倭(왜)

선대구사본기 大木食命 大綜麻杵命 十千根命= 十市根 계보.

라디오에요 2011. 10. 27. 18:57

 

 

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sendaikuji/sendaikuji05.htm

 

孫, 天村雲命. 亦名, 天五多底. 此命, 阿俾良依姬為妻, 生 二男一女.

 

三世孫- 天忍人命. 此命, 異妹- 角屋姬, 亦名 葛木出石姬為妻, 生 二男.

       次, 天忍男命. 此命, 葛木土神 劍根命女- 賀奈良知姬為妻, 生 二男一女. 姓氏錄云, 葛木劍根命, 高魂命五世孫也.
     妹, 忍日女命.

     

四世孫- 瀛津世襲命. 亦云, 葛木彦命.尾張連等祖, 天忍男命之子. 此命, 池心朝御世, 孝昭為大連供奉.
     

       次, 建額赤命. 此命, 葛城尾治姬為妻, 生 一男.
   妹, 世襲足姬命. 亦云, 日置姬命.

此命, 腋上池心宮御宇 觀松香殖稻天皇, 孝昭立為皇后, 誕生 二皇子.
    則, 天足國押人命.
    次, 日本足國押人天皇 是也 孝安.

 

孫, 四世. 天戶目命. 天忍人命之子. 此命, 葛木避姬為妻, 生 二男.
次, 天忍男命. 天忍人命之子, 大大蝮壬部連等祖. 與三世孫 天忍男命 同名異神乎.

 

五世孫- 孫 建筒草命. 建額赤命之子, 多治比連‧ 津守連‧ 若倭部連‧ 葛木廚直祖.

 

    孫, 五世. 建斗米命. 天戶目命之子. 此命, 紀伊國造 智名曾妹 -中名草姬為妻. 生 六男一女.
        次, 妙斗米命. 天戶目命之子, 六人部連等祖.

 

  六世孫- 建田背命. 神眼連‧ 海部直‧ 丹波國造‧ 但馬國造等祖. 神名帳云, 但馬國 城崎郡 海神社.     姓氏錄云, 但馬 海直火明命後也.
      次, 建宇那比命. 此命, 磯城島連祖- 草名姬 為妻. 二男一女.
      次, 建多乎利命. 笛連‧ 若犬甘連等祖. 神名帳云, 大和國笛吹神社. 姓氏錄, 笛吹火明命後也.
      次, 建彌阿久良命. 高屋大分國造等祖.
      次, 建麻利尼命. 石作連‧ 桑內連‧ 山邊縣主等祖. 神名帳云, 大和國乘上郡桑內神社‧ 山邊郡山邊御縣坐神社.
      次, 建手和邇命. 身人部連等祖. 姓氏錄云, 身人部連, 火明命之後也.
      妹, 宇那比姬命.

              以上 六男一女, 建斗米命子也.

      

       

七世孫- 建諸隅命.

此命, 腋上池心宮御宇天皇御世, 孝昭. 為大臣 供奉.

       葛木直祖 大諸見足尼女子 諸見己姬為妻, 生一男.
  

       , 大海姬命. 亦名, 葛木高名姬命. 古事記作- 意富阿麻比賣.

       建諸隅命 大海姬命者, 建宇那比命子也.
        

       此命, 磯城瑞籬宮御宇天皇, 崇神. 立為皇妃, 誕生 一男二女.
      即, 八坂入彥命.
      次, 渟中城入姬命.
      次, 十市瓊入姬命是.

 

八世孫 - 倭得玉彥命. 亦云, 市大稻日命. 建諸隅命子也.
此命, 淡海國谷上刀婢為妻,生一男一女.

伊我臣祖 大伊賀彥女 - 大伊賀姬, 為妻. 生四男.

 

          

九世孫 - 弟彥命.
     妹,日女命.
     次,玉勝山代根古命.山代水主雀部連‧輕部造‧蘇宜部首等

神名帳云,山城國久世郡水主神社十座就中天照御魂神‧山背大國魂命神二座御相並祭.
今按天照御魂者,天照國照彥天火明尊‧山背大國魂者,御勝山代根古命乎.
又按姓氏錄,火明命之後‧榎室連祖-古麻呂,家在山城國久世郡水主村.

