倭(왜)

宮簀媛(みやずひめ, 美夜受比売) 志理都紀斗売(しりつきとめ) 箸墓古墳

라디오에요 2011. 12. 7. 14:43

http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=qt8yos5w3JYJ&p=%E5%AE%AE%E7%B0%80%E5%AA%9B+%E5%BF%97%E7%90%86%E9%83%BD%E7%B4%80&u=www.platz.or.jp%2F%7Ehvhy%2Fminibbs.cgi%3Fcmd%3Drm%26ff%3D11463

 

「気は心」と言うが、これが言葉の遷移をも示すなら、いろいろなことが言える。

「外宮」の「登由宇気」の、名前の固有部分は「由宇気」(ヨウケ)だが、

これは、「由宇心」(ユウゴリ)となり、「由碁理」に繋がる。

いわゆる「外宮」は丹後から遷座したという点に整合

 

http://ameblo.jp/ywrqa/entry-10885976355.html

 

「志理都紀斗売」(シリツキトメ)という名に関し、「紀」までが固有名か「斗」までが固有名か、
それも分からず、「都紀」という一語を認定するのか「都」は接尾辞なのか、それも分からない。
併し、おそらく語頭の「志理」については、一語として認定でき、その場合、「後」(シリ)の意味だ。


 

何故ならば、結婚している相手は「五百木之入日子」であり、この名前に含む「五百」は、(※前稿 を参照)
字義において「最後」を意味するところの月宿の【尾】の数価だからである。端的に言って、
「志理都紀斗売」の「志理」は、まずは月宿の【尾】に呼応した語として捉えられるのである。


 

ところで、その「志理都紀斗売」の父は、「尾張連之祖、建伊那陀宿祢」と記されている。(※真福寺本は「尾連」に作る)
「尾張」という表記には、ひとます型式的に言えば、月宿の【尾】と【張】が含まれる。だが、
「をはり」という言葉の意味まで含めて言えば、とりわけ月宿の【尾】を示すと言えるだろう。


 

>自其地幸行、到忍坂大室之時、生尾土雲八十建、在其室待伊那流。
>故尓、天神御子之命以、饗賜八十建。(…以下略…)
(※古事記・神武天皇条より)


 

>又高尾張邑、有土蜘蛛。其為人也、身短而手足長。与侏儒相類。
>皇軍結葛網、而掩襲殺之。因改号其邑曰葛城。
(※日本書紀・神武天皇条より)


 

そして、上記引用記事を見れば、一方の古事記において「生尾土雲」と記され、また
一方の日本書紀において「高尾張邑、有土蜘蛛」と記される。何故かは不分明ながら、
「土雲」(土蜘蛛)に、月宿の【尾】(をはり)が結びつけられている。そういう風に見えよう。


 

此処で日本書紀の「其為人也」以下の箇所は、たとえば岩波大系本において、
「其の為人(ひととなり)、身短くして手足長し」と訓まれる。それはそれでよいが、(※論語などに同様の構文は有る)
押さえるべきは、「蜘蛛」(spider)であるものを、「人」と捉え直していることである。


 

>故、到豊国宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比売《此十字以音》二人、
>作足一騰宮而、獻大御饗。自其地遷移而、於竺紫之岡田宮一年坐。
(※古事記・神武天皇条より)


 

そもそも「土蜘蛛」が「spider」であるはずもなく、その場合、「土人」が何であれ、
その「土人」を「土蜘蛛」と表現したということである。ならば、古事記の「土人」は、
「土雲」という話にもなる。その「土雲」であるところの「土人」が「十字」で綴られる。(※上記引用中の音注を参照)


 

#古事記の中で、「十字」という文字列は、いわゆる音注を記す箇所のみに出てくる。
#十字(10個の文字)を対象とする音注は5箇所あるが、その十字が人名であるのは、
#引用した「宇沙都比古・宇沙都比売」の箇所のみ。とすれば、この対(pair)の人名は、(※男女一対)
#十字の形であるところの【十】(タウ)が示す人物とも、深く関わっていると考えられよう。(※所謂イエスのこと)
#また、【十】(タウ)が【尾】である以上、「土人」(土雲)は、月宿の【尾】に繋がりを有する。
#それだからこそ「生尾土雲」(尾生る土雲、尻尾がある土雲の意)と文列形成されるのだ。

