http://platz.jp/~hvhy/keifu/k016.html
ここで、「大物主」=「邇藝速日」という常識(?)を捨てていただきたい。
考古学が教えるところによれば、「意富多多泥古」がいた「河内」の「美努村」は、
須恵(スエ)器の一大製作所であった。「陶(スエ)津耳」という名前にそれは反映されている。
「櫛御方(즐어방)」「飯肩巣見(반견소견)」「建龜槌(건구퇴)」。
ここで「櫛御方」の「方」は、「建御名方」の「方」に通ずるものを感じさせる。
陶津耳−−−活玉依毘賣
‖
‖−−−− 櫛御方 (飯肩巣見)(建龜槌)−−--「意富多多泥古」
‖
大物主大神
この「櫛御方」は、「師木縣主」の系譜に見られる「日子刺肩別」。
但し一方で、「五百木入日子」の母は「八坂之入日賣」、父は景行天皇となっている。
この景行天皇は、いわゆる景行天皇ではなく、「事代主」だと私は考える。
宮崎県の諸県郡には、現在でも「八重」と書いて「ハエ」と読む地名が点在する。
欠史八代の系譜中に出てくる「縣主波延(ハエ)」の「波延」(ハエ)とは、
「八重(ヤエ)事代主」の「八重」(ヤエ)なのだ。(※【系譜分析3】を参照のこと)
いずれにせよ、「意富多多泥古」の時代は、考古学で言うところの須恵器の時代である。
上記の復元系図に則るかぎり、「御真木(ミマキ)入日子」と「意富多多泥古」は、時代が異なる。
(※なぜなら、「御真木入日子」は、「八坂入比賣」のおじいさんだから)
また、「天之御影」に始まる「息長」の系譜は、完全なダブりであることも分かる。
しかしその一方、「大筒木真若」は、「真」の字と「木」の字を負っている。
しかも、継体天皇の筒木宮があったとされるあたりを現在でも「三山木」(ミャマキ)と言う。
「ヤ」は「イ」に変化するから、「ミィマキ」である。この付近にある「朱智神社」は、
「大筒木真若」の子供である「迦邇米雷」を祀っているが、この神社は、
京都の「八坂神社」と深く関わりを持っている。(榊遷神事というのがある)
そうしてみると、「高木神」の前後の世代から3世代〜4世代の後にも、
「御真木入日子」や「八坂入日子」がいた。そのように考えることができよう。
神武天皇(伊波禮毘古)についても然り。景行天皇(淤斯呂和気)についても然り。
【ふたつの時代】に同名の人物が”セット”で存在する(ように書かれている)のは、
いったいどういう理由によるのか。単に「名前が世襲された」という問題ではないだろう。
最後に、考古学的な話をもうひとつ。山辺の道に連なる古墳群は、4つほどの支群に分けられるが、
そのうちの柳本古墳群(崇神陵と景行陵を含む)だけは、方墳や前方後方墳を含まない。
逆に言うと、他の古墳群は、規模の大小はともかく、方墳系の古墳を伴っている。
(※ここで「方墳」の「方」も、「建御名方」の「方」であり、「櫛御方」の「方」である)
ずらずら並んでいると同じように見えてしまうけれども、このような違いがあるのだ。
これは大雑把に言えば、柳本古墳群においては、「出雲」の要素が排除されているということ。
http://tokyo.atso-net.jp/pukiwikip/index.php?%C8%FE%C5%D8%B2%A6
河内の鴨:大和川の出口は河内
鴨氏の拠点の葛城は 河内と紀の国とに隣接しており、海への要衝の地
物部の土地、河内にも鴨は進出。 河内国 石川郡 鴨習太神社(河南町神山) 河内国 高安郡 鴨神社(八尾市大竹)『古事記』で大田田根子が居た所の近所 河内国 澁川郡 鴨高田神社(東大阪市高井田) 摂津国 嶋下郡 三嶋鴨神社(高槻市三島江)
崇神王権が大和を支配してから三輪山の神を無視した状態が続きました。この時代に、しばしば災害が起こることがありました。大神は「倭国の域(さかひ)の内に所居る神、大物主神」と名乗って、「国がうまく治まらないのは吾が意である。もし、吾が児、太田田根子を以て、吾を祭れば、たちどころに平安となり、海外の国も帰伏するだろう」との託宣をされました。
太田田根子は『古事記』では河内の美努の村にいました。八尾市西高安町の鴨神社の西。『日本書紀』では茅渟県の陶邑にいました。堺市上之の陶荒田神社付近。いずれにしろ、河内にいた太田田根子を探し出し、大物主大神を祭る神主としました。
三野県主:御野県主神社
三野県主一族の祖神を祀る。 饒速日命降臨神話では讃岐三野物部と見えるが、河内の三野県も古い。雄略天皇崩御後、吉備の上道国造の謀反事件に、この地の三野県主小楯が加担したが、謀反は失敗に終わり、この時県主を免ぜられ、郡名も改称されたとの推測が「大いなる邪馬台国:鳥越憲三郎氏:講談社」に記されている。
この一族は天武天皇13年美努連に任ぜら、復権している。
http://kumoi1.web.fc2.com/CCP123.html
