仲哀天皇の怪死
http://ku1924.obunko.com/
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01212.htm
【日下部氏】 開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔で、但馬国造家の後裔である。 孝徳天皇裔とする系図が多く見られるが、大日本史の説に従う。 越前の戦国大名朝倉氏は、日下部氏の後裔を称する。 |
《開化帝裔氏族綱要》 |
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http://homepage2.nifty.com/amanokuni/wani.htm
意祁都比売命・ 姥津媛(おけつひめ・ははつひめ)= 彦坐王の母
天足彦国押人命の孫。
■意祁都比売命の「祁」の字は「け」というより「き」と読んで、「おきつひめ」つまり「沖津比売命」という方が自然であろう。
*沖津比売命= 御眞津比賣命
宗像氏の多紀理毘売命の別名は 奥津島姫(おきつしまひめ)であり、海人の娘としては相応しい名前と言える。また、「新撰姓氏録(右京神別下)」に「宗形君、大国主命 六世孫、吾田片隅命之後也」とあり、
「同(大和国神別)」に「和仁古、大国主命 六世孫、阿太賀田須命之後也」とある。
つまり、宗像氏と和邇氏は同族ということになる。
吾田(あた)とは 大隅隼人の吾田の笠沙の吾田であり、
久米氏との関連も想像できる。
吾田片隅ではなく「吾田大隅」の誤記ではないかと思ったりしている。
http://goutara.blogspot.com/2011/09/blog-post_16.html
http://goutara.blogspot.com/2011/09/blog-post_7033.html
http://goutara.blogspot.com/2011/09/blog-post_17.html
http://goutara.blogspot.com/2011/09/end.html
云々 又 鹿屋野比売神 同 八河比売
大年神の奥さんてか?
大年神は「須佐之男命が 大山津見神の女, 名は 神大市比売を 娶ひて 生みませる 子、
「大年の神」は 大国主命の后神
最後に「藍住町の中富は『中臣』」なのですぞ。
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鹿江比売を中心に据えて、
鹿江比売=忍鹿比売=鹿屋野比売= 八河比売= 八河江比売=
これらを后神とする、(大年神, 大国主命)
天日鷲命= 観松比古命で、
阿波國続風土記では 孝昭天皇= 大麻比古と云うことになり、
大年神の父・須佐之男命=건어명방명.
*高志国の 沼河比売(奴奈川姫)
古代ロマンの人"奴奈川姫"とは 古代のクビキ(久比岐)地方に 奴奈川姫という神様が 住んでいた。
この姫との ... この時の様子を 古事記の中で、応答歌の形で 記して いる( 古事記 詳細)
大国主命と 奴奈川姫の二人の神様の間に 建御名方命という神様が 生まれた。
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=FHpCor_R9dMJ&p=%E5%A5%B4%E5%A5%88%E5%B7%9D%E5%A7%AB&u=homepage2.nifty.com%2Foyashirazu-oumi%2Fhimenosonogo%2Findex.html |
古事記では「沼河比賣命」、風土記では「奴奈宜波比売命」そして旧事本記では「高志沼河姫命」と記されているがいずれも「ぬながわひめのみこと」と読み、高志国奴奈川の郷(現・糸魚川/青海)では奴奈川姫命が一般的な呼び名で、奴奈川姫を祀る奴奈川神社が数ヶ所点在しています。
奴奈川姫(ぬながわひめ)の名は『古事記』・『出雲国風土記』等に登場する高志(越)の国奴奈川の郷の女神です。
特に、『出雲国風土記』においては奴奈川姫の祖父神、父神の名が記されていて御子神の一人「御穂須須美神」が奴奈川姫の子供と明記されています。
また『古事記』『旧時本記』などにはもう一人の御子神「建御名方命」が登場してきます。
しかし奴奈川姫については、高志の国に「八千矛神」(大国主命)が求婚に来た時の様子しか記録されていなく、その後の様子など『古事記』や『日本書紀』・『旧事記本』・『出雲国風土記』などの文献にもほとんど登場していません。
奴奈川姫の誕生から始まり、姫の結婚・奴奈川の郷・そして姫のゆかりの地を訪ねてを紹介してきましたが今回、五部に分けて奴奈川姫とそのお子神たちの記録、そして万葉集に出てくる「渟名川」とは何処に存在しているのか、また『延喜式』神名帳に記載されている「奴奈川神社」は何処なのかなどを検証し、最後に大和朝廷の進出による奴奈川郷の崩壊や、奴奈川の郷と、民を護るための奴奈川姫の決断など、姫のその後の様子を紹介してゆきます。 |
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(1)京都方楽家系図(中原) 参照
■神武天皇→神八井耳命→〔阿蘇国造〕速瓶玉命→火国造→→武恵賀前命→仲津臣→[多氏]
■→武恵賀前命→[仲国造(建借馬命)]
■→〔阿蘇国造〕速瓶玉命 → 健淳美命……[(阿蘇氏へ)]
■十市県主について、『新撰姓氏録』は、十市県主と同族の中原系図において、十市県主は、磯城県主から分れた旨を記載する。
■神八井耳命を祖とする氏族は多いが、中でも「多臣氏」が有名で、
神八井耳命の末の武恵賀前命の孫、仲津臣のとき、多の神を祭る主として多氏となった。
つまり、「多臣氏の元は仲津臣」であり、「常陸の那珂臣氏はその分かれ」であった。
■元は仲臣と呼ばれた有力な氏族として、奈良の春日山麓の大春日氏がいる。
春日山へ出る以前は山の辺の道の天理市に和爾赤坂比古神社・和邇下神社を祭る和邇氏の一族である。
和邇氏は皇統譜に連綿と妃を出した。
■神武天皇 皇后は 大物主・大国主 または 子供とされる 事代主の女子
■二代目 天皇の皇后は 事代主の女子。
一書 師木県主の女子・川派姫。
一書 春日県主 大日諸の女子・縫機姫。
師木県主の祖・河保毘売。
■安寧天皇(磯城津彦玉手看尊・師木津日子玉手見命(『古事記』)の皇后は 事代主神の孫にして 鴨王の子たる「淳名底仲媛(淳名襲媛)」
■春日は十市(中原)
■十市氏系図(豊前宇都宮流佐田氏が中原を名乗っていたことは知られている。)より
■中原が祖とする磯城津彦は
