倭(왜)

垂仁 崩御 干支 辛未- 田中卓 博士

라디오에요 2011. 1. 17. 11:56

古事記の崇神崩御年は 258年か318年か 

もちろん『古事記』の天皇崩御干支が何らかの史実を伝えているという前提である。
古事記や『日本書紀』の古い部分の伝承は創作であるとする人たちには、関係の無い議論となろう。
私が今日の文献史学の中で最も高く評価する学者がある。田中卓博士である。
『記紀』伝承と系譜伝承を古代史研究の基礎とする限りにおいて、右に出る人は無いと考える。
しかし私は、氏の古代史論にまったく組しない。極めて重要な一点で認識を異にするからである。
その重要な認識とは、『古事記』に記された崇神の崩御干支を西暦何年にするかである。
崇神の崩御干支を『古事記』は「戊寅」(つちのえとら)とする。これが西暦258年か318年かである。

물론「고사기」의 천황붕간지가 어떠한 사실을 전하고 있다고 하는 전제이다.
고사기나「일본서기」의 낡은 부분의 전승은 창작이다고 하는 사람들에게는 관계가 없는 논의가 되자.
내가 오늘의 문헌 사학 중에서 가장 높게 평가하는 학자가 있다. 타나카 타카시 박사이다.
「고사기와 일본서기」 전승과 계보 전승을 고대사 연구의 기초로 하는 한에 두고, 오른쪽으로 나오는 사람은 없다고 생각한다.
그러나 나는, 씨의 고대사론에 전혀 組조하지 않는다. 지극히 중요한 일점으로 인식을 달리하기 때문이다.
그 중요한 인식이란, 「고사기」에 기록된 숭신의 붕간지를 서기 몇 년으로 할까이다.
숭신의 붕간지를「고사기」은「戊寅무인」로 한다. 이것이 서기 258년이나 318년인가이다.

氏は『住吉大社神代記』船木等本記の、垂仁在位五十三年辛未(かのとひつじ)に崩ずを根拠に、垂仁崩御を311年として、崇神崩御年は258年とする。
もしこれが正しければ私の仮説は完全に崩壊する。なぜなら私の仮説では崇神の父、開化の妃、竹野媛が『魏志倭人伝』の台与である。
絶対に崇神が活躍した年代と卑弥呼の時代とはクロスしないのである。
今日の邪馬台国畿内論者の多くは、倭迹迹日百襲姫に卑弥呼を重ね合わせている。従って崇神を卑弥呼の男弟あたりに考える論者は多い。
これらの仮説を論破する為にも、垂仁311年説を否定する必要があった。しかしさすが論理的な田中卓博士の仮説である。容易には崩せなく、長い間のどの奥に刺さった魚の骨のように疼くのであった。

씨는「住吉大社神代記(스미요시 대사 신대기)」船木等本記(후나키등본기)의, 수인 재위 53년 辛未(신미)에 붕어를 근거로, 수인 붕어를 311년으로 하고, 숭신 붕년은 258년으로 한다.
만약 이것이 올바르면 나의 가설은 완전하게 붕괴한다. 왜냐하면 나의 가설로는 숭신의 아버지, 개화의 왕비, 竹野媛(타케노원)이「위지왜인전」의 台与(대여)이다.
절대로 숭신이 활약한 연대와 히미코의 시대와는 크로스하지 않는 것이다.
금일의 邪馬台国 畿内기나이 논자의 상당수는, 倭迹迹日百襲姫(야마토적적일백습희)에 히미코를 겹쳐 맞추고 있다. 따라서 숭신을 히미코의 남제근처에 생각하는 논자는 많다.
이러한 가설을 논파하기 위해도, 수인 311년설을 부정할 필요가 있었다. 그러나 과연 논리적인 타나카 타카시 박사의 가설이다. 용이하게는 무너뜨릴 수 없고, 오랫동안 목의 안쪽에 박힌 물고기의 뼈와 같이 쑤시는 것에서 만났다.