以上を踏まえつつ、今一度、以下の古事記の文列展開を確認すると、
「建」の文字と、「伊那」の文字が、極めて隣接して出てくることに気づく。
このような箇所は、古事記の全文を検索しても、当該箇所以外には無い。


 

>自其地幸行、到忍坂大室之時、生尾土雲八十建、在其室待伊那流。
>故尓、天神御子之命以、饗賜八十建。(…以下略…)
(※古事記・神武天皇条より)


 

そうすると、「建伊那陀」の「陀」が何であろうと、「建伊那陀」の「建」の文字は、
「生尾土雲八十建」に関わり、「伊那」の文字は、「伊那流」という言葉に関わる。(※これは倭語の動詞)
そのような位置づけの「建伊那陀宿祢」が「尾張連」の祖とされるのも当然だろう。(※「をはり」は【尾】を表す)


 

#結局、「生尾土雲」の「尾」の文字は、月宿の【尾】に由来する。

#「建伊那陀」が「生尾土雲」(土人)に関与する以上、当然ながら、

#娘の「志理都紀斗売」も「生尾土雲」(土人)に関与する。その場合、

#冒頭で述べた通り、「志理」は「後」(シリ)と理解するのが自然だろう。(※「尾」の字義に即して)

 

http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/history/1275502696/

 
137 : 愛知県民 ◆/aQLbFNNDU : 2010/06/26(土) 13:45:17

 

410年、山東半島の南燕を滅ぼした東晋は、海についてはほぼ中国を統一した。
これを受けて413年、倭国は東晋に朝貢する

北燕を避けるなら、高句麗領の遼東半島から山東半島に渡るのが最短コース。

これは應神37年の阿知使主の記事に符合する。

その後も宋への朝貢は続くが、470年代に北魏が山東半島を奪ってからは途絶える。
後の遣唐使でも、東シナ海を横切る南路は死のコースであった。

應神の出生地については、宇美説と蚊田説があるが、ウミが単なる地名説話とすると、蚊田説が有力か
蚊田がかつての怡土郡 長野村 蚊田ならば、應神は伊都生まれとなる。


神功が新羅出征前に出産を遅らせた石が伊覩県にあるという書紀の記事もある。

應神(改名前は イザサワケ)=五十迹手で、

先祖は新羅系の可能性も出てくる。

 

138 : 愛知県民 ◆/aQLbFNNDU : 2010/06/26(土) 13:51:23
 

宮簀媛(ミヤズヒメ)は、日本神話に登場する尾張国造乎止与命(オトヨ)の娘。

 

 ― 五百城(いほき)入彦 ― 品陀(ほむだ)真若王 ― 仲姫(應神の皇后)
          ― 日本武        
  ― 仲哀                                                ― 應神
 

五百城入彦(五百木之入日子)は 古事記によると 日本武(倭建)と형제、

尾張氏の娘を 娶って いる。


宮簀媛(美夜受比売)で 記紀ともに「月」(月経)の表現が あるが、
五百木之入日子の 志理都紀斗売(しりつきとめ)も「つき」を含む名前。

品陀真若王は 名前が 誉田別(品陀和気=應神)に似ているが、

書紀では 何故か 記載が 無い。

五百城入彦=伊吹(いぶき)入彦(尾張から日入る西方の伊吹山に入り遭難)
品陀真若王=仲姫の父     =仲彦


(성무) -> 應神を 男系相続にするため、二重系図が 作られたか。

 

140 : 愛知県民 ◆/aQLbFNNDU : 2010/06/26(土) 20:11:50
 

五百城入彦は 何の事跡も ないのに、

日本武・成務と同じ扱いなのが 不思議。
古事記の僅かな情報からは、日本武と同一人の疑いが 持たれる。


 
141 : 唐松山 ◆V0F34EbmQA : 2010/06/26(土) 20:50:30

 
だから五百城入彦も 殺された?

