倭(왜)

和知津美 多芸志彦命 多祁太努美命

라디오에요 2011. 11. 8. 15:39

http://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki/e/b9f60bdd045858b6e054121707de14f6

前回記載の三輪考察で
「大國魂神は渟名城稚姫命が最初に祭祀しているので尾張氏系であるが
その後に市磯長尾市宿禰(いちしのながおちのすくね) が
祭祀したので宇豆毘古(椎根津彦)=海部氏系統の祖神とも言える。
海部氏も尾張氏も彦火火出見尊を祖とする海人族系と考えられる。」
と記載したが籠神社の祭神は
彦火明命(=天火明命=天照御魂神=天照国照彦火明命=饒速日命)となっている。
実は以前籠神社を参拝したときに
ここの祖神は倭宿禰命=宇豆毘古=椎根津彦だと感じている。
(これより古い話は神話にもなるのだが)
だとすると祭神は彦火火出見尊=海神族となろう。
問題は饒速日命と繋がるかである。
あるいは饒速日命が海神族であるかということである。
物部氏の祖が饒速日命であることは動かしがたいのだが、
物部氏は海神族とは思えない。
どう考えても海部氏と饒速日命を結びつけるのには
無理があると自分には感じられる。

ただ家系図的には、彦火火出見尊が豊玉姫と婚姻して
海神族の血が入ることになったので
物部氏と尾張氏・海部氏が同族であったことを完全に否定出来る訳ではない。

また物部氏と尾張氏には協力関係があったとも言われており
尾張氏が祀る彦火火出見尊と物部氏が祀る天火明命が同一神であると
された可能性もある。
住吉大社は尾張氏の系統の神社であるが、
もちろん海神族としての系統の神社であり
尾張氏には海神族の自覚はあったものと思われる。
では熱田神宮はどうなのかという話にもなるが
その内にもう少しまとめたいと思う

 

http://www.dai3gen.net/kessi8.htm

大きく観察すると、書紀本文が 事代主系を 主張しているのが、よく見えます。

磯城系、と仮称した 第1の一書は、殆どが 磯城県主を 出自として います。

第2の一書は、春日系(1例)、磯城系(1例)、十市系(2例)と分布しています。

それで、2例を 数える十市系と仮称しました。

 

古事記は、どう表現出来ましょうか、なんか、平均的な見解の様にも窺えます。

表には 加えなかったのですが、先代旧事本紀は 大体、日本書紀と同説、と理解しました。

大体、と申しますのは、実は、先代旧事本紀は、5孝昭 、6孝安 辺りに、

乱丁(原文からの既に乱丁しているのか、小生の持っている「大野七三編著」版が ミスっているのか 不明)が ある為、です。

 

さて、書紀本文は、綏靖妃が 五十鈴依媛(上表でのブロック20)だとしている一方、磯城系の女性である、との異説も あります。

彼らの子供(安寧天皇)の名前を 見て みると、「師木津日子玉手見」で、母系の「シキ」を 貰って きているように見えます。

この安寧天皇の第3子にも「師木津日子」が 居り「シキ」を引き継いでいます。こんな事から、綏靖妃や安寧妃には「磯城系」の女性を宛てると、名前のつながりは 良く なります。

参照上表

 

次に、磯城系の一書を眺めて行きますと、「磯城県主女」(磯城の県の主である葉江、または、葉江の男弟、の娘)が4代に亘って皇妃になっています。これは、本当だとすると、「葉江」さん、とは一人の人物ではなく、歴代の職名乃至は 親子の襲名みたいなものなのか、と思われます。(或いは、もっと大胆に、従ってここに4代もある訳ない、1代に短縮すべきなのだ、なんて言説も可能になるのでしょうか。)

 

面白いのは、神武紀に、神武天皇が 征伐した 兄磯城、と懐柔された 弟磯城の事が 出てますが、その弟の名前を「弟磯城黒速」としており、論功行賞として、「磯城県主と為す」とあります。

 

黒速」は「クロ・ハヤ」と読んで良いでしょう。

一方、「葉江」は、カタカナでは「ハエ」としか書けませんが、

「江」は「ヤ行」の「エ」であった、とされています。

(橋本進吉、「文字及び仮名遣の研究」P192-)。同様に、古事記の表記「波延」(上表34)の「延」も「ヤ行」の「エ」とされており一貫性があります。

 

つまり、神武東征説話の「弟磯城黒速」から欠史時代の「葉江」に連続性が確認されます。なお、ブロックの41に「男弟」と云う表現があります。これは、原則として敢えて「男」と書かない限り「弟」とは 女性の意味になるからなのでしょうか。

 

次に十市系とした第2の一書を見てみます。上表22の皇妃の親の名前が、

大日諸」、次代では、「大間宿禰」(32)となっています。

ここで、「大日」は 間違いで「大目」が正しいとすると、32の「大間」に通じる 様に思えます。

これは 後代(70、73)にも「大目」が出てくるので、「日」の字は「目」の間違いかも知れません。つまり、「大日諸」と「大間宿禰」は同一人物(或いは直系の親子関係にある)か、と言う事です。

参照上表

 

「糸織媛」と「糸井媛」も発音が近いように思えます「イトリ媛」が原形だとすると,この二つに分化して(訛って)漢字表記されたとしても、理解出来そうです。

42の「磯城県主太眞稚彦」と言うのが次に話題を提供してくれます。即ち、これをヒントに「大目」も、実は、「太目」だったのではなかろうか、と言う事です。

 

「フトマ」が本来で、それを書いて行く内に「太眞」→「太目」→「大目」→「大間」などと誤写されて来たように思われます。(誤写、などとはウカツに言ってはいけないのでしょうが、こういう議論を経れば仮説としては許して貰えるでしょうね。)

 

「フトマ」と読むに就いての追加の味方は、古事記43に「賦登麻和訶比賣」が居るようですが、チョット問題が残っています。

それは、「太い」と言う意味の「フト」の「」は、いわゆる甲類の「ト」だと思うのですが、(参照:神代紀、「太占」を「布刀磨爾」と訓む、とあり、ここの「刀」は甲類)、「登」は乙類なのです。

これの整合を取る仮説が3つ考えられます。

 

一つは古事記に「賦登麻和訶」と書いた時点では、既に甲類乙類が消失していた。→古事記偽書説への味方か? もう一つは、ここの「フト」は、実は「太い」の意味ではない、、、では何か?

 

もう一つは、「太占」は何も「太い」意味では無い。

単に外来語(?)を写しただけ?