ようやくこの反論が成った。
『日本書紀』には垂仁崩御干支を辛未と思わせる記述がある。
それは景行紀の中で「九九年春二月活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち・垂仁)天皇が崩じ、その元年秋七月太子が天皇位に就いた」として「この年大歳は辛未(かのとひつじ)」とする。
垂仁没年九九年と景行 元年は同年の事で、辛未なのである。
『住吉大社神代記』の垂仁崩御干支 辛未(かのとひつじ)は、この『日本書紀』の景行元年の記述から引用された可能性が高い。

간신히 이 반론이 완성되었다.
「일본 서기」에는 수인 붕간지를 辛未라고 생각하게 하는 기술이 있다.
그것은 경행기 중에서「99년 봄 2월, 活目入彦五十狭茅(垂仁)천황이 붕 , 그 원년 가을 7월 태자가 천황위에 올랐다」라고 해「이 해 太歳는 辛未」라고 한다.
수인 몰연 99년과 경행 원년은 동년의 일로, 辛未인 것이다.
「住吉大社神代記(스미요시 대사 신대기)」의 수인 붕어 간지 辛未는, 이「일본서기」의 경행 원년의 기술로부터 인용된 가능성이 높다.

『日本書紀』の景行元年辛未を信ずる事はできない。したがって垂仁崩御年を311年とする説も成り立たないのである。
『住吉大社神代記』の垂仁在位五十三年は『古事記』の崇神崩御干支「戊寅」(つちのえとら)と「日本書紀」景行紀の「辛未」(かのとひつじ)との差である。
すなわち『住吉大社神代記』の垂仁崩御干支辛未(かのとひつじ)は『日本書紀』からの引用で崇神の「戊寅」(つちのえとら)は古事記からの引用であろう。決して『住吉大社神代記』のオリジナルでは無い。
したがって垂仁在位五十三年とするが『古事記』の干支と『書紀』の干支との差では『書紀』の在位年数九九年と一致するはずもない。
これは崇神の没年は318年で、崇神の時代に活躍する倭迹迹日百襲姫は三世紀後半の人で卑弥呼ではないという私の反論でもある。

「일본서기」의 경행 원년 辛未를 믿는 일은 할 수 없다. 따라서 수인 붕어년을 311년으로 하는 설도 성립되지 않는 것이다.
「스미요시 대사 신대기」의 수인재위 53년은「고사기」의 숭신붕간지「戊寅」과「일본서기」경행기의「辛未」와의 차이이다.
즉「스미요시 대사 신대기」의 수인붕간지 辛未는「일본서기」로부터의 인용으로, 숭신의「戊寅」은 고사기로부터의 인용일 것이다. 결코「스미요시 대사 신대기」의 오리지날은 아니다.
따라서 수인 재위 53년으로 하지만「고사기」의 간지와「서기」의 간지와의 차이에서는「서기」의 재위 연수 99년으로 일치할 리도 없다.
이것은 숭신의 몰년은 318년으로, 숭신의 시대에 활약하는 倭迹迹日百襲姫(야마토적적일백습희)는 3세기후반의 사람으로 히미코는 아니라고 하는 나의 반론이기도 하다.

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http://marishi.weblogs.jp/blog/cat5815683/

2009年6 月28日 (日)

「住吉大社神代記」の垂仁崩年干支「辛未」

「住吉大社神代記」は、天平3年(731年)に成立した書物である。成立の年代はもっと後であるとの見方もある。いずれにしても日本書紀より後にできた書物である。
この書物では、垂仁天皇の崩御に関して「崩御辛未、53歳」と記載されていて、特に崩御年の干支の扱いが問題視される。古代の天皇の在位や崩御年を示す具体的な情報であるため、年代復元をする上で、この問題の検討を避けることができない。
ちなみに、辛未の年は西暦311±60年(251年、311年、371年、431年)である。
崩年53歳は古事記の御年153歳から百を引くと53歳になり、古事記からの引用と見ることが可能であるが、崩年干支は古事記には記載されていないし、書記の「庚午」とも違う。
「崩御辛未、53歳」に対する考えが求められる。

