http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/20/l50
大毘古(大彦)の息子の建沼河別(武渟川別= たけぬなかわわけ)は 東海道12道を遠征した。
*伊迦賀色許売命(イカガシコメ)
*内色許売(うつしこめ) = 内色許男命(うつしこお)の妹.
(崇神記)
木国造、名は荒河刀弁の女、遠津年魚目目微比賣を娶り、生みませる御子、豊木入日子。次に豊鋤入日賣。
また尾張連の祖 意富阿麻比賣を娶りて、生みませる御子は、大入杵、次に八坂入日子、次に沼名木入日賣、十市入日賣。
また大毘古の女、御真津比賣を娶りて、生みませる御子、伊玖米入日子伊沙知、次に伊邪能真若、次に国片比賣、次に千千都久和比賣、次に伊賀比賣、次に倭日子。
- 木国造= 遠津年魚目目微比賣(荒河刀弁の女)・・豊木入日子、豊鋤入日賣
- 尾張連の祖= 意富阿麻比賣・・大入杵、八坂入日子、沼名木入日賣、十市入日賣
- 御真津比賣(大毘古の女)・・伊玖米入日子伊沙知(垂仁)、伊邪能真若、国片比賣、千千都久和比賣、伊賀比賣、倭日子
*意富阿麻比賣=
*御真津比賣は、垂仁天皇の女である。
*大毘古=孝元天皇.
*伊邪能真若= 彦五十狭芹彦= 垂仁天皇の 父.
1・2の子は「入日子・入日賣」であって、九州朝倉から大和に入り到ったものである。したがって木国も和歌山ではなく、九州の基肄国(福岡・佐賀県)である。大入杵とは、意富阿麻(大天)比賣に対応する注目すべき名であって、垂仁の伊玖米入日子伊沙知を上回る。
3の御真津比賣は、大毘古, 御真津日子の娘である。
よそ者の崇神が、葛城(御所市・橿原市)の王であった大毘古の娘と通婚することで、三輪への移住の正当性を得るのである。継体や欽明もまた同じ方法で皇位に着く、その先例である。神武が娶った伊須気余理比賣を、大物主神の子と設定する(潤色)のも同じである。「天皇の子でなければ天皇になれない(血統)」という皇統譜の原則に対して、「天皇の娘を娶れば天皇になれる」という例外が認められる考え方・制度が、いつ確立したのかは興味深い。
伊玖米入日子伊沙知(垂仁)は、上述の通り御真津比賣との子ではない。では母はだれか。
崇神の王位を継承することから、尾張連を名乗る意富阿麻(大天)比賣の子であることは間違いない。
「木国造の荒河刀弁(女性の名)」の国造は文飾であり、刀弁は戸女であって身分は低い。
真若とは総領であり、大毘古本統の跡継ぎの意味である。
大毘古には建沼河別という子がいるが、それを継いだとみられる。
*伊邪能真若-- 垂仁天皇-- 御真津比賣である。
(大毘古は高志国が 故地であり、) 応神記紀の気比大神(高志の道の口)の 伊邪沙和気につながってゆく。大和王権のルーツの一つである。
*大毘古=孝元天皇.
欠史八代と同様に、崇神系譜もまた、いくつかの王統の系譜を混在したものである。
御真津比賣の子とする「倭日子」にも注が付されている。
(崇神記) この王の時、始めて陵に人垣を立てき。
(垂仁紀28年) 倭彦を身狭(musa)の桃花鳥坂(tukisaka)に葬りまつる。是に近習者を集め、悉くに生きながらに陵の域に埋めて立つ。日を経て死なずして、昼に夜に泣き呻(u)めき。遂に死にて朽ち腐りき。犬烏集まりて食む。
倭日子(倭彦)とは、倭国の王である。倭国とは、福岡市西区・早良区の神武紀の「忍坂の大室の磯城(室見川流域)」を指す。後漢王朝に朝貢した師升王の国である。紀は大和を舞台にしたものと解釈して、桃花鳥坂を築坂とするが身狭の比定地はない。つまり、九州倭国の王統系譜すら崇神系譜に入れている。倭日子の殉葬が崇神期に当たるとみて、同時代史料として採録したのである。崇神は三世紀中頃亡くなって(いわゆる記の崩年干支による)おり、三世紀前半の倭国の王とすれば、『魏志倭人伝』の倭載(卑弥呼の男弟?)であろう。
垂仁期の倭比賣、景行期の倭根子・倭建など「倭+称号または名」はすべて九州の倭国の王族である。古事記の倭が大和を指すのは、神功以降である。紀は倭を「日本」と言い換えているため、文章の前後から推定するほかない。この倭彦は、九州倭国を指す。
記紀とも大和の歴史を編纂したのではない。九州を含む日本の歴史を記述したのである。また大和王朝は倭国を自称しているのであって、倭国の歴史もまた大和の歴史である大義名分に立つ。それ故に、平然と九州の倭国王倭日子を崇神の子であると位置づけるのである。倭国皇子の倭建を景行の子とするのも同じである。皇統譜は、天皇の血族の史実を記録したのではない。並立する各地の王をすら組み込んだ疑似血縁系譜に表現したものである。
*大毘古(大彦)= 孝元天皇
*建沼河別(武渟川別= たけぬなかわわけ)=
*伊邪能真若(いざのまわか)= 垂仁天皇の 父.