役病(えやみ)。この「役」の字は、旧印本と延佳本では「疫」の字を書いている。それが正字だ。しかし真福寺本、その他の本でも、みな「役」と書いている。下文の「役氣」も同様である。この記の書き方ではそういう例が多いので、ここではそれによった。【「疫」と書いた本は、後にさかしらに改めたものだろう。】和名抄に「疫は『えやみ』、一にいわく、『ときのけ』、説文にいわく、『民がみな病むことである』」とある。【また「瘧(おこり)(底本正字は、やまいだれに雨+巳:雨の左棒を伸ばしてたれに作る)は『えやみ』という。一にいわく、『わらわやみ』」とあり、昔は瘧も「えやみ」と言ったようだ。】書紀にも「疫病」、「疫疾」、「疾疫」、「疫氣」など、みな「えやみ」と読む。【また「えのやまい」と読むところがある。大鏡で「延(え)」とだけ言ったところもある。和名抄に「龍膽(りんどう)は『えやみぐさ』」とある。】そう名付けたのは、「役」を「え」とも「えだち」とも言うのを、【「えだち」は「役立」である。役については、軽嶋の宮(應神天皇)の段で言う。】疫病も、漢籍で「民がみな病むことである」と言うように、人ごとに病むのが、「役(え)」に指名されて立つのに似ているからだろう。【師は「疫を『え』と言うのは、字音から来ている。次の文に『神氣』とあり、これがそうだから、ここの疫病も『かみのいぶき』と読むべきだ」と言った。私も初め「役」も「疫」もともに「え」と読むことからすると、字音を取ったのだ。本当の古言だったら、こんな風に同音の字で同意であるはずはない、と思ったが、後によく考えると、そうではなく、いずれももともとの古言である。「役(え)」は自然に字音と同じだった。わが国の古言と漢字の字音が、自然に似ているということも、稀にはある。それも悉く彼の国から取ったものと思うのは、かえって誤りだ。そして「疫(え)」は、その「役」に似ているから言うのは、上記の通りである。「疫」の字そのものも、「役」から出たと思われる。釋名に「疫は役である。言わば鬼があって、役を行うのである」と言っている。このように漢国でも「役」から転じて「疫」という、これまたわが国での意味と自然に合ったのである、向こうに倣ったのではない。書紀の欽明の巻にも「国内に疫病が流行し、大勢の人が死んだ。それが長く続いて、いよいよ甚だしくなり、治療することもできなかった」、敏達の巻にも「この時国に疫病が流行し、民に死者が多かった」ということがある。
○多起(さわにおこる)。「おこる」とは、今の世の言で「はやる」ということである。書紀では「行」の字を書いている。【漢国では「行」と言うのだ。わが国でこれを「おこなわる」というのは、漢籍読みである。】中昔の書物でも、みな「はやる」と言っている。
○人民は「おおみたから」と読む。書紀では「民」、「人民」、「萬民」、「兆民」、「黎民」、「民庶」、「衆庶」、「黎庶」、「億兆」、「人物」、「人夫」、「庶人」、「居人」、「戸口」、「百姓」、「元々蒼生」、「業々黔首」など、みなそう読んでいる。【ただし「み」はみな「む」と読んでいる。それはやや後の音便である。古言は正しく「み」と読むべきだ。】大御宝ということである。「王民」、「公民」、「良人」などもそう読むべきだ。これらは賎民に対して言う言葉である。すると「おおみたから」とは、もとは良人に限る言葉であって、奴婢には適用されなかったのか、それとももともと良賎を選ばず言った言葉か。その違いは定かでないが、それはどうあれ、普通は単に諸々の民という意味で用い、ここもそうである。【古い書物の趣を考えると、確かに奴婢に対して良人を公民と言っているような箇所も、「おおみたから」と読む他はないので、「おおみたから」とは、元は良人に限っていった名のように思われる。しかしまた、良賎の区別に関わりなく、単に広く民を言う場合にも、「天下の公民」と言った例が多い。これは賎に対して良を言う「おおみたから」を、いつも公民と書き慣れて、その字を借りて、良賎に関わらないところでも、通わせて使ったのだろう。なお公民のことは、玉垣の宮の段、伝廿四の六十葉で言う。】江家次第の非常赦に、検非違使の佐の言う言葉に「依2其事1殊以免給、各罷=還2本貫1、重犯不2奉仕1、爲2公御財1、御調物備進禮(そのことによりてことにもってゆるしたまう、おのおのモトツサトにまかりかえり、かさねてオカシまつらず、オオミタカラとなりて、ミツギモノそなえたてまつれ)<現代語訳:そのこと(特赦となった事情:新天皇の即位など)によって、特別にお許しがあった。各々、もといた里に帰り、再び罪を犯さず、公民となって税を納めよ>」とある。ここには「おおみたから」という言葉が正しく見えている。【「公」という字は、普通「公民」と書き習わしている「公」の字を取っただけである。これを「おおやけ」と読んではならない。ここの「人民」を、師は「あおひとくさ」と読んだ。ここはそう読んでも良い。しかし記中に「人民」とあるところで、そう読んでは良くないところもあり、やはり「おおみたから」と読むのがどこであっても良い読み方だ。】<訳者註:賎民(被差別民)には一般的に納税の義務がなかった>○死は「うせて」と読む。書紀でも「死」、「薨」、「卒」など、そう読んでいる。【また、これらを「みうせぬ」とも読む。「み」は「みまかる」の「み」で、「身」のことだろう。】