「스미요시 대사 신대기」은, 나라시대의 天平 3년(731년)에 성립한 서적이다. 성립의 연대는 더 後라는 견해도 있다. 어쨌든 일본서기보다 뒤로 할 수 있었던 서적이다.
이 서적에서는, 垂仁天皇의 붕어에 관해서「崩御辛未、53歳」라고 기재되어 있고, 특히 붕년의 간지의 취급이 문제시된다. 고대의 천황의 재위나 붕년을 나타내는 구체적인 정보이기 때문에, 연대 복원을 하는데 있어서, 이 문제의 검토를 피할 수 없다.
덧붙여서, 辛未의 해는 서기 311±60년(251년, 311년, 371년, 431년)이다.
붕년 53세는 고사기의 御年153세부터 백을 빼면 53세가 되어, 고사기로부터의 인용이라고 보는 것이 가능하지만, 붕년 간지는 고사기에는 기재되지 않고, 일본서기의「庚午(경오)= 310년」라고도 다르다.
「崩御辛未、53歳」에 대해 생각이 요구된다.

 

筆者見解
「住吉大社神代記」の作者は、53歳を前提に、日本書紀の垂仁天皇の年次表から干支を読み取った。垂仁99年(139歳)は庚午である。しかし、垂仁宝算140歳の記載から見て、垂仁100年(140歳)があったはずであり、垂仁100年は辛未である。99年と100年は二倍暦で同年であり、庚午であり、そして辛未である。
日本書紀の編者は垂仁の崩年干支を「庚午」としたが、住吉大社神代記の作者は崩御100年(あるいは、140歳)を重視して秋年に当たる「辛未」を採用した。
補足説明
・垂仁99年庚午と60年差の39年庚午は同年である。
・垂仁100年辛未と60年差の垂仁40年辛未と景行1年辛未は同年である。
上記の年次は、二倍暦を解消すると、全て同年である。[末尾9と0は同年を示す。]
従って、崩年干支は庚午と辛未のいずれも同じ年を表し、前者を春年とすれば後者は秋年である。(「春秋二倍暦説」と考えても良い。)

필자 견해

「스미요시 대사 신대기」의 작자는, 53세를 전제로, 일본서기의 수인천황의 연차표로부터 간지를 읽어냈다. 수인 99년(139세)은 庚午이다. 그러나, 垂仁 宝算140세의 기재에서 보아, 수인 100년(140세)이 있었을 것이며, 수인 100년은 辛未이다. 99년과 100년은 2배 달력에 동년이며, 경오이며, 그리고 辛未이다.
일본서기의 편자는 수인의 붕년 간지를「庚午경오」라고 했지만, 스미요시 대사 신대기의 작자는 붕어 100년(혹은, 140세)을 중시해 秋年에 해당되는「辛未」을 채용했다.


보충 설명:
· 수인 99년 경오와 60년 차이의 39년 경오는 동년이다.
· 수인 100년 辛未와 60년 차이의 수인 40년 辛未와 경행 辛未는 동년이다.
상기의 연차는, 2배력을 해소하면, 모두 동년이다. [말미 9로 0은 동년을 나타낸다.]
따라서, 붕년 간지는 경오와 辛未의 모두 같은 나이를 나타내, 전자를 춘년이라고 하면 후자는 추년이다. (「춘추2배력설」이라고 생각해도 좋다.)