*伊迦賀色許売命(イカガシコメ)
http://kumoi1.web.fc2.com/CCP091.html
○天日腹大科度美(あめのひばらおおしなどみ)神。出雲国風土記の大原郡の條に日原社がある。延喜式神名帳では、丹後國加佐郡にも日原神社がある。科度美は、書紀に出ている風の神、「級長戸邊(しなとべ)」とよく似ている。【ただし「戸邊」は一般に女の名である。】また神名帳には、河内國 石川郡に 科長(しなが)神社がある。【「級長戸邊」も「級長」を「しな」と読んでいるので、この神名の「科」も「科長」の意味だろう。】その父神の「布忍」の名も、前記のように今の河内の地名にあるので、この地に由縁がありそうである。「度美(どみ)」というのは、中巻の終わりの方に「菅竈由良度美(すがのかまゆらどみ)」という名があるが、それは女の名である。こちらは「富」の意味で讃えたのだろうか。
*荒河刀弁(あらかとべ) = 級長戸邊(しなとべ)=
http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/20/l50
東海道12道とは、伊勢(伊賀いが、志摩しま)、尾張、三河みかわ、遠江とおとうみ、駿河、甲斐、伊豆、相模さがみ、武蔵むさし、総(上総かずさ、下総しもうさ)、常陸ひたち、陸奥をいう。
「日本書紀」孝元7年、兄大彦命は、是、阿倍臣、膳臣(高橋)、阿閉臣、狹々城君、筑紫国造、越国造、伊賀臣、凡そ 七族の始祖なり。
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神武の子の二代天皇 綏靖の兄、神八井耳命
「姓氏録」によると、神八井耳命を直接の祖とする一族は、志紀・園・火・松・茨田・松津族などあり、きりがありません。また「古事記」には、それ以外として、意富・小子部・坂合部・大分・阿蘇・筑紫の三宅・雀部・小長谷・都祁・伊余国造・科野国造・石城国造・仲国造・長狭国造・伊勢船木・尾張丹波族の祖となっています
大和国 十市郡 飫富郷に多座弥志理都比古神社があり、現在の奈良県 磯城郡 田原本町 多に あたります。「多神宮注進状」によると、八井耳命これを創斎し、その母族の従兄弟にあたる春日県主 遠祖の大日諸命を祭司とし、崇神朝に十市の太郷に神社を建て、此の社の旧名は春日宮といったが、後に多神社という、とあります。その経過はひどく複雑であると同時に、多氏の周辺には母系をとおして、磯城氏・十市氏および春日氏などが複雑に絡み合う
神八井耳命と綏靖の母族は、母の姫蹈鞴五十鈴姫命の生地、摂津国の三嶋溝杭族ですが、兄弟は倭国で父神武が出世したと風の便りに聞き付けて、父の側へ上京して、兄は多氏へ入り婿、弟は父の跡継ぎとなった
http://6308.teacup.com/kakunodatebukeyasiki/bbs/38
┌八嶋志奴美命──天葺根命──清武豊彦命……〔日御碕神社神職家〕【日置氏】【小野氏】
│
│ ┌下照比売命
│ │
素戔鳥尊─┴大国主命─┼事代主命─┬天日方奇日方命──┬健飯勝命──健甕尻命──豊御気主命──────┐
│ │ │ │
│ ├媛蹈鞴五十鈴媛命 ├淳名底仲媛命 │
│ │ │ │
│ ├五十鈴依媛命 └磯城津彦命……〔磯城県主〕 │
│ │ │
│ └天八現津彦命──観松比古命─┬大日腹富命……〔億岐国造〕【隠岐氏】│
│ │= 孝昭天皇 │
│ └建日別命─伊侶止乃命─八上乃命 │
│ = 建沼河男命 (長氏/長宗氏/凡氏へ)│
│ │
│ │
├建沼河男命……【越氏】 │
│ │
├健御名方命……〔洲羽国造〕(諏訪氏へ) │
│ │
└国忍富命………〔須佐神社神主家〕【稲田氏】【須佐氏】 │
│
┌─────────────────────────────────────────────┘
│
│ ┌吾田片隅命……(宗像氏へ)【和仁古氏】
│ │
│ │ ┌大鴨積命【賀茂氏】【鴨部氏】【三歳氏】【石部氏】
│ │ │
└大御気主命─┴健飯賀田須命──大田田根子─┼大御気持命───大友主命(三輪氏へ)
│
├田田彦命【大神氏】【神部氏】【神人氏】
│
└大禰希知命【神人部氏】
http://www.geocities.jp/okugesan_com/abe.htm 阿部家譜(備後福山)による系図。
孝元天皇 = 大毘古命 ┬ 武沼河別命 ┬ 豊韓別命 ┬ 雷別命 ─ 阿加古宿禰臣 ⇒
│ │ └ 鐸石命(竹田臣祖)
│ ├ 意布比命(杖部造・那須直祖)
│ ├ 木事命
│ └ 大屋田子命
├ 比毛由比命(日下連・大戸首祖)
├ 彦背立大稲腰命 ┬ 磐鹿六雁命