○爲盡は「つきなんとす」と読む。「爲」は漢文で「將」と書く意味である。書紀にいわく、「五年、国内に疫病が大流行し、人々が大勢死んで、且大半矣(つきなんとす)<訳者註:岩波古典文学大系本の訓読は『なかばにすぎなんとす』となっている>」とある。
○愁歎而は「うれいたまいて」と読む。
○神牀は「かむとこ」と読む。【または「かみゆか」とも読むべきか。】ここは書紀に「天皇は沐浴斎戒して、殿の内を清め、祈っていわく云々」というところに当たり、上記のように神の教えを請い願って祈り、斎戒して殿内にいた。その床を「神牀」と言ったのだろう。【下巻の穴穂の宮の段にも「坐2神牀1」と見えるが、それは誤字と思われる。】
○大物主大神のことは、白檮原の宮の段、【伝二十の十五葉】で言った。
○「顯レ於2御夢1(ミいめにあらわれて)」とは、天皇の夢に現れたのである。「顯」とは、このような疫病の流行は、この大神の御心であるぞと、その神の名が顕われ知られた意味で言う。訶志比の宮の段に「この時に三柱の大神の御名は顕われた」とあるのと同じだ。【ただ姿が現れたというだけの意味ではない。師は「あらわし」と読んで、御名を顕わしたのだと言った。これも煎じ詰めれば同じ意味だが、やはり「あらわれて」と読むのがしっくりするだろう。】そもそも世の中のことには、顕露事(あらわにごと)の他に幽事(かみごと)があって、その幽事は、なぜ誰がしたかはよく分からない事を言う。疫病のたぐいも、この幽事であって、何の理由で誰が行ったことかはわからないのを、神の教えを請い祈ることによって知るのである。【書紀の神代巻に「天兒屋命は神事(かみごと)の宗源(もと)を掌る者である。そのため太占(ふとまに)の卜事(うらごと)をもって仕えさせた」とあるので理解せよ。ここに「神事」とあるのが、つまり「幽事」であって、その宗源を掌るとは、卜事をもって神の教えを請い祈って、幽事を何の理由で、どの神がそうしたかを知る、その卜事、請い祈ることを掌ることを言う。よくよく文の意味を味わうべきである。】そうしてその幽事は、大物主大神の仕業だったと分かったのである。【幽(かくれたる)と顕(あらわなる)を相照らして考え、かの「かみごと」を幽事と書き、ここでは顕(あらわる)と言っている意味を悟るべきである。】
○是者(これは)は、「このように疫病が流行するのは」という意味だ。
○我之御心(あがみこころぞ)。玉垣の宮の段に「太占(ふとまに)に占って、『どの神の御心ですか』と尋ねたところ、『その祟りは、出雲の大神の御心である』」、訶志比の宮の段に「天照大神の御心である」、書紀の景行の巻に「今風が起こり、波が激しくなって王(みこ)の船を沈ませようとしているのは、きっと海神の御心ですわ」、神功の巻に「この時、軍卒を集めるのは難しかった。皇后は『きっと神の御心だわ』と言い、大三輪の社を立て、刀と矛を奉ったところ、兵士たちは自然と集まってきた」、允恭の巻に「淡路嶋で狩をした。・・・終日狩りをしても、獲物は一つも獲れなかった。そこで狩を一旦中止して卜ったところ、嶋の神が祟って、『獲物が一つもないのは、私の御心だ。赤石(明石)の海の底に真珠がある。その珠を私に奉れば、獲物は幾らでも獲れるだろう』云々」、類聚国史に「天長四年四月、詔して『天皇詔旨止(すめらがおおみことらまと)、稻荷神前爾申給閇止申佐久(いなりのカミのみまえにもうしたまえともうさく)、頃間御躰不愈大坐須爾依弖(このごろおおみミヤクサミおおましますによりて)、占求留爾(うらえもとむるに)、稻荷神社乃樹伐禮留罪祟爾出止申須(いなりのかみのやしろのキきれるつみタタリにいずともうす)・・・實爾神乃御心爾志坐波(まことにカミのみこころにしませば)<口語訳:天皇の詔に、稲荷の神前で申し給えと言われた。この頃体の具合が悪いので、占って理由を尋ねたところ、稲荷神社の木を切ったことが祟りとなって出たという。・・・これは実に神の御心であるから>云々』【土佐日記に「ちはやぶる神の心の荒るゝ海に・・・目もうつらうつら、鏡に神の心をこそは見つれ梶取りの心は、神の御心なりけり」。】など見える。後に引いている龍田の風神祭の祝詞も考え合わせよ。
○我御前(あがみまえ)。「御前」は上巻【伝十二の十九葉】で出た。