 

ふとまわか  フトマワカ  futomawaka

【太真稚彦・賦登麻和訶】<人名>
「おおま」の分け身(子)。

「ふとま」+「わか(分・若)」。
「ふとま」は「ふとむ(太む)」の名詞形。
「ふとむ」は、ここでは 正の方向(大・多・太・高・前・熟・明・沸)に「離れる」で、「高まる・勢い付く・栄る・熟れる・優れる・勝る・至る」などの意。
「ふとま」は、おそらく父の「おおま」と同義。

http://www.dai3gen.net/futo.htm

フト、について考えてみました。

第4代 懿徳天皇(おほやまとひこすきとも)の妃に関して 日本書紀の 一云に

「磯城縣主 太真稚彦女 飯日媛也」とあり縣主の名前を「フトマワカ」と読む。

一方、古事記は「師木縣主之祖 賦登麻和訶比売命 亦名 飯日比売命」とする。

これも、フトマワカではある。親の名前なのか 姫様本人の名前なのかは 混乱して いるが、

今それは問わない。今、問うのは 書紀が「太」で表した「フト」と古事記が「賦登」で表した「フト」の異同に関してである。

これを考えるのに「太」の用例を調べる。

 

用例 古事記 日本書紀 コメント
神代紀の「太占」p85   布刀磨爾 刀は甲類
神代紀「太玉」      
神代紀「太諄辞」p119   布刀能理斗 刀も斗も甲類
考霊天皇名 大倭根子日子賦斗邇命 大日本根子彦太瓊 斗は甲類

 

このように、太い、の「フト」の「ト」は甲類で書いているものが(少なくとも)3例ある。にも関わらず冒頭に掲げたように書紀の「太真稚」が古事記では「賦登麻和訶」と「登=ト乙」が使われている。

何故だろうか:

  1. 古事記の用字「登」が 間違いである
  2. 書紀が「太」字を 宛てたのは 間違いである
  3. その他

実は「賦登」は 和語の「太い」の意味ではなかったのではないか。しからば何か。他所でも多くの事例を示しているようにこれも 縄文語起源で アイヌ語で 理解することが 出来はしまいか。

 

アイヌ語で put(u) が「河口」を意味する。「師木縣主之祖 賦登麻和訶比売命」は 第4代懿徳天皇の妃であるが、第2代、第3代の天皇妃は 同様に「磯城県主」の娘が 嫁いでいるが 彼女らの名前はそれぞれ「川派媛」と「川津媛」である。「河口」とは必ずしも川が海に注いでいる必要はなく合流地点でも良い。(当別太:当別川の石狩川への合流点。江別太:千歳川(旧名・江別川?)の石狩川への合流点。夕張太:旧・夕張川の千歳川への合流点。)

「川派媛」の「派」は「マタ」と読むであろうことは古事記が この姫様を「川俣姫」と書いていることから窺える。川俣とは 川の合流地点のことである。「川津媛」の「津」は 船着き場、であろう。

斯様に「賦登」は「太」の意味ではなく put(u) 河口、川の合流地点の意味であったので、ここでは乙類の「ト」が使われたのではないか、と推測する。即ち、書紀が「太」字を宛てたのが間違いだった、または、原義が忘れられた、からなのではなかろうか。

 

「賦登」は上記だとしても続く「麻和訶」は些か難渋である。「和訶」は ワッカ=水 がすぐに思い浮かぶ。「麻」(マ)は「澗」(船着き場)であろうか。「川津媛」の名称もあるので良さそうでもある。通して「河口の・船着き場の・水」が原義であろうか。

 

第2代から第3代の天皇妃の名前が「川派媛」「川津媛」と来て、そして第4代(フトマワカひめ)がここに解釈したように「川俣津水媛」というのは、なかなか整合性があるように思える。

なお「マワカ」は「真若」という和語で理解しておくのがおとなしいか。

 

「マワカ」に関しては「マヤワカ考」もご参照下さい。

 

第7代天皇、孝霊の名前は、書紀では「大日本根子彦太瓊」、古事記では「大倭根子日子賦斗迩」があり、「斗」は「刀」と同じ甲類です。どうも、「賦登麻和訶」という風に、乙類の「登」の字を使ったのには、怪しさ、が 感じられます。

 

*賦斗迩 vs 賦登麻

*斗= 登.

*登斗(とと)

 

参照上表

 

類似の怪しさに就いては、「蝿伊呂泥・蝿伊呂杼」(安寧記)があります。

この姉妹は、第3代安寧の第3子、師木津日子 - 和知都美 - 

この姉妹、と言う系譜です。

 

安寧(師木津日子玉手見)が綏靖と事代主系の妃からではなく、綏靖と「磯城」の川派媛(河俣毘賣)から出たとすると、「ハエ」の名前を引き継いで来ていて、安寧の第3子にも、「師木津日子」がいるのが、とても判り易くなります。

 

葉江(波延)haye であるのに対して、「」の音は,どうも、hahe らしい。それは、神代紀(天孫降臨、第6の一書)に「五月蝿」が出てきて、これの訓みを、「佐魔倍(さば へ)」と書いてあります。

これは、「サバヘ」なのです。)

古事記の漢字表記は甲乙の別が消失してからか。また、「江」と「へ」「エ」の区別が乱れてから作られたものか? なんて話も出来そうです。

 

書紀での同姉妹の名前表記では「糸ヘンに互、互の中にテンテン」と言う見慣れない字が使われてます(孝霊紀)。この読みに就いては 岩波版日本書紀の頭注(p229の八)では、「ハヘ」、と読むとの解説があり、古事記の「」と同じとしています。「葉江」とは結び付けていない。

参照上表

 

さて、表に戻って、孝元妃を見比べてみます。

 

押媛、長媛、五十坂媛、忍鹿比賣。

 

読みは「オシ」「ナガ」「イサカ」「オシカ」とされて来ています。「長」は「ナガ」ではなく「オサ」と読むと、この4説も人定の異説と言うよりは、単に訛り(発音/表記の変化)の範疇に入るように思えますがどうでしょうか。

 

72のブロックにある「眞舌媛」ですが、43の「賦登麻和訶比賣」などを参照して,「マワカ媛」、即ち、「舌」は「若」の誤写で、「眞若媛」だったのではないでしょうか。

 

71にある「千乳早山香媛」(チチ・ハヤ・マカ媛、と区切れば、最後の「マカ」は「マワカ」の訛と理解できる。)も この仮説を助けるようです。(ハヤ、も再登場。)

 

メモ: 「目」の事をアイヌ語で、 shik (所属形は shiki)と云う。

「兄磯城・弟磯城」「兄猾・弟猾」のように、「兄・弟(え・おと)」が語頭に付くグループと、

「蝿伊呂泥・蝿伊呂杼」のように、「ネ・ド」が兄弟(姉妹)の対立の語で、それが語尾に付いているグループ。

同様に、「神・・・」「姫・・・」「日子・・・」と肩書きが語頭「にも」来ている名前、とそうでない名前の群。

或いは、「イザナギ・イザナミ」の「ギ・ミ」の男女の語意の対立、と、「ヒルコ・ヒルメ」に男女の語意の対立、が別群になるのだろうか。

 

http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/47

考霊・考元の 父は 綏靖、母は いずれも 椎根津彦の妹たる 太(大)真稚媛である。十市宗家の正嫡といっていい。

 