│ └ 彦屋主田心命
├ 御間城姫命
├ 波多武日子命
└ 得彦宿禰命
⇒ 稚子臣 大籠臣 忍国臣 大麿臣 目臣 比羅夫 ⇒
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/keifu/keizu00.htm 阿波忌部
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-9.html
10.息長氏考
1)はじめに
「息長 」を一般的には、
イキナガ、オキナガと読む。
キナガ、シナガとも呼ぶらしい。
「気長」「磯長」「科長」「級長」「師長」などとも記される。
その意味も色々言われており、「息が 長い」「風を 吹く」などがあり、息長氏は潜水を専門とする海人、いや風の神で製鉄の民である、などと言われている。
息長氏はその始祖を誰にするべきか、謎である。
一般的には(古事記)応神天皇の孫である 意富富杼王(オオオド)(別名:大郎子)が息長氏祖とされている。
しかし、息長真手王説もありよく分からない。
というのも、歴史的に「息長」という文字をその名前につけている人物が上記2人以前にも多数記紀に記されてあるからである。
一番 古いと思われるのは、天御影神娘「息長水依比売」(淡海御上神社)で、9開化天皇の子供「日子坐王」の妃となった女性である。
これは 天津彦根神の流れで明らかに 神別氏族である。
次ぎは日子坐王の曾孫として息長宿禰王、その娘が「息長帯日売」こと「神功皇后」である。
なんと言ってもこの人物が一番の有名人である。
また別系統である日本武尊の子供に「息長田別王」なる人物が古事記には記されており、
その流れから応神天皇妃「息長真若中比売」がいる。
この二人の間の子供が、上記息長氏祖と言われている大郎子の父若沼毛二俣王が産まれているのである。
彦坐王にしろ日本武尊にしろ皇族なのでこの流れは皇別氏族である。
息長氏は新撰姓氏録では皇別氏族に分類されている。
さらに舒明天皇の名前は「息長足日広額天皇」である。
これは、息長氏出身の天皇ということを表しているとのこと。
天武天皇の時、新たな氏族分類制度が導入された「八色の姓」。
この時最も高貴な姓である「真人」姓の筆頭に息長氏が位置付けられた。理由は、時の天皇家の祖26継体天皇は、息長氏であり、蘇我氏の血が入ってない「押坂忍人大兄皇子」の母親は、息長真手王の娘で「息長氏」である。
天智天皇も天武天皇もこの流れであり、天皇家にとって最も大切な氏族は、息長氏であると認定されたのだという説が強い。
他の「真人」姓はその息長氏の近い親族、及び継体天皇以降の天皇家から分かれた皇別氏族であった。と言われている。
ところが筆者の調査した範囲では、歴史上記録に残っている息長氏らしい人物は、継体天皇以降では、息長山田公なる人物唯一人である。
系譜らしきものも残されていない。不思議である。
一般的には息長氏は、和邇氏等と同じく天皇家を その皇族などに 妃を供給する形で 蔭で支えてきた 氏族で、政治的には 決して 表に表れなかった 氏族であったとされている。
即ち天皇家の血筋を(天孫族として)常に綺麗?真っ当な状態に保つための氏族という役割に徹した特殊な存在であった。とも言われている。しかし、謎だらけの氏族である。
記紀だけの記述では、一番 天皇家にとって大切な氏族のはずなのに、その系図がすっきりしてない。その出自もよく分からない。
何故であろうか。
一方「和邇氏」の系図はしっかり残されており、平安時代の小野氏(小野道風、小野小町など)までかなりはっきりしている。
日本の古代史上謎とされている重要人物の多くが、息長氏と絡んでいる。
「彦坐王」「天日矛」「日本武尊」「神功皇后」「応神天皇」などである。
これらの人物の存在を正当化するために、記紀編集者らが、息長氏なる架空の人物群を導入したのである。とか、天武朝で「真人」姓に認定された息長氏関係者が その先祖を飾りたくて編集者らに圧力をかけ、記紀系図を改竄したのである、など諸説紛々である。
最近「大阪府全志」に採録されている「北村某家記」記載の息長氏の記録の裏付け調査、琵琶湖 周辺の息長氏 関係地域の発掘調査などが進んでいるようである。
新たな解釈も出ているようであるが、これらも参考にして筆者なりの謎解きに挑戦してみたい。
前稿の「継体天皇出自考」と非常に関連が深い。京都府京田辺市、琵琶湖周辺、旧摂津国界隈、
我が「乙訓郡」地域も色々関連してくる非常に面白い謎解きである。
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