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第二章 『日本書紀』の実年代
(6)早められた新羅出兵の年次
『三国史記』によると、倭が侵攻して来る季節は、すべて春から夏にかけてである。
『日本書紀』の新羅出兵の月日『冬十月三日和珥(わに)〔対馬上県郡鰐浦〕の津より発した』という記述は疑わざるを得ない。
旧暦十月頃の朝鮮海峡は、台風に遭う可能性もあり、波高も高くなる。渡海して軍事行動をとるには適さない時期である。
記紀は共に、軍船は追い風を受けて一気に侵攻したとする。北西の風が吹く、冬場の侵攻ではない。
記紀はともに、新羅侵攻の時期をうかがわせる、エピソードを記す。
神功皇后が松浦県(まつらのあがた)の玉島の里、小河(佐賀県東松浦郡浜玉町玉島川)でアユ釣りをしたというエピソードである。
浜玉町南山の玉島神社前には、皇后が鮎釣りをしたという伝承の石がある。
アユが釣れるのは一般に海から稚アユが遡上する時季と、秋海に降る時季である。夏場は河床の珪藻を食べるので餌釣りは難しい。『日本書紀』は、アユ釣りのエピソードを仲哀が二月に崩御し、その年の四月のこととする。『古事記』には何年の事か明確な記述はないが、やはり四月はじめの事とする。肥前国風土記では、新羅出兵の際とする。アユを釣って戦勝を占ったとされる。
玉島川の場所は、現在の福岡市から壱岐対馬を経て朝鮮半島に渡る経由地である。新羅出兵の途上であろう。
『日本書紀』の記すように、仲哀崩御の二ヶ月後に神功が玉島に出向いたとするのは無理がある。新羅出兵の際しか機会はない。だとすると、新羅出兵はアユの釣れる、四月なのである。それは仲哀崩御の翌年しか機会はない。
まさにこれは『三国史記』新羅本紀が記す、奈勿尼師今九年四月の条『倭兵、大いに至る・・・』の年次及び月と一致する。
(繰り返すが『三国史記』の年表、新羅本紀の奈勿尼師今、王歴年次と干支の間に1年の狂いがある。)
したがって神功皇后の新羅出兵は、仲哀崩御の翌年四月、すなわち西暦363年旧暦四月はじめのことである。
ここに成立を異にする『日本書紀』と『三国史記』の戦役の年次が一致する。共に史実の一端を伝えると考えられる。
それでは『日本書紀』はなぜ、新羅出兵を仲哀崩御の年とするのか。
それは応神の出生と深くかかわる。
『日本書紀』は次のように記す『このとき(新羅出兵のとき)たまたま皇后の出産の月であつた。皇后は、石を取って腰に挿(さ)しこみ、祈って、「事が終わってもどってきた日に、この土〔地〕で生むように」といった』
怪しげな説話である。
石を腰に挿しこみ出産を遅らせることなど、できるはずもない。
応神が仲哀の子であることを主張するために、付け加えられた説話であろう。
『日本書紀』は、仲哀が崩御した日を、『仲哀九年二月五日急に病気になり翌日崩じた』とする。応神の生まれたのは、その年の十二月十四日である。
仲哀の死の前日から数えて十ヶ月と十日である。
古来から俗説として流布している妊娠期間十月十日である。明らかに作為された応神の誕生年月日である。
皇后が腰に石を挿しこみ、出産月を遅らせたと強弁しても、さすがにこれ以上遅らせる訳には行かなかったのである。
応神出生の年月日を実際より、早めた可能が高い。
応神の出生を新羅出兵の後とする以上、新羅出兵の年月も早めねばならなかった。
しかしさすがに、新羅出兵の時期を作為した作者も、十月が渡海して軍事行動を起こすに適さないという事や、人間の妊娠期間が40週くらいという事を、知らなかったのかもしれない。
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