          次,若都保命.五百木邊連祖.
          次,置部與曾命.
          次,彥與曾命. 以上六柱, 倭得玉彥命子也.

 

           

十世孫- 淡夜別命. 此命, 弟彥命子也.
          次,大原足尼命. 此命,置部與曾命子也.
          次,大八椅子命.
          次,大縫命.
          次,小縫命.

大八椅子命‧ 大縫命‧ 小縫命, 彥與曾命子也.

 

 

*大木食命,有大綜麻杵命

 

彦狭嶋命。

日子刺肩別命。

日子寤間命

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*大綜麻杵= 대유내지(大由乃支= 大由奈支)

 

http://kodai.sakura.ne.jp/keizudeyomitoku/203kisikeifu.htm

 

 

 

 

『先代旧事本紀』天孫本紀によれば、尾張氏の 建斗米命(たけとめのみこと)は、紀伊国造 智名曾(こちなそ)の妹、中名草姫なかなくさひめ)と妻としたとする。

 

古屋家の大伴氏系図によれば、豊日の母親は 智名曾の娘、乎束媛(おつひめ)とする。


紀伊氏国造の系譜を伝える、日前國懸(ひのくまくにかかす)神宮の 神職家系譜に、智名曾の名を 見ることは 出来ないが、よく似た系譜を 伝える、丹生都(にゅうつ)神社丹生祝(にゅうはふり)家系図と、 『紀伊續風土記』に その名を 見る。
それぞれの系譜は 異なり、智名曾の系譜上の位置は 確定しづらいが、間違いなく存在する。

 

紀伊氏系譜は、他の氏族系譜と複雑に からむ。복잡하게 얽힌다
三輪氏の 豊御気主(とよみけぬし)の妻は、紀伊氏の名草姫とされる。

また 紀伊氏の 荒川戸畔(あらかわとべ)の娘が、??の妃になつた、遠津年魚眼妙媛(とおつあゆまくわしひめ)である。
また 紀伊氏の 山下影媛が、物部氏の 伊香色迷(いかがしこめ)の屋主忍男 武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)のとなる。

 

http://red.ribbon.to/~menorah/awata.html

 

孝昭天皇 ─ 天足彦国押人命 ─ 押姫命、             ─ 彦姥津命          ─ 伊富都久命(丈部丸部祖)

                                          弟 和邇日子押人彦命    妹 彦祁都比売命   弟 彦国葺命

                                                                                                      弟 小篠命[子に 稲都美命〔丈部祖]                                                                                                 弟 乙国葺命 

 


彦国葺命(彦姥津命二男)─建耶須禰命(弟大口納命、弟彦忍人命[武射国造])─八千宿禰命(吉備穴国造。安那祖)。

乙国葺命(彦姥津命四男)─塩乗津彦命(弟乙加豆知命─穴太足尼命─蒲見宿禰─湍津乃君[飯高祖])─久麻古流─満大伯(吉田祖)。

大口納命(彦国葺命二男)─難波根子建振熊命(弟彦汝命[子に彦武宇志命〔葦占、猪甘の祖〕]、弟真侶古命[額田国造])─米餅搗大臣命(弟日触使主命[和邇祖]、弟大矢田宿禰命、弟石持宿禰命[子に鯨子[壬生祖])─八腹木事(弟春日和邇深目、弟春日市河、弟春日人華)─武背立(妹都努郎女、妹弟比売命)─忍勝(大宅。弟五十足[水取祖])。

日触使主命(難波根子建振熊命)─宮道宅姫、妹小〔扁瓦〕姫、弟和邇口子─水路子(弟竹瀬、弟建津)─足国(和邇部祖。弟津古[子に阿提古〔田上祖〕]、弟倉子[子に栲縄〔子に磐金〕、真金])。

 

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/dainihonsi/dns106.htm

奉天瑞寶,鎮御魂。祈壽祚。鎮魂祭權輿于茲矣。明年二月,詔褒其忠勳,委以股肱之任,俾子孫世職。

 

二子,昧饒田命、彥湯支命姓氏錄,味饒田 或作 味饒日,彥湯支 或作 彥湯友。】

彥湯支命,一名木開。綏靖帝時,掌祭布都主劍。子孫世序其職。

 