椎根津彦の大倭氏の系譜のなかにも「椎根津彦の父 武位起は 彦穂々出見の子」という記述がある。

武位起は「たけいき」と訓む。「いき」は 磯城かも 知れないし「おき」すなわち 息長の息(瀛)かも知れない

神武が椎根津彦に出あったとき、その様は尋常ではなかった。
古事記は「亀の甲に乗り、釣りしつつ羽挙き来る人、速吸門に偶いき」と語っている。 

「汝は誰ぞ」と問ひたまえば、「僕は国つ神ぞ」と答へ曰しき。また「汝は海道を知れりや」と問ひたまへば、「能く知れり」と答へ曰しき。また「従に仕へ奉らむや」と問ひたまえば、「仕へ奉らむ」と答へ曰しき。

椎根津彦が国神と自らを呼ぶのは留意しておきたい


市磯長尾市宿禰(いちしのながおちのすくね) 宇豆毘古(椎根津彦)の7世孫にあたる

椎根津彦がなった倭国造の末裔に市磯長尾市と言う者がでます。彼は倭大国魂神を祀ります。倭大国魂神とは椎根津彦のことでしょう

大倭氏はその後も大和で悠久を経過する氏族であるが、その直接的な祖はこの市磯長尾市であった

海神綿積 -- 豊玉
玉依
穂高見
振魂----武位起----珍彦----志麻津見-- 武速持 -- 邇支倍 -- 飯手宿禰 -- 御物宿禰 -- 市磯長尾市
  大鐸比売 八玉彦                                        民磯媛 御戈

 

http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/82/l50

高皇産霊命(古語拾遺説)+千々姫---天太玉命(妻:天比理乃咩)----天櫛耳・天鈿女命(猿女君祖)

天富命(神武天皇時代)
①父:天櫛命 母:不明
②子供:飯長媛・弥麻爾支



 

http://menorah.r.ribbon.to/yoritada.html

神皇産霊尊-天神玉命-天櫛玉命-鴨建角身命(八咫烏)-鴨建玉依彦命-五十手美命-麻都躬之命-看香名男命-津久足尼命→猿弟人命-佐佐乃彦命-菅牽命

 

天神玉命(神皇産霊尊 二男)─天櫛玉命─鴨建角見命(八咫烏武津之身命)─建玉依彦命─五十手美命─麻都躬之命─看香名男命─津久足尼命─大田田根命(弟 猿弟人命)─佐佐乃彦命─菅牽命

 

神皇産霊尊 ─ 天御食持命 ─ 彦狭知命(天技命[瓜工、大田の祖])─ 手置帆負命 ─ 天越根命 ─ 比古麻命 ─ 天道根命。

                   弟 天神玉命、

                   弟 角凝魂命、

                   弟 天石都倭居命[多米、縣犬養の祖]、

                   弟 生魂命[猪使祖]、

                   弟 天津久米命

 

http://www.umoregi.com/koten/kojiki/story.html?v=2&n=18

此の天皇、

尾張の連の祖 奥津余曽の妹、

名は 余曽多本豐売命を 娶して生みませる御子、

天押帯日子命。次に大倭帯日子国押人命。

 

http://adat.blog3.fc2.com/

和風諡号を論拠に神武と欠史八代を架空の人物とする「井の中」の論理を踏襲している。改めて批判しておこう。

 『古事記』本文での「大倭」の初出は国生み説話の「大倭豐秋津嶋」である。『日本書紀』での「日本」の初出は同じく国生み説話で


廼(すなは)ち大日本豐秋津洲を生む。

 
とある。つまり『古事記』の「倭」を「日本」と置き換えて「ヤマトと読め」と指示している。「倭」を何が何でも大和国に比定し、しかもそこが日本の中心であるとしたい意図があからさまに表出されている。

 『古事記』での表記「大倭豐秋津嶋」の「倭」にも『日本書紀』の指示を適用して「ヤマト」と読んでいるが、果してそれが本来の読みなのだろうか。

 『「神代紀」の解読(4)』で紹介したように、古田さんが「大日本豊秋津洲(大倭豐秋津嶋)=豊後国」であることを論証している。

それでもなお『日本書紀』の主張する通り「大日本豐秋津洲大倭豐秋津嶋)=大和国」が正しいと言い張るのなら、古田さんの論証を論破しなければならない。私にはこの綿密な論証を論破できるとはとても思えない。論破できないから、古田説を無視するほかない。「井の中」では相変わらず「大日本豐秋津洲(大倭豐秋津嶋)=大和国」として恥じない。(例えば森浩一氏。『「神代紀」再論:考古学が指し差すところ』を参照してください。)

 「倭」の本来の意味が「ヤマト」であるはずはない。『「倭」と「日本」(7):いつから「倭」=「ヤマト」となったのか。』で論じたように、「チクシ」が正しい。

 

http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/82

尾張氏の始祖は、天火明命<アメノホアカリノミコト>で、その11代目が 小止与命<オトヨノミコト>です。彼が尾張国初代の尾張国造に任命されます。この子が建稲種命<タケイナダネノミコト>で、日本武尊<ヤマトタケル>の東征に自ら副将軍として従軍し、妹の 宮簀姫命<ミヤズヒメノミコト>と日本武尊のロマンスも伝承されています。建稲種尊の妃は、丹羽氏の大荒田命<オオアラタノミコト>の娘、玉姫です。

http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=C4ntayAZ-rgJ&p=%E5%92%8C%E6%99%BA%E6%B4%A5%E5%BD%A6%E5%91%BD&u=gagaku.blog.ocn.ne.jp%2Fgagaku%2Ffiles%2Fkeizu.pdf#search='和智津彦命'

 

http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/82

忌部氏の祖神:古語拾遺
其の高皇産霊神(たかむすびのかみ)〔御存知の通り、原初三神の一神です。〕の生みませる・・・・・・・

男の名は 天太玉命(あめのふとたまのみこと)

〔天照大御神が 天の岩戸に 隠れた時に、祝詞(のりと)を 唱え天照大御神を 引き戻した 二神のうちの一神で忌部氏の祖神。

ちなみにもう 1人の神は 天児屋命(あまのこやね)であり、こちらは 中臣氏の祖神。こういう訳で 天皇家の祭祀は 忌部氏と中臣氏 にまかせられたのです。〕(斎部宿禰が 祖なり。)

 

太玉命の率たる 神の名は

1, 天日鷲命(あめのひわし)(阿波の国の忌部等が祖なり。)

2, 手置帆負命(たおきほおい)(讃岐国の忌部が祖なり。)

3, 彦狭知命(ひこさしり)(紀伊国の忌部が祖なり。)

4, 櫛明玉命(くしあかるたま)(出雲の国の玉作が祖なり。)

5, 天目一箇命(あめのまひとつ)= 天麻比止都命筑紫・伊勢の両国の忌部が祖なり。)

 

http://gejirin.com/src/A/amamehitotu.html

アマメヒトツ・アメマヒ・アメヒトカミ

→ 語義

あまめひとつ  アマメヒトツ  amamehitotu

【天目一箇命・天麻比止都命】<人名>

あま(下む・落む・穢む)」+「め(目)」+「ひと(一)」+「つ(箇)」。
「あま」は、ここでは「下む・落む」→「枯・暮・秋」→「日没・西」→「右」の意を表す。

 