当然この陣営が 応神を 認める事は 無い。

 
142 : 愛知県民 ◆/aQLbFNNDU : 2010/06/26(土) 21:22:20
>>141

太子が殺されたなら大事件だろうに、その痕跡すら無い。
なのに血統は女系でしっかり應神・仁徳につながっている。
これは怪しいと見る。
 
144 : 唐松山 ◆V0F34EbmQA : 2010/06/26(土) 21:55:43

 

香坂王、忍熊王の死亡日が 書紀とは 違う。
帰京 後に 対立が あったかも 知れない。

 
145 : 愛知県民 ◆/aQLbFNNDU : 2010/06/27(日) 14:25:01

 

>>143
確かにお終いです。

五百城入彦の系図には 井上光貞氏も 注目して いたが、

私は 氏のように「架空説」は 取りたくない。


たとえば 水戸黄門について考えると、徳川光圀は 諸国漫遊などしていないから漫遊記の水戸黄門は架空だともいえる。
だから「徳川光圀は架空の人物」ということにはならない。

ヤマトタケルについては、

森浩一氏も「実在に近い人物」と考察されている。
神功皇后の新羅遠征については、皇后が大軍を率いて新羅を征服したとは考えにくいと思う。
当時は新羅が6世紀以降のように大国として存在していたわけでもない。
おそらく、長い時代に繰り返された半島との接触を一度のこととして語られた伝説と思われる。
だからといって神功皇后が架空の人物と断定はできない。

 
146 : 唐松山 ◆V0F34EbmQA : 2010/06/27(日) 19:07:44

>神功皇后の新羅遠征については、皇后が大軍を率いて新羅を征服したとは考えにくいと思う。

だから 274年幽州を分け平州を置く。

ここに来るんですよ。
280~90年代は東夷がしきりに洛陽を訪れる。

東夷校尉による、東夷軍の編成。最初に冊封を受けた倭国は東夷の頭となる。
そして小国連合のまま、323年を迎える。

 
149 : 唐松山 ◆V0F34EbmQA : 2010/07/02(金) 21:44:55
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/nendai/nendai2.htm
その結論は、「箸墓古墳に代表される定型化した大型前方後円墳の出現年代は、おそらく卑弥呼の没
年より十年あまり遅れる」が、この成立が、「邪馬台国連合 の変質、すなわちヤマト政権成立とい
う大きな画期と対応するもの」と理解される、とのことである

箸墓は261年に崩御した景行が葬られる箸陵である。
 
150 : 愛知県民 ◆/aQLbFNNDU : 2010/07/03(土) 13:00:03
「箸墓」の被葬者は、磯城県主「大目」の娘で孝霊の皇后になり、孝元の母となった「細媛」ではないか。
細媛の古訓は「ホソヒメ」「クハシヒメ」の2種類がある。
ホソヒメと読めば、古語では「五百」を「イホ」と読むから「百襲姫(モモソヒメ)」と同じ読みになる。
クハシヒメと読めば、百襲姫の別名「倭迹速神浅茅原目妙姫(ヤマトトハヤカムアサチハラマクハシヒメ)」
の末尾と同じ(「目」も父の名「大目」を想わせる)だし、ハシ墓にも通じる。
仲哀のオキナガタラシヒメ(神功)をはじめ、垂仁のヒバスヒメ、仁徳のイハノヒメなど皇后の大きな墓は多い。
ハシ墓は孝霊の皇后クハシヒメの墓であり、同じ別名を持つ孝霊の皇女モモソヒメの物語に誤って結び付けられたものか。
箸墓以前の前方後円墳は「大目」「葉江」など、磯城県主家のものと思われる。
 
151 : 愛知県民 ◆/aQLbFNNDU : 2010/07/03(土) 17:42:23

 

欠史八代と言っても、孝霊天皇を境に大きく区別することができる。
綏靖~孝安では后妃はただ一人で、しかも本文・一書あわせて三種類の史料が参照され、それぞれ名前が違う。
孝霊では后妃は三人に増えるが、皇后の名が三種類あるのは変わらない。
孝元・開化では后妃は三人で、皇后の名はただ一種類となる。
綏靖~孝霊の皇后は磯城県主・十市県主・春日県主の出身が多いが、孝元・開化では物部・穂積氏となる。

