http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E4%BB%81#.E5.8F.A4.E8.AA.9E.E6.8B.BE.E9.81.BA
古語拾遺 [編集]
『古語拾遺』では「至於輕嶋豐明朝 百濟王貢博士王仁 是河内文首始祖也 (中略) 至於後磐余稚櫻朝 三韓貢獻 奕世無絶 齋藏之傍 更建内藏 分收官物 仍 令阿知使主與百濟博士王仁 計其出納 始更定藏部[2]」
と軽島豊明朝(応神天皇)の時に百済王が博士王仁を貢ぎ王仁は河内の文首の祖となり、後磐余稚桜朝(履中天皇)の時に 斎蔵に内蔵の蔵部を定め出納を百済博士王仁にさせたとする。
大和期から見える地名伊波礼・石村・石寸などとも書く天ノ香具山の東北麓にかつて存在した磐余池付近から西方へ及ぶ地域大和の平野部から宇陀の山間部への入口に位置する地名の語源については「屯聚【いわむ】」「石像【いわあれ】」「断崖・峡隘の要害地」を意味する外来語,「石根【いわね】」などの説がある?磐余邑・磐余村神武即位前紀戊午年9月戊辰条に「兄磯城の軍ありて,磐余邑に満【いわ】めり」と見える磐余の旧名は片居または片立と称したが,皇軍が虜を破るに至り,大軍が当地に充満したので地名を改めて「磐余」と称するとあり,また,磯城【しき】の八十梟帥が屯聚した場所なので「磐余邑」としたともある(神武即位前紀戊午年8月戊辰条)ちなみに神武天皇の和風謚号は神日本磐余彦天皇(神倭伊波礼毘古命)と称した(神武即位前紀・古事記神武段)雄略朝には,水間君が献上した養鳥人らを軽村と磐余村の2所に安置したとある(雄略紀10年10月辛酉条)坂上系図(続群7上)所引「姓氏録」逸文に「石村村主」と「石村忌寸」が見える?磐余神功皇后および履中・清寧・継体・用明・敏達各天皇の宮伝承地まず,神功皇后は磐余に都をつくり,若桜宮と称したとあり,稚桜宮で崩じたとも見える(神功紀摂政3年正月戊子条・同69年4月丁丑条)「延喜式」諸陵寮は磐余稚桜宮御宇神功皇后とし,「古語拾遺」は神功皇后の治世を履中天皇の「後稚桜朝」に対して「磐余稚桜朝」と記す「帝王編年記」は所在地を「十市郡磐余池里」に比定するが,神功皇后の実在性は乏しいと考えられている次に,伊邪本和気命(履中天皇)は伊波礼の若桜宮で天下を治めたと伝承される(古事記履中段)宮号の由来については,履中天皇が両岐船を「磐余市磯池」に浮かべて遊宴した時,膳臣余磯が酒を献じたすると,桜花がさかずきに落ち入ったので,物部長真胆連を遣わして桜花を求めさせたところ,掖上室山に得て献上した天皇はその希有なることを喜び宮号としたという(履中紀3年11月辛未条,姓氏録右京神別上若桜部造・和泉国神別若桜部造)「延喜式」神名上の城上郡35座のうちに若桜神社が見え,現在,桜井市谷と同市池之内字稚桜にそれぞれ若桜神社と称する神社がある磐余池と若桜の関係に注目するならば,後者が有力と考えられる(桜井市史上)次に白髪大倭根子命(清寧天皇)は「伊波礼の甕栗宮」で天下を治めたとあり(古事記清寧段),有司に命じて壇場を「磐余の甕栗」に設け,天皇即位し,宮を当地に定めたとも見える(清寧紀元年正月壬子条)「扶桑略記」が宮の所在地を添上郡に比定するのは誤り「帝王編年記」は清寧天皇の諱シラカから十市郡白香谷に比定,「大和志」は池内御厨子邑にありとする白香谷の位置は不明だが,現在の橿原【かしはら】市東池尻町に御厨子神社が残る次に,品太王(応神天皇)の5世の孫,袁本杼命(継体天皇)は伊波礼の玉穂宮で天下を治めたとされ(古事記継体段),磐余の玉穂に都し,磐余玉穂宮で崩じたともある(継体紀20年9月己酉条・同25年2月丁未条)「常陸国風土記」行方郡条には,継体天皇を石村玉穂宮大八洲所馭天皇と表記する宮の位置は不明だが,継体天皇の子,勾大兄皇子と春日皇女の歌謡に「磐余の池」が詠まれているので(継体紀7年9月条),この付近と推定される(地名辞書)次に,敏達天皇の訳語田幸玉宮(古事記敏達段,敏達紀4年是歳条)について,「扶桑略記」「帝王編年記」