天目一箇命。= 天麻比止都命。 
カンミ
の孫。 アタネの 曽祖父。 
アマテルの言葉に従い、百日の物忌の後、右目ひとつで 八振の八重垣の剣を 造り奉った 金錬人

三重県桑名郡多度町多度、多度(タド)大社
滋賀県蒲生郡竜王町鏡、(カガミ)神社

★『御上神社由緒』 =アメミカゲ
天一神(なかがみ)と関係がありそうな。

 

http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi80.htm

天底立(アメソコタテ)= 天曽己多智。角凝魂の系譜。伊佐布魂の息。四世神。息に 天背男天継杵

 

▽天背男(アメセオ)= 天忍男命= 天八現津彦命. 伊佐布魂の系譜。天底立の息。五世神。

 

息に

天日鷲翔矢

櫛明玉

 

娘に

許登能麻遅媛

天比理乃咩(婿に 天太玉)、

天津羽羽(婿に 事代主)、

天万栲幡千幡比売(婿に 天児屋根)。

----------------------------------------

 

▽天継杵(アメツギ) 天底立の息。天背男の弟。五世神。息に 天鈴杵。孫に天御雲<名は天津日継に通じるか。>

▽天牟久努(アメムクヌ) 天底立の息。

 

*伊佐布魂- 天底立(天曽己多智)  - 天背男 - 天日鷲 - 大麻比古

                                             ㅣ

                                               - 天継杵 - 天鈴杵 - 天御雲

                                             ㅣ

                                               - 天牟久努

 

天日鷲(アメヒワシ)= 翔矢。天背男の息。

息に 大麻比古、天白羽鳥、天羽雷雄。

孫に 由布津主(阿八別彦)、天物知。

 

櫛明玉(クシアキタマ)= 天背男の息。<出雲玉造の祖。天照に 国玉を献上。>

 

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02116.htm

《天火明命裔氏族綱要》

天火明命──天香語山命──天村雲命─┐                   

 

 

 

┌弟彦命
                  │                   │
┌─────────────────┘                   ├日女命

│                                     │
│                 ┌健田背命──淡夜別命         ├玉勝山代根古命
│                 │                   │
├天忍人命─┬天戸目命─┬建斗米命─┼健宇那比命─┬建諸隅命──倭得玉彦命─┼若都保命
【五百木部氏】
│     │     │     │      │            │
│     └天忍男命 │     │      ├ ◇ ………
【磯城島氏】 ├置部与曽命──大原足尼命
│           │     │      │            │
│           │     │      └
大海姫命        
└彦与曽命─┬大縫命
│           │     │                         │
│           │     ├健多乎利命
【笛氏】【若犬甘氏】【丹比氏】
     └小縫命─┐
│           │     │                              │
│           │     ├健彌阿久良命……
〔大分国造〕【高屋氏】 
┌─────────┘
│           │     │                    │
│           │     ├健麻利尼命
【石作氏】【桑内氏】【山辺氏】└乎止与命
(尾張国造家へ)
│           │     │
│           │     ├健手和邇命
(身人部氏へ)   ┌塩手宿禰命─┬水吹宿禰命─┐
│           │     │               │      │      │
│           │     └
宇那姫命           │      └度美媛命
  │
│           │                     │             │
│           └妙斗米命
【六人部氏】           
│ ┌───────────┘
│                                 │ │
│     ┌瀛津瀬襲命──大矢崎命
〔斐陀国造〕          │ ├田裳見宿禰
(津守氏へ)
│     │                           │ │
├天忍男命─┼建額赤命──建筒草命─┐               │ └御殿宿禰──色鳴
【丹比新家氏】
│     │           │               │
忍日女命 └世襲足姫命      │┌大御日足尼──五十狩宿禰命─┼大美和都弥命【工氏】
│                 ││              │
│      ┌──────────┘│              └忍己理足尼命
【若倭部氏】
│      │           │
│      └建真咋命──諸石宿禰─┴八坂振天其辺命
【茨田氏】【川上氏】
│ 
├倭宿禰命──笠水彦命──笠津彦命

葛木出石姫命  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/52323472.html 

高知県での伝承では、土佐国一宮・土佐神社の御祭神「一言主神」の后が、土佐国二宮・朝倉神社の御祭神「
天津羽羽神」。
この「一言主神」の正体は、「事代主神」または「味鋤高彦根神」。
 
静岡県の伝承では、伊豆国一宮・三嶋大社の御祭神「事代主神」の本后が、
式内阿波神社の御祭神「阿波咩命(天津羽羽神)」。
 

天津羽羽命(アマツハハノミコト) 『大日本神名辞書』

= 天石戸別命の御女。御事蹟明かならず。
別名を 阿波咩(アワメ)命阿波波(アワワ)神阿波(アワ)神とも稱す。

八重事代主命の后神なり(古史傳、土左國風土記)。

 

*玉櫛媛 

神武天皇の皇后である 媛蹈鞴五十鈴媛命の母。

別名:溝咋姫神・三島溝杭姫・三嶋溝樴姫・溝咋玉櫛媛・活玉依姫・勢夜陀多良比売ともいう。


そして、『安房斎部系図』によれば、天日鷲命(阿波忌部の祖)の兄弟姉妹です。 

 

 http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/73

 

天村雲命
父:天香語山 母:穂屋姫
妃:日向阿俾良依姫 子供:天忍人、天忍男
妃:丹波伊加里姫 子供:倭宿禰椎根津彦天御蔭命:海部氏系図)
子供:葛木出石姫(母:伊加里姫), 忍日女(母不明)

天忍人命
父:天村雲 母:阿俾良依姫
妃:葛木出石姫 子供:天戸目
結果的に尾張氏本流となる。
豊玉姫の弟「振魂命」の子供「天前玉命」と同一神とも

天忍男命(?-?)
父:天村雲 母:阿俾良依姫
妃:葛木 劔根の 娘「賀奈良知姫」子供:瀛津世襲(葛木彦), 世襲足姫(日置姫), 建額赤

瀛津世襲
父:天忍男 母:賀奈良知姫
孝昭天皇の后に 妹「世襲足姫」が なり, 孝安天皇の外戚的存在となり、孝昭天皇朝大連との記録もある。尾張氏として初めて記紀記述ある。別名「葛木彦」尾張氏祖とされている

世襲足姫(?-?)
父:天忍男 母:賀奈良知姫
夫:孝昭天皇 子供:天足彦国押人(和邇氏祖)孝安天皇
尾張氏として初めて天皇妃となった。(記紀)

 

http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-28.html

2)磯城氏 人物 列伝
個々の人物のみの記述になる。主に日本書紀記述名で記す。
 
兄磯城(えしき)
①父:不明 母:不明
②兄弟:弟磯城 黒速   別名:武兄磯城(たけるえしき)
③磯城の地の首長。
④記紀記事:神武東征紀
神武天皇が 熊野から 大和の地に 入ろうととしたとき、最後まで 抵抗した氏族の首長。
弟が 神武天皇側についたため 敗北した。元々 弟磯城より 上位に いたと考えられて いる。
 
2-1)弟磯城 黒速(おとしきくろはや)
①父:大物主? 母:不明
②兄弟:兄磯城
子供:磯城県主 葉江?川派媛?猪手?
③紀記事:神武東征紀 上記 兄磯城と同一記事の中に 登場する。
神武の大和侵攻に 功績あったとして、「磯城県主」を 与えられた。
④以後 この後裔一族の娘が 天皇家の后妃に なる 欠史八代の姻族系譜の中心的人物である。
    
・川派媛(かわまたひめ)
①父:弟磯城黒速? 母:不明
②兄弟:磯城県主葉江?猪手?
子供:安寧天皇?

