領した事は無いから作州の人夫を使ふ筈が無い。されば堀の各節を備前堀・播磨掘・作州堀と稱するには疑があるが堀全體の一名を三國堀と云ふ事は昔ながらの稱呼と思はれる。さて輝政は慶長五年十一月に播磨を(581)賜はり同八年正月に備前を加へられ同十五年二月に更に淡路を加へられたのであるから三國堀の三國は播磨・備前・淡路であつて作州堀といふのは淡路堀の誤であらう。今述べた通り輝政が三國の國主となつたのは慶長十五年二月でその卒去したのは同十八年正月である。されば三國堀は慶長十五年から卒去の前年即慶長十七年までに掘つたのである。否淡路の國主となつた其年には恐らくは同國の人夫を徴發すまいから三國堀を掘つたのは恐らくは慶長十六七年であらう。即池田家履歴略記に引ける所謂里民の説の慶長十一二年よりは五年の後であらう。然らば此地圖も慶長十六七年に成つたものとすべきであるが此地圖は前に云うた通り工事中止後に作つたものとは思はれずして工事中に作つたものと思はれるから恐らくは慶長十六年に出來たのであらう。さて此地圖は池田氏が私に作つたものであるか(後世の播磨の如く諸家の領地の入亂たる時代ならば幕府の命にあらずば全國の地圖を作る事は出來まいが一家で一國を領した池田氏の時代なれば全國圖を作るに幕命は待たぬわけである)或は徳川氏の命に依つて作つたものであるかと云ふに正保以前に徳川氏が命を發しで諸國の繪圖を作らしめたと云ふ事はまだ知らぬが(否蘆田伊人君(582)が此圖を見られての後の研究によつて少し分つて來たが)或書に、何であつたか今記憶せぬが正保度の圖の事を正保二年御改繪圖と云へるを思へば正保以前にも諸國の地圖をらしめた事があるやうである。なほ河流・海岸線・道路・地名等の變遷などに就いて心附いた事が多多あるがそれ等を述べると談話が長くなるからすべて省略するがただ明石・加古・印南・餝東四郡の處を一見したと云ひながら印南郡に燭れず恰同郡を繼子扱にしたやうになつたから同郡の事に就いて一言せんに阿彌陀村の大字阿彌陀の東に北池と云ふ大字があり其南に南池と云ふ大字がある。共に伊保山の西北に在つて播磨國風土記に見えたる池之原の跡であるが其地方の口碑及記録に昔此地にアサガラ池といふ大きな池があつたのを池田輝政が埋めてその跡に新池村といふ村を取立てたのが後に分れて北池・南池となったのであると云うて居るが池の跡に造つたからと云うて新池村と稱したのはをかしい。そこで此圖を見ると東阿彌陀の東に池村があり其東南に小圏をゑがいて新村と記してある。小圏は子村の符である。これで始めて分つた。池を埋めた跡に造つた村は池村と名づけたが後に其子村が出來たからそれを新池村と稱した。然るに後に親村は亡びて子村の方が榮え(583)たから池村の名はうせて新池村ばかり記録口碑に殘つたのである。近年播磨でも御大典の記念や郡役所廢止の記念などで續々と郡誌が公刊せられたが其記事を此地圖と對照すると訂正すべき事が少く無い。元禄時代にどうであつたなどいふ後世の記録は大分此地圖に依つて覆される。此地圖を一見して不思議に思うた事は道路は細いものまでも忠實に記入してあるに拘はらず河川の小なるものの畫かれざる事である。たとへば掻播國界の境川なく加古郡の部でも別府川は書いてあるが喜瀬川も曇川も草谷川も畫いて無い。又飾東郡でも八家《ヤカ》川が畫いて無い。これは地理専門家諸君の御説明を承りたいものである。上來所述の外の研究又今後の研究の結果は機會を得ば再御清聽を汚す事があるであらう(昭和四年三月二十六日)
(585)追加
心行(一〇六頁)
南史劉|※[面+力]《ベン》傳に
※[面+力]曰。吾執2心行〔二字傍点〕1已無v愧2幽明1
縁道(一二八頁)
二三の例を擧げむに晋書孫恩傳に
一時逃入v海。懼2官軍之|躡《オハム》1乃縁道〔二字傍点〕多棄2寶物子女1
南史梁高祖武皇帝本紀に
自v發2雍州1帝所v乘艦恒有2兩龍1導引。左右莫2不v見者1。縁道〔二字傍点〕奉迎百姓皆如v挾v※[糸+廣]《ツタ、?不鮮明で判読不能》
同柳世隆傳に
(586) ※[修の彡なし]之(○沈)怒銜v鬚咀《カム》v之。……軍旅太散。世隆乃遣2軍副劉僧麟1縁道〔二字傍点〕追v之
申救(一三一頁)
南史|※[萠頁立刀]《クワイ》柳傳に