彥湯支孫 大木食命,有大綜麻杵命。大綜麻杵伊香色雄命

【舊事紀。】祟神帝 七年,將祭大物主神及大國魂神,卜使伊香色雄班神物。吉。因掌其事。

【日本紀。】伊香色雄遷布都大神社於大倭石上邑,以殿內所藏十寶祀之,號曰石上大神,以鎮國家,又為氏神。伊香色雄大新河命曰 十千根命。

【舊事紀。◎按本書作 十市根,今從日本紀。】

     物部十千根。十千根,垂仁帝時,為大夫,與武渟川別彥國葺中臣大鹿島大伴武日,同列齊名。先是,帝屢遣使檢校出雲神寶,而無得其實者。至是,又命十千根檢察之。十千根至出雲,廉得其實,還奏稱旨。迺命十千根掌之。【日本紀。】八十一年,賜姓物部連公。【舊事紀,◎日本紀二十六年 既書物部十千根大連,蓋追書之歟。今無所考。】八十七年,大中姬舉十千根,掌石上神寶。自是,物部氏世掌之。【日本紀。】
     
       物部武諸隅命。大新河子曰 武諸隅命【舊事紀。◎日本紀註,一名大母隅。本書以大母隅諸隅命弟。】祟神帝 六十年,使于出雲,取神寶獻之。【日本紀。】武諸隅多遲麻連公。多遲麻子曰 印葉連公、曰伊與連公、曰小神連公、曰大別連公。

 其餘子孫繁衍,奕世顯仕。【舊事紀】各因居地職掌,別為百八十氏。【續日本紀桓武紀。】

 

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『古事記傳』22-2
御眞津比賣命(みまつひめのみこと)。この名の意味も分からないのは、御眞津日子訶惠志泥命ところで言ったのと同様だ。【伝 二十一の 十八葉を 参照せよ。】大彦命の娘にも 同じ名が ある。水垣の宮(崇神天皇)の段にある。そこ【伝 二十三の 七葉】で言うことを参照せよ。書紀には「六年 春正月 辛丑朔 甲寅、伊香色謎(いがかしこめ)命を 皇后に 立てた。【これは 庶母である。】后は 御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにえ)天皇を 生んだ」とあり、同母の兄弟は ない。

 