 

③記紀 記事:
(紀)綏靖天皇后 一書 第1:川派媛。磯城県主の娘。綏靖天皇后・安寧天皇の母
本文の綏靖天皇后・安寧天皇の母は、事代主神の娘 五十鈴依媛となっている。
(記)河俣毘売:師木県主の祖、綏靖天皇后・安寧天皇の母
 
2-2)磯城県主 葉江
①父:弟 磯城 黒速? 母:不明
②子供:川津媛阿久斗比売)= 渟名城津媛・長媛・太真稚彦?
別名:波延
③記紀記事:弟 磯城 黒速と親子関係であったかどうかは 記紀には 明記されて いない。
磯城県主祖と記されているのみである。事績的な 記事なし。娘の婚姻関係の記事のみ。

 

*阿都久志比古命 (あるいは 加茂氏の遠祖 阿田都久尼命

*阿都久志比古命は、別名を 天日方奇日方命とも 櫛御方命ともいい 事代主命の御子神 とされて いるらしい。  

 
・川津媛
(紀)安寧天皇后 一書 第1:川津媛。磯城県主 葉江の娘。
安寧天皇后・懿徳天皇の母

 

本文の安寧天皇后・懿徳天皇の母は、事代主神孫 鴨王の娘 渟名底仲媛(ぬなそひめ, 渟名襲媛(ぬなそひめ)となっている。

 

*美良姫(ミラヒメ)

*渟名襲媛= 阿田都久志尼命과 美長姬(ぬなたけひめ)의 딸=

*(記)阿久斗比売:師木県主 波延の娘。安寧天皇后・懿徳天皇の母

*阿久斗比売= 天久之比乃= 浮中底姫= 渟名底仲媛(ぬなそひめ= 渟名襲媛(ぬなそひめ)=

天日方奇日方命= 阿田都久志尼命

 

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*渟

 

*阿都久志比古命 (あるいは 加茂氏の遠祖 阿田都久尼命

*阿都久志比古命は、別名を 天日方奇日方命とも 櫛御方命ともいい 事代主命の御子神 とされて いるらしい。

 

波延= はえ, はえん

*磯城の県主に「葉江(はえ)」「波延(はえ)」も あり、読みは ハエ (haye) ですので 関連が ありそうです

*川津媛(かはつ

*奇友背命。

 
・渟名城津媛= 渟名襲媛.
(紀)孝昭天皇后一書第1:渟名城津媛。磯城県主 葉江の娘。孝昭天皇后・孝安天皇の母
本文の 孝昭天皇后・孝安天皇の母は、尾張連祖 瀛津世襲の妹 世襲足媛となって いる。
 (記)孝昭天皇后・孝安天皇の母は、尾張連祖 奥津余曽の妹 余曽多本毘売となって いる。
 
・長媛
(紀)孝安天皇后一書第1:長媛。磯城県主葉江の娘。孝安天皇后・孝霊天皇の母となっている。
 
・猪手
(紀)懿徳天皇后の一書第1に磯城県主葉江の男弟猪手の娘泉媛という記事あり。古事記には記事なし。
 
・泉媛
(紀)懿徳天皇后一書第1:磯城県主葉江の男弟猪手の娘泉媛。古事記は対応記事なし。
(記)懿徳天皇后・孝昭天皇母は、師木県主の祖賦登麻和訶比売(飯日比売)となっている。
 
2-3)太真稚彦
①父:磯城県主 葉江? 母:不明
②子供:飯日媛
③記紀:
(紀)懿徳天皇后 一書 第2に 磯城県主 太真稚彦の娘 飯日媛の記事あり。
④記紀には 父母の記事なし。葉江の後の磯城県主と推定。
 
・飯日媛
(紀)懿徳天皇后 一書 第2:磯城県主 太真稚彦の娘 飯日媛。
(記)賦登麻和訶比売= 許登能麻遅姬:師木県主の祖。懿徳天皇后・孝昭天皇母

 

*賦登麻和訶比売= 許登能麻遅姬
 

 

・真鳥媛
①父:磯城県主? 母:不明
②夫:物部氏 遠祖「伊香色雄(やまとのしきひこ)」 子供:大売布
③子供「大売布」の流れから志紀県主が 生まれそのさらに 後裔が 十市氏となったとの系図が残されている。即ち 真鳥媛が 有していた 磯城県主の名跡が 物部氏に 継がれた 形になった。
磯城御県坐神社の祭祀者も 物部氏になったと考えられている。(中原氏 系図 参照)
④以上 旧事本紀の記事。

 

以下は [旧事本紀]の記事である。
 
[旧事本紀] 安寧天皇の時、饒速日命(ニギハヤヒ)の3世孫 出雲色大臣倭志紀彦(やまとのしきひこ)の妹 真鳥姫を 妻として 大木食・六見宿禰・三見宿禰の3人の子供を 産んだという記事あり。
 ( やまとの-しきひこ)

 

 倭(やまと)の志紀彦(しきひこ)の妹の真鳥姫(まとりひめ)を娶って、三児を生む。

 

2-4)磯城県主大目
①父:(磯城県主?)不明  母:不明
②子供:細媛
③記紀記事:
(紀)孝霊天皇后の本文に 磯城県主大目の娘 細媛とある。
(記)孝霊天皇后の記事に 十市県主大目の娘 細比売とある。
④記紀で 磯城県主・十市県主と表記が 混乱している。この辺りで 磯城氏から 十市氏が 派生したものとも思える。「和州五郡神社記」の十市氏系図には 大目は 記載されて いない。
 
・細媛
 (紀)細媛:孝霊天皇后・孝元天皇母。磯城県主大目の娘

(記)細比売:孝霊天皇后・孝元天皇母。十市県主大目の娘

 

2-4)十市県主五十坂彦
①父:磯城県主 大目?(異説あり) 母:不明
異説:和州五郡神社記:十市県主五十坂彦の父は春日県主豊秋狭太彦で5孝昭天皇の時春日県主が改名されて十市県主となったとある。
②子供:五十坂媛・真舌媛?
③記紀記事:
(紀)6孝安天皇の妃として十市県主女五十坂媛の記事あり。古事記には対応記事なし。
④「和州五郡神社記」に十市県主系図が記されている。これによると磯城県主系統に入らない人物である。
 
・五十坂媛
(紀)6孝安天皇の妃として十市県主女五十坂媛とある。(記)なし。
 
・真舌媛
「和州五郡神社記」によると父は十市県主大日彦であり五十坂媛は叔母である。
(紀)7孝霊天皇后一書第2:真舌媛。十市県主等女とある。古事記には対応記事なし。
 
