http://menorah.seesaa.net/article/238963932.html
孝昭天皇─天足彦国押人命─押媛命、弟和邇日子押人彦命─彦姥津命(妹彦祁都比売命)─伊富都久命(丈部丸部祖)、妹袁祁都依比売命、弟彦国葺命(弟小篠命、弟乙国葦命)─建耶須禰命(子に八千宿禰命[吉備穴国造。安那祖)、弟大口納命(弟彦忍人命[丈部祖])─難波根子建振熊命(彦汝命、弟真侶古命)─米餅搗大臣命(弟日触使主命、弟大矢田宿禰命、弟石持宿禰命)─八腹木事(弟春日和邇深目、弟春日市河、弟春
http://www.dai3gen.net/bbs0103.htm
比古布都押信命
投稿者名: ペギラ (ホームページ)
投稿日時: 2001年7月9日 16時28分
建内宿禰の親ですが、
彦太忍信命という書き方になると、 「太」「忍」、、なんと大三元さんの世界じゃありませんか!
彦太忍信命には二人しか子供が、出ていませんが、 実は子沢山だったりして。 でも この子孫が、のち一大勢力になっていることを 指しているのか?
が単純に布都=物部になってしまうのか? |
[319] Re: 比古布都押信命
投稿者名: 大三元 (ホームページ)
投稿日時: 2001年7月9日 18時47分
> 「太」「忍」、、なんと大三元さんの世界じゃありませんか! > 彦太忍信命には二人しか子供が、出ていませんが、 > 実は子沢山だったりして。
忍、押、を アイヌ語の uos 次々と、と解いたのは、次々と 生まれてきたものに対して、で、次々と生んだ方では、ない (とりあえず、、、ね)。だから、彦太忍信命に兄弟姉妹が 多かったか、って話が取り敢えずポイントでしょう。父親を 同じとするものなら、一応5人ですね。母親から見ると、 この人は一人っ子ですね。
今まで積極的な例としては、 忍/押 の後に kor (持つ) kur(男)(kor の誤伝か) ka のようにk音があるものと po (子)を上げました。「信」は「マコト」としか読んでいないようなので イイガカリがつきません、 しかし、マコト、なんて語の語感って もっと新しいような気もしますが。。。んなこと言っててもしょうがないけど。
ところで葛城高千那毘売(ウマシウチの宿禰の母)が建内宿禰の母だと 面白いんですがねぇ。 何故、って「タカチ」ですから。(ナビメ、を 分けるのが不自然ですか? この姫さんの兄さんは「意富那毘」だから 「那毘女」もありかもよ。)
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[320] Re: 比古布都押信命
投稿者名: あきんど
投稿日時: 2001年7月10日 23時57分
> ところで葛城高千那毘売(ウマシウチの宿禰の母)が建内宿禰の母だと > 面白いんですがねぇ。何故、って「タカチ」ですから。(ナビメ、を > 分けるのが不自然ですか? この姫さんの兄さんは「意富那毘」だから > 「那毘女」もありかもよ。)
ということは 建内宿禰は尾張氏の出自となってしまいますね それはそれで面白いんですが 母の出自が 紀氏であるということは 十分面白いと思うのですが | |
[322] Re: 比古布都押信命
投稿者名: ペギラ (ホームページ)
投稿日時: 2001年7月11日 13時31分
ところで、この意富那毘さんって誰ですか? 尾張の系譜には見えないんですが?
この葛城高千那毘売ってのも誰?
旧事紀に タケモロクマの妹 オオアマヒメ(大海媛)の亦の名で 葛木高名姫がありますが、 時代が 孝元と崇神で、違います。
そしてこの孝元記の記述と旧事紀の系譜と微妙に違います。 孝元の子のスクナヒコタケイゴコロなんて 饒速日 七世孫 タケイココロオオネみたい?
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城高千那毘売は 先代旧事本紀には載っていませんが 海部氏系譜には9世孫として記されています。 但し年代は一致しません。 葛城高千那毘売の祖父である建諸隅命の妹が大海姫命ですからね 但し海部氏系譜では 大海姫命は、倭得玉彦命の妹とされています。 つまり葛城高千那毘売の叔母が大海姫命です。 また建諸隅命は、崇神紀に出てきますから 多分崇神と同時期の人物なんでしょう。 すると一見世代逆転が起こっているような気がしますが 崇神の孫の景行の時代に竹内宿禰は出てきます。 このように崇神朝を中心に見ると系譜的に齟齬はありません。
だとすると孝元と崇神朝は別系という可能性が出てくるんです。 | |
[328] Re: 比古布都押信命
投稿者名: ペギラ (ホームページ)
投稿日時: 2001年7月11日 18時50分
> それって > 海部氏系譜ですか?
今までそうだと信じていましたが(爆) 最終が海部直稲雄になっています。
また別件ですが、建諸隅と宇摩志麻治系の矢田部造の遠祖の武諸隅は、 別人なんでしょうか?