○丸邇臣(わにのおみ)。「丸」の字は「ワン」の音を取った「ワ」の仮名である。【丸は、廣韻に「胡官の反」とあり、反切の上に「胡」の字を用いた場合、呉音では「わゐうゑを」であることが多い。「話は胡掛の反」で「わ」、「慧は胡桂の反」で「ゑ」、「黄は胡光の反」で「わう」、「或は胡國の反」で「わく」のような例である。とすると「丸」も呉音は「わん」だ。それをこの「丸邇」の「丸」を「輪」の意味で訓を取ったと解するのは誤りである。】続日本紀や新撰姓氏録でこの姓を「丸部(わにべ)」と書き、万葉巻十一(2362)に「相狹丸(あうさわに)」【巻八では「相佐和仁(あうさわに)」と書いてある。】とあるのも同じだ。【ただしこれらは、上記の「印(いに)」と同じく、「わに」の二音の仮名である。】「丸邇」は地名で、大和国添上郡にある。この地のことは、水垣の宮の段に「丸邇坂」とあるところで言う。【伝廿三の七十六葉】この姓は、書紀の孝昭の巻に「天足彦國押人(あめたらしひこくにおしひと)命は、和珥臣(わにのおみ)らの先祖である」とある。この命はこの記では「天押帯日子(あめおしたらしひこ)命と書き、子孫の氏をたくさん挙げたうちに、【伝廿一の廿六葉から卅三葉まで】この姓は漏れている。だがこの氏人は、水垣の宮の段に日子國夫玖(ひこくにぶく)命、訶志比の宮(仲哀天皇)の段に難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)命、その他明の宮(應神天皇)、朝倉の宮(雄略天皇)、廣高の宮(仁賢天皇)などの段にも見える。書紀の雄略の巻には「春日の和珥臣」ともある。ところが浄御原の朝の御世、臣姓の氏々の多くに朝臣姓を加えた中(天武十三年十一月の五十二氏の叙位)に、どういうわけかこの氏は漏れている。続日本紀廿六に「天平神護元年七月、左京の人、丸部(わにべ)臣宗人ら二人に、宿禰の姓を与えた」、【「丸部」は丸邇部である。天武紀に「和珥部臣君手」と書かれている人が、続日本紀一では「丸部臣」と書かれているので分かる。】廿九に「神護景雲二年閏六月、左京の人和珥部臣男綱ら三人に和珥部朝臣の姓を与えた」とあり、新撰姓氏録【左京皇別】に「和邇部宿禰は、和邇部朝臣と同祖、彦姥津(ひこおけつ)命の四世の孫、矢田宿禰の子孫である」、また【左京皇別】「和邇部朝臣は、大春日朝臣と同祖、彦姥津(ひこおけつ)命の三世の孫、難波宿禰の子孫である」、「和邇部宿禰は、和邇部朝臣と同祖云々」、「丸部は和邇部と同祖、彦姥津(ひこおけつ)命の子、伊富都久(いおつく)命の子孫である」、また【右京皇別】「和邇部は、天足彦國押人命の三世の孫、彦國葺(ひこくにぶく)命の子孫である」、また【山城国皇別】「和邇部は、小野朝臣と同祖、天足彦國押人命の六世の孫、米餅搗大使主(しとぎつきのおおおみ)命の子孫である。一本に彦姥津命の三世の孫、難波宿禰の子孫である」、また【摂津国皇別】「和邇部は、大春日朝臣と同祖、云々」【これらのうち、続日本紀や新撰姓氏録の「和邇部朝臣」の「邇」の字は、諸本に「安」と書いてある。ところが多くのうちで、朝臣姓だけがそうなっているから、何か理由があってのことかと思ったが、やはり「邇」を誤ったのだろう。】三代実録七に「左京の人和邇部大田麻呂に姓を与えて宿禰とした。大田麻呂がみずから言うところでは、天足彦國押人命の子孫であるという」、また「播磨国飾磨郡の人、和邇部臣宅繼(やかつぐ?)に姓を与えて邇宗宿禰とした。みずから言うところでは、天足彦國押人命の子孫であるという」、【「邇宗」は「ちかむね」と読むのか。】九に「播磨国飾磨郡の人、和邇部臣宅貞、宅守らに姓を与えて邇宗宿禰とした」などと見える。この姓は、古くは「和邇」とだけあるのだが、天武紀に初めて「和邇部臣君手」とあり、その後は「和邇部」とばかり書かれる。いつから「部」が加わったのか。延喜式神名帳には若狭国三方郡に和邇部神社がある。

 

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『古事記傳』22-2

日子國意祁都命(ひこくにおけつのみこと)。名のことは次に言う。

この命は、新撰姓氏録の丈部(はせつかべ)のところでは「天足彦國押人命の孫、比古意祁豆命」と見え、羽束首はづかのおびと)のところでは「天足彦國押人命の子、彦姥津命」とある。どちらが正しいのだろう。【思うに、天足彦國押人命は 孝安天皇の兄であり、開化天皇は 孝安天皇の曽孫に当たるから、「孫」とある方が正しいとすべきか。】この命の子孫は、和邇臣だけでなく、他にもたいへん多くいる。掖上の宮の段に見える。【伝二十一】参照せよ。

 

意祁都比賣命(おけつひめのみこと)。同母兄弟が同名で、「比古」と「比賣」のみ違う例は、沙本毘古と沙本毘賣など、他にも多い。名の意味は思い付かない。この次にはこの比賣の妹、「袁祁都比賣(おけつひめ)」という名がある。これは「意(お)」と「袁(を)」で姉妹を分けていて、「億計王(おけのみこ)」と「弘計王(をけのみこ)」のたぐいである。「大(お)小(を)」の意味だろう。【「祁都(けつ)」は地名などだろうか。さらに調べる必要がある。書紀でこの「おけ」「姥」の字を書いてあるのも理由が分からない。上巻にある「伊斯許理度賣(いしこりどめ)」の「度賣」にもこの字を書いてある。これは姆と同じで老女の意味だから、あるいは老女を「意祁」、少女を「袁祁」ということでもあったのだろうか。しかし 兄の名も「意祁都」だから、この名については、というのはやはり借字だろう。】舒明紀に「毛津(けづ)」という名が見える。

 