スサノオー 大物主(大国主)― 事代主の子 ― 鴨王の子 ― 大日諸命で, 大日諸命は磯城でもある。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101195_7.html
28宣化天皇と橘仲皇女との間の皇子が十市王。
十市とは 『新撰姓氏録』は、十市県主と同族の中原系図において、十市県主は、磯城県主から分れた旨を記載する。 中原系図によれば磯城津彦の後を十市県主とする。中原が祖とする磯城津彦はスサノオー大物主(大国主)―事代主の子―鴨王の子―大日諸命は磯城でもある。
さらに 52嵯峨天皇后にたつ 多治比高子がいる。母は六人部美留女
六人部氏は京都向日町の神社の祠官を古代から勤めてきた家で、その遠祖は天照国照彦天火明櫛玉鐃速日尊であり、元伊勢の丹後籠神社では この人を事代主としている。古代において天照国照彦天火明櫛玉鐃速日尊の神裔が代々皇后にたってきた。
さらに 中原は 多氏でもあり、古事記の太安万侶を輩出する。
古事記は太安万侶(中原)
日本書紀は舎人親王(中原)
①日本書紀舎人親王(中原)
天武の末。弘宗王 姓を 中原真人と賜う。
左京の人 中原真人 正基に 姓を 清原真人と賜う。その先は 「舎人 親王の末」
葛城高岡(丘・岳)宮(神渟名川天皇・綏靖天皇)のとき
神八井耳命は 当時 春日郡におり、鴨王命の子・県主遠祖大日諸命を 祝となし奉仕させた。・・・
※ 大日諸命=(春日県主・武研貴彦友背命) 安寧天皇(磯城津彦玉手看尊・師木津日子玉手見命(『古事記』)の皇后は事代主神の孫にして鴨王の子たる「淳名底仲媛(淳名襲媛)」
豊前宇都宮流佐田氏が中原を名乗っていたことは知られている。
その後、志賀高穴穂宮のとき、稚足彦天皇の時、武恵(心は四つ点)賀前命 の孫・仲津臣(武彌依米命の子)に詔し、多氏を負う。仲津臣に詔し、外戚・天神 皇妃 両神を 日原の地に斎杞奉る。
(1)京都方楽家系図 参照
神武天皇→神八井耳命→〔阿蘇国造〕速瓶玉命→火国造→→武恵賀前命→仲津臣→多氏 →武恵賀前命→仲国造(建借馬命)
→ 〔阿蘇国造〕速瓶玉命 → 健淳美命……(阿蘇氏へ)
神武天皇 ── 神八井耳命(信濃国造) ―― 健磐龍命 ―― 健稲背命 ─ 健甕富命 ─ 諸日子命─┬ 健莒止理命 ── 伊努古君 ── 世襲彦君 ─┴ 金弓(金刺氏へ)
*信濃国造と伊勢舟木氏は 同祖(神八井耳命)である。
事代主命 (大国主の子)→鴨王命 → 大日諸命(春日県主・武研貴彦友背命)→ 大間宿禰(春日県主)→ 春日日子(春日県主)→ 豊秋狭太彦 → 五十坂彦(十市県主)考昭時春日改称十市→大目彦(十市彦)→ 倭・彦(十市県主)中原連祖
平氏を知るには 中原をしることが 大事。中原は サダ。
鹿島昇氏は その著・ニギハヤヒ渡来の謎で
http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi80.htm
[新出雲勢力](天の一門衆) 畿内を統一? ・王名「阿遅志貴高彦」
阿遅志貴高日子(アジシキ タカネヒコ)
・国津神・阿遅志貴高彦・阿遅鋤高日子・阿治須岐高孫根・味耜高彦根・味鋤高彦・迦毛大御神・鴨大御神とも。
国津神(出雲の神?)。大国主の息(天穂日の息かも?)。
母は 宗像田心媛。天ノ稚彦の兄(兄弟ではなく愛友とも)。下照媛の兄(兄弟に都美波八重事代主とも)。
葬儀の際に、弟(愛友=盟友?)・天ノ稚彦の父・天津国玉一族を 美濃国藍見河河上の喪山に 討伐。「10世神?」。
室に 天ノ御梶媛。息に 天八現津彦、石上ノ多伎都比古。孫に観松彦伊呂止。曾孫に 大日腹富(天日別)・建日別。葛木ノ鴨ノ神奈備に 鎮座(出雲国造 神賀詞)。
<弟(愛友)の一件で高皇産霊神との関係は良好?><天ノ菩比(天穂日)の子孫も出雲国造・・。同じく農業神ですし、天穂日の息子の誰かと同一人物?><鴨神でたどれば、事代主・大物主と同一人物のような気がします。大和(畿内)統一の王だったので「大御神」の尊称で呼ばれるのかもしれませんね。><九州の国造の名のように、遅 ⇔ 速が 対照となっていれば、阿遅は 建速に 対応するものでしょうか。阿遅は 阿蘇・尾曾とか 隼人に通じる?。><饒速日命を迎え入れた大和豪族の鬼王安日・登美ノ安日彦の直系先祖かもしれませんね。アピ磯城タカネヒコ?><大和の秋津・磯城をあわせたものでも通じそうですが・・。昔はカツラギではなく葛城(ク<ァ>ジキ)=磯城(シキ)、遅=速、ニニギ=ニギとか。><シキ・磯城=志貴=シ毛=毛野・ケノ?。><一番単純にはアニシキタカヒコ=兄磯城高日子とも呼べそうです。><出雲の神で、ワコヒコの叔父・天ノ穂日の息・「建比良鳥」・武夷鳥 ・天夷鳥が各地を平定して「武日照」と尊称されるのは、阿遅志貴高日子の事跡と通じるような気がします。ワカヒコと一番近しい関係でもあり、高日子=建比良鳥と結ぶ事が一番自然だと思います。崇神天皇の代に 出雲族との抗争が あったそうですから、史実を 隠蔽・歪曲されたのでしょう。><八咫ノ烏・建角身の息が 阿遅志貴を名乗るようです。やはり「武角身」は出雲系の人物なのでしょうか。><伊勢に攻め込み天ノ櫛玉に撃退された阿倍志彦神とは・・・。>
息に 天八現津彦、石上ノ多伎都比古。孫に 観松彦伊呂止。曾孫に 大日腹富・ 建日別(天 ノ日別)。
http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/55/l50
天目一箇命の子におかれるの が 実態で、兄弟とされる 伊佐我命、天湯津彦、伊佐都命
http://red.ribbon.to/~menorah/tennou.html
長髄彦
(養父スサノオ。
美具久留〔出雲名〕、
大穴牟遅神、
大穴持命、
大物主神〔紀〕、
大己貴命〔紀〕、
八千戈神〔紀〕、
大国玉神〔紀〕、
顕国玉神〔紀〕、
倭大物主櫛甕魂命、
三輪大物主神、
内閣総理大臣、
国会議長、
大物主櫛甕玉〔出雲国造神賀詞〕、
大神神社祭神、
美具久留御魂大神〔大阪:美具久留御魂神社祭神〕)。
正妃に 須世理姫〔スサノオ女〕。
妃に 三穂津姫〔スサノオ女。多紀理姫、田心姫、松〕。
妹三炊屋姫[饒速日妻] ─ 武角身尊(母スサノオ女三穂津姫〔多紀理姫、田心姫、松〕)。阿遲{金且}貴高日子根命、阿遲志貴高日子根命、味耜高根彦)、
妹下照姫命(母同。下光姫、高姫。天稚彦尊妻)、
弟伊毘志都幣尊(母同。都味歯事代主神、八重言代主神、八重一言主神、玉櫛入彦厳之事代主尊)。
弟建沼河男命[越祖]、
弟健御名方命、
弟国忍富命 ─ 雲山命 ─ 湯地主命… 〔須佐神社神主家〕稲田氏、須佐氏)
─ 天日方奇日方命(妹姫踏鞴五十鈴媛命[母勢夜陀多良比売。神武后]、妹五十鈴依媛命[綏靖后]、弟天八現津彦命)─ 健飯勝命(妹淳名底仲媛命[安寧后])─ 健甕尻命─ 豊御気主命─ 大御気主命(弟 健飯賀田須命)… 胸形徳善─ 宗形赤胡(妹尼子娘)。
