「住吉大社神代記」の垂仁崩年干支「辛未」
「住吉大社神代記」は、天平3年(731年)に成立した書物である。成立の年代はもっと後であるとの見方もある。いずれにしても日本書紀より後にできた書物である。
この書物では、垂仁天皇の崩御に関して「崩御辛未、53歳」と記載されていて、特に崩御年の干支の扱いが問題視される。古代の天皇の在位や崩御年を示す具体的な情報であるため、年代復元をする上で、この問題の検討を避けることができない。
ちなみに、辛未の年は西暦311±60年(251年、311年、371年、431年)である。
崩年53歳は古事記の御年153歳から百を引くと53歳になり、古事記からの引用と見ることが可能であるが、崩年干支は古事記には記載されていないし、書記の「庚午」とも違う。
「崩御辛未、53歳」に対する考えが求められる。
「스미요시 대사 신대기」은, 나라시대의 天平 3년(731년)에 성립한 서적이다. 성립의 연대는 더 後라는 견해도 있다. 어쨌든 일본서기보다 뒤로 할 수 있었던 서적이다.
이 서적에서는, 垂仁天皇의 붕어에 관해서「崩御辛未、53歳」라고 기재되어 있고, 특히 붕년의 간지의 취급이 문제시된다. 고대의 천황의 재위나 붕년을 나타내는 구체적인 정보이기 때문에, 연대 복원을 하는데 있어서, 이 문제의 검토를 피할 수 없다.
덧붙여서, 辛未의 해는 서기 311±60년(251년, 311년, 371년, 431년)이다.
붕년 53세는 고사기의 御年153세부터 백을 빼면 53세가 되어, 고사기로부터의 인용이라고 보는 것이 가능하지만, 붕년 간지는 고사기에는 기재되지 않고, 일본서기의「庚午(경오)= 310년」라고도 다르다.
「崩御辛未、53歳」에 대해 생각이 요구된다.
筆者見解
「住吉大社神代記」の作者は、53歳を前提に、日本書紀の垂仁天皇の年次表から干支を読み取った。垂仁99年(139歳)は庚午である。しかし、垂仁宝算140歳の記載から見て、垂仁100年(140歳)があったはずであり、垂仁100年は辛未である。99年と100年は二倍暦で同年であり、庚午であり、そして辛未である。
日本書紀の編者は垂仁の崩年干支を「庚午」としたが、住吉大社神代記の作者は崩御100年(あるいは、140歳)を重視して秋年に当たる「辛未」を採用した。
補足説明
・垂仁99年庚午と60年差の39年庚午は同年である。
・垂仁100年辛未と60年差の垂仁40年辛未と景行1年辛未は同年である。
上記の年次は、二倍暦を解消すると、全て同年である。[末尾9と0は同年を示す。]
従って、崩年干支は庚午と辛未のいずれも同じ年を表し、前者を春年とすれば後者は秋年である。(「春秋二倍暦説」と考えても良い。)
필자 견해
「스미요시 대사 신대기」의 작자는, 53세를 전제로, 일본서기의 수인천황의 연차표로부터 간지를 읽어냈다. 수인 99년(139세)은 庚午이다. 그러나, 垂仁 宝算140세의 기재에서 보아, 수인 100년(140세)이 있었을 것이며, 수인 100년은 辛未이다. 99년과 100년은 2배 달력에 동년이며, 경오이며, 그리고 辛未이다.
일본서기의 편자는 수인의 붕년 간지를「庚午경오」라고 했지만, 스미요시 대사 신대기의 작자는 붕어 100년(혹은, 140세)을 중시해 秋年에 해당되는「辛未」을 채용했다.
보충 설명:
· 수인 99년 경오와 60년 차이의 39년 경오는 동년이다.
· 수인 100년 辛未와 60년 차이의 수인 40년 辛未와 경행 辛未는 동년이다.
상기의 연차는, 2배력을 해소하면, 모두 동년이다. [말미 9로 0은 동년을 나타낸다.]