○神氣は「かみのけ」と読む。【一般に「気」を「け」と言うのは、世の人は字音だとばかり思っているだろうが、そうではない。わが国古来の言葉だが、たまたま字音と同じなのだ。万葉巻に「潮氣(しおけ)」などと言うこともあり、「烟(けぶり)」の「け」もこれである。数万もある言葉の中には、稀には漢字音と似ているものも、全く同じものも、どうして無いことがあろうか。それを似ていたり同じだったりすると、すべて字音から出たと思うのは、どういうことなのか。】栄花物語の玉の群菊の巻【頼道大将が病んだことを語る段】に「光(みつ)よし、吉平など召して、物問せ賜ふ。御物氣(おおんもののけ)や、かしこき神氣(かみのけ)や、人の呪詛(すそ)など、さまざまに申せば、神氣とあらば、御修法などあるべきに非ず、また御物氣とあるも、任せたらむもおそろしなど、かたがた所思(おぼし)亂るゝ、たゞ御祭祓しきりなり」、【この時代の「祭り祓え」というのは、陰陽師が行うことだった。ここで神氣、物氣と言っている神の気とは、神の祟りである。物の気とは、死人あるいは生きている人でも、人に祟ることを言い、中昔の書物にはよく出てくる。これは二つとも古言で、いにしえは物の気というのも、神の気と同じことだっただろう。神を物と言ったのは、前述した通りだ。それを後には分けて、神の祟りを神の気と言い、物の気とは人の祟りを言うようになったのだろう。しかし人であっても、祟りをなすのは神だから、煎じ詰めれば同じことである。伊勢神宮の文保記に「祖父長官【常尚】の服暇令にいわく、『神の気によって病んだ人の禁忌は、七十五日を過ぎて明ける』」とある。かなりひどいことのようだが、こう言ったのは、その頃まで疫病を神の気と言ったのだろうか。あるいは昔から書き伝えたことを、そのままに記したのだろうか。いずれにせよ、疫病を神の気と言った例である。ここの神氣を師は「かみのいぶき」と読んだけれども、書紀の景行の巻の「信濃の坂を越える者は、多く神氣に遇って病み伏した」などの「神氣」ならそう読んでもいいが、疫病を指して「かみのいぶき」とは言えないだろう。】
○安平は「たいらぎなん」と読む。書紀の天武の巻でもそう読んでいる。明の宮の段の終わりに、「その身は元のように安平(たいらぎ)」。書紀にいわく、「五年・・・、【その文は上に引いた。】六年、百姓は流離し、謀反する者も現れた。天皇の徳を以ては治めがたかった。そこで非常に畏まって、神祇に謝罪し祈りを捧げた。これ以前、天照大神と倭大國魂の二柱の神を天皇の大殿の内に並べて祭っていたが、その神威を畏れて、共に住むことが不安になった。そこで天照大神を豊鍬入姫命に託して倭の笠縫の邑に祭り、そこに神籬を立てた。また倭大國魂の神を淳名城入姫命に託して祭った。ところが淳名城入姫命は、髪が抜け落ち痩せ衰えて、祭り続けることができなかった」【天照大御神の御霊の鏡は、「同床共殿に齋鏡(いわいかがみ)として祀れ」と言って賜ったものだから、永久に天皇と同じ御殿で齋(いつき)祭るものなのに、なぜこのように他の場所に遷したのかというと、五年の疫病、六年の百姓流離などで、ひどく神の御心を畏れ危ぶみ、この二柱の神の祟りかも知れないと考え、共に住むのを不安に思ったからである。というのは、いつも同じ殿中にいたら、自然に慣れて、つい軽々しく扱ったり、その気がなくとも、不浄のこともないではなかっただろう。おのずから敬いの礼を怠ってしまう可能性もあることを畏れたのだ。といっても、まだ大倭国内で祭っていたのだが、垂仁天皇の御世になると、さらに鎮座の地を求めて、ここかしことさまよい歩いたのはなぜかというと、その巻に「・・・その後神の教えのままに、伊勢国渡遇宮(わたらいのみや)に遷った」とあるのを見ると、初め「嚴橿之本(いつかしがもと)」にいたときにでも、「他のところに遷せ」という神の教えがあったのだろう。神代に同床共殿の勅命はあったけれども、この代に至って、ついに天皇の大殿を離れ、永く伊勢国に鎮まった深い契りは、初めからあったことだろう。それは幽(かく)れていて、どうにも普通の人には測り知れないものだ。ところでここでは倭大國魂の神を祭った地も書くべきなのに、ただ「祭った」とのみ書いて、その地を書いてないのは、脱けたのである。】「七年春二月、天皇は神浅茅原に行き、八十万の神を集えて、卜い訊ねた。このとき神が倭迹迹日百襲姫命に憑いて、『天皇よ、国が治まらないからといって、何を憂えることがあるのか。私を敬い祭れば、国は必ず平安になるだろうに』と告げた。天皇が『そうおっしゃるあなたはどの神ですか』と訊ねると、『私は倭の国内にいる神、名は大物主神という』と答えた。そこで神の言葉に従って祭ったが、効果はなかった。天皇は沐浴斎戒して、殿内を清め、『私の神の祭りは、まだ足りないのでしょうか。どうして受けてくださらないのですか。どうか夢に現れて、お教えください』と祈った。その夜の夢に貴い人が現れて殿戸に向かい立ち、自分は大物主神だと名乗り、『天皇よ、憂えるな。国が治まらないのは私の意志だ。もし我が子、大田田根子に私を祭らせたなら、国は平らかになるだろう。そのうえ、外国の人々も自ら帰順してくるだろう』と言った。秋八月癸卯朔己酉、倭迹速神浅茅原目妙姫命、穂積臣の遠祖、大水口宿禰、伊勢麻績君の三人が、同じ夢を見たので言上して、『昨夜の夢に一人の貴人が現れ、大田田根子を大物主神を祭る神主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大國魂の神を祭る神主とせよ。天下は必ず平らかになるだろう、と告げました』と言った」【「八十万神を集えて」とは、その御霊を請い寄せたのである。神代巻でその現身を集えたのとは異なる。】