安日彦(長髄彦と同一か)、
弟長髄彦(大国主神)、
妹三炊屋姫(御炊屋姫。饒速日妻)。
大国主神- 事代主神-+-姫踏鞴五十鈴媛命(神武后)+-五十鈴依媛命
+-(鴨王)--淳名底仲媛命(安寧后)
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02107.htm
【度会氏】
│ ㅣ
├真玉着玉之邑日女命 │ ┌許登能麻遅媛命
│ │ │
├志佐加比比女命 ├天背男命─┼天日鷲翔矢命─┬大麻比古命──由布津主命(斎部氏へ)
│ │ │ │
├宇武賀比比女命 │ ├天比理乃咩命 ├天白羽鳥命…【神麻績氏】
│ │ │ │
├天津枳値可美高日子命 │ ├天津羽羽命 └天羽雷雄命(県犬養氏へ)
│ │ │
└八尋鋒長依日子命 │ ├天万栲幡千幡比売命
│ │
│ └櫛明玉命……【玉祖氏】
│
└天嗣杵命──天鈴杵命──天御雲命──天牟良雲命(度会氏へ)
http://red.ribbon.to/~menorah/tennou.html
=由布津主命
天八現津彦命(事代主命二男)─ 観松比古命─ 大日腹富命 ─ 建美奈命 ─ 甕男立命 ─ 麻斯命(億岐国造。隠岐祖)。
|
|= 孝昭= 意富伊我都命
|= 伊佐我命= 大麻比古命
+- 建日別命 ─ 伊侶止乃命 ─ 八上乃命─ 押古呂命 --
l = 天湯津彦= 天白羽鳥命 (弟 振根命)
|
+- 健御名方命 ─ 伊豆早雄命 ─ 片倉辺命 ─ 恵奈武耳命 ─ 水隈命。
= 天羽雷雄命
http://red.ribbon.to/~menorah/amatsuhikonenomikoto.html
天津彦根命 ─ 天御影命 ─ 意富伊我都命 ─ 彦伊賀都命 -─ 天夷沙比止命 ─ 川枯彦命 ─ 坂戸彦命 ─ 国忍富命 ─>
(弟 天久之比乃命 [桑名祖] (弟 阿多根命)
(弟 天麻比止都命 [山代祖] (弟 彦巳曽根命 [凡河内国造])
(弟 天戸間見命(= 天斗麻彌命) [須恵国造。末祖]【額田部氏】
(妹 彦稲勝命〔須恵国造〕【末氏】
>─ 大加賀美命 ─>
(弟 水穂真若命 [蒲生吉樹祖]
(弟 筑箪命 [筑波国造]
(弟 加志岐禰命 [白根祖]
(妹 息長水比売命
>─鳥鳴海命〔穴門国造〕速都鳥命─八倉田命─室毘古命─桜井命─比賀多命─多奇日子命(三上祖)。
* 阿多根命(意富伊我都命 二男)─知久流美命─苫麻杵命─伊加利乃命─長溝命─大国不避命─曽能振命(山背国造。山背、山代、鷹羽、越水、中村の祖)。
* 彦己曽根命(意富伊我都命 三男。凡河内国造)…凡河内香賜─味張…石麿…躬恒恒寿、弟勢恒─恒誉─恒快─広峰勢連─快誉─覚誉(弟智範)─良覚(弟高綱─久綱─家綱)─快真。
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=DuZUwdoUE9gJ&p=%E5%BD%A6%E5%B7%B1%E6%9B%BD%E5%88%A9+%E5%AD%9D%E5%AE%89%E5%A4%A9%E7%9A%87&u=homepage3.nifty.com%2Fkiya%2Fsehachi%2Fkeifu%2Fkeizu00.htm
■「春日氏・和珥氏・小野氏・柿本氏・粟田氏」推定系図
> ━孝昭天皇┳┳━ 天足彦国入 ━┳和爾日子押入━┳彦国姥津━━┳伊富都久
┃┃ 天足彦国押人 ┃稚押彦 ┃ひこくに ┃[丈部丸部祖]
世襲足姫━┛┃[和珥臣等始祖┃わかおしひこ ┃ ははつ ┃
┃ ┃ ┃ ┣袁祁都依比売
┃ ┃ ┃ ┃(彦坐命妃)
┗孝安天皇 ┗押姫 ┗彦祁都比売 ┣彦国葺━━━┳━建耶須禰━━━八千宿禰
(孝安天皇后) (開化天皇后) ┃ひこくにぶく┃ [吉備国 造安那公祖]
┃ ┣━大口納━━━┳難波根子建振熊━━┳米餅搗大臣命
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02123.htm
《天津彦根命裔氏族》 |
┌天御影命──意富伊我都命──┬彦伊賀都命──天夷沙比止命──川枯彦命──坂戸彦命─
│ │ │ ├天久之比乃命……【桑名氏】 ├阿多根命──知久流美命──苫麻杵命──伊加利乃命─┐
天津彦根命 ┤ │ │ │
├天麻比止都命……【山代氏】 └〔凡河内国造〕彦己曽根命(凡河内氏/広峯氏へ) │ │ │ │ │ ├天戸間見命……【額田部氏】 ┌─────────────────────┘ │ │ │ │ └彦稲勝命……〔須恵国造〕【末氏】 └長溝命─┬大国不避命─┬曽能振命(山背国造へ) │ │ │ │ ├真木毘売命 ├苅幡戸弁 │ │ │ │ ├荒毘売命 └弟苅幡戸弁 │ │ │ ├玉手毘売命 │ │ │ └荏名津比売命 │ │ ┌──────────────────────────────────────────────────┘ │ │ ┌鳥鳴海命──八倉田命──室毘古命─桜井命─比賀多命─┬多奇日子命(三上氏へ) │ │ │ │ ┌大加賀美命─┴〔穴門国造〕速都鳥命(穴門国造へ) └中彦命 │ │ ├国忍富命─┼水穂真若命……(系不詳)……【蒲生】吉樹──重材──親任──親家──助家─┐ │ │ │ │ ├筑箪命〔筑波国造〕(三枝部氏初期綱要へ) ┌─────────────┘ │ │ │ │ ├加志岐禰命【白根氏】 └家清─┬俊清──惟俊(藤原氏秀郷流蒲生氏へ) │ │ │ │ └息長水仍比売命 └舜清(藤原氏教通流蒲生氏へ) │ └建勝日命──意美津奴彦命──塩見宿禰命(甲斐国造へ)
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http://rokusan.comoj.com/data7.html
http://www.geocities.jp/mb1527/gouzokukeizu.html
三上氏 系図
2 3 4 5 6 7 8 9 10
天津彦根━━天御影━━意富伊我都━┳阿多根━━知久流美━━苫麻杵━━伊加利乃━━長溝━━大国不避━━真木毘売━━苅幡戸弁 ┃ ┗彦己曾根
http://www.ten-f.com/keifu-kunioshitomi.htm
凡河内氏 や 額田部氏 更には 山代氏(山背国造)の祖先とも言われる 天津彦根命の子神である 天御影命(あめのみかげ)の系譜は、
天津彦根命--天御影命--意富伊我都命--彦伊賀都命--天夷紗比止命--川枯彦命--坂戸彦命--国忍富命--大加賀美命--鳥鳴海命--八倉田命--室彦命--桜井命--比賀多命--多奇彦命(三上直の祖)
*坂戸彦命= 伊香色迷命.