「玉林抄」はいずれも十市郡磐余訳語田宮と表記するので,訳語田も磐余の範囲に含まれていたことになる現在の桜井市戒重付近に比定される(桜井町史・桜井市史上)次に,橘豊日命(用明天皇)は池辺宮で天下を治めたとあり(古事記用明段),磐余に宮をつくり,池辺双槻宮と称したともある(用明即位前紀)宮号は,磐余池のほとりに槻の木が並び立つ場所があったことに由来するかなお欽明天皇の子,穴穂部皇子は敏達天皇の殯宮を守る三輪君逆を殺そうとして物部守屋と兵を率いて磐余の池辺を囲んだとあり,蘇我馬子は磐余の池辺に行き,皇子をいさめたともある(用明紀元年5月条)「上宮聖徳法王帝説」(寧遺下)は伊波礼池辺宮治天下橘豊日天皇,「延喜式」諸陵寮は磐余池辺列槻宮御宇用明天皇と表記するまた,用明天皇陵は「石寸の掖上」と伝承されるが(古事記用明段),「磐余池上陵」ともあり(用明紀2年7月甲午条),掖上は池上の誤りで,池上はイケノヘと訓むこともできる「和名抄」に見える十市郡池上郷内に比定されるさらに,崇峻天皇の宮は倉椅柴垣宮(古事記崇峻段)または倉椅宮(崇峻即位前紀8月是月条)とあるが,「上宮聖徳法王帝説」には石寸神前宮の名も見えるすなわち法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘に記す「鬼前太后」は神前太后と同じで,穴穂部間人皇女を示し,皇女が同母弟の崇峻天皇石寸神前宮に居住していたからであると説明される「万葉集」にも,春日蔵首老の歌や弓削皇子に献呈された挽歌に泊瀬山や城上の道とともに「つのさはふ石村」が詠まれる(282・3324)磐余池は市師池とも称され,履中天皇や本牟智和気王が舟遊びをしたと伝承される磐余はかつて池が存在した現在の橿原市池尻町・桜井市池ノ内を中心とする地域?磐余道「万葉集」巻3に「つのさはふ磐余の道」と詠まれる(423)題詞によると,石田王が死去した時,山前王が哀傷して詠んだ歌という左注には柿本人麻呂の歌ともある「つのさはふ磐余も過ぎず泊瀬山」(282)も同じ道を示すか磐余道は,一般に「阿部の山田の前の道」(霊異記上1)や「山田道」(万葉集3276)を示し,その北半分を指すとされるなお,磐余池を通る古道と考え,天ノ香久山の東側を越える道とする説もある?磐余山「万葉集」巻13に弓削皇子へ献呈されたと思われる挽歌に「つのさはふ磐余の山」と詠まれる(3325)「延喜式」神名上の十市郡19座のうちに石村山口神社が見え,現在の桜井市谷に比定されるただし,旧社地は南方の字丸山の丘陵に所在したといわれる(桜井市史上)なお,現在の桜井市高田に山口神社があり,これを式内社に比定する説もある天平2年の大倭国正税帳(正倉院文書/寧遺上)十市郡条に,石村山口神戸の租稲811束のうち4束を祭神料に充てたとあり,「新抄格勅符抄」大同元年牒には,「石寸神」に対し神封2戸と定められている貞観元年「石寸山口神」は従五位下から従五位上に神階を昇叙され,風雨祈願のため「石村山口神」らに奉幣の使者が派遣された(三代実録貞観6年正月27日条・同9月8日条)大和六所山口神の1つで,「山の口に坐す皇神等の前に曰さく,飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無と御名は曰して」と見える(延喜式祈年祭・六月月次祝詞)祈雨神85座の1つでもある(延喜式臨時祭)現在の桜井市谷の南西部丘陵を磐余山と称し,当地に残る東光寺跡の山号も磐余山と号し,寺伝によれば崇峻天皇の頃に創建されたという「万葉集」に「つのさはふ磐余も過ぎず泊瀬山何時かも越えむ夜は更けにつつ」春日蔵首老(282),「麻裳よし城上の道ゆつのさはふ石村を見つつ」(同前3324),「つのさはふ 磐余の道を 朝さらず 行きけむ人の 思ひつつ 通ひけまくは」山前王(423),「つのさはふ石村の山に白たへにかかれる雲はわが大君かも」(3325)と詠まれる
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