(参考)新撰姓氏録記載 志紀氏関連記事
・河内国皇別:志紀県主:多氏と同祖「神八井耳命」の裔
・和泉国皇別:志紀県主:同上
関連神社:志紀県主神社(藤井寺市惣社1-6-23)祭神:神八井耳命
これは磯城氏とは直接関係にはない。多氏系なのに何故志紀神社となったのか謎である。
 
・大和国神別:志貴連(683年連姓となる):ニギハヤヒ孫「日子湯支命」の裔
関連神社:志貴御県坐神社(桜井市三輪字金屋896)
祭神:饒速日命(にぎはやひ)旧式内大社
これは磯城氏の名跡を物部氏が簒奪した後の姿と解されている。
建新川 倭志紀県主祖 垂仁侍臣(天孫本紀)
物部印岐美連公:志紀県主祖(天孫本紀)
・和泉国神別:志貴連:ニギハヤヒ7世孫「大売布」の裔:志貴県主
これも上記と同じく磯城氏の名跡を物部氏が簒奪した後の姿。



天照大御神はニニギノ尊に三種の神器を与えた後、ニニギノ尊は地上に降臨する訳ですがその際に五部神と呼ばれる5人の神を随行しています。天児屋命(あまのこやね)と天太玉命(あめのふとたまのみこと)は祝詞を奏上する役、天細女命(あまのうずめ)は 神懸かって神託を 告げる役、

 

櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)は 祭器である 勾玉の製作者、

石凝姥命いしこりめ)は 祭器である の製作者です。

( やまとの-しきひこ)
加茂氏の先祖は八咫烏であると書いていますが、具体的な記述として新選姓氏録には 加茂氏の祖神である 鴨建津之身命(かものたけつのみのみこと)が 大烏(八咫烏の長)に 変化したという記述が あります。鴨建津之身命の父親は 天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)です。

 

玉作氏の祖神、櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)と 加茂氏の祖神、天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)。そっくりな名前です。유사한.

そこで 天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)を祭っている 櫛玉命神社の社伝を 調べると

天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)の別名は 櫛玉命櫛玉姫命天明玉命豐玉命

櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)の別名は 玉祖命羽明玉命豊玉命玉屋命でした。比べてください。

両方に豐玉命の名称があるではないですか!!

つまり櫛明玉命=天櫛玉命となり、加茂氏の祖先、八咫烏は忌部氏の支族である玉作氏と同族だと考えられるのです。

 

簡単に言えば 忌部氏=八咫烏=加茂氏です。


 

○中原氏系図

 

                              ──┬孝昭天皇

                                    └多芸志彦命【血沼氏】【多遅麻氏】

 

     磯城津彦命(安寧天皇) 多祁太努美命(懿徳天皇)……【猪使氏】【新田部氏】【須知氏】【那婆理氏】【三野氏

                                   │

                                   │                 

                                   │                 

                                   │                 

                                   │                 

                                   └ 和智津彦命 蝿伊呂居 ──……【十市】

                                                       │

                                                       ├ 蝿伊呂泥= 倭国香媛

                                                       │

                                                       └ 蝿伊呂抒= 蝿伊呂妹

 

*和知津美= 和智津彦

神武天皇──神八井耳命──健磐龍命─健稲背命──健甕富命──諸日子命─┬健莒止理命──伊努古君──世襲彦君─┴金弓(金刺氏へ)

                                                                                                         │

                                                                                                         └健守矢命──檜樹君──武麻呂

 

 

http://www.platz.or.jp/~hvhy/minibbs.cgi?ff=17631&cmd=rm

 

〔古事記 孝霊天皇〕

又娶 意富 夜麻登 玖邇 阿禮比賣命、生御子、  (*玖邇= 久尼.)

       夜麻登登母母曾毘賣命。

次、日子刺肩別命。

次、比古伊佐勢理毘古命。亦名 吉備日子命。

次、倭飛羽矢若屋比賣(やまと とびはや わかや ひめ)。= 倭迹迹稚屋姫

 

又娶其 阿禮比賣命之弟、蠅伊呂杼、生御子、

      日子寤間命。

次、日子建吉備津日子命。

 

*彦五十狭芹彦命(ひこいさせり)

 

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http://www.platz.or.jp/~hvhy/minibbs.cgi?cmd=rm&ff=7578

Q: 古事記の中に「ルセリ」と言う名前の女性は登場しているのでしょうか?

A:「ルセリ」という女性は出てきませんし、

ラリルレロで始まる名前は まったく出てきませんが、

須勢理毘売」なら説話において、「須佐之男」の娘、「大国主」の妻という位置づけで出てきます。

ここで「説話において」と断ったのには理由があります。

説話には出てくるのに、「須佐之男」関係の系譜にも「大国主」関係の系譜にも出てこない。

これは妙なこと。
単に「須勢理毘売」関係の系譜が 脱落したのか、どうか。
ちなみに「須勢理」は「須世理」にも作られて います。

また、似た名前?に「火須勢理」「比古伊佐勢理毘古」があります。

 

日本書紀においては、

ハエイロネの子供は3人。
「倭迹迹日百襲姫」「彦五十狭芹彦」「倭迹迹稚屋姫」

ハエイロドの子供は2人。

「彦狭嶋」「稚武彦」


古事記の「日子刺肩別」に当たる人物は見られない。
また古事記の「日子寤間」は「彦狭嶋」となっている。

 

一方に「豊城入彦~*~彦狭嶋~御諸別」という系譜。

・玉手見~師木津日子~和知津美~蝿イロド~日子寤間

それはともかく、日本書紀は「磯城津彦」(師木津日子)を、
猪使連」の始祖とする。これは初期ヤマト王権の母体たる
いわゆる吉備族と「猪飼」との繋がりを示している。
和知津美」の宮都は「淡道の御井」にあったわけだが、
その「淡路嶋」は「住吉仲皇子」や「飼部」に縁を持っている。
書紀には「鷲住王」が「住吉邑」にいたという記事もある。

 

鷲= とびは=

[]
1. [명사] 『조류』 솔개. 〔동의어〕.
日本書紀、古事記、姓氏録、旧事紀を鑑みれば、
以下のような系譜が得られる。このことは述べた。
    五十河媛-+-神櫛王 ……【讃岐国造】
         |
         +-稲背入彦 ……【播磨別】
             ∥
             ∥--御諸別--伊許自別 …【針間別佐伯直】
【いわゆる安曇族】    ∥
阿邪美能伊理毘賣-+-阿邪美津比賣(稚浅津媛)
         |
         +-伊許婆夜和気(池速別) ……【沙本穴太部之別】
---------------------------------------------------------------------------
                             +-倭迹迹姫
                             |
         (速総別?)       +-蝿イロネ-+-五十芹彦
         (師木津日子)(和知津美)|
大間宿禰--糸井媛--鮒魚磯別-+-鷲住王-+-蝿イロド-+-神櫛王
                |            |
                +-太姫郎姫       +-稲背入彦--御諸別--伊許自別
                |
                +-高鶴郎姫

沙本之大闇戸売--沙本毘売--伊邪本和気--市辺之忍歯別--オケ兄弟

 

*沙本毘古(佐保彦)、

*沙本毘売(佐保媛)

*氷羽州比売(媛)、

 

*天種子의 母= 狭穂姫命(さほびめのみこ、沙本毘売之命・ 佐波遅比売) 

*たもと= 多本.

