倭(왜)

孝昭天皇과 倭国大乱

라디오에요 2011. 9. 20. 19:00

http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage9.htm

観松香殖稲大王(五代 孝昭)
諡名の中で「ミマツカヱシネ」が孝昭天皇を端的に表現した部分です。
その意味は「敵を待ち望み、見つけ出させる者」です。
大倭は神武天皇の即位以来、流血の争いは殆ど止み、四代懿徳天皇の代まで平穏な状態が続いたのです。
ところが争いを好んだ大王はその平穏な状態に飽き足らなくなったのです。そして、敵が現れるのを望み、また誰がそうかを探させたのであります。そう解釈出来ます。

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倭国大乱とは、5代目の倭王・天忍男命の死によって 起こった 倭王継承戦争。天忍男命の兄の4代目の倭王・天忍人命の嫡子・天戸目命の6代目・倭王位継承に 異が 唱えられた 戦争。

それに異を唱えたのは、倭王家の傍系家系で執政であった 香殖稲尊(後世、孝昭天皇と呼ばれる)。

彼は、天忍男命の王女・世襲足媛命との間に産まれた 天足彦国押人命に、母系経由で 6代目倭王を継承させようとした。

これにより、倭王朝は二分し、数代にまたがって、戦乱が起こった。

そして、この戦乱を平定したのが、国牽尊(後世、孝元天皇と呼ばれる)であり、彼の兄妹倭迹迹日百襲媛命を倭王にすることで、この戦乱を鎮圧した。

西暦8世紀、この倭国大乱時代の神武皇統側の当主には、「孝」の字がつく天皇名が送られることになった。孝昭、孝安、孝霊、孝元の4代である。

 

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Name:himiko

近畿王朝の正統な王位を継承していたのは、ニニギ命系の神武皇統ではなく、ニニギ命の兄弟にあたる火明命の後胤たちであったことと、孝昭天皇と崇神天皇に着目していること。ただし、年代観でかなり違いがあります。

私は、この当時の漢字の音韻の重要性から考慮していて、
私は、狗奴国の乱とその直後の卑弥呼の急死は、許乃国領主の武埴安彦命の乱とその直後の百襲媛命にこの急死と同じ事柄を述べているように思います。

そして、卑弥呼擁立の切欠になった倭国大乱、これは、おそらく、西暦2世紀中盤ぐらいに起こったように思われますが...

この西暦2世紀中ごろに起こったであろう倭国大乱。そのころまでは、火明命の後胤たちが倭王の位についていたのが、その補佐をしていた神武皇統の孝昭天皇が、自分と火明命系の娘との間に産まれた自分の子供を、倭王の位につけようとして(つまり、母系継承で)、それが原因で起こったのが、倭国大乱だと思うのです。

この孝昭天皇に着目されたのは、彼の妃が、火明命系の天忍男命の娘だったことが影響していると思います。どうでしょうか?

私は、孝昭天皇は倭国大乱を起こすきっかけになった人物と推定していて、それは、西暦2世紀中ごろと推定しているのです。

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それでは、年代的に間延びしてしまって無理があると思います。

 

この欠史八代のあたりの皇室系図では、叔父と姪の婚姻が多くみられ、当時の皇族が早婚・早産だった理由から、世代間が歳の差が小さかったことが推測され、たとえば、甥っ子のほうが、叔父さんよりも年上みたいなことも珍しくなっかと思われます。

 

ちなみに、卑弥呼の弟は、孝元天皇でしょう。

 

私は、狗奴国の乱を武埴安彦命の乱だと認識しており、これは漢字の音韻から導き出した結論です

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狗奴国は、「コノ」国と発音しなければいけない。中古音ではそうです。

これは、武埴安彦命の領国だった許乃国(コノ国)の可能性が高い。また、彼の母方は、記紀によると、河内彦の一族でした。狗奴国の副官も、魏略によると、拘右智卑狗(コウチヒコ・中古音によると)となっており、

狗奴国(許乃国)の乱とは、狗奴国王・卑弥弓呼(許乃国主・武埴安彦命)が、外戚の拘右智卑狗(河内彦)の扇動に乗って起こした大乱だったことが分かります。
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神武東征戦争の実態~天火明命の御落胤・二ギハヤヒ

二ギハヤヒのことを、『先代旧事本紀』では、「天照國照彦 天火明櫛玉饒速日尊」といい、物部氏は 天火明命=二ギハヤヒを同一人物とし、自らの家系を天孫とした。

しかしながら、ヤマト王朝はそれを認めず、また、天火明命の嫡流子孫と思われる 尾張氏なども、物部氏の主張を認めなかったようである。

尾張氏考
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-8.html


>但し尾張氏側に立つ人は、現在も物部氏との関係を否定するとのことである。

そこで、次の名称「天照國照彦 天火明櫛玉饒速日尊」について考察する。

これを「天照國照彦天火明」「櫛玉」「饒速日尊」と分けてみると分るのだが、天火明命と二ギハヤヒの間をつなぐ「櫛玉」という言葉である。これは「奇魂(くしたま)」のことと思われ、これは「形見」を意味する言葉でもある。

つまり、二ギハヤヒという人物は、自分は天火明命の形見だと主張していたようである。自分は、倭王・天火明命の形見である二ギハヤヒ命であると。これって、要するに、天火明命の御落胤を主張していたのではないだろうか?

これらのことから、神武東征戦争とは、天火明命の御落胤を主張する二ギハヤヒとその妃の兄のナガスネヒコによって起こされたクーデターであり、それを倭王・天村雲命?が鎮圧した戦争だと思われる。この戦争において、倭王家の分家に当たる九州家の若御毛沼命(のちに神武天皇とされる)が大活躍し、やがて、若御毛沼命は、近畿にとどまって、本家に当たる倭王家を補佐するようになったのでは?

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執政というかなんというか、要するに、西暦1世紀~西暦3世紀ぐらい、魏志倭人伝の時代、倭国では、祭祀をつかさどる倭王(祭祀王)と、実際の政治を行う俗世王の、二元体制が敷かれていたんでしょう? 執政という言葉は、とりあえず、分りやすく、名付けたにすぎません。

で、この場合、執政というのは、要するに、俗世王であり、実際の政治を行っていたほうです。おそらく、神武東征戦争以後、神武皇統は、この俗世王のほうだったんでしょう。しかしながら、形式上の正統な倭王とは、祭祀王のほうであり、これは、天火明命の後胤が継承していたんでしょう。

倭国大乱とは、その俗世王のほうである神武皇統が、天火明命の系統の倭王から、その祭祀王の地位を奪おうとしたんでしょう。

それが、いつのことか、容易に想像がつくのが、孝昭天皇が、天忍男命の娘を妃にしていたこと。あとは、このへんの系図を、父系・母系の両方でみれば、よく分ります。

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http://mimizun.com/log/2ch/history/1236962486/