 
152 : 唐松山 ◆V0F34EbmQA : 2010/07/03(土) 19:03:35

 

>ハシ墓は孝霊の皇后クハシヒメの墓であり、

さて纒向への最初の入植者は?
そして纒向は100年ほどで衰退する。

153 : 愛知県民 ◆/aQLbFNNDU : 2010/07/03(土) 20:30:57

 

唐古・鍵遺跡から纒向遺跡へ。
孝霊天皇の黒田廬戸宮は唐古・鍵遺跡と同じ田原本町にある。
この近くに十市御縣坐神社があり、崇神の瑞籬宮(磯城)に志貴御縣坐神社がある。
細媛の父・大目は書紀では磯城県主、古事記では十市県主とされる。

154 : 唐松山 ◆V0F34EbmQA : 2010/07/03(土) 20:45:38

 

箸墓に相前後して全国に古墳が作られる。
その前に
2世紀末ころ、
九州伊都国の衰退
近江伊勢遺跡の衰退
そして纒向遺跡の興隆、4世紀初めには衰退する。


神功元年まででは、これ以上短く出来ない。世継ぎが出来ないと云う事です。
孝霊を充てると、ほぼ100年後ろへ動かす事になる。
そうすると神功渡海が370年頃となるが、この時代は、百済本紀よりさらに時代が下がる。
もし書紀の記事がおかしいとすると、孝霊を充てることも出来ない。


156 : 愛知県民 ◆/aQLbFNNDU : 2010/07/03(土) 21:09:37

 

物部・大伴氏と天皇家との比較
物部:饒速日六世孫・伊香色雄(崇神7年)― 七世孫・十千根(垂仁25年)― 八世孫・胆咋(仲哀9年)

大伴:武日(垂仁25年・景行40年)― 武以(仲哀9年)

仲哀は垂仁の曾孫なのに、物部氏・大伴氏ともに垂仁世の息子が活動しており、天皇家が二世多い。
この辺はどうでしょう?

157 : 唐松山 ◆V0F34EbmQA : 2010/07/03(土) 23:06:28

 

>天皇家が二世多い。この辺はどうでしょう?

天皇家は19年程度の長さで世継ぎをする。だからこれ以上短くしても正解は得られない。
伊香色雄は伊香色女の弟と見れば、孝霊~崇神に仕える。
145年生まれとし50年の生涯なら195年没
大彦は169年生まれなら、孫の磐鹿は、169+38=207年生まれと見ると240年で34歳ベテランです。
260年頃死亡で54歳となる。
武内宿禰243年生まれであれば、275年神功元年で33歳まだ渡海できる元気がある。

158 : 唐松山 ◆V0F34EbmQA : 2010/07/04(日) 22:32:05
倭人伝による倭人は、
男子は皆露かいし、木綿を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、
これが古墳時代前期の風俗として、
古墳時代中期の埴輪では、確認出来ない。
同じく住居も、縦穴か高床式が、埴輪では北方系の住居となる。

古墳前期と中期には文化的断絶があるが、説明出来ていない。
何故か?古墳前期を崇神に充てると、神功がねつ造記事となる為である。
神功紀が歴史に取り入れられない限り、邪馬台国は解明しない。


159 : 愛知県民 ◆/aQLbFNNDU : 2010/07/10(土) 15:56:18

 

考古学者の寺沢薫氏は、幕末の「薩長土肥」ならぬ「筑備播讃」(主導は吉備)が新都・纏向を建設したと推定しているが、
「筑(筑紫)」を除外すれば、記紀や神社伝承に伝わる孝霊の子女たちの活躍場所と一致することは興味深い。
吉備津彦は播磨・吉備を平定したと伝えられるし、百襲姫は讃岐の一宮に祭られている。
また古事記では孝安の皇子、孝霊の兄として大吉備諸進命を挙げている。
「筑(筑紫)」の要素は、あるいは物部氏か。
箸墓の被葬者は書紀が伝える通り百襲姫かもしれないが、その母・ハヘイロネも古事記では壮大な名前を持つ。
その名前、意富夜麻登久邇阿礼比売命の墓である可能性もある。