 

http://www.umoregi.com/koten/kojiki/story.html?v=2&n=18

尾張の連の祖奥津余曽の妹、

名は 余曽多本豐売命を 娶して生みませる御子、

天押帯日子命。次に大倭帯日子国押人命。

 

*『先代旧事本紀』国造本紀 因幡国造条に「彦坐王児 彦多都彦命」と見えるが、不詳である。

 

*伊玖米入日子伊沙知の命は、師木の玉垣の宮においでになって、天下をお治めになったんや。

この天皇が、沙本毘古の命の妹の 佐波遅比売の命(沙本毘売)を 嫁はんにして お生みになった 子は、

品牟都和気(ほむつわけ)の命

 

また、旦波の比古多々須美知の宇斯の王の娘、氷羽州比売(ひばすひめ)の命を嫁はんにしてお生みになった子は、印色之入日子(いにしきのいりひこ)の命や。次に大帯日子淤斯呂和気(おほたらしひこおしろわけ)の命や。次に、大中津日子(おほなかつひこ)の命、次に倭比売(やまとひめ)の命で、次に若木入日子(わかきいりひこ)の命やな。

 

 

一方に「豊城入彦~*~彦狭嶋~ 御諸別」という系譜がある。したがって、「稲背入彦」=「彦狭嶋」とも考えられる。日本書紀の「彦狭嶋」は 古事記の「日子寤間」だが、「日子寤間」を古事記は【針間牛鹿臣】の祖としている。このことは「稲背入彦」を【播磨別】とする書紀に矛盾しない。

 [] 1. [명사]  천황이 와 싸울 때 천황의 활에 앉아 
빛을 발하여 적의 눈을 멀게 했다는 금빛 솔개. 
 
<丹波系譜の祖、三世孫 倭宿禰>
『勘注系図』『本系図』ともに、三世孫として倭宿禰という人物が登場する。




ところうが『勘注系図』では倭宿禰を建位起命の子とする記述が在る。
建位起命が誰の子かはっきりしないが、海神綿積の後裔である。
こちらの倭宿禰は神武東征で活躍した椎根津彦で、倭の国造となる倭氏の祖である。

『勘注系図』の倭宿禰は天村雲命の子で、武位起の子の倭宿禰とは異なる人物である。
『勘注系図』には、このあたり両者の混同が見られる。




 三世孫倭宿禰命について『勘注系図』は次のように記す。
『またの名御蔭命(みかげのみこと)、またの名天御蔭志楽別命(あめのみかげしらくわけのみこと)、
母伊加里姫命(いかりひめのみこと)なり。
神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇【神武】御宇參赴(まいりおもむき)、
しこうして祖神より傳へ来る天津瑞神寶(あまつみずかんだから)(息津鏡・邊津鏡是也)を献じ、
もって仕え奉る。彌加宜社(みかげしゃ)、祭神天御蔭命、丹波道主王之祭給所也
この命、大和國に遷坐(うつりいます)の時、
白雲別(しらくもわけ)神の女、豐水富命(とよみずほのみこと)を娶り、笠水彦命を生
笠水訓宇介美都(かさみずよむうけみず)

次は丹後風土記残欠の一部である。
『笠水訓字宇介美都 (笠水をウケミズと読む)一名、真名井、白雲山の北郊にあり(中略)傍に、
祠が二つある。東は、伊加里姫命、或いは豊水富神と 称す。
西は、笠水神即ち、笠水彦命笠水姫命、の二神。これは、即ち 海部直たちの斎きまつる祖神である』

笠水神社は京都府舞鶴市公文名にある笠水神社、伊加里姫社は舞鶴市京田の伊加里姫社と思われる。
祭神は笠水神社が倭宿禰の子、笠水彦。伊加里姫社が母、伊加里姫と妻、豊水富である。
また『勘注系図』の注記にみる、丹波道主が倭宿禰の別名である天御蔭命を祭ったとされる
彌加宜社(みかげじんじゃ)は、舞鶴市森の彌加宜社である。祭神は倭宿禰のもう一つの別名でもある、
志楽別(しらくわけ)である。更に舞鶴市には志楽という地名が残る。
このことから倭宿禰は京都府舞鶴市あたりと深い関係にある。

 興味深いのは『勘注系図』が、倭宿禰の妻を、白雲別神の娘、豊水富(とよみずほ)命とすることである。
豊水富を白雲別の娘という伝承は『新撰姓氏録』にもある。
『神武天皇、吉野に行幸(い)でまして、神瀬(かみのせ)に到りて、人を遣して、水を汲ましめたまひしに、
使者還りていはく、「井に光る女あり」といふ。天皇、召して問ひたまはく、「汝は誰人ぞ」とのたまふ。
答へてもうさく、「妾(わらわ)はこれ天より降り来つる白雲別神(しらくもわけのかみ)の女(むすめ)なり。
名を豊御富(とよみほ)といふ」とまうす。天皇、即ち水光姫(みひかひめ)と名づけたまひき。
今の吉野連が祭れる水光神これなり。』

 海部氏の倭宿禰は、神武が大和王権を樹立した時、大和に赴き神宝を献じて神武に仕えたとする。
その大和に居たとき娶ったのが、白雲別の娘、豊水富(とよ みずほ)または豊御富(とよみほ)である。
そして『勘注系図』の注記は、豊水富の亦の名を井比鹿(いひか)とする。これは『日本書紀』神武記で、
神武が吉野で名を問 うた時答えた「井光(いひか)」と同じである。
またこの白雲別と水光姫命を祭る神社が葛木にある。長尾神社である。(住所:奈良県北葛城郡当麻町長尾)




また 『御蔭之神事、今俗稱葵神事』として、京都の三大祭りで有名な、
葵祭(あおいまつり)は御蔭神事に始まるとする。御蔭命は倭宿禰の亦の名とされる。

 一方同じ倭宿禰と称され人物がある。倭氏の祖で倭国造(やまとのくにのみやつこ)の倭宿禰である。
こちらは天理市大大和神社(おおやまとじんじゃ)に祭られる。
その出身地はおそら兵庫県の神戸市か明石市であろう。神戸市東灘区本山北町にある、
保久良神社(ほくらじんじゃ)は、椎根津彦すなわち後に倭宿禰と呼ばれた人物を祭神とする。
こちらの倭宿禰は、神武が大和朝廷を樹立した時、
その功績により倭国造(やまとのくにのみやつこ)となった人物である。こちらが武位起の児である。
孫 天村雲命
亦名天五十楯天香語山命、於天上生神也、
母穂屋姫命也、以天眞井之水、天降于
日向國竟(境)、后遷坐于丹波國、灌其水
於久志比之眞名井(丹波國眞名井三處、久志比・矢原・伊去奈子是也)
乃和其水、以炊供奉豐受大神之神饌矣、
此命坐日向國之時、娶阿俾良依姫
命、生天忍人命、次生天忍男命、次生天忍日
女命、而遷坐於丹波國之時、娶伊加里
姫命、生倭宿禰命、亦名天御蔭命、次生
葛木出石姫命、亦名角屋姫命也
弟 熊野高倉下
母大屋津比賣命