*多奇彦命=
*八代目に当たる 国忍富命(くにおしとみ)の娘の一人が、彦坐王に 嫁いで 丹波道主命と水穂真若王を 産んだ 息長水仍比売だ とされて います。
*崇神天皇= 国忍富命 --- 息長水仍比売.
神名に含まれている「御影」を「神の姿を写す鏡」の意だと捉えるなら「大加賀美(おおかがみ)」「比賀多(ひかた)」などの名前が 三上氏の祖先として 挙げられる事に 不自然さは 感じられません。
http://blogs.yahoo.co.jp/kensetukan/archive/2011/8/27
登場する神
『古事記』や『日本書紀』に登場する神もいくつか登場するが、当風土記にのみ登場する神も多い。ここでは複数の地名説話で名が挙げられた神とその妻や子らのみを挙げる。神名の漢字表記は最初に登場したものを採用し、読みの「のみこと」は省略する。
八束水臣津野命(やつかみずおみつの)
「八雲立つ」の言葉を発し、この国を出雲と命名したとされる。国引き神話において遠方の土地を引っ張って出雲国を形成した。『古事記』のスサノオの系譜に名の見える「淤美豆奴命」と同一神と見る向きもある。
子に以下の神がいる。
赤衾伊農意保須美比古佐和気命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけ) - 出雲郡伊努郷
(妻、天甕津日女命(あめのみかつひめ) - 秋鹿郡伊農郷)
所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)大穴持命(おおなもち)
当風土記では最も登場回数が多い神である。「越の八口」を平定して出雲に帰還した後に意宇郡母里郷で国譲りの宣言を発した。神門郡を中心として妻問いの説話が多い。大原郡では八十神を討つために行動を起こしている。
妻問いの相手として、
奴奈宜波比売命(ぬながわひめ) - 島根郡美保郷
綾門日女命(あやとひめ) - 出雲郡宇賀郷
真玉著玉之邑日女命(またまつくたまのむらひめ) - 神門郡朝山郷
八野若日女命(やのわかひめ) - 神門郡八野郷
和加須世理比売命(わかすせりひめ) - 神門郡滑狭郷
が登場し、また子に以下の神がいる。
山代日子命(やましろひこ) - 意宇郡山代郷
阿遅須枳高日子命(後述)
御穂須須美命(みほすすみ、) - 島根郡美保郷、奴奈宜波比売命との子
和加布都努志能命(わかふつぬし) - 秋鹿郡大野郷、出雲郡美談郷
阿陀加夜努志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめ) - 神門郡多伎郷
布都努志命(ふつぬし)
意宇郡の楯縫郷と山国郷に登場する。
神須佐乃烏命(かむすさのお)
記紀と異なり自身の登場回数は少なく、大穴持命との血縁関係は伺えない。意宇郡安来郷、飯石郡須佐郷、大原郡佐世郷と御室山に登場する。須佐郷で自らの御魂を鎮めた。
子として、
青幡佐久佐日古命(あおはたさくさひこ) - 意宇郡大草郷、大原郡高麻山
都留支日子命(つるぎひこ) - 島根郡山口郷
国忍別命(くにおしわけ) - 島根郡方結郷
磐坂日子命(いわさかひこ) - 秋鹿郡恵曇郷
衝桙等乎而留比古命(つきほことおるひこ) - 秋鹿郡多太郷
八野若日女命(前出、大穴持命の妻問いの相手)
和加須世理比売命(同上)が 登場する。
また飯石郡熊谷郷には 記紀で 妻となる
クシナダヒメ と同一神と見られる
久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)が 登場する。
伊弉奈枳命(いざなぎ)
自身は登場せず、子として以下の神が登場する。
熊野加武呂命(くまのかむろ)(熊野大神) - 意宇郡 出雲神戸、島根郡 朝酌郷
都久豆美命(つくづみ) - 島根郡 千酌駅
阿遅須枳高日子命(あぢすきたかひこ)
神門郡 高岸郷と仁多郡 三沢郷において 父の
大穴持命に
養育される 様子が 描かれて おり、
葛城の賀茂社に 鎮座して いると記されている。
妻として
天御梶日女命(あめのみかじひめ)、(楯縫郡 神名樋山に 登場)が おり、子に 以下の神が いる。
多伎都比古命(たきつひこ) - 楯縫郡 神名樋山、天御梶日女命との子
塩冶毘古命(やむやびこ) - 神門郡 塩冶郷
http://kamnavi.jp/log/yumv0802.htm
>大物主命は 蛇、倭迹々日百襲姫は 人間界の巫女。
現人神(あらひとがみ)と言われたかつての諏訪上社の大祝は少年にその資格がありました。
伊勢斎宮を太陽神に仕える巫女としますと、そこから想定される初期の太陽神は男神であったろうと思います。同じように少年に資格があった諏訪の大祝も、元にあった信仰とは大地母神に仕える司祭者であったと思っています。 それが出雲系社会の伝統を継承したものであったなら、大国主も元は出雲系社会の最高神たる大地母神(蛇神)に仕えた司祭者であり統治兼務者。