ヤマトの覇権は磯城氏(孝霊以前)→物部氏(孝元・開化)→皇室(崇神以後)と変わったと考えられる。
崇神伝承の中核は三輪山祭祀。磯城には遷都しただけで、崇神は新都の建設者として描かれてはいない。

160 : 愛知県民 ◆/aQLbFNNDU : 2010/07/17(土) 13:29:39

 

>>159 追加
寺沢氏は講談社の「日本の歴史」シリーズで「王権誕生」を執筆しているが、巻末の年表を見ると
210頃 纏向遺跡の建設
280頃 箸墓古墳の築造
318頃 三輪山祭祀の確立
三輪山祭祀の確立が崇神世とすると、纏向遺跡の建設は孝安~孝霊世で大吉備諸進命と大吉備津日子命、
箸墓古墳の築造は孝元~開化世で百襲姫と関係するのだろう。
開化以前は実在の人物ではあるが、実在の王ではないと見る。
「筑備播讃」の読み方は寺沢氏も示していない。
チクビハリサンと読むのかな。

古事記では、景行が若建吉備津日子(孝霊とハヘイロドの子)の娘、針間之伊那毘能大郎女を娶って倭建(ヤマトタケル)を生んでいる。
父系でたどった場合と3世代の差がある。
また、景行がヤマトタケルの曾孫(即ち自分の玄孫)迦具漏比売を娶って大江王を生んだという不自然な記事が残されたのは、
ヤマトタケルの祖父「若建吉備津日子」を「若建」の名から、ヤマトタケルの息子と勘違いしたためではないか。
実際には兄の「大吉備津日子」(孝霊とハヘイロネの子)と対になる名前である。

161 : 愛知県民 ◆/aQLbFNNDU : 2010/07/17(土) 14:47:27
纏向遺跡への吉備の影響を重視する寺沢氏の説は、記紀の欠史八代~崇神に新たな光を当てる説のように思われる。
現在の学界の主流は中国文献重視、日本文献軽視であるため、氏の論文も欠史八代を「疑わしい」と一言で切り捨て、
吉備津日子に注目もせず、怪しげな邪馬台国論が中心になっているのは残念であるが。
纏向に都した崇神・垂仁・景行の記事に言及しているだけでも、「よく言ってくれた」というべきか。
 
162 : 日本@名無史さん : 2010/07/17(土) 17:14:17
古事記と日本書紀の違いで壬申の乱の記述の多さがぜんぜん違うけど
古事記は大半が天武天皇が存命の時代にできてしまって元明天皇の意向はあまり反映されていないんじゃないか?
日本書紀は元明天皇の命令で「あの戦乱の悲劇は繰り返すな」という平和への願いで日本書紀のことが詳細に書かれている。
天武天皇(大海人皇子)にとっては甥の大友皇子との皇位継承争いなんて黒歴史で隠蔽するだろ。
古事記に記して突っ込まれたら、甥と皇位継承争いをしたことなんて天皇としての資質やリーダーシップを疑われるわけだしさ。
163 : 愛知県民 ◆/aQLbFNNDU : 2010/07/17(土) 19:20:07
>>162
皇位継承争いなんて、神武死後のタギシミミと綏靖の争いをはじめ、古事記にも山ほど書かれている。黒歴史だらけ。
164 : 日本@名無史さん : 2010/07/17(土) 20:10:10
>>162
?
古事記は推古天皇まで。
したがって、壬申の乱の記述などない。
165 : 横槍 : 2010/07/19(月) 08:36:51
大まかな流れは、こんなところかな

57年 委奴国(甘木周辺)王、後漢より金印を賜う
107年 帥升(スサノヲ)等、後漢に貢献する
180年頃? 大和にて卑弥呼共立
247年 箸墓が造られる
289年 イワレヒコ
405年 ミマキイリ、大物主・天照・豪族を地方に左遷。実質帝王となる
 
 
166 : 太国 ◆yVAs7uaYlY : 2010/07/20(火) 16:46:50
神武も崇神もそんな後ではないよ。
167 : 愛知県民 ◆/aQLbFNNDU : 2010/07/24(土) 13:00:21
太国さん復活!