 

山崎氏の解釈
古田史学会報 三十四号(1999年4月11日)に投稿された 山崎仁礼男氏の『「住吉大社神代記」の垂仁没年辛未の年、在位五十三年の一つの解釈』である。記事は複雑なので要点のみとし、( )内は筆者が説明のため付け足した。

垂仁の在位年数53年の伝承があった。崇神没年の258年(戊寅)に53年を加えると311年(辛未)になり、住吉神代記の没年干支は辛未に一致する。」

なお、山崎氏の解釈では、満年齢の計算であって、疑問が残るが、崇神没年の翌年から計算したとすれば満年齢の問題は解消する。
山崎氏の解釈は、古事記の垂仁御年(1)53歳と崇神没年戊寅(258年)の情報があって、始めて解読できる。

 

「住吉大社神代記」の編者は、古事記の情報を知っていた
「住吉大社神代記」の作者は古事記を見て崩年53歳を知り、日本書記の年次表を見て、崩年干支「辛未」にたどり着いた。あるいは、山崎氏の解釈のとおり、古事記の崇神没年戊寅から「辛未」にたどり着いた。
「住吉大社神代記」は天地開闢の造化神を『日本書紀』の国常立神とせずに、『古事記』と同じ天御中主尊(アメノミナカヌシノカミ)としている。
また、古事記に記載された御年は、他の資料には見られない特異な数字である。筆者の解読からも御年が年齢を表しているとは思えない。それだけに古事記以外に、崩年53歳の情報があったとは思えない。

 

『古事記』はなくても、『古事記の情報』は存在した
古事記は100年間、公開されなかったという見解がある。「住吉大社神代記」の作者は古事記の内容をどのようにして知ることができたのか。
筆者の推測としては、『古事記の情報』は、100年間眠っていたわけではなく、日本書紀とほぼ同じ頃には既にあった情報と考える。現存する『古事記』と『古事記の情報』とは別である。現存する『古事記』は『古事記の情報』を取り込んでいて、書物として知られるようになったのが100年後であったのである。
「住吉大社神代記」の成立時期の解釈にも問題があるようだが、「住吉大社神代記」の編者は『古事記の情報』を知ることができたと考える。

不思議なのは、「住吉大社神代記」の編者は、日本書記および古事記の編者が知っていた正しい情報(垂仁崩御39歳、西暦337年 丁酉)については知らなかったことを示している。それとも、知っていて記紀の編者と同様に隠したのか、謎である。

 

「住吉大社神代記」の編者は、誕生から崩御までを在位とした
垂仁の年代解読において、垂仁25年即位、39年崩御と考え、在位15年としたことは旧ブログの「干支から垂仁天皇の在位を解読する」に述べたとおりである。現在では新しい復元年代に変わっているが、この読み方による復元年代は、垂仁崩御西暦333年、在位15年であり、古事記の崩年干支の穴(垂仁には崩年干支の記載がない)を埋めるものとしてとらえている。
またこの結果は、垂仁の年次表の干支に従って在位を求めたもので、二倍暦を解消した実年の数字である。仮に二倍暦で見ると、垂仁25歳即位、53歳崩御で、在位は29年(二倍暦解消で15年)となる。
崇神没年を258年(戊寅)から 垂仁即位年を319年とし、在位15年とした333年の干支は癸巳で、辛未にはならない。ところが319年を垂仁誕生1歳とし、垂仁53歳で崩御されたとすると、年代は311年、辛未となる。即ち、この考えは、実際の在位そのものではなく、誕生から崩御までの年齢を在位と見做した結果である。

 

「住吉大社神代記」の編者は、日本書紀の在位の考え方を踏襲した
当然、このような在位の見方は正しくはない。しかし、日本書紀においては、多くの天皇の在位を、誕生から崩御までの年齢を在位とみなして記載しているのである。そのことを考えれば異常として、退けてしまうのは間違いである。「住吉大社神代記」も日本書記の記載方法を踏襲したと考えても不思議ではない。

 

 

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http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou34/kaihou34.html

『住吉大社神代紀』の「垂仁没年辛未の年、在位五十三年」の一つの解釈

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