それが現人神、神そのものと意識される事によって、大地母神であった蛇神とも一体化したのではないでしょうか。
> 男根と女陰の結合でもある箸墓伝承、出雲文化と天孫文化の当時のありようが形を変えた壮大な道祖神、なのかもしれません。
大地母神を信仰上の最上位に抱く社会(縄文からの影響を受ける)と、太陽神を最上位に抱く社会の統治権の入れ替わり、あるいは共立による祭祀の習合の影響が三輪山周辺の伝説を生んでいるのではないかと思います。
“魏志倭人伝”において卑弥呼に食事を運び、伝達を職とする1人の男性がいたと、記録されています。
当時の統治(祭祀との複合)形態がすでに出雲系社会との共立の上になりたっていたのではないかと考えたとき”事代”というのがその男性の職名ではなかったかと思います。
時代は下りますが顕宗紀に阿閉臣事代が任那に遣わされ、日月の神の託宣を受けています。
阿閉は食に通じますし、同族に 膳氏も 輩出する大彦命の系譜が この役職、事代だったのではないかと考えます。
大彦命の母は 鬱色謎命。
兄の鬱色雄命は 先代旧事本紀で「活馬の長沙彦の妹、芹田真稚姫を娶り」とあって、
この長沙彦が 長脛彦の事であったなら 鬱色雄命が 記紀神話上の”饒速日命”と重なります。
このウツシコオにも通じるかと思うのですが、ウズヒコ、ウツヒコは尊称ではなかったかと思っています。
記紀神話において神武軍が海上で出会う宇豆彦と国譲りのさいの事代主が似ます。
出雲大社 近くの命主神社社殿裏の大岩の下から銅戈とヒスイ製の勾玉が見つかっています。
椎根津彦命を祭る神戸の保久良神社にも岩座群があり銅戈が出土しており祭祀上の類似が見られます。
出雲-若狭-近江-大和-摂津-河内-紀伊-播磨あたりを結んでいた出雲系の弥生中期の勢力が鬱色雄命、鬱色謎命に繋がり、その血を引く大彦命が出雲系の司祭を継承し、女王国の事代(職)についていたのではないかという考えです。
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/settu-yosami.html
依羅氏は依羅我孫氏とも呼ばれるが、姓氏禄には「摂津国(神別) 我孫 大己貴命孫 天八現津彦命之後也」との氏族がある。この我孫氏と依羅我孫氏との関係は不明だが、この天八現津彦(アメノヤウツヒコ)を祭神とする古資料(名葦探杖)もある。依羅氏には幾つかの系譜があり、それらが輻輳しあった難しい氏族だったことを示唆する。
http://marishi.weblogs.jp/blog/2010/04/
建御名方神の素性
建御名方神の素性を明らかにする。すでに多くの方がいろいろな見解を示されている。筆者なりきに整理し、纏めたものであり、特に新しい発見はない。
先ず、建御名方神と高志国、沼河比売との関係や国譲りについて記紀等の記載を見る。
・『古事記』によれば、八千鉾神(大国主神)は高志国の沼河比売(奴奈川姫)と結ばれる。また、建御名方神は我が子という。ただし、沼河比売との間の子とは明示されていない。国譲りについては、建御雷神が大国主神の子である事代主神と建御名方神を服従させ、大国主神から国譲りをされる。
・『先代旧事紀』によれば、建御名方神は 大国主神が 娶った 高志国の沼河比売(奴奈川姫)との間の子とされる。国譲りについては『古事記』と同じである。
・『日本書記』には、建御名方神は記載されていない。『日本書紀』の一書では、経津主神、建御雷神を遣わして、葦原中国を平定させる。国譲りを催促し、大己貴神(大国主神)、大物主神、事代主神が帰順する。
・『出雲風土記』では、大国主神が娶った高志国の沼河比売(奴奈川姫)との間の子は、神御穂須須美命であり、三保に鎮座されている。建御名方神は記載されていない。
・『諏訪大明神画詞』には建御名方に関する次のような言い伝えが残されている。
「当社明神ノ化現ハ仁皇十五代神巧皇后元年ナリ」、「筑紫ノ蚊田ニテ応神天皇降誕シ給フ。八幡大井是也。八幡大井、諏訪、住吉同体ノ由来アリト申」
つまり、筑紫の博多で誕生した応神天皇の別名は八幡大井だったとし、神巧皇后の生んだ応神天皇(八幡大井)は、諏訪大明神(建御名方神)と同一人物だったとする。『諏訪大明神画詞』については、議論の対象外としたい。
以上から、『先代旧事紀』が、建御名方神を 母である 沼河比売を 通して 高志国との結びつきを示すが、それ以外には高志国、沼河比売との関係は明示されていない。それも『出雲風土記』によって否定される。
しかし、『先代旧事紀』と『古事記』の記載を信じれば、国譲りの出来事があった時期に建御名方神が諏訪に入ってきたことになる。本当に、信じてよいのだろうか?