○驛使は「はゆまづかい」と読む。「はゆま」は「早馬」である。【「やう」は「ゆ」に縮まる。書紀などに「はいま」とあるのは、後に崩れた音便である。伊勢国飯野郡に早馬瀬(はゆまぜ)という村がある。それも今は「はいまぜ」と言っている。】万葉巻十四【十七丁】(3439)に「須受我禰乃、波由馬宇馬夜能(すずがねの、はゆまうまやの)」【「鈴が音の、早馬駅の」である。】巻十八【二十七丁】に「須受可氣奴、波由麻久太禮利(すずかけぬ、はゆまくだれり)」【「鈴掛けぬ早馬下れり」である。】などがある。だが「驛」の字は後代の制度によって書いただけである。【驛馬の定めは厩牧令などに見える。】ここはこの字に関係なく、ただ早馬の使いということで、後世のいわゆる早打ちの類だ。この言葉は記中にも書紀にもところどころ見える。<訳者註:書紀では、馬が伝わったのは應神天皇の代としており、人代ではそれ以前に馬が登場しない。ただし神代巻には馬が出ている>
○四方は「よも」と読む。「四面」の意味だ。【「かげとも」、「そとも」なども「影つ面」、「背つ面」の意味だ。「つお」は「と」に縮まる。】
○班は「あかちて」と読む。「わかつ」と同じだ。【「か」は清音に読む。濁るのは間違いである。】
○美努村(みぬのむら)。延喜式神名帳に「河内国若江郡、御野縣主(みぬのあがたぬし)神社」がある。書紀の清寧の巻に河内三野縣主(みぬのあがたぬし)小根、【この氏は、天武紀に連の姓を与えた記事がある。】新撰姓氏録の河内国神別に美努連がある。【美努連の人は、続日本紀三七にも見え、続日本後紀十五に「難波部の主足の本姓を改めて美努宿禰とし、本貫を河内国若江郡とした」。また三代実録卅六に「河内国若江郡の人、美努連清名云々」とある。】とすると、若江郡にこの地名があることは明らかだ。【それを延佳本で「美の字は茅に作るべきだ」と言っているのは、書紀に茅淳(ちぬ)縣とあるのばかり考えて、美努というところもあることを考えなかったための誤りである。諸本みな「美」とある。記中の地名の字の用例からすると、もし「ちぬ」なら「知努」などと書くはずだ。音と訓を混用した例は滅多にない。それに茅淳のことを、白檮原の段では「血沼」と書いている。同じ地名なら、様々な書き方はしないのが普通だ。上記のように河内には美努という地名が古い書物にたくさん出ているから、何の疑いもない。書紀は異なる伝えだ。「み」と「ち」とは横に通う音だから、誤って二通りに伝えたのだ。】
○貢進は「たてまつりて」と読む。書紀には「天皇は夢に教えを受けてたいへん喜び、天下に布告して大田田根子を尋ねさせたところ、茅淳縣の陶邑に大田田根子を見出し、貢(たてまつ)った」という。
○陶津耳(すえつみみ)。「陶」は地名で、延喜式神名帳に「和泉国大鳥郡、陶荒田(すえのあらのた)神社」がある。ここである。今は陶器荘(とうきのしょう)と言う。【「陶」を「すえ」と言うのは、和名抄の古い本に「陶は和訓『すえもの』」とある。据える物ということだ。今の本には「陶は、音は桃(とう)、瓦器、『すえうつわもの』」とある。据器物の意味である。】耳は尊称で、これまでも例が多く出た。この名は旧事紀には大陶祇(おおすえつみ)とある。
○活玉依毘賣(いくたまよりびめ)。名の意味は前に同じ名が出ており、そこで言った通りだ。
○櫛御方命(くしみかたのみこと)。「櫛」は「奇し」である。「御方」は地名だろう。和名抄に「播磨国宍粟郡、三方郷」、延喜式神名帳に「同郡、御形(みかた)神社」がある。【また同郡に「伊和坐大名持御魂(いわにますおおなもちのみたま)神社」、「大倭物代主(おおやまとものしろぬし)神社」があるのも関係がありそうだ。】ここではないだろうか。新撰姓氏録【石邊君のところ】に「大物主命の子、久斯比賀多(くしひがた)命」、また【石邊公のところ】「大物主命の子、久斯比賀多命」、また【狛人野のところ】「大物主命の子、櫛日方命」などとある。「み」と「ひ」は普通よく通う音で同じ。出雲国造の神賀詞に「倭大物主櫛ミカ(瓦+長)玉命登名乎稱天(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこととなをたたえて)」とあるのは、大物主神の名であるが、ここと名がたいへんよく似ている。また上巻の吉備の兒嶋のまたの名を建日方別(たけひがたわけ)といった。そこ【伝五の廿三葉】で言ったことも参照せよ。
○飯肩巣見命(いいがたすみのみこと:旧仮名イヒガタスミノミコト)。「飯(いい:イヒ)」の「い」を除けば、父の名の「ひがた」と同じだ。「い」の意味は考えつかない。旧事紀には「健飯賀田須命(たけひがたすのみこと)」とある。【これは「健」から続いているので、「飯」を「ひ」と読んで、「い」の字がない。この記もあるいは上に「建」の字が脱けたのではないか。】「巣見」のことは、上巻の「熊野久須毘(くまぬくすび)命」のところ【伝七の五十七葉】で言った。
