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応神と仁徳 髪長媛 もどる (記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より)
髪長媛の話にもどすが、ホムタ別の息子のオホサザキが、髪長媛を見そめてしまった。細かい話は省くが、ホムタ別は、髪長媛を息子の妻にすることを同意した。のち、髪長媛はオホサザキの妃となり、男女の子を産んでいる。子の一人の大草香皇子は、別の表記では大日下王、日下は「ひのもと」でもあり、母の故郷日向の意識との関係も注目される。髪長媛のことで考古学的に重要なのは、日向の出自ということである。後で述べるように、宮崎県と大阪府とには、中期の前方後円墳の形に類似する場合があって、それらの年代が五世紀代ということもあり、日向から妃が出たという伝承との関連がうかんでくる。
『紀』 の異説によると、日向の諸県君牛(ここでは諸井は省かれている)は朝廷に仕えていたが、年老いたので日向に帰っていた。しかし、娘の髪長媛を朝廷にたてまつろうとして、播磨まで行った。ちょうどそのとき、ホムタ別は淡路島で狩りをしていた。すると数十の麋鹿が海に浮かんできて、播磨の鹿子水門に入った。使いをだして見させると、角をつけ鹿の皮をきた人間だった。「誰人ぞ」というと、諸県君牛で、娘の髪長媛をつれて来たと答えたという。
すごい話で、解説をつけにくい。話をそのままうけとると、髪長媛も男たちと一緒に鹿の角をつけて、海に浮かんできたことになるのだろうか。海に浮くかどうかは別にして、女のほうが男の居住地へ移って結婚するときに、鹿に仮装する風習があったのだろうか(☆1 海人と天皇 日本とは何か 梅原猛 1995 )。 それはともかく、皇后とか妃といっても、ヤカワエ媛のように父方の家にいて男のほうが来る場合と、髪長媛のように故郷を出て移住する場合の二通りがあったことがわかる。
堺市の百舌鳥古墳群の二番めの巨大前方後円墳である百舌鳥陵山(石津丘古墳ともいう。墳丘の長さ約三六〇メートル。現・履中陵)を、後円部といい、前方部といい、その形をきちんと二分の一にしたものがメサホ塚である。後円部も前方部も、その形を正確に二分の一にしているのだから、古墳時代の土木技術の高さには驚くほかない。このことは、当時すでにいく通りもの古墳の設計図があったと考えざるをえないことと、その設計図にもとづいて古墳の施工のできる技術集団(土師氏) がいたことなどが、頭に浮かぶ。
百舌鳥陵山古墳は、オホサザキ(仁徳天皇) の子のイザホ別(履中天皇) の墓に宮内庁は指定しているが、いわゆる百舌鳥三陵のうちでは、現・仁徳陵(考古学的には大山古墳)より古く、もし記紀での伝承どおりに、百舌鳥野に三陵があるのであれば、百舌鳥陵山古墳が仁徳陵ということも考えねばならない。だから、百舌鳥陵山古墳とメサホ塚を、同じ設計図で造営したことの背景には、それぞれの被葬者が、生前何らかの深い関係にあったことを示唆している。
ヲサホ塚は、すでに述べたように、本来の墳形はまだ確定はしていないが、後円部の直径が一三二メートルある。円墳や帆立貝式古墳の円丘部に比較すると、ぬきんでた規模である。その数値でみると、河内の誉田山古墳(墳丘の長さ四一五メートルないし四三〇メートル、後円部の径二六七メートル) の後円部の二分の一とみる網干善教氏の指摘がある (「古墳築造よりみた畿内と日向」(『関西大学考古学等資料室紀要』 二号、一九八五年))。
宮川・網干両氏の研究をふまえると、応神陵の可能性の高い誉田山古墳、応神の次にくる仁徳陵の可能性のある百舌鳥陵山古墳のそれぞれ二分の一で造営されたのが、西都原古墳群で接近して構築されているヲサホ塚とメサホ塚であることは、見逃せない事実である。
このことは、もちろん断定はできないけれども、『紀』が述べているホムタ別と息子のオホサザキが、諸県君牛とその娘の髪長媛とのあいだで展開した事件とかかわりがあるのではないかと思わせる。この視点でみると、西都原にはじめてあらわれる巨大古墳としてのヲサホ塚は、諸県君牛の墓であり、たんに娘を妃にだしたから河内の造墓技術で大古墳の造営ができたというだけでなく、ホムタ別の東進にさいして重要な役割をになったがゆえに、このような造墓が実現したのではないかという推測も生じてくる。南九州の鉄製武器と河内・和泉・近江などの古墳出土の鉄製武器の類似の問題もあるが、話が細かくなるのでここでは省く。
