http://6604.teacup.com/tenf/bbs?page=72&
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%99%AA
咅
会意形声。「阜」+音符「咅」。咅は実が二つに割れる様、又は「否」に点を打ち二つに分けるの意。
ふたそろいとなっているかのように付き従うの意。
「部」と偏旁が入れ替わっているが、「隣」などと異なり、意符としての機能が強く、
「部」は「邑(村、地域)」の意に包含される一方、
「陪」は、「阜(丘や階)」の意を有し、身分等の上下関係を含意する。
*意加部彦命= 意加都彦命
http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/27/l50
第19代の天皇の「男浅津間若子宿禰」の「浅津」を 書紀は「朝津」に作る。
これは単に表記の違いであって、まったく何も見えてこない。
他に注目すべき箇所はあるか。
숭신천황の娘に「稚浅津姫」がいる。この人物がポイントだ。
《古事記》 《日本書紀》
숭신天皇 ┌─伊許婆夜和気 숭신天皇 ┌─池速別
┃ | ┃ |
┠──┴─阿邪美都比売 ┠──┴─稚浅津姫
┃ ┃
阿邪美能伊理毘売 薊瓊入媛
古事記の系譜を見ると、「阿邪美能伊理毘売/阿邪美都比売」は母娘。
「阿邪美」という名辞を継いでいることが分かる。次に「稚浅津姫」を
古事記の「阿邪美都比売」と比べると、「稚」は付加であることが分かる。
即ち書紀の「浅津」は古事記の「阿邪美都」である。ここで「ツ」は接尾辞。
ところが同じ「阿邪美」を負う「阿邪美能伊理毘売」が書紀では「薊瓊入媛」。
である以上、やはり「浅津」も「薊瓊」も同じ。別の名前ではないと考えるべき。
★★★★★←→★★★★★
★二七九★←→★水月金★
★一三五★←→★計土羅★(※ここで「計」は「計都」のこと)
★六八四★←→★火日木★
★★★★★←→★★★★★
「男浅津間若子宿禰」の「浅津」は「薊瓊」なのだ。では「薊瓊」とは何か。
【系譜分析29】によれば、第19代の天皇は月宿の「婁」。そのインド名は
「アシュヴィニー」(正確な発音は書けない)。このことを念頭に置いてみると、
「薊瓊」という表記は、インドの月宿「アシュヴィニー」を表わすことが判明する。
それだけではない。「阿邪美都比売」の「阿邪美」は「薊」であって、
「阿邪美都」は「薊都」とも書けるが、実は「薊」の音は「計」に同じ。
したがって「阿邪美都」→「薊都」→「計都」と読み替えることができる。
一方の「アシュヴィニー」は、いわゆる九曜で言えば「計都」。である以上、
「薊」という表記は、最初から「計都」を表わすために用いた可能性が大きい。
#「あしび」を「馬酔木」と書く。「あせび」とも「あせみ」とも言う。
#「アシュヴィニー」は、例えば 舎頭諫経では「馬師」。そうしてみると、
#「馬酔木」と書く背景には、サンスクリット語(ないしイラン語)がある。
稲背入彦命の系譜
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/inase1.htm
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1 「稲背入彦命の系譜の原型と思われるのは、
景行天皇の皇子ではなく、応神天皇= 稚渟毛二俣命(継体天皇の先祖、息長氏族の祖)等は 針間国造(번마국조)の祖ですが、讃岐国造は 稲背彦命の弟・千摩大別命から 出て います。」
*稲背入彦命 =
稲背入彦命が 渡来人(新羅系)の末裔であれば、
大和の穴師坐兵主神社を 創祀したのは 納得できます。 2 以下は、姫路における渡来人の足跡です。
(1) 宮山古墳 姫路市四郷町(市川東岸)
5世紀後半に築かれた首長級墳墓。石室が上下2段に造られており、その構造から朝鮮式(加耶系)古墳とされている。
副葬品についても特徴がみられ、土器(初期須恵器・陶質土器)は畿内において最も早い例になり、環頭大刀(かんとうたち)2本に至っては日本列島で最も早い例になります。
この地に有力な渡来人が移住してきたと思われます。
(2) 新羅神社 姫路市四郷町明田
祭神 応神天皇、神功皇后を主神とする八幡三神。
神功皇后西征の凱旋を祝い、三韓の一つの国であった新羅の名を取り、新羅神社と呼ばれるようになったそうです。
白国神社は 既出故、割愛。
--------------------------------------------------- 1,さて、稲背入彦命については、
『古事記』垂仁段に 皇女 阿邪美都比売命(稚浅津姫命)について、稲瀬毘古王(いなせひこのみこ)に嫁したとありますが、稲瀬毘古王にせよ 稲背入彦命にせよ、同書には 景行天皇の皇子としては 記されません ( 『旧事本紀』天皇本紀にも 垂仁の皇子として あげられて いません)。一方、『書紀』 垂仁紀 三四年には、薊瓊入媛(あざみにいりひめ)は 池速別命・稚浅津姫命を 生むとあり、後者が 阿邪美都比売に当たりそうですが、嫁ぎ先は 稲瀬毘古命。
*阿邪美都比売= 稚浅津姫命
また、 景行紀 四年には、
妃の五十河媛が 神櫛皇子( 讃岐国造の始祖)の生母と見えますが、神櫛王は 景行記に 小碓命(倭建命)祖父と見えて、記紀が 合致しません。
*五十目彦王命.[讚岐君等祖] |