もう一度、諏訪大社に祀られている神についてみる。諏訪大社の主祭神は建御名方命とするが、別称として建御名方富命・南方刀美命・御名方富命がある。
諏訪大社の名称については、南方刀美神社(みなかたとみじんじゃ)、建御名方寓命神社(たけみなかたとみのみことじんじゃ)、諏方南宮上下社、諏訪神社、諏訪上下社とも呼ばれる。
記紀には大きなからくりがある。その一つが建御名方命の扱いである。解明するため、記紀における神武東征を見よう。
・『古事記』では、東征において神武軍と戦うのは 登美の 那賀須泥毘古、またの名は登美毘古であり、妹は登美夜毘売という。また、東征の最後において、邇芸速日命(にぎはやしのみこと)は 神武に 天津瑞(あまつしるし)を献じて仕える。邇芸速日命は 那賀須泥毘古の妹 登美夜毘売を 娶り、子を 宇摩志麻遅命である。那賀須泥毘古の生死については 記載されていない。
*邇芸速日命- 宇摩志麻遅命
*饒速日命- 宇摩志麻遅命
・『日本書紀』でも磐余彦尊の率いる神武軍と戦うのは長脛彦と記載され、妹は三炊屋(みかしきや)媛、またの名は鳥見屋(とみや)媛という。戦いの終盤、金色の霊鵄(とび)が飛んできた。鵄は磐余彦尊の弓先に止まった。その鵄は光り輝き、まるで雷光のようであった。このため長髄彦の軍の兵達は皆幻惑されて力を出すことが出来なかった。長髄というのは元々は邑の名だが、これを人名にも用いた。磐余彦尊が鵄の力を借りて戦ったことから、人々はここを鵄の邑と名付けた。今、鳥見というのはこれが訛ったものである。櫛玉饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)またの名は鳥見屋媛を娶り、子は可美真手命(うましまでのみこと)という。饒速日命は長髄彦を殺害し、饒速日命は部下と共に磐余彦尊に帰順したと記載する。
・『先代旧事紀』では、饒速日命は長脛彦の娘の御炊屋媛を娶り、その子は宇麻志麻遅命である。また、饒速日命が 亡くなったとき、形見の天璽瑞宝を 登美白庭邑(奈良県生駒市の北部)に埋葬した。宇摩志麻地命は舅(長髄彦)は謀をして舅(長髄彦)を殺し、衆を率いて帰順したと記載する。
長髄彦、すなわちは鳥見白庭山を本拠地とし、その勢力圏は隣接する領域を次々に傘下におさめ、それは三輪山一帯にまで及んでいたのではなかろうかする見方さえある。建御名方命は長脛彦その人か、あるいはその子であり、神武との戦いに善戦し、敗れ、諏訪に下ったと考える。記紀の記載に反し、建御雷神、経津主神と共に日本三大軍神と称えられるのは それなりの理由があるのだ。
また、
記紀は出雲の国譲りを効果的に表現するため、神武東征の戦いで健闘した建御名方命を国譲りという別の出来事に登場させ、敗れた武将として記載し、神武東征においては長髄彦として扱ったのである。
一層明確にするには系図が重要になるが、信頼できる宝賀寿男氏の見解を参考にする。詳細は、「長髄彦の後裔とその奉斎神社 宝賀寿男」を参照のこと(パソコンで検索可能)。
上記資料から次の一文を紹介する。[ ]内は筆者の記載。
『磯城の三輪氏族が主体をなしていた「原大和国家」の基礎は、二世紀前葉頃の大物主命(櫛甕玉命)ないしその父祖による博多平野から大和の三輪山麓への東遷により築かれた。それ以来、ほぼ五十年にわたり、その子の事代主命(玉櫛彦命)、さらにその子弟の長髄彦(八現津彦命)、と竜蛇信仰をもつ海神族系統の三輪氏族の君長が続いた。』
『神武の大和侵攻に抵抗したのが三輪の事代主神の子弟一族であり、事代主神の子と伝える長髄彦、及び事代主神の弟とされる建御名方命(これらの所伝そのままだと、建御名方命は長髄彦の叔父となる)ということになる。
[所伝:『古事記』および『先代旧事紀』によれば、建御名方命は 事代主命の弟である。]
ところで、建御名方命の別名が建御名方富命(南方刀美神)とも書かれ、「富・刀美」が地名「登美」の意味なら、同神が即「登美の長髄彦」に通じる可能性がある。長髄彦の妹が饒速日命に嫁したという世代対比でいえば、長髄彦は神武と時代は多少重なるものの、神武の一世代前の人とみることができるので、その場合には「建御名方命=長髄彦」の感が強くなる。長髄彦の後裔が逃れた阿波国名方郡の地に、建御名方命を祀る式内社の多祁御奈刀弥神社があるのも、上記の後期銅鐸の出土などとも併せ、その傍証となろう。この場合には、実際に神武朝に諏訪や阿波へ移遷したのは、建御名方命すなわち長髄彦の子や孫などの一族だとみられる。』
[多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社の祭神は、建御名方命と八坂刀賣命。阿府志によると、高志国造の阿閇氏が、この附近に住み、この地に産まれたという建御名方命を祀った、とされる。]
三村隆範氏は、『阿波と古事記』に次のように述べている。
「徳島県板野郡上板町高瀬周辺は,旧地名を高志と呼んでいた。高志の南は,名西郡石井で関の八幡神社(写真下)に沼河比売が合祀され祀られているという。近くに式内社の多祁御奈刀弥神社があり,建御名方神が祀られている。『古事記』では沼河比売の住む高志を北陸にあてる。島根県の話がいつの間にか北陸の話に変わってしまっている。」
このことは、大国主神と大物主神は別神であることを示している。極めて重要な示唆であり、前に述べたとおり、出雲の国譲りと神武東征の登場人物を明確に区分けしなければならない。
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bajwp500/index/shinnwa/shinwa.htm
大国主神の神裔
大国主神が胸形の奥津宮(おきつみや)に鎮座している神、多紀理毘売(たきりびめの)命を娶って生んだ子は、阿遅すき高日子根(あぢすきたかひこねの)神。
次に妹、高比売(たかひめの)命を生んだ。またの名を下光比売(したてるひめの)命という。この阿遅すき高日子根神は今、迦毛大御(かものおほみ)神という。
大国主神が神屋楯比売(かむやたてひめの)命を娶って生んだ子は、事代主(ことしろぬしの)神。
また八島牟遅能(やしまむぢの)神の娘、鳥耳(とりみみの)神を娶って生んだ子は、鳥鳴海(とりなるみの)神。
この鳥鳴海神が日名照額田毘道男伊許知邇(ひなてりぬかたびちをいこちにの)神を娶って生んだ子は、国忍富(くにおしとみの)神。
この国忍富神が葦那陀迦(あしなだかの)神、またの名は八河江比売(やかはえひめ)を娶って生んだ子は、速甕之多気佐波夜遅奴美(はやみかのたけさはやぢぬみの)神。
この速甕之多気佐波夜遅奴美神が 天之甕主(あめのみかぬしの)神の娘、前玉比売(さきためひめ)を娶って生んだ 子は、甕主日子(みかぬしひこの)神。
この甕主日子神が 淤迦美(おかみの)神の娘、比那良志毘売(ひならしびめ)を娶って生んだ 子は、多比理岐志麻流美(たひりきしまるみの)神。