○建甕槌命(たけみかづちのみこと)。名の意味は、上巻に同名の神があり、そこ【伝五の七十三葉】で言った通りだ。○僕。ここは「おのれ」と読む。
○意富多多泥古(おおたたねこ)。【この名は、「おお・たた・ねこ」と読む。「おおた・たねこ」と読むのは良くない。】旧事紀に「大直禰古(おおただねこ)」とも書いてある。「多々」は地名だろう。延喜式神名帳に「摂津国河邊郡、多太(ただ)神社」がある。この社は多田荘の内【平野村】にある。【この多田という地は、中昔以来世人のよく知るところだ。】ここだろうか。大和国葛上郡にも多太神社がある。「泥古」は尊称で、難波根子、山背根子などの類だ。三代実録【巻四、六】には「大三輪の大田田根子命」とある。
○上記の大物主大神から意富多々泥古命までの系譜を言った言い方は、【普通はアの子イ、イの子ウ、ウの子エと言うのを、ここでは「アの子、イの子、ウの子エ」と言っている。】書紀の神代巻で「磐裂・根裂の神の子、磐筒男・磐筒女の生んだ子、經津主神」というのに似ている。新撰姓氏録にも【眞野臣のところ】「大口納命の子、難波宿禰の子、大矢田宿禰云々」とあるのと同じだ。古文の言い回しと思われる。ところで、ここに言った通りなら、意富多々泥古命は大物主神の四世の孫なのに、新撰姓氏録に「五世の孫」とあるのは、伝えが異なるのか。それとも大物主神から数えて言ったのか。いにしえには「何世」という時に、始祖から数えた例もある。そのことは下巻玉穂の宮(継体天皇)の段で言う。この世継ぎのことは、書紀に「天皇は神浅茅原に出て来て、王や卿たちと八十諸部を集合させた。そして大田田根子に『お前は誰の子か』と尋ねた。『父は大物主大神、母は活玉依媛、陶津耳の娘です』と答えた。【または奇日方天日方武茅淳祇(くしひがたあまつひがたたけちぬつみ)の娘だとも言う。】天皇は『朕當2榮樂1(私はこれで栄えるだろう)』と言った」とある。【「朕當榮樂」とあるところは、言葉が足りない感じである。】また新撰姓氏録や旧事紀に紛らわしい記事がある。【書紀で大田田根子を大物主神の直接の子とし、活玉依媛を母としたのは、上代には子孫に至るまで広く「子」と言ったから、紛れて伝わったのだろう。しかし「また奇日方天日方武茅淳祇の娘ともいう」の部分は、別に一つの伝えを挙げたのだから、細字になっているのが当然なのに、今の本では続けて大書されているのはなぜか。大書では、大田田根子が言った言葉になる。自分の母のことを言うのに、異説があるはずはない。これは活玉依媛の父についての異伝だから、一人の名なのに、二つに分けて、「奇日方天日方」を活玉依媛のまたの名と解するのも誤りである。奇日方天日方はこの記の櫛御方命に当たるように思われるのを、活玉依媛の父とするのは、これも紛れたのである。だからこれは武茅淳祇とは別人なのを混同して一人の名前としたのだ。武茅淳祇は陶津耳に相当する。次に新撰姓氏録の大神(おおみわ)朝臣のところに書かれている説は、白檮原の朝の大后、伊須氣余理比賣命の父母と紛れたもので、間違いである。その文は後に出る神君(みわのきみ)のところで引く。次に旧事紀は、総体に信用できない書物であるが、四の巻の大神朝臣の系譜を記した段で、この意富多々泥古の祖先を書いたのは、拠り所があるように見える。ただ中に自分勝手な思いつきを加えたところもあるようだ。たとえば「事代主神は八尋の鰐になって三嶋の溝杭の娘、活玉依姫に通い、一男一女を生んだ。天日方奇日方命と、妹姫蹈鞴五十鈴姫命である」と言ったのは、白檮原の朝の大后の父母と、この大神朝臣の祖を取り違え、最後には三嶋溝杭の娘を活玉依姫とし、天日方奇日方命と五十鈴姫命を同母の兄妹としている。みな誤りである。これは書紀の神代巻で「大三輪の神、この神の子は、甘茂(かも)君ら、大三輪君ら、また姫蹈鞴五十鈴媛命である」とあるのを読み誤ったことから出たのだ。「この神の子」というのは子孫のことである。「甘茂君、大三輪君」というのがいずれも姓であることで分かるだろう。三嶋の溝杭の娘を妻としたのも、陶津耳の娘、活玉依媛を妻としたのも、ともに大物主神ではあるが、事は二つで別なのを、話が似ているので、新撰姓氏録では混同して伝えている。書紀では、五十鈴媛姫の父を大物主神とするのと、事代主神とするのと二つの説があるが、甘茂君、大三輪君は大物主神の子孫でこそあれ、事代主神の子孫という伝えは、古い書物に見えたことがない。ところが、そうした混同の結果、旧事紀ではこれも混同して書いている。旧事紀にはこういう人を惑わす記事が多い。よく考えなければ誤る。以前、上巻の伝七で、胸形君について、胸形大神を胸形君が以拝(もちいつ)くのは、事代主神の由縁であると言ったのは、よく考えると良くなかった。それも大物主神の所縁であろう。ところで旧事紀では、上記の次に「三世の孫天日方奇日方命、またの名、阿田都久志尼(あたつくしね)命は、日向賀牟度美良(ひむかのかむどみらひめ)姫を娶って一男一女を生んだ。