○日子坐王(ひこいますのみこ)。【諸本とも「子」の字が脱けているのを、延佳が補っているのが正しい。】「坐」は「います」と読む。新撰姓氏録に「彦今簀命」とも書かれている。【「坐」の仮名は、雄略紀の歌に「伊麻志(いまし)」、「伊麻西磨(いまさば)」などとある。「居(旧仮名ゐ)」の意味と思って「ゐます」と書くのは間違いである。】名の意味は思い付かない。

 

書紀に「次の妃、和珥臣の遠祖、姥津命姥津媛彦坐王を 生んだ」とある。

 

この王のことは、水垣の宮の段に 見える。ところで、代々の皇子の名は、これ以前は この記でも書紀でもみな「命(みこと)」とあるのに、この皇子に至って初めて二記ともに「王(みこ)」とあるのは、本当にこの王から始まったのか、それとも「命」とか「王」とか言うのは後代に伝わった伝説上の区別で、本来はそうした区分はなかったのか、確かなことは言えない。

 

【ただこの後、この記では「王」とある名も書紀では「皇子」と書き、「王」と書く例は稀であるのに、この御子は書紀でも「王」とあるから、非常に古くからの伝えのままと思われる。書紀の一本には「命」とあるけれども、垂仁の巻に出たところでも「王」とあり、ここもそれが正しいだろう。新撰姓氏録などには「命」とある。「みこと」と「みこ」は言葉も似ているので、混同されることもあっただろう。】

 

記中に「王」とあるのは、どれも「みこ」と読むべきだ。「御子」という意味である。そもそも御子に「王」の字を当てるのは、非常に古くからのことと見え、この記はもちろんだが書紀にも

【ほとんどは「皇子」と書いているのに、】

 

雄略の巻に「星川王」、斉明の巻に「建王(たけるのみこ)」、天智の巻に「大友王」などと見え、倭建命のことを書いたところもみな「王」と見え、履中の巻に「太子王(ひつぎのみこ)」とかいてあり、また應神の巻に「男女合わせて二十王である」、天武の巻に「長幼合わせて十余王」などもある。これが古い書き方だ。

 

【このように天皇の御子に「王」の字を用いたのは、漢国で周代まで、王とは一国の王を意味したのが、その末期頃から諸侯もみな「王」を名乗り、漢代になってからは、一国の王の子を諸侯にして、諸侯王と言って「~王」などと言うようになったため、それを真似て、皇朝でも御子に「王」と付けるようになったのだ。】

 

天皇の直接の御子だけでなく、その子孫まで、姓を与えない限り、みな「御子」と言ったので、

【子孫はみな「子」と言うのがいにしえの習慣だ。】

 

それにも「王」の字を用いた。

 

【上代には、一世・二世などと区別せず、みな「みこ」と称し、「王」の字を書いた。ところが書紀の書きぶりでは、一般に一世の子には「皇子」と書き、二世から後に「王」と書いている。だがしばしば古い書き方のまま、一世にも「王」と書いている場合もある。上述した通りである。皇子と王とは、字は違うが、口に出す場合はいずれも「みこ」であった。ところが「親王」という言い方ができてからは、親王を「みこ」といい、親王でないのを「王」と書いて、それを「おおきみ」と言うようになった。「親王」という名は漢国の隋唐の制度を真似たのである。この名は天武紀四年のところに初めて見えるが、実際には、その時初めて行われたようでもない。ただその時代に始まったことではあるらしい。この語はできたとしても、それを名の下に付けて「~親王」と呼ぶことは、天武代にはまだなかったようで、舎人皇子や新田部皇子なども、書紀にはみな「皇子」とある。続日本紀に至ってみな「~親王」と書いてある。親王を「みこ」と呼ぶようになったので、それと分けて諸王を「~のおおきみ」と呼ぶのが決まりになったが、「おおきみ」というのは天皇を初め、親王や諸王まで、誰にも言う名であって、本来は天皇を呼ぶ名だった。諸王に限ってそう呼ぶのは当たらないことである。またこの記や書紀など、すべて古い書物で「~王」とある「王」の字をみな「きみ」と読むのも間違っている。古い書物では「王」はすべて「みこ」だ。それを「みこ」と読まないのは、後世の親王・諸王の例ばかり見て、いにしえを知らないからだ