纏向建設にあたり、中国・四国・近畿統合の象徴として淡路島の王女を担ぎ出すというのは、いかにもありそうな気がする。
和知都美命と意富夜麻登久邇阿礼比売命の失われた物語が、国生み(国あれ)や海神(わたつみ)神話のもとになったかもしれない。
和知都美命が安寧の子孫というのは事実でなく、師木津日子とは単に師木の首長(師木県主)の意味だろう。
意富夜麻登久邇阿礼比売命とその妹が孝霊の第二・第三夫人というのも不自然で、大吉備津日子や讃岐の百襲姫も孝霊の子とは思われない。

私は崇神以前に纏向に都したのは師木(磯城)・物部系の女王と吉備系の男王だったと考えている。
①意富夜麻登久邇阿礼比売命と大吉備諸進命
②夜麻登登母々曾毘売命と大吉備津日子命
③倭飛羽矢若屋比売と若日子建吉備津日子命
ただし、この三代の女王が魏志倭人伝の卑彌呼・壹與と結び付くのかどうかは分からない。
近畿に従わない九州(八女か山門か)の女首長が魏に朝貢した可能性も否定できないからだ。
14世紀の南北朝時代には大宰府にいた南朝の征西将軍・懐良親王が「日本国王良懐」として明から冊封された例がある。
この時代は日本文献も豊富なので事情が分かるが、中国文献と考古学だけに頼ると「良懐という名前の天皇が京都にいた」
というトンデモ説になる好例。
168 : 唐松山 ◆V0F34EbmQA : 2010/07/24(土) 18:09:13
文王生於東夷,
東夷校尉文俶父欽為繇外祖諸葛誕所殺,[五]文俶 見卷三校。 繇慮俶為舅家之患,是日亦以非罪誅俶。
以妻舅崔毖為東夷校尉。
文俶は惠帝(290~306)に仕えるため、舅崔毖に校尉を譲る。
東夷馬韓、新彌諸國依山帶海,去州四千餘里,歷世未附者二十餘國,並遣使朝獻。於是遠夷賓服,四境無虞,頻歲豐稔,士馬強盛。
317年 ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通 不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之
323年 ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,  
七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦(千熊長彦)美而善弁
与阿□相通 多聴其言 故国人(平州)異反 或帰于我(百済) 亦帰于麗 (高句麗)