尾張系の建諸隅は孝昭の時で、妹が崇神の皇妃とは??? 宇摩志麻治系の武諸隅は、崇神の時代です。
尾張系の建諸隅は孝昭の時で、2代あとが意富那毘の孝元で 男系は合ってる。
すると大海姫が、整合していないんだ!! |
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[332] Re: 比古布都押信命
投稿者名: あきんど
投稿日時: 2001年7月15日 15時12分
> 今までそうだと信じていましたが(爆) > 最終が海部直稲雄になっています。
多分 それは 修正系譜じゃないでしょうか 海部氏系譜には 異伝や伝えが多く記されいます。 いちおう 基軸とする系譜はあるのですが 異伝系譜も多く併記されていまして 大変 混乱していて繋がりがよくわかりません。
> また別件ですが、建諸隅と宇摩志麻治系の矢田部造の遠祖の武諸隅は、 > 別人なんでしょうか?
先代旧事本紀の系譜を読むと 2人ともいますね これを見る限り別人ですね でも 同一人物のような気がするんですけどね
> 尾張系の建諸隅は孝昭の時で、妹が崇神の皇妃とは??? > 宇摩志麻治系の武諸隅は、崇神の時代です。 > 尾張系の建諸隅は孝昭の時で、2代あとが意富那毘の孝元で > 男系は合ってる。 > すると大海姫が、整合していないんだ!!
個別で見れば整合してるんですよね というより 狭い世代間ごとでは整合する。 しかし 全体で見ると 広い世代間にすると整合しなくなるんですよね | |
私の持っているのもペギラさんのものと同様 (大海姫命は建諸隅命{和多津見命}の妹、最後は海部直稲雄) これは、金久与市著『古代海部氏の系図』(学生社)の巻末に あるもので、その出典は籠神社に伝わる「丹波国造本記」の由です。
ここらは(も!)何回見ても頭が混乱して終わりになってしまう とこです。 | |
[334] Re: 比古布都押信命
投稿者名: あきんど
投稿日時: 2001年7月15日 18時17分
海部氏系譜 海部氏勘注系譜はあまりに量があるので 一部しかコピーしてないんです。
海部直等氏之本紀よると
彦火明命、その子として
天香語山命と穂屋姫命、可美眞手命の3児
天香語山命の子として 天村雲命、熊野高倉下の2児
また、天村雲命の亦名が 五十楯天香語山命となって います。
天村山命の子として 天忍人命、天忍男命、日女命、倭宿禰命、葛城出石姫命の5児
これが彦火明命の孫の世代です。
ちなみに、倭宿禰命の亦名が 天御蔭命となっています。
四世の孫 天忍人命の子として、天登目命。 天忍男命の子として、武額赤命 倭宿禰命の子として、笠水彦命
五世の孫 天登目命の子として、建登米命 武額赤命の子として、竹筒草命 笠水彦命の子として、笠津彦命
*倭宿禰命 ---- 笠水彦命 ---- 笠津彦命 ---- 建田勢命 ---- 建諸隅命
六世の孫 笠津彦命の子として、建田勢命
建登米命の子として、建田小利命と葛木高田姫命
七世の孫 建田勢命の子として、建諸隅命となっています。
建諸隅命の亦名を見ると、彦由牟隅命、彦国忍人命、倭得魂命、常根津彦命、 天御蔭命の弟和多津見命、大海彦と面白い名前が並んでいます。
一応、異伝として、大海姫命を妹とすると記されていますが あくまで、正伝は、日本得魂命と大倭姫命を子としています。 また、建諸隅命の弟として、和多津美命などが居たという伝えがあるそうです。 どうも、建諸隅命は、弟達や子である倭得魂命と記録が混在しているようです。 多分 これが混乱の理由のようです。 続いて
八世の孫 建諸隅命の子として、日本得魂命、大海姫命、大倭姫命の3児
そして、面白いことに 大日諸の娘を娶って、生まれたのが、この3人なんです。
そして 日本得魂命の亦名に 葛木彦、饒速日尊、御眞津彦命とあります。
これは、妄想爆発です。
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http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/10/post_04e2.html
『古事記』の中にある「尾張氏」関連の記載されているものを全部取り出してみると、まず一番最初に出てくるのは、瓊瓊杵命(ニニギノミコト)「天孫降臨」の時です。天火明命(アメノホアカリノミコト)となって、まさに天照大神の直系として登場するのです。
「尾張」という名で出てくるのは孝明天皇の時、尾張連の祖沖津余曾(オキツヨソ)の妹「余曾多本毘売命(ヨソタホビメ)」。ここで天皇家の外戚としての尾張の名が正式に登場します。
次が 孝元天皇の代、
意富那毘(オオナビ)の妹 葛城の「高千那毘売(タカチナビメ)」が 嫁ぎ、
崇神天応の代に「意富阿痲比賣(オオアマヒメ)」、で、
次ぎに 出てくるのが「草薙の劔」の「美夜受比賣」、
応神天皇の世になると、尾張連の祖、品陀眞若王の娘「弟日賣(オトヒメ)」が 天皇に 嫁ぐ。
しかし この後 何代も「尾張」の名は出てこなくなる。天皇家の流れが「尾張」と関係の無い系譜となったからである。
「尾張」の名が復活するのは継体天皇の世になってからである。その理由は前の武烈天皇には子がなかったからで、現在も皇位継承問題で皇室典範改正の動きがあったが、この時も何代も遡って皇位継承者を捜したのだろう、「天火明命(アメノホアカリノミコト)」まで遡って、継体天皇へと繋いだ。まさに名が現すように「国体を継ぐ天皇」であったわけだ。 |