及3柳爲2南康郡1渉《ツラナル》2義宣事敗1(○宋武帝ノ子南郡王義宣、孝武帝ノ時ニ反ス)繋2建康獄1。屡密請v竣(○友人顔竣、時ニ貴シ)求2相申救〔二字傍点〕1。孝武嘗與v竣言及2柳事1。竟不v助v之。柳遂伏v法
※[草がんむり/封](一三二頁)
楊誠齋の湖天暮景の詩に湖心※[草がんむり/交]※[草がんむり/封]水周圍と作れり。※[草がんむり/交]もコモなり(萬葉集新考二三五六頁參照)
折其弓・落粒など(二三一頁及二九八頁)
これをソノ弓ヲヲル・イヒボヲオトシキとよまでソノ弓ヲル(俗語のヲレル)イヒボオチキとよむべき例は詩にはいど多かれどそは押韻の爲に字を倒にしたるなりとも云ふべし。されど文にも其例尠からず。今此格の多く見えたる一例を示さむに萬葉集卷五なる梅花歌序に
加之曙雲移v雲〔二字傍点〕松掛v羅而傾v蓋、夕岫結v霧〔二字傍点〕鳥對v※[穀の禾が糸]而迷v林。庭舞2新蝶〔三字傍点〕1空歸2故雁〔三字傍点〕1
(585)とある移雲・結霧・舞新蝶・歸故雁は新考(八九二頁)に云へる如く雲ウツリテ・霧ムスビテ新蝶舞ヒ・故雁歸ルとよまざるべからず。漢籍よりも今其例を求め出でてむ
挿を捶と書ける(二三九頁)
南史柳|※[立心偏+軍]《ウン》傳に
嘗賦v詩未v就以v筆捶〔右△〕v琴。坐客過以v※[草がんむり/助]《ハシ》扣v之。※[立心偏+軍]驚2其哀韻1乃製爲2雅音1
とあり。因にいふ古典に見えたる俗字・通用等などは輕々しく我邦にて創めしものと斷ずべからず
屠(二八一頁)
續日本紀卷二十三、天平寶字五年三月の下に
茅原王者三品|忍壁《オサカベ》親王之孫、從四位下|山前《ヤマクマ》王之男。天性凶暴、喜v遊2酒肆1。時《アルトキ》與2御使連《ミツカヒノムラジ》麻呂1博飲、忽發v怒刺殺屠〔右△〕2其股肉1便《スナハチ》置2胸上1而膾v之
とあり。この屠も刳の如く心得べし。漢籍にても一例を發見せしかど、いまだ望むが如く適切ならざれば擧げず
銅牙石(三〇九頁)
(588)雲根志卷之二に圖示したる自然銅は即銅牙石なり。同書後編卷之三に
升石 播州に同名の石あり。別種なり。自然銅の類にて細小也
といへるも銅牙石にや。これには圖無し
ミオクリの語例(三四三頁)
漢籍に瞻送といふ語多く見えたり。その一つ二つを引かば南史王弘傳に
桓玄剋2建業1收2道子1(○晋廷ノ主脳會稽王)付2廷尉1。臣吏莫2敢瞻送〔二字傍点〕1
おなじく蔡興宗傳に
廬江内史周朗以2正言1得v罪。※[金+巣]付2寧州1。親戚故人無2敢瞻送〔二字傍点〕1
ただ動搖する事をナヰといへる(四二三頁)
佐賀縣神埼郡東脊振村の大字に石動あり。土人は之をイシナイと唱ふるを神埼郡郷土誌にイシナリと訓じたるを見ればイシナイをイシナリの訛とせるに似たれどナイはナリの訛にあらでナヰにて子動《コナヰ》のナヰと齊しからむ
約出(三九四頁)
北史魏宗室華山王※[執/鳥]傳に
(589) 莊帝既殺2爾朱1。從子兆爲v亂。帝欲d率2諸軍1親討u。而※[執/鳥]與v兆陰通。乃勸v帝曰。黄河萬仞、寧可2卒渡1。帝遂自安。及2蝶入1v殿※[執/鳥]又約2止〔二字傍点〕衛兵1。帝見v逼、京邑破。皆由2※[執/鳥]之謀1
とあり。余は本註に
約出の出は次行なる彼山の下にあるべきが誤りてここに入れるか。約も※[こざと+厄]などの誤字ならざるか。たとひ然らずともセカレテとよむべくおぼゆ
と云へり。宜しく約のままにてセカレテとよむべし。又約出は或は約止の誤か。さらばセキトドメラレテとよむべし
(以上昭和六年三月三日記)
索引〔省略〕
原文神名人名地名索引 ア~ヲ(1~51頁)
本註索引 ア~ヲ(53~103頁)
〔2010年2月2日(火)午前11時10分、入力終了〕
'倭(왜)' 카테고리의 다른 글
応神天皇 사진파일. (0) | 2010.06.05 |
---|---|
[日本書紀] 神功(신공) 52년, 100년간의 해석 오류. (0) | 2010.06.02 |
神功皇后 薨去 371년?? (0) | 2010.05.25 |
古事記/真福寺本の分注 崩年干支 (0) | 2010.05.22 |
旧事紀考評説-3 (0) | 2010.05.13 |