この多比理岐志麻流美神が 比々羅木之其花麻豆美(ひひらぎのそのはなまづみの)神の娘、活玉前玉比売(いくたまさきたまひめの)神を 娶って生んだ 子は、美呂浪(みろなみの)神。
この美呂浪神が 敷山主(しきやまぬしの)神の娘、青沼馬沼押比売(あおぬまうまおしひめ)を娶って生んだ 子は、布忍富鳥鳴海(ぬのおしとみとりなるみの)神。
この布忍富鳥鳴海神が 若尽女(わかつくしめの)神を娶って生んだ 子は、天日腹大科度美(あめのひばらおほしどみの)神。
この天日腹大科度美神が 天狭霧(おめのさぎりの)神の娘、遠津待根(とほつまちねの)神を娶って生んだ 子は、遠津山岬多良斯(とほつやまさきたらしの)神。
右の件(くだり)の八島士奴美(やしまじぬみの)神以下、遠津山岬帯(とほつやまさきたらしの)神 以前を、十七世(とまりななよ)の神と称す。
http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/backup1.html
288 |
岩と桜に象徴される神 |
風琳堂主人 |
2002/03/17 13:28 |
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生田貴士さんの記事「桜の名所に〝弁天伝説"」の紹介をありがとうございました。 この記事で興味深いのは、旧三河国の中心の川=「賀茂の御河」=矢作[やはぎ]川に胸形神社がまつられていることです。しかも、宗像ではなく胸形と古名を社名に残していることも興味深いです。 宗像神(の一神=女神)は、当然ながら海→河口からさかのぼったものとおもいます。ところが、記事の伝承では、胸形神社の祭神=弁天さんのまつられかたの由来を「雨続きの日、弁天様が上流から流され、川波で岩に打ち上げられた」としています。 「上流から」弁天さんはやってきたという伝承は、これ自体、下流からさかのぼったはずの宗像神に、弁天があとから(上から)かぶったことを伝えています。 まさに「上から」なのでしょう。 ところで、矢作川の岡崎を中心とした中流域は、瀬織津姫が天白神の名でもっとも集中してまつられているところです。東の天竜川も天白神の川ですが、この矢作川の平戸橋のさらに上流部の足助[あすけ]町にも、瀬織津姫が天白神の名で二社にまつられています。 矢作川は瀬織津姫を川神=水神としていることは明白で、そこに胸形神社の弁天さんと「桜」です。 持統天皇の三河行(702年)のとき、彼女は、この矢作川流域の物部氏ゆかりの山に桜を植えています(岡崎市・村積山[別名=三河富士])。 桜と弁天さんが関係があるとするなら、これはもうひとつ媒介を立てないと、この関係の必然が見えてこないようです。 伊勢の元神の伊雑[いざわorいさわorいぞう]神ですが、伊雑宮の元宮が鳥羽市の海辺にあります。たしか伊佐波神社といいます。地元の人は「かぶらこさん」と呼んでいますが、ここの現在の祭神は宗像の三女神で、宗像神が伊勢の元神と同神の可能性をうかがわせています。そして、伊勢の元神の一神が荒祭神=瀬織津姫でもあります。 矢作川の川神として瀬織津姫がはっきりしていますし、また、伊勢の元神に宗像神が表示されているわけですから、「桜の名所」にある胸形神社の弁天さんがどんな神にかぶったものかは自ずと想像がつくというものです。
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http://kumoi1.web.fc2.com/CCP091.html
○活玉前玉比賣(いくたまさきたまひめ)神。活玉は生御霊の意味か。延喜式神名帳には、攝津國東生(ひがしなり)郡に、難波坐生國魂(なにわにますいくくにみたま)神社【一本に「生國咲國魂(いくくにさきくにみたま)」ともあるのは、ここの活玉前玉にぴったりである。】も、今の世では「いくたま」と呼ぶ。それとも前に出た天神の十種の神宝のうちの生玉と同じように、宝玉の意味をこめて讃えた名だろうか。前玉は上述したのと同じ。
○美呂浪(みろなみ)神。和名抄に、上野國佐位郡の美侶郷という地名がある。浪は借字で、「な」も「み」も例の讃え名であろう。【山城國久世郡に奈美郷があるが、これではないだろう。】
○敷山主(しきやまぬし)神。延喜式神名帳には越前國今立郡に敷山神社がある。【師は志藝山津見のことと考えて、ここも「しぎやま」と読んだが、「敷」の字はやはり清音に読むべきである。】
○青沼馬沼押比賣(あおぬまぬおしひめ)。「沼馬」の二字を「ぬま」と読むべきである。【「沼」の一字も「ぬま」と読むが、この字は古い書物では「ぬ」と一音に読むことが多いので、「馬」の字を添えている。この記の中巻、また神名帳でも、「沼間(ぬま)」と書いた例がある。馬の字も、音ではなく、訓を取っている。】延喜式神名帳に、武蔵國多麿郡の青渭(あおぬ)神社がある。【「渭」の字を、今の本で「い」と読んでいるのは間違いである。】和名抄には、甲斐國巨麻郡の青沼、【あおぬま】信濃國佐久郡の青沼がある。沼押は「ぬおし」と読む。【これはこの神の御子の名「布忍(ぬのし)」と同言のようなので、「ぬのし」とも読めそうだが、もしそうなら同じ字を用いるはずなのに、違った字で書いているのは、同言であっても、こちらはいにしえから「ぬおし」と読んでいたからだろう。この「沼」の字を、延佳本などで「治」と書いているのは誤りである。また師が「あおぬのぬまおし」と読んだのもよくない。】
○布忍富鳥鳴海(ぬのしとみとりなるみ)神。布忍は「ぬのし」と読む。【「忍」の「お」は「布」の「の」に音が含まれているので省かれる。】母神の「沼押」と同じである。和名抄に越中國射水郡の布師、【ぬのし】土佐国安藝郡の布師、【ぬのし】また河内國丹比郡にも布忍(ぬのし)の荘がある。【書紀では、景行天皇の皇子に渟熨斗(ぬのし)皇女、日本武尊の子に布忍入姫(ぬのしいりひめ)の名がある。天智紀に布師の首(おびと)という人がいる。また新撰姓氏録の左京神別に布師首が出ている。】「富」は讃え名である。鳥鳴海は、六世の祖と同じ名だが、この神も鳥の郷に関係があるのだろうか。
○若晝女(わかひるめ)神。書紀には「稚日女尊(わかひるめのみこと)が齋機殿(いみはたどの)で神の御服を織った」【これを旧事紀で「織女稚日姫尊は、天照大御神の妹である」と書いているのは、天照大御神の「大日レイ(靈の下が女)」という名に対して、推量でその妹と言ったのか。天照大神の妹なら、「織女」というのも不適当である。書紀口决で伊弉諾の子と言っているのは、旧事紀を根拠としているのだろう。だたし書紀で「尊」の字を書き、また「日女(ひるめ)」という名であることなど、どういう訳かよく分からない。書紀神功の巻には、「また稚日女尊は教えていわく、『私は活田の長狹國に住みたい』と言った」とある。】とあるが、ここに出るのはその神とは別だろう。【織女稚日姫尊は、その頃既に世を去っている。それでも強いて同神とするなら、その御霊がどこかに鎮まっていたのが、ここで現身の乙女となって婚姻したのだろうか。】そうなると、「晝女(ひるめ)」という名の方が疑わしい。諸本で「晝」を「盡」と書いているのも、あながちに捨てることはできない。だがここでは一応延佳本によっておいた。
