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第15代 応神天皇が 宮居を 営んだ 橿原市 大軽町
応神天皇 軽嶋 豊明宮址の碑が 建つ 春日神社
■河内王朝論者によれば、第15代応神天皇は河内王朝の創始者とされている。確かに、河内の古市墳群にある誉田御廟山古墳(伝応神陵)や和泉の百舌鳥古墳群にある大仙陵古墳(伝仁徳陵)など巨大な前方後円墳が、大阪平野に現存している。記紀には、15代応神は難波の大隅宮に、16代仁徳は難波の高津宮に、18代反正は丹比(大阪府羽曳野)柴垣に、それぞれ都を置いたと伝えている。その意味では、河内王朝時代に大阪平野に強大な政治権力の拠点があったことは十分納得できる。
■しかし、応神天皇が 都を置いたのは、難波の大隅宮だけでは ない。記紀は現在の橿原市 大軽町にも 軽嶋 豊明宮(かるしまのとよあきらのみや)を置いたことを伝えている。さらに、『古事記』は「品陀和気命、軽嶋の明宮に坐しまして、天の下を治らしめしき」と記す。『日本書紀』も「応神41年春2月、天皇明宮に崩りましぬ」と記す。こうした記述を見る限り、なぜ河内王朝論が成り立つのか不思議だ。
本明寺の境内から春日神社を望む 応神天皇軽嶋豊明宮址の碑
■応神天皇の軽嶋豊明宮址とされる場所が、本明寺の背後から望むことができる。谷を挟んで西側の丘陵に鎮守の森が見える。大軽町の春日神社である。『大和志』以来、この春日神社付近に軽嶋豊明宮があったとされ、神社の片隅に「軽嶋豊明宮址の碑」が建っている。
宮址の碑の横にある万葉歌碑
■その碑の横に万葉歌碑が置かれている。刻まれているいるのは、 作者不詳の次の歌である。揮毫(きごう)は奈良女子大学名誉教授・小清水卓二教授である。
●天(あま)飛ぶや 軽(かる)の社(やしろ)の 斎槻(いはひつき) 幾世まであらむ 隠妻(こもりづま)そも(巻11-2656)
【大意】軽の社の槻(=ケヤキ)のように、いつまで人目を憚(はばか)っている妻なのであろうか。
■春日神社から集落の中の坂道を少し南に下ると、目の前に広い空間が広がる。そこに長々と横たわるのは、全長310mの前方後円墳の巨大な姿だ。奈良県では最大、全国でも第6位にランクされる見瀬丸山古墳である。墳丘の大部分が五條野町に位置しているために、最近では「五条野丸山古墳」という呼び名が一般化してきている。不思議なことに、古墳時代後期に築造されたこの大古墳の被葬者がまだ特定されていない。
見瀬丸山古墳
五条野丸山古墳
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