健飯勝(たけいいかつ)命と、妹淳名底姫(ぬなそこひめ)命である」とある。三世の孫とは、この系譜を素戔嗚命から数えて書いているからだ。しかし櫛日方命は、この記でも新撰姓氏録でも大物主神の子であるのを、事代主神の子としたのが間違っていることは、上記で弁じた通りである。次に「四世の孫健飯勝命は、出雲臣の女子、沙麻奈(さまな)姫を娶って一男を生んだ」と言うのは、この記の飯肩巣見命に当たるが、名前が子の建甕槌(たけみかづち)とよく似ている。「ち」があるかないかの違いだけだ。次に「五代の孫、健甕尻(たけみかしり)命、またの名は健甕槌命、またいわく健甕之尾(たけみかのお)命は、伊勢の幡主の娘、賀具呂(かぐろ)姫を娶って、一男を生んだ」とあるが、「五代の孫」とは上記四世の孫の健飯勝の子ということだ。続く部分もこれに準じて読む。次に「六世の孫、豊御氣主(とよみけぬし)命、またの名健甕依(たけみかより)命は、紀伊の名草姫を妻として一男を生んだ。七世の孫、大御氣主命は、大倭国の民礒(たみいそ)姫を妻として、二男を生んだ。八世の孫、阿田賀田須(あたかたす)命は、和邇古(わにこ)らの祖である。次に健飯賀田須命は、鴨部の美良姫を妻として、一男を生んだ。九世の孫、大田田禰古命、またの名は大直禰古命」という。大田田禰古の父の名は、この記の飯肩巣見によく似ている。しかし「田田(たた)」と「直(ただ)」は字が違うだけで全く同じなのに、「またの名」としているのはどうだろう。ここで九世の孫と言っているのは大物主神の八世の孫になるから、この記とは四世の違いがある。これは名前をところどころ混同したため、一世を三世とも四世ともしたからだろう。「豊御氣主、またの名健甕依」というのは、豊御氣主も健甕槌のまたの名で、大御氣主も同人のまたの名か。「健飯賀田須命」は「健飯勝」と同人だろう。「たす」は「つ」に縮まるから、全く同名だ。とするとこの系譜は、書紀も新撰姓氏録も旧事紀も、みな誤っている。】この記こそ正しいのである。
○「即以2意富多多泥古命1(すなわちこのおおたたねこのみことを)」。ここは名前の上に「この」を添えて読む。語の様子からそうでなければならない。ところで、ここで初めて「命」と言っているのは、そこまではあるいは祖神が言い
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kamokeifu.html
①高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命-玉依彦命--生玉兄日子
(生魂命) (神櫛玉命)(建角身命) | (鴨県主、賀茂県主祖)
(三島溝杭耳命) -剣根命-夜麻都俾命-久多美命(葛城直祖)
②神皇産霊尊-天神玉命-天櫛玉命-鴨建角身命→
(八咫烏)
→-鴨建玉依彦命-五十手美命-麻都躬之命-看香名男命-津久足尼命-猿弟人命-佐佐乃彦命-菅牽命→
|
-玉依姫命-賀茂別雷命
→稚可土乃命-馬岐乃耳命-大伊乃伎命
(鴨県主祖)
http://www.asukanet.gr.jp/cha-san/kojiki09.htm
고사기 安寧天皇
師木津日子玉手見の命は、片塩の浮穴の宮においでになって、天下をお治めになったんや。
この天皇が、
河俣比売の兄の県主、波延(はえ)の娘の 阿久斗比売(あくとひめ)を 嫁はんにして お生みになった子は、
常根津日子伊呂泥(とこねつひこいろね)の命や。
次に大倭日子鋤友(おほやまとひこすきとも)の命(※1)や。
次に、師木津日子(しきつひこ)の命や。
この天皇の子供らの、合わせて三柱のうち、大倭日子鋤友の命は天下をお治めになったんや。
次に師木津日子の命の子には、二柱の子がおった。
一柱の子、孫は
伊賀の須知の稲置、
那婆理の稲置、三野の稲置の祖先や。もう一柱の子、
和知都美(わちつみ)の命は 淡路の御井の宮においで になって、それで 二柱の娘が おったんや。
姉の名前は 蝿伊呂泥(はへいろね)、またの名は 意富夜麻登久邇阿礼比売(おほやまとくにあれひめ)の命や。
妹の名前は 蝿伊呂杼(はへいろど)や。
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kokuzou14.html
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-33.html
http://red.ribbon.to/~menorah/usuki.html
http://www.nunato.com/oki07.htm
父: 味鋤高日子根命= 味鋤高彦根命= 味鋤高彦根神= 都味歯八重事代主神= 丹塗矢=火雷神
別名:阿遅志貴高日子根, 阿治志貴高日子根, 阿遅須枳高日子, 味耜高彦根,
陶津耳命= 三島溝杭= 三島溝杭耳= 賀茂建角身命= 鴨建角身命= 八咫烏
*鋤= 耜.