○天日腹大科度美(あめのひばらおおしなどみ)神。出雲国風土記の大原郡の條に日原社がある。延喜式神名帳では、丹後國加佐郡にも日原神社がある。科度美は、書紀に出ている風の神、「級長戸邊(しなとべ)」とよく似ている。【ただし「戸邊」は一般に女の名である。】また神名帳には、河内國石川郡に科長(しなが)神社がある。【「級長戸邊」も「級長」を「しな」と読んでいるので、この神名の「科」も「科長」の意味だろう。】その父神の「布忍」の名も、前記のように今の河内の地名にあるので、この地に由縁がありそうである。「度美(どみ)」というのは、中巻の終わりの方に「菅竈由良度美(すがのかまゆらどみ)」という名があるが、それは女の名である。こちらは「富」の意味で讃えたのだろうか。
○天狹霧(あめのさぎり)神。この名は前に出た。この神の娘ということは、やはり神の御霊が男の姿になって、人間の女に通って生ませた子であろう。【新撰姓氏録にも「羽束(はつか)は佐鬼利(さぎり)命の三世の孫、斯鬼乃命(しきのみこと)の子孫」という記載がある。】
○遠津待根(とおつまちね)神。遠津は地名だろう。水垣の宮(崇神天皇)の段に、「遠津年魚目々(とおつのあゆめめ)微比賣(くわしひめ)」という名があり、その遠津も地名である。【それは木の国である。】待根【借字】は、「ま」は「真」、「ちね」は前に出た「天之都度閇知泥(あめのつどえちね)神」、書紀垂仁の巻の「十千根(とおちね)」などの例がある。「たらちね」の「ちね」で、【師は「たらちね」を「足らしね」で、「し」を「ち」と通わせて言うと言ったが、そうならば直接に「たらしね」と言うべきなのに、「ち」と言うのは、「足らしちね」の「し」を省いたのである。】讃え名だろう。
○遠津山岬多良斯神(とおつやまざきたらしのかみ)。遠津は母神の名による。母の住んだところの名で、この神が生まれた場所でもあろう。岬は「さき」と読む。書紀の神武の巻に「丘岬、これを『おかさき』と読む」と言い、和名抄には「唐韻にいわく、岬は山の側である、弘仁私記に『みさき』とある」などがある。この山岬(やまざき)も地名か。山城國乙訓郡に山埼郷があり、延喜式神名帳では同郡に神足(こうたり)神社がある。「たらし」は「足り」の意味なので、由縁がある。【書紀では一般に名の「たらし」を「足」と書いている。この記で「帯」と書いているのは借字である。「帯」をこう読む意味は、伝六の六十四葉で既述した。上で引いた新撰姓氏録の「羽束」も摂津国神別で、そこの地名だが、山城国乙訓郡にもあって、外祖父神にも縁がありそうだ。河内の科長もそう遠くなく、いろいろ山城の山崎に縁があるようだ。】
http://park1.wakwak.com/~vine/mati/siryou/hiroshima.html
安芸国(あきのくに)の由来
太古、神武天皇がこの国に入りませし時、食料がアキアキするほどあったから「飽きの国」と名づけられ、安芸ノ国になったともいわれるが、すでに国の首長の安芸津彦命が神武天皇を迎えに出たということからすでに安芸国であったと思われる。
安芸津彦命(あきつひこのみこと)は天湯津彦命(あめのゆづひこのみこと)で、天五百箇彦という意味で、珠玉を連串した意味から 曲玉・管玉に関係の神といわれる。天湯津彦の五世の孫が、飽速玉命(安芸国造)で、速谷神社の祭神となっている。
*飽速玉命=
若彌尾命 野間姫命
http://red.ribbon.to/~menorah/kashima.html
天押雲命(母 武甕槌命女一人姫〔姫神〕。弟日立命[母同])─天多禰伎命─宇佐津臣命(母宇佐津姫。諱宇佐麿。三笠大臣)、弟大御食津命[母同])─伊香津臣命─梨迹臣命─神聞勝命
*大御食津命= 건제우명.
*御食津命= 伊賀津臣命= 伊香津臣命= 彦坐王
天種子命─宇佐津臣命(母宇佐津姫。諱宇佐麿。三笠大臣)、弟大御気津臣命─伊香津臣命(弟建御合命[添祖]、弟大期幣美命、弟水臣命[長柄祖])─梨津臣命(弟臣知人命)─建稲穂命(飛鳥祖。弟建御世狭名命[狭山、川俣の祖]、弟神聞勝命、弟兄勝命[武蔵卜部、伊豆卜部の祖]、弟弟勝命[殖栗、常陸卜部の祖])。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/1627/pre/2.htm
ウサツヒコ(宇佐津彦=宇佐国造の先祖) ウサツヒコは菟狭津彦とも表記され、
九州は 豊前の産と考えられるが、
宇佐は、鬱陵島の古名・于山島(ウサンド)に由来する名称と される。
中臣氏系図では、天児屋命→天押雲命→天種子命→宇佐津臣命
http://www.geocities.jp/okugesan_com/hujiwara0.htm
伊賀津臣命= 伊香津臣命
その後、大化の改新により現在の 府中町(国府の中という意。なお、備後の国府は 府中市である)に国府が置かれ 安芸津彦の子孫 田所氏が首長となった。(それまでは、五日市の三宅(もとは屯倉(ミヤケ)と書き、穀物と貯蔵した倉があったことによる)が本拠地であった。また、田所氏は地名や職により、佐伯氏・三宅氏・石井氏・三善氏などと称した。
http://www.genbu.net/mesg/bbs200209.htm
国造本紀に 成務天皇のころ湯津彦の裔の 比止弥が 阿尺国造となったとあり、隠津=湯津の 説もある、というのが少し調べたところです。 隠津島神社の由緒にある 伊豆島の 伊豆と は、湯出(ゆいづ)の縮まった言葉との説があります。
*天湯津彦命(あめのゆづひこのみこと)= 建日方命= 建日別命
http://members3.jcom.home.ne.jp/1446otfh/ban1000/dusto/jinm/jin2.htm
孝安の母系は尾張連遠祖の瀛津世襲の妹の世襲足姫だが、尾張氏にとっては正に遠祖であって、この時期は尾張国へ出る前の葛城国造である。この葛城氏に生まれた 孝安の兄の天足彦国押人命は 隣国 紀伊国造の智名曽の妹の中名草姫の女、宇那比姫を妻問いして押姫をもうけた。さらに十市縣主の女にも娶ひしており、紀に 和珥臣等祖とする。和珥氏は 春日和珥といわれるように、やはり磯城氏のなかにはいる。その祝は 神武の倭国平定の際、やはり殺されている。
この天足彦国押人命の弟の孝安は 従兄弟の押姫に 生ませたのが 孝元である。
したがって 皇統譜 七代目の孝元は 紀伊国造族に 生まれたことになる。