髪長媛は、ホムタ別が妃として日向からむかえたのに、太子のオホサザキが「吾に賜わしめよ」とねだって妃にしている(『記』)し、『紀』でも同じ経過が述べられている。物語ではそうなっていても、実際に父の妻(予定者)を、そう簡単に子の妻にできるだろうか。直木孝次郎氏は、応神と仁徳とは本来同じ一人の天皇であったが、のち説話を二つに分けたとする説(「応神天皇の実在性をめぐつて」(『人文研究』、一九七四年))を発表され、それを読んだとき衝撃をうけた。直木氏は、『新修大阪市史』(第一巻)でも、「応神・仁徳同一説は仮説の域を出るものではない」とことわったうえで、「このような推測が可能なほど、応神と仁徳の性格には共通性が多い」と指摘されている。ぼくは髪長媛の問題を考えるさいにも、直木説を前提に読むと、父の妃を子がもらったのではなく、同一人物の妃にすぎなかったのではないかと感じた。
オホサザキ (仁徳天皇) は、ホムタ別(応神天皇) の第四子だとされている (『紀』)。とはいうものの、前章で述べたように、二人は本来同一人物だったものを、のち説話のうえで二人に分けたという推測の生じる節が随所にある。
早い話、応神紀には陵の記述がない。オホサザキの時代に、父の陵を造営したとする記述もない。神武天皇から持統天皇までの三十九人の天皇のなかで、『紀』 に陵の記述がないのは応神天皇だけである。事績の大きさからみると、これは奇妙というほかない。 『紀』 の雄略天皇九年七月の条に、河内にあった誉田陵での馬の埴輪と田辺史伯孫が自分の馬とを取り換えた話がのっていて、今日の誉田山古墳(誉田御廟山古墳ともいう)を舞台にした物語とみられている。たいていのことにそれなりの辻棲をあわせている『紀』 の編者が、どうしていきなりすでに存在しているという形で誉田陵を登場させたのか。
髪長媛 (日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)
「日向の諸縣君牛、朝庭に仕へて、年既に老いて仕ふること能はず。依りて致仕りて本土に退る。則ち己が女髪長媛を貢上る。始めて播磨に至る。時に天皇淡路嶋に幸して、遊猟したまふ。是に、天皇、西を望すに、数十の麋鹿、海に浮きて来れり。便ち播磨の鹿子水門に入りぬ。天皇、左右に謂りて日はく、『其、何なる麋鹿ぞ。巨海に浮びて多に来る』とのたまふ。ここに左右共に視て奇びて、則ち使を遺して察しむ。使者至りて見るに、皆人なり。唯角著ける鹿の皮を以て、衣服とせらくのみ。問ひて曰はく、『誰人ぞ』といふ。応えて曰さく、『諸縣君牛、是年老いて、致仕ると雖も、朝を忘るること得ず。故に、己が女髪長媛を以て貢上る』とまうす。天皇、悦びて、即ち喚して御船に従へまつらしむ。是を以て、時人、其の岸に著きし処をなづけて、鹿子水門と日ふ。凡そ水手を鹿子と日ふこと、蓋し始めて是の時に起れりといふ」
この 「応神紀」 にみられる髪長媛入内の播磨灘説話は、その冒頭に「一に云はく」と記されているように、全く別な氏族伝承によったものと考えられますが、その記事の中にみえる人名が、先に述べた「記・紀」 の所伝の人名と同一名称であることは極めて興味深いものがあります。この播磨灘伝承は多くのことをわれわれに伝えてくれます。
まず、この播磨灘伝承の記事を見て、想定されることば、播磨地方の古代文化に関わりの深い加古川河口に、日向諸県君、牛族の根拠地としての 「船泊」が存在していたのではないかということ、すなわち、この一帯は、海洋性の強い日向の海人族集団の 「船泊」になっていたものと思われるということです。
内陸的な大和王権勢力が朝鮮半島方面に進出してゆくには、どうしても、この日向海人族集団の協力が、必要であったのだろうと思われます。
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