*거주지: 三島鴨=> 岡田鴨=>葛野鴨, 鴨本流?(県主系)
三島溝杭=陶津耳=鴨建角身命
姓氏録에는 鴨建津身命
子: 天八現津彦命(アメノヤアキツヒコ), 長髄彦(八現津彦命)
天日方奇日方命(三輪君祖)= 奇日方天日方武茅渟祇= 阿田都久志尼命
*観松比古命= 観松彦色止命= 観松彦伊呂止命
*色姫(伊呂姫)
http://enjoy.pial.jp/~kokigi/keihu/nagasune/nagasune1.htm
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kokuzou14.html
1 観松彦色止命
日本書紀では 母弟(いろど)武石彦奇友背命を のせて いる
古事記では 多芸志比古命を のせて いる。
この人が 観松彦色止命だという記述は ない。
武石彦= 多芸志比古なのでしょう
古事記では多芸志比古が 血沼の別、多遅麻の竹の別、葦井の稲置の祖としている
旧事紀では懿徳天皇兄弟に手研彦奇友背命とし、父努別等の祖としている
(古事記)大物主-櫛御方命-飯肩巣見命-建甕槌命-意富多多泥古
*建甕槌命= 武甕槌命=
*建甕之尾命= 建甕尻命
*孝昭= 詞惠志泥= 香殖稻
古事記・日本書紀
陶津耳命 の女 活玉依姫
先代旧事本紀
三島溝杭 の女 活玉依姫
日本書紀
奇日方天日方武茅渟祇 の女
山城国風土記逸文
賀茂建角身命 の子 玉依日女
鴨(압)㉠오리㉡집오리㉢여종㉣하비(㉡밑
㉢뒤
')" onmouseout=tooltipOff() href="http://handic.daum.net/dicha/view_detail.do?q=11-14-01-01" ;>下㉡소첩(小妾: 여자가 자신을 낮추어 부르는 말)
㉢첩, 여자를 얕잡아 이르는 말
')" onmouseout=tooltipOff() href="http://handic.daum.net/dicha/view_detail.do?q=12-06-25-03" ;>婢)
http://yatagarasu33.jugem.jp/?eid=78
賀茂の健の角身命は、丹波の神野の神伊可古夜日女(カムイカコヤヒメ)を娶ってお生みになった子を、玉依日子と名づけ、次を玉依日売といった。玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていた時、丹塗り矢が川上から流れ下ってきた。
http://neo-paradigm.littlestar.jp/nihonkodaishi/08_kamoshihadonnashizokuka/index.htm
⑤大国主命-事代主命┬天八現津彦命-観松比古命-建日別命-伊侶止乃命-八上乃命
│
└天日方奇日方命(三輪君祖)
┬押古呂命-赤目彦命-若津根命-石古別命-兄人命-韓背宿禰(長国造)
│
└振根命-百襲彦命-川尻彦命-諸手足尼-小立宿禰
(都佐国造)
http://red.ribbon.to/~menorah/usuki.html
大国主命─下照比売命、弟事代主命(弟建沼河男命[越祖]、弟健御名方命[洲羽国造]、弟国忍富命[…須佐神社神主家。稲田、須佐の祖)─天日方奇日方命(妹媛蹈鞴五十鈴媛命、妹五十鈴依媛命、弟天八現津彦命)─健飯勝命(妹淳名底仲媛命、弟磯城津彦命[磯城県主祖])─健甕尻命─豊御気主命─大御気主命─吾田片隅命(弟健飯賀田須命)─胸形徳善─宗形赤胡(妹尼子娘)。
健飯賀田須命(大御気主命二男)─大田田根子─大鴨積命(賀茂、鴨部、三歳、石部の祖。弟大御気持命、弟田田彦命[大神、神部、神人の祖]、弟大禰希知命[神人部祖])。
大御気持命(大田田根子二男)─大友主命─志多留命─三輪石床(弟三輪武自古)─身狭─特牛(弟比義、弟布須)─逆(弟忍人)─小鷦鷯(弟弟隈─色夫─根麿)─文屋─利金─大神高市麿(弟大神安麿、弟大神狛麿、妹豊島売)。
http://red.ribbon.to/~menorah/tennou.html
*天八現津彦命(事代主命二男)─観松比古命─大日腹富命─建美奈命─甕男立命─麻斯命(億岐
あまやうつつ国造。隠岐祖)。 (弟建日別命)
*阿遅須枳高日子-天八現津彦-観松彦
(= 味耜高根彦)
建日別命(観松比古命二男)─伊侶止乃命─八上乃命─押古呂命(弟振根命)。
健御名方命(観松比古命三男)─伊豆早雄命─片倉辺命─恵奈武耳命─水隈命。
http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/125
鴨建角身命- 玉依彦- 生玉兄日子命 → 賀茂・鴨県主
http://www.dai3gen.net/kamo04.htm
渟中底姫命 |
懿徳皇后(多くは安寧皇后とする)参照原文に錯乱ありそう。調査中 |
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