【 】内は曲学の徒による、注記。
倭宿禰命から日本得魂命
http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/13-2nukigaki-yamatonosukune-yamatoetama.htm
倭宿禰命(三世孫)
亦名御蔭命、亦名天御蔭志楽
別命、母伊加里姫命也、神日本磐余
彦天皇【神武】御宇參赴、而獻從祖神傳
來天津瑞神寶
(息津鏡・邊津鏡是也)以奉仕
(彌加宜社、祭神天御蔭命、丹波道主王之祭給所也)此命遷
坐於大和國之時、娶白雲別神女豐水
富命、生笠水彦命
、(笠水訓宇介美都、)
葛木出石姫命(妹)
亦名角屋姫命、母伊加里姫命
笠水彦命(四世孫)
豐水富命、亦名 井比鹿
神渟名川天皇【綏靖】御宇、以天御蔭之鏡爲神寶、以奉仕矣、
此命娶笠水女命、亦名 與志美別、生笠津彦命矣、(笠訓宇介、)
御蔭之神事、今俗稱 葵神事
*與志美別=
笠津彦命(五世孫)
笠水女命
此命娶笠津姫命、生建田勢命矣
建田勢命(六世孫)
笠津彦命之子 一本云、小登與命
一云 建登米之子 亦名 大諸過命
云云
亦名 高天彦命 亦名 大宇那比命
笠津姫命也、大日本根子彦太瓊【孝霊】天皇御宇、
於丹波國丹波郷、爲宰以奉仕、然后移坐于山背國久世郡水主村、
故亦云 山背直等祖也、
后更復移坐于大和國、而娶葛木高田姫命、生建諸隅命(一云、次生 和多津見命矣、
建諸隅命(七世孫)
亦云、建日潟命 亦名彦由麻須命
亦云 建日方命 一云、丹波縣主由
碁理命 母葛木高田姫也、
稚日本根子彦大日日天皇【開化】御宇
於丹波國、割丹波郡與余社郡、
被置竹野姫之屯倉、于時此
命奉仕、故亦名曰、竹野別后
爲郡名矣、此命娶大諸見足
尼諸見己姫、生日本得魂命、
次生 大倭姫命
(一云、次生依網吾彦男垂見宿禰)矣、
日本得魂命(八世孫)
亦名 川上眞若命 母 諸見己姫也、御間城入彦五十瓊殖天皇【崇神】御宇 壬戌年 春三月、
豐鋤入姫命戴天照大神、從大和國笠縫里、移坐于丹波國 余社郡 久志比之眞名井原匏宮、
奉齋天照大神與豐受大神於同殿、而此命等奉仕(同丙寅年秋七月復遷坐
于大和國伊豆加志本宮)
、此時以地口之御田奉、更建校倉、藏其穀實
也、故名曰阿勢久良奠、其倉以稱御田口之祠矣、同天皇
御宇、當國青葉山中有土蜘、陸耳御笠者、而其状賊人
民、故日子坐王奉勅來而伐之、于時此命等奉仕、到于余
社之大山、遂誅之矣、大初瀬幼武天皇【雄略】御宇戌午年秋
七月、匏宮遷坐于伊勢國度會郡山田原矣
御間城入彦五十瓊殖天皇【崇神】御宇拜祭大神宮、亦名倭迹迹日女千〃姫
http://blog.goo.ne.jp/fumioyamashita/c/bd89b3922d669fbbf20e57c5d4926790
『籠神社海部家系図』

建稲種命  亦名須佐之男命
一云 大御氣主命
 一云 大己貴命
亦云 天御蔭命  一云 大足彦命


十一世孫 大直命 大御氣持命

小登與命

亦云 小止與命  亦名 豊秋津姫
亦云 宮簀姫命
亦云 建稲魂命

妹一云 玉依姫命


日女命 亦名日神荒魂命
     亦名稚日女命
亦名小豊姫命  亦名御氣津姫命

亦名豊受姫命  一云活玉依姫

一云倭国香姫
一云倭姫命  一云向津姫

一云大海姫命
一云倉持魂命

http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/kusegakunoto_topic_pr_3834.html

御所市は古くは葛上郡(かつらぎのかみのこおり)と称せられた。葛城は元は高尾張と称されたとされる。尾張氏の名はこの高尾張に由来すると思われる。

神武記に記される葛城の地名伝承である。
『高尾張邑に土蜘蛛がいて、身の丈が短く、手足が長かった。侏儒に似ていた。皇軍は葛の網を作って、覆いとらえてこれを殺した。そこでその邑を葛城とした。』
この土蜘蛛は後の尾張氏とは直接関係しないと思われるが、土蜘蛛の墓と称される場所が現在の一言主神社の近くに在る。


『勘注系図』は天火明命三世孫倭宿禰が、神日本磐余彦(かむやまといわれひこ・神武)天皇御宇參赴(まいりおもむき)、しこうして祖神より傳へ来る天津瑞神寶(あまつみずかんだから)(息津鏡・邊津鏡是也)を献じ、もって仕え奉る。
二世紀初頭の事である

倭宿禰の父を天村雲命とする。

母を伊加里姫命、妻が豊水富命(とよみずほのみこと)である。

 

豊水富命は 神武が 吉野で 出会った女性で、井比鹿(井光いひか)と名づけられた女性である。
倭宿禰の 又の名を 志楽別とする。志楽別 や伊加里姫そして井光姫を 祭る神社が 京都府 舞鶴市にある。倭宿禰は この地に 移り住んだものと思われる。そして『勘注系図』によれば 倭宿禰の児笠津彦、孫笠水彦と続くのである。海部氏の祖先である。


同じく三世孫として、天忍男命と天忍人命という人物を記す。この人たちは先の倭宿禰と異母兄弟で、父を天村雲命、母を日向阿俾良依姫(吾俾良依姫・あひらよりひめ)とする。したがって天村雲命の出身は神武などと同じ日向かもしれない。

そしてこの天忍男命が葛城国造 剣根の娘 賀奈良知姫を 娶る。従ってこの一族が 葛城に 移り住むのは神武の時代で、おおよそ 二世紀初めの頃である。

尾張氏はこの天忍男命の妻賀奈良知姫に始まり、天忍人の妻葛城出石姫、天登米の妻天葛城避姫など葛城の生まれと思われる女性を妻とする。
賀奈良知姫と葛城避姫は国造の出身、葛城出石姫は同族の出身と思われる。何れにしても葛城の生まれであり、このあたり尾張氏は葛城を本拠地とした事は間違いない。