따라서, 붕년 간지는 경오와 辛未의 모두 같은 나이를 나타내, 전자를 춘년이라고 하면 후자는 추년이다. (「춘추2배력설」이라고 생각해도 좋다.)
山崎氏の解釈
古田史学会報 三十四号(1999年4月11日)に投稿された 山崎仁礼男氏の『「住吉大社神代記」の垂仁没年辛未の年、在位五十三年の一つの解釈』である。記事は複雑なので要点のみとし、( )内は筆者が説明のため付け足した。
「垂仁の在位年数53年の伝承があった。崇神没年の258年(戊寅)に53年を加えると311年(辛未)になり、住吉神代記の没年干支は辛未に一致する。」
なお、山崎氏の解釈では、満年齢の計算であって、疑問が残るが、崇神没年の翌年から計算したとすれば満年齢の問題は解消する。
山崎氏の解釈は、古事記の垂仁御年(1)53歳と崇神没年戊寅(258年)の情報があって、始めて解読できる。
「住吉大社神代記」の編者は、古事記の情報を知っていた
「住吉大社神代記」の作者は古事記を見て崩年53歳を知り、日本書記の年次表を見て、崩年干支「辛未」にたどり着いた。あるいは、山崎氏の解釈のとおり、古事記の崇神没年戊寅から「辛未」にたどり着いた。
「住吉大社神代記」は天地開闢の造化神を『日本書紀』の国常立神とせずに、『古事記』と同じ天御中主尊(アメノミナカヌシノカミ)としている。
また、古事記に記載された御年は、他の資料には見られない特異な数字である。筆者の解読からも御年が年齢を表しているとは思えない。それだけに古事記以外に、崩年53歳の情報があったとは思えない。
『古事記』はなくても、『古事記の情報』は存在した
古事記は100年間、公開されなかったという見解がある。「住吉大社神代記」の作者は古事記の内容をどのようにして知ることができたのか。
筆者の推測としては、『古事記の情報』は、100年間眠っていたわけではなく、日本書紀とほぼ同じ頃には既にあった情報と考える。現存する『古事記』と『古事記の情報』とは別である。現存する『古事記』は『古事記の情報』を取り込んでいて、書物として知られるようになったのが100年後であったのである。
「住吉大社神代記」の成立時期の解釈にも問題があるようだが、「住吉大社神代記」の編者は『古事記の情報』を知ることができたと考える。
不思議なのは、「住吉大社神代記」の編者は、日本書記および古事記の編者が知っていた正しい情報(垂仁崩御39歳、西暦337年 丁酉)については知らなかったことを示している。それとも、知っていて記紀の編者と同様に隠したのか、謎である。
「住吉大社神代記」の編者は、誕生から崩御までを在位とした
垂仁の年代解読において、垂仁25年即位、39年崩御と考え、在位15年としたことは旧ブログの「干支から垂仁天皇の在位を解読する」に述べたとおりである。現在では新しい復元年代に変わっているが、この読み方による復元年代は、垂仁崩御西暦333年、在位15年であり、古事記の崩年干支の穴(垂仁には崩年干支の記載がない)を埋めるものとしてとらえている。
またこの結果は、垂仁の年次表の干支に従って在位を求めたもので、二倍暦を解消した実年の数字である。仮に二倍暦で見ると、垂仁25歳即位、53歳崩御で、在位は29年(二倍暦解消で15年)となる。
崇神没年を258年(戊寅)から 垂仁即位年を319年とし、在位15年とした333年の干支は癸巳で、辛未にはならない。ところが319年を垂仁誕生1歳とし、垂仁53歳で崩御されたとすると、年代は311年、辛未となる。即ち、この考えは、実際の在位そのものではなく、誕生から崩御までの年齢を在位と見做した結果である。
「住吉大社神代記」の編者は、日本書紀の在位の考え方を踏襲した
当然、このような在位の見方は正しくはない。しかし、日本書紀においては、多くの天皇の在位を、誕生から崩御までの年齢を在位とみなして記載しているのである。そのことを考えれば異常として、退けてしまうのは間違いである。「住吉大社神代記」も日本書記の記載方法を踏襲したと考えても不思議ではない。