東夷の中で生まれた文俶は東夷校尉となり、278年には馬韓(倭国を含む)で軍を編成したと思われる。
もしこの中に倭国が含まれなければ、渡海の機会は失われる。
169 : 唐松山 ◆V0F34EbmQA : 2010/07/24(土) 18:11:30
266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
274年 二月,分幽州五郡置平州。仲哀9年 渡海。
275年 神功元年
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
279年 神功5年 新羅朝貢
280年 太康元年 6月 東夷十國歸化。7月 東夷二十國朝獻。
281年 太康2年 夏六月,東夷五國內附。冬十月,鮮卑慕容廆(歸か)寇昌黎。
282年 太康3年 九月,東夷二十九國歸化,獻其方物。
286年 太康7年 夏五月,郡國十三旱。鮮卑慕容廆寇遼東。八月,東夷十一國內附。是歲,扶南等二十一國、馬韓等十一國遣使來獻。
287年 神功13年 誉田即位か? 武内宿禰從太子令拜角鹿笥飯大神。
287年 太康8年 八月,東夷二國內附。
288年 太康9年 九月,東夷七國詣校尉內附。郡國二十四螟。
289年 太康10年 五月,鮮卑慕容廆來降,東夷十一國內附。この11月に 晋は、軍を再編する。
289年 是歲,東夷絕遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻。
290年 太熙元年 二月辛丑,東夷七國朝貢。琅邪王覲薨。
291年 永平元年 東夷校尉文淑庚戌,免東安王繇及東平王楙,繇徙帶方。
291年 東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。
295年 この頃大鷦鷯天皇誕生。譽田天皇之第四子也。母曰仲姫命。五百城入彦皇子之孫也。
300年 新羅 倭国と国使を交換
304年 建武元年六月 東夷校尉崔毖,鮮卑大都督慕容廆等一百八十人上書勸進,
308年 永嘉の乱始まる。
316年 前趙の劉曜が西晋を滅ぼす。
317年 丁丑 倭は伽耶と共に朝廷に従わなかった。(東夷校尉崔毖から距離を置く?)
318年 司馬睿(元帝)が建康で即位し、東晋王朝を建てる。
319年 太興2年 鮮卑慕容廆襲遼東,東夷校尉、平州刺史崔毖高句驪。
170 : 唐松山 ◆V0F34EbmQA : 2010/07/24(土) 18:12:41
320年 神功46年 遣斯摩宿禰于卓淳國。
320年 太興3年 三月,慕容廆奉送玉璽三紐。
321年 太興4年7月 丹楊尹劉隗為鎮北將軍、都督青徐幽平四州諸軍事、青州刺史,鎮淮陰。
321年 同12月 十二月,慕容廆為持節、都督幽平二州東夷諸軍事、平州牧,封遼東郡公。
322年 永昌元年10月,以下邳內史王邃為征北將軍、都督青徐幽平四州諸軍事,鎮淮陰。
323年 癸未 神功49年3月 半島の占拠、再編成。千熊長彦に従う平州方面の人々の渡来。
323年 太寧元年 夏四月,巴東監軍柳純為敦所害。以尚書陳眕為都督幽平二州諸軍事、幽州刺史。 
326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
343年 仁徳天皇三一年正月丁卯《十五》立大兄去來穂別尊爲皇太子。
344年 ?即位か (書紀では応神紀に当たる、又は仁徳32年以降)
344年 新羅 倭国が花嫁を求めたが辞退
346年 新羅 倭軍が金城を攻撃
346年 応神3年 辰斯王立之失禮
352年 仁徳天皇四十年(壬子三五二)二月。納雌鳥皇女欲爲妃。
364年 新羅 倭兵が大挙して侵入
365年 仁徳天皇五三年(乙丑三六五)五月 新羅を攻める。即虜四邑之人民以歸焉。
370年 仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月◆冬十月。呉國。高麗國並朝貢。
371年 応神 二十八年秋九月,高麗王遣使朝貢,因以上表.其表曰:「高麗王教日本國也.」
372年 仁徳天皇六十年(壬申三七二)十月 差白鳥陵守等死役丁。時天皇臨于役所。爰陵守目杵忽化白鹿以走。
379年 仁徳天皇六七年十月丁酉《十八》◆丁酉始築陵。是日。有鹿忽起野中。走之入 民之中而仆死。時異其忽死。

372年 二年春正月辛丑,百濟、林邑王各遣使貢方物。
171 : 唐松山 ◆V0F34EbmQA : 2010/07/24(土) 18:33:15
空白の4世紀とは
書紀に書かれた仁徳は、西暦313年から399年となっている。
現実は、343年卅一年春正月癸丑朔丁卯 立大兄去來穂別尊 爲皇太子迄の大王であり
この後 河内に巨大古墳を築く。
この事業は民にとって苦難以外の何物でも無い。
だから苦難を強い、高句麗に負け、百済、新羅を奪われた大王が「仁徳」と呼ばれるわけが無い。
この悪逆非道の大王を、応神、仁徳で覆い隠してしまったのが、記紀ではないか?

神功渡海の後に、渡海派と残留組の戦いがある。
殺されたのは、忍熊王や五十狭茅、残留組と黙される人々である。
しかし政治的には、残留大和組が握る。
323年に半島を占拠し領土を百済に分与する。そして大量の平州人が渡来する。
この辺から、渡海、冊封東夷軍として活躍した河内方面が台頭する。

172 : 愛知県民 ◆/aQLbFNNDU : 2010/07/24(土) 20:13:27
太国氏、唐松山氏に共通するのは、纏向を崇神天皇が建設したという固定観念。
しかし記紀ともに、崇神は三輪山祭祀の創始者であっても、纏向の建設者ではない。
邪馬台国との関連は保留するが、纏向を築いたのは天皇家ではないと思われる。